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4話「幸せの黒い鳥」

4話目です。


2010年 8月6日


鳥の話 10

 赤い絨毯の敷き詰められた大広間で、仁とあきらは向かい合っていた。

 部屋の隅には金の装飾があてがわれた豪奢な暖炉が置かれているが、そこに火は灯されていない。その他に調度品の類はなく、埃こそ舞ってはいないものの室内はがらんとしていた。

 天井から吊り下がるシャンデリアの数が、この部屋に漂うきらびやかさを物語っている。仁はなぜ自分がこんなところに立っているのか分からず、きょろきょろと辺りを見まわした後、前方に立つあきらに視線を留めた。

「白石さん。怪人、持って帰って来てくれなかったんですか?」

 あきらが口を開く。心の底から絶望を感じている、冷淡な口調だった。

「頼まれたこともできないんですね。白石さんには失望しました。もっと、できる人だと思ってたのに……」

 その口ぶりだけでなく、仁に向けられているその視線もあまりに冷たい。汚らわしいものを前にしたかのような、嫌悪感と憐憫に滲んだ表情を彼女は浮かべている。その言葉は仁の心を深く抉り、たっぷりと塩を刷り込ませるかのようだった。

「待ってくれ。僕は葉花を助けなくちゃ、救わなきゃいけないんだ。もう1回……もう1回だけチャンスが欲しい!」

 踵を返すあきらに縋るようにして、仁は頭を下げ、懇願する。あきらは立ち止まると肩越しに振り返り、深くため息をついてきた。

「……こんな簡単なこともできない人が、葉花さんを救えるはずがないじゃないですか。さようなら、白石さん。短い間でしたけど、楽しかったです」

「待って……待って、あきらちゃん!」

 そして彼女は立ち去っていく。仁はその後を必死になって追いかける。しかし手を伸ばし、いくら足を動かそうとも、あきらとの距離は縮まらない。汗だくになり、心臓がはちきれんばかりに跳ねている。息が切れ、肺にぴりりと痛みが襲いかかる。ここで彼女に見捨てられたなら、葉花を助ける手段がなくなってしまう。再び常闇の中に放り出されるのが、怖くて、悲しくて、仁は泣きそうになりながら次第に遠ざかっていくあきらの背中目がけて、走る。

 その時、まるでテレビをザッピングするかのような、ほんの一瞬の暗闇の後、視界に映る場面が移り変わった。

 駆ける歩幅が狭くなり、視点が低くなったため、仁は自分が子どもになったことを知った。おそらく幼稚園を出るか出ないかというぐらいの年齢だろう。哀しみに胸が詰まって、とめどもなく涙が溢れてくる。今の状況を受け入れられず、頭の中はパニックになって、ただただ走りながら仁は泣き叫んでいる。

 仁の体が向かう先には、背を向けてはるか遠くを歩みゆく2人の男女の姿があった。その全体のイメージはひどくおぼろげで、着ている服の種類や色も、2人の背丈や髪型でさえはっきりしない。まるで、曇りガラス越しに覗きこんだ景色のようだ。

「待って、お父さん! お母さん! 僕を置いていかないで、僕も連れて行って!」

 涙に枯れた声で叫ぶが、両親の姿は見る見るうちに遠ざかっていく。その背中は米粒のように小さくなり、やがて靄の中に消えていく。仁は足をもつれさせ、派手に転び、受け身もとれずに額を強くカーペットに打ち付けた。立ちあがる力も気力もなく、倒れ込んだまま床を両手で引っ掻き、むせび泣く。

「嫌だよ……嫌だよ、なんで僕を連れて行ってくれないの……なんで、僕を1人ぼっちにするの……」

 憎悪と疑問と罪悪感の入り混じった言葉も、広々とした部屋の中に浮かんでは消えていく。誰もその声を拾ってくれないとは分かっていても、仁は口を動かさずにはいられなかった。この胸に蓄積した暗雲があまりにも重苦しく、言葉に乗せて吐きださなくては押し潰されてしまいそうだったからだ。

 嗚咽混じりに自分をひたすら責め、それから両親を少しだけ詰り、もう1度両親に捨てられるようなことを知らず知らずのうちにやってしまった自分を罵倒し、追いこんでいたところで、仁は夢の中から目を覚ました。

「あ、白石君が起きた」

 うっすら瞼をあげると、そこに葉花の顔があった。唇を小さく緩め、黒目がちの大きな目で仁を覗き込んでいる。肩にかかった髪は寝ぐせ1つなく、さらさらと宙を撫でていた。

「おはようっ、白石君」

 満面の笑顔を咲かせて、葉花が言う。

「うん、おはよう。葉花」

 仰向けに寝転がったまま、仁はぼんやりと返す。そうしながら夏だというのに、胸のあたりまですっぽり掛け布団を被っている自分に気付いた。朝方が冷えたという記憶もなく、こもった熱が非常に暑くて、腹のあたりまで乱暴に掛け布団を剥いだ。

「……ここは?」

 体を起こしながら訊ねる。しかし葉花の返答を待つまでもなく、周囲を軽く見渡すことですぐに自分の部屋であることに気付いた。「どうみても、僕の部屋のようだね」

「白石君、帰ってくるなりすぐ寝ちゃうんだもん。昨日のこと、全然覚えてないでしょ」

 葉花に言われ、仁は思考を働かす。記憶を遡ろうとしてみるが、何だか頭の中がもやもやとしていてまるで思いだせなかった。眠気のせいでもあるかもしれない。仁は頭の後ろを掻きながら、正直に白状した。

「うん、ごめん。葉花の言うとおり、全然覚えてないや……」

「ほらー、やっぱり! 白石君、帰ってくるなり、ばたって布団に倒れちゃったんだよ。せっかくカレー作ったのに。叩き起こそうかとも思ったけど、タンス君がうるさいから止めたんだよ」

 葉花がむくれる。そういえば、昨日、そんなことを言っていたなと思いだす。一緒にカレーの食材を買いに、近所のスーパーまで買い物にでかけた記憶が蘇る。しかしそのイメージよりも、仁の心を捕えたのは葉花の発した一言だった。

「……葉花、僕の体に触ってないよね?」

 叩き起こした、という部分が仁に不穏な陰を落とす。葉花はそっぽを向いたまま、語気を強めて主張した。

「私、静かにしてたよ」

「それなら、いいんだ。ごめんね。変なこと聞いて」

 しばしの沈黙。葉花は腕組をしたまま、視線を床に落としている。その横顔を見つめながら、仁は口を開いた。

「ごめん。まだ、残ってる?」仁はおそるおそる、訊いた。「葉花の作ったカレー。僕も、食べたいな」

 その発言が功を奏したようで、葉花は少しだけ戸惑いながらも機嫌を良くしたようだった。こちらに顔を向けると、得意気に鼻息を荒くした。

「いっぱい作ったから、まだまだ残ってるよ。東京タワーよりもやばいよ! お詫びとして白石君にはぜーんぶ食べてもらうからね!」

 腰に両手をあてながら、そんなことを強制する。仁はいつもと変わらぬ葉花の態度に微笑ましさを感じ、つい口元を緩めた。

「うん、望むところだよ。いっぱい食べちゃうからね!」

「よぅし、白石君をエッフェル塔にしてみせるぞー」

 意気揚揚とよくわからないことを宣言し、葉花は振り返ると、ドアに向かって歩きだした。

「あ!」

 ところがすぐに声を上げると足を止め、こちらを見る。どうしたのかな、と仁が不安を抱いていると、彼女は大きく首を傾げ、思いがけないことを口にした。

「そういえば、足、大丈夫?」

「足?」

 なんのことだかわからず、仁は反問する。葉花は眉間に皺を作った。

「なんか昨日、痛そうだったから。ズルズルしてたし。まだ痛いなら、お薬持ってくるけど……」

 言われ、仁は両膝を布団の中で曲げようとする。すると膝を曲げるどころか足を動かすだけで激痛が走った。右足のふくらはぎのあたりだ。焼けるような痛みとともに痺れも伴っている気がする。しかし仁はその苦しみが外に出ないように、無理やり笑顔を作った。ここで歪んだ顔をみせたら、葉花はきっと心配する。いらぬ不安を与える必要はないだろう。

「大丈夫。全然痛くないから、平気だよ」

 こっそりと布団の中に入れた手で、足をさする。痛みとともに思いだすのは、装甲服の男との戦いに関しての記憶だった。

 敵の銃弾とこちらが発した電撃が激突し、爆音が周囲を満たす中で。仁は爆風に紛れるようにして、気づけば逃げ出してしまっていた。自分の使命も忘れ、女性たちを放置し、怪人も回収せぬまま、粒子をばら撒きながら片足だけでひとっ飛びし、戦いの場から離脱してしまったのだ。

 あまりにも身勝手で、許されない行動。仁は自分の情けなさに悲観し、ひたすら呆れた。やはり自分も己だけが助かればいい、己の命こそが何よりも大切だと考えている、利己的で自己中心的な人間なのだと改めて思い知らされたようで、沈鬱な気分が心の中に据え広がった。

 己の義務や使命から尻尾を巻いて逃げだした、こんな人間をあきらはどう思うだろうか。今まで通り仲間として迎え入れ、扱ってくれるだろうか。そして、見放さないでくれるだろうか。

 嫌な想像が頭の中に次々と浮かんでは、積もっていく。恐ろしさに身が震える。ぎこちない笑顔になっていることは自分でもよく分かっているが、その妄想は止まらない。葉花の不安に揺れる瞳にも気付かず、仁は額に手を当てて俯くと、憂鬱なため息を零した。




魔物の話 10

「人間の姿を持ってる、怪人?」

 レイが説明すると、狼の着ぐるみに身をくるんだゴンザレスは特に驚いた風もなくそう言った。ソファーに深く腰をうずめ、うで掛けに頬杖をついているその姿は、そういった報告を受けつけることすら面倒臭そうでもある。

 船見家の応接間でのことである。マスカレイダーズの集合場所であり、個性的な面々が揃っている所以、この場所はいつも騒々しいが今日はどこか様子が異なっていた。

 まずいつも安楽椅子で揺れているトヨの姿がない、というのがその一因としてあげられるだろう。彼女は買い物に出かけたらしい。家の主人がいないのに勝手に侵入していいのかとも思ったが、ここを集まり場所として差しだしたのはトヨ本人だそうなので、そういう遠慮は不要というのがゴンザレスの話だった。

