7話「金の娘 銀の娘(前篇)」
鳥の話 17
『しろうま』の入り口のドアが開かれたので、仁は慌てて振り返った。気分を落ち着けるため、店のコーヒーメーカーを使ってコーヒーを淹れようとしていた矢先のことだった。右手に持っていたカップを食器棚に伏せ、体を完全にカウンターのほうへと向ける。
軽やかなベルの音とともに入ってきたのは、菅谷だった。いつものスーツ姿ではなく、カジュアルなワイシャツにジーパンという恰好である。彼は腕時計の盤面を指でなぞりながら、柔和な笑みを浮かべた。
「悪いね。道が混んでいて、少し遅れた。本日二度目の、来店だ」
「いえ、こちらこそ急に呼んじゃって……それにしても、私服姿、始めてみた」
仁は菅谷の上半身からつま先に至るまで、ざっと眺める。ワイシャツの青と白で彩られた薄いボーダー柄は、菅谷の日焼けした肌にとてもよく似合っていた。「なかなか、それもかっこいい」
「お世辞はいい。それにしても、どうしたんだい? 突然呼び出すなんて初めてじゃないか。この私に協力できることならいいが」
「やっぱり、迷惑だった……かな?」
「いやいや、いいんだ。君にはいつも世話になってるからね。白石さんへの恩義もある。何でも言ってくれよ。私なりに、力になろう」
「ありがとうございます」
仁は礼を言ったあとで、カウンターを回り込み、菅谷の前に移動した。そして彼の前に立ち、窓から射す陽光を浴びながら、深々と頭を下げた。
「こんなこと頼めるの、菅谷さんだけだから。誰よりも、頼りにしてます」
「私のために下げる頭など、世界中を探してもどこにもないはずだ。……上げてくれ」
菅谷が静かにそう告げたので、仁は従った。菅谷は眼鏡を人差し指で押し上げると、わずかに首を傾げるようにした。
「私を信じてくれるのはとても嬉しい。こんな私でも仁君の役にたてるなんて……まさに感無量だ。感動したよ。それで、私はどんな頼まれごとを受ければいいんだろう?」
「あの。実は……」
留守にしている間、葉花の側にいて欲しい。仁はその旨をかいつまんで伝えた。葉花が熱を出して寝込んでいることを話すと、菅谷は明らかな動揺をみせた。
「本当か? 午前中はあんなに元気だったのに。ケーキだってもらった」
「ついさっき倒れちゃって。僕もびっくりで……本当はこんな時に家を出たくはないんだけど、どうしても外せない用事ができちゃって。それで、菅谷さんにお願いしたいわけなんだ。葉花を1人にしておくわけにもいかないし」
「なるほど。……分かった。承知したよ」
著しく要点の欠いた説明だったが、菅谷は快く承諾をしてくれた。片頬だけを上げるようにして笑うと、仁の肩を軽く叩き、その横を通り抜ける。整髪料の香りだろうか。足を踏み出した彼の体から石鹸のような匂いがふわりと舞い上がり、仁の鼻腔を撫でる。
「あの子を置いて出かける、となればそれ相応の用事なんだろう。任せておいてくれ、君の大切な人は、私が見ている。だから、安心して用事を済ませてくるといい。だが、なるべく早く帰ってきてくれよ」
背を向けたまま肩越しに仁を振り返り、菅谷は右手の人差し指を立てた。そしてその指を軽く左右に振るような動作を行った。
「彼女も私なんかより、君のほうが数倍、いや、数百倍いいはずなんだ。早く帰ってきて、安心させてやるんだ。そのほうが、絶対にいい。君の代理をすることはできるが、君自身の代わりを私は担うことなどできないのだからね」
「菅谷さん、なんだかいつもより、機嫌が良さそうですね」
仁は笑みを口元に湛えた。それは本心から出た言葉だった。午前中に会った時よりも、なんだか菅谷が若々しくみえる。興奮と快感を抑えきることができない。そんな雰囲気が、彼の全身からは滲み出ているかのようだった。
一言で表現するならば、菅谷は弾んでいた。
「やっぱり、分かるかい? そうなんだよ、ちょっといいことがあってね。最高にいま、気分がいいんだ」
菅谷は白い歯を見せた。今にも鼻歌でも口ずさみ出しそうな笑顔だ。こんなに高揚している菅谷を目にしたのは初めてだったので、仁はただひたすらに面食らう。
「一体、何があったの? 珍しいじゃない。ここまで、テンションが高いの」
そう尋ねると数秒の沈黙を経て、菅谷は笑い顔のまま流暢に言った。
「なに、特に理由はない。朝からいい音楽を聞かせてもらったからかもしれないし、美味しいホットケーキを食すことができたからかもしれない。とにかく何が発端なのか、私にもわからないが……気分がいいことは、紛れもない。事実だ」
「そうですか。それは、良かった。やはり菅谷さんは笑ってるほうがいいですよ」
嬉しそうな彼の姿を見ていると、こちらの気分まで明るくなってくるから不思議だった。まるで菅谷の心に灯るたいまつを、自分の心のろうそくにもらい火したかのようだった。暗澹とした景色に包まれていた胸中に、光が膨張していくような感覚に包まれる。
「ありがとう。ではなるべく、今日くらい。私は笑っていることにしよう。そのほうが彼女にとっても居心地がいいだろうしな。よし、彼女のことは完全に任せてくれ。私が私なりの安全を確保してみせる」
頼もしい菅谷の言葉に自信を受け取り、仁はもう一言二言、彼と会話を交わしてから店を出た。足を引きずりながら歩く真夏の道は、拷問にかけられているのではないかと疑いたくもなるほど、ひどく辛いものだった。
足を進めながら、仁は携帯電話を取り出した。ボタンを操作し、インターネットに繋ぐ。気づけば涼やかな林道を抜け、ガードレール越しにたくさんの車が駆け抜ける歩道に差し掛かっていた。
炎天のもとで表示させたサイトは、とある企業のホームページだった。
『株式会社 GRED』とページの上のほうに記されている。その下には会社の建物の写真などが組み込まれており、携帯専用サイトにしては凝っているなという感想をもった。
トップページにいくつかあるコンテンツのうち、右の上から3番目の項目を選択した。そこに映し出された本社までの地図をいま一度十分に確認してから、仁は顔を上げた。
菅谷は、葉花が仁を求めていると言っていたが、仁自身はそれを否定していた。自分はしょせん、葉花によっては他人なのだ。それも会ってから半年しか経っていない、クラス担任である速見拓也のほうがまだ、葉花と一緒にいた時間は多いかもしれない。自分と葉花の間にあるのは、たったそれだけの、あまりにささやかで、あまりにとりとめのない、時間。
葉花が本当に求めている人物は、自分ではない。それに気づいた時、無意識のうちに足は動きだしていた。それはあまりに衝動的な行いだったが、迂闊な行動だと揶揄される可能性を受け入れる覚悟はすでにできていた。
失踪した葉花の父親を見つけ出す――その手掛かりをようやく見つけることができたのだから、動き出さずにいられるはずがないではないか。
仁はふと、足を止め、ガードレールに半分尻を乗せるような姿勢で寄りかかると、再び携帯電話を開いた。履歴をたどり、先ほどのホームページに今一度アクセスする。
葉花の父に関する情報がもしかしたら引き出せるかもしれない。そんな期待をこめて仁は、ほんの数十分前、物の記憶を引き出す力、サイコメトリーを"ゴージャスなボールペン"目がけて発動させた。期待半分諦め半分のダメ元ではあったが、そこで得られた情報は、予想以上の成果を運んできてくれた。
ボールペンの抱えていた記憶として、まず仁の頭の中に滑り込んできたのは、葉花の父親の丸顔だった。口元を緩めこちらを、つまりボールペンをじっと見つめている。彼の顔で視界が埋め尽くされているため、そこが一体どこなのかまでは判断することができなかった。
やがて彼が身を引くと、ようやくその場所が白塗りの、それほど広くはない部屋であることが分かった。背後にはテーブルも見える。その上には顕微鏡やビーカーなど、小学校の理科室にあるような道具が並べられていた。
さらにボールペンの視点に立った仁が着目したのは、彼の首にぶら下がったネームカードだった。プラスチック製のもので、中には男の名前と所属する部署、そして勤めている社名までもが記されている。
それを目にした瞬間、仁の頭には閃くものがあった。それは今日、黒城グループの前で天村氏に説明をもらった言葉。会社の前で内密を交わしあう、スーツの集団の姿だった。
カードに記されている会社。その場所に、あの男はいるのではないか。もし勤め先を変えていたとしても、手掛かりを掴めるのではないか。
そして今その社名は仁の手の中にある、ちっぽけな液晶画面上に映し出されている。
『株式会社 GRED』――薬剤開発を主に扱うその企業こそが、葉花の父親が勤めているだろうと考えられる職場だった。
鎧の話 15
直也は腹部に走る鈍痛に歯を食いしばることで耐えながら、時速30キロでバイクを走らせていた。
住宅地のど真ん中だ。歩道も車道もない道路には、猛スピードで駆けてくる自転車や、二列になってこちらに向かってくるベビーカー、親の監視を受けながらはしゃぎまわる子どもたちなどの姿が見受けられ、とてもじゃないがスピードを出せる状況ではなかった。
フェンリルになぶられた直也は、あの後、すぐに意識を取り戻した。体感時間では半日くらいゆうに経過しているのではないかとも思えたが、時計を確認してみると実際、気を失っていたのは5分たらずであったことが分かった。
なぜ、フェンリルが襲いかかってきたのか。そしてあの装甲の中には誰がいたのか。疑問はつきなかったが、あまりの気分の悪さに考えがうまくまとまらない。
オウガの鎧を解くと直也は、まず地面に吐瀉物をまき散らした。胃の中にあるものを全て吐き出し、気分を落ち着けると、それからようやく体の芯を探るようにして恐る恐る立ちあがった。
しばらくは景色が揺らいでいたものの、数分もしないうちに真っすぐ歩けるまでには回復をした。それでも、体のいたるところに擦過傷や青痣が目立ち、中でも腹部は呼吸をするのも億劫なほどに痛んだ。臓器に傷がついてやしないだろうかという懸念はあったが。結局直也は医者よりも、ようやく掴んだ手掛かりを生かす道を選んだ。
そして直也は、夏のけだるい空気を振りほどくように、民家に面した道路の中心をバイクで駆けている。
じりじりと皮膚を焼くような太陽光に晒され、また打ち身の痕に全身を痛めつけられながら、直也は朦朧としながらハンドルを握っていた。危険運転であることに違いはなかったが、それでも、前に進まなくてはならない。
心が体を急かしている。風や周囲から聞こえてくる人々の声までもが、その背を押しているような気さえした。焦りに蓋をしようとも、その膨張していく力は、気の持ちようで何とかできる類のものではなく、鍋の噴きこぼれのように直也の全身を次第に満たしていく。
携帯電話を破壊されたことは、最も痛い深手だった。柳川のみならず、拓也やあきらとの連絡手段も失われてしまったのだ。濃霧渦巻く、深い森の中で置き去りにされてしまったかのような不安を覚える。だが直也は自分が森の中で動かず、途方に暮れながら、ただ助けを待っていられるような性格ではないことを知っていた。
先を考えず、とにかく動き出す。それが一番、自分の性にあった行動であることを自覚していた。そうともなれば、霧の中でただ1つ光る、出口への道しるべ目がけて、突っ走るしか方法はないではないか。
そうして直也がくだした結論は、柳川が最後に話していた事件、そこに出てきた船見という名前の人物を探ることだった。"鳥の旗"と関わりの強い、その名字を直也は知っている。ゴンザレスが帰って行った場所、黄金の鳥を抹殺するために結成されたマスカレイダーズという組織のアジト、拓也がオウガを取り返すために乗り込んだ家。
その古びた一軒家の前に直也は今、たどり着いた。
門の傍らに掲げられた表札には、直也の記憶通り、「船見」という名字が印字されている。エンジンを切り、バイクを降りようとすると家の玄関が軋んだ音をたてて、開け放たれた。直也は車体を傾け、片足だけを地に着けた恰好のまま、そちらを見やる。
家の中から現れたのは、老婆だった。派手に染められた紫色の髪の毛、さらにその存在を誇張するかのように、前髪を留めている大きな花飾りが否応にも目を引く。老婆は腰をわずかに曲げ、杖を突きながらこちらにゆっくり歩み寄ってくると、突然に直也の前で立ち止まった。
「こんにちは。初めまして、ではないよねぇ。あんた、坂井直也だろ?」
