5話「二条の息子(前篇)」
2010年 8月7日(土)
魔物の話 13
「誰、これ?」
レイはしかめっ面を作ると、開口一番、疑問を投げかけた。
船見家のリビングと隣り合わせにある、小さな部屋でのことだ。壁際にいくつかの桐タンスが並べられている以外は、一切の生活スペースを持たない物置部屋である。床一面には日に焼けた畳が敷かれており、1歩歩くたびに足元で軋んだ音が鳴った。
レイは父親によって朝から、ここに連れてこられていた。
昨晩の疲れがとれず、眠気で頭がぼうとする。体もひたすらに重い。肩には刺すような痛みがこびりついているかのようだ。そんなお世辞にも万全とはいえない体調の中、レイはいま、複雑で奇妙な状況と対面している。
レイがこの埃渦巻く室内で対峙しているのは、小さな女の子だった。
年齢はようやく小学校にあがるかどうか、というくらいだろう。立ちあがっても身長はレイの胸あたりまでしかない。ビー玉のような大きな黒目がちの瞳と、風船のように丸い顔の輪郭からは幼さが滲み出ているかのようだ。髪型は黒のショートカットで頭頂部に白いベレー帽を被っている。花柄の黄色いワンピースに黒いスパッツという出で立ちだった。
「刮目しろ。これが昨日、私の捕えた、怪人だ」
隣に立つ黒城が、眼前の幼女を顎で示す。レイは額に刻んだ皺を、さらに深いものとした。
「これでもいっぱいまで、目を開いているつもりなんだけど」
レイは言葉通りに目を瞠ると、一歩前に足を踏みだし、その幼女の頭を軽く叩いた。綿糸のようなきめの細かい髪の毛の、柔らかな感触が掌に広がる。
「どうやっても、小さな女の子にしか見えないよ」
「ふん。お前もまだまだ、心の目の修行が足りぬようだな。わが娘よ」
「現実の見えないお父さんよりは、きっとマシだよ」
幼女は荷造り用の白いロープで幾重にも上半身を巻かれ、身動きがとれないように固く縛られていた。幼い子どもが束縛され、衛生的とはいえぬ小部屋に軟禁されている光景は、痛々しいものだったが、当の本人はけろりとしたもので、両足を伸ばし、涎を口端から垂らしながらにやけている。その無垢な表情は、状況が状況だけにレイの目にはとてもアンバランスなものとして映った。
「ね。あなたは、本当に怪人なの?」
父親に訊いても埒が明かないことに気づき、レイは直接問いかけることにする。幼女は何が嬉しいのか簀巻きにされたまま、器用にも畳を足の裏で叩く反動を用いて立ち上がると、その場でぴょんぴょんととび跳ねはじめた。
「そうだよー。私、怪人だよ-」
幼女の言葉に、したり顔で黒城が鼻を鳴らす。ほれ見たことか、とでも言いたげにレイを見下ろしてくるその視線が悔しくてたまらなかったが、その苦汁を唾液とともに呑みこんだ。
「お前を尾行している途中でこいつに行く手を阻まれてな。捕まえた時は怪人だったが……気付いた時には、幼女になっていた」
「それはきっと、お父さんが騙されたんだよ。日ごろの行いが最悪だから」
「そんなことは、けしてない」
「まぁ、なんでもいいけど。とにかく、この子は怪人ってことでいいんだよね」
幼女が元気いっぱいに返事をする。黒城が憮然とした表情で、静かに頷く。二人の動作は申し合わせたかのように、ぴったりと一致した。
レイは黒城の話からシーラカンスやイスト、バニッシュら、いわば"新型の怪人"たちのことを思い出していた。
彼らは普段人間の姿を纏い、この社会に紛れ込んでいる。その状態ではレイの怪人センサーにも反応せず、怪人としての姿を晒すことで初めてその反応が明瞭としたものになる。
黒城の話が本当ならば、おそらくこの女の子もそういった新型怪人の一種なのだろう。しかもイスト曰く、"怪人の状態でもレイのセンサーに引っ掛からない、特殊な怪人"だ。
ならば、質問したいことは山ほどあった。レイは幼女の前で屈みこみ、彼女と同じ目線で向かい合う。対面すると彼女はきゃっきゃっと騒ぎながら電気ポットさながらに、レイの頭を掌で何度も叩いてきた。自分の髪がもさもさと音を立てて潰されていくのを耳にしながら、そんなとこを叩いても、私からはお湯は出てこないよ、と言いたくなる。
「あなた、名前は?」
痛くはないが、鬱陶しい。レイは幼女の手を払いのけながら、質問を重ねた。
「まずはお名前、教えてよ」
「うーんとね、ベルゼバビー!」
幼女はいきなり、開脚ジャンプをしながらそんな呪文じみた言葉を叫んだ。それが彼女の名前であることに気がつくのに、レイは数秒の時間を要した。
さらにレイの困惑を深めようとするかのように、女の子はさらにぴょんぴょんと跳び跳ね、続けざまに言った。
「つまり、略してネイだよー」
「え、どこを?」
本当は、なにが、と訊きたかった。
眠気のあまり、彼女との会話を1つ飛ばしてしまったのかと勘違いしたが、どうにもそうではないらしい。幼女は何も答えず、可愛らしく小首を傾げてにやついている。そんな顔をされてはこちらからその件についてこれ以上追求するわけにもいかず、これこそ可愛い子詐欺ではないか、とレイは悔恨の情を抱いた。
気を取り直し、せっかくの機会だからとさらに問いかけを続けることにする。自分をネイ、と称したその幼女はいつの間にやら座り込み今度は行儀正しく正座をしていた。
「あなたもまた……その、私を黒い鳥にするために、来たの?」
襖を隔てた先にあるリビングには、トヨと狩沢がいる。だからレイは黒い鳥、の部分を小声で囁くようにした。自分が怪人であることをばらすのは、まだ、あまりよろしくない。拾い上げたい情報はたくさんあるが、そこだけは何としても死守しなければと躍起になる。
しかし、ネイはかぶりを振った。満面の笑顔で、頬にえくぼをへこませながら「違うよー」と否定する。「大お姉ちゃんにお願いされて、この変な人と戦えって言われたんだもん」と説明しながら、黒城の顔を鋭く指差した。
黒城は片眉をあげ、鼻の穴をひくつかせた。口の上にある髭が鼻息でぴくぴくと震える。
「私を変人呼ばわりするとは、貴様、いい度胸ではないか。その気概が蛮行とならぬことを願うがな」
「まるで自分が、変人じゃないかのような言い方しないでよ。お父さん」レイは父親を咎めると、それからネイに顔を戻した。「そんなことより、大お姉ちゃんってなに? あなたたちのお父さんはあの白衣の人じゃないの?」
尋ねながらもレイは、イストも姉という単語を用いていたことを思い出す。姉の命令で、黒い鳥の羽をもってやってきた。そう自分の素性を明かしていた。
ネイの話す大お姉ちゃん、と、あの男が姉と呼んでいた人物が同一なのかは不明だが、彼ら新型怪人の素性を知る上での手がかりになることは間違いない。
「大お姉ちゃんはね、ちょーじょなんだってー。だから偉いんだよ、それにね、いっちばん強いの。父ちゃんと会えるのも、大お姉ちゃんだけなんだよー」
「つまり、それは」
黒城が口を挟む。髭を指先で撫でつけながら、慎重そうに言葉を紡ぐ。「つまり、貴様は奴の居場所を知らないということかね? その長女とやらだけが、奴と直接繋がっているというわけか」
「うん、そうだよー。大お姉ちゃんは凄いんだよー」
表情を溶けかけた氷のように崩して、ネイが言う。彼女の餅のようにふくよかな頬も合わさって、実にしまらない顔立ちだった。
「長女ってことは、あなたみたいなのがまだたくさん、いるってわけ?」
「いっぱいいるよー。ネイが、ななじょだもん」
「七女……ずいぶん、いるみたいだね」
レイは表情を曇らせる。人の姿に変化する新型の怪人。佑と黒城の協力でとりあえず二体を撃破したものの、ネイの口ぶりから予想するところ、どうたらまだそれはほんの序の口のようだった。
おそらく、まだイストやバニッシュのような怪人は大勢いる。それら全員が虎視眈々と、レイを黒い鳥に進化させるため目を光らせていることを想像すると、その底の知れなさに目眩さえした。
黒城が動いたのは、その時だった。黒城は衣擦れの音をたてることもなく、ネイの前に屈みこむとベレー帽を手の甲で弾き飛ばし、すかさずその丸い頭を掴んだ。そのまま右腕一本に力をこめ、こめかみを絞めつける。ネイは「ひーん」と情けない声をあげ、苦悶に顔を歪ませる。
「そうか。ならば貴様の正体がなんだろうと、もはやどうでもいいというわけだな」
黒城はそのまま立ちあがると、ネイの体を畳の上から引きはがした。110センチ超の身長しかもたない小さな女の子を、大の大人である黒城が右手一本で掴みあげている。そういう構図だった。咄嗟に反応できず、レイが息を呑む側で黒城はネイに顔を寄せ、怒鳴った。
「ならば、その長女とやら場所を教えろ。さもなくばこの頭、このままかち割ってくれる。さぁ答えろ。私の娘を侮辱し、傷つけた。ばか者はどこにいるのだと聞いている!」
「お父さん!」
年増もいかぬ幼い女の子の頭を、中年男性が掴み上げているという絵面はあまり好ましいものではない。戸惑いながらもレイが間に割って入ると、黒城は最後まで不服そうな顔を浮かべてはいたものの、諦めるようにその手を離した。床に落ちたネイは畳の上を転げ、頭を抱えて大げさにのたうちまわる。
「痛いよ痛いよー、変なおじさんにいじめられたー、訴えてやるー」
喚き散らすネイの舌足らずな声調は、内容の割にどこか愉快気だった。この状況を心から楽しみ、レイと黒城が煩悶する姿をみてあざ笑っているのだ。その本心を垣間見たとき、レイは初めてこの幼女の明け透けな笑顔に憤りを感じた。
「こいつには、山ほど訊きたいことはあるが」
黒城は足元のネイを睨みながら、眉を上げた。父親が苛立っていることは、表情や語調から読み取ることができた。ここまで内情を表に出すには、父親にしては珍しくレイは辟易する。
「お前の正体だけは、暴露させるわけにはいかん。今日はここで私が見張っている。真実を全て聞きだせたところで、こいつを跡形もなく処分してくれるわ」
「でも、そんな簡単に引き出せるもんなのかな」
そんなに呆気なく情報を得られたら世話はないし、とレイは胸の中で思う。言葉を解する怪人を1人捕えたのはいいが、まだ周囲に立ちこめる霧は深く、一点の光明さえ射しこんでくる気がしない。
この濃霧をそうやすやすと振り払えるものだろうか。そんな疑問が、心の中でひしめいている。率直にいえば悪い予感がレイの身に警戒心を抱かせていた。
「安心しろ。拳に訴えてでも、吐きださせてやる。幼子の姿をしているが、しょせん怪人は怪人。躊躇をする理由などどこにもない」
「それは、拷問じゃないの。お父さんは構わないかもしれないけど、絵面的には、ちょっと」
レイは先ほどの一連のやりとりなどなかったかのように、にこにこと笑ってこちらを見上げているネイを見やりながら、眉を寄せる。彼女の口元がもごもごと動いているのが気にかかり、耳をそばだてると、「ぶんぶんぶん、蠅が飛ぶー」と独特な拍子をつけて口ずさんでいた。そこは蜂じゃないの、と年長者としてのアドバイスを送りそうにもなるが、そんな義理はないことに気づき、止めておく。
しかしそんな、精神的にも未熟な幼女に対しても。黒城はいつものように傲岸な、遠慮も躊躇もない態度で見下しながら吐き捨てた。
「拷問? 違うな。それは他人を虐げることしか能のない、暗愚な庶民が用いる言葉だ。私が行うそれに準拠した行為は、支配、もしくは、弾圧という。せいぜい、頭に刻みこんでおきたまえ」
それが世の理と断言するかのような迫力に押され、レイは何も言えなくなる。全身に電撃を流されたような感覚が、思考中枢にブレーキをかける。ようやく喉の筋肉が活動を始め、少しずつ頭の中を整理しながら「あ、うん」と反応を示したところで、突然襖が開け放たれた。
あまりの騒々しさに、トヨが心配に思って覗きこんで来たのかと考えたが、その予想は呆気なく外れた。現れたのはレイの初めて見る、ブラウンのテンガロンハットを被った男だった。
背が高い。おそらく190センチはある。スリムを通り過ぎて栄養が足りてないのではと疑ってしまうほど、体が細い。その頼りなさは暴風雨に揺さぶられる痩せた木のようだ。眉は薄く、目は狐のように細く吊り上っている。その肌はむらなく日焼けをしていた。
