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6話「二条の息子(後篇)」

鎧の話 13

 いけすかない上司の、中学2年生になる娘が、扉1枚隔てた向こうで服を着替えている。

 なぜこんな状況になったのか、直也自身にも分からない。ただ黙々と、這うような姿勢で床に点々と落ちたソースの雫を布巾で拭う。この時ほど、床一面がフローリングの部屋を借りたことに対して感謝をしたことはなかった。畳部屋だったならば、とうの昔にソースが沁みこんでしまっているところだっただろう。

 落ちた側からふき取ったのが良かったのか、ソースは染みにならず、軽く撫でるようにしただけで消えた。まだ食事の途中だったため、掃除をしながらも腹の虫が鳴る。フローリングが元の姿を取り戻すと直也は腰を上げ、首を軽く回した。

「とりあえずこんなもんかな……と」

 腰に手を添え、捩って、締め切られた脱衣所のドアにふと目を止める。その向こうにあるのは、風呂とトイレ、洗面所の一体化した空間だった。そもそも脱衣所、という名前の部屋は本来なく、便座の前にあるわずかなスペースのことを直也が勝手にそう呼んでいる。だから正確には、ライが着替えているのはトイレということになる。

 汚れた付近を流し場に投げ入れると、直也は意を決してトイレのドアの前に立った。出てきてからでもいいのでは、と思わないでもなかったが、今すぐ質問をぶつけたいという欲求を抑え切ることができなかった。

「おい、ちょっとそのままで訊きたいことがあるんだけど、いいか?」

「なんだよ、覗くなよ?」

「うるせぇよ。お前さ。一体、何しに来たんだよ。この前の話なら、ちょっと待てって言ったはずだろ?」

「うっせぇ!」

 強い語調でライが切り返してくる。直也は眉間に皺を作り、足を一歩前に踏み出すと、ドアに鼻先を寄せた。

「勝手に家に入り込んできて、その言い草はないだろうが! 大体お前はなんでいつも、俺の話を聞かないんだよ」

 返事はない。直也の声だけが室内に白々しく反響していく。直也は濃いため息を1つ吐き出した。

「いいか、ちゃんと今度はちゃんと聞けよ? お前の依頼もそりゃ、俺も受けてやりたい。俺だってお前の気持ちは分かるし、早く犯人を見つけ出して捕まえてやりたい。その気持ちは山々なんだ。だけどな、気持ちと現実は違うんだ。今はその余裕がないんだよ。勝手だとは思うけど、俺には俺のやらなきゃいけないことがあるんだ。後にも先にもこんな機会ないんだ。どうしても今、解決しなきゃいけないんだよ。だから、こっちの用事が済んだら、お前に付き合ってやるから。な、分かったか?」

 一息に、ドアに向かって言葉を並べるが相変わらず反応はない。一体どうしたというのか。苛立ちと不安が胸に波のように押し寄せ、そのさざめきに追われるようにしてドアを一度だけノックする。

「おい、聞いてるか?」

 2度、3度、と続けるがライは無言のままだった。さすがに心配になり、おい、と声を張り上げる。声が天井を反射し、床一面にその音が広がっていくかのようだ。心なしかキッチン全体がぐんと翳りを帯びたようにも感じた。あと1度だけノックしようと、拳を固め、振り上げる。返答があったのはその時だった。

「だったら、おっさんは待てるのかよ」

 直也は腕を耳の横まで引いた姿勢のまま、息を呑んだ。ドア越しに伝わってくる気迫に、圧される。彼女の声は先ほどの快活なものから一転し、悲痛に歪んでいた。

「ディッキーは、可愛い奴だったんだよ。優しい奴だったんだよ。だけど、殺されたんだ。でも、ディッキーを殺した奴はまだ生きてるんだよ。そんな奴がこの辺をなんでもなかったような顔して歩いているかもしれないのに、それでも、待てっていうのかよ」

 ライの言葉1つ1つが、直也の胸には突き刺さっていくかのようだった。咲が殺された後、自分がまず何をしたのか考えれば、聞き込みをして事件に関する情報を収集し、遺留品を調べ、

寝る間も惜しんで犯人を追及したのだった。自分の大切な人を手にかけた、その未来を無残にも奪い去った犯人を自らの手で捕らえたい。

 ライの言葉から伝わってくる信念は、いまの直也の立場と重なるものがあった。その気持ちが痛々しいほどに分かるからこそ、このまま放っておくことはできない。彼女の瞳の奥に佇む闇の深さを、過去の自分に照らしあわせて、推し量る。ドア越しにもそのタールのように黒く濁ったライの瞳が見えるような気がした。

「でも私はバカだから、自分の力じゃどうにもできないんだ。警察だって、アテになんないし、私にはおっさんが、必要なんだよ! なんで分かってくれないんだよ!」

 それは心中で悶え苦しむライの姿が瞼の裏に見えるかのような、懇願の叫びだった。『ノアール』の前で初めて彼女と会った時に見た、あの陰の射した大きな瞳が、不意に脳裏を過る。

「……もし、犯人が捕まったら。どうするつもりなんだよ」

 喉を唾で湿らせてから、直也は慎重に訊いた。少しの沈黙の後、ライは涙声で呟いた。

「ディッキーと、同じ目に合わせてやる。こんな奴が生きてるなんて、許せない」

 それは憎しみに膨張した感情を、具にも隠そうとしない剥き出しの怒声だった。声はか細く、驚くほど低いものとして直也の耳朶を打った。直也は底冷えのするようなその言葉に、ひとつ身震いする。

 同じだ、と思った。記憶の中に住まう3年前の自分と同じ声をライが発している。まるでテープレコーダーに撮った音声が、何かの拍子に再生を始めたかのようだった。

「見つけたら、私は仕返しをしてやるんだ。絶対に……絶対に、許すもんか」

 怨みのこもった言葉を、ライは続ける。直也は右手でドアに触れた姿勢で、頭の芯を深々と貫いていくかのようなその宣言を呆然と聞いている。

 怨恨と殺意の衝動に支配されていた自分を、この常闇から救いだしてくれたのは、誰だったか、と考える。

 答えはすぐに浮かんだ。あきらだ。現在は恋人の関係となっている彼女がいなければ、直也は今でも憎悪に絡め取られ、闇に囚われたままだったかもしれない。あきらが側にいてくれたから、直也は誰も殺さず、犯人を求めて目を血走らせることもなく、冷静に現状を分析できるようになるまで立ち直ることができた。

 直也は、あきらに感謝をしている。そして今度は自分が行動を起こすべきではないか、と思った。ライをこのままにしておけば、自ら破滅の道を突き進んでいってしまう結果になることは目に見えている。ならば、自分が救わなければならない。咲の死に絶望した直也に希望の光をくれたあきらのように、ライの光になれないだろうか。

「だったら、俺はやっぱりお前の依頼を受けるわけにはいかない」

 直也の目に映るのは、12人の女性の遺体が発見された地下室での情景だった。先日姿を消してしまった13人目の被害女性の前に立ち、直也は自分が誰かを照らす光になることを誓った。追い詰められ、怒りと動揺が混ぜこぜになった状況の極限状態だったため思い切って口走ってしまった言葉だったが、今、あの瞬間の高揚した気持ちを想起し、喉を震わせ、舌を動かし、空気に声を乗せる。

「俺は、探偵だ。人の役にはたてても、人を殺人犯にすることなんてできるわけがないだろ」

 断言する。使命感が自分自身を鼓舞させ、声には自然に力がこもってしまう。過去の自分に語りかけるつもりで、言葉を紡ぐ。

「だから、お前がもし、復讐とか報復とかそんなことを考えないなら。俺がお前を救ってやる。探偵として、お前の大切なものを壊した犯人を見つけ出してやる。どうだ、約束、できるか?」

 ドアが開いたのは、その疑問を投げかけた直後のことだった。あまりにも激しく開け放たれたため、ドアの前に立っていた直也は激しく全身をぶつけ、流し台まで吹き飛ばされた。

「分かんないよ、そんなの」

 トイレから飛び出してきたレイは、直也の渡した白いTシャツとスカート姿だった。目のまわりは朱に染まり、瞳は酷く潤んでいる。よく見れば頬には涙の跡が残されていた。その予想以上の悲痛な表情に直也は動揺する。目をそむけたくなるが、努めて直視した。

「お前……」

「おっさんが何言ってんのか、私には全然分かんない! ディッキーを殺した奴を殺そうとして、何が悪いんだよ……ディッキーは酷いことされたのに、なんで私はそれを我慢しなくちゃいけないんだよ! ふざけんなよ!」

「別にふざけてねぇよ、俺は……」

「ディッキーはもういないのに、なんで私が諦めなくちゃいけないんだよ! 怒っちゃダメっていうのか? 大人しくしてろって言うのか?」

「だからお前、ちょっとは落ち付けって」

「落ち付いてられるか! なんで、なんで分かってくれないんだよ……こんなに苦しいのに、悲しいのに、なんでおっさんは無視するんだよ!」

「無視してないだろ、俺はお前のためを思って……」

「そんなこと私がいつ望んだんだよ……もういいよ、バカ。おっさんのバカ!」

 ライは床を蹴ると、猫のようにしなやかで動きで玄関へと疾走していく。

「おい、待てよ、おい!」

 直也はすぐに追いかけようとするが、流し台に腰を強く打ち付けたらしく、全身に力が入らない。足を前に踏み出そうとするが、気持ちに反して体は後ろに引け、その麻痺が伝播したかのように続けて膝がくず折れ、そのまま床にへたり込んでしまった。