「あんたは……」
ヘルメットのシールドを押し上げ、老婆を直に見る。直也は彼女に見覚えがあった。考える間もなく、脳裏に蘇ってくる。およそ一週間前、バス停でこの老婆に話しかけられたのだった。
風車に立ち向かう勇気はあるか――皺に埋もれた瞳を光らせ、しなびた果実のような頬を上げながら、そう檄を飛ばしてきたことを、鮮明に記憶している。思い違いではないという確信は十分にあった。言葉でも外見でも、これほど印象的な年寄りにはそうそう出会えるものではないだろう。
予想外の相手が現れたことに直也は動揺し、しばし呆然となる。まさか彼女が船見家の人間なのか。そしてこれは、偶然なのだろうか。
そして直也のそんな思考をまるで読み取ったかのように、老婆は意地悪っぽく笑った。そして白い眉毛を上げ、今度は愉快そうに言った。
「今日は暑くて、どうにも体に堪えるねぇ。中でゆっくり話をしようか。歓迎するよ、船見家に。私はねぇあんたを、待っていたんだよ」
魔物の話 17
レイは金ぴか鎧の怪人、“キャンサー”と並んで『立ち入り禁止』という紙の張られたロープを跨いだ。
まるでそのロープが現実と、非現実とを分ける一種の境界線のような気がして、レイは思わず唾を呑み込む。胸に手をあてがえば、少しずつその大きさを増していく心音が掌に響いてくる。
レイとキャンサーは病院に隣接した、取り壊し最中のペナントビルの軒先に立っていた。
3階建てのコンクリート造りで、ベランダに看板は掲げられたままではあるものの、人が住んでいる様子はない。建物の前にはショベルカーが傍らに放置され、青々とした葉の茂る柿の木が根ごと倒されている。
庭のぐるりは老朽化したコンクリートの塀で取り囲まれており、また細い路地に面しているため、前を人や車が通りかかる心配は少ない。確かにこの中に入ってしまえば、多少暴れたとしても人目につくことは避けられそうだった。物音をたてても、周囲には工事機械の駆動音と思われるかもしれない。何にせよ、好都合だ。
キャンサーは病院の裏でその後、レイから奪い取った携帯電話を操作し、マスカレイダーの面々に次々と電話をかけた。それから、ここで待っているのは都合が悪いと言い出し、意気揚々とこの場所にレイを引き連れてきたのだった。
佑と悠のことが心配ではあったし、悠の病室にいた怪人の行方も気がかりではあったが、レイとしてはキャンサーのことを黙って見過ごすわけにはいかなかった。幸い、その意図は依然として不明であるが、キャンサーが連絡を繋いでくれたので、しばらくすればマスカレイダーは現れるだろう。レイにできるのは、それまでの時間稼ぎをすることだった。
眼前に立つ、灰褐色の箱のような建物を見上げているうち、レイは昨日の古びたアパートを思い出す。猫の鳴き声がどこからか微かに聞こえてくることも、窓ガラスが割れていることも、怪人と対峙しているこの状況まで、まるでそっくりだった。悪夢の再現だ、と詩的な感想を抱かざるを得ない。耳の奥に、"イスト"の声までもが蘇ってきそうだった。
「ここならいいだろう。あまり人目につくような場所は、僕も君も困るだろうからね。どうだい? ナイスアイディアだろ?」
キャンサーが嬉々とした声を発し、空を仰ぐ。イストではないが、これも怪人であることに違いはない。これでは昨日の繰り返しだ。レイは足元に視線をさまよわせながら、うんざりと答える。
「そうですね、ナイスですね。さすが、金ぴかなだけはありますね」
「やはり子どもは素晴らしい。僕の良さを、この魂の清さを分かってくれている。ゲスな大人の濁った眼とは、本質から違うようだ」
「ロリコンでいらっしゃるんですね」
「そうさ。ただし僕はいいロリコンだから、なんの問題もないけどね」
「変態にいいも悪いもないと思うんですけど」
「変態じゃない、これは、性癖だ」
「なお悪いと思うんですけど」
レイはようやく顔を上げ、キャンサーを正面から見た。真紅の巨大な瞳がその顔の中心で燃えている。その口は意外に小さいが、口端を上げるたびにノコギリのような細かい牙が覗き、見る者に強い威圧感を与える。
レイは尻込みしそうになる自分を、心中で叱咤しながら尋ねた。
「ロリコンに敬語はいらないよね……二条裕美の息子って、どういうこと?」
キャンサーは返事の代わり、というわけではないだろうが、一歩前に足を踏み出した。そのまま半開きになった玄関をくぐり、暗闇の凝る建物内に溶け込んでいく。「とりあえずここは人目につく。中で話そう」
レイは周囲にざっと目を運んでから頷くと、その背中を追った。
室内は昼間にも関わらず暗く、また、非常に埃っぽかった。下駄箱には何足か靴が残されていたが、どれも薄汚かった。
低いたたきを上がると、目の前に真っすぐ廊下が伸びている。両側の壁には間隔をあけて、いくつものドアが並んでいた。床にはゴキブリやネズミの干からびた死骸が点々と落ちている。歩いているだけで、靴の裏に砂のざらついた感触が伝わってくるようだ。天井を見上げれば、役目を終えた電灯が幽霊のように垂れ下がっていた。
「僕は、二条裕美の息子だ」
キャンサーは廊下を半ばほど進んだところで急に立ち止まると、マントを翻しながら振り返った。レイは二歩三歩後ずさると、なるべく首が疲れない角度を見つけて、キャンサーを振り仰いだ。
「ただし、性交がどうとか、受精卵がどうとか、血がどうとか、そういう類の親子じゃあない。ま、説明をせずとも。君ならもうとっくに分かってると思うけどさ」
「……二条裕美が、誰かの死体と、黒い鳥を使って生み出した。それが、あなただってこと?」
レイの返答に、キャンサーは満足そうに頷いた。
「そう。理解が早くて助かる。そうさ、僕は君と同じ、死体から生まれた怪人なんだ。ただ父親が別だ。それだけの違いなのだ」
「それが一番大きいと思うけど。だけど、あなたの父親と、私のお父さんを一緒にしないで」
レイは顔をしかめた。キャンサーの発言に、かちんときたからだった。父親は確かに傲岸で奔放な人物であるが、少なくとも女性の感情を弄び、殺害して喜び、死んだあとも凌辱をしている人間よりもまともであることは確かだ。
「私のお父さんは、二条や白衣の人みたいな人殺しとは、違う」
睨むと、キャンサーは大きく首をすくめた。やれやれ、とでも言うように肩を揺すり、その後で口に出して「やれやれ」と呟いた。
「ま、お互いさま、かな。そっちだってさっき、僕の父とあの男とを一緒くたにしたからな。これで分かっただろう? イラッときた僕の気持ちが」
「分からないよ。私にとっては、どっちも似たようなもんだよ。くされ外道だよ」
「そうさ。黒い鳥を使って、子どもを生みだした。そういう意味では、みんな一緒だ。君の親父さんも、そうだ」
まぁ、いいけど。キャンサーは腹のライオンを指で掻きながら、その話題を切り上げた。話の途切れるタイミングを見計らっていたレイはここぞとばかりに尋ねた。
「それで、あなたは私にお父さんの復讐でもしにきたの?」
「いや、そのつもりはない」
即座に答えたキャンサーの語調に、嘘の混じり気は皆無だった。レイはその返事を、怪訝に思う。
「つもりはない? でも、シーラカンスとかいう怪人は、なんかすごい勢いで私に襲いかかってきたけど」
「兄さんは、厳格すぎるんだ。つまりファザコンなのさ。だけど、僕は違う。僕は僕のために生きる。父を尊ぶ気持ちはもちろんあるが、同じ道を進む気はない。ましてや同じ思考を浮かべることなんて、絶対にない」
僕は僕だ。キャンサーは自分に言い聞かすように、陶然と、もう1度言い直した。
「……じゃあ、悠を襲ったのもあなたじゃないの」
二条は天村氏を一方的に恨んでいて、だからこそ、前回は悠を誘拐の標的に定めた。そう、彼自身が告白をしていた。だから、二条の息子が現れたと知った時、実は悠の病室に怪人を送り込んだのもこいつではないか、という予想がレイの頭には過ったのだった。
「あぁ、そうだ」と白状してくれることを、少しだけ期待していたが、キャンサーの答えはその期待に反して「ゆう? 誰だ、それ?」という疑問符を浮かべながらに発したものだった。
「えー。あなたが怪人を送り込んだんじゃ、ないの?」
「馬鹿な。そんなことはしていない。言いがかりは困るな。答えた通り、僕はそれが誰だかも知らない。まぁ、嘘だと思うなら、それはそれでいいけど。時間の無駄だよ、きっとね」
「あぁ、そう」 レイはすぐに引き下がった。ここでごたごた揉めていても、仕方がないことに気付いたからだ。
「じゃあなんで、私の前に? しかもわざわざ援軍を呼んでくれるなんて。どういうつもり?」
「僕は、最強の怪人になる」
キャンサーは天井に視線を向けながら、そう宣言した。"最強"という響きには何だか幼稚じみたものがあり、レイはげんなりする。さらに最強の怪人、とは見事なくらい抽象的な表現だった。しかしキャンサーがあまりにも、それを自信満々に言い放つものだから、レイは二の句が継げず、ただ黙ってその顔を見つめ返す他ない。
「そのためにはさ、まずはたくさんの怪人を殺してる、マスカレイダーって奴を仕留めておこうと思ってね。ナイスな判断だろ? 兄さんでもあいつらに勝てなかったんだ。だからつまり、奴らを倒せば、少なくとも僕は兄さんよりも上ってことになる。僕の計算、あってるよな?」
「うん、あってる」
「完璧だよな?」
「うん、完璧」
「ナイスだよな?」
「それはどうでしょう」
レイは反射的に答えた。キャンサーはなぜか満足そうに頷く。
「そうさ。そして、お前はそのための餌なのだ。最高の怪人だろうが、なんだろうが、僕は小さな女の子を傷つけたりはしない。それに最高を倒しても、最強にはなりえないからね。マスカレイダーどもが現れたら、君はもう用済み。好きにするといい」
断言し、何かをやり切ったかのようなすっきりとした表情をみせる。レイは何だか侮辱されたような気になり、ムッとした。
そして無防備に、目の前で仁王立ちしているこの怪人を見据えながら、本当にこいつにも自分の能力が通用しないのだろうかと密かに考えを巡らせる。この自意識過剰な怪人にひと泡吹かせてやりたい、という欲望が渦巻いてもいた。
人間の姿をもつという点では、イストたちと変わりないものの、本人曰く、彼らとは親が違うという。ならば、怪人の意思を強制的に掌握するレイの力も効果があるのではないか。
レイは覚悟を決めると、足元に伸びる影を鳥の形のものへと変形させた。そしてその影を、キャンサーの体に重ね合わせようと、右足を前に踏み込んだ。
影が音もなく、キャンサーの足先に、触れる。だが次の瞬間、レイの身に衝撃が走った。体の芯を直接揺さぶられたかのような、眩暈にも似た感覚だった。影が揺らぎ、伸びきったところで不意に手放したゴムのように、一息でレイの元に戻ってきた。
一体何が起こったのか。まったく分からず、レイは確かめるように目の前の怪人を見上げる。イストにはただ通用しないだけだったのに、キャンサーはさらに弾き返してきた。しかも彼の表情を見れば、そこに優越感に浸っているところはなく、どうやら無意識のうちにレイの能力を遮断したらしい。おそらく、影が迫っていたことすら気づいていないだろう。
「そういえば、君に教えておきたいことがある」
キャンサーは自信ありげな笑みを浮かべ、立てた人差し指を左右に振った。レイはもはや鳥の姿を保つこともできなくなった影を慌てて引っ込めると、眉間に皺を刻んだ。
「なにを」
「そう嫌そうな顔をしないでおくれよ。可愛い顔が台無しじゃないか。実にナイスな話なんだ。いや、僕のする話にナイスじゃないものがあったことはないんだけれども」
「なんでもいいから、さっさと話してよ。ロリコンのくせに前置きが長いよ」
「知ってるか? 悪いロリコンは死ぬべきだが、いいロリコンは言語統制されないんだ」
「えー。どっちも地獄に落ちるべきだよ」
「とにかく。僕のしたい話というのは、黒い鳥は親のイメージを忠実に反映するという話さ」
「イメージを?」
捉えどころのない単語に、レイは思わず尋ね返す。キャンサーはレイが関心を向けたことに満足したのか、嬉しそうに巨大な目をすぼめた。その仕草にレイは、この男もまた父親と似たように、自己満足の人であることに気がつかされる。
「今まで、不思議には思わなかったのか? なぜ他の怪人は醜い、とても人とは思えない形をしているのに、自分は人間の姿をしているのか」