 狩沢は昨日と同じように、テーブルに広げたパズルを黙々と組み立てている。そのはめこむ音が透き通って聞こえてくるくらい、室内はひどく静まり返っていた。いつもは耳障りなほど聞こえてくるはずの蝉の音も、今日はどこか遠い。まるでこの家を包みこむ暗澹とした雰囲気を察知し、慌てて逃げ出していってしまったかのようだ。

 レイと秋護は並んでゴンザレスの前に立ち、昨日のことを報告していた。秋護が中心となり、レイが節々で補足を加えていくという流れで話を進める。

「その怪人の体に、金色の模様がついてたりは、した?」

 報告を終えるとゴンザレスはまず、そんな奇妙な問いを投げかけてきた。レイと秋護は顔を見合わせ、ほぼ同じタイミングで首を横に振る。

「これまでの怪人と、違う雰囲気を持ってたりは?」

「人の言葉を喋って、人間に化けてる……これまでの怪人よりもさらに非現実的だったな」

 続けて繰り出された質問には、秋護が答えた。何が愉快なのか頬を緩めている。父親や黒城と比べれば秋護はわりとまともに分類される人物ではあったものの、こういう部分でレイは時々彼に変人気質を感じることがあった。

 レイは秋護の説明に、自身の経験も踏まえた捕捉を加えた。

「前の山小屋での戦いで、シーラカンスって怪人がいたの。多分……それと同じタイプなんだと思う。その時、二条は新型って言ってた。たくちゃん先生やお父さんなら分かってくれると思うんだけど……」

「なるほどね」

 納得したのか、していないのか。狼のかぶりものごしに聞こえるゴンザレスの声は、いつだって曖昧模糊なものとして耳に届いてくる。

 ゴンザレスはその問答の是非を天秤にかけているかのように、しばし唸った。それから歯切れの悪い反応を示しながらも、巨大な頭をぐらぐら揺らすようにして頷いた。

「うん、分かった。分かったよ。ゴン太君は何でも分かるんだ。つまり、その2人組は君を狙ってるということなんだね」

「うん……多分、前に私をさらった人たちの命令で動いてるんだと思う。本人もそう言ってたし」

 怪人である私を狙っている、とは口が裂けても言えない。隣をちらりと窺うと、秋護は無言のままだった。何も聞かなかった、見なかったを貫き通すことを決めたかのような、殊勝な面持ちでゴンザレスを正面から見据えている。いつまでこの守秘が暴かれずにいるか、不安は絶えない。ゴンザレスの中にある人間の目は一体何を映しだしていて、どんなことを考えているのか、その正体を見極める術はレイになかった。狼の着ぐるみは笑顔をまったく崩すことなく、光のない目でこちらを見つめている。

「あぁ、俺も聞いた。レイちゃんの言うことに、間違いはないよゴンザレス」

「だから、ゴン太君って呼んでよ。距離をとられると、ゴン太君、ちょっと悲しくなっちゃうよ。今度から、なるべく気をつけてね」

 そんなことをのたまった後で、ゴンザレスは太い腕を組むようにして、天井を見上げた。そしてそのままさらに唸りに唸り「とりあえず、君を監視することが必要だね」と結論を下した。

「監視?」

 レイは眉をひそめる。

「尾行?」

 秋護は不審げに鼻の穴を膨らます。

 当惑する2人に、ゴンザレスは手首を軽く撫でながら説明した。

「敵が君を狙っているなら、それにマスカレイダーで対応すればいいんでしょ? 敵が人語を喋るなら、それで捕獲してもいいよね。上手くいけば、ボスの居場所も突き止められるかもしれないし」

「レイちゃんを、囮に使うっていうのか?」

 やはり秋護は不服そうだった。そのままゴンザレスに跳びかかっていきそうな気配すら漂わせている。レイは秋護の着るシャツの裾を引っ張ると、こちらに顔を向ける彼に向って強く頷いた。そして一歩だけ足を前に踏み出す。

「分かった。その提案に、乗るよ」

 目を剥く秋護を尻目にして、レイはゴンザレスの案を承諾した。自分が考えうる限りでも、それ以上にベストな方法はないように思う。それに、自分もマスカレイダーズの一員であることを周囲に示したいという気持ちもその決定を後押しした。ゴンザレスは満足げに数度首肯すると、ゆっくり持ちあげた腕でレイの顔を指差した。

「うん、分かった。誰を付けるかは、君が選ぶといいよ。マスカレイダーズ出動の選択権は君に委ねているからね。ゴン太君は、関与しないよ。自分が付けられたい人を選ぶと、いいんじゃないかな」

「それは、私が引き受けよう」

 考える間もなく、レイの意識は、そして室内の空気は、ドアの向こう側から聞こえてきた声によって一瞬で呑みこまれた。

 ドアを開けて部屋に入って来たのは、白い長袖のワイシャツ姿の黒城だった。ネクタイはしておらず、普段と比べてどこかラフな装いだ。

 思いもかけない相手に、レイは目を丸くした。秋護はなんだかホッとした顔をしている。

「お父さん……」

「黒城さん」

「黒城和弥君。なんだか、久しぶりに顔を見た気がするよ。元気だったかい?」

 ゴンザレスが問いかけると、黒城は「私が元気を失った時は、世界が枯れ果てる時だ。お前もそれは承知であるはずだろう」と威張りながら、ゴンザレスの隣に深く腰掛けた。

 レイは突然やってきて、いきなり話題の中心に落ち着いた父親に鼻白みつつも、先ほどの言葉の真意を問い質すことは忘れなかった。

「お父さん、やるって……私の監視をってこと?」

 ゴンザレスと秋護の視線も、黒城に向く。ソファーにふんぞり返る黒城は、3人の視線を一身に浴びながらも不遜な態度を保ち続けていた。

「その任務が重大であればあるほど、私とアークの出る幕が増えるということだ。私にはアーク以外のマスカレイダーの存在意義が分からない。最強が1人いれば、十分だろう。レイを守るのは、この宇宙を捜し回っても私のアーク以外にいるはずがいない」

 断定口調で述べ、周囲の目を一蹴する。さりげなく自分の役割を否定されたのだが、狩沢はまったく気にも留めずパズルの作成に夢中になっている。たまには怒ってやったほうがいいですよ、とレイは狩沢に助言したくもなる。

 それから一同の反応をまったく意に介さず、黒城は鼻の下の髭を指でいじりながら、堂々と付け加えた。

「それに可愛く優秀な私の娘が他の男につけ回されるのは、親として、良心が許さないからな」

 なぜそんなことを本人の目の前で、恥ずかしげもなく言えるのかその神経がレイには分からない。至極真剣な眼差しで、父親から見つめられると頭の先から湯気が噴きだしそうになった。

「それで、どうするんだい? さっきも言ったけど。決めるのは、君だよ」

 ゴンザレスはついにうで掛けを枕にして、半分寝転がり始めた。本当にやる気がない。しかしゴンザレスのそんな、アンニュイという言葉を体現したかのような態度はレイの頭に籠った熱気を冷ましてくれた。レイは狼狽が表に出ないよう気を配り、小さく深呼吸をしてから、口を開いた。

「お父さんで、いい。頼りになるのは確かだから」

 レイが答えると、黒城はその判断は当然だとでも言いたそうに深く頷いた。その態度が何となく気に食わず、あえて断ってやろうか、とも思ったがもはや後の祭りだ。レイは嘆息し、「よろしくお願いします」と父親に向けて腰を折り曲げた。

「いいだろう。この私が、お前を守り抜いてやる」

 彼はいつも通り、自信たっぷりに言い放った。悔しいが、頼もしい。

 報告と、これからの活動方針が決まったため今日のところはこれで解散ということになった。メンバー同士の関連性からマスカレイダーズの本拠地であることを、周囲に悟られないようにするため3人は時間を置いて出ることにしていた。それがマスカレイダーズのメンバーとしての、基本的なルールだ。

「やはりレイちゃんのお父さんは面白いな。行動、言動、態度、その存在全部が非現実的だ。あの人と一緒にいると胸がときめくよ」

 初陣を切るのは秋護だ。靴を履く彼の後姿を廊下に立って見つめながら、レイは人の目がないことをそっと窺い、ゴンザレスと黒城はまだ部屋の中にいることを確認すると小声で訊ねた。

「……言わないんですか。怪人が、私に言ってたこと」

 レイが怪人であるという事実。父親と2人だけの約束であったことが、呆気なく秋護にも知られてしまった。このまま彼は黙殺を決め込んでくれるのだろうか。その心配のせいで昨晩はよく寝付けなかった。だから機会を選んで、この質問を投げかけようと決めていたのだ。

 しかしレイの懸念とは裏腹に、振りかえった秋護の表情は眩いほどに晴れやかだった。

「1つや2つ、秘密にしときたいこともあるし。ま、俺は別に他言するつもりはないよ。ただ……今までより余計に、レイちゃんに興味が沸いた。これからもっともっと、非現実的な光景を俺に見せてくれ。期待してるよ」

 片手でヘルメットを持ち上げ、もう片方の手で頭に巻いたバンダナをいじりながら秋護が笑う。レイは自分の心配事が杞憂であったことを知り、拍子抜けするべきなのか、胸をなで下ろすべきなのか判断に困った。

 困りつつも、秋護に感謝の意を告げたいという気持ちは確固たるものとして存在していた。そしてその気持ちを胸にためこんだままでいるのは、なんだかもやもやと胸やけをしているようで気分が悪かった。

「昨日は、ありがとうございました。あの……助けて、くれて」

 改めて口にすると照れくさい。こんなところでも、易々と口の回る父親に尊敬の念を抱かざるを得なくなる。暴言を浴びせかけようするが、気の利いたフレーズは頭に降ってこなかった。

 俯くレイを前に秋護は玄関のドアに手をかけ、首だけ捩った体勢で固まると、徐々に顔を喜悦で満たしていった。満面の笑みを浮かべるその様は、なんだかこちらの行動を楽しまれているようで、少しだけ腹が立つ。しかし相変わらず、いつものように舌が回ることはなかった。

「俺はマスカレイダーズが大好きだ。仲間を助けるのは当然のことさ。ま、レイちゃんはお父さんに守ってもらうといいよ。あんなに頼れる人は、そうそういないだろ。怪人だろうが人間だろうが、子どもは親に守られて育つもんさ」

 最後にそんな格言じみたことを言い残し、秋護は力強く閉まるドアの音と共に去っていった。レイはしばらく呆然と廊下に立ち尽くしている。そして何度も、秋護の残した言葉を頭の中で反芻させていた。

 怪人だろうが人間だろうが、というセリフ回しはまずあの夜中の小屋の前で橘看護師が檄を飛ばしてくれたことを思い出させ、その後に父親が病院の休憩室で投げかけてくれた言葉を脳裏に浮かび上がらせた。

