8話「金の娘 銀の娘(後篇)」
鎧の話 17
壁掛け時計が、午後3時を知らせる鐘の音を響かせる。そのいかにもシンプルな丸い外観とは似合わない、荘厳な振り時計風の音色を、時計は発している。そのあまりにかけ離れた2つのイメージに、直也は思わず顔をにやつかせた。それだけで暗澹としていた気持ちに、淡い光が宿ったような気さえした。
リビングに戻ってきたトヨは、心なしかすっきりとした顔になっていた。先ほどの涙で崩れた表情は、もはや欠片も残されていない。元の厳格そうな、凛とした雰囲気を纏う老婆の姿に戻っていた。
「ババァの汚い顔を見せちゃって、悪かったね。最近は年のせいなのか、どうも涙もろくて困っちゃうよ」
「いや、なんかちょっと胸が痛くなった。お婆さんの気持ちがわかる、なんて軽々しく言っちゃいけないことは分かってるけど、それでもさ、なんか伝わってきたよ。喪失感というか、許せない気持ちというか」
老婆の叫びを思い出し、直也は表情を固くする。まだ胸の奥がざらついている。おそらく今夜、布団に入ってから寝付くまでの間、閉じた瞼の裏にトヨの悲痛な表情が浮かぶだろう。そんな8時間後の自分を容易に想像できるほど、先ほどの会話は心に深く残っていた。
直也の本音に、トヨは表情を緩めた。顔全体の皺が弛み、そうすると老婆の目は完全に皮膚の中に姿を消してしまう。
「ゴンザレスはああいうけどね。私は、あんたのこと結構気に入ってるんだ。気骨のある男は好きだからねぇ」
唐突な告白に、直也は多少なりとも戸惑った。しかし、トヨの朗らかな表情を見ていると何だか動揺も警戒も漠然とした不安も、ふわりと広がる温もりの中に埋もれていくようだった。やはり他人の悲しみ姿は見たくない、と直也の中に滾る正義感が熱をもつ。そして知らず知らずのうち、自分が8歳の時に、階段から落ちて亡くなった祖母のことを記憶の隅に呼び覚ましていた。
「俺もあの着ぐるみはむかつくけど、お婆さんのことは、嫌いじゃない」
「この年になって、若い男にそんなこと言われると、なんだかむずかゆいねぇ」
トヨは冗談っぽく言うと、自分と直也の茶碗にきゅうすからお茶を注ぐ。何にせよ、老婆の喜ぶ顔を見ることに、悪い気はしなかった。
しかし、直也は自分がここに来た理由を思い出し、気を引き締める。にこにこしながらお茶を啜るトヨの気分を損ねてしまう可能性があることに躊躇はあったものの、もはやなりふり構っていられない、という先ほど自分の口が発した言葉を頭の中で反芻させる。それから声に出さずに、よし、と決心を固めてから思い切って尋ねた。
「ちょっと、傷口を掘り返すようなこと聞きたいんだけど、いいかな?」
「言ったはずだよ」
トヨは直也の方に視線をやらず、茶碗を傾けながら応じる。その瞼は閉じられていた。
「どんな質問にも答えてやるってね。今日の私は、機嫌がいいのさ」
「それは助かるよ。……じゃああまり気を持たさずに言う。実は俺、さっき、フェンリルに襲われた」
トヨはぴくりと身を震わせた。それから茶碗をテーブルに置き、鋭い眼光で直也を見据える。
「あの装甲服はさっき、お婆さんが話してくれた戦いで使用されたもんなんだろ? だけど今は、オウガは俺が持ってて、ファルスは二条の奴が持ってる」
直也は、拓也とゴンザレスから聞いた話を、想起していきながら、トヨに確認をしていく。トヨは相槌を打つこともせず、無言のまま、話に耳を傾けているようだった。
「なら、フェンリルは今、一体誰が持ってるんだよ。お婆さんは、知ってるのかよ?」
それは賭けだった。ゴンザレスが嘘をついていると仮定しての、質問だ。拓也は彼に対し多大な信頼を寄せているようだったが、直也はどうしても、あんな着ぐるみの中に身を隠した人間の発現を信じることができない。だからここで、あの男から教示された物事の真偽を推し量る。トヨの口から出た言葉ならば、まだ信頼のおけるような気がした。
そして、トヨが発した答えた。果たして、ゴンザレスの言葉と同義のものだった。
「知らないね。もっと言うならだよ。なんであんたがオウガを持ってるのか、なんで二条がファルスを持ってるのか。それすら、私たちは知らない。なぜか分かるかい? 幸助が死んだ時点でもはや白馬は、私たちの手から離れたも同然だったからだよ」
「そういや、ハクバスって奴に装甲服は預けたはずって、あの着ぐるみは言ってた」
「色々ぺらぺらと、教えたもんだねぇ、あいつも。珍しい」
「なぁ。ハクバスってのは、今、どこにいるんだ? 何者なんだよ、そいつは?」
「あぁ。あれは、鏡の中の男さ」
鏡の中の男。トヨがぽつりとそう零したので、直也は当惑した。何かの比喩なのか、それとも聞き間違いなのか。その真意を確かめようと、尋ね返そうとしたところでトヨの言葉が飛んだ。
「まぁ、つまりは。どこにいるんだか、分かってないってことだねぇ。残念ながら。ま、きっとのたれ死んだろうさ、そうに違いない」
勝手に殺されるなんて、あまりに不憫すぎる。直也はまだ姿さえ見たことのない男に、憐憫の情を抱かざるを得なかった。
「ハクバスの奴は、幸助のいいパートナーだった。参謀って奴だね。はきはきしてたもんだから、私もあいつを嫌っちゃいなかったねぇ。私らが黄金の鳥の奴らに勝てたのも、装甲服の恩恵なわけだし」
高笑いをあげるトヨは、心底嬉しそうだ。直也はテーブルに目を落とした。
「でも、そのハクバスって奴がオウガとか、フェンリルを作ったんだろ? これってどうみても、現代科学の粋を超えてないか?」
その質問には、トヨは答えなかった。野暮な追求をいなすように軽くこちらを睨むと、仕切り直しとばかりに、カップの端を指で小突いた。
「まぁ、話を戻すとね。最後にハクバスに接触したのは、あの女なのさ。プレートを回収したのも奴さ。あの女がハクバスに預ける振りしてばらまいた、ってのが一番現実的な考え方だねぇ。目的は分からないけど」
あの女、というのは船見琴葉のことだろう。ということは、彼女に会って話を聞けばフェンリルの正体だけでなく、咲にオウガを渡した経緯について知ることができるかもしれない。希望の光が前途に差し込み始めたことで、直也の気持ちは自然と急いていた。
「そういや、その人は今、どうしてるんだよ。マスカレイダーズの一員じゃないのか?」
トヨは引きつったような笑みを浮かべた。その目には、他者を皮肉る人特有の濁り気があり、直也は嫌な予感を覚えた。そしてその予感は、ぴたり的中してしまった。
「船見琴葉かい? あの女はね、死んだよ。確か去年だったっけね。殺されたのさ。町のど真ん中で無残にも、血まみれの死体が発見されたんだよ」
覚悟を決めていたからなのか、衝撃は思いの外薄かった。しかし話を聞きながら、またか、と直也はいい加減にうんざりしていた。
二条しかり、あきらしかり、最近は重要な証拠を握る人物が目の前で悉く霧散していくケースが連発している。そして有力な手掛かりを持っているだろうと期待を膨らませていた船見琴葉もつい昨年、帰らぬ人となっていた。
どこかで見えない力が働いて、真実から遠ざけようとしているのではないか。そんな危うい被害妄想が働きかける。その想像が本物だとしたら、それはきっと巨人の手だ、とも思う。何にせよこの事件の解決は、一筋縄でいきそうにもなかった。
「誰に、殺されたんだよ。彼女は。犯人は、捕まったのか?」
死んだと分かれば、直也の関心はそちらに移る。トヨが怨恨を剥き出しにしていた女は、一体どんな末路を遂げたのか、聞いておきたかった。それはトヨの受けた屈辱と悲しみに釣り合うものだったのだろうか。
しかしトヨは突然、歪な笑みをその口元に宿した。あまりに場違いな表情に、直也は息を呑む。瞬間、周囲を刻々と流れていた時間が一斉にその歩みを止めたような気がした。
あの、バランスの悪い置時計は一体何をサボっているのか。視線をやるが、その針は無感動に淡々と盤面を駆け続けていた。
「あんたのよく知ってる人物だよ」
トヨはさらに口端を上げた。幻覚だろうが、直也はその口が頬の半ばあたりまで裂け、その口内から鋭い肉食獣の牙が覗いている。そんな気がした。
「華永、あきらだよ」
「え」
「船見琴葉を殺したのは、あんたの恋人。華永あきらなのさ」
なぜ、ここであきらの名前が出てくるのか。直也はうまく状況を呑みこめない。頭では分かっているが、脳が理解を拒んでいるような。額のあたりが霞かかっているような。そんな状態だった。
「嘘だ」
開口一番に呟いたのは、拒絶の意思だった。あり得ない、という感情だけが独り歩きして、直也の胸の内を跳ねまわっていた。
「なんでそこで、あきらちゃんが出てくるんだよ……おかしいだろ。あきらちゃんは、だって。だって、人殺しなんか」
「おかしくないよ。あんた、知らないのかい? あの子がどんな人間なのか。一体、どういう人生を歩んできたのか」
あんたよりは知ってるさ、と昨日までも直也なら逆上に背を押されるがままに、喚き散らしていただろう。だが、あきらとの連絡が途絶え、ライに罵倒された直也の心は以前よりも少しだけ弱くなっていた。感情がカッと胸まで上りつめてくるものの、声が喉から出てこない。
おい。お前は、あの娘の彼氏じゃなかったのかよ。直也は心の隅の方で縮みあがっている、もう1人の小さな直也に檄を飛ばす。
なんで、世界中のだれよりもあの娘のことを知っていると主張できない? 何を躊躇なんかしているんだ? 言えよ。この年寄りに食ってかかってやれよ。あきらちゃんは、人なんか殺すような人間じゃない。そんなの無関係だって。なぜ、言わないんだ?