テンガロンハット、白いノースリーブのシャツ、黒いスラックスという出で立ちのその男は動じる素振りもみせず、無言でレイを見下ろしている。その爛々とした光を発する眼差しに突き刺され、レイは寒気を感じる。黒城は幼女を気にかけながらも、男の方に顔を向け、いきり立った声をあげた。
「取り込み中だ。ノックもせずに入るとは、失礼極まりないな。貴様、何者だ」
いや、お前が何者だよ、とでも言いたげにテンガロンハットの男は僅かに鼻を寄せた。しかし表情は変えない。まるで蝋人形のようだ。
勝手に他人の家の一室を占拠している自分たちが言えたセリフではないのではないか、とレイは父親の発言に呆れながらも、その突然現れた男に対し不審感をもっているという点においてはその意見に同感だった。
マスカレイダーズのアジトへの見知らぬ男の来訪。レイには一つだけ、思い当たる節があった。ゴンザレス以外、誰も知らない実しやかに噂されている9人目のメンバーの話のことだ。もしかして彼がそのメンバーではないのか。咄嗟に閃いたのは、そんな信憑性すら危うい情報の正誤に関することだった。
「あの、もしかして、うちのメンバーの方ですか?」
レイは思い切って、質問する。だが男は答えない。相変わらず、唇を固く結んだまま細い目で部屋中を眺めまわしている。随分と頑なだ。真偽を訊きだすことは無理かな、と諦めが脳内に渦巻く。
それにしてもこの男の不穏な雰囲気は何だろうと、わずかに首をすくめるようにしながらレイは怯えた。その視線の冷たさは、視界に入る者を誰彼構わずに嬲るかのような猟奇性を孕んでいるかのようだ。手の震えが止まらない。恐怖が胸の中まで浸透し、見られていると意識するだけで膝からくず折れてしまいそうになる。
「あの、あなたは……」
ようやく絞り出することのできた声に載せて、男の正体を探ろうとする。
しかし男はそんなレイの恐怖をあざ笑うかのように、男は目を見開くと、狂気のこもった笑みを浮かべてよこした。
鳥の話 14
『喫茶店 しろうま』の店内に軽やかなフォークギターの音色が奏でられ始めたのは、午前10時を少し回った頃のことだった。
店内にはBGMとしていつも和やかなクラシックがかかっているが、本日ばかりはその音楽たちも身を引いているように思える。疾走感のあるギターサウンドが、違和感なく自然に店内の空気に溶け込んでいく。
鼓膜の上を跳ねまわり、体の芯に沁み入ってくるようなメロディーは気分を心地いいものにさせる。まるで海原にそよぐ風のようだと、六弦から繰り出される音の奔流に身を包まれながら仁は感動を覚える。聴いたことのない曲だったが、肌が粟立ち、静かな興奮が胸の奥からせり上がってきて、カウンターの内側で棒立ちになったまま時を忘れてその音楽に聞き入った。
音楽が止む。演奏が終わったのだ。仁は瞼を上げながら、自分がいつの間にか目を閉じていたことに気付く。それからカウンター席に腰を下ろす演奏者に、心から拍手を送った。
「さすが、音楽の先生。いやいや、いいもの聞かせてもらいました。お見事!」
心中の思いを感謝に載せて告げると、ギターを抱え、ようやく弦から指を離した速見拓也は少し照れくさそうにした。軽く仁に頭を下げ、それから向かい合って座っている佑の顔に目を移す。
その佑はといえば、口をぽかんと開けたまま拓也をじっと見つめて固まっている。しかし次第に頬を緩めていき、続けて驚愕と感嘆を表情全体に広げて、最終的には全身を微動させるようにして拓也に力強い拍手を送った。
「……凄い。凄いですよ先生。俺、じーんときちゃいました。こんな、心にずっしりとくるギター、今まで聞いたことないです! 本当に……本当に、感動しました!」
拓也の手を取り握りしめる佑の目は、今にも涙が零れ落ちるのではと心配してしまうほど、ひどく潤んでいる。しかし、それも無理はないなと仁は思った。それほど、今の演奏は素晴らしかった。店内を流れている古きクラシック音楽と比べても、遜色ないのではないかと半ば本気で考えてしまう。そしてそれを口にしても、誰もが頷くだろうと確信できるほど、拓也の奏でた音楽は感動的なものだった。
「どうやったら……どうやったら、こんなめちゃくちゃ凄い演奏ができるんですか? やっぱり相当な練習を積んだり、自分に合ったギターを見つけたり、したんですか」
佑は拓也から手を離してはいたものの、まだ内に滾る興奮を抑えきれぬ様子で、彼に詰め寄っている。その声は上擦り、そこに冷静さは微塵も残されていないようだった。
拓也はカウンターに立てかけたギターケースを手にとり、ギターをしまいながらゆっくりと頬を上げた。
「大したことはしてないよ。このくらいだったら、君にもすぐ弾けるようになる。指を一目見れば分かる。君の手は、音楽を奏でるためのものだ。だから絶対、俺よりも上手くなるさ。それは保証するよ」
拓也の言葉に、佑はぼんやりと自分の掌に視線を落とす。その手に刻まれた生命線の機微や渦巻き模様の描かれた指紋にまで、意味を見出そうとするかのような面持ちで目を凝らす佑を横目で眺めながら、仁は密かに安堵の息を吐いていた。
最近の佑はスランプで落ち込み、家では暗い表情を浮かべてばかりいたので、佑の晴れやかな顔を見たのは実に久々なことだった。これを契機にまた元の明るさが戻ればいいな、と心から願う。白石家を照らす太陽は、少しでも陰るだけでそのバランスを失ってしまう。
佑の右腕の袖口からは包帯が覗いている。理由は話してくれないが、昨日けがをして帰って来たのだった。しかし今の彼からは、利き腕の負傷に思い悩む様子は一切見られない。ぴんぴんしてギターを教わっているところをみると、巻かれた包帯の量と比べてけがは案外大したものではないのかもしれない。
「技術とか、楽器の質とかももちろん大事だ。努力はすればするだけ力になるし、楽器もそれなりにいいものの方がやっぱりいい音は出る。だけど、やっぱりさ。最後に必要になるのは、魂なんだよ」
拓也は自分の胸のあたりを手の甲で叩いた。佑も自身の胸を摩る。「魂……」と感服するように小さく唇を動かす。
「そう。音楽を、楽器を愛する魂。それさえあれば、音楽はその気持ちにちゃんと答えてくれる。これは本当だよ。逆にいえば、どんなに努力しても、どんなにいい楽器を手に入れても、そこに心がなければいい演奏はできない。どんな時でも愛は捨てちゃ駄目だ。最後は、愛が勝つんだ」
随分思い切ったことを言うなぁ、としんみり思いながら、仁は何ともなしに拓也の首元に目をやった。そこには喉仏を覆うようにして赤く変色をしている箇所があった。火傷の跡のようにみえる。傷跡は広く、角度によっては掌の形に見えないこともない。
その瞬間、まさか、と仁の心に危うい憶測が忍び込んできた。焦燥感にかられて拓也の右手を見れば、その手首にも首と同じように、変色している部分が窺える。それを確認するとさらに心臓の鼓動が高鳴った。
首と右手首。それはどちら3日前。仁がマスカレイダー・ダンテと対峙した際の交戦中、ダンテに攻撃を加えた箇所だった。そういえば戦闘中、ダンテの仮面の内側から発せられた男の声に聞き覚えを感じた。あれは拓也の声だったのではないかと、脳内でダンテの発していた声を再生しようとするが、うまくはいかない。
しかしまさか、この男であるわけはない。仁は佑にアドバイスを送る拓也の和やかな表情を見やりながら、自ら編みだした予測を自らの手で否定する。この男がダンテであって欲しくない、という願望も心のどこかにあったのは間違いなかった。
音楽に対する愛を説き、美しいメロディーを紡ぐ才能を持ったこの男ほど、戦いに無縁な人間はいないだろう。おそらくあのけがも偶然だ。首はともかく、手首の火傷など珍しいものではない。それで彼がダンテだと決めつけるのは、改めて考えてみれば少々強引な気もした。
「若い才能は、素晴らしいな。羨ましいよ。私のような夢も何もない中年には、あまりにも眩しすぎる」
そう呟いたのは、仁の向かいでホットコーヒーを口に含んだ菅谷だ。演奏に夢中になり、さらにその後、ふと浮かんだ憶測を働かせていたために、すっかり客の存在を失念していた。仁はいかなる反応よりも前に「あ、すみません」ととりあえず目の前の菅谷に謝り、さらに慌てて店内を見渡すが、テーブル席に新聞を広げた男性客が1人いるだけだった。
「さっきの演奏もよかったけど、菅谷さんも輝いてますよ。僕の中では最高のワットです」
これはフォローにすらなってないな、と口に出してから気が付く。その自己評価は見事に的中し、菅谷はコーヒーを口に運びながら不機嫌そうに鼻を鳴らしただけだった。そんな様子に、仁の頭にある考えが閃いた。仁は両肘をカウンターに乗せると、菅谷に顔を寄せ、言った。
「菅谷さん、腕相撲しませんか?」
その提案に、菅谷は顔をしかめた。コーヒーカップを置き、「なぜ、君と私が腕相撲をするんだ」と至極当然な問いかけをしてくる。
仁がエプロンの下に着ているのは半袖のプリントTシャツだったが、腕をまくる真似事をし、菅谷に腕を突き出した。
「僕。腕相撲弱くて、誰にも勝ったことがないんだ。だから菅谷さんでも勝てると思うんだけどな」
「なるほど。それで、私に自信を持ってもらおうと、そう考えているわけか」
仁はにやりと笑み、首肯する。図星だった。しかし仁の目論見を見抜いた菅谷はにこりともせずに、両腕を固く組んで拒否の構えを取る。
「だが、甘いな。腕相撲の弱さに関しては、私は絶対の自信を持っている。世界でいちばん弱いのは、この私だ。赤子でさえも、私の手を捻らざるを得ないと思っている」
「ならその自信、僕の弱さで崩してみますよ」
強気な口調で弱気なことを主張し、仁は菅谷を睨む。菅谷も憮然とした表情で、こちらを見つめ返す。どちらも引かず、押さず、綱引きのようなやり取りを相手としているような気持ちに仁はなる。菅谷の目から発せられる濁った光は、思いのほか強く、仁の心に直接揺さぶりをかけてくるかのようだ。
「いいだろう。やってやろうじゃないか」
組んでいた腕を解き、ついに菅谷が仁に手を差し出した。仁は両頬を上げると、菅谷の意外に大きな手を握りしめようとした。
「できた! ホットケーキできた!」
白石家に通じる、店の奥のドアが音をたてて開き、そこから葉花が飛び出してきた。
彼女はエプロン姿で頭には真っ白のバンダナを巻いている。顔は餃子を作った時と同じく、粉まみれだった。
仁と菅谷は実にスムーズな動作で離れると、何事もなかったかのような顔で葉花を迎えた。仁はカウンターの内側で笑顔を作り、菅谷は渋面でコーヒーを口に運ぶ。何もなかった、何もなかったと自分に言い聞かせるようにする。
葉花は両手でホットケーキの乗った大皿を掴み、駆け足で運んできた。一度足を滑らせ、たたらを踏んだ時はひやっとしたが、何とか彼女がカウンターまでたどり着けたことに仁は胸をなで下ろした。
「よう、久しぶり。元気に夏休みエンジョイしてるか?」
拓也が手を軽く挙げて挨拶すると、葉花は目を剥いた。「わぁお!」声を上げ、それから 小さな指で拓也の顔を差し、表情に疑問を浮かべながら仁の方に首を捩る。「たくちゃん先生がいるー! なんで?」
「お前は幸せだなぁ。こんな素晴らしい人が担任だったなんて……もっと早く紹介してくれりゃ良かったのに」
佑はその事実に心底羨む様子で、肩をすくめる。葉花は状況も理解できていないだろうに、佑の言葉には敏感に反応して、「いいでしょー。たくちゃん先生は私の先生なんだよ」と大きく胸を張った。
「葉花、今度はホットケーキ作ったの?」
仁はカウンターに置かれ、湯気を立ち昇らせているホットケーキに視線をやった。湯気と絡み合って流れてくるバニラの甘い匂いが鼻腔を掠め、食欲を否応なしに刺激する。昨日の、あきらが作ったクッキーも美味だったが、こちらもそれに負けないくらい惹きこまれた。
「おいしそうだ」
「うん、食べて食べてー。ほら、いっぱいあるからタンス君とたくちゃん先生も」