 玄関が力強く閉められる音が響き、部屋中がそのあまりの力に震動する。遠ざかっていく歩幅のせまい足音を聞きながら、直也は無念の思いにかられた。

 依頼人を怒らせて突き飛ばされるようでは探偵失格だな、と自嘲のこもったため息を吐く。

 ライの激怒する気持ちも今では、理解できていた。大切な人の死に出会った人は、まず現実を否定し、それから周りが見えないくらいに混乱して、その矛先を憎悪や怒りといった負の感情に持っていこうとする。全て太田所長から探偵の心得として教わったことなのに、失敗してしまった。これでは前所長に顔向けできない。直也はこの散々な結果に己を責めた。

「馬鹿か……また同じオチかよ。たまったもんじゃないな」

 直也は肩を落とすと、再び嘆息を零しながら低いキッチンの天井を見上げる。腰の痛みは大分引いていたが、心に纏わりついたわだかまりが分銅を積まれたかのように重々しくて、しばらく立ち上がることはできそうにもなかった。




魔物の話 15

 その険悪な空気漂う、息苦しい会合がようやく終わり、レイは逃げ出すようにしてリビングから飛びだした。粘り気のある憎悪と憤怒がこびりついているようなこの家から、一刻も早く脱出したかった。このままでは他のメンバーから伝わってくる剣呑な空気に触発され、こちらの気分さえ曇ってしまいそうだ。

 挨拶もおざなりに靴をつま先に引っかけ、玄関から飛び出そうとすると、いきなり呼びとめられた。振り返るとそこには、段田の冷たい眼差しがあった。

「な、なんでしょうか」

 会合中、全員の非難を一身に浴びていた男が今、自分に話しかけている。その事実がレイの心を畏縮させる。段田の細い目で睨まれると、体中のあらゆる汗腺から嫌な汗が噴き出してくる。骸骨のように痩せた体つきも、どことなく心霊じみた不気味な印象を受ける。

「そんなに固くならなくてもいい。まぁ、カニかまでも食いなさいな」

 段田はどこからかまたあの、パッケージに入ったカニかまぼこを取り出し、有無を言わせぬ勢いでレイのズボンのポケットに突っ込んだ。レイはまったく身動きがとれない。「ありがとうございます」と発した声でさえも裏返ってしまう。

「なに大した用事じゃない。お前を呼び止めたのは、そうだな、好奇心とでもいっておこう」

「は、はぁ……」

 好奇心といえば、なぜカニかまぼこがそんなに好きなのか一番気になるところだったが、まさかこの場で訊くわけにもいかず、押し黙る。すると段田は薄い唇を開き、細い眉をひそめた。

「好奇心から聞こう。君は一体、ここで、なんの仕事をしているんだ。まさか戦闘員ってわけじゃあないだろ。あの中で君だけが、異質だ」

 レイはその視線にけしかけられるようにして、慌てて自分のポケットをまさぐった。

「あの、私は一応、怪人の位置をみんなに教えたりしてます……あった、これで」

 ゴンザレスから配布された携帯電話をポケットから引っ張り出し、段田に見せつけるようにする。早くこの場から離れたかった。この男は危険だと、胸の奥でひっきりなしに警鐘が鳴っている。しかし気持ちに反して膝は細かく震え、立ち去ろうとする力をレイから奪う。

「へぇ、なるほど」男は帽子の唾を親指で押し上げ、携帯電話をじろじろと眺めた。レイは段田と目の合うことがないよう、必死に顔を逸らす。さっさと電話をポケットにしまって退散すればいいのだろうが、そうやって注目を浴びているとどうにも引っ込みがつかない。掲げる腕が徐々に痺れを伴ってきた頃、段田は足を前に踏み出し、レイの横を通り抜けていった。

「怪人の居場所が分かるのか……それは、大したもんだ。いや、本当に。人間じゃ、ないみたいだ」

 またあの、葉っぱ同士が擦れ合う音のような笑い声をあげる。その笑いが嘲りなのか、それとも賞賛の微笑みなのか判然としないが、段田が外に消えていった瞬間、一気に体中から力が抜け、レイは床に膝を落とした。

「こんなところで、なにをしてるの?」

 どのくらい、そうしていただろう。レイは後ろからやってきたゴンザレスの声によって、ようやく覚醒した。体を震わせ、振り返る。それから自分の体の感触を指先から確かめるようにして、ゆっくりと腰をあげる。

「ねぇ、楽しい? 廊下で座ってるの、楽しかった? そんなに楽しいならゴン太君も、混ぜてほしいな。やりたいな、廊下でへたり込みごっこ」

「別に。やりたくて、こんなことしてたわけじゃないよ」

「嘘だぁ……へぇ、仲間外れ? ねぇ、ゴン太君、仲間外れ?」

「それよりもゴン太さん。さっきのあの人、一体、何者なの?」

 レイは段田の去っていった先の玄関を見やる。そこには未だ、段田の暗鬱とした残り香が漂っている気さえする。ゴンザレスは大きな頭を傾けた後、しばらくその状態でいてから不意に「あぁ、段田君ね」とくぐもった声をあげた。

「なんか話を聞いてると、みんなの昔のお友達みたいな感じだったんだけど。実際、どうなの?」

 そしてあのカニかまは何、と続けて尋ねたかったが止めておいた。たとえ質問しても、まともな答えは返ってこないような気がしたからだ。

 ゴンザレスは顎のあたりに、大きな手をあてがうようにした。

「ま、君も分かっていたとは思うけど、この組織も古いからね。歴史が、あるんだよ。そのうち君にも、その内容は話そう。彼は、彼が言うように、昔の、仲間なんだ」

「私はずっと、この組織が怪人を倒すために作られたって。そう思ってたんだけど。ゴン太さんだって、確かそう言ってた」

 実のところ今でも、心の片隅ではその情報を信じていた。しかし心のどこかでは、それを否定する自分もいることに気づいてはいた。怪人が現れるようになってから、マスカレイダーが完成するまでの期間があまりにも短すぎやしないかと、前々から疑問に思っていたからだ。打倒怪人とはもともと別の目的で、マスカレイダーズが結成させられたのだとしたらそれにも納得がいく。

 問題は、それをなぜゴンザレスを始めとするメンバーがレイに隠していたかだ。それを口にすると、ゴンザレスは「混乱させたくなかったんだ。怪人の件が終わってから、全てをお話するよ。君を仲間外れにするつもりはないから、安心していいよ。君はあの男と違って、ゴン太君たちの仲間だからね」と穏やかな口調で返してきた。

「黄金の鳥っていうのと、なんか関係してるんですか?」

 それは先ほどの会話の中で出てきた単語だ。黒い鳥なら知ってるんですけど、と言葉を続ける。「一体、黄金の鳥ってなんなんですか? それがマスカレイダーズと関係してるんじゃないですか?」

「それはね。まだ、君が知る必要は、ないんだよ」

 突然、ゴンザレスの表情が変わった。と、感じた。実際には着ぐるみの顔は笑ったままなのだけれど、今の言葉を境界線として、その語調に凄味が加わったような気がした。

 レイは息を呑む。ゴンザレスの笑い顔に、深い影が切りこまれている。

「後で教えてくれるなら……それなら、まぁ、いいけど」

 こちらもゴンザレスたちに自らの正体という大きな隠し事をしている以上、この件についてあまり強く責める気持ちにもなれなかった。怪人を倒すという目的が嘘ではないということが分かっただけでも、よしとしようではないか。無用な疑いをかけて、組織との間に摩擦を生みだすことは極力避けたかった。

「そういえば、黒城和弥君は、まだしばらくここにいるのかな?」

 ゴンザレスが手首を擦りながら尋ねてくる。レイは首を傾げた。

「分かんないけど……多分、まだいると思うよ。怪人から話聞きだすの、時間かかりそうだし。それがどうしたの?」

 あの小さな女の子が怪人であり、黒城はその怪人から情報を引き出そうとしている。レイはここに来てすぐ、ゴンザレスにそんな説明をしていた。

「不思議だね。そんなのが、いたなんて、不思議だね」とは、話を聞いたゴンザレスの反応である。その時もいつも通り、声には怪訝そうな様子を一片も感じさせずに、言葉だけで驚愕を表現していた。

「いや、お留守番。頼もうかと思ってね。さっきのやりとりで、ストレスたまっちゃったからね。ちょっと、憂さ晴らしでもしてくるよ。いい八つ当たりの相手がいるんだ」

 今度はその逆パターンだった。ゴンザレスは喜色に満ちた声色で、恐ろしいことを軽々と言葉にする。レイはあまりにも彼が嬉しそうに答えるので、しばしその言葉に隠された刺々しいものを感じ取れずに、ぽかんと口を開けてしまう。