 あの頃の気持ちが蘇り、レイの心を否応もなく奮わせる。この姿のまま生きていてもいい、と許可を受けたかのような心持ちになる。

 レイは今度こそ大きく息を吸い込むと、吐きだすと同時に「よし」と呟き、意思を固めて、強く握りしめた拳を胸に据えた。




鎧の話 8

 直也は拓也と共に、喫茶店の窓際のテーブル席を陣取っていた。

 おしゃれなチェーン店で、平日の昼間にも関わらず店内は込み合っている。1階と2階のラウンジ席とで合計80席前後は配置されているはずだったが、その全てが見た限り埋まっていた。

 スピーカーから聞こえてくる軽やかなBGMが、人々の話し声の合間を縫うようにして流れている。店内は照明がいいのか、それとも和気あいあいとした客の雰囲気がそうさせているのか、とても明るく楽しげな雰囲気を発散させていた。

 事件についてまた話がしたい、と昨晩電話で拓也に持ちかけると、じゃあ明日も仕事を休むと彼は言い出した。そんなに仕事を休んで大丈夫なのか、とも思うが、休職中の身であるのはこちらとて同じなのであまり彼を揶揄することはできなかった。

「これが、鉈橋きよかさん、か……」

 壁の一部を縦に切り抜いて作ったかのような大きな窓の向こうには、公園前の歩道が見える。直也が頬杖をつきながらぼんやりと窓の外を窺っていると、テーブルの上に広げた厚手のアルバムに目を落としていた拓也が感嘆の声をあげた。

「あぁ。昨日お前と別れた後、咲さんの実家に行って借りてきた。警察の言い分を信用しないわけでもないけど、一応裏付けはとっておきたいと思ってな」

 拓也が閲覧しているのは、直也が持ってきた咲の高校時代の卒業アルバムだった。クラス写真のページにはブレザー姿で笑う咲がおり、そのすぐ隣に前髪が長く目の小さな、垢抜けない少女の写真がある。少女の写真の下には確かに、『鉈橋聖』と記されていた。

「確かに鉈橋、って人は咲さんのクラスメートだった。とりあえずこれで、ようやくスタートラインに立てた気分だよ」

 運ばれてきたアイスコーヒーで口の中を潤しながら、直也は咲と鉈橋きよかの写真を交互に見やる。まさかたった数年後に片一方は殺され、もう一方は行方不明になるという事態になるとはクラスメートどころか本人たちでさえ、予想だにしなかった出来事だったろう。カメラに向かって笑う明朗な表情が、今となってはどこか物哀しい。

「俺、遠野咲さんもこの写真で初めて見たんだけど」

 拓也はカップに注がれた紅茶目がけて角砂糖を次々に落としながら、咲の写真を指差す。「なかなか、美人じゃないか」とカップに口をつけながら付け加えた。

「ありがとよ。今晩にでも、咲さんに伝えておくよ」

「だけど、これからどうするんだ? 彼女の家族とも連絡がつかないんだろ? なかなか難しいんじゃないか」

「一応、咲さんの友達に連絡をとってみたりしてるけどな。なかなか目新しい情報に結びつかない。まぁその程度のこと警察のほうでもやってるだろうし、親友クラスの連中には俺も3年前、情報収集に行ったからしょうがないっちゃ、しょうがないんだけど」

 拓也からアルバムを受け取り、メッセンジャーバックの中に放り込む。拓也は紅茶から漂う湯気と同じくらいの濃度をもつ、深いため息を零した。

「なかなか、難解だなぁ。袋小路から全然抜け出せないじゃないか」

「あと、一応ネットで、事件についても調べてみたんだよ」

「事件? どの事件?」

「あれだ。鉈橋きよかの妹さんが死んだっていう遭難事件だよ」

 拓也はあぁ、と両手を叩き合わせ得心する。周囲にあまりにも事件、と名の付く出来事が蔓延しすぎているため、単純に事件と銘打つだけではどれだか分からない、この状況もいかがなものかと思う。

 直也はアルバムをしまったその手で、バッグからA4のコピー用紙を1枚取り出した。それはインターネットのニュースサイトから印刷してきたものだった。

 大きく『子ども会旅行中に事故。小中学生10名が死亡』と見出しが出されている。その下には事故の現場を写した写真を織り交ぜながら事件の概要について記されていた。事故が起きた日付は、2007年の4月28日になっていた。咲と所長が殺され、SINエージェンシーが燃やされるわずか数カ月前だ。子ども好きで、教師でもある拓也は事件の概要を眺めると、当事者でもないのに目を潤ませた。

「やりきれないな。この子たちに待っていた将来のことを考えると、本当に、悲しくなる」

「調べていくと。どうやらこの事件も、不可解な点があるみたいなんだ」

 拓也の敏感で豊かな心に触れながら、直也は話を進める。拓也は鼻をズルズル言わせて、首を傾げた。

「不可解な、点?」

「みんなそれぞれ、体のパーツが一部分ずつ欠損していたらしい」

 周囲でランチを摂っている客に考慮して直也は口の前で手をあてがい、内緒話をする姿勢で拓也に伝えた。昼間の喫茶店にあまりにもふさわしくない言葉であったため、慎重に用いる必要性があると思ったからだ。

 ところが拓也はその話を聞くやいなや、席から跳びあがり、「な、なんだって!」と喫茶店中に響き渡るような大声をあげた。立ちあがる際に膝をぶつけたのか、テーブルが大きく揺れ、コーヒーと紅茶の水面が零れそうなほど激しく振動する。

 一瞬、沈黙が店内を覆い、一斉に客たちが直也のいるテーブルを振り向く。直也は、呆れ半分恥辱感半分に俯き、ため息をついた。

「……お前、うるせぇよ。恥ずかしいだろうが」

「あ……悪い。皆さん、お騒がせしましたー。特に何もないですよ。皆さん」

 周囲に向かって両手を広げ、それぞれの会話に戻ることを諭す拓也。直也はコーヒーを一気に飲み干し、干上がった喉を潤す。いまの一幕で、一気に胸の奥まで水分が蒸発してしまったような気がする。こちらに対する客たちの注意が外れ、喧騒が再び店内に戻るのを待ってから、直也は説明の続きを口にした。

「転落事故だ。そりゃあ、あんま言いたくはないけど……衝撃で手足がちぎれる、っていう死体も中にはあると思う。だけど、これが全員とするといくらなんでも偶然が過ぎやしないか? それは歯だったり、指だったり、とにかくみんなどこかがかけてたらしい。ネットの情報だ。もちろん噂半分に聞いた方がいいかもしれない。だけど俺はこの話を聞いた時、もう1つの事件を思い出した」

 今度はどの事件を指しているのか察したようだ。拓也はテーブルを軽く小突いてから、大分抑えた声で言った。

「……怪人。二条裕美が関わってる、あの事件のこと?」

 正解。直也は神妙な顔をして頷いた。

「奴は絶対に何か知ってる。もしかしたらあいつは本当に、俺たちが関わっている事件を解決してくれるキーパーソンなのかもしれないぞ。そしてこれで、咲さんが殺されたことと、怪人事件の関連性がさらに色濃くなってきたな」

「つまり怪人について調べることが、事件を解決に導く糸口ってわけか。でも、昨日も何か言ってたけど、これからどうするんだよ」

「……そんなこと言ってたら、来たぞ。ターゲットだ」

 窓の外に顔を向けたまま、直也は席を立った。その目の先には、歩道を早足で通り過ぎていく、チェック柄のシャツを着た男の姿があった。年齢は50代に差し掛かったばかり、というところか。顔は一瞬しか確認できなかったが、間違いないと断定することができた。パーマのかかった髪の毛に、太い眉毛、そして印象的な耳の形……すべて、テレビの画面越しに見たままだった。

 直也は腕時計に目をやり、それからコピー用紙を引っ掴みメッセンジャーバックの中に突っ込んだ。

「予定よりも、少し早かったな」

 そして伝票を取り上げると、バッグを担ぎ、慌てて席を立つ。拓也は不審そうにしながらも、直也の後を追うようにして立ちあがった。

「そろそろ教えてくれてもいいだろ。あの人は一体誰で、俺たちはこれからどこに行くんだよ」

 直也が早足でレジに急ぐと、追ってきた拓也が、直也の肩を叩きながら問いかける。片手をジーンズのポケットに突っ込みながら、振り向かずにその問いに答えた。

「俺たちが、あの地下室で助けた13人目の被害者……あの男は彼女の父親だ。この前ワイドショーに映ってたからな、間違いない」

 レジは混んでいなかったが、1組だけ先客がいた。やけに華々しい若いカップルだ。千円札を店員に差出し、あとは釣銭を受け取るだけという段階らしい。直也はその2人の背後で立ち止まると、ようやく拓也のほうに顔を向けた。

「二条もあきらちゃんもダメ。なら、俺たちが知っている人間の中で怪人と関わり合いをもったのは、1人しかいない」

「じゃあ、それじゃあ……」

 拓也が瞠目する。直也はにやりと笑い、そして人差し指をまっすぐ立てた。

「ああ。俺たちが行くのは、あの女性が入院している病院だよ。俺たちはその場所を知らない。だからあの男を、尾行する」




鳥の話 11

 ラーメン屋の駐車場に車を停め、足を引きずりながら裏路地をしばらく歩く。湿った空気に身を任せ、草が伸び放題の更地をしばらく歩いていると、『ホテル クラーケン』の全容がようやく見えてきた。

 粗大ゴミやすえた臭いを発する生ゴミに囲まれ、得体のしれない植物の蔦が巻き付いたそのホテルの外装はいつ来ても、客を持て成すように作られた建物だとは到底に思えない。完全な廃墟だ。遊園地にあるお化け屋敷だってもう少し清潔感があるだろう。窓ガラスは割れたまま放置されており、そこから度々、カラスが出入りしていた。数年前まで、宿泊客で賑わっていたなんて嘘だろうと勘ぐりたくもなる。

 雨の気配すらないのにホテルの周囲には薄い霧が立ちこめ、それが物々しい雰囲気を助長していた。薄い桃色のかかったその霧は、投棄された冷蔵庫やテレビなどの家電をしめやかに濡らしている。

 ホテルに絡みつくような粘っこい霧で、そこから3メートルも離れると燦燦とした日差しが射しているのだから、奇妙であるにも程があった。ホテルの上だけ、なんだか天気がよろしくない。こんなこと、常識ではまったくありえるわけがない。

 ところがその正体を把握している仁にとって、それは余りにも取るに足らない光景だった。仁はすでに、「常識的に」や「一般的に考えて」といった類の言葉が用を成さない世界に頭から足の先まで埋まっていた。