円に形作られた1枚のホットケーキは、なるほど、巨大だった。おそらく葉花の顔よりも一回りくらい大きい。しかし8等分にナイフが入れられており、簡単に適量を自分の手元に確保できるようになっていた。
葉花は細かな足取りでカウンターの内側に回ってくると、仁の隣に立った。そして躊躇もなく、流し台の下に設けられた引き出しを開ける。がちゃがちゃと音をたてながら、中からナイフとフォークを数本取り出した。
それを手際よく、仁、佑、拓也と順々に渡していく。それからハッとしたような顔になると、もう1回引き出しの中に手を突きいれ、もう1組ナイフとフォークを拾い上げた。
「はい。髭のおじさんも、良かったら食べて!」
むんずと掴んだその一式を葉花は差しだす。その先には菅谷の姿があった。菅谷はきょろきょろと周囲を窺ったのち、自分の鼻先を指さし、目を見開いた。
「もしや。おじさんにも、くれるというのかい?」
「うん。前に、プリンをくれたでしょ? 初めて作ったからあんまり美味しくないかもしれないけど……お礼にあげる!」
満面の笑顔を咲かせ、葉花はずいとさらに腕を前に突き出す。菅谷は当惑しながらも、恐る恐るといった様子で、手を震わせながらフォークとナイフを受け取った。そして仁の方をちらりと窺う。その動揺を抑えきれぬ態度に仁は思わず、笑って返した。
「良かったですね。菅谷さん。せっかくだから食べてよ。きっと美味しいと思うよ」
「この年になって、優しくしてもらったのは初めてだ……ありがとう。喜んで、いただかせてもらう」
菅谷は肩を震わせ、今にも泣きだしそうな気配さえ纏いながらホットケーキにフォークを伸ばす。ふと仁が見れば、皿の上にあった円はすでにいくらか欠けていた。咀嚼する音が聞こえ視線を上げれば、すでに佑と拓也が自分の分をたいらげている。いつの間に、と驚いている間にも佑は2つ目に手をかけている。
「いや、でもこれは美味いよ。初めてにしちゃ、なかなかやるじゃないかよ。もうちょい甘さ抑えてもいい気がしないでもないけど」
「まぁ、味がないよりはいいさ。それにしても、こんな才能があったなんて、先生びっくりだ。やっぱり子どもは家庭で育つんだよなぁ」
何に納得したのか、拓也は意味深にうんうんと何度も頷いている。そして彼もまたフォークを再びホットケーキに突き刺す。大口を開けて、心から幸せそうな顔でケーキを頬張る拓也を眺めながら、まだ2回程度しか会ってないのに、この男の適応能力の高さはなんだろうと仁は唖然する他ない。
「あー、良かった。始めてだからどうかな、って思ったんだけど。美味しいんだ。嬉しいなー」
一同の好評価を受けて、葉花は満足そうに微笑んでいる。頬がわずかに赤く、恍惚としているようにも見える。喜色満面という言葉は、このような表情を指すのではないかと思えるほど、その表情は胸に滾る喜びがそのまま滲みでてきたかのようで、仁の目にはとても魅力的に映った。
「良かったね、葉花。みんな喜んでくれて。美味しいってさ」
「うん。白石君も、食べてみてよ。私、頑張ったんだから」
瞳に光沢を纏いながら、こちらを見上げ、嬉しそうに佇む彼女を見ていると、こちらもなんだか浮足立った気分になってくるから不思議だった。自然に顔がにやついてくる。バニラの甘い香りにくるまれ、笑顔を咲かす葉花が愛しくてたまらない。今ほど彼女に触れられないことを悔やんだことはなかった。
拳を握りしめ、自分を制していないと、すぐにでも葉花の小さな体を抱き上げ、一緒にこの喜びを分かちあってしまいそうになる。その衝動を我慢するのは容易なことではなかった。大きく深呼吸をし、意図的に葉花が視線を落とす。そこには彼女の作ったホットケーキが無言のまま待ち受けている。
「仁君も食すといい。これは、かなり、いい感じだ。こんな私のような卑しいオジサンが本当に食べていいのか戸惑うほど、まろやかな舌触りだ」
ホットケーキを口に掻きこみながら、菅谷が感想を早口で告げる。その目元はほんのりと赤く腫れており、本当に泣いているのかと、見ている仁の方が動揺する。
しかしいつも冷静な菅谷が、これほど感激していることは妙に説得感があった。目の前に置かれたホットケーキが、皆の絶賛を聞いたあとだと、初見よりも尚更美味しそうに見えるから不思議だ。知らず知らずのうちに涎が垂れてきそうになる。
「じゃあ、僕もいただこうかな」
先ほど渡されたフォークを握りしめ、仁もホットケーキを食べにかかろうとする。すでに半分は佑と拓也によって食べつくされており、その形状はすでに半円に移行していた。早く食べなくては、このままではなくなってしまう。焦りが血液に混じって、手足や頭を巡ってくる。
「盛り上がってるところ悪いけど、会計、いいかな?」
フォークの切っ先がケーキを貫こうとする。まさにそのタイミングで、仁に向けて声が投げかけられた。手を止め、顔を上げれば、テーブル席に座っていたあの男が菅谷の隣、仁の真向かいに立っていた。その手には空のコーヒーカップが握られている。
仁はフォークを皿の端に置くと、たじろぎながら男からカップを受け取った。
「あ、すみません。何か色々取り込んでて。えーと……コーヒー1杯ですよね?」
「ああ。ちょっとでかいんだが、これでいいだろうか?」
高級そうなブランド物の財布から男が取り出し、こちらにかざしてきたのは一万円札だった。
ピン札だ。折り目1つ、汚れ1つ付着していない。誰も足を踏み入れたことのない一面真っ白な雪原のような。その札から伝わってくる触れがたい雰囲気に仁は気後れしながらも、それを慎重に指先で摘むとレジを開け、中からお釣りを取り出そうとした。
ところが、男の声はそれを制した。手を顔の前で振り、得意そうに、笑う。
「いいや。釣りは、取っといてくれ。金なら腐るほどある。1万円ぽっちの金、寄付してやってもまったく構わない」
仁は男の発言に思わず眉根を寄せ、自分の手に収まっている万札をまじまじと見つめた。100円や1000円ならまだしも、一万円札を出されて釣りはいらないと主張されたのは初めての経験だった。しかもコーヒー1杯は、300円足らずだ。
男の顔を見る。年齢は30代前半というところだろうか。冷徹さの滲んだ、切れ長の目をしている。整った顔立ちは、首元を覆う程度に伸ばした茶髪とも合わさって、どこか女性じみた雰囲気を持っていた。身に纏っているスーツは上等のものだ。持ち物は、これまた高価そうな皮の鞄1つだった。
彼の発言に仁だけでなく、佑と拓也も気を引きつけられている。2人は遠目に仁と男とを見やり、事の顛末を窺う傍観者と化していた。
葉花もまた興味を引かれたらしく、仁の隣で目をぱちぱちさせながら、じっと男を見つめている。男の視線はそんな彼女を捉えた。すると彼は途端に相好を崩し、上着のポケットから飴を取り出した。
「おぉ。そこの麗しいお嬢さん。可愛いなぁ。あまりにも可愛いから、お兄さんが飴玉をあげよう」
「お嬢さん? ……麗しい?」
男の発言に、佑が眉間に皺を寄せる。佑の視線の先と、男の手が差し出された先と、双方の矛先に捉えられたのは、カウンターの内側に立つ葉花だった。葉花はパッと表情を明るくした。
「わー、ありがとう、おじさん! いいの?」
「いいのさ。君の笑顔が、僕の元気の源となるんだ。存分に喜びなさい」
「ねーみてみて! 白石君! 飴もらったよ!」
飴玉一つで喜ぶ女子高校生もなかなかいるまい。警戒心のかけらもないあまりの天真爛漫さに、仁は彼女の将来が気にかかりつつも、この場は賛同することにした。
「よかったね、葉花」
「いやね。僕は君みたいな、健気な子が大好きなんだ。やはりここはいい店だ。こんな小さくてかわいい子がいるんだからね」
「健気? 可愛い? まぁ、チビなのは合ってるけど」
佑がまたしても葉花に、不審な眼差しを送る。その結果、直後に葉花の拳が飛び、佑は額を抑えてのたうちまわるはめになった。
仁は佑を尻目に、男に向かって営業スマイルを作った。
「ありがとうございます。それにしても、お金がたくさんあるなんて羨ましいですね。僕なんかいつでも、お金に困ってて。参っちゃいますよ」
客の話に合わせるのは、接客を生業とする人間には必要不可欠な能力だと、以前義父から教わった覚えがある。それに赤字経営の店を預かっている身としては、金が余っていると豪語する男が羨ましいというのは根からの本音だった。
「羨ましい?」
男は仁の言葉に、異様なまでに反応した。仁はその食いつき具合に鼻白みながら、「はい、羨ましいです」と引きずられるように答える。すると男はさらに笑みを広げた。
「そうだろう。その通りさ。僕ほど人に羨まれる人間は、そういないだろう。よく分かってるじゃないか。さすがコーヒーが美味く、可愛い女の子がいるだけあって、店主も目が高い。いや、僕と同じくらい、とてもナイスだ」
「はぁ……」
「金持ちにはいい金持ちと、悪い金持ちがいる。悪い金持ちは腐った、どうしようもない人間だ。しかし僕は、もちろん前者さ。分かるだろ? いい金持ち。そちらに属する人間は、金に深くこだわらない。まさしく、聖者だ!」
「へぇ、そうなんですか」
なにがなにやら、という気持ちになり、仁は笑顔を引き攣らせる。男との関わり方が分からず周囲に目線で助けを求めれば、菅谷は我関せずといった調子でコーヒーを啜っており、佑は額を抑えながら、難しそうな顔でこちらを見ていた。拓也はふんふんと先ほどから何を納得しているのか、興味深そうに相槌を打っており、葉花は何やら引き出しを無我夢中で漁っている。
誰にも救いを請うことができず、仕方がなく男に視線を戻すと、彼はいきなり財布から万札を2枚、さらに取り出すとそれをカウンターに叩きつけた。
「ここはまぁ、見た目は安っぽい店だが、気に入った。通りすがりで入ってきた甲斐があったというものだ。だからこれは、僕からの寄付金ということにしておいて欲しい。次に来る時は、もっと僕にふさわしい店になっていることを願っているよ」
男は一方的に捲し立てると、仁の手に財布から抜き取った名刺を握らせ、何かを成し遂げたような、満足そうな表情を浮かべて踵を返した。
男がドアの向こうに消えた後、仁はまずカウンターに残された万札に視線を落とし、菅谷と目配せをし合い、それから佑と顔を見合わせた。津波のように押し寄せ、引き潮のように余韻を残しながら去っていった男に、皆一様に困惑しているのが見て取れた。
「……誰?」
佑が眉根に皺をよせ、訝しる。その表情からは不快な様子が色濃くにじみ出ている。
「今まで見たことない人だったけど。でもまぁ、世の中には色々な人がいるもんだね。本当のお金持ちってのは、あんな感じなのかも。常連になってくれれば、嬉しいんだけど」
仁は憶測を口にしながらレジを開け、一万円のピン札を中にしまう。一応、中に入れる直前に電灯に透かしてみたが、偽札ではないようだった。
「随分気前がいい人だなぁ、ああいう面白い人も世の中にはいるのかぁ」
拓也は楽観的だ。頭の後ろで手を組み合わせ、心の底から先ほどの未知との遭遇を喜んでいる。
「ああいう、小さな親切を働く奴にロクなのはいない。仁君、名刺にはなんて書いてあるんだい? 自称金持ちさんの、名前を拝見しておきたいな。少し、興味がある」
菅谷は手厳しかった。頭ごなしに、素性も分からぬ男を批判する。彼に促され、仁は手の中に握られた名刺を確認してみることにした。仁も、一方的に自分の裕福さを喋るだけ喋った末に帰っていった男の素性に興味が沸かないわけではなかった。
ところが掌を開け、そこに記された名を見ようとした直前、突然、葉花の声があがった。隣を見るが、そこに彼女の姿はない。おやと思い、前を向くと、先ほどまでカウンターの内側にいたはずの葉花は、知らぬ間にテーブル席のところに移動していて、片手を挙げながら仁をしきりに呼んでいた。
「どうしたの、葉花?」
「これ、落し物みたい。さっきの面白い人の奴かなー」
仁は足を軽く引きずりながら、カウンターを回り込んでテーブル席の方に移ると、葉花の手の中にあるものを、彼女の手に触れないよう気をつけながら受けとった。