「それは、なんというか、良かったですね」応じた時には、すでにゴンザレスは目の前から姿を消している。玄関のドアの閉まる音が背後で聞こえ、振り向けば、ドアの擦りガラス越しにゴンザレスの巨体が透けて見えた。

 その格好で外出するのはさすがに、いかがなものだろうか。レイは目を丸くして、そのあまりに衝撃的な場面を見送る。廊下で棒立ちになり、再び動きだせるようになるまで、また少し時間を要した。


「そういうわけで、そのカニかまがこれなんですよ」

 それから1時間後、レイは病院地下の休憩スペースで、佑と向かい合っていた。いつの間にかこの場所は佑との待ち合わせ場所となっている。この前と同じ席で、同じようにコーラを飲みながら向かい合っている。レイは先ほど、船見家で経験した出来事をかいつまんで説明すると、終わりに段田から受け取ったカニかまぼこをテーブルに置いた。

「俺らの知らない常識ってもんがあるのかもな。カニかまぼこを食べていることが、人の話をよく聞いている証拠、みたいな」

 カニかまを取り上げ、様々な角度から眺めながら佑は感心をしている。

「そんな生臭そうな社会常識、いりませんけどね」

 レイはコーラを口に含む。佑はだよなぁ、と苦笑を浮かべながらレイの前にカニかまぼこを戻した。しかしレイはそれを指先で、佑の前まで押し返す。

「いや、私こんなのいりませんけど。お兄さんにあげます。昨日、変なことに巻きこんじゃったお詫びです。受け取ってください」

「気持ちはすごくうれしいけどさ」

 佑は眉をよせ、レイとカニかまとを交互に見やる。それから怪訝さを表情に滲ませた。

「こんな得体の知れないもん、俺もいらないんだけど」

「何を言います、お兄さんにぴったりじゃないですか。そっくりですよ、最初見た時、双子かと思いましたもん」

「カニかまに顔が似てる、って言われたのは生きてきて、さすがにこれが始めてだ……」

「違いますよ。そこじゃないです。得体の知れない、って部分ですよ」

 レイは残りのコーラを一気に飲み干すと、佑の右肩に目をやった。プリントTシャツの袖口からは包帯が覗いている。対して、レイの肩にはすでに痛みは消えていた。肩だけではない。あれほど派手な戦闘をくぐり抜けたのに、その体には傷1つ残されていなかった。

 確実に治癒能力が上がっている。以前は、速見拓也からもらった不思議な黒い布を巻いてようやく治っていたのに、今はそれさえ必要としない。自分が徐々に人の身から怪人の異容へと近づいていることを実感し、レイは昂揚と恐怖を同時に抱く。しかし、怖がってばかりいられないこともまた承知をしていた。皮肉にも昨日のあの戦闘で、それを思い知らされたからだ。

 怪人になるというのならば、その力を使って佑や悠を守り抜いてみせる。人々の平穏を脅かそうとする怪人の行いを阻止してみせる。そんな義務感にも似た熱意が体内を血液にまじって巡っていく。その決意を胸に滾らせると、不思議と恐れも霧散していくのだった。

「あんなことに巻き込まれたのに、なんで何も訊いてこないんですか? 大して驚いている風でもないし……」

「いや、すげぇ驚いてるよ? これでも。怪人が本当にいるのもびっくりだし、それを倒すヒーローがいたのもびっくりだし。あの場所でも、驚いてばっかだったような気がするんだけどな。俺、そんなようなことしか言ってなかっただろ?」

 レイは眉をひそめる。確かに佑は避難した机の下で驚いていると言ってはいたが、その言葉に反して全く怯えや、戸惑いの様子はみられなかった。

「いや、結構他のことも喋ってた気がするんですけど」

 指摘すると、佑は「本当に?」と目を見開く。真顔で驚かれたため、逆にこちらのほうが当惑してしまう。

「忘れたんですか。俺は妹が大好きなんだぜ! とか敵に向かって大声で叫んでましたよ、お兄さん」

「え、マジで?」

「あわよくば、その小さな体を抱きしめたいんだぜ、とも言ってました」

「本当にそんなこと言ってた? 全然記憶にないんだけど」

「というかむしろ、そんなようなことしか言ってなかったですよ。なんでこの人は、こんな時に悠に対する愛の深さを発表しているのかと思いましたもん」

 半分真実を、そこに隠し味程度に嘘を混ぜ込んで話をする。佑は顔を手で覆い、身悶えするように体を揺すった。

「うわぁ、ごめん。全然覚えてない」

「えー」

「そのリアクションは俺がとりたいよ。うわぁ恥ずかしい」

「そのセリフは私が言いたいです。見てるこっちが赤面ものでしたよ」

 一通り報告を終えた後で、レイは一つ鼻から息を吸い込み、「でも」と続けた。

「でも、お兄さんかっこよかったですよ。悠が慕う理由もようやく分かりました。助けに来てくれて、ありがとうございました」

 頭を下げる。ブロンド色の髪がテーブルの縁を流れていく。佑を庇うことで新たな決意に目覚めたのは確かだったが、危険を顧みずに自分を助けに来てくれた彼のその行動に感動したこともまた事実だった。

 だから、お礼を告げる。あの怪人を退けることができたのも、一重に佑がいてのことだった。1人ではおそらく、あの場から逃げ出すことのできる確率はぐんと下がっただろう。

 しかし、佑の表情は複雑そうだった。眉尻を下げ、頬を指で掻いている。その顔色には、気まずそうな気配が漂っていた。

「どうかしたんですか?」

「いや、だって俺……何もしてないし。むしろ、レイちゃんに助けられてたじゃないか。こっちから割って入っていったのに、逆に助けられるなんて、なんか男として情けないやら何やら……」

「お兄さんだって、頑張ってたじゃないですか。初めて怪人に遭遇して、あそこまで機敏に動ける人なんて今まで見たことなかったです。十分、凄いですよ。自信持ってください」

 それに私は、お兄さんと違って怪人なんですから、とも言おうとしたが止めておいた。佑がイストのセリフをどう解釈しているのか、まだ怖くて訊けてはいないが、この場で自白する必要はないだろうと考えての判断だった。

「いいじゃないですか。人間、傍目から見てて、ちょっと恥ずかしいくらいのほうが、かっこいいんですよ。少なくとも私は、お兄さんをかっこ悪いと思ってみてませんから。平気です」

「そう言ってくれると、ちょっと助かるかも。こっちこそ、ありがとう。レイちゃんのおかげで、今の俺の命はあるようなもんだよ。意外とレイちゃんも、強いじゃないか」

「場数踏んでますから。慣れた人間は、強いんです」

 レイは力瘤を作る真似事をし、軽く微笑んだ。佑も口元に笑みを宿す。先ほどの会合の部屋に溢れていた空気があまりにも暗澹としていて、陰湿なものだったためか、こうして佑と言葉を交わしている時間がレイにとって余計に楽しいものとして感じられた。この時が終わらなければいいのに、と半ば本気に思いもする。それから、そんなことを一瞬でも思った自分に、自分で動揺した。こんな感情を抱いたのは、初めてのことだった。

 しかし楽しい時間は有限だからこそ、貴重なものとして心の残ることもまたレイは知っている。コーラの空き缶を両手で挟みこむようにして押し潰すと、席を立った。

「じゃあ、そろそろ悠のところ行きましょう。それから買いに行きましょうよ、プレゼント。昨日はあんなことになっちゃいましたから。今日こそは」

 昨日はもともと断るつもりだったけど、というこちらの事情はこの際隠しておく。黒城に鹵獲されたベルゼバビーという名の怪人の話から、まだ数多くの怪人たちがレイを狙って襲いかかってくることが懸念されたが、佑と一緒にいればそんな障害も乗り越えられるのではないかとも今では思っていた。根拠も何もあったものではないが、自信だけは漲っている。このまま一緒にショッピングを楽しむことくらい、許されるのではないか。

「うん、そうしようか。俺も今日は、大丈夫。夕方までだったら、付き合えるから」

 佑も立ちあがる。首を仰ぎ、コーラを一気飲みすると、片手で缶を握り潰してゴミ箱に放り込んだ。レイも続けて投げ入れる。ゴミ箱の中で2つの空き缶がぶつかり合い、気の抜けるような音が弾けた。

「ふつつか者ですが、よろしくお願いします」

 レイは腰を2つに折る。佑は微笑すると、「あ、よろしく」と戸惑った風に手を上げ、地上への階段に足をかけた。

「そういえば、レイちゃん。今更なんだけど、質問していいかな?」

 患者や看護師、または見舞客の行き交う白い廊下を歩いて悠の病室に向かっていると、不意に佑が顔をこちらに向けて言ってきた。レイは佑と並んでおり、壁に手を這わせながら歩を進めていたその時のことだった。