 その霧はホテルの存在を包み隠すためのベールであり、黄金の鳥の力に関与してない者からしてみれば、霧どころかこのホテルすらその目には映らない。そういう仕組みになっていた。

 対する敵がいる以上、本拠地を隠すのは当然の処置なのだが、この仕組みを始め聞いた時、仁は驚きを禁じ得ることができず、それと同時に感心した。後を付けられ、むざむざと基地のありかがばれるなどいう、あまりに陳腐な凡ミスは、これさえあればなさそうだ。他の人から見れば、仁は霧の中に突然消え失せたように見えるはずだった。

 いつもこの状態を維持しているということではなく、ホテルの存在を外面的に晒していることもある。始め、仁があきらに誘われて連れてこられた時が正にその状態だったらしい。確かにあの時仁は戦う力も持ち得ないただの人間であったにもかかわらず、このホテルを視認でき、当り前のように侵入することすらできた。

 この霧がホテルを取り巻いていることが、どうやら、いわゆる"ステルスモード"を発揮している印らしい。とはいっても、黄金の鳥の力を身に宿している仁には、隠されていようがいまいが、あまり支障はない。仁は積まれたゴミの隙間を縫うようにして、空を見上げながら、そういえば何でここのカラスは見えないはずのホテル内に入り込むことができるのだろう、とふと疑問を覚えながら、くすんだ色のガラスドアを開け、玄関に足を踏み入れた。

 破れたソファーや埃の乗ったカウンターを通り過ぎ、広いロビーを横切る。玄関から見て正面にある、固まった灰色の綿埃が隅々に欠かさず転がっているような、清潔とはほど遠い階段を上がる。カラスの羽音と鳴き声だけが満たす踊り場にたどり着き、落ちてくる糞を避けながらさらに上に昇った。片足を引きずりながらなので、階上にたどり着くまで時間がかかった。

 2階に辿りつくと右手の方角に曲がり、しばらく歩みを進める。突き当たりに両開きのドアがあった。深い緑色をしており、宿泊部屋のドアとは明らかに装いが違っている。ドアの上には掠れ切った薄い文字で、『食堂』と表示してあった。

 仁は鈍い輝きを放つ金属製の取っ手を掴むと、唾を飲みこみ、唇の震えを歯で抑え込みながら一息にドアを開け放った。無音のまま、仁の膂力に引っ張られるようにして、そのドアは室内を外部に晒す。

 廊下とこの食堂内とでは、明らかに空気の濃さに違いがあった。

 その原因が昼間であるにもかかわらずカーテンを閉め切り、あらゆる場所に設置されたランプが煌煌と薄闇を剥がし取っているからなのか、それとも気温が30度を軽く超える真夏であるにも関わらず、冷房器具は一切取り付けられておらず、それにランプから発散される熱も加えて、室内がまるでサウナのようになっていることからなのか、なんとも判断しがたい。両方かもしれない。頭がぼんやりとし、仁は高温度と高湿度のダブルパンチにいきなり気が遠くなる。

 椅子と机のスクラップが敷き詰められ乱雑とした食堂内で、菜原は読書に励んでいた。

 横倒しになった椅子に腰掛け、黙々と文庫本のページを捲っている。書店などでもらえる紙製のカバーをかけているため、本の題名までは分からなかった。この熱気に満たされた部屋の中で、彼は黒いブレザーを羽織り、汗の雨を床に降らせながら、それでも意固地に本から目を離さない。汗でずり落ちそうになるメガネを指で押し上げている。

 仁がドアの前で突っ立っていることに気付くと菜原は顔を上げ、気さくな様子で片手を上げた。その指先からも汗が滴り落ちる。

「よう、仁。今日も暑いな」

「今日は我慢大会の日だったっけ。ごめんね。僕、こんな薄着で」

「何言ってんだ。俺だって、こんなところで読書したくはないんだよ」

 じゃあ止めればいいのに、とは言い出せず、またいつものように曖昧に笑って返す。菜原は仁の足に目を止めると、急に表情を曇らせた。

「おい。また、けが、してるのか?」

 本を閉じ、椅子の上に置いて立ちあがる。ジーンズを履いていて傷口すら確認することはできないはずなのに、彼が何を根拠にそんなことを言い出したのか仁には見当もつかない。菜原の前で足を引きずって歩いた覚えもなかった。仁が当惑している間にも菜原は駆け足で近づいてきた。眼鏡のレンズ越しに見える瞳は、動揺に震えているようだった。

 ただならぬその気配と、彼の態度の急変に仁は恐怖に限りなく近い感情を覚えた。元より、菜原とはまだ2週間ほどの付き合いで、それほど関係が深いわけでもない。だから彼には底の知れない、仁からしてみればまだまだ不気味な点が存在していた。その不可解な場所が、今の菜原からは溢れんばかりに感じ取れる。このまま巻き込まれることは危険だと、体中で危険信号が鳴り響いている。

「大丈夫、なのか、平気なのか?」

「それよりも菜原君、あきらちゃんは今日、いる?」

 伸びてきた菜原の手を一歩後退することでかわしながら、仁は素早く話題を逸らした。菜原は眉を寄せ、途端につまらなそうな顔になりながらも質問には答えてくれた。

「ボスなら、3階にいる。朝から引きこもりっきりだ」

「また家に、帰ってないのかな?」

「さあな」

「何日くらい帰ってないのかな?」

「さぁな」

「菜原君はちゃんと帰ってるんだよね」

「さぁな」

 菜原の反応はことごとく冷ややかだった。しかし踵を返し、仁に背中を向けると「じゃあ、行くか」と落ち着き払った声を上げた。つい先ほどの返事とは打って変わった、どこか愉快気なトーンだ。

「え、どこに?」

 思わず訊き返す。菜原は肩越しに振り返ると鼻を寄せ、怪訝な表情を浮かべた。

「ボスのところにだよ。するんだろ? 昨日の報告。どうせ暇だから、一緒に行くよ」

「いいのかい?」

「よくなかったら、最初からこんなこと言わんよ」

 粗暴な口ぶりながらも、怒っている様子はない。正直、あきらと2人きりになりそこで報告を交わすことは憂鬱でしかたがなかったので、菜原がそう提案してくれたのは実に心強かった。

「じゃあ、お言葉に甘えて。お願いするよ」と返答し、仁は甘んじて彼を受け入れる。菜原はかすかに微笑むと、手近にあった椅子の上のランプを拾い上げ、「なら、ちゃんとついてこいよ」と仁を促し歩きだした。

 菜原の後にぴったりと貼りつき、仁は食堂を縦断する。相変わらず足は刺すように痛んだが、顔にも姿勢にも出ることがないよう、必死に堪える。

 足や背もたれの欠如した椅子やテーブルがあちこちに積み上げられており、誤って肘などがぶつかり、崩れてしまうことのないよう慎重にその合間を縫うようにして進んでいく。仁と菜原、2人ぶんの小さな足音と、ランプの燃料が燃えていく音だけが、廃れに廃れた室内に物々しく反響している。微かに香る油の匂いでごまかされていたが、この部屋もなんだかカビ臭いことに今さらながら気付いた。

「そういえば、また昨日。マスカレイダーズと会ったんだって?」

 こちらを振り向かずに、菜原が問いかけてくる。「うん、まぁ」と仁は曖昧な返事をする。すると菜原は怒気の含んだ声を発してきた。

「うん、まぁ。じゃないよ。言っただろ。マスカレイダーズを倒すのは、俺なんだ」

 憤激がまざまざと滲んだ声調に、仁は言葉を失った。彼の態度はマスカレイダーズに一体、どういうことをされればこんな憎悪を彼らに向けることができるのだろう、と疑問に思うほどだった。

「仁がそんなけがをしてまで、戦うことなんてないんだ。奴らは、俺が倒す。この手で倒さなくちゃいけないんだ。そこを分かってくれよ」

「でも、連絡が来たのは僕だからね。あそこは僕が対処しなきゃ、いけなかったんだ」

 仁は抗弁する。いつまでも嫌悪感を顕にされているのは気分が悪い。相手の気持ちを受け止めることだけが、人間関係を円滑にする方法ではないことくらい知っているつもりだった。すると菜原はこちらを肩越しに振り返り、大きく眉を寄せてきた。

「分かってるさ、仁が悪くないことくらい。ボスもなかなか、意地が悪い」

 ぼそりと菜原は呟く。仁はとりあえず安堵を胸に落としながら、この話の流れを手繰り寄せる。

「なんで……そんなに彼らを憎むんだい?」

 恐れもあったが、仁は思い切って疑問を吐きだした。確かに敵であると認定されてはいるものの、仁個人としては別段彼らに特別な感情を抱いているわけではない。むしろ、戦わずに事が済むことを望んでいた。

 決死の質問だったのだが、菜原は答えなかった。仁の入ってきた入口のちょうど真正面にあるドアを開くと、足早に廊下に出る。仁も慌ててそれに続き、後ろ手にドアを閉めた。するとちょうど右手側からやってきた女性とぶつかりそうになった。

「あ、すみません」

「あらー、白石君に菜原君。今日は2人とも一緒なのねぇ」

 銀縁のメガネと、緩やかなウェーブのかかった髪。白衣姿の女性だった。年齢はおそらく30代半ばほどだろう。目が大きく、湛えた笑顔は草原に咲くタンポポの花を彷彿とさせる。汗で額が光っており、化粧が落ちかかっていた。

「今日はどこもかしこも暑いわねぇ。もう私、頭がぐるぐるしちゃいそう。ぐるぐるしちゃっていいかしら」

「はい。しちゃってもいいと思いますよ。僕もぐるぐるしたい気分ですから」

 適当な言葉に、適当な返事をする。食堂ほどでもないが、廊下もまた薄暗く、そして蒸し暑かった。意外と蠅の姿は見えないが、蚊は多い。ここに来てから、もう4箇所は刺されてしまった。

 反応したのはいいが女性と対面しながら、ぐるぐるって何をするのだろうと考えあぐねていたところに、菜原の声が割って入ってきた。

「佐伯さん。包帯と塗り薬、貸してもらえます?」

 図々しくも強硬な態度で菜原は言った。君はいきなり何を言っているんだい、と仁は戸惑う。

 佐伯かえで、というのがその女性の名前だった。この寂れたホテルの中で医者をやっている。が、仁としては肝心な時にいない人、というイメージが強かった。先日、肩にけがを負った時も手当てをしてくれたのはあきらだった。だから仁は彼女がけが人を手当てし、治療を施している様を一度も見たことがない。その白衣もただのコスプレなんじゃないか、と心の端では疑う部分もあった。かえでの、床に投げつけたスーパーボールのような軽快さは医師というよりも、保母さんに近いように思えたからだ。