「あの子はね。黄金の鳥を支持していた組織、蘇生のリーダーの、実の娘なのさ。私たちの最大の敵の、血を分けた人間なんだよ」
なぜ、あきらが黄金の鳥に固執しているのか。直也は以前、拓也に問いかけたことがあった。"12人目の被害者"の父親を尾行していた最中のことだ。あの時、拓也は顔を強張らせ急に黙り込んでしまった。あの時不審に思ったが、その答えは、こういうことだったのだ。
直也にいらぬ心配をかけさすまいとした、拓也の配慮。しかしその細かな心配りは実らず、回り回って結局直也は、トヨから真実を聞かされてしまった。
これがゴンザレスならば、疑い半分で聞くことができたろうが、トヨの口を通すと実にその言葉には真実味が宿っているように感じられた。実際、真実なのだろう。トヨからは直也を騙そうとする意思は、まったく受け取れなかった。
だが、直也にも意地があった。愛する彼女を、殺人犯として認めるわけにはいかない。ここで自分が引きさがったら、誰があきらを守るんだという使命感にかられてもいた。
「あきらちゃんが、そんなことするわけない。人なんて、殺せるはずが。あの子はすげぇ優しくて、いつも面倒くさいくらいに人を気遣って、可愛くて、いつも笑ってて、俺を慰めてくれて……そんないい子なんだよ。そんな子が、人を殺したなんて嘘だろ! なぁ、そうなんだろ!」
「残念ながら殺したよ。殺害現場も、うちのメンバーが見てるんだ。そしてその後も、華永あきらは殺しを重ねてるようだね。元白馬に所属していた奴らが、次々と姿を消してる。おかげで、かつての白馬の面子は、もう片手で数えるほどしかいなくなっちまったよ。あんたは、あの子の上っ面だけしか見てなかったってことさ。残念ながらね」
「そんな、あきらちゃんが、そんな……そんな……」
口ではあきらを擁護していたが、心はすでに折れていた。彼女に船見琴葉を殺害する動機はある。父親を殺した白馬のメンバーへの、復讐だ。しかもあの奇妙な怪物の力――あれさえあれば、人一人殺めることくらい軽いものだろう。あきらの無罪を主張するには、状況があまりにも不利だった。第一、その現場をメンバーが見たとトヨが言っている以上、もはや絶望的だろう。
そして、あきらを信じきれない原因は彼女への不信感にもあった。なぜ、あきらは直也に全てを話してくれなかったのか。ベッドの上で体を絡ませ合いながら、囁いてくれた甘い言葉でさえも、今では嘘だったように感じられてしまう。彼女と過ごした一年間は、虚構だったのか。作りものだったのか。そんなネガティブな想像を払いのける自信も、今の直也にはなかった。
どうしたらいいのか、分からなくなる。自分に怒り、あきらを責め、そしてまた自分に嫌気が差す。部屋でくつろいでいたときに、突然家中の電気を何者かに消されてしまった時と似たような不安が、胸にうねりとなって押し寄せてくる。
あきらは、自分の彼女は、人殺しだ。暗がりの中でその事実だけが、直也の心に深く刻みつけられていく。
「さぁて。ここまで質問にたっぷり答えたんだ。そろそろギブアンドテイク、といかせてもらおうかね」
「え」
打ちひしがれる直也に、トヨは声をあげた。お茶をすべて飲み干すと椅子から腰を上げる。そして、虚ろな表情を浮かべる直也目がけて手招きをした。
「ついてきな。あんたに、ちょっと手伝って欲しいことがあるんだよ。この目で見せてもらうよ。現代のオウガの、働きっぷりをね」
オウガ、という言葉から直也は咲を連想する。
咲の溌剌とした、聞く者を元気づけてくれる声。絶望の淵に立つ自分にいつも光を振らせてくれた、あの温もりに満ちた声を、聞きたいと本気で願う。しかし咲がすでに亡くなっていることを遅れて思い出し、直也の心はさらに深い闇を彷徨っていく。
鎧の話 18
壁全体が、軋んだ音をあげている。
炸裂音がこだまする。天井裏や壁の隙間に長年溜まっていた砂埃たちが一斉に噴き出し、室内をざらついた空気が覆っていく。まるで放送の終わったテレビ画面を眺めているような景色が、そこには当然のように広がっていた。
壁に体を強く打ちつけたせいなのか、体の奥底が痺れるようで、うまく立ちあがることさえ叶わない。鳥の形に変えた自身の影も、縮んだシャツのように潰れて惨めな姿を晒している。もがく力も湧かないのでレイは仕方なく、埃を頭から被り、全身真っ黒になりながら、目の前で繰り広げられている戦いにもう一度視線を向ける。
悪魔じみた姿のS.アルムが、両手で構えた槍を幾度となく突き放つ。空気が槍の切っ先に触れて擦れ、震え、引き裂くような音をあげている。
アークはその攻撃を、踊るようなステップを踏みながら回避していく。そうしながらも、右手のハンドガンを撃つことも忘れないのは実に黒城らしかった。転んでもタダでは起きないのが、彼の絶対的な性分だからだ。
アークの放つ銃弾は、確実にS.アルムの肉体を掠めている。だが向こうの槍もアークの装甲を少しずつではあるが削ぎ取っていた。一進一退の攻防だ。
ハンドガンの引き金を引きながら、両肩のバインダーを持ち上げ、そこから光弾を放出させる。サッカーボールサイズの光の塊が、一直線に飛んでいくが、S.アルムは振り回した槍でそれを自分に届く前に切り裂いた。空中で光弾が爆ぜ、爆煙を穿ちながら現れた銀色の槍が、アークの足元を引っ掻くように抉る。
爆風を手で払いのけながら、S.アルムは槍を掴むフォームを変えた。わき腹で挟むようにし、くるりと手際よく回転させると、丸い棍棒のようになった柄の先端をアークの頭目がけて振り下ろした。
しかしアークはその攻撃をかわすどころか、自分からさらに突っ込み、頭突きで防ぐと、お返しとばかりにS.アルムのわき腹へと蹴りを打ち込んだ。そして息を詰まらせながらよろめく相手にも容赦なく、ハンドガンの銃弾を炸裂させていく。S.アルムはたまらず、息つく間もなく繰り出される連続攻撃に、たまらず膝をついた。
「お父さん!」
レイはアークの背後に迫る影を認めて、叫んだ。反応したアークが素早く足首を回転させ、振り返った瞬間、その体は大きく揺らいだ。キャンサーのハイキックが頭に命中したのだ。蹴りの衝撃で首を横に捻られる。その足はよろけており、不器用な足踏みを繰り返しているようだった。
「僕を無視して盛り上がるなんて、ずいぶん舐められたもんじゃないか」
キャンサーは激昂の滲んだ声で、ひるんだアークを見下ろす。さらに右手を後ろに回したかと思うと、再び前に突き出したその手には非常に刃の長い、黒光りする鋏が握られていた。
アークは首が前に戻らないままでも、抜群の直観力を生かしてハンドガンで応戦するが、その銃弾はキャンサーの装甲に全て弾かれていく。キャンサーは鋏を、高々と頭上まで掲げた。「僕は、僕を馬鹿にするやつが世界で一番嫌いなんだよ! だから、そんな奴は、さっさと死んでしまえばいいんだ!」
そうして怒りを込めて振り下ろした鋏であったが、その刃がアークを切り裂くことはなかった。彼が腕を動かした瞬間、その手から鋏はもぎ取られ、中空で綺麗な弧を描き、レイのすぐ目の前の床に突き刺さったからだ。あと数センチずれていれば、と想像し、震えが走るほど、それはほとんど正確にレイを狙って弾かれたものだった。
「お前、怪人のくせにごちゃごちゃうるさいな。何だか知らないが、男と男の戦いを汚すんじゃねぇよ。これは俺と、アークの戦いだ」
鋏を叩き落としたのは、S.アルムだった。その手の槍でキャンサーの右手に握られていた鋏を見事に掬ったのだった。レイはその動きを視界の端で捉えていた。彼は槍の柄をずるずると引きずりながら、アークの横を通り、黄金の怪人と対峙する。
S.アルムの傲岸ともいえる言い分に、キャンサーは不平を漏らした。
「ああ? いいか、こいつを倒すのはなぁ、僕なんだよ! 呼んだのも僕だ! 後から来といて、文句言うのは筋違いだろう? 僕とマスカレイダーの戦いの邪魔をするなよ。引っ込んでろ!」
「お前も見ただろ? 俺とアークは名乗り合った。つまり、今は決闘中だ。そんなに心配せずとも、お前はこの戦いが終わったらぶち殺してやるから安心しろ。それまでそこで、正座して待ってろ金ピカ蟹野郎。怪人のくせに声がイケメンなのがむかつくんだよ」
「貴様……僕をおちょくってんのか!」
「おちょくってなんかいないさ。ただ、残念なだけだ。お前が怪人じゃなけりゃ、デートの一つでも組んでやっても良かったのによ!」
「誰が貴様なんかと!」
キャンサーは再び、背中に手を回す。するとその手に、またも刃の長い鋏が握られている。まるで手品を見せられているかのようだった。本日二本目となる鋏を握りしめ、S.アルムに向けてそれを振るう。S.アルムは槍の腹で鋏を受け止め、鍔迫り合いの姿勢に持ち込んだ。
「貴様と出歩くぐらいなら、小さな女の子とお手手つないでお散歩したいわ!」
「怪人の上に子ども好きとは……どこまでも救えない奴だ!」
肉薄し、ぎりぎりと互いの得物を擦り合わせながら睨みあう2体の怪人。少なくとも、レイの目にはそう見えた。今のうちなら逃げ出せるのではないか、と両足で床を踏み締めるが、腰が抜けてまったく力が入らなかった。常人に比べてけがの治る速度は短時間で済んでも、ダメージは蓄積する。こんな自分の中途半端な性質をレイは少し憎んだ。こんな私のどこが最高の怪人なんだ、と白衣の男に心の中でけちをつける。相変わらず影は、しわくちゃになった洗濯物のように丸まっていた。
「双方とも、戦闘中に無駄口を叩きすぎではないかね?」
そんな二体の怪人のやりとりに、無理やり容喙したのは、両肩のバインダーを上げたアークだった。その二対の砲口内にはすでに、眩い光が充満している。じりじりという、エネルギーの絶え間なく爆ぜる音がここまで聞こえてくる。
「この世に存在する真実は、ただ一つ。このアークが最強だということだ!」
アークは光球をすぐ目の前にいるS.アルムの背中に向けて撃ち放った。S.アルムは腰を捻りながら迫りくるその球体を認める。それから観念する様子も、回避を行う素振りもみせることなく、なぜか口をめいっぱいまで開いた。
その目論見の理由は、すぐに判明した。直後、その口から大量の白濁液が吐き出されたからだ。液は視界を丸ごと奪うほどの凄まじい量が噴出された。アークはそれを全身に浴びる。同時にS.アルムは光球を浴び、爆撃と共に床へと押し倒された。
さらに続けてアークは走ると、S.アルムの頭を殴りつけた。床にしたたかその身を打ち付け、全身を強くバウンドさせる。肩で息をするアークの前で、S.アルムはぐったりと突っ伏す。
「お父さん……大丈夫?」
真っ白に染め上げられたアークを前にレイは急に心細くなり、父親を呼ぶ。アークの体からは、肉の焼けるような小気味のいい音とともに白い煙があがっていた。何かと思い、周囲に目をやれば、白濁液を浴びた床や壁、天井からもまた煙がわき上がっている。