「本当に今更ですね」

 内心ではついに来たか、と警戒を滾らせている。ここのあたりが年貢の納め時かなどとも考え、唾を呑みこんで覚悟を決める。無表情で、淡々と唇だけを動かす。

「なんですか?」

 周囲に考慮をしてなのか、佑は歩く速度を少し緩めるとレイの耳に顔を寄せるようにした。レイの方も彼に合わせて自然に、歩幅が狭くなる。頬にかかる髪の毛を人差し指で掻きあげ、耳を佑の前に晒した。

「やっぱりさ。昨日の怪人が、事件の犯人なのかな? あの……誘拐殺人事件の」

 先月の頭にニュース番組で報じられてから、約一ヵ月間、冷凍された死体が発見されるまでの間、世間を賑わせていた女性連続失踪事件。東京都民のみならず、日本中の女性を震いあがらせたこの事件のあまりの証拠のなさ、痕跡の薄さから、実は怪人による犯行なのではという根も葉もない噂話が蔓延したことがあった。

 レイたちにとってみれば、その噂それはまさしく真実なのであるが、佑のような何も知らない一般人にとってみればその疑問が第一に浮かぶのは当然のことだった。レイは数秒思考を巡らせ、提供するべき情報の取捨選択を慎重に行った。それから佑の顔の中心に視界の焦点を合わせた。

「はい。あの怪人たちが、女の人たちを、さらってました。都市伝説は実は正解だったんです」

「そっか。それで……昨日の奴はレイちゃんに狙いを定めたってわけか。これでやっと納得がいったよ。なんで怪人があんなところにいるのか、ずっと不思議だったから」

 頷く佑を見て、レイもまた掌を叩き合わせたい気分に陥った。そういう解釈もできるのか、と感心する。客観視すれば、自分が何の力も持たないうら若き女子中学生であるという事実をすっかり失念していた。第3の目、大事だな。レイはどこかで聞いた覚えのある言葉を浮かべ、そこに感動すら覚えた。

 このネタは使わせてもらいます、と心中で佑に許可を取る。彼に感謝をし、若干の罪悪感を受けながらも、レイはごまかすためににこりと笑った。

「そうなんですよ。もう大変で。でも、安心してください。私には」

「あの、鎧の戦士がいる――だろ?」

 佑が先まわりをして言う。エレベーターの前で立ち止まると、彼は5階へのボタンを手際よく押した。それから再びレイのほうを向いた。

「怪人よりも、俺はあっちのほうが気になってるんだ。建物ぶっ飛ばして、怪人を殺した、あの鎧。何者なんだ、あれは。多分……レイちゃんの知り合いなんだろ?」

 バズーカ砲から光の奔流を迸らせ、一撃でアパートごと怪人2体を葬った、マスカレイダー、アーク。佑はおそらく彼のことを指しているのだろう。

 実はあれお父さんなんですよ、とも言明できず、とはいっても、あれがマスカレイダーなんです、と説明するのも何だか突飛な気がして、何と返すべきか必死に言葉を探す。エレベーターの入口や廊下の壁に答えを求めようとするが、もちろん見つかるはずもない。

 佑の表情は変わらず柔和なものではあったが、だからこそ余計に、レイの心を刺すような威力を備えていた。頭が真っ白になる。なぜ自分がこれほど動揺をしているのか、わけがわからず、そのことがさらにレイの気持ちを焦らせる。

 マスカレイダーの話をするためには、やはり所属している組織のことまで言及をしなければならないだろう。しかし一緒に怪人と対峙した間柄とはいえ、一応の機密事項をそこまでやすやすと明るみに出していいものか判断を下しかねていた。しかし代わりにこの場を取り繕う案も思い浮かばず、煩悶する。

 そんなレイの困惑を押し流したのは、手首に伝わるかすかな温もりだった。目をやると、佑の意外に華奢な指がレイの手首を握っていた。

 そのまま、己の手を掴む腕の持ち主を探すような気持ちで視線を上に動かすと、そこには佑の憂い顔があった。

「ごめん。そこまで困ると思わなかったから……分かった。もうこの話題はなしにしよう。これから悠に会うんだ。あいつに、悩んだ顔見せるのはレイちゃんも嫌だろうし。俺も嫌だ」

 真顔で佑が見つめてくる。その視線の力強さに、レイはしばし引きこまれた。これまでにない感情の昂りを感じる。それが彼の体温に誘発されて生まれたものであることに、内心では気づいたが直視することは何だか憚られた。

 エレベーターのドアが、軋んだ音をたてて開いた。どうやら大分老朽化しているらしい。佑はその音で目が覚めたかのように目を見開くと、いきなり飛びあがった。レイの手を振り払い、「ごめん。急に手なんかとっちゃって」と慌てふためきながら弁解し出す。そこにはつい数秒前の殊勝な顔立ちは欠片も残されていなかった。「ちょっと、血迷った」

 これまでの緊張感などどこへやら。レイはあまりにも愉快さに頬を緩めた。

 そして今度はレイの方から佑の手を掴みとった。そして昨日、あのアパートから脱出したのと同じように、彼の手を引いてエレベーターに乗り込む。背後で、今度は嫌にスムーズにドアが閉まる。

「こっちこそ、発破かけといて質問に答えないなんてことして、すみませんでした。でも、今はちょっと答えづらいんです。いつか、答えますから。その、待ってて、くれますか?」

 手と手を繋ぎ合せたまま、2人でエレベーターに揺られる。手を取ったまではいいが、今度は離すタイミングが分からなくなり、困惑する。佑はもう何でもないような顔をして、数度、顎を引いた。

「分かってる分かってる。じゃあ俺は、その時を待つよ。それで公平だ」

「そう言ってくれると助かります。お詫びと言っちゃなんですけど……その、カニ」

「カニかまはいらないからな!」

「じゃあ、代わりにカニ大福を口に突っ込んでおきます」

「それは、逆に望むところだけど」

 カニかまは家に帰ったら、内緒でライに食べさせよう。そんなことを画策していると、エレベーターは5階に到着した。再び、ゴトゴトと不穏な音を響かせてドアが開く。レイが先に降り、佑は後からついてきた。

 5階は混雑していた1階に比べ、静かだった。見舞客や看護師の姿も少ない。入院している患者の数自体がそれほど多くないのかもしれない。

 レイは佑から離れると、エレベーターから左に少し歩いた場所にある、一番隅の部屋のドアをノックした。そこが悠の入院している病室だった。佑もまた、レイとタイミングを僅かにずらしてドアを叩く。

「悠、具合はどうだ?」

 返事も待たずに、レイの前に足を踏み出した佑が部屋のドアを押し開く。それはマナー違反なのではないか、とレイは眉を潜めたが、目の前に出現した景色に、そんなささやかな非難は跡形もなく吹き飛んだ。

 佑も声を失っている。レイからは彼の後頭部しか見ることはできないが、その顔色が青褪めているのは手に取るように分かった。レイ自身も頭からサッと血が引いていく感覚に襲われていたからだ。

 悠の病室に、怪人がいた。

 ベッドで仰向けに眠っている悠の前に立ち、その顔を覗き込むようにしている。礼儀知らずの来訪者に気付くと、驚愕した様子で振り返り、目を瞠ってきた。

 全身のいたる箇所に紫色の布のようなものを巻いていた。体色は黒で、スレンダーな体つきをしており、その装飾と相まってか踊り子のような印象を受ける。目は人間と同じようなものが2つ、顔の中央に付いている。ただ瞳の色が右は赤く、左は黄色だった。その頬には赤い羽根のマーク。

 そして胸には、鳥――その姿形からおそらく九官鳥――の絵が描かれている。それはまさしくシーラカンスやイストたちと同じ、新型怪人の証。

「悠!」

 ようやくこの突拍子のない状況を掴めるようになり、伴って体も動くようになる。凍った時間の針が動きを再開する。レイが駆け寄ると、怪人はひと飛びで悠の体を飛び越え、窓ガラスを全身で砕いて逃げだしていった。

 佑もまた悠の名前を呼びながら、ベッドに近づく。彼女はこんな状況などまるで意に介さないかのように、熟睡をしていた。寝息を立てているのを耳にして、ようやく安心する。見える部位に目立った傷跡もなかった。

 悠が無事であることを確認すると、レイはベッドを回り込み窓から身を乗り出した。眼下には青々とした芝生の広がる庭にまばらな人影が確認できる。空を仰げば、真っ白な入道雲が力強く盛り上がっていた。左右を窺うが、あの怪人の姿はどこにも見当たらない。レイは焦燥と恐怖に身を押されるがままに踵を返すと、血相を変え、悠を揺さぶって起こそうとしている佑の横を通り抜けた。

「お兄さん、悠をお願いします!」

 礼儀に従っている余裕はなかった。レイは看護師の制止を振り切り、前方から歩いてくる入院患者をかわしながら、全力疾走で病院の廊下を駆け抜ける。

 頭には完全に血が昇っていて、正常な判断などする余裕もなかった。その体を突き動かすのは、親友に再び毒牙が向いたことへの恐ろしさと怒りだった。

 エレベーターを待つのもじれったく、2段飛ばしで階段を降りる。それでもまだ足りない気がして手すりを片手で握り、落ちるように移動する。

 それでも心はもっと早く、早くと急きたてる。今度こそ、悠を救わなくては。これ以上、彼女を巻き込むわけにはいかない。使命感が胸の中を渦巻き、その爆発的なエネルギーがレイの背を精一杯に押しやっていた。