 しかしそれほど、悪い印象を彼女に対して持っているわけでもない。彼女の明るい人柄は、どこか陰鬱な気配漂うこのホテルの中で十分癒しの要素を持ち合わせていたし、それに何より、彼女の名前は葉花の苗字と同じだった。えこひいきだと自覚はあるが、自分の大切な人と名前を共有する人に好印象を抱くのは仕方がないことだと自分に言い聞かせる。

 菜原の言葉に、かえで女医は大きな目をさらに見開いた。仁と菜原を交互に見やってから、肩に耳が触れてしまいそうなほど大きく首を傾げる。

「あらあら、誰かけがをしちゃったのー。大丈夫かしら?」

「大丈夫ですから、包帯と薬を俺にさっさとよこしてください。緊急事態なんです」

 前後不一致な発言であるが、その場の雰囲気に流されやすい性質なのか、かえでは「あらあら、まぁまぁ」と困惑を顔に出したうえで、両手を叩き合わせ彼の意見に了解した。心なしか、自分に出番が回ってきたことを喜んでいるようにも見える。

「はいはーい。分かりましたよー。すぐにお薬持ってきますからねぇ」などと軽やかに言って、バタバタと走り去っていく。腕と足の動きがしっちゃめっちゃかであまりにも走り方が酷く、その後姿を眺めながらいつ転ぶかと仁はハラハラする。

「佐伯さんはさ、ここに住んでるんだよ」

 唐突に、本当に前触れもなく菜原は言った。仁は驚きに首を回し、彼に顔を向けた。

「住んでる? こんな場所で?」

 こんな生臭さとカビ臭さに満ちた熱帯園のような、電気もガスも通ってないのになぜか風呂だけは沸いているらしい、こんな場所で? 仁は信じ難い気持ちで、曲がり角に消えていったかえでの走り去っていった道を見つめる。なのに、なぜ肝心な時に姿をみせないのだろう。

「彼女の旦那と娘の話、聞いてるか?」

 菜原は低い声で尋ねてきた。仁は首を横に振った。かえでからプライベートな話を聞いたことは一度もなかった。それ以前に会ったのも、これがたった3回目だ。

「旦那と娘は2人とももう、この世にいないらしいんだ」

 え、と仁は瞠目する。

 らしい、と言う割には彼の語調からは真実味が滲み出ていて、頭の底がきんと冷えるのを感じた。

「佐伯さんのあの様子を見たあとじゃ、嘘だと思うだろ。マジ話だよ。こんなこと冗談で言うほど俺は腐ってない。娘はひき逃げにあったらしいんだ。もう、大分前って言ってたっけな」

「ひ、ひき逃げ?」

 かえでには似つかわしくない、むしろ対称的ともいえる残酷な言葉に仁はつい耳を疑う。あの明るさの権化のようなかえでにそんな過去があったとは、思いもよらなかった。

「そう、車で轢かれて逃げられた。犯人はすぐに捕まったらしいけど。そうそうそんで、旦那は一時期その後、失踪しちゃったらしいんだけど。最近になって行先が判明したらしいんだ」

「一体、どこにいたんだい?」

 仁の問いに、菜原は少し躊躇った後で腕を前に伸ばした。そして親指を立てると、くるりと手首を回転させ床を指すようにした。

「ここだよ」

「あぁ」

 仁は納得のいった声をあげる。なぜ彼女がこんなホテルにいて、自分たちの仲間と化しているのか一気に疑問が氷塊したような気がした。

「なるほどね」

「佐伯さんの旦那は、黄金の鳥をマスカレイダーズから取り返すために戦ったらしい。おそらく……娘を取り返すためなんだったんだろうな。黄金の鳥の、力で」

 葉花を窮地に追いやっている張本人、鏡の中の男、ハクバスが以前、黄金の鳥を奪われたと嘆いていたことを思い出す。それを実行に移したのが、かえでの夫であったのは意外な繋がりだった。

 人の生き死にを自在に操作できる力を持った魔鳥。それが黄金の鳥だ。殺された娘を生き返らせるため、鳥の力を求めて奮闘しようとすることは、父親として当然の感情だろう。仁にはその気持ちがよく理解できた。

「そして、彼は死んだ。おかげで黄金の鳥は、俺たちの手元に戻ってきたわけだけどな。佐伯さんの旦那に、俺たちも感謝しなきゃいけない。いまこの組織があるのも、あの人のおかげだ」

 改めて、仁はかえでが去っていた廊下を見つめる。どんな人にも、悲愴に満ちた過去があり、悩みや不安を抱えながら日々を生き抜いている。ここにいる人は、特にその傾向がある。満たされている人間が、こんな危険な組織に入団する理由があるだろうか。ここにいるのは、皆自分の身を滅ぼしてでも叶えたい願いがあるからだ。仁も、そして菜原もあきらも、かえでも重い荷物を背負いながら、光の入口に向かって歩みを進めている。

「だから、佐伯さんはこの場所で暮らしているんだ。旦那の魂と、共にあるために。美談かもしれないが、悲しい話だと俺は思う」

 菜原の話に同意しながら、仁は自分の心の声を聞く。一体、自分は何のために戦っているのか。その正体を今一度、語りかける必要がある。この陰鬱ながらも、厳格な雰囲気にくるまれながら仁は深く目を閉じた。




鎧の話 9

 歩行者用信号が青に変わり、人波が一斉に動きだす。

 まるで強風に煽られ高波を起こす大海のように。足を踏み出した人々はスクランブル交差点を思い思いの方向に歩んでいく。今度は、キューに突かれて散っていくビリヤードの玉のようだ。

 この場所ですれ違い、まったく別の方向に去っていく人と、もしかしたらまた出会うことがあるかもしれない。そう考えると、アスファルトに敷かれた単なる交差点が急に運命めいたものへと姿を変えるから不思議だった。

 直也と拓也は1テンポ遅れて、交差点に足を踏み入れる。前を歩くワイシャツ姿の男を見失わないよう注意しながら、2人は上手く人ごみに紛れるようにした。

「尾行なんて、探偵みたいだな」

 どこか興奮を抑えきれない様子で拓也が口走る。直也はその肩を小突いた。

「みたいじゃねぇよ、俺は一応プロだ。人ごみの中に紛れないように気をつけろよ。こういうごった返した場所は尾行に便利だけど、反面で対象に巻かれやすくもあるからな」

 前から横から後ろから、足並みはばらばらに人間の群が襲いかかってくる。何とか自然さを装いながらも、男の背中を視線から外すことがないよう集中する。男は片手に紙袋を握りしめ、一心不乱に大股歩きで横断歩道を渡り終えた。点滅を始める信号を確認し、直也と拓也は小走りで向こう岸に駆けこむ。

「やっぱりビンゴ。あれは、お見舞いの品だな」

 直也は男の持っている紙袋を指さし、思わず笑みを零す。展開が自分の思い通りにいくと、やはり愉快な気持ちになる。

「どっかのデパートで買ったやつだな、あれ。中身なんだろ?」

「割と大きそうだからな……本か何かじゃないのか? 前回も同じような袋持ってたらしいし」

「へぇ。なんであの人が、喫茶店の前を通るって分かったんだ?」

 前を向いたまま拓也が尋ねる。直也は視界の端に男の姿を引っ掻けるようにしながら、少しだけ拓也の方に顔を向けた。人と話す時は聞き手の方に目を向けるのが常識であり、その方が周囲に違和感を与えずに済むだろうと判断しての行動だった。

「1週間前くらいに、仕事の関係でさっきの喫茶店に用事があってさ。その時、隣のテーブルに座っていたおばさん連中の話を耳に挟んだんだよ。あの事件でテレビに出てたあの人を、喫茶店の前で見たって、な。お見舞いにいくんじゃないか、ってのもそこで聞いた」

「まさか隣に座っているのが、自分たちがいま話題にしているその事件を解決した男だったとは、おばさんたちは夢にも思わないだろうな」

 あの洋館で冷凍された12の死体と対面し、"ファルス"との戦いを繰り広げ、13人目の被害者になりかけた女性を救いだした後、直也と拓也は警察に匿名で連絡を入れるとその場からすぐに立ち去った。

 警察やマスコミに見つかれば、これからの行動に制限がかかるし、何より説明をするのが面倒だと判断したからだ。装甲服を着た男と出会い、戦ったなどという荒唐無稽な話を、警察が信じてくれるとは到底思えない。一歩間違えれば、犯人にされてしまう恐れもあった。

 しかしそんな数多の面倒事を回避するのと引き換えに、直也たちは彼女に関する情報源を失った。彼女の名前や住所、現在どこの病院で治療を受けているのか、身体や精神の状態はどうなのかなど、彼女の命を救った身であるにも関わらずどれも全く知らない状態だ。

 だから、喫茶店で女性の父親についての情報を入手できたことはまさに天からの恵だった。怪人を知る人物について心当たりを得た直也は、おばさん連中の話を思い出すと昨日、拓也と別れた後すぐに先ほどの喫茶店へ出向き、店員から男の目撃情報を訊きだすことに専念したのだった。

 調査の結果、アルバイトの男性店員が、男の姿を仕事中に何度か目にしているという証言を手に入れることができた。そのアルバイト店員が働いているのは平日の11時から3時の間らしい。そしてさらに、彼は男を見るのはいつも1時前後であることも教えてくれた。だから直也は、おおよそその時間に目途を立てて張り込むことにしたのだった。まさか、たった1日で対象が現れるとは思ってもみなかったが。

 説明を終えると、拓也は完全に直也の方に顔を向けて「さすがじゃないか!」といきなり激励してきた。喧噪を破り、アスファルトに跳ね返って空に突き刺さっていくような声だった。再び、周囲からの視線を感じる。

「だから、うるせぇって!」

 片耳を押さえながら、直也はひそめた声で拓也をたしなめた。恐る恐る男の方を見やるが、雑踏にまぎれて彼の方までその声は届いていなかったようで安堵の息をついた。男は我関せず、といった調子で脇目も一切振らずにずんずん進んでいく。

 拓也は自らの行いを謝罪すると、その流れで「そういえばさ」と言葉を続けた。

「そういえばさ、俺も調べてみたんだよ。インターネットで検索して」

「遭難事故についてか?」

「いや、黒い鳥について」

 赤信号に出くわしたので、直也は速度を緩めた。男と8メートル程間隔を開けて止まる。後ろからやってきた人々が、中途半端な場所で足を止めた2人を訝しむこともなく、その横を通り過ぎていく。