「ちっ。よく前が見えんな……溶けた装甲が、覗き穴を覆ったか」
溶けた。黒城の発言に、違和感を覚える。
しかしレイは鼻をつんと突くような刺激臭を感じ、それから全てを理解した。液体の付着した壁や天井が、水に放り込んだ薄紙のように、恐ろしい速度で溶け出していた。床には少しずつ穴が広がり、壁もどろどろに剥がれ落ち、丈の長い草の生え伸びた外の景色が露出を始めている。天井からは何の原料なのか分からない、真っ黒な液体がぽつぽつと滴り、リノリウムを汚していく。
先ほどの液は、物の物としての原形を根こそぎ奪いとってしまうような、溶解液だったのだ。ならば、それを真っ向から浴びてしまったアークは、装甲が溶け落ち、窮地に立たされてしまっているのではなかろうか。
不安にかられ、レイが素早く目を戻すと、アークはファイティングポーズを取って、キャンサーと向き合っていた。
黒城の姿が外目に晒される、という結果にはすんでのところで至らなかったようだが、アークの装甲は痛々しいほどに変形し、崩れ、いつもの精悍な佇まいは大分損なわれていた。その様子は、不慮の事故に合って箱の中で潰れてしまったバースデーケーキを見るかのようだった。事実、喪失感と悲壮感がレイの中で交互に渦巻いていた。
「お前たちをここに呼んだ目的が、僕の自己満足のためだけだと。そう思ったかい?」
キャンサーはいきなり、アークに質問を投げた。レイは自分に尋ねられたわけでもないのに、反射的に「うん、思った」と頭の中で答えている。
「それは違うさ。実は僕の弟がいま、この瞬間にもミッションを進めているところなんだ。だから、僕がここでお前たちを引きつけてる。そういう役目を、僕は負ってもいるんだよ」
誰も回答していないのに、勝手にキャンサーは解説を始める。そこだけ切り出してみると、あの無遠慮で人の話を1も聞こうとしない白衣の男のほうに、どちらかといえばこの怪人は似ているように思えた。
「弟?」
か細い声で、レイは思わず尋ねている。キャンサーの説明の中で出てきたその言葉に、妙な引っ掛かりを感じた。弟ということは、すなわち、そいつも二条裕美が生み出した怪人ということになる。
「優秀な弟さ。僕に似てね。まぁ、つまりお前たちは僕の掌で踊ってたって。そういうことを言いたいんだよ。ナイスだろ?」
「言いたいことは、それだけか?」
腹の底に響くような強い語調で呟き、アークは右手をゆっくりと上げて、その銃口をキャンサーに突き付けた。
「貴様の掌? 小さいな、あまりにも矮小すぎるぞ、その考えかたがな」
「なんだと!」
「この宇宙に漂う地球。それ自体が、私だ」
アークの声には空気をギュッと引き締めるような、一種の迫力があった。その粛然とした雰囲気にレイは前言を撤回する。父親の佇まいは少しも損なわれてはいなかった。いくらその身が崩れ、痛ましくても、その心に宿る高慢無礼で剛直な魂は何ら変わってはいなかった。。
「世界の中心が私ではない。私を中心として、世界が広がっているのだ!」
アークの左手から、音も立てずに何かが飛んだ。それは手首のハッチから射出された透明色のワイヤーだった。ワイヤーは一直線に飛び、まるでそれ自体が生を持っているかのようにキャンサーの首へと巻きつくと、がっちり固定された。
左手を手前に引くと、キャンサーがたたらを踏みながらアークの方に引き寄せられる。そしてアークは流れるような動きで右腕を前に出すと、銃口をキャンサーの口に突っ込んだ。
そして、発砲。口の中を銃弾で撃ち抜かれ、キャンサーは悲鳴をあげることさえなかったが、くぐもった声を吐きながら、後ろによろめいた。そのまま倒れてくれるのではと期待したが、レイの意に反して両足で踏みとどまった。アークはワイヤーを切断し、何を警戒してか素早く身を引いた。
アークによる決死の攻撃の結果は、上出来とは程遠いものになってしまった。キャンサーは口端から硝煙を立ち上らせながら、ゆっくりと面を上げた。そして床に唾を吐き捨てると、薄く笑みを浮かべた。
「発想はよかったけど、どうやら力が足りなかったみたいだ。これで分かっただろ? この僕に、弱点なんてもんはないんだ!」
鋏がその手から投擲される。アークは間一髪、右足を横に薙ぎ、それを空中で叩き落とした。
「なるほど。予想以上に、随分と固い体をしているようだ。褒めてやる。喜びに身を打ち震わせながら、頭を垂らして受け取るがいい」
「残念ながら、首が落ちるのは貴様のほうさ!」
床の軋む音が室内に響いたのは、キャンサーが肩で息をしながら、開きっぱなしの口をさらに縦に広げ、何かを喚き散らそうとした、その直前だった。
今度はなんだ、とレイが視界を周囲に配る暇もなく、キャンサーのすぐ背後にある床下から何かが出現した。かのように見えた。このあまりにも混沌とした状況の中で顕現したのは、新たな刺客でも、神出鬼没な援軍ではなかった。リノリウムの床を持ち上げて粉砕音を纏いながら現れたのは、頭をようやく引き抜き、両肩から光の翼を生やしたダンテだった。
ダンテに言葉はなかった。代わりに頭部全体を輝きに包んで、まるで光の銃弾のようになると、天井から一気に急降下し、いきなりキャンサーの背に激突した。
あまりに唐突で強烈な衝撃に、キャンサーは吹き飛ばされる。アークの足元で一度跳ね、それからレイの眼前に火花をたてながら滑り込んできた。
「もう1発!」
ダンテは続けざまに翼を出現させ、地に足をつけぬうちに飛び上がると、右耳に手をやった。
インカムのヘッドホンと一体化したダイヤルを、三目盛り目まで回転させる。作業を終え、ダンテは頭を下にして、落下を始めた。そして中空で白い光にくるまれていくと、立ちあがりかけたキャンサー目がけて、渾身の頭突きを繰り出した。
んげっ、と何とも締まらない声をあげてキャンサーは床に叩きつぶされる。ダンテは宙で一回転してから両足で着地すると、まず、肩で一度大きく息をついた。
「たくちゃん先生……」
憔悴したダンテに、レイは声をかける。するとダンテはぼんやりと周りを窺うようにしてからレイに目をやり、首を傾けた。
「二十億個。脳細胞死んだ、多分」
「大丈夫、ですか?」
「あぁ。脳細胞は死んでも、俺は元気だよ。そんなことより、黒城が無事で良かった。それが何よりも、俺は嬉しい」
ダンテは絶えず、前に後ろに揺れており、どう贔屓目に見ても大丈夫だとは思えなかった。しかしダンテは弱音一つ漏らすことなく、腰からつり下がるスカート状の黒い布を手で引き裂くと、レイに近寄ってきた。
「立てる?」
「あの、ちょっと、腰がぬけちゃって……」
「まだまだ若いんだから、お婆ちゃんみたいなこと言うなよ。大丈夫。牛乳飲めば、大体のことは何とかなるから」
ダンテはレイの腕を握ると、そのまま一気に体を引き上げてくれた。足元の不確かなレイはそのまま、妙なステップを踏むようにして、ダンテの胸にもたれかかる。女子中学生、一人分の体重がのしかかっただけのはずなのに、それでもダンテの体は弱弱しく傾いた。
「よし、立てるじゃないか。なら、早くここから出るんだ。お前にはやることが、他にもあるんだろ?」
レイが頷くと、ダンテは柔らかい、消えそうな笑いを零した。そして部屋の奥の方に目を凝らすようにし、立ち上がるS.アルムを見つけると声を張り上げた。
「おい。お前、黄金の鳥の連中じゃないのか?」
黄金の鳥? レイは首を傾げる。それは確か、午前の会合で段田やゴンザレスが口にしていた単語だ。この、これまで出会ってきた怪人とは一線を画す、この怪物はその黄金の鳥なるものと、何らかの関連があるのだろうか。レイが考えている間にも、ダンテは、気だるそうにこちらを見やってくるS.アルムに向けてさらに続けた。
「黙ってるのは、俺の意見が正しいってことだよな? なら、聞きたいことがある。お前、華永あきらを、知ってるか?」
「華永、だと?」
当惑を漏らしたのは黒城、アークだ。なぜ"華永"という名字に父親が引っ掛かりを感じたのかは不明瞭だったが、黒城が驚愕を表に出すのはとても珍しいことなので、これは重要な会話なのではないかという気配だけは何となく伝わってきた。
ダンテの前置きも何もない、あまりにも唐突な問いに、S.アルムは槍を床に突き立てながら口を曲げた。
「どちらかといえば知ってるが、それ以上のことを答える気はまったくない。マスカレイダーズに伝えることなど、塵の一つもないはずだけどな。それにお前からはかっこいい男の香りがしないから、尚更だめだ。超失格だ」
「……先生!」
S.アルムが指で銃の形を作り、ダンテを指し示したのと同じタイミングで、レイは声をあげた。切羽詰まっていたので、それは悲鳴に近いものになってしまう。ダンテはその発声の意図を察したようで、咄嗟の判断で振り返った。そこにはキャンサーが迫っていた。ダンテはレイを突き離す。突き飛ばされたレイは壁に背中をぶつけ、声を詰まらせた。
ダンテはすぐさま拳を、真っすぐ前方に放った。濁った衝撃音とともに、そのストレートはキャンサーの胸を捉える。しかし、彼は、その金色の鎧そのものといっても差し支えない怪人は、まったく動じない。びくともしない。ダメージを受けている素振りさえみせない。その顔には、笑みさえ宿っていた。
そして、キャンサーの手の中にある鋏の切っ先は、深々とダンテのわき腹を貫いていた。
「へぇ。まだこんな力があったのか? とっくにリタイアだろ、貴様は。早く寝た方がいいんじゃないかな?」
「怪人が目の前にいるんだ。俺が、倒れるわけにもいかないじゃないか……」
強気な言葉を吐きながらも、ダンテの声は消え入るようだった。語尾がすでに掠れていて、よく聞き取れない。
見れば部屋の奥でも、アークとS.アルムの戦いの火ぶたが再び切って落とされようとしている。双方ともその肉体にはダメージがありありと見え、そのような様子は一欠けらも目につくことはなかったが、それでも憔悴をしているようだった。
S.アルムは槍を片手で弄ぶように、くるくる回転させながら歯ぐきを見せる。
「さぁ、邪魔者は向こうに行ったわけだし。続きを始めようか、アーク。見たところ、ダメージは五分五分、だろ? 分からなくなったきたんじゃないか?」
「馬鹿な。どう贔屓にしてみても、一分九分ではないか」
「あぁ、そ。ならもちろん、俺が一だよな?」
「その目は節穴かね? いいだろう。貴様にこれからみせてやる。これからが世紀の黒城スペシャルだ!」
「いいね。かっこいいじゃないか。たとえおっさんでも、かっこいい男は大好物だ。来るならこい。全力には全力で相手しやるよ、マスカレイダー」
レイは一人で立ち、歩けることを確認してから、壁から離れた。ダンテはこちらを最後に振り返ると、突き出していない方の手を用い、「早く行け」とでもいうように掌を返した。
「でも、たくちゃん先生……このままじゃ」