「そりゃ、思わなかったわけじゃないけど……それを含めて、最高の怪人なのかなぁって何となく」
「違う。人間の姿を持ってしまったことは、むしろ弱者の証なんだ。君に牙があるか? 爪があるか? ないだろ。怪人を相手にすれば、強いかもしれないが。君は最高の怪人ともてはやされているくせに、人1人殺すこともできない」
その言葉は鋭いアイスピックのように、レイの胸を貫いた。つい先日、人間どころか怪人にまでも、手も足も出ない状況に追い込まれてしまった。その苦い経験が、じわりと心に沁みる。対策を練られてしまえば、自分は多くの女子中学生と同じ。実に無力な存在であることを、思い知らされたばかりだった。
「つまり、だ。君をこんな小さな女の子にしたのは、君の父親のイメージなんだ。君の姿を頭に思い浮かべながら、黒い鳥に死体を捧げた。そしてその結果、君は産まれた。だから最高の怪人になってしまったのは偶然さ。後からついてきただけだろう」
キャンサーの口から紡がれたのは、おいそれとは信じ難い話だった。しかし頷けるものがあることもまた、事実だ。レイは自分の外見が佐伯零という、二条に殺された幼女にそっくりであることを思い出した。そしてその理由について訊くと、黒城はこう説明をしてくれた。
佳澄が零を大層可愛がっていたから。こんな娘が欲しいと願っていたから。私はそれを額面通りに解釈して、佳澄の死体を用いて、お前を生み出したのだ、と。
つまりキャンサーの話と照らし合わせてみたならば、レイは黒城のイメージした零の姿から生み出されたということになる。これまで具体的にどうやって黒い鳥が怪人を産むのか、分からなかった点があったのでその原理は確かに、つじつまが合っているような気がした。
「実は僕はね、子どもを作り出そうと考えているんだ。そう、君みたいにね」
「……黒い鳥を使って、ですか?」
突拍子のない、キャンサーの発言にレイは一瞬言葉を呑み込んだが、すぐに自分も子どもを生み出した経験があることに行き当たった。
子どもを産むということは、新たな生命を生み出すということは、本来もっと尊く、容易く触れてはいけない領域にあるはずの行為なのに、黒い鳥がそこに介在しただけで、随分とその価値は下がってしまう。この会話の中で交わされる命という言葉は、どれほど安価なのだろう。
「怪人が黒い鳥を使うことなんて、できるの?」
「理論上は、できるはずだ。死体は人間のものでなくてはならないけど、親に指定はない。多分。とにかく、誰もやったことのないことであることは事実さ。この僕が、初めてその領域に足を踏み込むことになる。この僕が、怪人の歴史に大きな一歩を刻むことになるんだよ」
「へぇ」
レイは適当にあしらいながら、頭にあの白衣姿の男を思い浮かべている。下品な笑い声と老人のような相貌、蛇のように鋭い眼差しは思い返しただけでも背筋が震えた。
探究心の塊のようだったあの男が、怪人から生み出される怪人、などといういかにも面白そうな物事に着手しないということなどあり得るだろうか。すでにその試みは検証が済んでいて、しかし、何か重大な問題点が発生したために、正式採用に至らなかったのではないか。
レイはそんな予想をしたが、もちろん口には出さない。喜悦を表情いっぱいに広げ、1人で盛り上がっているキャンサーをそっと鼻で笑う。
「実は、もうデザインもしてあるのさ。イメージを深めるのには絵を描くのが一番いい。僕に似て、とてもエレガントで強い怪人。これまでにない発想とポテンシャルを秘めている。実は、名前ももう決めてある。どうだ、この僕の計画性。素晴らしすぎるだろう」
「へぇ。凄いね」
「聞いて驚くなよ、"シータ"だ!」
「シータ?」
驚愕よりも意味の分からなさに、レイは慄然としたものを覚えた。どこが驚くポイントだったのか、尋ねた後でも、まったく判断がつかない。シータシータ、と口の中で幾度となく繰り返してみるが、まったく馴染みのない言葉だった。しかしレイの困惑をよそに、キャンサーは相変わらず、大きく胸を張り、自信たっぷりに告げる。
「そう。シータ。すごくナイスな名前だと思わないか? 漢字を教えよう。心が太いと書いて、シータだ。心太。どうだ、すごくかっこいいだろ?」
「いや、読まないよ。読みとしたら、それは、ところてんだよ」
レイが指摘をしたのと、背後で衝撃音が鳴り響いたのはほぼ同時だった。
濁り気はなく、天井裏を突きぬけて空に吸い込まれていくような、潔い快音だった。この家に堆積した埃と、工の過程で積み上げられた砂が一切に吐き出されたかのように、視界が砂煙で塞がれる。
レイは手をかざして自分の目を守りながら、嵐が過ぎ去るのを待った。玄関で膨張し、少しずつ霧散していく埃の猛威の中に、うっすらと2つの影が浮かび上がった。
"ダンテ"と"アーク"だった。埃の中から脱出を果たした彼らは並び立ち、キャンサーとレイを認めると、それぞれ構えをとった。キャンサーは嬉しそうに頬を緩める。
「なんだ。意外と速かったじゃないか」
「お父さん、たくちゃん先生!」
しかし視界が晴れ、マスカレイダーの全貌が明かされると、キャンサーは一転して不機嫌になった。首をぐるりと回し、片頬だけを上げて笑う。
「おや。出前は3人呼んだはずだったんだが……手違い、ととってもいいのかな?」
「何を言う。私が来たというだけでも、恩赦級の大サービスだ。ありがたいと思いたまえ」
いつもの調子で、アークが不遜に告げる。
「怪人が喋ってる……あの時のやつと、同じタイプか」
一方ダンテは、流暢な日本語を操る怪人を見て当惑し、それから気を引き締める。どうやら彼もまた、レイと同じようにシーラカンスのことを思い浮かべたらしかった。
そして喋り終わるや否やダンテは床を蹴り、レイの横を素早くすり抜けると、キャンサーに拳を突きたてた。だが、悲鳴をあげたのは、攻撃を加えたダンテのほうだった。
「どうした? 痛くも痒くもないよ」
「お前っ!」
躍起になったダンテは、怪人の鎧じみた黄金の肉体に、さらにパンチのラッシュを打ちこんでいく。だがキャンサーは平然としていた。ダンテの拳は空気を切り裂き、鞭のような音が絶えず室内を反響しているというのに、敵は棒立ちのまま少しも揺らぐことはなかった。
「なんだ、その程度なのか? たくさんの怪人どもを殺戮しまくった、マスカレイダーってのは!」
ダメージを負い、体力を削られているのはどう見ても、明らかにダンテだった。ダンテは荒い息とともに雄たけびをあげ、ミドルキックを繰り出すが、キャンサーに顔面を張られ、空ぶった挙句に床へはたき倒された。さらにその腹を強く踏まれる。キャンサーはぎりぎりとダンテの腹を踏みにじりながら、愉悦に満ちた笑い声をあげた。
「どうだ、僕は凄いんだぞ! 強いんだぞ! 親父よりも、兄さんよりも、そしてどの怪人よりも! この僕は、強い!」
まさか、ここまで圧倒的な展開になるとは。レイは身じろぐことすらできず、その光景に魅入った。ダンテはキャンサーの足の下で、ぐったりと細い息を漏らしている。
「レイ。捕えた怪人のことなら安心しろ。狩沢に任せてきた。奴は口の堅いことだけが取り柄だからな。そういう意味では、信頼がおけるだろう」
背後で聞こえた父の声に振りかえると、アークの両肩にそびえるお椀型のバインダーがゆっくりと展開をしていくところだった。その下から一対の無骨な砲塔が姿を現す。その照準はせり上がってくる過程においてもすでに、キャンサーの胸元を捉えていた。
「支配は、まだ終わらないの?」
レイが茶化すとアークは鼻を鳴らし、腕を胸の前で組んだ。
「子どもは世界の論理に従わないから、苦手でしょうがない。もう少し時間をもらおう。その代り、この場で私の支配を見せつけてやる」
砲口が、唸る。光が満ち溢れ、一斉に放射される。2つの砲台から放たれた光の塊は宙に眩い軌跡を刻みこみ、キャンサーに直撃した。砲弾のあまりの衝撃に、床が陥没し、壁が裂け、天井が割れた。レイは爆風に体を押されつつも、思わず唾を呑み込んだ。さりげなくアークが右手で、レイを支えてくれていた。
しかし爆煙の向こう側から現れたのは、まったく無傷のキャンサーだった。顔色一つ変えずに、変わらない格好で、立っている。これにはさすがのアークも肩をすくめた。
「随分と、タフな体をしているようだな。やっかいなことだ」
「この程度の攻撃、屁でもないね。いや、屁のほうがまだ僕に通用するかもしれない」
にたりと小さな口をひん曲げるキャンサー。踏みつけられていたダンテが動き出したのは、その時だった。ダンテは、キャンサーの意識がアークに向いているその一瞬の隙を狙い、その足首を掴んで横に引き、自分の体からのけた。
そして横に転がるようにして脱出すると、身を起こしながら、左耳に手をあてがった。耳の装甲と一体化したダイヤルを3目盛りまで回す。収束した光がその頭部に集まる頃には、すでに立ちあがったダンテは前方へと跳躍し、キャンサーに頭突きを繰り出していた。
今度はやれるか、とレイは手に汗を握った。頭部に強烈な光を集め、その熱で触れた敵を蒸発させるその技は、間違いなくダンテが有する内で最も高い威力をもった攻撃だった。これで無傷を遂げられれば、もはやキャンサーの分厚い皮膚を貫通する攻撃はダンテにない。
通用してくれ、とレイは心の中で願う。しかしその請願はあっけなく、裏切られた。
キャンサーは自ら片手で、ダンテの頭を掴んだのだ。一見すれば、これまでの常識では考えられない蛮行だ。だが、キャンサーは苦しむ様子は少しも見せず、逆に心から嬉しそうに光の中で笑む。
マスカレイダーの必殺技ですら通用しないなんて、こんなことあり得るだろうか。レイは常識を根もとからひっくり返されたような衝撃に、目眩すら感じた。信じていたものにまた1つ裏切られた。そんな気分だった。
漏れ広がる光の渦に纏われながら、ダンテはそのまま力いっぱい、床に叩きつけられた。桃色のリノリウム製の床に頭から押し込まれ、ダンテは床から胴体と足を生やした格好になる。キャンサーはぐったりと両膝を付く彼を見やりながら、ひと仕事を終えたという風に手を叩き合わせた。
「先生!」
レイは叫ぶが、ダンテの胴体は身動き1つしない。アークは一歩前に足を踏み出すと、組んでいた腕を解き、キャンサーを指差した。
「そんなことで喜ぶとは、底の浅い奴だ。分かっているのか? 私が前に出た、ここからが本当の戦いだ。貴様に私の支配を見せてやる。頭を垂れて、見守りたまえ」
「それは楽しみだ。だけど、床にへばりつくのはそっちの方さ。僕には夢がある。そのためにはまず、お前たちを倒して僕の強さを証明してやるんだ」
右手首のハッチから、ハンドガンの銃身を迫り上げさせるアークに、レイは胸の内で声援を送る。がんばれお父さん!と声に出そうとしたところで、レイは不思議な感覚に囚われた。
後頭部を強く引っ張られるような感覚。精神を外に引きずり出されるような違和感だった。目を瞑ったまま歩いていても、何となく前に壁があるな、と判断できた時のような。第六感を許容しなくては説明できないような、あまりに奇妙な衝動。
続けて襲いかかってきたのは、寒気だった。背筋をなぞられるような感触が脳の片隅から、音も立てずに広がってきたのだ。
この感覚はなんだろう――確かめないわけにもいかず、レイは意を決して振り返る。
するとそこには、紫色の皮膚に全身をくるんだ怪物が立っていた。胸や手足は強固そうな鎧で覆われており、顔面も含め、その箇所は蛍光グリーンで着色されている。さらに胴には枝分かれした金色の線が、脇から腹にかけて道でもたどるように引かれていた。
背中からは黒々とした蝙蝠のような翼が突出し、そのせいなのか、どこかその怪物は悪魔然とした雰囲気があった。身長は天井に頭をかすめるほどに高い。鉤の形にひん曲がった爪が生えた、その左手には身長と同じくらいに長い、灰色の槍を掴んでいる。先ほどからしきりに、リズムでもとるかのように、それで床を軽く叩いている。
「え……」
一体、いつからこいつはここにいたのだろう。様々な疑問が渦巻く中で、レイが最初に思い至ったのはそんな問いかけだった。またレイのセンサーに反応しない怪人なのか。それ以前に、こいつは怪人なのだろうか。今まで出会ったどの怪人よりも、その身から発せられるオーラは禍々しく、そして慄然としたものが色濃く混じっていた。