 直也はまた拓也の方に顔を向け、眉をひそめた。

「黒い鳥なら、俺も調べたけど。野鳥図鑑とか、童謡とかしか出てこなかったけど。いくつかページ開いたけど、あんま関係なさそうだったし」

「まぁ、始めの方はそんな感じなんだけど。どんどん検索結果の先を見ていったらさ、ある企業の社長と記者のインタビュー記事が載ってたんだよ」

「インタビュー記事?」

 ちらちらと信号と男とを交互に窺いながら、直也は聞き返す。すると拓也は両頬をあげて笑った。

「経営理念とか、これからの会社の成長とかそういうことを話してるんだけど。その中で社長がさ、『幸せの黒い鳥』って言葉を使ってるんだよ。確かインタビュアーが『企業が成長する一番の要因はなんですか?』みたいな質問をして、社長が『それは幸せの黒い鳥が舞い降りることですよ』って答えてるんだ。多分、それが検索ワードで引っ掛かったと思うんだけど」

「幸せの黒い鳥ねぇ……どうみても、不幸の象徴にしか思えないけどな。カラスが会社の看板に大量に止まってても、嫌だろ。つか、怖ぇよ」

「だよなぁ。斜に構えてみたんだけど、的外れっていうか。でもそこらへんがコメディチックじゃないか。調べたらその後、会社、潰れたらしいけど」

「潰れたのかよ! 全然、幸せ呼び込めてねぇじゃねぇか!」

「まぁ、幸せは青い鳥に限るよねっていう笑い話だよ。やはり黒は不幸の印だってことを証明してくれもしたし」

「いや、全然笑えないけどな。むしろ切ないだろ。いまその社長、なにやってんだよ」

 軽快に笑う拓也に、直也はがくりと肩を落とす。まだ信号が変わらないのかとじれったい気分に苛まれながら、横断歩道を踏みつけて去っていく車たちを見送っていく。昨日よりも気温は上がらないでしょう、と朝の天気予報で言っていたが、十分に暑い。さらに排気ガスの匂いと人ごみが加わって、気温と共に徐々に苛立ちが降り積もっていくかのようだ。

「……で、結局今の話は、俺たちの求めてる黒い鳥との関連性はないのかよ?」

 話が途切れたので、額の汗を手の甲で拭いながら直也は訊く。すると拓也は首を傾げながら、あっさりと言った。

「うん。多分、ないと思う」

「え、マジで? 本当に笑い話でした! ちゃんちゃん、で終わり? 俺結構、マジメに聞いてたんだけど」

「人の話はどんな状況、場合だって真面目に耳を傾けるもんだよ。まぁこれはこれで、いいじゃないか」

 拓也が真顔でそんなことを言うので、直也は怒る気力も失ってしまう。「あぁ、いいよいいよ……あぁ、面白い笑い話だった」と適当にその場を流すと、今度は直也の方から話題の方向を変えた。

「そういえばさ」と、先ほどの拓也と同じように切りだす。

「そういえば、黒い鳥じゃなくて黄金の鳥の方なんだけど。なんであきらちゃんは、そんな鳥に固執してるんだろ。お前、なんか知らないのかよ?」

 あきらは黄金の鳥を復活させるための一味に属し、戦いに参入して、なぜかその度怪人を回収している。人の命を弄ぶ黄金の鳥。あの優しくて明るく、自分の幸せよりも人の幸せを考えながら生きている、そんな女の子が、なぜ周囲に不幸しか振りまかない鳥などを蘇らせるために戦っているのか、直也にはまったく分からなかった。

 おそらく、怪物じみたあの姿も、黄金の鳥をために手に入れたものなのだろう。自分の体を失ってまで、なぜ鳥に関わろうとするのか。あきらは黄金の鳥に、どんな思いを込めているのか。ふと直也は、それを知りたくなった。

 もう1度信号を見上げてから拓也の方に視線を転じて、直也は、おやと思った。急に拓也の表情が切迫したものに変わったように見えたからだ。頬を強張らせ、俯き、地面を睨みつけているその様は外に飛び出してしまいそうな動揺を、必死に押し隠そうとしているかのようだ。

 さすがにその急変に直也は気づき、眉間に皺を寄せた。

「……おい、速見。お前、どうした?」

 ゆっくりと顔を上げた拓也がこちらを見やる。罪悪感と苦悩を滲ませた表情で唇を開き、彼が声を発しようとしたところで、信号が青に変わった。

 凍り付いていた人ごみの流れが再び動きはじめ、同時に、すぐ脇を通る国道に停まっていた車たちもエンジン音を響かせて一斉にスタートを切っていく。

 男が横断歩道を渡る。直也と拓也は顔を見合わせると、頷き、歩きだす。人ごみを縫うようにしてほんの少しだけ、男との距離を詰める。

 おそらく拓也は、直也の発した疑問の答えを知っている。だが今は、それを追求する時ではないことも理解していた。直也は感情と言葉をぐっと胸の底に押し込み、尾行を続ける。その行く手には、巨大な白い建物が見え始めていた。




魔物の話 11

 瞬きをしている間に、信号が赤から青へと移り変わる。周囲の人々が一斉に足を踏み出すのと一緒になって、レイもまた横断歩道を渡り始めた。

 歩きながら瞼に触れる前髪を掻きあげ、空を見上げる。強烈な日射しが顔に降りかかり、眩しさに思わず片目を瞑った。青い空には濁りない綺麗な雲が浮かぶ。今日も晴天だ。

 視線を進行方向に戻すと、すぐ目の前にスーツ姿の男性の背中があった。携帯電話をいじりながら歩いているらしく、知らず知らずのうちに距離を詰め過ぎてしまったようだ。レイは驚いてつんのめると、腕を軽く振ってバランスを取り戻し、軽く横に飛び退くようにして慌てて男の脇を通り抜けた。

 こんなに良い日になったのに、と目を細めながら視線を再び上向かせ、心底残念に思う。

 会合を終え、佑との待ち合わせ場所である病院にレイは向かう途中だった。昨日まで彼との買い物を、少なくとも洋服を新調する気持ちが沸くぐらいには楽しみにしていたはずだったのに、今、待ち合わせ場所へ向かう足取りは鉛のように重かった。

 原因は分かっている。約束を果たすために待ち合わせ場所へ出向くのならば心も軽いだろうが、レイが足を進める理由はその真逆。買い物を断り、約束を破るために待ち合わせ場所に急いでいるのだった。憂鬱にならないわけがない、とレイは胸の奥からため息を吐きだす。あのライブハウスでの一戦で携帯電話が壊されていなければ、携帯電話番号を訊くための足がかりを作れたのに、と後悔した。

 背後を、さりげなさを寄り添って窺うが、父親の姿はどこにもなかった。本当についてきているのだろうかと不安になる。実は人ごみに紛れてしまい、迷子になってしまったのではないか。

 しかし本人が「お前にも分からないくらい、こっそりと私は見守ろう。大丈夫だ、私を誰だと思っている」と主張するのだから従わないわけにはいかない。おそらくそのへんにいるんだろう、と楽観的な思考に無理やり切り替え、前進する。

 自分が怪人に狙われていて、しかも囮に指定されている以上、佑と一緒に楽しく買い物などできるはずもなかった。適当に人気のない場所をうろつき、あの人間に変身する怪人たちを引きつける。そして待ち構えていた黒城がそれを討つ。そういう手筈が整っている。

 佑が傷つけば、きっと悠は悲しむ。大事な親友の涙も傷つく姿もみたくない。レイにとって人との関わりを極力避ける理由は、それだけで充分だった。最悪の未来を遠ざけるためにも、きっぱりと佑に勝手な振る舞いを謝罪し、なるべく人のいないところに急ぐ必要がある。佑の家も、連絡方法も知らないレイにはこうするしか方法がなかった。

 帽子の下の頭が蒸れ、傷の上から爪を立てて髪を掻きながらそんなことを考えていると、ふと路地裏に続く道が目に入った。レイがいま進んでいる道とはまったく様子が異なり、壁と壁に挟まれるようにして伸びた小道には店も人の姿もほとんどない。道全体が日陰にどっぷりと浸っており、見るからに涼しそうだ。それにここを辿っていけば、病院への近道にもなりそうだった。

 病院に早く着け、涼しく、人通りもなく、しかもトラックも侵入してこない。一石二鳥どころか、テニスボールで野鳥を4、5羽一度に落とせるぐらいの至れり尽くせりさを抱いて、その道はレイに両手を広げていた。その歓迎を受けなければなるまい、というおかしな義務感が胸中を渦巻き、気付けば小道に侵入を果たしていた。

 太陽光を遮ったこの空間で、軽く涼みながら、それでもひたすらに歩く。歩を進めるごとにだんだん日なたに近づいていってしまうことは分かりきっていたが、だからといっていつまでもこんなところで立ち止まっているわけにもいかない。束の間の休息と割り切って、足早に病院へと向かう。

 裏路地の人気はまさに皆無だった。表の喧噪や色鮮やかな店の並ぶ風景が、別の世界から切り取ってきたものであるかのようだ。こちらには古びた民家が2、3軒あるだけで、あとは明らかに放置されたまま、時間の中に置き去りにされている店舗が軒を連ねている。

 そういえば昨日、怪人と会った場所もこんなところだったな、とレイは周囲を見渡しながら思い出す。空気の色も匂いも、同じだった。一度それに気付き始めると、頭の中がぐるぐると混乱するかのようだ。全然違う場所なのに、なぜこんなにデジャヴを覚えるのか。自分が自分で分からなくなる。

 そのあまりの一致加減に、肌が一斉に粟立ち、心臓が鼓動を速めた。不穏な空気が負ぶさってくるかのようで身が重く、レイは無意識のうちに立ち止まっていた。病院に急ごうという気持ちは、その嫌な予感によって完全に閉ざされてしまっている。

 ふと左手の方に顔を向けると、そこには一軒の寂れたアパートが建っていた。ところどころ壁面はひび割れ、ほとんどの窓ガラスに、割れたのを補強してそのままなのか、無数のビニールテープが貼ってある。建物全体がまるで頭から灰を被ったかのようにくすんだ色合いをしており、人が寄りつこうとする気配すら皆無だった。

 アパートに繋がる格子状の鉄扉が固く閉ざされ、門に浮いた錆からもその建物がすでに本来の役目を担わなくなって久しいことが分かる。アパートの玄関の辺りに動く影を見つけたので素早く目で追うと、それは俊敏に遊びまわる野良猫たちの集団だった。