死んでしまうかもしれない。そんな気配が、膝を笑わせるダンテからは十分放たれていた。このまま黙って背を向けるのも逃げ出すようで忍びない。レイはたまらずその場でとどまり声をかけた。
ダンテはこちらに首をよじることはなかった。三度の攻撃を受けても、ほとんど疲れた様子も見せないキャンサーに向かって、頼りない構えをとっている。しかしその立ち姿は実に堂々としていて、弱弱しいものを一切感じさせなかった。
「俺たちは、ヒーローじゃない。なろうなんて大それたこと、全然思わない。だけど、それでも、怪人と戦う力を与えられた人間なんだ」
ダンテが呟いた。それは決死の言葉だった。レイの体は自然に後ずさりを始める。それは掌よりも、体よりも、何よりも、レイの背中をここから逃げろと押す、慈愛の言葉だった。
「だったら、俺が生きてる限り、戦わなくちゃ。たとえ勝機が限りなく0に近いとしても、俺は絶対に諦めない! 子どもたちの未来に、人間を何の意味もなく殺しまわる怪人なんていらない。ここで諦めたら、みんなの将来はどうなる? だから俺は、負けられないんだ」
レイは踵を返した。ここに留まっていては、拓也の邪魔になる。ようやくそんな簡単で、至極当たり前の事実に気がついた。まだ足が凝り固まっているため、前のめりになりながら、出口目がけて猛進する。外の世界に飛び出す寸前、キャンサーが不敵に言葉を投げかけてきた
「じゃあな、最高の怪人。会えて嬉しかった。そのうちまた会おう。それじゃあその時まで、アディオス!」
挨拶と同時に、肉を引き裂く生々しい音色をBGMにして、キャンサーはダンテの腹から鋏を引き抜いた。ダンテの呻き声が、耳に届く。レイはそれを聞こえなかったことにする。拓也の痛みや辛さを知れば知るほど、ここに留まっていたくなる。そしてそれは、拓也が最も望まないことだと思うから。
もうあなたみたいな怪人とは、会いたくないよ。心中で答えながら、レイは二つの戦いを置き去りにして地を蹴り、佑と悠の待つ病室へと必死に駆けていく。罪悪感が、心をひしゃげるようだった。
鎧の話 18
直也は厚い布で目隠しをされ、トヨに手を引かれながら歩いていた。場所は先ほどと同じ、船見家の中だ。リビングを出て、廊下を歩いている。その後、トヨに声をかけられて階段を降りた。どうやら一軒家にしか見えない民家には、地下室が存在しているらしい。段差を一つ降りるたびに、その空気に含まれた沈鬱さと湿っぽさが増していくようだ。
「一体、どこに連れていくつもりだ?」
恐怖はなかったが、怪訝に思い、尋ねる。トヨの手は氷のように冷たかったが、視界を奪われた直也にとって、その感触はこの世界に存在するただ一つの温もりであるかのように感じた。目が見えなくなっただけで、こんなに心は不安定になるものなのか、という驚きもある。
「着けば分かるよ。なぁに、悪いようにはしないさ。地獄の門を一緒にくぐってもらおうと思ってねぇ。いいだろ? あれだけ色々答えてやったんだ。ババァの手伝いの一つや二つ、頼まれてくれよ」
「地獄……ね。まぁ、別に俺はいいけど」
地獄。不吉な発音を直也は繰り返す。それならもはや、自分の心が地獄模様だ。裏切られた思いがひしめいていて、胸が苦しい。考えないように努めれば努めるほど、思いの外に拒絶しようとすればするほど、その悲しみは心に深く食い込んでいく。
直也は精神的にやつれ果て、憔悴の極みにあった。黒く濁った心中にはいつの間にか、自然と厭世的な考えが滑り込んできて、もう全てがどうでもよくなる。だからトヨにそんな不穏なセリフを吐かれても、特に困惑や絶望を覚えることはなかった。
「華永あきらは、金色の娘だ」
カツンカツン、と暗がりに二人分の足音が響き合い、輻輳している。その音の合間を縫うようにして、トヨが突然言った。
「だから、私たちもあの娘を追っている。そうしていけば、そのうち黄金の鳥の一味に繋がると考えてるからね。まぁ、実りはないのが現実なんだけれど。お前さんは、何か知らないのかい? 恋人なんだろう? 一応」
「知らない。俺は、あきらちゃんのことを何も知らない」
口に出すと、さらなる空虚感が襲いかかってくる。ある日歩みを止め、後ろを振り返るとそこには、これまで歩いてきた軌跡はなく、代わりに断崖絶壁が広がっていた。今の直也の心情を表現したら、まさにそういうことだった。
最初に会った時、拓也がなぜ自分をつけていたのか。その理由にもようやく合点がいった。彼はあきらの恋人である直也を追っていた、と話していた。それはつまり、拓也も直也からあきらに関する情報を引き出すことを狙っていたということになる。この件について、彼を責める気は毛頭ない。大人は、嫌なことでもやらなければならない言っていた、彼の声を思い出す。
だが、それも今となってはまったくの見当違いだったというわけだ。自分は、あきらのことを十分の一も理解していなかったのだから。おそらくいくら尾行を続けても、あきらに関する情報を何も得ることはできなかっただろう。
「知ってる気に、なってただけだったんだ。本当に俺は、馬鹿みたいだ」
「そうかい、そりゃ残念だ。……ま、正直にいえば、ゴンザレスや私は華永あきらを、殺そうと思っているんだけどね」
直也は顔を上げた。しかしそうしたところで、トヨの顔が見えるはずもない。しかし声が聞こえてきたほうを必死に探った。
「だけど、組織内にも反対する者ががいてねぇ。まぁ、確かにあの娘を殺したら黄金の鳥の集団へと繋がる手がかりもなくなるから、その考えも正当ではあるんだけどね。それが、あんたも良く知ってる、速見拓也だよ」
「……あいつは、呆れるくらい、いい奴だから。俺とは違って。だから、多分、そうなんだろ。あいつなら、教え子を危険にあわせるのは嫌だろうから」
そういえば、今、拓也はどこにいるのだろうとふと考える。戦いにでも出ているのだろうか。今の直也の心情を吐露したら、彼は一体どんな顔をするのだろう。いつの間にか直也の周りには、心おきなく本音を吐き出せる相手が拓也以外にいなくなっていた。
「随分自分を卑下するねぇ、まぁいいさ。……着いたよ、目隠しを外しな」
トヨに指示され、直也は頭の後ろに手をまわして布を解いた。光で瞳を傷めないように、薄く目を開いていたのだが、すぐにその必要はなかったことに気が付いた。目隠しを外しても室内は薄暗く、隣に立つトヨの顔でさえもぼんやりとしか見ることができなかったからだ。
「お婆さん、どこだよ、ここ?」
見えもしないのに、きょろきょろと周囲に視線を巡らす。自分のすぐ左隣に壁があり、目の前には広い空間があることくらいは、何となく察することができた。しかし相変わらず、場所の見当は全くつかない。
「ちょっと、あんたにはネズミ狩りを手伝ってもらおうと思ってねぇ。こんなところまでついてきてもらったのさ。年寄りには、害虫の駆除もしんどくて仕方ないんでねぇ。若い力が必要なんだよ」
「ネズミ?」
「ああ。……出ておいで。いることは、分かってるんだよ」
トヨは壁に手をやった。おそらくそれで、電灯のスイッチを入れたのだろう。パッと目の前が明りに晒され、直也は今度こそ反射的に目をすぼめた。手をかざして光から自分を守るようにし、目が慣れてくるに従って姿勢を戻していく。
そして剥がし取られた薄闇の向こうに広がっていた景色に直也は思わず息を呑んだ。
「まさか、ここは……」
真っ白な床に、キャスター付きのベッド。その傍らには医療用器具の並んだ丸テーブルが置かれている。頭側にはまた別のテーブルの上に立方体の機械載せられており、そこからは色とりどりの無数のコードが伸びていた。
この光景を、直也は前に一度目にしたことがあった。それは拓也から送られてきた、動画の中に映し出されていた部屋だった。この場所こそ、ベッドに寝かされていた二条が獣のように叫び、のたうちまわっていた、あの空間に間違いなかった。
しかし、あの映像の時と今とでは大分状況が異なっているようだ。乱れたベッドの上に二条の姿はなく、色々なものが飛び散り、乱雑した室内の中心には男が立っていた。頭にはテンガロンハットを被り、白いシャツにカットジーンズというラフな格好に身を包んだ男。その目は細く釣り上がっており、どこかきつねを彷彿とさせる顔立ちをしていた。彼は突然スポットライトを浴びせかけられたことに怯えた様子はまったくなく、こちらを涼やかに見つめていた。
男は肩に何かを担いでいた。それは、どう見ても人間だった。こちらに尻を見せる形で担がれているためその人物の顔を見ることさえ叶わないが、それでも直也はその包帯の巻かれた細い手足を見ただけで、その人物が何者であるのか特定することができた。
「まさか、あれ、二条……裕美?」
「やっぱり、あんたの目的は二条だったんだねぇ。段田。どうやら、私の目は、ごまかせなかったようだね」
どうやら二条を肩に乗せている、テンガロンハットの男の名前は段田というらしい。だが、トヨは「いや」と続けた。自らの発言を否定するかのように、首をゆるゆると横に振る。
「いや、あんたは段田じゃないねぇ。もう調べはついてるんだよ。段田右月は新宿の事件で死んだ。私も、見てるんだよ、あんたの死に顔をね」
トヨの喋っていることはほとんど理解できなかったが、"新宿の事件"という単語には反応することができた。六年ほど前に起きた、新宿駅無差別爆破事件のことだ。何百人という人の命が犠牲となり、多くの重軽傷者も出た。当初からテロ組織の犯行であると睨まれているが、未だに事件の詳細は明らかになっていない。当時直也は高校生で、まだ上京もしていなかったが、日本の中心である東京でこのような大規模な事件が起きたことには、直也のみならず日本中が衝撃を受けた。
その事件の名前が、なぜここで使われたのか、直也にはいまいちよく分からない。しかしトヨの口ぶりからは相手の鼻を明かしてやったとばかりの、小気味のいい爽快感が窺えた。
「正体を見せな。あんた、段田の偽物なんだろ? それとも、本当に幽霊だっていうのかい?」
「どちらかといえば、幽霊に近いかもしれないな。トヨさんがあーだこーだ言うから、化けて出て来てやったのさ」
男は帽子のつばを撫でながら、低い声で答えた。顔をあげた彼の口元には、笑みが浮かんでいる。
「ま、それは冗談として。確かに俺は段田じゃない。さすがトヨさん、よく見抜いたよ。その慧眼は衰えを知らないようだ」
「くだらないお世辞はいいから、さっさと正体を明かしな。お前さんは、何者なんだい? ここへの入り方を分かっていたし、私たちの過去を確かに知っていた。部外者とは思えないけどねぇ」
「部外者、ね」
男は口端をさらに上げた。そして腕を伸ばすと、帽子を上から押さえつけるようにする。黒々と底光りするようでもあった男の瞳の色が、眩い金色に移り変わる様を、直也は目撃した。
「段田右月は俺ではないが、俺の一部ではある。だから俺は部外者であって、部外者ではない」
「わけわからないこと言ってんじゃないよ。しばくよ」