レイが瞬間的に思い出したのは、数日前に出会った、黒いコートの男――河人のことだった。全体像こそ明らかに異なるものの、彼の変化した怪物と、いまレイの眼前に立つ怪物とはどこか似通った雰囲気を纏っていた。
「お前、中学生か?」
声が聞こえた。どこからだろうと、レイは目だけを動かして周囲を窺う。
「どうなんだ。さっさと答えろ」
また同じ、若い男の声。今度はその出所がはっきりと掴めた。それは、背後に立つ怪物の口から発せられていたものだった。脅迫めいた強い語調に押しやられるようにして、レイは慌てて返事をした。
「は、はい……」
「そうか。じゃあ、俺はお前を喜んで蹴っ飛ばせるな。歯、食いしばれ」
「え?」
瞠目していたレイは、いきなりその怪物に蹴り飛ばされた。
あまりに突然で、しかも唖然と怪物に目を奪われていたので、反応が遅れ、レイは受け身もとれず壁に顔面を打ちつけた。
「俺の半径5メートル以内に、ガキが入ってくるんじゃない。……反吐が出る」
レイのぶつかった壁がくぐもった音を発し、それによってようやくキャンサーとアークも怪物の存在に気がついたようだった。レイは悲痛の呻きを押し殺しながら、片手をつき、もう1度怪物を見上げる。額と鼻がひどく傷み、目の前がまだちかちかしていたが、体を動かす余力はまだあった。
「なんだ。なんなんだ、お前は! 僕の知らない奴が、僕の目の前に現れるはずがない!」
キャンサーが不安げな声を発する。アークは振り返り、警戒心をたぎらせながらも、無言で怪物を睨んでいる。
しかし怪物はキャンサーの問いには応じることなく、目線を動かし、場の様子を見定めるような動作をとった。その瞳もまた蛍光グリーンであり、それは彼が首をわずかにでも動かすたびに、薄暗い室内の中でちかちかと瞬くようだった。レイはその光を追いかけているうち、また眩暈に襲われ、倒れ込むようにしてひび割れた壁にもたれた。
「怪人1匹に、マスカレイダー1人……いや、2人か。久々の戦いにしちゃ、ずいぶん豪勢だ」
怪物は呟くと、ニッと口元を緩ませ、笑った。少なくともレイにはそう見えた。それだけでレイは口の中が乾き、皮膚が粟立った。感情や反射ではなく、もっと深い、本能の部分で自分はこの怪物に恐怖を覚えている。レイはそんな自分が分からなくなり、さらに怯えた。
「まずは、名乗りあおうじゃないか。お前らのことがどんなに憎くとも、ルールを失った戦いに、きっと意味なんてない。俺と、戦えよ。マスカレイダー」
怪物が不敵に言う。既然と伸ばしたその指の先には、憮然とした様子で立つアークの姿があった。
アークは、黒城は、笑った。仮面の下にある父の素顔は見えなかったが、レイも今度はそれを確信した。
「マスカレイダーズ、最強の戦士、アーク! ……分かってるだろうな、私の娘を足蹴にした罪は、万死に値する。貴様を地獄に突き落とすのは、この私だ」
名乗りをあげたアークに、怪物は満足したようだった。右手を下ろすと、左手に掴んだ槍を持ち上げ、その切っ先で真っすぐ、アークの首元を捉えた。
「……黄金の鳥再生の会、デビルズオーダー。アルム。いいだろう。全力でかかってこい。お前らに対する怒りと憎悪の尺度なら、俺も負けちゃあいない」
怪物が――S.アルムが踏み抜くほどの力を込めて、床を蹴る。アークは完全にキャンサーを眼中から外すと、迫りくる黒翼の怪物に対し、右手のハンドガンで応戦した。
鳥の話 18
株式会社GREDには、大した手間を取らずにたどり着くことができた。商業ビルやアパレル店と並んで都心に建つその本社は、想像していたよりもずっと小さかった。
3階建ての建物だ。外装は白く、四角く、まるで一世代前のデスクトップ型パソコンを髣髴とさせる。入り口である自動ドアの上に、社名の記された看板が掲げてある。日本有数の企業である黒城グループと比べてはいけないのかもしれないが、その外見からして、随分とこぢんまりとした会社らしかった。
事前に調べた情報によると、株式会社GREDは製薬会社らしい。下請け中心の中小企業で、同じ分野に属する大企業からの発注を請けることで、業績を上げているとホームページには書かれていた。黒城グループもその得意先の1つだ。またページを読んで初めて知ったのだが、黒城グループではわずか半年前に、製薬部を社内に立ち上げたばかりだそうで。その影響もあっていま、都内で最も活力のある熱い企業なのだ、というのがGRED社長からのコメントだった。
会社の入り口へと社員や客人を導く、5段しかない階段の脇にはツツジが植えられ、花こそ開いてはいないものの景観の良質化に一役買っている。歩道に面しているため会社の前を通り過ぎる人は多いが、足を止める者はいない。仁はしばし、その白亜の箱を見上げ、それから意を決して階段に足を乗せた。
「こんにちは、ようこそいらっしゃいました」
自動ドアをくぐり抜けると、いきなり女性からの挨拶が飛んできた。仁は辟易しつつも、軽く頭を下げる。その後でいつものスマイルを思い出し、機械的に口端を上げた。
女性は20代後半くらいにみえた。エレベーターガールのような桃色の正装に身を纏い、体の前で手を組んだ姿勢で折り目正しく頭を下げている。ようやく上げた顔にも、笑顔は溢れている。自分と同じ営業スマイルの使い手か、と仁は何だか彼女に対して親近感を抱く。
しかしその首にネームプレートがかかっているのを認めると、気を引き締めなおした。そこに書かれている個人の役職や名前はもちろん異なるものの、そのネームプレートは仁がボールペンの記憶から引き出した映像にあったものと、まったく同じものだったからだ。
「本日はどのようなご用件でしょうか?」
女性は真っ赤な唇を緩めて尋ねてくる。仁は少し考えた末に、ここは嘘を交えることなく話をすることに決めた。
「実は、ちょっと知人の子を預かってるんだけど、その子のことで急遽伝えなくちゃいけないことがあるんです。お仕事をここでされてる、と前に耳に挟んだことがあって、悪いと思いつつも仕事場まで来ちゃいました。楓さん、って方なんですけど。いらっしゃいますか?」
到るところを伏せた、掴みどころのない説明になってしまった。女性は怪しむのではないか、と心配をしたが、それは杞憂だったようで、女性は目尻の皺をさらに深くした。
「楓さんですね。少々お待ちください」
女性はくるりと体を回転させると、入り口の正面にある受付台に向かった。そこに置かれている電話で連絡をとるつもりなのだろう。
仁はとんとん拍子でここまでこれてしまった意外さと、本当に現れるのかという緊張感に包まれていた。受話器を耳に当て、何事かを話している女性から視線を外すと、手持ち無沙汰に周囲を見渡した。
建物の外見と同じく、床や壁、天井にいたるまで白で統一された室内。仁の今立っている場所はロビーに当たるらしく、受付とそのすぐ側にある吹き抜けの階段、部屋の隅に置かれた観葉植物以外はがらんどうとしていた。床は大理石で、天井からの照明を乱反射し、輝いているようにみえる。
仁はその1つ1つを具に観察しながら、清潔感はあり、精錬された雰囲気はあるが、どことなく物悲しいな、という印象を持った。熱い企業ではなかったのか、と仁は社長のコメントを頭に思い起こす。これではクールな企業、と説明したほうが正しいのではないか。
女性の話し声以外に物音は一切せず、ここで何百もの人間が一丸となって働いていることすら疑わしいほどだった。人影もない。自動ドア越しに外を見ると、そこに歩道にひしめく人ごみがあり、なぜだかそれを見ていると孤独が癒されていくような安心感を覚えた。
しばらく漫然と外の景色を眺めながら時を過ごしていると、階段を下る音がロビーに響き始めた。床を革靴で小突く、実に小気味のいい音がだんだんこちらに近づいてくる。
階段を下り、現れたのは、腹がゴムボールのように膨らんだ冴えない中年男性だった。半袖のワイシャツにスラックスを履いている。黒縁のメガネに、短く切り揃えた縮れ毛。鼻の大きいその顔立ちは、ぬいぐるみの熊のような愛嬌があった。へっぽこくま太郎、という葉花の比喩は実に的を射ている。
仁は唇の片端だけを上げるようにして、笑みを浮かべた。階段のステップからロビーに着地し、腹をぶよぶよと揺らしながら現れたのは間違いなく、半年前、仁の家に駆け込み、葉花を捨てて行ったあの男に違いなかった。
男、楓氏は、ロビーの中央で毅然と立つ仁に気づくと、その表情に分かりやすいほどにはっきりと驚愕を広げた。
「君は、まさか」
緊張を鎮めるよう意識しながら、仁はゆっくりと楓氏に歩み寄った。それでも心臓の鼓動は速度を変えず、むしろ彼との距離が縮まるごとに、どんどん小刻みになっていくようだった。
「久しぶりですね。僕のことを覚えててくれたなんて、光栄ですよ。ほんの一瞬、会っただけなのに」
仁が皮肉を込めて言うと楓氏は唇を噛み、顔を曇らせた。ところが受付の女性に目をやると、一転して穏やかな表情になり「確か、応接間は開いてたよね。君悪いんだけど、主任にしばらく席を外すと伝えておいてくれるかな。大切な、お客様なんだ」と伝えた。
女性は首を少し傾げ、仁と楓氏とをしばらく比べるように目をきょろきょろとさせていたが、すぐに快い返事を残して階段へと駆け出していった。
「せっかく来てくれたんだ。立ち話もなんだから、こっちに」
どこかぎこちない素振りで楓氏は仁を呼ぶと、踵を返し、階段とは逆方向に歩き出していった。仁は無言でその背を追う。大理石の上に、2つの足音が白々しく反響していく。
互いに沈黙を守ったまま、受付の裏手のほうに隠れていたドアへと向かう。楓氏がドアノブを捻り、ドアを押し開いて入室すると、仁もそれに続いた。
室内は低いテーブルと、それを挟んで向かい合うソファーがあるだけの、明らかな応接室だった。その床もロビーと同じ、大理石だ。壁際にはガラス棚が置かれ、その中にはトロフィーや賞状が何点か飾られてある。今まで締め切られていたためか、若干、蒸している。楓氏はテーブルの上のリモコンを操作してエアコンを起動させると、窓のカーテンを開け放し、部屋いっぱいに光を取り込んだ。
「せっかく来たのに、こんな蒸し暑い部屋で悪いね」
楓氏は仁に顔を向けることなく、窓の外に向かってそう謝罪した。仁もまた、楓氏に視線を向けずにトロフィーを眺めながら答えた。
「いえ、お構いなく。暑いのには、慣れてますから」
それからどちらともなく、楓氏と仁はソファーに腰を下ろし、相向かいになった。少しすると、先ほど受付にいた女性がノックの音と共に入室をしてきて、恭しくホットコーヒーを2つ置いていった。2人の間に漂う、険悪な雰囲気を嗅ぎ取ったのか。女性は不審げに眉を曲げると、空になったお盆を抱え、足早に出て行ってしまった。
エアコンの空調が徐々に効果を発揮し始め、少しずつ全身の気だるい感覚が抜けていくようだった。この部屋に入ってから、どのくらいの時間が経過しただろうか。この重苦しい空気は、仁の心を岩石に変えていくようでもあった。
仁も楓氏も、俯いたまま、互いの顔を見ようともせず、ただ悪戯に時が過ぎるのを待っている。互いに無言で相手の発言を譲り合っている、と言ってもいいのかもしれない。実際、仁はそのつもりだった。そしておそらく、楓氏も同じことを考えているのだろう。先ほどからちらちらと、こちらをしきりに窺っていることが、何よりの証拠だった。
痺れを切らした仁は顔を上げ、口を開きかける。しかし楓氏のほうが一歩、早かった。
「確か、君は仁君、だったか」
「……はい、そうです。よくご存じで」
「葉花は、元気かい」
仁は楓氏の言葉に、腹の底から噴出すような苛立ちを覚えた。自分で葉花を捨てていったくせに、その言い草はなんだ、と怒りが口を突いて出そうになる。しかしこれからの展開を考慮すると、感情に流された発言をしてしまうことだけは避けたかった。
しかし、心の底で一旦煮えた思いを冷ますことは容易ではなく、仁は自分をコントロールしながらも己の本心を伝えた。
「本当はあなたに会いたくなんてなかった。……けど、折を入って頼みたいことがある。だから、ここに来たんだ」
「……どうして、この場所が? 葉花に教えていたかな」
楓氏はコーヒーカップに口をつけながら、言った。仁は何も入れていないコーヒーを手持ち無沙汰にスプーンでかき混ぜながら答える。
「葉花があなたを信じたその思いに、導かれたんだよ。僕は」
「葉花が、俺を?」
