二節 ストーカー
ノーマンという恐るべき筋肉バカと会って以来、椿は昼の外出に躊躇していた。遭遇したらまた口説かれるかもしれない。変態の戯言なんて聞くだけで疲れる。しかもノーマンは護衛士という立場だ。王都で護衛士をしているのならば、雇主は貴族の可能性がある。その貴族が厄介な者だったら、椿だけでなくジーンにも影響があるかもしれない。こんなことでジーンの手を煩わせるのは嫌だった。
家に引きこもっていたいが、食料が尽きた。昨夜夕食を食べすぎたせいで、アルヴィの家の保管庫が空っぽになってしまった。夕方から異界に行くのに空腹では使いものにならない。
椿は仕方なく家を出て、近所のパン屋に昼食を買いに行った。歩いていると目眩がする。佳姫が普段より魔力を食べているようだ。空腹感が増して目眩が酷くなった。
そんな最悪な状態でノーマンが現れた。
「椿、待っていたぞ」
「待ってたって、ストーカーかよ」
「顔色が悪いな。大丈夫か?」
ノーマンは堂々と歩み寄ってきて、当たり前のように椿の顔に手を添えようとした。反射的に殴ってしまったが今のは仕方ないだろう。
「俺に触れるな変態。帰れ」
「いつもより拳に力がないぞ。具合が悪いんだな? よし、俺に任せろ。肩を貸してやろう」
「死にたいらしいな」
椿は殺気立つが、ノーマンは頬を赤く染め、瞳をきらきらさせて興奮していた。これでは殴っても喜ばせるだけかもしれない。
「俺は腹が減ってるんだよ。おまえの相手をしている暇はない」
「おお、空腹か。ならば良い店を知っているぞ。一緒にどうだ」
「いやだ。――っと」
魔力が急に減ってよろめいてしまった。「クソ毛玉」と内心で罵ろうとしたら、ノーマンに抱き留められた。無駄に発達した大胸筋が顔に当たり、心が無になった。
「大丈夫か」
ノーマンは最初こそ純粋に心配していたが、呆然とする椿を見下ろして興奮している。
「いつも凶悪な男が弱さを見せて甘えている……これがギャップというやつか」
「甘えてねえ! 離せ!」
再び殴り飛ばし、パン屋へ急いだ。抱き留められるなんて油断した。体調が万全ならばこんなことにはならなかったのに、と悔しく思う。
パン屋で手当たり次第にパンを買い、外に出た。当然のようにノーマンが待っていて、今度は紳士的に微笑んだ。
「たくさん食べて元気になれよ。やはり俺は椿の強烈な拳が好きだ」
「そうかよ……」
「ところで椿はいつまで王都にいるんだ? 俺はあと何回口説ける?」
「なあ、知ってるか。一度断られたらそこで終わりなんだよ」
「その程度で諦めるなんてできない。医務室に送られた分、押し倒したい」
椿は会話したことを後悔し、ノーマンを押し退けて帰路に着いた。適当な場所で撒いてアルヴィの家に帰りたい。
椿は黙々と歩くが、ノーマンはとても嬉しそうに付いてくる。
「しかし椿は昔と変わらないな。最初は夢かと思ったぞ」
沈黙を返してもノーマンは止まらない。
「椿は本当に素敵だ。危ない奴なのに、その戦技は舞うように美しく凛としていた。孤高なのかと思えば、第二寮の友人たちと馬鹿をやって無邪気に笑う。貴族と喧嘩した時には、たまに本質を突くような鋭さも見せる。……知れば知るほど素敵だと思った。好きだ。見た目以外も」
熱烈に口説かれ、さすがに少し照れてしまった。ここまで真っ直ぐ好意を寄せられたのは初めてかもしれない。アルヴィもストレートなタイプだが、ノーマンは恋愛感情があるだけにとにかく熱い。
この調子で押されると調子が狂う、なんて危機感を抱いたが、ノーマンは良くも悪くも素直だった。
「そして色気がある。しっかり鍛えて引き締まった筋肉! しなやかで惚れ惚れする。特に腰から尻にかけてのラインがエッチだ。二十代後半になって少しむちっとした気がする。好きだ。実に良い」
椿はノーマンのみぞおちを殴り、悶絶している間にさっさと逃げた。真面目な顔でセクハラ発言をするなんて本当にバカだ。これで心置きなく嫌いでいられる。
次に遭遇したら問答無用で殴って昏倒させよう。パンを齧りながらそう決めた。
「――というわけで、初恋の人を口説いています」
「何やってんの? バカなの?」
ノーマンの雇主は執務室で報告を受け、呆れ果てていた。ここ数日部下の様子がおかしいと思ったら、本当におかしなことをしていた。任務がないとはいえ、初恋の人を口説くなんて何をしているのだろう。
雇主はケネスという青年だ。濃い褐色の髪に青い瞳。目つきが悪いせいで冷たい性格なのかと誤解されるが、至ってまともな感性をしている。戦技はからっきしだが頭は良く、文官として父の伯爵を支えていた。
ケネスの護衛士で一番強いのはノーマンだ。それなのにあちこち怪我をしている。雇主としてどういうことか確認しなければならない。
「初恋の人を口説いて、それでどうして怪我をするんだ」
するとノーマンが頬を赤らめながら言った。
「その方はちょっと乱暴ですぐ手が出るんです。そんなところが好きなんです。拳で打たれると痺れるほど気持ち良い」
「おまえの性癖なんて知りたくない。詳細を報告しろ」
ノーマンは淡々と事実のみを話す。相手は椿という学生時代の知り合いで、任務中に死んだという話だった。しかし椿は生きていて、普通に王都を散歩していた。
「……待て、椿ってあいつか。第二寮の狂犬」
「ご存知でしたか」
ケネスはノーマンと同学年だ。兵学科に在籍していたが、戦技科の狂犬のことはよく知っている。戦闘の天才で、誰彼構わず医務室送りにした化物だ。ノーマンはそんな椿のことが好きらしい。理解しがたいが、部下のプライベートにこれ以上踏み込むつもりはない。それに考えるべきはそこではない。
「椿はジーンの護衛士になっていたはずだ。椿は死んでおらず、王都を普通に散策している……何か複雑な事情がありそうだ。関わりたくない」
ケネスの家ははっきり言ってあまり力がない。中央の貴族の中では下っ端だ。国王の側近で将来侯爵のジーンに近付くなんて危険すぎる。
「ノーマン、椿からは手を引け」
しかしノーマンは聞いていない。
「明日も椿に会いに行きます。俺は気付いたんです、順番を間違えていました。いきなり押し倒すのではなく花などの贈り物をして距離を縮めます」
「まともそうな台詞だが、ストーカーになってないか?」
「まさか。そんな迷惑行為はしてません」
ノーマンは元気に「花を買ってきます!」と言って去っていった。暴走している感じが色々と怖い。悪夢のような事態にケネスは放心してしまった。