「すぐに分かるさ。トヨさん、あんたのその勘の良さに敬意を払おう。だから俺の本当の姿をみせる。あんたの、言うとおりにな」
男の体が、崩れる。まるで水をかけた紙粘土のようにその全体像が溶け、捉えどころのない物体に変わっていく。それだけ映せば、見るに堪えないほど凄惨で、非常にグロテクスな光景だ。
直也もトヨも声をあげることすらできなかった。そして、室内に漂う奇妙な沈黙が解かれる前に、男の変貌は完了を果たしてしまった。
男の体は消え失せ、代わりに現れたのは怪人の異形だった。筋肉隆々とした黒光りする肉体。顔は縦に長く、その色合いからまるで白いレスラーマスクを被っているかのように見える。顔面の中心にはあまりにも巨大すぎる、血走った眼球がぽつんと生えていた。
両肩からは馬の尻と後ろ足がそれぞれ、突き出している。背中には、巨大な鉄製の車輪を負っている。さらに胸のスペースには、草原を駆ける馬の絵が抽象的に描かれていた。
怪人は二条を床に置いた。そして自分を周囲に紹介するかのように、腕を大きく横に広げた。
「俺は段田じゃない、名前は、"ケフェクス"。ごらんの通り、お前たちが言うところの、怪人ってやつだ」
「人間が……怪人に?」
直也は動揺を抑えきれない。
人が化け物に変わった。あきらも同じように怪物と化していたので、そのようなケースが初見というわけではなかったが、それでも驚愕した。自分となんら変わらぬ人間が、突然目の前で、非現実をゆうに飛躍した存在へとすり替わってしまう。それがここまで恐怖を誘うものなのかと、直也は今更ながらに発見をした気持ちだった。
「おっとおっと……なんかまた面白そうな奴がいるじゃないか」
どこからか青年の声が聞こえ、その発信源を探ろうとトヨの方に視線をやれば、いつの間にか彼女の前にバンダナをつけた男が立っていた。
おそらく年齢は直也と同じか、1、2個下だろう。バンダナからはみ出た前髪はハリネズミのように逆立っている。意気揚々とどこからか突然現れたその男に話しかけようとするが、彼の手にプレートが握られているのを見つけ、直也は一瞬躊躇った。それから彼の顔をもう一度見た後で、今度こそ尋ねた。
「お前、何だよ?」
「俺?」
男は自分の顔を指差した。他に誰がいるんだ、と指摘してやりたくなるが、その気力はない。「お前だよ」とため息交じりに応じる。すると彼は大きく胸を叩き、張りのある声で答えた。
「俺は、マスカレイダーズきってのハーフニート……とでも言っておこう。よろしくな、オウガの人!」
え、それ本当に流行ってるの? ハーフニート、というどこかで聞いたような言葉を耳にし、今度こそ問い質したくて仕方がなかったが、すんでのところでその衝動を抑える。明らかに今は、無粋な会話を交わしていられる状況ではない。代わりに、無言で頷きを返しておく。
「よっしゃぁ、行くぞ!」
バンダナの結び目をきつく絞めながら、男が気迫のこもった声をあげる。直也はそれに触発されるようにして、ポケットから慌ててオウガのプレートを取り出した。
「ほら、いきな。このために、あんたを呼んだんだよ」
トヨが陰険な笑いを浮かべる。直也は自分の背後の壁に、まるでこの状況を待ち望んでいたかのように丸い鏡がぶら下がっていることに気が付き、大きく肩を落とした。
「やっぱり、こういうことかよ……」
直也はプレートの角でその鏡を叩いた。バンダナの男も同じように、右手側にぶら下がった鏡にプレートで触れる。すると数秒も待たずして、双方の鏡から、二種類の鎧が次々と飛び出してきた。
直也はオウガの装甲服を纏い、バンダナの男は、頭に角が生え、随分とがっしりとしたシルエットをもつ装甲服に包まれる。腹部に収まっているプレートに記された番号は『1』。それはオウガと同じ、イミシャドであることの証拠でもあった。
「こいつが俺の装甲服、"ガンディ"だ。よし、オウガの人。あの怪人、一緒に撃破しようぜ!」
聞いてないのに、男が装甲服の胸を叩きながら解説をしてくれる。親指を立てると、彼はそれから先ほど"ケフェクス"と名乗った馬怪人に向き直った。
ファイティングポーズを構えるガンディを一瞥し、直也はオウガの仮面の下で嘆息する。
「……お前、やけに楽しそうだな」
「え? そりゃそうだろ。こんな非現実な状況、普通に生きてりゃ絶対に出会えない。特撮映画みたいじゃないか。これにときめかなきゃ、男じゃない」
「そうかい。……呑気でいいな、心底、うらやましいよ」
直也の皮肉を最後まで聞くことなく、ガンディはケフェクスに真っ向から飛び込んだ。オウガも腰から刀を引き抜くと、床を蹴り、少し遅れて彼の後を追う。
ガンディの拳が空気を裂く。ケフェクスは顔の前で腕をバッテンの形に組み、その拳を受け止めた。
「それは、イミシャドか。懐かしいな。だがしょせん、十年前の骨とう品。今更持ち出してきたところで、俺にはかなわねぇよ」
「かなう、かなわないなんてどうでもいいんだよ。問題は楽しめるか、楽しめないかだ! 俺をワクワクさせてくれることを願うぜ!」
ガンディは膝蹴りでケフェクスの腹を突き飛ばすと、さらに前に足を踏み込み、ワン・ツーに繋げた。煉瓦ブロックのような物々しい拳に連打され、たまらず敵のガードも崩れる。そのタイミングを、海上から魚を狙う海鳥のような強かさで狙い澄まし、さらに続けてストレートを顔面に叩きこむ。
「なぁ。もっと俺に、非現実を見せ付けてくれよ? まだ、全然足りないんだ」
「残念ながら、俺は非現実屋じゃないんでね。他を当たってもらおうか!」
ケフェクスは怯まなかった。手を前にかざすと、その掌中から火炎を発射する。あまりの至近距離から撃ちだされた一撃にガンディは避けることすらままならず、一瞬で火だるまになる。
叫び声をあげながら床を転げるガンディの横をすり抜け、オウガは先の割れた刀を振りかぶる。ケフェクスがかがんでその一太刀を回避すると、オウガは回し蹴りでさらに攻め立てる。今度は胸を逸らされ、その攻撃もかわされるが、直也は一時も手を休めない。崩れた姿勢を直さぬままに、一撃、二撃と刀を振るってようやくダメージを与える。
「オウガ……立浪良哉か」
ケフェクスは刀を片手で受け止めた。逃れようと力を込めるが、刀はまるで敵の手に吸いつけられてしまったかのようにビクともしない。全身の力を放出すればするほど、フェンリルにいたぶられた腹の傷の痛みが増していくようだった。
「俺が亡霊というのならば、オウガを纏うお前もまた、あいつの亡霊ってことになるな。果たしてお前は、どこまでこの装甲服を使いこなせるかな?」
「わけわからねぇこと……言ってんじゃねぇ!」
わき腹を蹴りやり、ケフェクスの腕から力が抜けた一瞬を狙い、引き抜く。反動で後ろに倒れこみそうになりながらも、とりあえずオウガは敵から距離を取った。
「おいおい、二人で話してないで。俺も、混ぜてくれよ……!」
喜悦に淀んだ声調で、ガンディが拳を打つ。片手で受け止めようと掌をかざすケフェクスだったが、ガンディの身体能力を侮っていたのか、それとも背後からの突然の攻撃に対処しきれなかったのか、防ぎきれず、激しく後ろに吹き飛ばされた。
延長線上にあったベッドを破壊し、壁に激突して止まる。埃にまみれながら起き上がろうとする敵に、オウガとガンディは偶然にもほぼ同じタイミングでスタートを切り、急迫した。
「ガンディ……狩沢か。だが、お前は狩沢じゃあないな。今のあいつは、蠅と追いかけっこして遊んでるはず。じゃあ、つまり、お前がガンディの新しい装着者ってわけか」
「狩沢さんが、どうしたって?」
ガンディは右腕を後ろに大きく引き、ぶつくさと何事かを呟いているケフェクスに躍りかかる。オウガもまた、刀を前に突き出しながら果敢に突進した。
「なんでもねぇよ。ただ、お前ら、頑張ってるなぁと思ってね」
「なに?」
直也はオウガの内側で眉をひそめる。「なに言ってんだ」と隣でガンディもまた発した。間違いなく、今、この状況で優位に立っているのは直也とバンダナの男のほうだ。それなのに、ケフェクスには余裕が見えた。その正体が知れず、直也は攻撃をすることに躊躇した。そしてその隙を物の見事に突かれた。
ケフェクスの両肩から生えていた馬の脚が、いきなり動いた。蜘蛛の足型のマニュピレーターのような、正確さと奇怪さで、関節まで駆動し、ぐっと直線の形に伸びる。そしてオウガとガンディは各々の攻撃を敵に届ける間際に、その足によって激しく蹴り飛ばされた。
胸に詰まるような衝撃が走り、気がついた時には反対側の壁に叩きつけられていた。そんな感覚だった。
フェンリルにこてんぱんに伸された直後ということもあり、直也の意識は朦朧としている。立ちあがろうとするが、その意思だけがはるか先まで行ってしまい、体が全く追いついていかない。目眩がし、先ほど胃の中のものを全て出したばかりにも関わらず、また口の中に酸っぱいものがこみあげてきそうだった。
隣に目をやれば、そこには呻き声をあげるガンディの姿がある。その胸は大きくへこんでおり、ダメージに大きさをありありと物語っているようだった。おそらくオウガの胸装甲にも、同じような傷跡が刻まれているはずだ。
「俺は十年前の俺じゃない。周りもそうだ。時間は、刻一刻と先に先に進んでいんだよ。いつまでもそんなもんで勝てると思うなよ。高慢は敵だぜ?」
勝ち誇ったセリフを吐くケフェクスは、オウガやガンディの与えた傷跡こそその肉体に生々しく残っているものの、それほど苦痛を負っているようにはみえなかった。
直也は入ってきたドアの方に、ふと視線をやる。するとそこにはトヨの姿があり、こちらを見て表情を歪めていた。憐れんでいるというよりは、特にこれといった抵抗をすることもできず、あっさりと敗北を喫した二人に失望している様子だった。
しかしそんな目で見つめられても、動けないものは、動けない。意識を繋ぎとめておくのが精いっぱいだ。悔恨の情が直也の胸にひしめいていく。
天井が砕けた。轟音をあげて、破片や埃が室内に飛び込み、散っていく。この部屋を照らしている電灯とは種類の異なる灯りが、その穴から降り注いでくる。
太陽光ではなかった。ここは地下だ。ということは、天井裏は先ほどまで直也とトヨが話していた一階ということになる。おそらく、その光もまた電灯なのだろう。太陽光が、この部屋に届くことなどまったくもってあり得ないからだ。
穴をくぐり、何かが飛び出してきた。小柄な影にみえたそれは、またしても怪人だった。
日陰に植えられた大木のような深い茶色の、体色。今まで直也が目にしてきた多くの怪人と比べても、随分と小柄だった。体中には細かい刺が生えており、全体像のみとらえると巨大な毬栗のように見える。目は赤く、大きい。背中には小さな翅があり、それを震わせて宙に留まっていた。胸にはケフェクスに馬が描かれていたのと同じ要領で、蠅の絵が掲げられている。