鳥の話 16

 仁はベッドの横に膝を立て、そこで眠る葉花を眺めていた。彼女の頬は赤く染まり、眉間には皺が刻まれている。呼吸も乱れており、熱に浮かされているようだった。

 仁は傍らにある洗面器から濡れタオルを手に取ると、それを葉花の額に乗せた。するとその呼吸の乱れはわずかに鎮まり、スースーという普段の寝息へと変わる。

 こうしてベッドの脇に座っていると、葉花が倒れ、初めてハクバスに会った時のことを自然に思い出してしまう。あの時の、絶望と陰鬱に染まった景色が脳裏にじわりと滲むように蘇り、目の前が暗くなってくる。

 黒城グループ本社の前で葉花が倒れた後、仁は通行人に宥められながら何とか正気を取り戻し、タクシーを呼んで診療所に駆け込んだ。医者の診断結果は、ただの夏風邪であるそうだった。薬を飲んで、今日1日ゆっくり休めば治るという。

 葉花は当然のことであるが、仁もまたぐったり疲れていた。取り越し苦労とはこのことだろう。先ほど大衆の面前で取り乱したことを思い出すと、顔から火が出そうになる。頭を抱え、掛け布団に頭から突っ込んでじたばたしたい思いにもかられるが、今はそれどころじゃないことも分かっていた。

 恥ずかしさを何とかこらえながら、仁は苦しげな葉花の顔を見つめる。掛け布団からはみ出し、ベッドの横からぶら下がった彼女の手に触れることさえできないのが、辛かった。

「白石、君」

 葉花の蕾のような唇が、薄く開かれる。仁は片膝を上げて顔を寄せた。

「なに? 葉花」

 そっと、葉花は瞼を上げた。その瞳は熱のためなのか少し潤んでいるようにも見えた。

「私、大丈夫だよね」

「平気だよ。お医者さんも、今日静かにしてれば大丈夫だって言ってたじゃない。大丈夫。最近、プール頑張ってたみたいだから、ちょっと疲れが出たんだよ。すぐに治るさ」

 仁は自分に言い聞かせるように、呟く。大丈夫。ただの風邪だ。葉花は死ぬことなんてないんだ。

「白石君、ごめんね」

 目を瞑り、今度は呼吸の音と混じってしまいそうなか細い声で葉花は言った。仁は唇を噛んだ。

「なんで、葉花が謝るの? これは僕のせいだよ。僕が外に連れ出したりなんかするから」

「外で食べたいって言ったのは、私だもん。ごめんね、迷惑ばっかりかけて」

 今にも消えていってしまいそうな表情で、そんなことを言われると、仁は返す言葉も見つからなかった。ただ己の無力さを悔んだ。葉花の手の1つさえ握ることさえ、その不安に染まった瞳に勇気を与えてやることさえできない自分が、どうしようもなく情けなくなる。大きな力を得ても、目の前で苦しんでいる葉花を救うことさえできないのでは、まったく意味がないではないか。

 すべては裏目に出るんだよ。ハクバスの言葉を、思い出す。彼の言うとおり、自分の行動はすべて、自分だけでなく葉花さえも苦しめる結果に帰結してしまうのだろうか。

「迷惑じゃないよ……僕も、葉花がいてくれて幸せなんだ。だから、そんなこと言わないで」

 仁はベッドのシーツを、皺が寄るほどに強く掴む。そうしていなければ、葉花に触れてしまいたい、その衝動を抑えきれそうになかったからだ。

「僕は、君のことを嫌いになったりなんかしないから……元気になったら、一緒にまた遊ぼう? ね?」

「良かった……」

 葉花の顔が緩んだ。そしてゆるゆると口を閉じると、再び寝息を立て始めた。仁は葉花の顔を見つめながら、歯噛みをする。最後に彼女が囁いた言葉の意味が分かっているだけに、追いつめられたような一種の脅迫観念にかられた。

「ただの風邪で良かったじゃないか」

 突如耳朶を打った男の声に、振り向くと、スタンドミラーの中に鎧を着こんだ戦士の姿があった。現実にはおらず、鏡の中だけに映る存在。葉花の精神にとりついた鎧の男、ハクバスだ。

 ハクバスはいつも通りの傍観者口調で仁を責める。

「しかしこれは、あなたに対しての警告だと思ったほうがいい。俺の体も、この子の体もそれほど長く毒に耐えきれるわけじゃあない。命は有限だ。そう、神様が言っているのだよ」

「……ずいぶんと、他人事なセリフを吐くじゃないか」

 仁はスタンドミラーに顔を突き付けた。鏡面の内側に存在するハクバスを小突くが、もちろん向こうは平然としている。ハクバスは錆びついた肩当てを、ゆっくりと腕の力で持ち上げるようにした。

「そろそろ無理があるんじゃないか? 一緒に暮らしていて、触れたらその瞬間、ゲームオーバー。拷問だろう? あなたはともかく、その子にとっては。あなたは、彼女の涙を知っているのか?」

「葉花の……涙?」

 ハクバスはもう片方の肩当ても持ち上げた。その動作が肩をすくめているのだということに、そこでようやく気付いた。呆れられているのだ。仁はスタンドミラーの囲いを両手で掴んだ姿勢で、首だけを葉花のほうに向けた。

「あなたが変わったことに、気がつかないわけがないだろう。これまでべたべたしていたのに、掌をひっくり返したみたいに、今度は彼女を執拗に避けているんだぞ。彼女はどう思う? 何か嫌われるようなことをしたんじゃないか。何かしちゃいけないことをしたんじゃないか。表にはけして出さないが、心の中で彼女は泣いているんだよ。あなただって、実は内心では気がついていたんだろ?」

 もう、限界なんだよ。ハクバスは宣告するように、もう1度言った。ハクバスの言うとおり、葉花との間にある、止める術のない軋轢を感じていないわけではなかった。ただ、見ないふりをしていた。もうどうにもできないからと、前に進むしかないのだと、言い訳に言い訳を積み重ねて、現実の直視を避けていた。

 しかしその間に、葉花の心に降り積もった悲しみはその小さな胸の内を圧迫していた。

「この風邪だって、そのストレスもあるかもしれない。だから前に俺も言ったじゃないか。すべては、裏目に出るんだ。あなたは黙って、運命を受け入れるしかない。もがけばもがくほど、あがけばあがくほど、状況は悪化していくんだ。これで分かったろう?」

 日常茶飯事だった佑との口論や、舌足らずな口から紡がれる数々の我儘。それら全てが、葉花からのメッセージだったのではないか。今日作っていたホットケーキも、実は何かを伝えたくてもがき、苦しみ、その末に至った行動だったのではないか。葉花は髪を自分でとくようになった。自分で料理を作ることも始めている。

 すべては仁に、そして他の人に、嫌われたくないがための行動だったとしたら。自分の存在を証明したい、その一心から生じた態度であったとしたならば。

 仁は肩を落とした。反論することはできなかった。周りの景色がひどく遠くに感じる。ハクバスの言葉だけが背中に重たくのしかかってくる。心に吹き抜けるのは、希望の残滓と手の届かない空虚感。仁は震える己の体を、両手で抱き締めるようにした。

「僕じゃ……無理なのかな、やっぱり」

「あなたがやってるのは、しょせん、親の真似事。不十分なんだ。彼女にとってはね。あなただけなんだよ、空回りしているのはね。かっこ悪い」

「父親、か……」

 無責任にも葉花を仁に押し付けて、行方をくらませた彼女の父親のことを仁は軽蔑していた。だがそんな男でも、葉花にとってはやはりかけがえのない父親なのだ。母のいない葉花に彼の存在は、どれだけ大きかったのだろう。少なくとも、仁と葉花の間にある絆よりも強固であることは違いなかった。

「そうだよね。やっぱり他人は、他人か……」

 葉花の疲弊した表情を見やり、ぽつりと、呟く。やはり自分に義父の真似事は早すぎだというのだろうか。仁はよろよろと起き上がると、足取りも怪しく、何度も倒れてしまいそうになりながら部屋の出口を目指して進む。打ちひしがれ、頭の中は適当に塗りたくったグロテクスな絵画のように混乱していてまともな思考をもつ力など、なかった。ただこの場から逃れたい。そんな衝動だけが仁の体を部屋の外へと誘う。

 そんな折、視界にシャーペンが入ったのは偶然だった。勉強机の上に散らばった、文房具の類。その中にひと際目立つ、金色のシャーペンがあった。書店や文房具店で買い揃えた他の文具とは、一線を介した高級感に溢れている。さらに熊の絵が全面にプリントされており、女の子らしい可愛らしさも同時に備えていた。

 ――あ、そうそう。去年はお父さんサンタからシャーペンもらったんだ。ゴージャスなやつ!