「皮肉なことですけどね。葉花はいい子ですから。お父さんがいつか迎えに来てくれる。誕生日までには戻ってきてくれる。毎日のように、そう言ってます」
去年は金色のボールペンをもらった。今年は何がもらえるだろうか。目を輝かせ、そのときを心待ちにしている葉花を頭に思い浮かべ、仁は痛ましく思う。あの子の純粋な思いを踏みにじるのか。そんな詰問を込めて、仁は楓氏を正面から睨んだ。
「そうか……」
楓氏は呟くと、天井付近の虚空を仰いだ。目を細め、何かを想起している様子だ。その瞳に映る葉花の姿は、どのくらい正確に描写されているのだろうか。その姿が現実を模っていることを、ただ仁は祈るばかりだった。
「葉花は今、熱を出して苦しんでる。あなたが、必要なんです。お願いします、一緒に、家に来てください。今は、彼女を安心させてあげたいだ」
お願いします。もう1度、頭を下げて懇願する。しかし楓氏の表情は優れなかった。
「葉花は、君に任せたはずだ」
楓氏は目を細め、仁を見た。彼の置いたコーヒーカップは、すでに空になっていた。
「学費だって、学校の方に毎月支払ってる。食費やもろもろの生活費も、出せと言うならいくらでも出そう。だからもう俺に、出る幕はないはずだ」
「もう帰らない。葉花に会うことはない。その発言はそうとっても、いい?」
問いかけながらも、その答えを聞くのが恐ろしく、耳を塞いでしまいたいくらいだった。実際、掌が浮き、肩が上がりそうになるのを必死にこらえていた。
しかし、彼は当然のことながら、答えた。
「ああ。俺は帰らない。もう、葉花の元には、いけない」
それは宣告だった。父が娘に投げつけた、離別の宣言だ。仁は呼吸が止まるほどの衝撃を受けながらも、酸素を細かく鼻から胸の中に取り込んで、喋った。
「それは冗談……では、ないです、よね?」
「こんなこと、冗談で言うはずがない」
「言って欲しかった」
「期待に添えなくて、悪かったね。だけど、俺は君に葉花を託したはずだ」
楓氏の語調にはどこか他人事のような、無責任な雰囲気があった。彼は肉付きのいい頬を、微かに動かした。
「葉花のことを大事に思っているなら、君が側にいてやって欲しい。頼む」
「それでも、父親?」
今度は口から冷たい外気を取り込みながら、仁は楓氏を睨んだ。しかし楓氏は鼻に皺を寄せただけで、そのしれっとした顔を少しも崩さなかった。
「そうさ。これでも俺は、葉花の父親だ」
「確かに、あなたは僕に葉花を任せた」
現実には押し付けた、という表現の方がより正確なのであるが、仁はその言葉を用いることは避けた。葉花のことを迷惑に思っているようなニュアンスが、その発音には含まれているように思えたからだ。
「僕だって葉花の側にいて安心させてやりたい。だけど、やっぱり、ダメなんだ。どうしても、あなたには勝てない。血の繋がりには勝てないんだ。それを、今回で思い知らされた」
仁は腿の上で組んだ手に、そっと視線を落とす。もはやこの手は、葉花に触れることさえできない。ハクバスの言うとおりだ、と思った。自分の存在は彼女を苦しめる原因にしかならない。
「そんなことを言ったら、白石が悲しむよ」
楓氏はメガネのレンズの奥に、憂いを湛えて言った。仁は眉をひそめた。彼の指す白石とは、アメリカを放浪している仁の義父のことに違いなかった。
「やはり、あなたは義父さんの……」
「彼とは、中学以来の友人でね。君のことももちろん知っていたよ。君を養子として施設から迎えるとき、相談にも乗ってやった。君とも小さいときに会ったんだけどね。覚えてないかな?」
「引き取ってもらって、しばらくはごたごたしていたから……でも色々な人が立ち代り会いに来ていたのを覚えているから、もしかしたらその時に会ったのかも」
「彼には友人が多いからね。あのざっくばらんとした性格のせいか、奴は昔からクラスの人気者だった。だから、君を引き取るときも、多くの仲間が駆けつけて祝福したり、手伝いを申し出たり……色々やっていたもんさ。こういうことがあると、改めてあいつの人望の厚さを思い知らされるよ」
仁は頷いた。義父の交友関係の広さと、信頼感の深さは、菅谷や先日会った天村氏を通じて知っていた。時々、義父の友人だと称する人々が『しろうま』に客として尋ねてくるが、そこでも義父をよく言う人はおれど、悪く言う人は皆無だった。
皆に好かれ、慕われている義父。サイコメトリーという奇妙な能力のせいで卑屈になり、塞ぎこみ、学生時代に京助以外のろくな友人ができなかった仁とは、見事に対照的な立ち位置に彼はいた。そんな義父の纏う虹色のオーラは仁にとって眩くもあり、逆に重い期待を気負わされることにもなった。
仁は苦い思いを心の中で噛み潰すと、話を元に戻した。
「だから、葉花を僕のところに置いていったんだ。義父さんに期待して」
「あぁ。彼が友達の子どもを預かっていることは知っていたからね。すごく勝手な話で恥ずかしいけど、頼りにしていたんだ。あいつなら何とかしてくれる。そういう甘い考えがあったことは、否定しないよ」
佑のことだ、と仁は得心する。楓氏はどこかで天村氏と義父の関係を知ったのだ。そして願わくは、自分も、とその恩恵を授かることに決めた。
「……だけど、義父さんはいなかった。あなたは、父が長い旅行に出かけていることを知らなかった」
「あいつは、思い立ったらすぐ行動みたいなところが、昔からあるから予測はしてたけど。まさか、外国を旅しているとはね。予想外すぎだ」
楓氏は苦笑を浮かべた。だがすぐに真顔になり、仁を見つめた。
「しかし、その事実を知っても、躊躇している時間はなかった。葉花を預けることに後ろめたい気持ちもあったからね。俺は君に預けて、逃げた。君は白石が選んだ子だ。君になら、葉花を任せられると踏んだ」
「なんで、葉花を置いていったんだ」
仁は我慢がならず、尋ねた。会話内容から楓氏は悩みぬいた末、葉花を断腸の思いで手放した。そう読み取れたからだった。どんな理由が示されても、仁の楓氏の無責任さに対する怒りは消えないだろうが、酌量の余地が生じるかもしれない。そう期待しての質問だった。
「親が子どもをそこまでしか手放すなんて、それだけの理由があるんじゃないですか? 僕のあなたに対する気持ちは変わらない。だけど、話だけでも聞いておきたい。一体、あなたに何があったんですか? なんで葉花は、あなたに置き去りにされなきゃいけないんですか」
興奮で自然と、仁の体は前のめりになる。楓氏は所在なさそうにコーヒーカップを掴むが、もうそこに何も注がれていないことに気づいて、すぐに手を離した。
そして仁に目を向け直すと、無言で首を横に振った。
「言えない。君にも、葉花に迷惑をかけていることは分かっている。だけど、これだけは、言えないんだ。他言無用と約束したし、きっと君も信じない」
「約束? 誰と?」
仁はついに立ち上がり、テーブルに両手をついて、楓氏に顔を近づけた。楓氏は落ち着いた物腰でそっと視線を逸らし、窓の外を見やっている。
「信じられないって、一体、どういうこと?」
仁は一瞬、感情に流されるまま、ここ二週間あまりの期間に起こった物事を全て暴露してしまおうかとも思った。荒唐無稽な物事を嫌というほど経験したいまの自分なら、どんな事実に直面しようとも驚愕しない自信があった。しかし口を開こうとして、ぎりぎり思いとどまった。
楓氏から体を離し、熱を冷ますために深く深呼吸をしてから、ソファーに座り直る。自分の顔に触れると、これまで生きていた内で感じたことのない熱が、頬を覆っていた。慌てて、カップを引っつかみ、黒々としたその液体を口の中に放り込む。コーヒーは冷房の風を浴びていても、まだそれなりの温度を保っていたが、感覚が麻痺しているのか、それとも頭に昇った血の温度のほうが高いからなのか、不思議と舌に痛みは感じなかった。
「あなたに、どんな理由があっても」
仁は相変わらず視線を外に向け続ける、楓氏の横顔を見ながら言葉を紡ぐ。楓氏はこちらを一瞥したが、首まで向ける気はさらさらなさそうだった。しかし仁は構わず続ける。
「葉花にとって、あなたはたった1人の父親なんだ。家族なんだ。この際、葉花とずっと一緒にいてくれとは言わない。一目で良いから、葉花に会ってやって欲しいんだ。お願いします」
仁は深く頭を下げた。自分が怒りで感情を突き動かされようとも、理性を失わずに済んでいるのは、瞼の裏に葉花の憂い顔がちらつくからだった。そんな顔、葉花には似合わない。彼女にはいつでも元気でいて欲しいから、幸せになって欲しいから、仁は無我夢中になる。ソファーから降りると、今度は床に膝をつけ、掌をつけ、楓氏に向かって土下座をした。
「お願いします。葉花を、見捨てないで。あの子は何も悪くない。本当にいい子なんだ。でも、僕じゃダメなんだ。あなたじゃなくちゃ、ダメなんだよ。あの子を救えるのは、あなたしかいないんだ」
頭を下げ、床に額をつけて仁は哀願する。胸をつまらせ、感情に支配されながら、何度も何度も土下座を繰り返す。
「もういい、仁君。頭をあげてくれ」
頭上から降ってきた楓氏の言葉に、仁は顔をあげた。見ると、楓氏は困ったような表情でメガネのフレームを持ち上げていた。そのレンズの向こうにある瞳が、わずかに潤んでいるのを仁は見逃さなかった。
「何度言っても、無理なんだ。もう手遅れなんだよ。俺は葉花ともう会うことは許されない。俺だって辛いんだ、わかってくれよ」
「辛いなら、何で葉花に会ってやらない。僕だって辛い、あなたも辛い。だけど、一番辛いのは葉花のはずなんだ!」
「そんなこと、君に言われなくても分かってる!」
楓氏は興奮に顔を赤くしていた。ソファーから立ち上がり、上擦った声をあげる。その怒号に、仁はたじろいだ。
「俺だって、あいつと一緒にいたいさ。だけど、もうどうしようもないんだ。だから、せめてもの気持ちで、君に葉花を託したんだ。君なら葉花を幸せにしてくれる。そう思ったからだ」
「そんなの……あなたのエゴだ。葉花は、あなたが帰ってきてくれると信じてる。だから、自分からあなたを探すことなんてしないで、僕の家で待ち続けているんだ。その気持ちを、あなたは踏みにじるっていうのか!」
仁は立ち上がり、楓氏と相対した。鼻息を荒くする、楓氏の顔を真正面から睨みつける。向こうも汗ばんだ顔を、こちらに突きつけているようだった。しかし、仁は引き下がらなかった。ため息と一緒に口から熱気を放出すると、腰を下ろした。楓氏もそれに準じた。
「どうしようもなかったなんて抽象的な言葉で、どれだけ残された子どもが悲しむと思っているんですか。今のままじゃ、葉花が、可哀想過ぎる」
どうしようもなかった。しょうがない。その言葉で思い出すのは、ハクバスが鏡の内側から投げかけてくるあまりに身勝手な声。仁はそのセリフに今や嫌悪感すら覚えていた。もがく前から諦めることは、結局、自分に対する言い訳に過ぎない。
楓氏の顔から紅潮としたものが徐々に消えていく。仁は彼の真一文字に結んだ唇を見つめながら、突如、あることを思いだした。
「……葉花の母親は、どこにいるの? 葉花は一度も会ったことがないって言ってた。あなたなら、知っているでしょう?」
「知って、どうするつもりなんだ」
楓氏の語調は、静かな焦燥を孕んでいるようだった。仁はその一言に込められた迫力に戸惑う。返す答えが瞬時に見つからず、無言のままで言うと、楓氏は乾いた笑みを唇に湛えた。それは無知な仁を、そして運命に抗うことを諦めた自分自身を非難する、両方の意味をひっくるめた嘲笑のようにみえた。
「会うつもりなら、止めておいたほうがいい。それは、時間の無駄さ」
「……一体、それはどういうこと?」
「教えよう。葉花の母親は、すでに死んでいる。だからいくら探しても、会うことはできないんだ」
仁は声を失った。予想をしていたこととはいえ、葉花の血縁者からはっきりと事実を告げられると、心を抉られたような痛みが全身に駆け抜けるようだった。
「それを、葉花は知ってるの?」
「知らないはずだ。俺は話してない。だが、勘付いているかもね。親の欲目かもしれないけど、あの子は、頭のいい子だから」
葉花は、家庭の事情で自分に母親がいないと言っていた。そこに母の死亡という意味合いは込められていたのだろうか。それを語っていたときの彼女の仕草や語調を思い返そうとするが、うまくいかない。