「撒いてきたよー。しつっこいからさぁ、時間かかっちゃった」
幼い女の子の声。どこからだ、と耳を澄ませば、それは蠅怪人から聞こえてくる。ケフェクスと同じようにあの怪人も、人間の言葉を用いることができるのだ。
「いや、思ってたより速かった。見事だ。こっちの準備は整ったぞ。父上の奪還は、成功だ」
「はいよー! じゃ、行くよ!」
ケフェクスは二条をまたも肩に担ぎあげる。それから膝を少しだけ屈めると、低い声とともにつま先で地面を蹴り、跳び上がった。ひとっ跳びで10メートルに到達するほどの、大ジャンプだった。そのまま腕を伸ばし、蠅怪人の足に捕まる。蠅怪人はその小柄すぎる体に似合わぬほどのパワーを見せ、一息で穴の外までケフェクスの体を引き上げようとしている。
「あいつ、逃げる気か……」
ここまでくれば、ケフェクスがこの場から脱走を果たそうとしていることくらい誰の目にも明らかだ。二条は咲の死に関する情報を握っているかもしれない、重大な証拠だ。このままおいそれと逃がすわけにはいかなかった。
しかし、やはり体はついていかない。直也は力の抜けきってしまった体に絶望し、悲観し、歯噛みする。肝心な時に、なぜこの体は動かないのか、と憤慨するがどうにもならなかった。
銃声が部屋中に鳴り渡ったのは、その時だった。それもただの拳銃を放った際の銃撃音ではなく、耳元で火薬が一斉に暴発したのではないか、と思えるくらいの爆音だった。
一体何事か、と天井を窺うと、またも穴からこの地下室に降り立ってくる影があった。しかし今度は怪人ではなかった。直也も目にした記憶のない、装甲服。仮面に縦に空いた穴と、重厚そうなボディ、全身の至るところに張り巡らされたパイプが特徴的な、マスカレイダーだった。
その手には流星状の近未来的な銃が握られており、先ほどの音はあそこから発せられたものだったのかと、すぐに得心がいった。
「なんだ、撒けてないじゃねぇか。蠅、これはどういうことだ。見え見えの嘘つきやがって」
「ネイは嘘つかないよー。んもう、本当にしつっこい! やっつけちゃってよー。あいつ嫌いー」
「分かった分かった。どのみち、このままじゃ逃げるに逃げられねぇだろ。な、狩沢? お前、逃がしてくれるのか? 俺たちを」
天井近くに漂う、ケフェクスと蠅怪人の会話が、ここまで聞こえてくる。謎のマスカレイダーは落下しながら、バランスをうまく取り、その二体の怪人目がけて銃の引き金を絞っていく。
破裂音と一緒に離れた銃弾だったが、ケフェクスはかざした掌から環状の炎を投げ、その攻撃を相殺させた。
「やっぱりそう来るよな。もう少し戦っていたかったが、残念ながらそんな場合でもないんでな。ここは退散させてもらう」
「……させるか」
分厚い装甲を持っていそうな、そのマスカレイダーが呟く。すると彼の周囲に半透明の膜が出現し、ケフェクスが放り投げた炎を寸前で防いだ。
「面白い力を持ってるみたいだ。それが、お前の新しい鎧か」
「エレフ、だ」
膜に守られながら、その内側でマスカレイダーが引き金を絞る。どうやらその装甲服は、中に入っている装着者曰く、"エレフ"と名付けられているようだった。
エレフは再び、室内の空気を振動させながら、銃弾を撃ち放った。しかし、自分に向けて飛んでくる銃弾を前にしても、ケフェクスは冷静だった。彼はほくそ笑みながら、掌を前に突き出す。すると次の瞬間にはその中心から、二股に分かれた炎の直線が発射されていた。
まるで線路上を猛進する特急列車のように中空を横切る火炎は、半透明の膜をいとも容易く突き破り、双方向からエレフの胴体を殴りつけた。同時に、エレフの撃った攻撃もケフェクスの胸に着弾する。
途端に、小さな爆発音が空気を揺るがした。銃弾を撃ち込まれたケフェクスの胸から、ひしゃげて散り散りになった肉と皮が飛び散り、その馬面が痛々しく歪む。
しかし2人の動きを止めることまでは叶わず、怪人たちは頭上に開いた穴から、1階へと脱出を遂げてしまった。
エレフは背中から、床に墜落した。そのままごろりと仰向けに寝転がったところをみると、最後の一撃が思いの外、身の芯まで届き、素早く起き上がることができない様子だった。
「狩沢さん……」
同じく床に伏したままのガンディが、エレフに呼びかける。どうやらケフェクスの言葉の中にも出てきた"狩沢"という人物が、この突然現れた、エレフという装甲服を纏っているらしい。
その重厚そうな装甲服には、ありありと疲労がみえた。装甲自体には傷1つなかったが、中に入っている人間の精神的な憔悴が、分かりやすいほど表に出されていた。
「最後、引っ張ってる怪人の方を狙えば良かったのに。あんたも、馬鹿だねぇ」
エレフを冷たい目で見下ろしながら、トヨが酷評する。
「もしかして、頭に血が昇ったのかい。昔のお友達に、出会ったもんだから」
「……そんなことは、ない」
エレフは野太い声で答えると反動もつけずに、一息で上半身を起こし、その外見とは裏腹な身のこなしで完全に立ち上がった。
それからオウガとガンディの方には、一度たりとも目をくれぬまま銃をホルスターに収めると、地下室のドアのほうに歩みの矛先を定めた。そして、両手を背中で組みながら粉々に砕け散ったベッドを眺めているトヨのすぐ横を、足早に通り抜ける。
「お前さん、仲間だった奴が敵に回ると、てんで弱いねぇ。昔から、なにも変わっちゃいないみたいだ」
トヨの声に、エレフは足を止めた。それからまず、直也の方に視線を動かしてきた。その眼差しに直也は緊張を覚えるが、すぐに彼は自分を見ているわけではないことに気がつく。
エレフは、その仮面の向こうにある狩沢という男の目は、オウガを捉えていた。その装甲に宿った前の装着者、立浪良哉の魂を探っている。その瞳に、十年前に起きた戦いの顛末を映し出しているのだ。その親しみと感傷のこもった視線は、直也の胸に熱いものを呼び戻させた。
「あいつ自身が、さっき言ってたよ。あいつは段田じゃない。奴に成済ました、偽物だってね。だから躊躇することなんて、何もないはずだけどねぇ。怪人は怪人。化け物退治なら、私たちはスペシャリストのはずだよ」
「……分かっている」
口うるさく責め立ててくるトヨに、狩沢は仮面の内側で短く言った。低く、野太い。聞いていて腹に力のこもるような声だった。
「段田右月は六年前に死んだ。俺も、分かっている。分かっては、いる」
「なら、止まってないでさっさと追うんだよ。せっかく捕まえた情報源を、みすみす逃がすつもりなのかいお前さんは。この木偶の坊が! 早く行きな!」
トヨに叱咤され、エレフは我に返ったかのように何度か首を振ると、再び歩きだし、ドアをくぐり抜け、どたどだと騒がしい音をたてて階段を駆け上がっていった。
エレフが行ってしまうと、今度はトヨの感情の矛先が直也たちに向いた。
「ほら、あんたたちも早く起きな。秋護、あんたはいつまで寝てるつもりだい?」
「トヨさん、勘弁してくれよ……意外ときっついのくらったよ。俺? 少し休ませてくれてもいいだろ? な、あんたもそう思うだろ? オウガの人」
息を切らしながら弁明し、ガンディは直也に同意を求めてくる。さらに続けて「ま、すっげぇ楽しかったからいいけど。戦いってこんなにワクワクするもんだったんだな」と愉悦の笑みさえみせている。あまりこの男には関わらない方がいい、と直也は自分の本能が告げているような気がした。ガンディを纏ったこの男は、あらゆる意味であまりにも、危うい。
オウガはあえて彼を無視すると、自分の体の動き一つ一つを確かめるようにして、ゆっくりと身を起こした。全身に刺すような痛みは走るが、動けないほどではない。歯を食いしばれば、何とか耐えられる。
「お婆さんには世話になったしな。行くよ。俺だって、二条をこのまま連れ去られたら、困るんだ。それに関わった以上、このまま放っていくことなんでできないだろ」
「いい心がけだね。じゃあ、頼んだよ。私は、あんたに期待してるんだ。下手うったら、タダじゃおかないよ」
「あぁ、任せとけって。俺は、探偵なんだから、大丈夫だ……」
一体どんな期待をかけられているのか、何だか恐ろしくて尋ねることはできなかった。加えて、物理的な要因もその躊躇に加担した。つまり次に口を動かすよりも先に、直也は起き上がった瞬間に全身の力を失い、受け身も取ることができず、無残にも前のめりに倒れた。心ばかりが逸り、やはり体は疲労の臨界点をとうに越していたというわけだ。分かってはいたものの、気合いで何とかなるのではないか、と軽く考えていた。そのツケが回り回って、ようやくこの身に降りかかってきた。
まだ倒れるわけにはいかない。直也は最後まで心の中でもがき、あがきながらも、その努力はけして実を結ぶことはなく、糸が切れるようにぷつりと、そしてあっさりと意識を失った。
またこういうパターンかよ。暗幕に隠されていく意識の中で直也が最後に思ったのは、そんな誰に向けて発したとも分からない愚痴だった。
鳥の話 20
徒労と敗北感に身も心も擦り減らされて、仁は重い体を引きずるようにして帰宅した。
重い、とは言ってもそれは単なる比喩であり、実際に重い荷物を背負っているわけではないにも関わらず、けがをしている右足がまた刺すような痛みを発し始める。雨模様な心に誘われて、その傷口もしくしくと泣いているかのようだ。
発熱に苦しむ葉花を置いていってまで、意気込んで出かけたのに、得たものは何一つとしてなかった。
葉花のあまりにも悲しすぎる出生の秘密を知り、もう葉花には会わないという彼女の父親の確固たる思いを聞き、そして彼の邪な本心を覗き込んだ。それが、二時間余りの間に仁が体験した全てだった。これではただ、真実を知って自分を苦しめに行っただけではないか、と愕然とした思いを抱く。これは一体何の修行なんだと嘆く。
葉花とどんな顔をして会えばいいのか分からず、気落ちしたまま階段を上がる。右足を庇うようにして手を壁につけ、段差を一段一段、亀の歩みで昇っていく。
そうして中腹のあたりまで差し掛かった時、葉花のはしゃぎ声が階上の部屋から聞こえてきた。おや、と思い仁は残りの段を急いで駆けあがる。
ドアを開けてリビングに入ると、まずテレビゲームの威勢のいいBGMが聞こえてきた。それに混じって目の前に広がっていた光景に仁は、入ってきたドアを閉めるのも忘れて、その場で唖然と立ち尽くした。
「あー、白石君だ! おかえり!」
ゲームのコントーラーを片手に、こちらに気づき、葉花が振り返る。額には冷却シートを貼っていたが、数時間前の憔悴した様子が嘘のように顔つやも良く、その身からは絶えず元気が放出されているかのようだった。
「あ、白石さん。お邪魔してます」
ゲーム機に繋がっている、もう一方のコントローラーを握っているのは、見慣れた青髪の少女だった。思いもよらぬ事態に頭がついていかず、仁は困惑しながら、自分の腕を軽くつねる。小さな痛みが走り、これが夢でないことを確認すると、交互に二人を眺めた。