 2日前、買い物の途中で葉花が話していたことを思い出す。間違いなく、これがその"ゴージャスなシャーペン"だろう。葉花と父の絆を表す、もっとも分かりやすい品物。

 そこから閃くのは、早かった。仁は縋りつくようにして、そのシャーペンを乱暴に掴んだ。

 いまの葉花の心に漂う不安を取り払うことのできる人間は、この世に1人しかいない。思いついたら、いてもたっていられなくなった。それ以外の方法を思いつく冷静な判断力を、すでに欠いていた。気持ちが届くことを願って、仁はシャーペンの中に自分の精神が潜り込むようなイメージを抱く。そして仁はサイコメトリーを発現させた。




鎧の話 14

 直也はいつもの公園の、前回と同じベンチで、あの時と同じように寝ころんでいた。

 考えがまとまらないと、ついここに足を向けてしまう。この場所でぼんやりと雲を眺めていると、なぜか心が鎮まる。土曜日の午後だけあって、それなりに周囲は賑わっていた。比較的親子連れが多い。小さな子どもとボール遊びに興じる父親の姿を見ていると、心が和んだ。直也のいるベンチの前でも、小学生くらいの男の子とその父親とがキャッチボールをしていた。投じられたボールがグルーブに収まるたび、歯切れのいい音があたりに響く。

 携帯電話の着信があったのは、放射線状に交わされるボールの動きを目で追いかけていた時だった。

「連絡が遅れて、申し訳ない」

 開口一番、電話の向こうで謝罪を入れてきたのは柳川刑事だった。直也は姿勢を正すと、改めて携帯電話を耳に押し当てた。

「あぁ、いえいえ。こっちも色々あったんで、大丈夫です。そちらも大変ですね。池袋のほうでまた事件があったみたいじゃないですか。最近、本当にそんなんばっかですよね」

 直也は今朝ニュースで見た情報を頭に思い浮かべ、話題に出した。すると柳川はうんざりといった語調になった。

「そうなんだよ。ちょっとそれも任されちゃってね。いま、ようやく昼休憩がとれたから電話をしてみたんだけど。そんなに時間があるわけでもないから、要点をかいつまんで話そうと思う。そちらはいま、大丈夫かい?」

 直也は周囲を窺い、キャッチボールに真剣になっている親子をいま一度確認した。この会話に耳を傾けている者の姿はなさそうだ。

「はい、大丈夫です。それで話は、この間の続きですか?」

 渋谷の喫茶店で3日ほど前に会った際、柳川は3つ話があると言っていたが、結局あの日は2つしか教えてもらえなかった。今回は最後の1つがようやくひも解かれるのではないかと期待したのである。

 その予想は的中したようだった。柳川は喜色の混じった声を発した。

「あぁ、覚えておいてくれて助かる。実はな、密かに追っている事件があるんだよ。それをこの前は話したかったんだ」

「事件?」

「あぁ、そうだ。きっと君はこの事件の概要を聞いたことを、深く後悔するだろうなぁと思うよ。その顔が見えるようだ」

「電話かけてきといて、そりゃあないでしょ。早く話してくださいよ」

「いいのかい、話しても?」

 直也は携帯電話から耳を離し、ディスプレイのあたりを見つめた。本当に今、電話の向こうにいるのが殺人事件を担当している多忙な刑事なのか確認したくなったからだ。そこに映る、『柳川さん』という文字を認め、再び受話口に耳を寄せる。

「どうしたんですか。そんなにもったいぶって……らしくない」

「もったいぶっているんじゃない、慎重なんだ。なにせ、この事件を調べた人間は経緯こそ様々だが、全員姿を消しているんだからな」

「全員姿を?」

 直也は姿勢を正した。確かに、奇妙な話だと思った。まさか怪談話に移行しないだろうなと冗談っぽく考えながら、強張った自分の心を解す必要があった。

「あぁ。話は、10年前に遡る。俺はあの時、まだ刑事になってまもない、新米のペーペーだった」

 柳川は1つ呼吸を置いてから、頭の中の情景の瑣末な部分まで思いだすようにしながら話し始める。

 10年前。つまりそれは、西暦2000年のことだったという。柳川はある日、近隣住民から奇妙な通報を受けたのだという。それは、使われていない倉庫から妙な物音が聞こえたというものだった。

「俺も先輩もその時は、大したことないと思ってたんだ。どうせ猫か犬かが暴れているんだろう。そんな軽い気持ちで、特に気負うこともなく現場にたどり着いた」

 倉庫は鍵が閉まっていた。柳川は先輩に命じられ、倉庫の上のほうにある明り採りの窓から中に入るよう指示を出された。

「俺、昔から、高いところ苦手でさ。本当は嫌だったんだけど、仕事だし、何より先輩が怖くてね。ヤナ、早く行けよ!なんてどやされて。しょうがなく、俺は脚立を登って窓までたどり着いたんだ」

 運のいいことに、ドアと違い施錠はされていなかった。意気揚々と柳川は難なく窓を押し開いて、そして、後悔した。

「脚立から落ちるかと思ったよ」

 柳川は苦々しく語る。過去の失態を懐かしんでいるというよりは、この事件に関わってしまったことを心底後悔しているかのような響きがあった。

「死体の山が、そこにはあったんだ。死屍累々って言葉はこんな時に使うもんなのか、と思ったよ。もうめちゃくちゃだった。鮮血で床が見えないくらいだった」

「死体の……山?」

「それで、その中に人の死体に埋もれるようにして、1枚の旗があったんだよ」

 柳川はそこで唾をのみ込んだ。その一瞬の間に、直也もまた緊張し唇を舌で湿らせる。数秒、沈黙をとってから、彼は言葉を続けた。

「鳥の旗があったんだよ。金色に塗りたくられた、鳥の旗が。静かに置いてあったんだ」

 直也は声を詰まらせた。黄金の鳥の旗。折り重なった死体の山。それはまさしく、ゴンザレスが話していた、黄金の鳥を崇める人らとそれを阻止せんとする人々の間で起こった、抗争の果てではないのか。

「遠野さんの首に、鳥の痣があると前に君が言っていたのを思い出してね。関係はないかもしれないが……一応、伝えてみたんだけど。おい、坂井君。どうした? 何か心当たりでも?」

「いえ……」

 直也は電話を耳から遠ざけ、脳内にたゆたう思考の海を探っていた。柳川の口から、マスカレイダーズに関する情報が出たので動揺はしていたが、それでも彼をこの件に近寄らせたくはないという考えだけは働いた。

「おそらく、それは咲さんとの関わりは薄いと思います……勘ですけど」

「探偵の勘かい? 立派なもんだ」

 軽薄に笑い飛ばす柳川に直也は苛立ちを覚えた。あなたの身の安全のことを考えて言っているんですよと訴えたくなるが、その気持ちを呑み込んだ。

「まぁ、それだけの情報だったらそう言いたくなるのも分かるよ。だけど、この事件に鉈橋家が関わっていると言ったら、その意見は変わるかな?」

「なんだって……」

 咲が死ぬ一月前に失踪した女性。2人は高校時代のクラスメイトであり、SINエージェンシーの事件に関する有力な情報を所持しているだろうと予想される人物だ。その名前がこのタイミングで出されたのは、意外でもあった。

「彼女がその事件に関与しているんですか?」

「彼女ではない。家族全体が、だ。実はね、先ほどの死体の山の一件。あの事件で、1つだけ天井に張り付けられていた死体があった」

「天井に?」

 そのイメージを膨らませようとするが、うまくいかない。すると要領を掴めない直也の気配を察したのか、柳川は補足説明をしてくれた。

「キリストが十字架に張り付けられた絵、あるだろ? あれを思い出してくれればいいよ。天井に、手首や足首を釘で固定して張り付けられていたんだ」

「あぁ、なるほど」

「いまだに事件の全貌は明らかになっていないが……その男が事件に深く関与していたことは判明している。もしかしたら火をつけたのはこの男かもしれない、とさえ言われている。その男の名前は、船見幸助」

「船見?」

 直也は眉間に皺を刻んだ。船見、という名前に聞き覚えがあった。どこでだったかと思考を探ると、以前、ゴンザレスからオウガを取り戻す際に拓也と行った、あの一軒家のことを思い出した。あの家の前に掲げられていた表札に、船見という姓が記されてはいなかっただろうか。

 記憶を蘇らせようと頭を働かせる直也の、そのこめかみに圧力がかかった。反応するよりも早く、頭が引っ張られ、首の抜けそうな感覚に襲われる。首の筋が妙な音を発するのを、耳の奥で聞いた。

 そして次の瞬間、世界が回った。何が起きたのか分からないうちに、柔らかい地面に背中を打ちつける。携帯電話が手からもぎ取られ、どこかにすっ飛んでいく。

 毎日のトレーニングで鍛え抜いた、両足の筋力を駆使して反射的に起き上がった。背中に鋭い痛みが走るが、大したことはなさそうだった。それよりも首の痛みのほうが重傷のようで、少し頭を動かすだけでも張り詰めるような激痛が走る。