だが、葉花が頭のいい子、という楓氏の発言だけは同調できた。葉花は人の心の動きを読み取る力に長けている。母の死という事実に、とうの昔から気づいていたということは予想できた。だからこそ、葉花は母親の所在について父親に尋ねなかった。男手1人で育ててくれた父親を困らせないようにするために。
楓氏は少しソファーから腰を浮かせ、尻に手をやると、スラックスの後ろポケットから手帳を引き抜いた。皮の手帳で、表紙には小さくDIARYとだけ金色で記されており、とても薄い。彼は手帳を素早く捲ると、半ばまできたあたりで止め、そこに挟んであった小さな紙を手に取った。
ねずみ色をしたその紙は、どうやら新聞の切抜きのようだった。四つ折にされていたそれを、丁寧に展開していき、それから紙面を向けて、仁のほうに差し出してきた。
「彼女はある事件に巻き込まれて、死んだんだ。俺も後から知った。それほど大々的に報じられたわけでもなかったが、新聞に掲載はされていた。これが、その切抜きだ。見てみるといい」
仁は一度、楓氏の顔を見やってから、その切抜きを受け取った。
住宅地で流血死体発見。そう見出しがついていた。日付は去年の11月になっている。切抜きの大きさからしても、それほど大きな事件でなかったことは確かだ。ざっと文面に目を走らせたが、事件の起こった日時と被害者、それと状況を軽く伝えるに留めた詳細が書かれているだけだった。
そして左端のほうに、女性の白黒の顔写真が掲載されていた。快活そうな女性で、目が大きい。髪は後ろで束ねていた。粗い画質のせいで、細かいところまでは分からないが、どうやら目の下に傷のようなものがあるようだった。
名前の横には37、と年齢が書かれていたが、20代だと言われたらそうなのかと納得してしまうほどとても可愛らしい顔立ちをしていた。幼く、無邪気な雰囲気がこの写真を通じても滲み出ているのが分かる。
一通り、事件のあらましに目を運んだあとで、仁は顔を上げて楓氏を見た。
「犯人は、捕まってないみたいだね。これを読むと」
「物騒な話だ。俺がこの事件を知ったのは、ここ最近のことなんだよ。テレビではもちろん放映されなかったし、雑誌や他の新聞にも載ってなかったんだ。たまった新聞をチリ紙交換に出そうと思って整理してたときに、偶然見つけたくらいさ」
仁は不思議に思った。白昼、しかも住宅街のど真ん中で殺人事件が起きたというのに、この扱いはあまりにも小さすぎないだろうか。テレビのワイドショーで取り上げ、何日もかけてマスコミが周囲に聞き込みを回ってもいいくらい、重大な事件のような気がしてならない。しかし、今、そんなことを考えてもどうにもならず、仁は切り抜きを裏に返してテーブルの上に置いた。
彼はそれを受け取ると、ふっと笑みを零し、なぜだか自慢げに頷いた。
「この被害女性が、葉花の母親だ。どうだい、驚いたかな?」
楓氏の発言に、仁は記事に映っていた女性の顔と葉花とを知らず知らずの内に頭の中でだぶらせている
鎧の話 16
紫髪の老婆に先導されて玄関をくぐり、直也は船見家のリビングにたどり着いた。
船見トヨ、とその老婆は名乗った。船見家の関係者にそれほど苦労することもなく、行き当たることができたことに、直也の心は自然と踊った。
「やっぱり、お婆さんもマスカレイダーズの一員なのかよ?」
浮き立つ心に流されるまま思い切って尋ねると、トヨは肩越しに直也を振り返り、鼻を鳴らした。
「一員か、だって? 寝ぼけたこと言ってんじゃないよ。私は一番上さ。マスカレイダーズのボスは、私だよ」
年寄り舐めんじゃないよ。さらにトヨは乱暴な口調でそう付け加えた。
直也はしばらく、トヨの発した言葉の意味を上手く呑みこめずにいた。しかし時間が経過するごとに、だんだん解釈が追いついてきた。そして完全にトヨの発言を理解したとき、そこにわき上がった感情は、驚愕だった。
「な……!」
トヨの自信に満ちた言葉は、冗談であるようにも思えず、直也は当惑しながらその場で立ち尽くした。表情を凍らせた直也に気付いたトヨは、不意に足を止めると、意地悪っぽく言った。
「そういえば、お前さんがオウガ持ってるんだってねぇ。隠さなくていいよ。別に私は、あんたから奪い返そうなんて考えちゃいないんだからね。どうやって盗み取ったのかも、不問にしといてやるよ。感謝するんだねぇ」
脅すように言って、トヨは再び歩き出した。そしてもう直也を振り返ることもなく、左手側にあるドアの向こうに消えていってしまった。
また一人、直也は見知らぬ廊下に取り残される。
トヨの発言は、明らかな牽制だった。私はあんたのことは何でもお見通しなんだよ。そう釘を刺されたかのような不安感が胸を過る。ゴンザレスの奪ったオウガを奪い返した時点で、直也は船見家に対し大きな弱みを握られていることになる。
我に返った直也は、確かめるようにズボンの上からポケット内にあるプレートに触れる。服の上から撫でたその固い板は、当然のことながら不思議な温もりがあって。元あった場所に帰ってきたことで、オウガの装甲が嬉しさに悶えているような、そんな気がした。
船見家のリビングは、ソファーと四人掛けのテーブルの置かれた、それほど広くはなく、かといって狭すぎもしない。一般家庭並のスペースだった。床はフローリングだった。壁際にはクローゼットやタンスがずらりと並んでいる。窓のカーテンは開け放たれており、その前では安楽椅子がのんびり揺れながら日光浴をしていた。
直也はトヨに勧められ、テーブルの椅子に腰を下ろした。トヨもまたその正面に座る。しかしすぐにまた立ちあがると、のれんで塞がれた部屋の奥の方に姿を消していった。
訝しいものを感じつつ、取り残された直也は室内をぐるりと眺める。静かだった。外からの音が入ってくる以外、家の中は静まり返っている。マスカレイダーズのメンバーどころか、トヨ以外に人はいないようだった。携帯電話を失った今、拓也に会えないことは少し残念だったが、ゴンザレスがいなかったことには安心した。あの着ぐるみとは、できれば二度と顔を合わせたくはないところだったからだ。
かといってこれから会話を仕掛ける立場であることを考えると、あまり動きまわることも得策とであるとは思えず、直也はぼんやりと壁際を眺めていた。壁の鴨居に沿う形でずらりとぶら下がった提灯の行列にも度肝を抜かされたが、さらに目を引いたのは、その提灯行列のちょうど中央あたりにある切れ目に掲げられた、男の写真だった。
眉が太く、丸顔だ。もみあげが長い。年齢は、40かそこらのように見えた。黒いフレームの内側でほほ笑む男の姿は、どう見ても遺影のようだった。実際、そうなのだろう。写真の下には、まだ新しい花がぶら下がっている。
しばらくそれを見上げていると、やがてトヨが帰ってきた。腰の曲がった不確かな足取りで、両手に持ったお盆を運んでくる。その上には茶碗に注がれた緑茶と、カステラが乗っていた。
「一応、お客さんだからねぇ。こういう時こそ、気の利く年寄りだってことを見せつけるいい機会なんだよ」
「あ、別にお構いなく」
「あんたは黙ってな。これは、私の問題なんだからね。茶も出さない意地悪ババァと世間に思われたくはないのさ」
よっこらせ、と調子を合わせながらトヨはお盆をテーブルに置く。そして自分も先ほどと同じ席に座ると、茶碗をそれぞれ自分と直也の前に下ろした。彼女の手は寄る年波の影響なのか細かく震えており、直也は緊張しながら茶碗が着地するまでを見守らなくてはいけなかった。
「あ、どうも」
「さて。世間話はいらないから、さっさと用件を話しなよ。せっかくの場だ。何でも聞いてやる。出血大サービスだ。運が良かったと思いな」
トヨは元々皺だらけの眉間に、さらに深く皺を刻んで言った。その鋭い眼光がこちらを射抜くようだ。直也はその言葉に甘えることに決め、さっそく話を切り出した。
「じゃあ、単刀直入に言う。実は仕事上の調査で、ある事件について追っていて。それで様々な情報をかき集めていた中で、この家にたどり着いた。なんで今日はお婆さん、あんたに話を聞こうと思って来たんだよ」
「仕事?」
「あ、俺、探偵なんだよ。紹介遅れたけど」
直也はカーゴパンツのポケットから財布を取り出すと、そこから名刺を引っ張り出してトヨに渡した。トヨは目を細め、その名刺を目線の高さまで持っていくと、まじまじとそれを見つめるようにした。
「なるほど。それはごくろうなことだね」
「それで訊きたいんだけど。鉈橋、という名字に心当たりはないか?」
「鉈橋?」
トヨは直也が出した名に、目を丸くした。そして今度は頬のあたりを、砂でできたトンネルが崩れるように緩ませる。
「随分と、懐かしい名前が出たねぇ。久々に聞いたよ」
「ってことは、知ってるのか?」
直也は確信を滲ませて問いかけた。トヨは楊枝で羊羹を刺しながら、僅かに目を皺の中に埋もれさせた。それが遠くを見る、という動作であることに気づくのには時間がかかった。
「あぁ。知ってる。悲しい一家だった。子どもは死んで、両親は失踪。無理心中したとも考えられているらしいけどね。もう3年も前のことだよ」
「それは、鉈橋そらの事故と、姉のきよかの失踪事件に関わることでいいんだよな?」
トヨは直也の表情を一瞥すると、浅く頷いた。直也は心の中で指を弾き、ビンゴ! と叫んだ。やはり鉈橋家と関わりのあった船見家とは、この一家のことで正解だったのだ。
「実は群馬の山奥で、両親らしき身元不明の死体が見つかったっていう話はあるのさ。新聞とかテレビとかではやらなかったけどね」
「両親だけ? 姉の方は?」
さらに追及しようとすると、トヨが睨んできた。直也はそのあまりに冷やかな視線に少なからず動揺を覚える。しかしトヨは鼻から長い息を吐きだすと、口を再び動かした。
「最近の探偵は自分で調べることを知らんのかねぇ。まったく、ゆとり教育の弊害だね、こりゃ」
「ゆとり教育は関係ないし、だからこそ今、調べてるんだろ」
「そういうことじゃなくてさ……まぁ、いいよ。姉の方は、両親と違って本当に音沙汰ないね。ま、女の体切り取って喜ぶゲスがいるような世の中だ。もう生きちゃいないだろうね、どのみち。日本も随分怖い国になったもんだよ」
「いなくなる前に、なんか変わったことがあったとか。そういう情報はなかったのか?」
直也は訊きながら、自分がこの事件についてほとんど何も知らないことに気付いた。これではトヨに揶揄されるのも当然だ、と少し申し訳ない気持ちになる。しかし、ここではあえて恥を捨てるべきだとも考えた。聞かぬは一生の恥、という諺を思い出す。真相に迫るには、体裁や周囲からのイメージなどかなぐり捨てなければいけない。
「そうだねぇ……妹が死んでから、ずいぶん塞ぎこんじゃったとは聞いたねぇ。すごく妹のことを可愛がっていたらしいから、相当ショックだったみたいで。仕事も辞めちゃって、引きこもっていたらしいよ」
直也は頷いた。恋人を突然失った自分には、その気持ちが分かるような気がした。さらに肉親ならばその絶望の深さも相当のものだったろう。直也はその持ち前の行動力で、すぐにその悲しみを犯人探しの推進力に転換できたが、世の中はそんな前向きな人間ばかりで埋め尽くされているわけではない。
その時、トヨがいきなり「あ、そういえば」と呟いた。直也は耳を傾ける。
「どうしたんだよ?」
「そういえば、死ぬ一か月ほど前から、夜中の決まった時間に飛び出していくようになったらしいよ。日中は相変わらず部屋の中で引きこもっていたらしいんだけどさ。それで、そのあたりからだんだん、元の明るさを取り戻していったみたいだね」
「元の明るさを?」
妙な話だと思った。疲弊し、絶望し、暗澹たる気分のまま失踪したというのならまだ合点がいっていたものの、消える寸前に明るくなったとはどういうことなのだろう。一体、彼女の身に何が起こっていたのか。その正体は分からないが、とにかくその深夜の外出時に何かあったことは間違いないようだった。
「その外出先のことは……知らない、よな」
「わたしゃ別に、警察でも探偵でもないからね。付き合いの中で耳に入った話さ。深いことなんか知りゃしないよ。今となっちゃ、あまり関わりたくないことだったしねぇ。犯罪の加害者に対する世間の風は冷たいけど、被害者に対するものもそんなに変わらないもんなんだよねぇ」
被害者に降りかかるのは、同情や憐憫の眼差し、そしてプライバシーを否応なしに暴かれたことに対する社会的な暴力の雨だ。偽善的な言葉を直也は吐き出さなかった。被害者との距離を隔ててしまうのは、誰が悪いでもないのだから。それは、仕方がないことだ。