それは鍵だった。自宅のものだろうか。鍵自体はまだ新品なようで、電灯の光を反射しちかちかと瞬いている。小さな蟹のぬいぐるみがストラップとして取り付けてあった。デフォルメされた黄色い蟹で、片方の鋏をスッと上げ、可愛らしくウィンクをしている。
「それ、テーブルの下に落ちてたの?」
仁が鍵を指差すと、葉花は強く頷いた。
「うん。そうだよ。ちょっときらっとしてたから、なんだろう?と思ってみたら落ちてたの。あーあ、あの人にもホットケーキ食べてもらいたかったのになー、フォーク探してる間に行っちゃった。せっかく飴もらったのに」
そう言って、つまらなそうに目を伏せる。だから引き出しを、あれほど必死に探っていたのかとようやく得心がいった。容姿を褒められ、飴玉をもらった通りすがりの珍妙な客にも、手製のホットケーキを振舞おうとする、そんな葉花の優しさに仁は嬉しくなる。落ち込む彼女の頭を撫でてやりたくなるが、それが単なる願望で終わらせるしかないこと気づき、胸が苦しくなった。
その時、仁は近くに来て初めて、葉花の異変に気がついた。彼女の頬は、わずかに上気していた。呼吸も少し苦しそうだ。先ほどは褒められ、照れているのかと思ったが、それはどうも違ったらしい。
「葉花……大丈夫?」
話しかけるが、葉花はきょとんとした顔に「うん、ホットケーキならいつでも作れるから大丈夫だよ!」と少しずつ笑みを宿していく。そうじゃないんだけど、と口を開きかけるが、葉花が涼しい顔をしてカウンターに踵を返すので、うやむやになってしまった。
「金はあっても、鍵は忘れるんだな。お粗末なことだよ」
菅谷が皮肉っぽい口ぶりで言う。よほど、あの男の態度が気に食わなかったらしい。
「ちょっと、まだいるか。見てくるよ」
仁は鍵を片手にドアを押し開くと、店内に充満する涼やかな冷風と一緒に店を出た。代わりに湿度の高い外気が仁を迎えてくれ、その温度差に目眩がする。
視界が明瞭とするのを待ってから、まず周囲を見渡した。すると店の前の道を散歩していた老婦人とちょうど目が合い、軽く会釈を交わす。さらに続けて、自転車に乗った中学生同士と思わしきカップルが目の前を通過していった。
道に出て、左右を確認してみるもののあの男の姿はすでになかった。どうやら一歩、遅かったらしい。仁は落胆しながら鍵を見下ろし、それから右手に握りしめていた名刺を確認した。名刺は手汗で湿ってはいたが、紙の素材が上等なものだからなのか、形が崩れていることはなかった。
「黒城グループ常務取締役、真嶋さん、か……」
名刺に記されていた肩書と名前を読み上げ、一拍置いてからもう1度読み返し、それから仁は遠くを見つめるようにする。
あの人、本当にすごい人だったんだな。仁は有名企業の幹部を務めているという男の肩書きに驚く前に、彼の発言が針小棒大でなかったことにまず、驚愕を禁じ得なかった。
鎧の話 11
東京都豊島区にある雑居ビルの2階で、男性の変死体が発見されたらしい。
朝からテレビのニュース番組にチャンネルを合わせるたび、幾度となく耳に飛び込んでくる事件だ。まさに今、テレビの中で几帳面そうなニュースキャスターが、淡々とその事件のあらましについて述べている。一応観てはみるものの、やはり朝一番に観たニュース番組で説明していた内容から、少しも代わり映えしていなかった。映し出される事件現場の映像もほとんど変わらない。事件が進展をしていない証拠だ。殺人事件らしいが、犯人の目星どころか未だに被害者男性の身元すら判明していないらしい。
もう事件はお腹いっぱいなんだよ。勘弁してくれよ。
直也は心の中で愚痴りながら、リモコンを操作してテレビの電源を落とした。ごろんと、ベッドに寝転がる。体というよりも気持ちが重く、行動を起こす気にはとてもじゃないが、なれなかった。
胸を満たすのは深い喪失感と、大きな徒労だった。あと一歩で手が届くというところで、真実は指先を掠め、再びどこかに消えていってしまう。最近はこんなことばかりだ、と自虐的な気持ちにもなる。自分の不甲斐なさに、呆れを通り越して絶望する。
あの後、拓也と共に日が暮れるまで公園内を探し回ったのだが13人目の被害者である女性はおろか、彼女の父親さえも見つかることはなかった。あまり迷信や心霊現象の類は基本的に信用していない直也だが、それでも2人は神隠しに合ったのではないかと半ば本気で考えていた。
もはや、そうとしか考えられない。目を離していたわけでもないのに、人間1人が跡形もなく消失するなどそうそうありえるものではない。まるで無色透明のカーテンで視界を遮られたかのように、女性は姿を消してしまった。その様子を形容するならば宙に吐き出されては立ち昇り、そのうち空気に混じってなくなっていく一筋の煙のようだった。超常の力を疑い、神の領域まで予想の範囲を広げる以外に、この一連の出来事をどうやって説明できるというのだろう。
「……それにしてもあの女子高生は、一体何者なんだ?」
セーラー服を身に纏い、腕に赤い布を巻いた少女。あの少女と出会ってからまもなくして、女性は姿を消してしまった。直也はあの女子高生の顔をどこかで見た覚えがあった。だがそれをどこで見たのか、さっぱり思い出せない。喉元に魚の骨が引っ掛かっているのと似た感覚が、直也の気持ちをもやもやとしたもので覆っていく。
「あー……くそ。こういう時に何で思い出せねぇんだよ……。イライラすんなぁ」
何とかあの制服の色やデザインは記憶に留めてある。とりあえず、あのセーラー服を使っている学校を調べてあたってみるか――頭の中にこれからの活動方針をメモし、直也は勢いをつけてベッドから身を起こした。
ベッドの脇に腰を下ろしたまま腕を伸ばし、仕事机の上から1枚の便箋をかっさらう。それは消失したあの女性が、ベンチの上に残した謎の手紙だった。中には父親への謝罪と、もう1人の被害者に救いを請うメッセージが淡々と綴られていたものだ。そしてその文面には、黒い鳥についても触れられていた。
もちろん、それは直也にとって衝撃的なフレーズだった。女性は、もっといえばあの事件に巻き込まれた被害者たちは、黒い鳥について何か情報を握っていた。それだけでも明らかになったのだから、大きな収穫ではある。しかしそれよりも、さらに直也の気を引いた一文があった。それは最終行の"人の腕とか足が、怪人に、変わる"と、若干震えているように見える字で記されていた部分だった。
「どういう意味なんだ、これは。暗号なのか、それとも……そのままの意味なのか」
直也が屋敷の地下で見つけた死体は、皆一様に体の一部分が欠損していた。それを猟奇殺人者の、常人には理解し難い行為、として直也はこれまで片づけていたが、思い返してみればかなり不自然で違和感のある死体たちだ。本当にこれを狂人の犯行ということで終わらせていいのだろうか。そんな疑問が不意に、直也の頭の中で首をもたげる。
彼女たちからもぎ取られた手足や、耳や鼻といったパーツは今、一体どこにあるのだろう。この手紙に書き記された最後の一文と、死体に刻みこまれた事実に何か関連性はあるのだろうか。
「……黒い鳥、か」
様々な事象に思考を働かせながら、直也は呟く。そして、水底に沈んだはずのボールが何かの拍子に再び浮き上がってくるのと似た感触とともに、直也はあることを思い出した。今度こそベッドから立ち、作業机の椅子に腰かける。机上からぶら下がった黒いコンセントをプラグに差し込み、机の隅に追いやられたノートパソコンを片手で引き寄せ、蓋を開くと起動させた。
電源スイッチの下あたりにある緑色のランプが点滅を終えると、マウスを操作し、デスクトップのアイコンをクリックしてインターネットを立ちあげる。それから検索サイトにアクセスすると、検索欄にカーソルを合わせてからキーボードを叩いた。
そうして打ち込んだワードは、"黒い鳥"。数秒のタイムラグを置いて、画面にずらりと黒い鳥、という単語を含むページの検索結果が表示された。
一番上に出てきたのは、黒い鳥という単語を題材にしたネット小説だった。開き、最初の2、3行を流し読みしてみるが、求めていることと特に関連はなさそうだったのですぐさま検索結果のページに戻る。その下には、"黒い鳥特集"というタイトルで、黒い体表を持つ野鳥たちを写真付きで紹介しているサイトがあった。自然の中を飛び回る鳥たちの写真は美しく、それでいて愛嬌のあるものだったが、これもまた欲している答えとはほど遠い。
さらに検索結果に戻り、ページを下へ下へと送ってみるが、やはり皆、それほど参考になりそうなページは見つからなかった。
ならば、と直也は検索欄に再度カーソルを合わせる。今度は"黒い鳥 インタビュー"と検索ワードを足した。
改めて検索すると、今度は一番上に歌詞情報サイトがきた。どうやら黒い鳥というタイトルの歌があるらしい。それを無視し、さらにマウスを操ってページのバーを下に動かしていく。やはり検索ワードを1つ足しても、相変わらずネット小説の類を扱ったサイトが多くを占めていたが、まるで落ち葉に紛れ込んだビー玉のように、直也が探し求めていたそのサイトは咲き乱れる個人サイトの山の中に身を潜めていた。
それは昨日の尾行中、拓也との雑談の中で出てきた、ある企業の社長が検索サイトを管理している会社からのインタビューに応じ、その内容が掲載されているという主旨のサイトだった。"幸せの黒い鳥"という発言をした直後、瞬く間に会社が倒産した可哀想な人物だと話では聞いている。
直也はそのサイトの名前をクリックする。また数秒時間を置いて、ページが表示された。白い背景に、黒の明朝体でインタビュー記事が載せられ、その合間を縫うようにして社長と思わしき、頭の禿げあがった恰幅のいい中年男性の写真が貼られている。会社名と男の名前がプロフィール欄に記されてあり、読むが、どちらも全く目にした覚えのない名だった。
書かれた文章をざっと眺めたが、確かに当たり触りのない、そして面白味にも欠けた内容だった。社長の用いている、"幸福の黒い鳥"という文面がなければきっと興味を持つこともなかっただろう。
直也はもう1度、インタビュー内容を読み返し、黒い鳥という言葉が使われていた一文だけをさらに何十回と目で追った後でページを閉じ、パソコンの電源を落とした。
検索をしてみたものの、とくに目新しい情報を入手することはできなかった。拓也の言うとおり、社長の話はまったく関係のない。他愛のない皮肉な笑い話だったのだ。疲労が両肩に圧し掛かり、そのままごろりと後ろに倒れこむ。腕をまくら代わりにして、低い天井を見上げながら考えをまとめようとしていた矢先に、来客を告げるチャイムが鳴った。
それも1回ではない。ピン、ときて、ポーンと鳴る前に、次のピンがくる。間断なくチャイムの音が鳴り喚いている。どうやら連打しているようだ。ピンピンピンと甲高い音が室内を駆け巡る。
「うるせぇなもう! マナーってもんを知らないのかよ……」
あまりに執拗な、礼儀のなっていない行為に業を煮やし、直也は立ちあがる。床を踏みならすようにして玄関に向かい、ドアに手を伸ばすと鍵を捻った。 カチャン、という呆気ない音とともにロックが外れる。
普段ならばもう少し慎重になるだろうが、今、この時でさえも鳴りやまぬチャイムに心から憤慨していた。どこの誰だか知らないが、追い返してやる。そんな気概を込めて、ドアノブを掴むと、来客を弾き飛ばそうとする勢いでドアを外側に押し開いた。
「一体、誰……」
開け放ったドアは、誰にもぶつかることはなかった。開いていくドアと、壁との間に広がる隙間。室内の気温と入れ替わりになって、そこから外気が流れ込んでくる。直也の視界に映るのは、玄関の前でこちらに向かって微笑み佇む、髪を金に染めた少女。
嘘だろ、と直也はまず目の前に立つ人物を否定した。そしてその後で、なんで、と動揺する。なぜ、この場所を知っている? 疑問の波が次々と押し寄せ、何がなにやら分からなくなる。
「へへ、来ちゃった!」
少女、ライは小さく舌を出して笑う。