 人間のための住居としての役目を全うしたかと思ったら、今度は猫に住みつかれては建物としては溜まったものじゃないな、とレイはアパートを不憫に思う。反対に、寂れても誰かを住ませられるなんてアパート冥利に尽きる! とでも考えているのかもしれず、これはこれで幸せなのかもしれない。

 アパートの前でしばらく漫然とそんな思考を巡らせながらぼんやりしていると、人の気配を感じた。振り向くと塀に寄りかかる形で、眼鏡に赤いマフラー姿の男の姿があった。昨日、レイと秋護の前に立ちはだかってきたあの男だった。

 これでは本当に昨日の再現ではないか、とレイは戸惑いを抱く。周囲をきょろきょろと窺うが、父親が介入してくる気配はない。表通りに満ち足りている喧噪がやはり異世界のもののように感じられる。

 そんなことをしている間に、男が動いた。ジーンズのポケットに手を突っ込んだかと思うと、そこから文庫本を取り出したのだ。それからその表紙をこちらにかざしてくる。

 目を細めて見てみると、その拍子に掲げられたタイトルは『人間世界に蔓延する悪について』と読めた。それだけでは小説であるのか、ノンフィクションであるのか判断がつかない。タイトルの下にはどす黒いタールを被った地球の絵が鮮やかなCGで描かれていた。縦書きで記された作者の名前は、川神清一。

「私の名前らしい」

 男がにこりともせずに言う。本を持っていない方の手で、自身の胸を指すようにしていた。

「驚きだ。私は小説家で、本を出しているらしい。記憶にはあったが、書店でこれを見つけて初めて実感した。私は、小説家だったのだ」

 だったのだ、と締めくくられても、とレイは男の発言に面食らう。その困惑が伝わったのか、自らを川神清一と称したその男は中指でメガネを押し上げ、笑顔の欠片もない得意満面な表情を浮かべた。話の流れこそ意味不明であったものの、彼の表情や言葉には感情の動きがまざまざと確認でき、それが単なる妄言でないことだけは伝わってきた。

 しかし、男の発言の真偽など自分にとっては無関係だとレイは考えていた。それこの男に訊ねることならば、もっと重要なことがある。

「あなたのお父さんの、居場所を教えて」

 人語を介し、人間の姿にもなれる怪人。獣のような唸り声をあげ、理性も何もなく襲いかかってくるだけの今までのタイプと、この男はまったく異なる存在だ。話せるということは、訊きだせるということだ。

 白衣の男と、橘看護師。死体を集め、黒い鳥を所持し、怪人を生みだし、人々に恐怖と不安を撒き散らしている彼らの居場所がこのやりとりで発覚するかもしれない。

「あなたは……どこから来たの? あの白衣の男の人と橘さんはどこにいるの?」

 男に近づくことはせず、しかし目を逸らすこともなく、門の前で直立不動のまま尋ねる。すると男は関心を抱かないレイをつまらなく感じたのか、眉をひそめると本をポケットに放り入れてしまった。

「お前だって、分かって質問しているのだろう? 当然、教えない。クズにも劣る人間どもの中で生きるお前に、何も教えることなどない」

「……そう、だと思ったよ」

 レイは男を睨むと、自分の影を鳥の形に変化させた。木陰の下敷きになったレイの影が大翼を広げた鳥のものへと移り変わり、それと同時に影はこの世に存在するあらゆる常識を無視して伸長し、男の方へと真っ直ぐに向かっていった。

 影と重なった怪人の意識を掌握することができる、この力。昨日は正体をいきなり暴露され気が動転していたこともあって、すっかりこの力のことを失念していたが、今なら成功すると確信を得ることができた。

 男は飛び退く動作も、その場から動くような仕草もみせない。おそらく、急迫する影に気づいていないのだ。それも当然だ。レイの影は木陰の中を音もなく移動しており、もちろん地面には波1つ立っていない。迫っていることを知らせるような合図もない。第三者からしてみれば、いや、男の方から見てもレイは無防備にただ突っ立っているようにしか見えないはずだ。

 レイは勝利を確信した。影がアスファルトの上を滑り、男のつま先へと辿りつく。その体を完全に鳥の影が包みこむ。これで終わった、と安堵し、肩の力を抜くことさえした。

 ところがその希望は一瞬にして、砕け散った。男はレイの影を踏みながらこちらに早足で近づいてくると、獲物を前にした蛇のように鋭く腕を伸ばし、レイの首を掴んだのだった。

 この力が効かない? 困惑し、そう思った時には、レイの体は高々と掲げられていた。男の腕は若い女性のようにか細く頼りないが、その掌から生み出される握力は間違いなく、大の大人のもつものだった。

「あいにくだが……最高の怪人と相対するだけの対策はとれてる。本当に、残念だったな」

 眼鏡の下にある双眸を不気味に光らせると、男は一息でレイの体を古アパート目がけて投げ飛ばした。

「やっ……」

 悲鳴もわずかにレイは門を軽々と越え、建物の敷地の内側へと背中から落下する。

 呻き、鈍い痛みにもんどり打っていると、男が門の上から落ちてきた。靴底か地面を叩く音があたりに響くと、アパートの前でくつろいでいた猫たちが一斉に離散していった。

「ほら見ろ。殴ろうが、蹴ろうが、落ちようが、痛みは一瞬だ。普通の人間なら骨折の1つや2つ、当り前だろうが。その常識から外れているのは、お前が怪人であることの何よりの証拠。お前も、私と同じ化け物だ」

 両手を地面につき、立ち上がろうとしていたレイの首根っこを、男は掴み上げた。じたばた両手足を激しく動かすが、その抵抗も虚しく、レイはアパートの玄関に放りこまれた。

「自分の価値を知るんだ。私たちと一緒に、人間どもを駆逐しろ。1人残らず淘汰し、この地球を人類の魔の手からから解放しようではないか。お前の力を私の意思が合わされば、きっとそれも夢ではない!」

「私は……私は、そんなことするために生まれてきたんじゃない!」

 反論の代わりに襲いかかって来たのは、重たい蹴りだった。その一撃が確実に腹を捉え、レイは衝撃と一緒になって、アパートの中に蹴りいれられた。床を一度バウンドし、転がって壁に頭をぶつけ、止まる。室内は暗く暗澹としていて、埃と腐りかけた木の臭いが充満していた。その何とも言えぬ、不快感しか植え付けない臭いに思わず吐き気がこみあげるものの、続けざまに攻撃を浴びせかけられたことによって、口鼻を塞ぐ体力すら残されていなかった。

 誰も動いていないのに、レイが急激に体重をかけたためか、床がぎしぎしとしきりに軋んだ音をあげている。

「元々が頑丈な上、けがをしても完治にそれほどかからない。確かに体は人間かもしれない。だが、生物学上。こんな生物が、人間であるといえるのか? お前はまだ自分が人間だとでも思っているというのか?」

 真紅のマフラーを揺らしながら、メガネを上げながら、男は執拗に言葉でレイを嬲る。その声1つ1つが、レイの心の敏感な部分を少しずつ、しかし容赦なく削り取っていく。

「いい加減、自分の生まれてきた意味に気付け。死をばら撒き、人類を駆逐することができるのは、悔しいが世界中を探してもお前以外にいないだろう。己の使命から、目を離すんじゃない。その力を得たくても叶わなかった者たちのことを考えろ」

「そんなの……知るわけないじゃない。私は怪人かもしれないけど、あなたたちとは、違う」

「何が違う。それは自己満足だ。そういえばお前、あのライブハウスで人間の死体を怪人に変えたそうだな」

 レイは心臓が見えない手でぎゅっと掴まれるのを感じた。冷汗が額を濡らす。話を聞いて思い出すのは逃げ回りながら、無意識のうちに女性の死体を怪人に変えてしまった、あまりにも愚かしい自分の姿だ。

 男はその沈黙を肯定と受け取ったのだろう。ここで彼は初めて、笑顔を見せた。両頬を上げて、口を三日月の形にいっぱいいっぱいまで開け、大声をあげて笑った。髪を掻き毟り、地面をめちゃくちゃなリズムで踏んでいるその姿は狂人のものとしか思えず、レイは唇を噛んで怯えた。

「やはりお前は、最低最悪の存在だ。死体だって、数分前までは生きていた。なのにその人格も、生きてきた証も、なにもかもを否定し、化け物へと改造した挙句、自らの手駒へと変えてしまう。恐ろしい。だが、だからこそ素晴らしい」

 男はどこから取り出したのか、鳥の羽を持っていた。羽ペンのように根元の部分がプラスチックで補強され、その先端は鋭くなっている。色は、黒。

 それはカメキチを作った時に、白衣の男が使用していたものと同じように見えた。

「これは、黒い鳥の羽だ」

 レイの予想は見事に的中した。男は口端を上げ、目に怪しい光を宿しながら、羽をダーツの持ち方で摘み、先端の照準をレイの顔に合わせるようにした。

「これをお前に突き立てる。するとお前に黒い鳥の成分が注入され……さらに最強の怪人として進化するわけだ。そうすれば、きっと世界は変わる。汚れた人類は、すべて消え失せる」

「違う。私はそんなことしたくない……私は」

 知らず知らずのうちに、レイは周囲に目を走らせ黒城を探している。自分の心のことが、自分の体のことが分からなくなっていた。黒城はレイにとって、自身を映し出す鏡のような存在だ。彼の言葉に乗って出てきたレイの像が、そのままレイ自身の姿を形作る。

 早く来て、と心の中で必死に父親を呼ぶ。無性に会いたかった。黒城に会わなければ、自分ががたがたに崩れ去ってしまいそうだった。両耳を抑え、小さく体を丸めて男の言葉を拒絶しようとする。しかし、怪人か人間かと是非を問う声は自分の心の内側から聞こえてきて、レイの心を掴んで離さない。

「後をつけていた男なら、私のきょうだいが引きとめてある。加減を知らない奴だからな。最悪、残酷な結果になるかもしれないな」

「そんな……だって、怪人の反応なんて」

 頭の中を探るが、情報は入り込んでこない。いつもなら怪人がどこかに現れるだけでひどい頭痛が襲い来るのに。その気配すらない。だが、怪人が行方を阻むこと以外に、黒城がこの場面に駆けつけてくれない理由も思いつかなかった。

「お前のセンサーから逃れる、そういう奴もいるってことだ。大丈夫。安心しろ、黒い鳥のエキスを取り込めばお前はさらに強くなれる。凶悪で、最悪な、悪魔に」

「なんで……なんで、そんなに人間を嫌うの?」

 顔を歪めながら肩にそっと手をやり、男に訊く。「怪人だからなの? だから、人が嫌いなの?」と補足する。男の言う通り、確かにけがを負ったはずの肩の痛みは不気味なほどにすっかり消え失せていた。それは自分が怪人であることを何よりも顕著に表わしていて、レイは汚いものでも触るように慌てて肩から手を離した。