「そういや随分、詳しいみたいだけど……鉈橋家とあんたとの関係はなんなんだよ?」
質問の順序が前後してしまったが、元々はその繋がりを知るためにこの家を訪問したのだった。トヨは直也に羊羹を勧めると、それからお茶を啜り、飲み干してから答えた。
「家を貸していたんだよ。みんないなくなるまで、鉈橋の一家が住んでいた自宅をね」
「家を?」
「年金もらって、悠々と暮らすのはどうも性に合わなくてねぇ。借家を始めたんだよ。ちょうど何年か前に兄弟が死んで、家が余ってたからね。その第1号のお客様が、鉈橋だったってわけさ」
それは意外な繋がりだった。しかし、鉈橋家の住んでいた家は警察がすでに調べたはずだ。そうなれば尋ねるべきことはたった一つ。
「今、その家は?」
お茶で口の中を湿らせながら問いを投げると、トヨは白眉を曲げ渋面を作った。
「一家離散した家さ。買い手なんか、まったくつかなかったね。もうこの稼業を辞めようかとも本気で思ったよ。家と土地を売れば、はした金でも手に入るからね」
しかし1年前に、突然その家を借りたいという人物が現れたのだという。事情を説明したが、その人物はそれでもいいから、どうしても借りたい、と急いた様子で頼み込んできたらしい。
「まぁ、怪しいとは思ったけど。私としては家賃さえくれれば、どうでもよかったしね。今月まで欠かさず金は振り込まれているし、別に周囲とトラブルを起こしているわけでもなさそうだしね」
「変わった人もいるもんだな。借りたのは男? 女?」
「男だよ。もう顔すら覚えてないけどねぇ。家の鍵を渡して以来、会ってないから。年をとると記憶も弱くなって困るよ」
「その家は、一体どこに?」
トヨは埼玉県の東側に位置する、ある町の名前を口にした。ここから車でも2時間ばかりかかるような場所だった。確かに腰の曲がった老婆1人で、そうやすやすと行けるような距離ではない。借り手の風貌に関する記憶が不明瞭という話にも頷けた。
「荷物はどうしたんだよ。その……鉈橋家の」
「貴重品類は持って失踪したらしいけどね。あと警察が鑑識に持って行ったものもあるし。残ったのはこっちで処分しちゃったよ。目ぼしいものは取ってあるけどね。そこにかかってる提灯のいくつかは、あの家に残ってたもんだよ」
直也は反射的に顔を振り仰ぎ、ずらりと並ぶ提灯を見つめてしまう。そのいくつかに、悲劇の末路を遂げた一家の所有物が混ざっていることを知らされると、気味の悪いものを感じた。ネズミの山の中にぽつんと、当たり前のようにビーバーが居座っているような、違和感。
「その家に行ってみたいんだけど、鍵とか、貸してもらえるか?」
「おや、探偵の仕事かい? もしかして、一家の失踪についての謎を晴らそうとか考えているのかい?」
トヨは疑い一つ見せず、むしろ愉快そうに笑いを漏らした。直也は正直に話すべきか悩んだが、この老婆の背後にゴンザレスがいることを思い出し、結局言葉を濁すことにした。
「ええ、まぁ。そんなもんです」
「まぁ、いいさ。ついでに紹介状も書いてやるよ。このご時世に、見知らぬ相手に家を開放するようなマヌケはいないだろうからねぇ」
「あぁ、どうも。本当に助かるよ」
直也は心から、深く感謝を告げた。これでまた一つ、咲の死の謎に近づけたというわけだ。そして鉈橋の家にいけば、さらにその究明も進展するような気がした。きっと、彼女は、鉈橋きよかはそこにヒントを残している。
とりあえず有力な情報を得た一方で、直也にはもう一つ気になることがあった。今の話が社会の表を示した話題ならば、今度は裏面。つまりマスカレイダーと黄金の鳥に関する話題である。
「そういえばもう1つ、訊きたいことがある」
そう切り出してみると、トヨは薄笑いを浮かべて自分の肩を掻いた。弛みきった皺のせいなのか、地肌を爪で掻いているのに、ボリボリという音がすることはなかった。
「ま、ここまできたら遠慮することはないさ。今日の私はずいぶん優しい。そして今日のあんたはずいぶんと欲張りだ」
「真実に近づくためだったら、強欲にもなる。なりふりかまっちゃいられないってことだよ」
そして一拍、間を空けてから直也は話した。倉庫の中に残された大量の虐殺死体。そして天井に磔にされていた船見という名前の男――。柳川刑事からの情報をすべて伝えると、話し出した当初こそにやついていたトヨの表情も、徐々に苦悶が滲んだものとなっていった。
「前にゴンザレスから話を聞いたんだ。数年前に、黄金の鳥の推進派と否定派での抗争があったって。その事件は、それの結果だったんじゃないのか?」
黄金の鳥を祭る集団、蘇生。人の命を自在に操る黄金の鳥に脅威を感じ、それを破壊しようとした組織、白馬。白馬はマスカレイダーズの前身であるという話もまた、1週間ほどの前に公園でゴンザレスから聞いた話だった。
トヨは曲げた口から細い息を吐き出すと、目線を斜め上のほうに動かした。その視線の先を追うと、そこにはあの黒い縁に入った男の写真があった。
「……金銀戦争」
「え?」
「黄金の鳥の色と、それを捉えようとする籠の色をもじって、あの戦いは金銀戦争という名前がつけられた。誰がそう最初に呼んだかは、分からないけどね」
突然物騒な言葉を並べられ、直也はどう反応すべきか迷った。
「……まさか、その戦いのことを言っているのか? あれは、戦争だったのか?」
「正解だよ。お前さんの言うとおりさ」
トヨは写真を見つめたままだった。その横顔を窺うと、心なしか悲しげに歪んで見えた。
「言う通り……って言うと?」
「あの倉庫での戦いは、白馬と蘇生の最終決戦の地だった。あれで、戦いは終わったのさ。"蘇生"のボスを殺してねぇ」
トヨはぎゅっと目を閉じた。それから数秒して開くと、いつの間にかその目の周りは赤く腫れていた。直也は悲観を露にする老婆に目を奪われ、釘付けになる。なんだか、見てはいけない場面に出くわしてしまったかのように感じて、胸が強く絞めつけられる。
「そして白馬のボス……私の息子も、死んだ」
「それが、船見幸助」
柳川刑事が話していた、磔の男。彼は手足に釘を打ち込まれ、天井に取り残され、人間が死体に変わっていく様子を眺めていたに違いない。その気持ちを想像しようとすると、おぞましさに吐き気さえこみ上げてくるようだった。
「天井に磔にしたのは、蘇生のやつらさ。戦国時代で、大将の首を切って手柄としたのと同じだよ。あいつらは、幸助を殺して、さらし者にした。あの子の気持ちを考えるともう、苦しくて、悔しくて、なんで助けられなかったんだろうって、今でも思うんだよ」
トヨの頬を涙が伝う。乾燥した果物のような肌の上を、透明の雫が流れ落ちていく。彼女は目を見開き、歯茎を剥き出しにして、テーブルの上で固めた拳を握り締めていた。
「幸助は、裏切られたんだ。あの子は昔から友達思いでねぇ、お人よしなところがあったんだ。すごく優しい子で、私もあの子のそんなところを自慢にしてたのに。なのに、あいつに、殺されたのさ」
「……立浪、良哉」
立浪良哉。最初のオウガ装着者。白馬を裏切り、リーダーを殺した男。直也は以前、彼に関して拓也からそんな説明を受けていた。立浪良哉は船見幸助を殺害後、"フェンリル"によって追いつめられ、元仲間の手にかけられた。
「私の手であいつを殺せなかったのは、残念だよ。八つ裂きにして、幸助と同じ目に合わせてから、殺してやりたかったのに」
直也は何も答えられずにいた。ライとの問答の直後で、自分の価値観が揺らいでおり、不用意な発言を口にする勇気もなかった。それでなくても、歯軋りをし、顔を真っ赤にして瞼を泣きはらす老婆に対し、「復讐をしても、息子さんは戻りませんよ」などという野暮な言葉をかけられるはずもなかった。
だから直也は無言で、ポケットの中のオウガのプレートを、生地の上からなぞるようにした。トヨの憎悪の矛先にあった人物が、纏っていた装甲服を持っているということに、罪悪感と緊張感、そして沸き立つような恐怖を覚えていた。
「なんで、立浪良哉は裏切ったんだ……?」
誰にもともなく、呟いた。そのはずだったのに、結構大きな声で喋っていたようでその結果、「そんなの、私が訊きたいよ」というトヨの怒りを買ってしまった。そういえば拓也でさえも、彼が組織を裏切った理由に見当がつかないと言っていたことを、今更ながらに思い出した。
俯く直也の前でトヨは嗚咽交じりに、さらに説明を続けた。
「幸助を殺したことに怒りを覚えたのは、もちろん私だけじゃなかったんだよ。同じ白馬の仲間たちもみんな同じ気持ちだった。蘇生にすぐさま、総攻撃をしかけたのさ。そして最後の決戦の場が、あの倉庫だった。そこで磔になっている幸助を発見して、また怒り、そして……」
そこでトヨは口を噤んだ。それからゆるゆるとかぶりを振ると、直也を真っ赤な目で正面から見据えた。
「もうこの続きは話さなくていいだろう? この結果、どういうことが起きたか、もう分かるはずだ」
直也は頷いた。信頼していたリーダーを晒しものにされ、暴徒と化した白馬の一同は感情に突き動かされるがままに、蘇生のメンバーを皆殺しにしようとしたのだ。だが、蘇生の方も黙ってやられはしなかったのだろう。抵抗し、応戦して、そうして、血を血で洗う戦いが繰り広げられてしまったに違いない。そうしてできたのが、柳川刑事が目にしたと言われる屍の山。
そこまで想像したところで、何ともいえぬ虚無感を覚え、直也は押し黙った。二人だけの室内しばし、時計の針の動く音だけがしんしんと響いていく。
鼻をすする老婆との沈黙の対面に、少し気まずさを感じ出し、何か喋らなくてはと思ったところでトヨが口を開いた。重い唇を無理やりこじ開けたかのような、強い語調がその口から飛び出してくる。
「だけどね、私は、あれは罠だったんじゃないかと睨んでもいるんだよ」
「……罠?」
突飛な発言に直也は戸惑う。どう反応すべきか分からず、とりあえず眉をひそめて次の言葉を待つ。するとトヨは骨ばった手で目元を拭い、緊迫した様子で唇を動かした。
「立浪良哉が裏切り、幸助が死ぬ。そして怒りに冷静さを欠いた一同を煽動して、蘇生を殲滅させる。そうするよう仕向けた奴が存在したって話さ」
「……もし、その話が正しいなら。そいつは何のために、そんなことを?」
これまでとうとうと話してきたことを、トヨ自身が根っこから覆そうとしている。しかしそんな説を提唱するからにはそれに見合うだけの根拠があるのだろうと直也は続きを促した。トヨの眼差しは、でっちあげを語っている人間のものではなかった。ならば、耳を傾ける価値はあるはずだ。
「簡単さ。白馬を、自分のものにするためだよ。幸助が着々と作り上げてきた組織を、一晩でそいつは奪い取ったのさ。気づかぬうちに、その主導権をかすめ取っていったんだよ。あのクズがねぇ……」
あのクズ、というのはその黒幕のことを指しているのだろう。トヨはもはやその正体に、行き着いているのだ。
「一体誰なんだ、あいつってのは」
彼女は目元に涙を溜めたまま、口元に笑みを宿した。それは会心の表情だった。ようやく自分の心中を述べることができる相手に行き会ったことを、彼女は心底喜んでいた。
「幸助の死後、まるであの子が死ぬことを分かっていたみたいの、白馬の指揮を乗っ取り、蘇生の殲滅に動いた奴が、一人だけいたのさ。他の奴らは騙せても、この私は騙せなかったよ。だが、あいつを止めることはできなかった。この老いぼれ1人が叫んでも、焼け石に水だった」
考えてみれば、おかしな話だった。リーダーが死んだ直後のことなのに、メンバーは一丸となって蘇生の殲滅に足を向け、フェンリルはすぐさま良哉を追い詰めることができた。確かに、この殺し合いが成功するように、誰か煽動したものが、いるはずだ。トヨはその可能性に気づいていた。
「それは、一体、誰なんだよ?」
直也は、問いかける。この時ばかりは咲のことも、鉈橋家のことも忘れて、トヨの話にのめりこんでいた。いつからか船見幸助を立浪良哉に殺させた、その黒幕の正体を、心底知りたいと願うようになっていた。直也は前のめりになると、トヨに顔を近付けた。
「あの戦いを誘発したのは、一体、誰なんだ」
直也の強い語調に、トヨは自嘲っぽく片頬を引き攣らせた。そしてその首謀者の名前を、顔全体の筋肉を使うようにして、憎々しげに吐き捨てた。