「あぁ、来ちゃったのか」
まだこの事態をうまく呑みこめず、唖然としながら、直也はそんな答えを返すのがやっとだった。
魔物の話 14
拓也は船見家のリビングに入ってくるなり目を剥き、それから素っ頓狂な声をあげて、テンガロンハットの男に駆け寄った。
「もしかして、もしかすると……あんた、段田さん?」
ソファーに体をゆったりとうずめていた男は、眼前に立つ拓也に向けて薄く微笑む。
「ああ、いかにも。本当に久しぶりだ。懐かしいな速見。まさかこうしてまた出会えるなんて、思いもしなかった」
それにしても懐かしい。段田はもう1度言って、部屋中を見まわす。「狩沢に速見。まさかまだ、黄金の鳥関係であれこれやってるチームが存続してるとは、驚きだ」
「本当に……段田さん? だって、あの、今までなにしてたの。あなた確か何年か前に」
「まぁ、座れよ。色々あったんだ。一口では語りつくせないくらいのことがな」
段田は片頬を引き攣らせようにし、拓也に席を勧める。しかし拓也は口をぽかんと開けたまま、信じられないものを前にしたかのように棒立ちになっている。
「いや、だって段田さん。俺の記憶が正しければ確か……」
「死んだって、私も聞いてたんだけどねぇ。あの時は小躍りしたもんだけど、これまで90何年生きてきて、今日くらい残念に思ったことはないよ。あんた本当に、幽霊かなんかじゃないのかい? それだったら今日はお祝いでもしてやろうと思うのに」
安楽椅子を揺らしながら、トヨが不機嫌そうに白い眉を寄せる。レイは彼女の膝の上に乗せられ、人形のように抱きかかえられている状態にあった。中学生になってまで老婆に抱っこされ、しかもその姿が衆目に晒されているかと思うと、正直、顔から火が出そうなほど恥ずかしかったがトヨの緩んだ笑顔を見ると、やはり断れない。だからレイはなるべく周囲と目が合わないよう顔を俯かせながら、無心になって一同の話に耳を傾けていた。
拓也が来たことで、室内には秋護と名も知らぬ9人目のメンバー。それから最近顔をみせない瀬の原雅人を除けば、マスカレイダーズの全員が顔を合わせていた。
狩沢はテーブル席の定位置で、渋面を作っている。今日はジクソーパズルを作ってこそいないが、相変わらずその口から何も語ろうとはしない。ゴンザレスは段田とちょうど向かい合う位置に置かれた丸椅子に、窮屈そうに腰を下ろしていた。光の角度なのだろうが、首を少しすくめた形になっている狼の頭は、なんだか眠たそうに見える。
黒城は襖の向こうの部屋で、捕えてきた幼女、ネイに彼の言うところの"支配"を下している最中だった。襖1枚隔てた室内で一体何がとり行われているのか、興味もあるが、見てはいけない気もする。
レイ以外の全員は、どうやらこのテンガロンハットの男、段田と顔なじみのようだった。自分がどうにも場違いであると気付いた時には、すでにトヨに捉えられており、撤退は許されない状態になっていた。なぜ、この男と遭遇した時すぐにこの家を出なかったのか、今では後悔をしている。
拓也は室内を軽く見まわした末に、結局、段田の隣に座った。
目を大きく見開き、まだ驚愕が抜けきっていない様子だ。話の内容を聞くうち、レイは拓也にとってこの場は、"死んだと思っていた友人との、突然の再会"であることが徐々に見えてきた。そして拓也の驚きの理由も、いまでは理解できる。死人がいきなり目の前に現れたら、誰でもびっくりするだろう。
そんな拓也を尻目に、トヨの辛辣な評価を浴びて、段田はくつくつと声をたてて笑った。それは木の葉が風にそよぐ音によく似ていて、レイはまた背中に寒いものが走るのを感じる。この男の声や視線がなぜこれほど、自分の心を刺激するのか、レイ自身にも分からない。その曖昧模糊とした感覚がまた恐怖を増長させていく。気付けば首を軽く捩り、襖の方に視線をやっていた。
「相変わらず、口が悪いね、トヨ婆さんは。だが、残念ながら俺は幽霊じゃない。足もあるし、物も食える。酒だって大丈夫だ。煙草は……相変わらずダメだがな。とにかく俺は正真正銘、本物の、段田右月。お前たちの、仲間というわけだ」
「元、と、つくけどね。ゴン太君は、君の仲間入りを、認めた覚えはないよ」
ゴンザレスが口を挟む。心なしかその語調には、若干の憤りがこめられているようだった。段田は薄汚れた狼の着ぐるみを前にして、表情に困惑を滲ませる。糸のように細い目でじっと、その大柄な体躯を見つめる。それから何を納得したのか、両手を顔の前で叩き合わせた。パチン、とメンコを床にはたいたような、いい音がする。
「そうか。あんた……あいつか。なるほどね。うまく、化けたものだ」
段田は顎でゴンザレスを指し示す。その相貌はどこか愉快気だった。「昔、俺はあんたに会ったことがある。驚いたな。着ぐるみの状態で、また会うことになるとは。夢にも思わない」
ゴンザレスの中身、すなわち正体を示唆するような言動に一瞬、部屋の中の空気がぎゅっと引き締まるのをレイは確かに感じた。そうかそうか、とただ1人段田だけが帽子のつばを指で撫でながら、爽快感のある笑みを浮かべている。拓也も、トヨも、狩沢も。そしてレイもまた、ゴンザレスと段田とを交互に眺め、2人の間に流れる暗澹とした空気を読み取ろうとしていた。
ゴンザレスの正体に触れぬことは、このマスカレイダーズの中では知らず知らずのうちに暗黙のルールと化していた。だからレイは、ついにそのタブーが暴かれるのかという期待感と、本当に暴かれていいのかという焦燥感に揺れながら、事の顛末を観測していた。おそらく他のメンバーも同じ気持ちを胸に纏わせているのだろう。
「ゴン太君に、中の人なんか、いないよ。ゴン太君は生まれた時から、森の住人なんだよ。言いがかりは止めてよね。ゴン太君、怒っちゃうよ」
しばしの沈黙の後、ゴンザレスは笑顔で憤った。段田もまた微笑みを湛え、鋭い声を発する。
「なるほど。あんたが船見に代わる、今のリーダーってことか。なら、あんたの許可を得るのが道理ってもんか」
段田はポケットを探ると、そこから何かを取り出した。長方形をしたそれの端っこを摘むようにし、ゴンザレスにかざす。
それはかまぼこ板のような形をした、メイルプレートだった。
表面には羽根のマークと、『2』という数字が刻みこまれている。拓也や黒城が持っているものと比べて随分と厚みがあり、レイは瞬間的に、秋護や二条が所有していたものを思い出す。
そのプレートが一体、どこから来たものなのか。
レイは以前、ゴンザレスに問い質したことがある。返答は、昔、マスカレイダーズで作った試作の装甲服ということだった。ダンテやアークのプロトタイプとして5つ作ったが一部流出し、回り回ってメンバーの与り知らぬ経緯を辿り、二条の手に渡ったらしい。作ったものの管理ぐらいして欲しいな、とファルスによって痛めつけられた苦い恨みのあるレイは怒りを覚えたものだった。
とにかく、レイはそれら"プロトタイプの装甲服"を他に2つ知っている。秋護の持っている1と、二条の4だ。
そして今、目の前に2と振られたプレートがある。
「"スティルス"……段田さん。ずっと、持っていたのか」
拓也が呟き、また驚愕に表情を染める。
「へぇ。そんなところにあったんだ。ゴン太君、びっくりだよ」
ゴンザレスが平坦な声で、驚愕を表現する。段田はプレートをさんざん見せつけると再びポケットにしまいこみ、どうだ、と口角を上げた。
「足手まといにはならぬよう、努めよう。仲間に、いれてもらえないだろうか。また黄金の鳥を潰すために協力がしたい。これは本心だ」
「ダメだって怒ったら、君はどうするの? 殴るの? そういうの、ゴン太君は嫌いだよ」
「怒らないな。俺はきっと戦力になる。7年前のメンバーなら分かっているはずだ"白馬"が勝った要因には、俺も随分と貢献したと自負しているんだけどな」
指でテンガロンハットのつばを押し上げながら、段田は自信を漲らせる。だが、そんな彼の態度に対しトヨはぴしゃりと反論した。
「馬鹿言ってんじゃないよ」繰り出されたのは罵倒の言葉だ。その瞬間、抱かれている彼女のその手に、ぎゅっと力がこもるのをレイは感じた。
「それは自意識過剰だよ、クズ。あんたらは、あの気違い女の尻をおっかけていただけじゃないか。それを自分が貢献した? 舐めてんじゃないよ。大体、あの女だって幸助の立場を奪って成りあがっただけじゃないか。それにへぇこらと従ってたあんたたちの、神経が私にゃ分かんないね」
「随分だな。婆さん。あんたまだ、あの女に恨みもってるのかよ? それは筋違いだろ。我らが元リーダー、船見幸助を殺したのは、裏切り者の立浪良哉。すなわち、オウガだよ? 憎悪の対象をすりかえるなよ。ねぇ、速見」
拓也が身を震わせる。自分の顔に指を向け、「え、俺?」と当惑する。突然話題の矛先を向けられ、鼻白む拓也をレイは不憫な思いで見つめる。
「ま、まぁ段田さんの言い分もあると思うけど。トヨさんの気持ちも分かるけどー……」
「当たり触りのないこと言ってんじゃないよ。あんたに、自分の息子の夢を奪われた気持ちが分かるかい? しかも、最も信頼していた妻にだよ。あの子の悔しさを思うと、私はたまらないよ」
喋りながらさらに増していくトヨの腕の力が、レイの体を容赦なく絞めあげる。苦しいです、と訴えかけようとしてトヨを見上げ、閉口した。彼女の皺の中に埋もれた双眸が、潤んでいるのを発見したからだ。正直、この場で話されている内容をレイは少しも理解できなかったが、トヨの心に渦巻く悲しみだけは肌のぬくもりと共に伝わってきた。
しかし悲観を表情に出す老婆に対しても、段田は容赦ない。「彼女を選んだのもまた、あいつだろ。自業自得だ」そう言い切ると、今度はその腕に抱かれているレイに視線を動かした。正面からその細い目で見つめられると、やはり背筋に怖気が走る。
段田は足を組みなおしながら、皮肉っぽい笑みを浮かべた。レイを指差す。今度は私か、と数分前の拓也を脳裏に浮かべ、トヨの膝の上で姿勢を正す。
「それで、さっきから気にはなっていたが。抱いているその子は、あんたの息子とあの女の愛の結晶とかなのか?」
「ごちゃごちゃうるさいねぇ、あんたは。あんなクズの血は入っていないけど。私にとって孫みたいなもんだよ。ねー、レイちゃん?」
そうなんです。孫みたいなもんなんです。レイは心の中で胸を張りながら主張しつつも、しかし段田と未だに目を合わすことはできない。目が合ったら、噛みつかれて地獄にその身を持っていかれそうな予感すらする。だから怯えと動揺にこされて、実際に口に出たのは、「そうなんです。孫っぽい何かなんです」という自分でも意味不明な返答だった。
「まぁ、いい。それで、今、あの女はどこにいる。まさか死んだなんて言わないだろうな」
冗談めいた口調で、段田が言う。不意にスラックスの尻ポケットへと手をやり、何かと思えば、彼はそこからパッケージされたカニかまぼこを取り出した。
え。カニかま。なんで? そんなレイの疑念を置き去りにして、段田は包装を剥き、カニかまぼこを食べ始める。さらに動揺したのは、何の前触れもなく、話の途中でいきなり練り物を食し始めるこの男をメンバーの誰も咎めたりしないことだった。周囲を窺うが、誰も眉1つ動かす気配もない。カニかまを食べながら話をするのが実は、社会人としてのたしなみなのではないか、と一瞬勘違いする。しかし、そんなわけはない。
「その、まさかだよ」
口火を切ったのは、拓也だった。え、本当に社会の常識だったの? とレイは当惑の思いで拓也を見やるが、それが自分に向けられたものでないことにすぐに気付いた。彼は段田に顔を向けていた。それから沈痛な面持ちで、その口から真実を紡ぎだす。
「彼女は、船見琴葉さんは……死んだ。殺されたんだ。もう、この世にはいないんだよ」
俯きながら発した拓也の言葉の後を、ゴンザレスが継いだ。
「"蘇生"のリーダーの娘にね。今ではその子が、黄金の鳥を復活させるために、頑張ってくれているみたいだよ。だからゴン太君たちは、活動を再開したんだ。悲劇を繰り返さないためにね」