 それでも、目線だけで周囲を素早く窺うと、左手のほうに直也が今まで座っていたベンチの背が見えた。視線を落とせば、足のとられそうなよく肥えた地面があり、周りは鬱蒼とした木立に囲まれている。人の姿は見えず、公園で遊ぶ家族らの声が思い出したかのように小さく聞こえてくる。日陰があたりを支配しているためか、どこか全体的に薄暗い。

 ベンチの背後にある雑木林。頭を掴まれ、そのまま後ろに投げ飛ばされた直也はそのちょうど真ん中あたりに、立っていた。

「なんだ、お前……」

 地面を踏み締め、木の陰から現れる影。それは全身を装甲服に包んだ、人間だった。ダンテでも無ければファルスでもない。直也が初めて目にするデザインだ。

 額からは2本の角を生やし、目には格子状のスリットが敷かれている。首の周囲にはファーが巻かれており、右肩には龍の頭がい骨、左肩からはトカゲの尾のようなものが飛び出ていた。他の装甲服と比べても、別格の迫力を放っている。そこから発せられる、慄然としたオーラに直也はわずかに怯んだ。

「なんだよお前は。マスカレイダーズの奴らかよ? オウガを取り返しにでもきたのか?」

 装甲服は何も答えなかった。代わりに、跳躍した。直也のはるか頭上を飛び越え、両足で着地する。振り向きざまに突き出してくる拳を、直也は身を反らすことで危うく回避した。

 だがそれだけで終わらない。装甲服は続けて右足を持ち上げ、直也の頭目がけてハイキックを繰り出してくる。その足首から薄い刃が突出するのを目にし、直也は前に転がりこむようにして身を伏せた。

 直也の背後にあった木が半ばから折れた。足の刃で切り伏せられたのだ。地面を引っ掻くようにして身を起こした直也は、そのねじ切られたような切り口を目にし、妙な既視感を覚えた。

 しかし思考を働かせる暇すら与えられず、さらに装甲服はくるりとその場で回転し、今度は左足で回し蹴りを打ちだしてきた。その足首にもやはり、刃が装甲の内側から迫り出してくる。直也はポケットから"オウガ"のプレートを取り出した。

「なんだかよく分からねぇけど、生身相手にあぶねぇだろ!」

 直也はプレートの角で時計の盤面を叩いた。するとその中から押し出されてくるようにして、鉄色に鈍く煌めく装甲が矢継ぎ早に、敵へと射出されていった。あまりに突然だったので、避ける判断すら追いつかなかったのだろう。装甲を胸に受けた装甲服は後ろに弾き飛ばされ、大きな尻もちをついた。

 腹にプレートを据えると、それを中心にして直也の体には装甲が纏わりついてくる。組み上げられたオウガの装甲に、頭から足の先まですっぽりと身を包んだ直也は、腰から折れた刀を引き抜き、腕を大きく後ろに引く構えをとった。

「お前は何者なんだよ……相手してやってんだ。少しは喋ったらどうだ!」

 敵は何の感情も見せることなく、立ちあがった。尻をはたき、ゆっくり首を回す。それから手首を返し――人差し指をくいくいと動かした。

 挑発をされている。敵の行動が意図することに気付くと、直也の頭にはカッと血が昇った。

「お前……ふざけんな!」

 突如、腹部に与えられた強い衝撃に、直也は仮面の内側で舌を噛んだ。

 一瞬で装甲服が、オウガの眼前まで移動していた。そうとしか、直也の目には見えなかった。

 衝撃はオウガの装甲をたやすく貫通し、直也の内臓までにダメージが及んだ。口の中に酸っぱいものを感じながら、地面に背中から押し倒される。起き上がろうとすると顔面をつま先で蹴られ、後頭部をしたたかに地面に打ちつけた。

 喋る暇さえ与えられず、今度は首を持って掴みあげられる。もがこうと腕をばたつかせようとするが上手くいかず、木に投げつけられた。オウガの体は木をへし折り、再び地面を転がる。さらに飛びかかってきた装甲服が、その腹を踏みつぶした。

「野郎……ッ!」

 仰向けに寝転んだ姿勢のまま、右手の刀を横に薙ぐ。その刃は敵のわき腹を捉えた。しかし相手はまったく怯むことなく、オウガの手首を蹴りやった。手首の筋をあらぬ方向に無理やり押し曲げられ、直也は激痛とともに刀を取り落とす。

 無防備になったオウガの腹を、敵は再度踏みつけた。さらに何度も何度も、繰り返し、踏みつけられる。片足を執拗に持ち上げ、下ろす、装甲服の姿にはどこか狂気が見え隠れしており、直也は恐怖を覚えた。それはまるで気に食わない人物の顔写真を、本人に見立てて踏みにじり、切り裂き、興奮の赴くままに蹂躙するのと似ていた。明らかにこの敵は、直也を傷つけることに対して喜びを感じているようだった。

 この装甲服を纏っているのは、本当に人間なのか。人間だとしたら、人は他人を傷つけることにここまで愉悦を見出すことができるのか。こんな状況の中で、直也はぼんやりと考える。そうしている間にも、徐々に意識が遠のいていった。

 白く滲んでいく景色の中で直也は先ほど、この敵が蹴り倒した木を見つめる。あの木の切断面。力強く捩じり切られたかのような痕が、このオウガの背中に刻まれた傷跡そっくりであることに今更ながら気がついた。

 よく考えれば、自分が今、力の入らない右手に握っている折れた刀の切り口も同じく、力ずくで壊されたかのような形跡があった。

 まさか。直也は意識を何とか繋いで、視線を装甲服の腹部にもっていく。そこにあるのはオウガと同様のプレート。そこに刻まれた数字は、予測した通り、『5』だった。

 "フェンリル"――拓也は、この装甲服をそう呼んでいた。咲を殺した犯人はフェンリルの装着者。そう断言してもいた。

 間違いない。こいつが、フェンリルだ。確信し、直也は仮面の下で大きく目を見開く。しかしそれが肉体の限界だった。

 攻撃は止み、フェンリルはつまらなそうに首を一度傾げてから、踵を返す。直也は去っていくその背中に腕を伸ばそうとするが、うまくいかない。まるで手足が脳の命令の管轄から外れてしまったかのように、指先にまったく力が入らないのだった。

 待ってくれ、いかないでくれ。口に出すこともできず、心の中で叫ぶ。木立の中に消えていくフェンリルの姿。その鬼神の如き背中を見送った後、直也は子どもの笑い声を遠くに聞きながら、意識を瞼の裏側に委ねていった。




魔物の話 16

 レイは病院の裏、じめじめとした土の上を全速力で疾走していた。悠の病室にいた怪人を見つけるためだ。しかしいくら病院の外を駈けずり回っても、視認することができないばかりか体内の"怪人センサー"も全くの無反応なのだった。

 あの怪人が病室にいることをレイは気付くことができなかった。もしかしたらベルゼバビーと同様、レイのセンサーから逃れるような能力を備えた怪人なのかもしれない。だとすれば厄介だ。

 蓄積した疲労にふくらはぎが悲鳴をあげ、レイはつんのめるようにして立ち止まった。肩で息をしながら周囲を窺い、唇を噛む。あのタイプの怪人は、人間に変化することもできる。患者や見舞客に紛れこまれたら、それこそ発見しようがないではないか。

 レイは愕然としながら、地べたにへたり込む。疲労が全身を覆っているかのようで、頭の中に霞がかかっている。軽い目眩もした。

 白昼堂々と、しかもこれだけ人の多い場所で怪人が姿を見せたことはこれまでに一度もなかった。いわば初めてのケースだ。今が例えば夜中の3時で、場所も人気のない公園ならばたとえ怪人が人間に化けたとしても、不審人物として自ずと発見できていたはずだ。ここまで社会の中に怪人が深く入り込んでいる事実に直面し、もはや現実や平穏という言葉はこの世に存在しないのではないか、と嘆きたくなる。

「なんで悠が……」

 つい先週、拉致され山小屋に監禁されたばかりなのに。怪人の魔の手は理不尽にも再び、悠に再び降りてきた。なぜ悠ばかりこんな目に合うのか、釈然としない。自分とは違い、彼女は少し病弱ではあるが、ただの小さな女の子なのに。どうしてこんな仕打ちを受けなくてはいけないのだろうか。

 もしかしてまたしても、自分のせいなのか。レイは身震いをし、縮こまる。もしかしたらあの白衣の男たちが悠を連れ戻そうとしているのかもしれない。レイを思いのままに操るために、またしても彼女をダシにしておびき寄せようとしている、その可能性も大いにあり得る。

 女性の話し声が聞こえ、レイは目線だけをそちらにやる。白衣を纏った2人の看護師がおしゃべりをしながらレイの方に近づいてくるところだった。2人はこちらに気付くが、とくに気にかける様子もなくあまり上品ではない笑い声をあげながら、目の前を通り過ぎていく。

 この病院でたったいま、何が起きたのかもしらないで、呑気なもんだな。レイは彼女たちの背中を見送りながらその立場を羨み、嘆息する。このままずっと何も知らないでいれたら。怪人の存在も、自分の正体からも目を逸らしたまま生きていれたなら、こんな状況には陥らずに済んだのかもしれない。そんな考えが頭の隅を掠める。