「幸助の妻、船見琴葉。あの殺し合いはね、おそらく、すべてあの女に仕組まれたことだったんだよ」
鳥の話 19
「船見、琴葉?」
さん? とついでのように仁は後から付け足す。楓氏は先ほどの受付係の女性に灰皿を持ってこさせると、わずかに腰を浮かせ、スラックスのポケットから煙草のソフトパックを取り出した。
「煙草、大丈夫かな?」
そう尋ねると同時に、彼はすでに煙草を咥えている。もしここで拒んだら、その煙草をケースの中にまた戻すのだろうかと考えると、何だか悪戯を働かせてみたくもなる。だが場の空気がそんな臭いを放っていないことに気づき、仁は軽く顎を引いた。
「これでも一応、喫茶店の店主ですから。僕は吸いませんけど、煙草の煙には割と抵抗少ないんですよ」
「そうか。白石の跡を、君が継いだのか」
感慨深げに呟くと、楓氏は煙草に火をつけた。糸のような煙がその先から立ち昇り、彼は目を閉じて、うまそうにニコチンを体内に取り入れた。
「船見琴葉って人が、葉花の母親なの?」
つい数分前に、楓氏が説明してくれたことを確認の意味で仁はいま一度訊き返した。謎の事件に巻き込まれ、道端で死亡した女性。新聞に小さく掲載されていた、目の下に傷のある彼女の相貌を仁は脳裏に蘇らせる。確かに、あの純情可憐な少女のような顔立ちは、しっかりと葉花のDNAに受け継がれているようだった。
楓氏は口から煙草を抜き、灰色の煙を天井に吐き出した。
「ああ。そうだよ、葉花は琴葉の娘。顔だって、ちょっと似てるだろ? 葉花は母親似なんだ。名前も母親の文字を一つとってつけた」
「でも、船見って?」
船見、という耳慣れない名字には何だか含蓄がありそうだった。彼女と楓氏とが結婚をしていたならば、その名字もまた楓になるのが、まだまだ日本では一般的な道理であるからだ。しかしすぐに仁は葉花が今日会話の中で口にしていた、"家庭の事情"という言葉を思い出した。
"家庭の事情"という言葉で一緒くたにされてしまった内容が、いまようやく、その全貌を明かそうとしている。
「船見、っていうのはおそらく、どっかの婚約相手の名字なんだろ。俺もよくは知らん。俺と会った時、彼女の名字は榎本だった」
榎本琴葉。そう発音する楓氏の口調は、どこか昔を懐かしむような響きを含んでいた。彼は煙草を灰皿の端で叩き、灰を落としながら、言葉も落とした。
「葉花は非嫡出児なんだ」
仁は身を固くした。しかしやはりそうきたか、と頭のどこかではその回答を予測していた。先ほどの「彼女が死んでいたことに気付いたのが一ヶ月後」という彼の言葉から、すでにそんな事ではないのかと悟ってはいた。
非嫡出児とは、簡単に言ってしまえば、婚姻関係にない男女の間に産まれた子どものことである。その旨は民法上に記されている。母親のほうは、分娩の事実が明白であるため認知の必要はないのだが、父親は産まれてきた子どもが自分の子どもであるかどうか、法的に認知を行う必要がある。
たとえば、できちゃった結婚のようなケースが発生した場合でも、婚姻成立後から200日以降、婚姻の解消から300日以内に産まれた子どもに関しては婚姻中に懐胎したものとしてみなされ、産まれてきた子どもは嫡出児となることができる。
しかし結局、婚姻届を出されないといったようなケースに至った場合、その子どもは非嫡出児として扱われる。非嫡出児は父親との家族関係が成立しないばかりか、親が死亡した場合、その相続額が嫡出児の2分の1になってしまうというデメリットを背負うことになる。
父親は産まれてきた子どもを認知するためには、家庭裁判所で協議を受けなければならない。そうすることではじめて子どもは、父親の戸籍と名字を手にすることができる。だが、認知した父と出産した母がその後婚姻関係に至る、又は、認知した父とその子どもが養子縁組の関係とならない限り、その子は非嫡出子として戸籍に名が刻まれたままということになる。
仁がここまで詳しく知っているのは、かつて、子どもと親を取り巻く法的な環境について勉強した経験があるからだった。インターネットと図書館にあった本を活用しただけの、簡素な独学だったが、自分のように、生まれながらにして社会的な障害に阻まれてしまう子どもが多いことには衝撃を覚えたものだった。
「葉花との、養子関係は?」
重要なことだ。楓氏の目を見て尋ねると、彼はまた煙草を口に持って行きながら答えた。
「審査は厳しかったけど、一応血の繋がりはあるから、何とか通ったよ。だから今は葉花も嫡出児さ。そこは問題ない。あの子の将来のことは、これでも一応考えてる」
「そこまで、上っ面にしか聞こえない言葉もない。その子どもを捨てた父親が、言っていいセリフじゃない」
「葉花は、琴葉に、母親にとって、望まれなかった子どもだったんだ」
仁も楓氏も、先ほどの口論によって大分疲労していた。もう一度、あの興奮を胸の奥から振り絞る余力も残っておらず、俯き加減のまま、囁くような声で会話をしている状態だった。
もう怒りを露にするのも面倒になっていた仁であったが、母の望んでいない、という彼の言葉に嫌な気配を感じて表情を強張らせた。
「非嫡出子だったとか、あえて養親縁組を使ったところとか、嫌な予感はぷんぷんしていたんだけどね……一体、それはどういう意味?」
「一夜限りの、間違いだったんだ」
自分の吐きだした煙の行く先を眺めるように、楓氏はぼんやりとしながら言った。それは罪を告白するような語調ではなく、情状酌量を請う者の、それだった。
「俺と琴葉は、恋人関係ですらなかった。あいつは高校時代の同級生で、当時は話したこともなかったんだ。高みの存在だと、そう思ってた」
楓氏は自分の飛びだした腹を撫でながら、沈鬱とした声を出す。どうやら彼の体型は十年やそこらで形成されたものではなさそうだった。そしてその仕草だけで、彼が自分の外見にコンプレックスを持っていることがありありと伝わってきた。
「琴葉に再び会ったのは、大学時代のことだった。一人で店で飲んでた時、偶然居合わせてたんだ。その時は酔っていたし、高校時代よりさらに綺麗になっていた彼女にのぼせていて、よく覚えてないけど、なんだかよくわからないうちに、俺たちは意気投合することができていた。今考えると、完全に遊ばれてたんだけどね。もちろん、俺のほうは本気だったさ。見ての通り、俺は肉の塊さ。こんないかにももてないような男のもとに、あんな美人がきてみろ。誰でものぼせあがる」
「くだらない前口上はいらない」
仁はふつふつと静かな怒りを体内に滾らせながら、楓氏を睨んだ。
「先を続けて」
「ま。それでそのうち意識を失って気づいた時には、俺は琴葉とホテルにいた」
「ドラマとかで、よくあるよね。そういうの」
「俺も驚いた。なにがどうしてどうなったのか、さっぱり分からない。今でも混乱してる。起きたら、隣で裸の彼女が寝てるんだ。文字通り、飛び起きたよ」
「それで」
仁は下唇を舐めると、深呼吸をしてから先の言葉を継いだ。その事実を口にするだけでも、気が重たかった。
「それで、そこで産まれたのが、葉花ってわけ?」
楓氏は、咥え煙草で頷いた。仁はその瞬間、体の奥底で静かに燃えていた熱い塊が、急激に冷えていくのを感じた。怒りが諦念に変わり、やがて呆れという感情が胸の内を占めていく。
「そうだ。琴葉はまず、妊娠したことを伝えてくるなり、俺に慰謝料の請求を迫った。最初から、それが目的だったのかもしれない。後から友達に聞いた話によると、当時、彼女はかなりお金に困っていたらしいから。俺は俗に言う、おぼっちゃま大学に通ってたし、それに何より女性関係に疎かったから、ターゲットにされたんだろう」
「それにしても、本当に身ごもらなくてもいいのに」
真偽に関わらず性交渉をさせられた、と訴えるだけでも慰謝料はとれるのではないか、と仁は思わずにいられない。かつて、そのような事件が新聞で報じられていた記憶もあった。しかし、楓氏はいつの間にか短くなった煙草を灰皿に落とすと、ため息を零した。
「裁判沙汰になるのを恐れたんだろ。それくらい、彼女は本気だったんだ。好きでもない男に自分の体を捧げてまで、金を求めた」
「彼女の、生活歴とかは分からないの? 何でそこまで困窮していたのか、とか」
「言っただろ? 一夜限りの、過ちだったんだ。俺は琴葉の名前と体と顔しか、知らないんだ。あと通っていた高校と、年齢くらいか。住所も仕事も交友関係も、まるで把握していない」
はぁ、と仁は心底落胆した。彼とのやりとりを続けていると、自分がここに来た意味はあったのか、それさえ疑いたくなってくる。
「琴葉はもちろん、中絶を断固として主張した。だけど俺は、彼女との繋がりが欲しかった」
楓氏は苦悶に顔を歪ませた。そこで苦しみを露にするのは、あんたじゃないだろ、と仁は言いたくなる。あんたもまた加害者だろ。なんで被害者顔しているんだ、という冷淡な思考が頭をひしめいていく。
「だから、俺は考えて考えて、それで父さんの所有していた土地と別荘を勝手に売り払ったんだ。琴葉のお腹の中の子どもを、救うために。なりふり構ってなんて、いられなかった」
「それであなたは葉花を産ませ、認知した。そして、引き取った」
仁は目をあげて、楓氏に視線をやった。その口を突いて真っ先に飛び出してきた感情は、深い軽蔑だった。
「あんたは、最低だ」
ソファーを立つと、体を軽く払い、楓氏を見下ろした。彼はライターを操作し、二本目の煙草に火をともし始めていた。
仁の胸に、再び炎がうねり始める。しかしその熱に浮かされることがないよう、自分をぎりぎりのところで制御しながら、仁は無意識のうちに口を開いていた。
「……僕は三歳の時、両親に施設に預けられた。それから、二人とも一度たりとも面会に来たことはないよ。だから僕の記憶の中の両親に、顔はない。覚えてないんだ。思い出せないんだよ。二人は、僕を捨てたんだ」
夢に出てくるのは、いつものっぺらぼうの両親。仁は二人の素性を知らない。昔の父母を写した写真をみても、正直、ぴんと来なかった。これは自分の両親とは違う、と幼いながらに当時から思っていた。それが本物なのか偽物なのか、今でも、てんで分からない。しかし、一度だけ仁の心に、母親の存在を知らせるベルが鳴り響いた時があった。
「実はその後、母親らしき人と、一回街ですれ違ったことがあるんだ。もちろん、顔も姿も分からない。例え覚えていたとしたって、十年以上経っているんだ外見なんて変わるもんさ。だけど、僕は分かったんだ。血のつながりってもんをその時、初めて感じた。見知らぬ両親の血が、僕の中に流れてる。そう考えると、今でも恐ろしいけどね」
雨が降っていたことだけが、おぼろげな記憶の中に残っていた。なぜ自分が街中を歩いていたのか、どこで母の姿を見たのか、よく覚えていなかった。しかしその脳裏に、今でも鮮烈に残っているのは、心から楽しそうに母と会話を交わしながら歩く、背の高い男の姿だった。
「母は男の人と一緒だった。楽しげに、手を繋いで歩いてた。だけどその男の人とはさ、何も感じなかったんだよ。一発で分かったよ、あぁ、こっちの人と僕とは血の繋がりはないんだな、ってね」
父と母は別れていた。仁は本能で、感覚として、その事実を汲んだ。それが最初で最後の、実親との再会だった。
「あなたと話して、僕はやっと分かったよ。あなたみたいな大人がいるから、僕や葉花みたいな子どもが産まれるんだ。なにが一夜の過ちだ。なにが彼女との繋がりを残したかっただ。あなたたちの一時間の身勝手が、子どもの一生をめちゃくちゃにするんだ。ふざけるのもいい加減にして欲しいよ。人の人生を何だと思ってるんだ……」
まだ罵詈雑言を吐き散らしたい欲求はあったが、ここでいくら感情をむき出しにしようとも、何にもならないことに気がついてもいた。憤怒と憎悪に任せた言葉は、寂しさを増長させるだけだ。仁は楓氏に挨拶をする気にもならず、無言で踵を返した。
「あなたを頼った僕が、馬鹿だった」
「そうか。葉花を、よろしく頼んだよ」
歩き始めた仁の背中に投げかけられた、楓氏の言葉は、思いのほか優しく穏やかさに満ちたものだった。仁は肩越しに楓氏の姿を窺うと、怒りを腹の底に沈めるために息を吸い込み、入ってきたドア目がけて歩を進めた。
「……あなたに、言われなくても。僕が葉花を幸せにしてみせる」
振り返らず、仁はふと立ち止まって答える。それから室内の煙たい空気を振り払うように、仁は足早に応接間から出て行った。
7話完