「……ゴンザレス。後半部分は、まだただの推測だよ」
拓也にしては珍しく、強い語調でゴンザレスをたしなめる。その表情はひどく強張っているようだった。ゴンザレスはやれやれというように、首をすくめるような動作を行う。
「そうだね、悪かったね。ま、そういうことで。琴葉さんはもう、いないよ。この世には」
また出てきた新たな単語に、レイは話の筋が見えず混乱する。
マスカレイダーズがもともと、怪人を倒すためだけに作られた組織ではないという言葉に少なからず動揺もあったが、そんなことよりも、レイの意識は段田が噛みちぎっているカニかまぼこに囚われていた。何で誰もあれに目を止めないのか、不思議でしかたがない。ニコチンに誘われ、衝動的に煙草を咥える人なら見たことがあるが、会話の最中に、不意にカニかまぼこを食べ始める人間に出会ったのはこれが初めてだった。
段田はカニかまぼこを全て口の中に収めると、咀嚼しながら、それでなくても糸のような目をさらに細めた。そうするともはやそれは、眉の下に引かれた黒い線にしか見えなくなる。
「そうか。彼女も、死ぬんだな。それは、驚きだ」
「人は、誰でも死ぬよ。私の息子も死んだ。大勢の仲間も死んだ。あんたのせいで、たくさんの人も死んだ。なのに、あんたはなぜ生きているんだい? ここにあんたの居場所はない。あんたにゃ地獄の方がお似合いだよ」
トヨがしわがれた声で言う。その切実さに、レイは胸を打たれた。
「瀬の原雅人はまだ生きているのか?」
段田はここにはいない、マスカレイダーズのメンバーの名前を口にした。瀬の原雅人はメイルプレートを持つ、戦闘員の1人だ。レイはようやく聞き覚えのある人名に出会ったことで、少しだけ安堵を覚える。先ほどから意味不明な言葉が飛び交い、異国に置き去りにされたかのような疎外感に脅かされていたので、あぁ、その人なら私も知ってます、と挙手したいくらいだった。
「雅人君なら、一応、ここのメンバーだよ。彼はほら、相変わらずだからさ。最近見ないけど」
「過激派最後の生き残りだったね、彼が。君が生きて戻ってくるまでは、だけどね」
拓也が発言し、ゴンザレスが左手首を右手で擦るような動作を繰り返しながら、その言葉を繋ぐ。段田はまたもや、風に打たれて擦れ合う葉のような笑い声を洩らした。
「やっぱり雅人も、婆さんに嫌われているのか。本当にしつこい人だな、あんたも。あれから何年経ったと思ってるんだ。いい加減、気持ちを切り替えないのか」
「ババァの恨みはねぇ、あんた、深いんだよ。いま、あんたの顔を見ているだけでもヘドが出そうなくらいさ。それでも家の敷居をまたがせてやっている、私の優しさに感謝するんだね」
一瞬即発の雰囲気が、トヨと段田の間に漂う。位置関係的にその狭間にレイは立たされている。しかもトヨの抱きしめる力は、会話を重ねるごとに強くなっていって、逃げだすことができない。漂う険悪な空気を吸わされて、レイはがっくりとうなだれながら、もう勘弁してくださいと心の中で白旗をあげるが、もちろんその気持ちを伝える術はどこにも、ない。
鎧の話 12
かくして直也は突然自宅にやってきた少女、黒城ライと2人で食卓を囲んでいた。
食卓といってもベッドの横に折り畳み式のテーブルを広げただけの簡素なもので、その上に載っているメニューもチャーハンと目玉焼き、きゅうりの漬物だけという質素なものだった。
「つか、人の家に来るんだったら普通飯食ってから来るだろ……」
怒りも呆れも通り越して、直也は嘆きながら腰を下ろす。玄関に飛び込んでくるなり、「私、腹減ってたんだ!」とライが騒ぐので、直也自身も昼食をまだとっていなかったという理由もあり、2人分のチャーハンを急遽こしらえたのだった。
完成したチャーハンを両手で運び、寝室に持っていくと、ライはベッドに寝転んで本棚の推理小説を勝手に読み漁っていた。挙句の果てに「おい、漫画ないのかよ、漫画!」と黄色いワンピースから覗く両足をばたつかせる。直也は額に手をあて、天を仰ぎたい気持ちになった。
「どいつもこいつも……俺の部屋は図書館でも、漫画喫茶でもねぇ!」怒鳴るが、空腹のせいかあまり力のこもった声にはならない。
「というか、なんで俺の家知ってるんだよ。お前に話した覚えないんだけど」
ずっと脳内にもやもやと漂っていた疑問を、口に出す。するとライは小説を、挿絵のあるページを見つけようとでもしているのかぱらぱらと捲りながら、事も無げに答えた。
「昨日、父さんに訊いたら教えてくれたんだよ。おっさんの家の住所と地図。ほら、これ」
ライはワンピースのポケットから1枚のメモ用紙を取り出し、器用に片手で広げた。そこには定規できっちりと引かれたような地図が、描かれていた。丁寧に『ノアール』から、直也の自宅までの道に沿って、赤い線が引かれている。
ちょこちょことメモの端に書かれた字の筆跡は、間違いなく黒城のものだった。それを確認すると、直也の頭にはカッと血が昇った。
「あんの野郎……!」
個人情報保護、という言葉を知らないのか。直也は黒城の顔を思い出し、むかっ腹がたつ。あの男の礼儀知らずで不遜な態度には前々から苛立っていたが、今回の件はあまりにも酷すぎる。訴えたらこちらが確実に勝てる、と確信できるくらいの横行だ。胸中に憤怒の火が灯り、全身の血液が煮え立つ。今にも気化熱が皮膚の表面から白い煙となって立ち昇りそうだった。両手が皿で塞がっているのも忘れて拳に力を込めた。みしみしと手元で音が鳴っているのに気づいて、握力を弱める。
「まぁまぁ、いいじゃないか。そんなに怒るなよ。来ちゃったもんはしょうがないだろ」
「何でそんな他人事なんだよ! お前が張本人だろうが!」
怒声をあげるが、ライは全く意に介する様子はない。小説を閉じると枕の上に乗せ、こちらに首を捩ってくる。
「いい匂いがすると思ったら……やった。チャーハンじゃないか!」
ライは直也の手にある食事を見つけると、途端に目を輝かせ、ベッドのスプリングを存分に軋ませて下りてきた。餌を求めて飛び付く猫のようだ、と直也はその様子を眺めながら思う。頭の両端で束ねた髪の毛が、彼女の体の動きに呼応するかのように大きく揺れる。それもまた、くるくると宙を泳ぐ猫の尻尾を彷彿とさせた。
その様子を見ていて、直也は、正直和んだ。ライには小動物じみた快活さと無鉄砲さがあって、何だか青筋をたてている自分が馬鹿らしいように感じてしまう。暖簾に腕押しとはこのことか、と直也は子どもの頃から慣れ親しんだことわざの本当の意味をようやく知ったかのような気分になる。頭が冷えていき、全身から発せられていた熱気の噴出も徐々に収まっていく。
床に着地すると同時に、滑り込むようにしてライはテーブルの前に腰を下ろした。直也は嘆息しながら腰を下ろし、湯気のたゆたうチャーハンを自分と彼女の前にそれぞれ置いた。ライはチャーハンに鼻を寄せ、くんくんと嗅ぎ、何に感嘆したのか分からないが「凄いなぁ」と目を見開く。余り物を切り刻み、ご飯に混ぜて油で炒っただけの物にそこまで感動されると、直也としては何だか照れくさい。また怒る気が失せていく。
「食ってみろよ、悪くはないと思うから」
スプーンを手渡しながら、直也は気づけば口端を緩めている。ライはひったくるようにしてスプーンを掴みとり、「いただきます!」と両手を合わせた。
「あぁ、いただきます」
ライに流されるようにして、直也も挨拶を口にする。次の瞬間、返って来たのは「おぉ、うまいチャーハンだ!」という賞賛の言葉だった。
「うまい、うまい。おっさん、なかなかやるじゃないかよ! 味の濃いところが、すごくいい」
ライは頬に餌を含んだリスのように顔を膨らませ、チャーハンを必死に掻きこんでいる。「そうなんだよ。レイのはやっぱり、いつも薄すぎるんだよなぁ」と米粒を飛ばしながら、愚痴めいた事も口にした。
「最近、チャーハンしか食ってないからな……そりゃ、上手くもなるよ」
絶賛されれば、直也も悪い気はしない。約束もなしにいきなり駆けこんできたライに対する怒りも、あまりに非常識な黒城に対する憤りも、今はほとんど消えていた。雲1つない青空に出くわしたかのような、何だかとても晴れやかな気分だった。こんな気持ちを抱いたのは、これまで20年あまり生きてきて、初めての経験だった。
「見直したよ……おっさんって、ニートじゃなくてチャーハンだったんだな」
「それは位が上がったのか、下がったのか。微妙だな。というかあまり掻きこむなよ、喉に詰まるぞ」
直也もまたチャーハンを掬い、口に運ぶ。その塩加減は絶妙で、今回はとりわけいい出来だった。気がつけば「あ、うまい」と自画自賛の言葉が口から飛び出している。
「ソースはないのか、ソースは!」
口元を手の甲で拭いながら、ライが訴える。要領を得ず、直也が「ソース?」と聞き返すと、ご飯粒を飛ばしながら「目玉焼きにかけるんだよ!」と叫んだ。
「目玉焼きは醤油だろ?」
自身の常識を直也は口にする。特に目玉焼きにかける調味料にこだわりはなかったが、子どもの頃からのなじみがあった。
「そんな江戸っ子みたいなこと言うなよ! 分かってないな、おっさんは。たいていの食べ物はな、ソースかマヨネーズかければ旨いんだよ!」
ライは声を荒らげ、固めた拳を頭の上でぶんぶん振るった。その仕草の意図するところは分からなかったが、直也はこれ以上、張り合うのも面倒な気がして「じゃあ冷蔵庫にあるから、自分で取ってこいよ」と指示した。
「そうする!」
ライは席を立ち、直也の横を通過してキッチンに消える。冷蔵庫が背後で開けられる音を耳にしながら、直也は捉えようのない既視感に襲われていた。先ほどと似たようなやり取りを、依然、経験したような覚えがあった。
別段深く思い悩むこともなく、閃く。それは1年ほど前、同じ場所で咲と交わした会話だった。あの時も、目玉焼き論争を勃発させることさえなかったが、「醤油もいいんだけどね。実は私、ソースも好きなのよ」というカミングアウトを彼女もまたしていた。確か朝食の風景だ。いつも通り、醤油を目玉焼きにかける直也を見て、咲はそんなことをいきなり口走ったのだった。
まぁ、いいんじゃない。直也自身はそう返答したような気もする。今日と同じく、そんなことで論争を巻き起こす気にはならなかった。まぁ、いいんじゃない、それでも。何かけるかなんて、自分の勝手だろ。すると咲は眉を曇らせ、なんだかつまらなそうな顔をした。あの表情の意味が、直也は今でも腑に落ちない。
特に時間をかけることもなく、ライがボトルソースを片手に戻ってきた。喜々とした表情を浮かべ、なんだか足取りも軽い。向かいに腰を下ろす彼女を見て、直也は眉尻を下げた。
「お前はいいな。なんか、楽しく生きてそうで」
それは本音だった。ライを見ていると、何だか身の周りを漂っている心配事や不安の類がとてもちっぽけなもののように感じられてくる。彼女の溌剌とした人柄がそうさせるのだ。その間だけ、あきらに関するしがらみや、目の前を飛び交う様々な事件、咲の死に渦巻く謎の数々を、直也は忘れた。
「おっさんも、楽しく生きればいいじゃないかよ」
ライはソースの蓋を捻って外しながら、口を尖らせる。直也は頬杖を突きながら、その光景をぼんやりと見つめる。
「実際、そうもいかないだろ。責任とか、重圧とか。大人には色々あるんだよ。俺の友達も言ってたんだ。大人になるってことは嫌なこともやらなきゃいけなくなること、だってな」
「じゃあ、私は嫌なことを好きになれる大人になりたいな」
ボトルソースを持ったままライが漫然と呟いた言葉に、直也は眉をあげる。それは子どもの理想だ、と笑い飛ばすことはできなかった。逆にそういう捉え方もあったのか、と意標を突かれたような気分に陥る。
「何が嫌なのかなんてことはさ、多分、人それぞれだろ。見方次第だよ、見方次第。辛いなぁ、苦しいなぁと思ってたら何でも嫌なんだよ。面白い面白いと思いながら生きてたら、絶対、毎日楽しいって」
「それができたら、どんなにいいか」