 看護師、というキーワードに誘発されたのか、不意に脳裏を橘看護師の姿が過った。

 悠を自らさらった主犯にも関わらず、最後までその安否を気遣い、レイの後押しをしてくれた女性。ディッキーを殺した二条裕美や、多くの女性たちの精神を弄んだ白衣の男の仲間であるにも関わらず、レイはなぜか橘看護師を憎みきれずにいる。それはきっと、ぶっきらぼうな言葉の節々に滲む慈愛に満ちた気配のせいだろう。実は、本当は悪い人ではないのではないか。彼女は実は、男に脅されて無理やり仲間にされているだけではないのかと思いたかった。

 そんな思考の渦をかき消すような、けたたましい音が鼓膜を打つ。バイクのエンジン音だった。目を向けると、2人の看護師が現れたのと同じ方向から、今度は1台のバイクがこちらに向かって来ていた。

 病院の裏という環境から人通りが少ないと予想していたが、案外そんなことはないのだろうか。不思議に感じながらも、そこまで気に留めるべきことではないと思い、レイは立ちあがる。とりあえず佑のもとに戻って、無性に悠と会話がしたかった。彼女が無事であることをこの目で、耳で、口で今すぐにでも確認したい。この憂鬱な気分を晴らすには、悠の笑顔を見ること以上の薬はないと確信している。それがさらに悠を危険に晒す行為だと分かっていても、衝動は抑えきれない。

 しかしレイの行く先を、土煙を巻き上げて停車したバイクが阻んだ。緑色のボディに黒のライン。赤いランプも合わさって、まるでそれ単体で巨大なバッタのようにも見える。

「やっと見つけた。僕の手を煩わせるとはね。君が小さい女の子じゃなければこのまま轢き殺していたところだった」

 バイクに跨る男が穏やかな口調で恐ろしいことを口にする。高価そうな背広とスラックスに身を包んだ男だった。頭からすっぽりとヘルメットを被っているため、顔は判別がつかない。

「もう。大人なんだから、交通ルールは守ってくださいな」

 急ぎ、焦っている状況だったので、突然の横やりにレイは顔をしかめて抗議する。

 しかし男の姿がどろどろと空気に溶けていき、その下から新しい体が浮きあがってくる光景を目の当たりにすると、その苛立ちもいっぺんに吹き飛んだ。

 金色の鎧に身を包んだ怪人だ。日の光をいっぺんに乱反射し、煌びやかなまでに輝いている。目は血のように赤く燃え、サングラスをかけているのかと見紛うほどに大きい。堅牢そうなボディは前に立たれるとなかなかに迫力があり、小柄なレイは圧倒される。背中にはいかにも高級そうな黒いマントが風もないのに大きくたなびいている。胸では、蟹の柄が鋏を広げて踊っていた。腹には温泉でよくお湯を吐きだしているような、ライオンの顔を象った石像が埋め込まれていた。

 先ほど、病室にいた怪人とは違うが、"新型"であることに変わりはない。

「怪人! また、私を黒い鳥にするために……?」

 レイは飛びのき、身構える。このタイプの怪人にレイの能力が通用しないのは、昨日の戦闘で経験済みだ。しかも今回は事前に仲間に引き込んでおいた怪人はいない。ならば残された手は、たった1つ。

 ポケットに手を差し込み、その奥に眠る携帯電話を取り出そうとする。レイの役目。それは怪人の出現を、他のマスカレイダーに知らせることだ。

 だが、警戒心を滾らせるレイに怪人は肩をすくめた。重そうな鎧が有機的に上下する光景は、なんだか違和感がある。

「おいおい。僕をあんな悪いやつらと一緒にしないでもらえないかな」

「え?」

「世の中には悪い怪人といい怪人がいるが……僕は後者だ。分かるだろ? すなわち僕は、いい怪人なんだ」

 嘘をつけ、と内心で思う。気付けば口でも「嘘をおっしゃい」と奇妙な日本語を口走っていた。恐怖と焦燥で言語中枢がパニックを起こしているのかもしれない。

「可愛い口を利くじゃないか。最高だね。その言葉づかいは」

「うるさいですよ」

「まぁ、なんにせよ、僕はいい怪人だから。君に危害は加えないってことだ。安心していい。いい奴の言うことは、信頼に足りるってよくいうだろ」

「自分からいい人って言う人に、まともな人はいないらしいよ」

「いや、いるね。僕だ。僕はナイスな男だから、許されるんだ」

「ナイス?」

「ナイスだ。そしてエレガント。この僕を表す、二大形容詞さ」

 またこういう奴が現れたか、とレイは唖然とする。この世には変態しかいないのかと、わけもなく社会の行く末を案じる。思い返してみても最近、まともな考えを持った人間に出会った覚えがなかった。

「それに、君だってあんな奴らと一緒くたにされちゃたまらないだろ。最高の怪人さん?」

 レイは身を強張らせた。そしてキッとその怪人を睨みつけると、携帯電話を取り出しながら訊ねた。怪人は携帯電話に注意を向けはするものの、特にそれを妨害するような素振りはみせない。

 耳をつんざくような、甲高い叫び声があがったのはその時だった。

 あまりに突然だったので、レイは驚きに跳びあがりそうになった。実際、心臓は胸の内側で激しく跳ねまわっている。

 振り返ると、先ほど前を通り過ぎていった2人の看護師がこちらを見て、一様に目を見開いていた。叫んだ表情のまま固まっている。その視線は、レイと対峙しているこの金色の怪人を捉えていた。

 怪人は片手で耳を塞いだ姿勢で、やれやれという風に肩をすくめた。

「うるさいな。年増に興味はない。僕はこの子に用がある。ちょっと、黙っててもらえるかな?」

 怪人が拳を前に突き出す。その手をパッと開いた瞬間、その掌中から薄い光が迸った。あまりの眩さにレイは顔を逸らし、ぎゅっと目を閉じる。少ししてから恐る恐る瞼をあげると、そこには満足げに、首の骨を鳴らしながら佇む怪人の姿があった。

 何が起きたのか。レイは女性看護師たちの安否を気遣いながら、振り返る。するとそこには、全身をくまなく光沢のある銀色に染め上げた2人が立っていた。一瞬にして、等身大の銅像ができあがった。レイの目には少なくとも、そう見えた。彼女たちの体からは全く生物的なものを感じることができず、その目や口は単なる窪みと化していた。驚嘆を表情に広げ、1人は口に手を当てた体勢で、もう1人は手と手を握り締めた恰好のまま、固まっている。

「……銅像?」 レイが呟くと、怪人は「いや、本人だ。これが僕のナイスな能力なのさ」と得意気に言った。説明口調なのは、自信の顕れなのだろうか。

「本人?」

 レイは真実を知らされてから今一度、看護師の銅像を見やる。確かにそれは迫真の表情を浮かべており、今にも動き出してきそうな迫力があった。それがつい数分前まで生きていた、生身の人間であるという事実を加味してから改めて見ると――慄然としたものが心に過る。彼の口調が冗談を言っている風ではないことも、さらなる恐怖を誘った。

「わざわざ殺さないところが、僕のいいところなんだ。だが、いかんせんモデルが悪い。いい作品に仕上がらなかったのが、残念だ」

「あなたは、何者?」

 警戒心を滾らせながら、レイは右手に携帯電話を握り締めたままだったことを思い出す。すっかり汗で濡れてしまったそれを慎重に両手を使って開くと、番号の『1』を押した。あとは通話ボタンに指を伸ばすだけで、速見拓也と通信が繋がる状態だ。しかし怪人はレイの行為に何ら関心をみせず、高笑いをあげた。

「なるほどね。まぁ、無理はないか。君は僕のことを知らないかもしれないが、僕は君のことをよく知っている。……いいだろう、教えてやる。その小さく可愛い耳の穴をかっぽじって、よく聞くんだ」

 その時、レイは途端に不穏なものを感じた。全身の皮膚が泡立ち、気が少し遠くなる感覚。恐怖とも、怒りとも、憎しみとも、悲しみとも違う感情。その根源は目の前の怪人の、もっといえば、その怪人の小さな牙が生え揃った口にあった。

「僕の名前はキャンサー。蟹座の英雄だ。君が最高の怪人ならば、僕は最強の怪人さ。そして……」

 次の瞬間、レイの手から携帯電話が失われた。戸惑い、素早くあたりを見回すと、それはいつの間にかキャンサーの手の中にあった。彼は携帯電話の画面を確認すると、通話ボタンを押し、耳に当てる。そしてその顔の半分以上を占める、炯々と光る眼差しをこちらに向けたまま――レイに向かって、話を続けた。

「そして、僕は君たちに倒されたシーラカンスの弟。すなわち二条裕美の息子なのだ!」

 あ、そうなんですか。息子さんなんですか。

 大仰に言い放つキャンサーの言葉に、レイは実感をまるで持てずにいる。自分の今の使命も役割も忘れ、ただ、その豪奢な怪人の肉体をぼんやりと眺めることしかできなかった。



6話完

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