「葉花、もう熱は大丈夫なの? それに、なんであきらちゃんが家に?」
「うん。なんか、治っちゃったみたい。ちょっと寝て着替えたらね、すぐ良くなっちゃった! あとねー、青いのがお粥も作ってくれたんだよ! 白いやつ!」
「白石さんが、この前言ったんじゃないですか。葉花さんと仲良くしてあげて、って。だから来ちゃったんです。ちょっと暇ができましたから」
律儀にも、尋ねたのと同じ順序で葉花とあきらは答えてくれる。しかしそれで、「あぁ、そうなんだ」などと納得がいくわけもなく、仁はまた口をぽかんと開けたまま、仲睦まじくテレビ画面に向かう2人の少女を見つめる。
2人は画面の中のキャラクターの動きに合わせるように、動き、時には手と手を絡ませ合い、全身で抱きつき合いながら、精一杯はしゃいでいた。葉花から話に聞いてはいたものの、実際にあきらと葉花が存分に触れ合っている光景を目撃すると、ただただ唖然とし、なぜあきらは彼女に触れられるのかという釈然としない思いが胸中に渦巻くばかりだった。
「すまんね、仁君。やはり私では、君の頼みを叶えるには力不足だったようだ」
声が聞こえたので隣を見やると、そこにはテーブルに突っ伏し、眉を少し寄せてこちらを見る、菅谷の姿があった。部屋に入ってまず目に飛び込んできたのが、当たり前のように楽しくゲームに興じている葉花とあきらだったため、そこで思考停止し、すっかり菅谷のことを忘れていた。仁は慌てて椅子を引き、座ると、彼に向き合った。
「そんなことないよ。ありがとうございました、菅谷さん。おかげで助かったよ」
「いいや、私は何もしてないさ。ただ私は、冷却シートを持ってうろちょろしてただけだよ。少し前にあの子がきてからは、すっかりお払い箱さ」
「僕も予想外で……まさか、友達が来てくれるなんて、思いもしなかったから。なんか悪いことしちゃったな。次に来たとき、コーヒーをサービスするよ」
「それは嬉しいね。それで用事は終わったのかい? あの子を置いて行ったんだ。よほど、大事な用だったんだろ?」
腕時計を撫でながら問いかけてくる菅谷の視線に、仁はそっと下唇を噛む。そして数秒間目を泳がせた後で、「うん、うまくいったよ。完璧さ」
本心をひた隠しにしながら口先で、嘘をついた。口端を上げ、笑い顔を作る。そうするだけで無理やりにでも、気分を高めることができた気がした。笑う門には福来る、という諺はあながち間違いではないのかもしれない。
「ばっちりだよ。用件は果たせた。ありがとう、菅谷さん。それもあなたのおかげだ」
「そうか。役に立てたなら、嬉しいよ。これからも私にできることがあったら、どんどん行って欲しい。こんな私でいいなら、できるだけ、力になれるよう努めたいと思う」
菅谷に疑う様子はなかった。仁は彼の申し出を快く受け取ると、先ほどからきゃっきゃっと笑い声を響かせている葉花と、あきらのほうを見やる。仁の心が階下にいたときよりも晴れ晴れとしているのは、意識して笑みを浮かべたからだけではなく、二人の愉快そうな様子に感化されたためだということは、間違いなかった。こんな時、仁はいつも、自分が葉花に助けられていることを強く実感する。
「あの青い髪の子。君のところの子の、友達だって言ったっけ?」
手元のグラスを傾け、中に注がれているオレンジジュースで口内を湿らせながら、菅谷が訪ねてきた。仁は、頬を膨らませ「今度は負けませんから!」と目を釣り上げるあきらの背中に視線を向ける。
「あぁ、はい。そうだよ。高校の友達なんだ。まだうちには、二、三回しか来たことないけど。随分仲がいいみたいだよ」
「青い髪の人間、っていうのは初めて見たな。最初は目を奪われたが、なんか一時間たらずで、慣れてきた」
「僕も最初は度肝を抜かれたけど。まぁ、個性ってことでいいんじゃない? この世にきっと、普通の人なんていないんだし」
それは最近、切に感じていることだった。黄金の鳥の話を突然もちかけてきた不思議すぎる少女、華永あきら。葉花の中に潜む、自分の行いを他人事のような口ぶりで語る鏡の中の男、ハクバス。仁に対する愛を毎日告白してくる青年、菜原秋人。新宿の事件の記念碑前で出会った、仁をイカと呼ぶ、偉そうな髭の男。
本当にここ数週間で会った人物たちは、彩り鮮やかで、彼ら彼女らのことを考えるたび「普通って一体何だろう」と思わざるを得なくなる。それほど、奇妙と不可思議が日常の中に平然と横たわり、闊歩している。その出会い一つ一つが、仁のこれまでの人生で培ってきた基盤を変革していく。その歪の生じる音が、絶えず仁の鼓膜には響きわたっているのだった。
「まぁ、そうか。個性か。私が欲しいものの一つだな。私のような凡庸な人間は、魅力に乏しいからな」
菅谷さんも十分、個性的な人間だと思うけど。またも己を卑下しながら喋る菅谷に、仁はそう指摘しようとするが、寸前で声を詰まらせた。
菅谷とは最初に顔を合わせたときから、実に十年来の付き合いとなる。だが、今の彼は仁がこれまで見たことのないほど厳しい表情を浮かべていた。瞳は炯炯と滲んだ光を放ち、その頬は磯辺の岩石のように強張っている。いつもの菅谷からは考えられないほど、近寄りがたい雰囲気がそこにはあり、仁は戸惑いを覚える。
彼の周囲に張り巡らされている剣呑な、不可視の領域に立ち入るべきか逡巡していると、菅谷が立ちあがった。その表情には一転して、普段通りの、所在なさげな笑みがみえる。
「では、そろそろおいとまするよ。私の役目は、終わってみたいだからね。また呼んでくれ」
「うん、ありがとう」
まるで逃げるように立ち去る菅谷を簡単な挨拶で見送ると、仁は大きく肩を落とした。彼と対峙して、ここまで緊張したのは初めての経験だった。
「そういえば、白石君。お土産は?」
コントローラーを投げ出して、葉花が思い出したように立ち上がる。
仁は表情には出さなかったが、沈痛な思いを抱いた。本来なら最高のお土産を持って帰ってこれるはずだった。だがそれが、端から無謀な試みであったことを今回で十分思い知らされた。踏ん切りがついた、と言い換えてもいい。もうこれで、退路はなくなってしまったというわけだ。
ごめんね、葉花。心の中で謝り、仁は口でも「ごめんね。お土産、買って来れなかった」と目を伏せる。葉花は特に引きさがることもなく、「ふぅん。分かった!」とやけにあっさりとした納得をみせてくれた。
葉花は頭のいい子だ、と彼女の父親は娘を評した。人の気持ちを敏感に察することのできる子だと。仁もそれは正しいと思っている。だからおそらく、今の仁の心模様も、おそらく葉花は何となく把握しているのだろうと予測した。無邪気に見えて、葉花はここにいる誰よりもきっと、気を遣いながら毎日生きている。そんな暮らしの中で、葉花に触れることさえままならない自分が、彼女にしてあげられることとは何だろう。
仁は悩み、そして、ある答えを導き出す。
「あきらちゃん。ちょっと」
仁はあきらに手招きをした。あきらは小首を傾げながらも、立ち上がると、こちらに歩み寄って来てくれた。
「あの。なんですか? 白石さん」
仁は、きょとんとした表情をみせるあきらの手を引くと、葉花に背中を向けさせたた。そして彼女の耳元に顔を寄せ、小声で提案を口にした。
「あのさ。良かったらなんだけど……今日、うちに泊っていかない?」
当然のことながら、あきらはその話にわずかに眉を寄せた。仁はこちらを興味深そうに見つめている葉花を肩越しに一瞥すると、さらに言葉を続けた。
「今日だけでもいいから、葉花の側にいてあげて欲しいんだ。風邪も治り切ってない病人と一緒にいろだなんて、自分で酷い注文をしているとは思う。だから、無理にとは言わないよ。だけどきっと、あきらちゃんがいてくれれば、葉花は安心して寝つけると思う。ほら、熱が出てるときって、なんでもないことがすごく不安になったりするでしょ? だから、さ、お願いできないかな?」
あきらがこの家に泊る。それは葉花が、黄金の鳥の封印を解く鍵であることがばれてしまう危険性を孕んでいた。また、今のところ葉花とあきらの身に何も起こらないからといって、完全な楽観視もできない。あきらは仁と同じ力を持っている。彼女が触れ続けることで、葉花が石に変わってしまう可能性も、まったくないとは言い切れない。
だが、それでも。仁は、あきらに託した。少しでも葉花の心を軽くするには、どうすればいいのか。考えた末の、結論だった。仁は2人の絆の深さに賭けた。たとえ、葉花の正体を知ったとしても、あきらは葉花を手にかけることなどしないのではないか。いつの間にか、仁の心にそんな希望的観測が芽生え始めていた。勝手な判断であることは、重々承知していたが、これ以上のアイディアは今の仁には浮かばなかった。
あきらは、悩ましげな顔でおずおずと口を開いた。
「でも、あの。葉花さんは、ボクなんかよりも、白石さんと一緒の方が喜ぶと思いますけど……」
「いや、ダメなんだ。僕じゃあ」
仁は目を伏せた。己の限界を思い知らされた直後だっただけに、断言することができた。もう自分の力だけでは、葉花を幸せにはできない。
あきらは寄せていた眉を、今度は曲げた。悲しそうな顔をする。だが、少しの間、仁の目をじっと覗き込むようにした後で、「分かりました。いいですよ。ボクで良ければ」
「本当に? 本当に……いいの?」
「ボクも、葉花さんのことは大好きですから」
あきらは微笑みを浮かべた。仁にとってその表情は、天使の笑顔のように見えた。
「それに、ボクと白石さんとは仲間じゃないですか。お父さんは絶対に、仲間を見捨てなかったって、お母さんから聞きました。だからボクも仲間が困ってたら、助けるんです。白石さんのお願いなら、聞かないことなんて、できないですよ」
あきらの父親は。数年前に亡くなったらしいが、これまでの会話から、あきらの父親に対する尊敬の感情が相当なものであることを、仁はよく知っていた。
あきらは父親の残した誇りを受け継ごうとしている。だから、仲間を信じている。仁に手を差し伸べてくれる。その覚悟を無下にすることは、失礼になるだろう。
「じゃあ……お願いしようかな。ありがとう、あきらちゃん」
「はい! 葉花さん。今日、泊らせてもらうことになりました!」
「えっ、青いの、うちに泊ってくれるの? やったー! 一緒にゲーム出来る!」
葉花はあきらに走り寄ると、その手を掴み、弾んだ心をそのまま体現するかのようにその場でぴょんぴょんととび跳ねだした。仁はその様子に心を和ませられる。葉花の心の隙間を埋めてくれる人物は、父親や母親といった家族以外にも存在した。もっと早くこの可能性に気付くべきだったと悔む気持ちもあったが、結果がついてきたので良しとする。
「じゃあ、今日は焼き肉だー。ね、白石君。お買いもの行こう!」