ぼやきを浮かべ、ライの顔を正面から見やる。その瞳は無垢なまでに澄んでいて、直也は自分が年齢を重ねるごとに汚れを背負っている事実を否応なしに思い知らされる。
「俺の心はもう、砂場みたいにかっさかさだよ」
「ま、それはおっさんだからしょうがないよな」
諦めの宣告を言い渡し、ライは目玉焼きにソースを傾ける。え、そこはフォローしてくれないの? と急に突き放されたことで戸惑う。そして直也は知らず知らずのうちに緊張しながら、その場面を見守っている自分に気が付く。
「ソース、零すなよ。お前そそっかしそうだから」
「あ、零した」
「せめて言い終えてから零してくれよ」
ライの傾けたボトルから、焦げ茶色の液体がおびただしく広がっていた。皿を外れ、テーブルの上から流れ落ち、滝のようにべったりと床を汚している。ライの着ているワンピースも茶色に汚れていた。その色が赤ければ、血と見紛うほどの、おびただしさだ。
直也は顔をしかめ、それから肩を大きく落として、ため息を零した。
「お前は俺の家を散らかしに来たのかよ。嫌がらせか、これは!」
「はは、おっさん面白いな」
「なにが? 俺はちっとも面白くねぇよ!」
とりあえず、ここはやるからお前は着替えて来いよ。濡れ布巾で床を擦りながら、言った。ライは両手を開き、腕を天井目がけて伸ばして、お手上げのポースをとった。
「着替えなんてあるわけないだろ! おっさんのバカ野郎!」
「なぜそこでお前がキレる! 俺のを着るのも嫌だろうから、女物貸してやるよ。その代わり、絶対返せよな」
あきらの置いていった衣類が、まだタンスに残っているはずだった。週に1度くらい、あきらは制服に着替えてここから高校に通っていたので、私服が何枚かこの家にはあった。しかしそんな事情を知らないライは、直也の説明にまず、目を剥いた。
「おっさんがオカマだったなんて……職業だけに飽き足らず、性別もハーフだったのかよ!」
「なんでそうなるんだよ! どっちも違う! 俺は探偵で、男だ。彼女の私服だよ。俺が着てるわけねぇだろうが」
「嘘だろ! チャーハンなんかに、彼女がいてたまるか!」
「いつから俺は焼き飯そのものになった! しかもなんでそこだけ、ちょっと上から目線なんだよ! 何でもいいから、早く着替えて来いよ、お前がそこにいたら掃除できないだろうが!」
間断なく怒号混じりのやりとりをしながら、直也はとりあえず床を拭き終え、腰を上げた。「あとはお前、自分の体拭けよ」布巾をライに手渡し、直也はタンスの上から三段目の引き出しに手を伸ばす。そこにあきらの服は、あるはずだった。
「気持ち悪いんだから、貸してくれるんだったら早く貸せよ!」
服についたソースを吹きとらぬまま、ライはもう我慢ならないといった様子で立ちあがる。当然、重力の法則に従って、ソースの雨が床に降る。直也は振り返りながらその光景を視認し、大声をあげた。
「そこを動くなー! つか、拭けって言っただろうが! 早く拭いて、これ持って脱衣所行けよ。キッチンの右側にあるから」
このままでは、何をされるか分かったものではない。直也はタンスの中にあったシャツとスカートを引っ掴むと、ライの胸にそれらを押しつけた。キッチンの方を直也が指差すと、ライは凛とした表情を浮かべ、深く頷いた。そして受け取った衣類を抱え、踵を返して走り出す。
「よし、分かった! 私、行ってくる!」
「だから動く前に、拭けって言ってるだろうが!」
ライの後を追うようにして、床に落ちたソースの滴が道を作る。脱衣所まで等間隔に伸びた黒い点々を認め、直也は愕然と肩を落とした。しかし触れては消える粉雪とは違い、放っておいてはいつまでたってもこの黒点は床にこびりついたままであることに気がつき、仕方なく四つん這いになる。
「あいつ、本当に何しに来たんだよ……」
布巾を拾い上げ、ソースの雫を拭きとっていく。もはや、ため息さえ出てこなかった。
鳥の話 15
菅谷や拓也たちが帰ると、これ以上客足も見込めないことを悟り、仁は午前中いっぱいで店を閉めた。
佑も妹のお見舞いに出かけてしまい、家には葉花と2人で取り残される。葉花はテレビの前に座り、1人で騒ぎながら、20年前に発売されたテレビゲームに興じていた。
どうやら具合が悪そうに見えたのは、気のせいだったようだった。胸をなで下ろしながら、仁はキッチンに足を向けた。
「葉花。お昼、何食べる?」
尋ねながら冷蔵庫を探るが、中には食材がほとんど残されていない。最近、日常と戦闘に忙殺され買い出しに行く余裕などなかったのだ。2日前に出かけたことは出かけたが、あの時に買った食材はすべて葉花が消費してしまったようだった。するとそれを背中で察したのか、葉花は「じゃあ、久しぶりに外で食べようよ。ファミレス行きたいなぁ」と提案をしてきた。「オレンジジュースとハンバーグのフルコースが食べたい!」
「そうだね。じゃあ、そうしよう。外出ついでに。さっきの人に鍵届けてあげようか」
「うん。いくいくー。またあの人に会えるといいなぁ」
菅谷と佑はあの真嶋という男に嫌悪を覚えているようだったが、葉花は彼のことをすこぶる気に入っているようだった。
あの独特の語り口から、何だか面白いおじさんという印象を受けたのかもしれないし、やはり可愛いといってもらえたことが嬉しかったのかもしれない。「私が渡すんだからね!」と言って、テーブルの上に転がっている鍵を引っ掴む。鍵からぶら下がった巨大な蟹のストラップが、彼女の手の中から零れ、ゆらゆらと中空に揺れている。
それにしても、黒城グループか。仁は真嶋の名刺を尻ポケットから引っ張り出し、その日本産業の最先端を行く大企業に思いを馳せる。その本社となればどんな場所なのだろうという期待が否応にも膨らんでいく。佑の父親の勤務地ということで、馴染みの深い場所ではあったが、出向くのはこれが初めてだった。
身支度を整え、家から出る。外は蒸し暑く、歩いているだけで頬に汗が伝った。葉花はフリルのついた白い服に膝下までロールアップしたジーンズという格好だった。頭には青色のストローハットを被っている。
暑さなど意に介さず、元気に飛び回っている葉花を見ていると自分がけして若くもないことを実感する。23歳はもう、人生の折り返しかもしれないとさえ思った。
黒城グループ本社は、新宿にあった。
『しろうま』の最寄り駅から電車に15分ほど揺られれば到着する距離だ。電車に乗り、新宿駅から出ると"新宿の事件"の記念碑を横目に、混みあった歩道へと足を踏み出す。片足を引きずりながら、葉花の歩調に合わせて歩き、仁は晴天を仰ぐ。
「混んでるねー。うちと違って、人がいっぱいだ!」
「夏休みだからね。うちとは違って、これが本来の町の姿なのかもしれないね」
「ね、はぐれると嫌だから、手つなごうよ」
手をこちらに差し伸ばし、葉花が申し出てくる。その純朴なる瞳に仁は吸い寄せられそうになる。そこに映し出されているのは懇願の感情だった。それは仁の心の奥深くまでしんしんと沈み込んでくるようでもある。その目に射とめられているだけで、体の奥底を揺さぶられるような気分に陥る。操られるようにしてその小さな白い手に手を出しかけたところで、我に返った。
葉花が手を掴もうとしてくる。
仁は自分の手を慌てて引っ込めると、不審そうな視線を向けてくる葉花から逃げるため、顔をそむけた。最低の行為だとは思ったが、目をそむける以外に方法が思いつかなかった。車がすぐわきの車道を間断なく走り抜けていく音や、店先で叫ぶ店員の拡声器越しの声、周囲にどよめく人々の話声らに紛れてくれることを願いながら、呟いた。
「……葉花、ごめん」
「白石君、あれ見て」
顔をあげると、葉花は何もなかったような顔をしてガードレールから身を乗り出していた。彼女の鼻先を、真っ赤なワゴン車が通り過ぎる。
「葉花、危ないよ!」 血の気の失せた頭で、仁は葉花の背後に立つ。
「大丈夫大丈夫。このくらい、へっちゃらだよー」 葉花は仁を安心させるためなのか、微笑みを表情に湛えると片側二車線の道路の向こう側を指差した。「それよりも、みてみて。あそこだよ、あそこ」
「どこ?」
彼女の指が差すほうを、仁は目を細めて注視する。交通量の多さゆえに見づらいことこの上なかったが、何を伝えたいのかは大まかに察することができた。道路を挟んでちょうど向かい側の歩道には、小さな女の子と手をつないで歩く母親らしき女性の姿が見えたからだ。女の子は幼稚園にあがって間もないように見える。ぴょんぴょんと跳ねながら、母親を見上げてはしゃいでいる姿はどこか愛らしい。
「あの子、楽しそうだよね。お母さんと一緒で。すっごく嬉しそう。ああいうのみてるとね、なんかほんわかするの」
「ほんわか?」
「そう、ほんわか。なんかいいなぁーって思うんだぁ」
目を輝かせて親子を眺めながら、葉花がぽつりと漏らす。仁はその斜め後ろに立ち、首を傾げた。
「そういえば、葉花のお母さんってどこにいるの? 今までお父さんはよく話に出てきてたけど、聞いたことないや」
何の気もなしに尋ねると、葉花はガードレールから体を離して振り向いた。にこりとほほ笑む。ビルの窓を反射した日の光がその横顔を照らす。その表情に仁は儚げなものを感じた。
わかんない、と葉花はあっけらかんとした口調で言った。
「私が生まれたときにはね、いなかったんだって。お母さんがいないのは、家庭の事情だってお父さんが言ってたんだー。だから私ね、会ったことないんだ。顔も名前も全然知らないの」
「家庭の事情……」
便利な言葉だな、と仁は眉をひそめる。自分も児童養護施設にいた時、何度もこの言葉を耳にしていたことを思い出す。家庭の事情で施設に預けられた、家庭の事情で父母がいなくなった、家庭の事情で親から捨てられた。家庭の事情というワードにはどんな大きな罪も過ちも、すべて一緒くたにしてしまうようなニュアンスがあって、仁はあまりこの言葉を好きではなかった。
『家庭の事情で施設に来た』と説明を受けるが、それは結果であって理由ではない、と憤慨したくなる。子供にとって必要なのは、理由なのだ。なぜそれが起きたのか、そうなってしまったのか、大人の身勝手な振る舞いに巻き込まれた子供にも知る権利がもちろんあるはずだ。
「そうなんだ、家庭の事情なんだ」
仁はさらに葉花の父親に対する不審を強めながら、相槌を打った。やはりあの男は、好かない。自分を捨てていった生みの親の影を、無意識のうちに彼に重ねているからかもしれない。
「でもね」 葉花は続けた。手を後ろに組み、夕暮れを背負って咲き誇るひまわりのような笑みを表情に湛える。
「お母さんはいないけど、私にはすっごく優しいお父さんがいる。お父さんが今いなくたって、白石君とかタンス君とかがいるから、私、今、すっごく幸せなんだー。だから、心配しないで。私は全然寂しくなんかないんだから」
「……本当に?」
ならその悲しさが滲む表情はこちらの気のせいなのか。言いかけるが、それはさすがに野暮だろう。葉花は仁のすぐ側に立つと、真ん丸な2つの瞳で、こちらを見上げた。
「本当だよ。私、嘘つかないもん。大丈夫だって、白石君は心配性だなー」
笑いながら、葉花は全身で跳ねるようなステップを踏む。まるで風にそよぐタンポポの花のように。「だから。白石君、ありがとう」
「え……」
「ありがとうー。白石君のおかげで、毎日楽しく暮らせてるんだから、感謝しなくちゃだよね。ありがとね、白石君。これからも、よろしくね」
お礼を言われるとは予想だにしておらず、意表を衝かれて、仁は立ち尽くす。葉花は踵を返すと、駆け足で人ごみの中に飛び込んでいった。数刻遅れて、その背中を追いかける。葉花の言葉がじんわりと心に沁みていき、目頭が熱くなる。涙腺が緩みかけるのにも何とか耐え、仁ははるか先を行く葉花のあまりにも小さな背を見つめる。触ることさえできないのに、仁を気遣ってやさしい言葉をかけてくれる。葉花のその健気な心に触れ、仁は嬉しさと悲しさの両面から一挙に襲われ、結果的に、歩きながら目元をぬぐった。
たどり着いた黒城グループ本社は、なるほど、巨大だった。見上げればそのまま仰け反り、後ろに倒れてしまいそうだ。雲に突き刺さる塔というものがファンタジーの世界ではよく出てくるが、登場人物たちはきっとこのような光景を前にして、そんな比喩を思い浮かべたのだろうとようやく理解したような気分だった。
東京には多くのビルが立ち並んでいるが、その中に埋もれてしまうことのない、とてもセンセーショナルな造形をしている。おそらくビルの中央に空いた大きな空気の抜け穴が、その印象を強めているのだった。薄い水色を基調とした建物の色彩も、近未来を感じさせるそのデザインに一役を買っている。
ビルの前に、スーツの集団がいた。老若男女様々で、人数は30人あまりだろうか。皆一様に、首からネームプレートをぶら下げている。プレートにはHとJを組み合わせたような記号がひと文字だけ記された、紙が挟まっている。
「すごいねー、でっかいねー!」
ビルを仰ぎ、葉花は感激している様子だ。両手を広げ、食い入るように建物全体を眺めている。初めは仁も良かったね、でっかいね、と共感の姿勢を示していたが、なんだか葉花がぼんやりとしていることに気づき怪訝に思った。急に元気がなくなったように感じられたのだ。頬が少しだけまた、赤くなっているようにも見える。
「葉花、大丈夫?」
朝から葉花はあまり体調が芳しくなさそうだった。心配になり声をかけると同時に、葉花が声を発した。
「あー、タンス君のお父さんだ!」
顔をあげると、彼女の言うとおり、こちらに近づいてくる男の姿があった。真嶋と同様、高級そうなスラックスを履き、腕まくりしたワイシャツに身を包んだ天村氏だった。仁は彼の息子である佑を家で預かっているが、彼に会うのは実に半月ぶりのことだった。
「天村さん」
「やあ。こんなところで会うとは、思ってもみなかった。久しぶりだね、仁君。元気かい?」
「本当に、お久しぶりです。はい、何とか僕は元気です。天村さんは、やっぱり最近もお忙しいんですか?」
「あぁ。さっき、熊本から帰ってきたところだよ。明日からは香港だ。さらに忙しくなりそうだよ」
「それは大変ですね……それにしても、びっくりですよ。まさかこんな所で会うなんて」
言ってから、職場の前にまできて「まさかあなたがいるなんて!」という言い草も酷いな、と仁は自嘲する。しかし天村氏は特に追求することもなく、葉花に顔を向けた。
「葉花ちゃんも、こんにちは。いつも佑がお世話になってるね。佑は元気にしてるかな?」
「こんにちは! うん、タンス君はいつも私がお世話してあげてるから、すっごく元気もりもりだよ!」
もしそれを聞いたら佑は怒るだろうな、と仁は苦笑をしながら葉花の発言に補足を加えた。
「ちょっと肩をけがしちゃったみたいで、けが自体は大したことないんですけど、ライブが近くにあるらしくて。ちょっと落ち込んでました。まぁ、大丈夫だとは思うんですけど」
「そうか……あいつは僕に似て、繊細なところがあるから。分かった。あとで、時間が空いたら電話ででも励ましておくよ。全然知らなかった。全然電話よこしてこないし」
「最近、なんだか忙しいらしいから。しかたがないですよ。あまり家にだっていないし」
「……そうか。お金は、たりてるかな。またもう少し、振り込んでおこうと思っているけど」
「ええ。そりゃもう、充分すぎるくらいで……本当に助かってます」
赤字続きの喫茶店経営の身において、天村氏から振り込まれる金は重要な収入源だった。佑の食費、という名目ではあったが、「何を毎日食べたら、こんなに食費がかかるのだろう」と不思議に思えるぐらい、大量の金銭を渡してくれるので仁は遠慮なくこれを生活費もろもろに充てていた。厚意でいただいたものを、無下に扱うのは失礼だという考えもあるにはあった。
天村氏は振り返ると、少し距離を置いて控えているスーツ姿の女性に、ちょっと待っていて欲しいというような旨をジェスチャーで伝えた。折り目正しく返事をする彼女は、天村氏の秘書なのかもしれない。それから仁のほうに向き直り、小首を傾げた。
「ああ。そうそう。それで、今日はどうしてこんなところに?」
「ああ」
仁は葉花を見下ろした。するとそのアイ・コンタクトを分かってくれたのか、葉花はポケットに手を突っ込み、中から鍵を引っ張り出した。実際には、引っ張り出そうとした。粘り強く蟹のストラップがポケットの端に引っ掛かり、最後まで取り出すことができなかったのだ。葉花は夢中になって鍵を揺さぶり、ストラップを外そうと四苦八苦している。
代わりに仁が掌を上にした手でその鍵を指し示し、説明をすることにした。
「この鍵、今日店に来たお客さんが忘れていったんですよ。真嶋さんって方なんですけど。天村さん、知ってますか?」
「真嶋が? 『しろうま』に?」
天村氏は目を剥いた。まるで仁と真嶋が出会ったということ自体が信じ難い、とでも言いたげな反応だった。仁は眉を寄せて反問する。
「天村さん、知ってるんですか? というか、その反応だと知ってますよね」
「あぁ。一応。同僚みたいなもんだよ。真嶋はね。うちの社の若きエースさ。そうか……プライドの高い男だから、あいつは君の店のような個人店にはいかないと思っていたんだが。それは意外だ」
「まぁ、色々言われましたけど。確かに、プライドは高そうではありました」
僕にふさわしい店にしておいてくれ、という真嶋の声がまだ鼓膜にこびりついている。あんなこと面と向かって言う人がこの世にいたのか、という衝撃が大きかったせいだろう。そういう意味で真嶋は、貴重な人間であることに間違いはなかった。
「あいつと僕は、黒城グループ四天王の一員だからね。結構会う機会も多いんだ」
「四天王?」
仁はその単語が本当に天村氏の口から出てきたのかと疑う。それは大の男が真面目な顔をして使うには、あまりにも年嵩の合わない、稚拙な発音だった。
指摘すると天村氏は両頬を緩め、恥ずかしそうに頭の後ろを掻いた。
「前の社長が、そういう人だったからね。最初は確かにちょっと……と思ったけど。だけどね。人は、慣れるんだよ。今では普通に、使えてる」
「天村さんも、いろいろ苦労してらっしゃるんですね……」
労うと、天村氏は眉尻を下げた。否定も肯定もしないところが、実に彼らしい。
「よし、分かった。僕があいつに渡しておくよ。今日の夜の会議で一緒になるからね。ちょうどいいところに出会ったよ」
天村氏は腰をかがめ、葉花と同じ視線に立った。手を前に差しだすと、ちょうどその時、彼女から歓喜の声があがった。
「とれたー!」
大物を釣り上げた漁師のような、満足げな表情で葉花が鍵を大きく上に掲げる。仁が思っていると、「やったー、大量だー!」とさらに釣り人じみたことを叫んだ
「やったね、葉花。それでさっき話したんだけどさ。天村さんがね、鍵、あの人に渡してくれるって。だからさ、お願いしようよ。どうだい?」
たったいま話し合われた経緯をかいつまんで説明すると、葉花はきょとんとしたあとで、口を尖らせた。
「えぇー、あの変なおじさんに会えないの? 私が渡してあげようと思ってたのに」
「ごめんね。あいつは今日、夜まで帰ってこないんだよ。その気持ちは、ちゃんと伝えておくから、さ。きっと真嶋も喜んでくれるから。ね? おじさんに任せてくれないかな?」
天村氏になだめられ、葉花はまだ不満そうな顔を見せながらも頷いた。
「偉いよ、葉花」
仁が褒めると、葉花は頬を膨らませ「私、もうわがままばっかり言わないの。何でもできるようになったんだもん」とさらに胸も張った。その行動がいじらしくて、仁は笑みを禁じえない。
「ありがとう。きっと、真嶋に渡しておくよ」
天村氏は葉花から鍵を受け取ると、身を起こした。ポケットにそれを滑り込ませる。彼が完全に背中を伸ばし、軽く首を回す。その手持無沙汰になったタイミングを見計らって、仁は先ほどから頭に引っ掛かっていたことを尋ねた。
「天村さん。あの、会社の前にいる人たちはどういう方々なんでしょう?」
仁は目線で、首にネームプレートをくぐらせたスーツ姿の集団を指し示す。彼らはいまだその場で円を組み、何事か話し合いをしているようだった。
天村氏は仁の視線の先を伺うと、あぁと得心のいった声をあげた。
「外部の人たちだよ。外部発注。これからは連携が大事だからね。日本一のシェアに成長した黒城グループだけど、やはり油断していると寝首をかかれるからね。仲間がいるに越したことはないし。首からネームプレート下げているだろ? あそこに彼らの社名が記されているんだ。あそこは、ストーンブレード社かな。パソコンのソフト関係の。あそこでおそらく、直前のミーティングでもしているんだろう。どっか室内でやればいいのに」
「常務」
肩をすくめる天村氏に、女性の声がかかる。先ほどの秘書だ。天村氏は腕時計を覗くと、目を丸くした。
「おっと、もうこんな時間か……。ごめんな、仁君。ゆっくり話もできないで」
「いえ、少しだけでも会えて良かったです。佑のことは任せて、お仕事、頑張ってください」
佑の名前を出すと、天村氏は途端に顔を曇らせた。そして秘書のほうをちらちらと窺いながら、最後に悄然とした声色で言った
「佑に伝えておいて欲しい。今度、必ず会いに行くと。そして話がしたいって。そう言っておいて、もらえないだろうか」
「佑に、ですか?」
仁が訊き返すと、天村氏は自責に押しつぶされたかのように目を伏せた。
「本当にあいつには悪いことしてると思ってるんだよ。病気がちの娘を置いてふらふらして、ダメな親父だよな。僕は。軽蔑されても、しかたがないと思う。だからこそ、もっとよく話がしたいんだ。頼む。無理なお願いをしてしまって、すまない」
仁は彼のそんな自虐的な発現に対し、何も口にすることはできなかった。ひたすらに唖然とし、気づけば天村氏は路肩に停めてあった、黒光りしているいかにも高級そうな外車に秘書と共に乗り込み、行ってしまった。はいもいいえも言ってないのに、と仁は押し付けとも呼べる強引な頼みごとに、ため息をこぼす。
「じゃあ、葉花。ご飯食べに行こうか」
大人同士の会話で彼女を退屈にさせてしまっただろう。少し申し訳なく思いながら、そしてすまなそうな顔を作りながら、仁は振り返る。するとそこには口を尖らせた葉花がいて、「もう遅いよ。お腹空いちゃった」と文句を垂れながら、笑顔で迎えてくれる。
そう思っていた。いや、信じていた。
現実には、まったく思いもかけない出来事が待っていた。
葉花は地べたに座り込み、ガラスで作られた七面体のモニュメントに寄りかかっていた。顔を伏せたままぐったりとしている。肩を大きく上下に動かして息をしていた。仁は嫌なものを感じながら、彼女に歩み寄る。名前を呼んだその声は、自分でもはっきり分かるくらいに震えていた。
「……葉花?」
声をかけると、葉花はゆっくりと面を上げた。その額には脂汗が浮いており、顔色は真っ青だった。明らかにただ事ではない。紫色の唇を痙攣するように動かし、擦れた声を発する。
「……白石君、ちょっと、お腹が、気持ち悪い」
「葉花、大丈夫? 葉花?」
叫ぶと、周囲の目が一斉に降りかかってきた。しかしそんな視線など意に介さず、仁は葉花に近寄った。触れることはできないが、見つめるだけなら許されるだろう。仁が腰を屈め、彼女の顔を覗き込むと、その瞼は固く閉じられ呼吸も辛そうだった。
ふと仁の頭に、石化する葉花の映像が蘇る。およそ1週間前のことだ。仁が触れたところから、冷たく固い感触に葉花が変わっていく。あの時の恐怖を、今でも体が覚えている。
「葉花! しっかりしてよ……葉花!」
呼びかけようとも、彼女から返事はない。
顔を上気させ、苦渋に満ちた顔をみせる葉花を前にし、仁はめちゃくちゃなリズムを刻む心臓と真っ白に染め上げられていく頭に後押しされるようにして、アスファルトに爪を立て、慟哭した。ただひたすらに、歯がゆかった。あまりに無力な自分が恐ろしかった。
これほどまでに、葉花に触れない今の自分の体質を恨んだことはない。苦しそうな葉花の手を握り、安心させてあげることすらできない自分が情けなくなり、仁は人目も憚らず嗚咽を漏らした。
5話完