もう本当に熱は大丈夫なのか、と問いたいところだったが、止めておいた。葉花の勢いに押された、ということもあるし、あきらと葉花が手と手で触れ合っているシーンを目撃し、その事実に再び動揺をしてもいた。
しかし、そそくさと携帯電話を片手に仁の横を通り抜け、廊下に出ていくあきらを見て、なんだか穏やかな気分になったのも事実だった。そういえば、あきらも父親を亡くしているのだったなと思い出す。それでもあきらは母親を大事にしている。今の動作だけでも、その思いの丈が伝わってくるようで、何だかホッとした。家族とはこれほどまでに愛しい繋がりなのか、改めて気付かされもした。
そして今だけは、葉花の過去に眠る悲惨さや、仁自身の未来の不確かさ、今のあきらの不透明さなどの、難しいことなどは、忘れてもいいのではないかと思う。今はただこの幸せな時に身を委ねよう。それこそが、自分が葉花にしてあげられる最大の恩返しではないか。
葉花は冷却シートを剥がし、自分の部屋に走ってたてて戻っていく。その足音は弾んでいて、この日常を象徴するメロディーのように仁の耳には聞こえた。
彼女はもう、もう出かけるつもりらしい。一人リビングに取り残された仁は、心の底から相好を崩した後、壁の時計を見上げた。
佑はまだ帰ってこないのだろうか。まだ時間としては早いが、それでも仁は待ち遠しい。憂いも痛みもない、たとえそれがかりそめだとしても、幸せな日常を享受したい。葉花の父親に会い、話し、仁はさらにその気持ちを強くした。
時刻は午後四時ちょっと過ぎ。この白石家の日常を象る、最後のピースである天村佑が帰宅する様子は、まだない。
魔物の話 19
息を切らして、痛む体を押すように走って、レイは卒倒間際で何とか病院にたどり着いた。
この病院の玄関の前に立つと、野球帽の男に押され、けがをし、診察に来た時のことを思い出す。
眼前までトラックの巨体が迫る、あの恐怖はいまだ、体の芯にこびりついている。以前のようにトラックが横を通り過ぎるだけで足が震え、立っていることもできなくなり、道端で屈みこんでしまうことさえなくなったが、未だ道路を震わすあの地響きを聞くと、胸の奥から捉えようのない不安が押し寄せてくるのだった。
玄関に繋がる階段の脇に植えてあるツツジの葉を見ているうち、レイはそこからディッキーがひょっこりと顔を覗かせるのではないかと期待している自分に気がつく。しかし、ディッキーはもう地面の下だ。頭を軽く振り、気づかぬうちに心の表層まで忍び寄っていた未練を吹き飛ばす。いつまでも過去にしがみつかれて、途方に暮れるのは自分らしくもない。
気持ちを切り替え、不安材料の焦点を目の前で起きていることに転換しながら玄関に近づいていくと、階段の三段目にあたりに誰かが腰をおろしているのが見えた。
そういえばあの時も、ライがあそこに座りながら漫画を読んでいたな、と再び数週間前の情景に目を奪われかけながらさらに、病院との距離を縮めていく。
座っていたのはライでもなく、もちろんディッキーでもなく、佑だった。俯く彼の姿を見て、レイはようやく意識を現実に呼び戻す。
「お兄さん」
目の前に立ち、呼びかけると、数秒の間が空いた後に佑は顔をあげた。その表情に翳りが見えるのはレイが全身で、彼に射す陽の光を塞いでいることだけが理由ではないはずだ。佑の顔は数時間前に会った時よりも、明らかにやつれているようだった。
「レイちゃん、無事だったんだ。……良かった」
「はい。私は、強い女ですから」
佑の暗澹としたものに包まれた雰囲気も心配ではあったが、とにかく今は、悠のことが気がかりだった。あの病室にいた怪人は一端立ち去ったもの、再び、悠に襲いかかろうとどこかで虎視眈眈と爪を研ぎ澄ませている可能性も大いにある。けして油断はできない。さらに、自らが怪人の標的にされたことに対して、悠がどれほど心にダメージを負っているのか。考えるだけでも胸に鈍い痛みが走るようだった。
「それよりもお兄さん、悠は、大丈夫なんですか?」
「あぁ。平気。寝てたから、何があったのかさえ分からないっぽい。起きてていきなり窓が割れてたから、混乱してはいたけどな。もう落ち着いているよ。今は別の空いてた病室に移ってる」
「それは、安心しました」
「どうせもう退院だし。いい機会なんじゃないの、とか看護師さんたちは冗談めかして言ってたよ。あの人たちは知らないんだ。悠が、怪人に襲われかけたってこと。笑い事じゃないのに」
レイは息を呑んだ。再び顔を下に向けてしまったので、その表情にどんな色が浮かんでいるのか視覚に収めることはできなかったが、それでもその声には抑えきれぬ憤怒が滲んでいた。ぎりぎりという音が鳴り、何かと思い目を凝らせば、それは佑が拳を強く握りしめる音だった。
レイは戸惑い、固まる。いつもとは一転し、近寄りがたい空気を振りまく佑に、かける言葉すら見つからずにいた。
「なんで、悠なんだろう。悠は何も、悪いことなんかしてないのに。なんでいつも、あいつばっかり……」
佑の疑問は、レイの疑問でもあった。なぜ、怪人が悠をピンポイントで狙ってきたのかてんで検討がつかない。仮説はいくらでも組みあげられるが、その答え合わせをする手段がない。
なので結果的に、レイは変わらず沈黙を守り続けることしかできなくなる。自分らしくないな、とは思うが、この場面に合う上手い言葉がまったく見つからなかった。
「俺は、弱い」
拳を唸らせ、相変わらず衝動を必死に抑えたような声で、佑が零した。
「悠が怪人に襲われそうになったっていうのに、レイちゃんはそんなにぼろぼろになりながら頑張ってるのに、俺は何もできない。ただ見てることだけしか。それが、悔しくてたまらないんだ」
ボロボロといわれ、レイは条件反射で自分の顔をそっと撫でた。見ると、掌が真っ黒になっている。あまりに必死にここまで走ってきたので、顔や髪についた砂埃を払うことまで注意が及ばなかったのだ。
今更ながら急に恥ずかしくなり、頭の埃を手で払い落す。
「埃付いてるなら、早く言ってくれればよかったのに。お兄さんはいじわるですね
「……あのさ、レイちゃん」
「どうしたんですか?」
「病室に怪人がいたのを見たとき、レイちゃん、すぐに悠に駆け寄って。それから怪人に向かっていっただろ?」
「あぁ……まぁ、はい」
「俺はダメだった。足がすくんじゃって、何が起きてるのかすら分からなくて、しばらく一歩も動けなかったんだ」
あの時ばかりではない。佑の両の手は、今でもなお細かく震えていた。それは恐怖で、というよりも、無力感に打ち震えているようにみえた。体はこの場に留まろうとしているのに、心が焦って焦って、忙しなく暴れ回っている。今の佑からは、そんな身と精神のアンバランスなやり取りが透けて見えるかのようだった。
佑は爪がジーンズを貫いて、皮膚を抉るのではないか、とも思える力で自分の膝を掴んだ。そして喉を僅かに痙攣させながら、地面に向かって吠えた。
「俺は……悠を救わなきゃいけないんだ。悠が病気で寝込んだ時だって、誘拐されそうになったときだって、親父も母さんも来てくれさえしなかった。だから、俺が悠を守らなくちゃいけないんだ。俺はあいつの、たった一人の兄貴なんだから」
ずっと心の重荷になっていたものを、発声とともに吐き出している。少なくともレイの耳にはそう届いた。この病院で出会ったとき、天村氏は言っていた。あまり佑を世話してやれなかったと。絶対に自分を恨んでいると。そう自嘲気味に呟いていた。
今、目の前にいる佑は父親を恨んでいるというよりは、諦めているように思えた。両親が頼りにならないなら、自分が妹を守るしかない。その覚悟を一身に背負い、そしてその使命を忠実に果たそうとしている。そんな佑の姿は、紛れもなく戦士の佇まいだった。
「俺はあいつと約束したんだよ。もう怖い思いはさせないって、あいつが車にひきこまれそうになった時、指きりまでしたんだ! なのに、それなのに……俺は、俺は何をしてる? ただ見てることしかできないじゃないか!」
「お兄さんは私から見れば、十分凄いお兄さんですよ。悠もそう言ってます。だからあんまり、自分を責めないで」
「こんなときに何もできないんじゃ、そんなの、何の意味もない。これまでじゃなくて、これから、今、俺は立ち向かわなくちゃいけないんだ」
彼の"立ち向かう"という発音に、レイは瞬時に先日の戦いを脳裏に蘇らせる。あの時も佑は己の危険を顧みず、レイを守ろうとイストの前に立ち塞がってくれた。そして3年前には、悠を救うため、命を捨てて二条裕美に飛びかかったという。
そして今、佑はまた立ち向かおうとしている。目の前の障壁、困難、脅威、そういったものにがむしゃらな感情で、抗おうとしている。この思いはきっと、誰にも止められないだろう。彼の興奮を正面から浴び、知らず知らずのうちにレイはすっかり圧倒されていた。
佑は階段を踏み抜こうとするような力強さで、勢いよく立ち上がった。そしてレイと向き合う。その瞳には義憤と焦燥の炎は揺らめいており、その危うい輝きが、佑の表情の翳りをますます浮き上がらせているかのようだ。
「力が欲しい。悠も、それにレイちゃんも。守ってあげられるような、そんな力が、欲しいんだよ。もう、何もできないのなんてうんざりだ。もう、こんな俺は嫌なんだよ!」
レイはその言葉に、思わず正面から佑を食い入るように見つめた。悠だけではなく、自分のことも考えてくれていることは何だか照れくさかったが、それでも単純に嬉しかった。そして悠を救いたい、守りたいという思いの強さがその顔立ちから透けて見えた。佑は必死だ。いまこの瞬間も、悠の平穏な生活を願って、危険な迫らないことを祈って、そのために自分ができる最善のことを探し続けている。
レイも同じことを思って、求め、マスカレイダーズへの入団を決意した。必要なのは立場と力、それからその力を行使できるだけの名分。大切なのは、自分なりに納得できる形を見つけることだ。胸にくすぶったもやもやを晴らすための手段がそれ以外にないことを、レイは身をもって知っている。
だから佑が、次にいかなる言葉を紡ぐのか。予想をすることはレイにとって、あまりにも容易なことだった。
レイはそっと目を閉じる。すると生温かい夏特有の空気がこれまでよりも色濃く、肌を撫でつけてくるような気がした。
佑が、口を開く。唇が離れる。見なくても、それが分かった。目を閉じていても感情の機微が分かるくらい彼を取り囲む空気は刺々しいものを放っており、またレイの今の精神は足元を這う蟻の息遣いさえも感じ取れそうなほど、精錬されてもいた。
そして佑は言った。それはやはり一字一句異なることなく、レイの予測した言葉、そのものだった。
「頼む。俺を、あの鎧の人たちに紹介してくれ。仲間にしてほしい。俺も、戦いたい。俺も一緒に、怪人を倒したい。……悠を、守るために」
それは佑の切なる願いだ。レイは深く考えを巡らすこともなく、彼の決意を二つ返事で了解した。
8話完