 男はレイの質問に少しの間だけきょとんとした後、大きく首を横に振った。

「違う。怪人だから人間を嫌う。そんな短絡的な思考は持ち合わせていない」

「じゃあ、なんで」

「川神清一が、人間のくせに人間を嫌っていたからだ」

 男の話す意味がわからず、レイは目をぱちぱちとさせる。川神清一は自分だと、この男は先ほど宣言したばかりではないか。しかし男は冗談をいっているようには、思えなかった。

 さらに男が「だから私は奴に影響を受け……人類の滅亡を願うようになったのだ」と続けると、レイは唖然としながらも口を動かし、思わず「あなたは一体、誰なの?」と問いかけていた。

「前にも言っただろう、私はイストだ。お前の本当の価値を見出し、導く、その担い手だ」

 マフラーを掴む、その男の瞳が金に染まり、輪郭が溶けだし、代わりに怪人の肉体が空気から沸くようにして浮かび上がる。何度見てもその光景は幻想的でもあり、そして怖気が走るほど醜悪な光景でもあった。人の肉が溶け、別の肉と混ざり合い、パズルのようにまったくこれまでとは異なる形状を生み出していく。

 頭に金魚を飼う怪人、"イスト"へと変化を遂げた男はその裂けた口をさらに開き、細かな笑い声をあげた。

「さあ。終わりの、始まりだ。これが人類滅亡のプロローグとなることを切に願う」

 イストは羽を掲げ、一歩一歩踏みしめるような足取りで倒れているレイに歩み寄ってくる。

 レイは動けない。傷にはなりにくくとも、どうやら体力や気力はそこらを歩いている女子中学生とそう変わらないものらしく、胸が潰れるように痛み、体のいたる箇所が痺れていて身じろぐことさえも許されなかった。

 イストの白く滑らかな肉体が薄暗い室内をくぐるように迫ってくる。そしてレイの眼前で立ち止まると身をかがめ、その手に握られた羽を大きく振り上げる。

 恐怖に固く瞼を閉じたレイの耳に、声が届いた。それはイストのものではなく、レイ自身のものではもちろんなく、では何者かと目を開けば、イストの体の向こう側に立つ少年の姿が見えた。

 イストも腰を折った姿勢で首だけ振り返り、乱入してきた少年のことを不思議そうに見つめている。逆光を背負い、佇む少年の姿は今ここにある何よりも頼もしく感じた。

「この化け物……レイちゃんから離れろ!」

 なんでこの人がここにいるのだろう。レイの疑念と当惑を置き去りにして、彼はイスト目がけて走りだす。

 少年――天村佑は、どこから拾って来たのか、手頃な角材を片手に掴むと、雄たけびとともにそれをイストの背中へと振り下ろした。




鳥の話 12

 薄暗く、足元も覚束ない階段を仁は菜原とともに昇っていた。

 菜原に手当を施された仁は足首を包帯で幾重にも固定され、手すりに助けられながら何とか歩くことができている状態だ。

 自由に動かない左足に視線を落とし、掴んでいる手すりに目をやり、それから息のあがっている自分を俯瞰して見つめ直すと、どうしても京助の姿が頭に浮かんできてしまうのだった。

 家の壁のいたるところに設置されていた、あの手すりを思い出す。片足のない京助は毎日手探りであの手すりを、命綱を求める救命者のように掴みながら不自由な生活を送っているのだろう。

 片足を一時的にでも使えなくなって、ようやくその不便さ、日常を送ることの大変さを真の意味で理解する。自分の体を手繰り寄せるようにして階段を昇りながら、仁はその苦難を親友に与えてしまったのが他の誰でもなく自分であることに改めて気づかされ、身体に積もる疲労と共に重みを増していく罪悪感に、心が折れてしまいそうだった。

「仁。なんで俺たちが怪人を集めてるのか、知ってるか?」

 やっとのことで二階に辿りつくと、菜原が突然質問を放ってきた。あまりにその投げかけが唐突だったので仁は少しの間だけ唖然とし、そんなの菜原君も知っているじゃないかと言いかけ、それからもしかしたら、これは彼が自分を試しているのかもしれないという結論に行き着いた。まだそれほど深い付き合いというわけでもなかったが、菜原がそういう遠まわしなことをやりそうな人間であることは承知していた。

「……黒い鳥の情報を集めるため、でしょ? そのために僕たちは動いてる。僕たち2人が怪人を回収して、それをあきらちゃんに渡す。それであきらちゃんが怪人を調べて、黒い鳥に関係する情報を引き出す」

「さすが。一語一句、ボスの言ったことと違いない」

「大事なことは覚えてるからね。それで、それがどうしたんだい? なにか目的に変更でも?」

「じゃあ、2つ目。黒い鳥とはなんだ?」

 仁の問いかけを無視し、さらに菜原は尋ねてくる。仁は不審を覚えながらも、その自分の使命をいま一度確認されているかのような意図を孕んだ、おかしな質問に眉1つ動かさず答えた。

「黄金の鳥をベースにして作られた、っていわれてる鳥。怪人を生みだしてるらしい、不思議な鳥。そうあきらちゃんからは聞いてるけど」

 だから黒い鳥のありかが分かって、それを入手できれば、黄金の鳥の仕組みを理解できると思うんです。

 仁に異形の力を埋め込んだ翌々日、あきらは仁の前に現れ、いきなりそう説明をしてきた。

 そのために黒い鳥と関わりがある怪人を捕えて、調べてみるんです。そうすれば黒い鳥に関する情報を引き出せるかも。

 『ホテル クラーケン』の食堂の椅子に向かい合って座りながら、あきらはさらにそう説明を重ねてきた。彼女の話してくれたことは一言一句覚えている。大事なことは忘れない。

 しかしその頃、非日常の世界に足を踏み入れたばかりだった仁には、黒い鳥の件は何とも要領を掴めない話で、それはあきらに黒い鳥に関する資料を渡された後も変わらなかった。

 資料はホチキスで左端を閉じただけの簡単な冊子になっていた。中身には、図式を交えて黒い鳥に関する情報が、ワープロ書きで詳細に記されていた。それが黄金の鳥をベースとして人為的に作成されたものであることも、怪人を作りだす能力があるということも、全てその中に書かれていた。

 その資料は厚みこそあったが、非常に難解な文章がただ淡々と綴られているものであり、さらに時折意味不明な数式さえページのいたるところに挟まれて出てくるため、非常に取っつき辛いものではあった。とにかく分かったことは葉花を救うためには怪人と相対し、その末に捕獲する必要があるということだけだ。それが自分に課せられた使命であることだけは、仁もその時から薄々感じ取っていた。それさえ分かれば、あとは不明瞭なままでも構わないとさえ思っていた。

「黄金の鳥は封印されてるから、むやみやたらに動かせない。だから似たような構造を持ってるだろう黒い鳥を手に入れて、黄金の鳥のことを調べる。そして封印を解く方法を探す」

 それが封印源を破壊せずとも、つまり葉花を殺さずとも、黄金の鳥を解放できる唯一の方法。そうあきらは言い切った。これが、本当にみんなが幸せになれる方法なんです、とさえ彼女は言った。

 仁はそれを信頼している。だからこそ、あきらとの間にある絆を危ういものにするわけにはいかなかった。真の闇を知っているからこそ、頭上に降り注ぐ光が失われることの恐ろしさを十分に理解している。

「さすが、凄い記憶力だな。ボスが言っていたことと丸々一緒だ。お前記憶のプロになれるな」

「応用が利かないだけだよ。それより、このやりとりはなんだい? もしかして抜き打ちの確認テスト?」

 冗談っぽく言うと、菜原は片眉だけを上げて「まぁ、そんなもんだ」と素直に認めた。仁は心の中で、あぁやっぱりと呟く。予想的中。やはり彼はそういうまどろっこしいことをする人間だった。

「じゃあ、ここからが本題」

 人差し指を立て、菜原が続ける。仁は頷くことで先を促した。

「黒い鳥を見つけて、黄金の鳥を復活させる。オーケー。それは間違いもなく俺たちの目標だ。じゃあお前は、何のために怪人を捕獲している?」

 仁は菜原を正面から見つめ、彼の質問を頭の中で何度も反芻させた。それから眉間に皺を寄せ、首を傾げる。「だからそれは、黒い鳥を見つけるため」と言いかけると、菜原がその言葉を遮った。

「違う。それはただの手段に過ぎないだろ。俺が訊いているのは、お前の目的だ。お前の願いは一体なんなんだ? それはボスを喜ばせることなのか?」

 そうだ、と同意しかけて仁ははたと気付いた。あきらを喜ばせるために、自分は命がけで怪人と、マスカレイダーと戦っているのだろうか?

 違う、と心の中にいるもう1人の仁が即座に反論する。仁自身もそれに強く同調する。葉花を命の危険から救うため、その行く先を希望の光で照らしだすため、自分は戦っているのだ。断じて、あきらのためではない。その気持ちは終始一貫、今においても変わらないはずなのに、なぜ自分は今、あきらを喜ばせることが使命であると答えようとしたのだろう。

 心の中に渦巻く大きな疑問にぶち当たり、仁が答えを口に出せずにいると、菜原が肩を軽く叩いてきた。顔をあげると、彼は微かに頬を緩めてこちらを見ていた。

「確かに俺たちは、ボスによって選ばれ、彼女によって力を与えられた。そのおかげでこうして、夢に向かって歩く手段を手に入れている。そこには確かにヒエラルキーが生じているかもしれない」

 だからあきらの機嫌を損ねてはいけないと、彼女のために戦わなければならないと、仁は使命をいつの間にか取り違えてしまっていた。この力はあきらからもらった希望だから。彼女の期待を裏切り、この希望が失われてしまうことを何よりも恐れていた。

「だがな。ボスはボスの夢を。俺は俺の夢を。仁は仁の夢を、それぞれ持ってる。その夢の大きさに上下関係なんてない。違うか?」

 仁が思ってもみなかったことを、菜原は次々と並びたてていく。彼の事実のみを淡々と見つめる姿勢や、物事を俯瞰してみている考え方に感服しながら、仁は自分の心を覗きこんだ。

 その底にぽつりと残されていたのは、やはり葉花に対する想いの強さだけだった。

「うん……そうだと思う。分かったよ、菜原君。ありがとう、なんだか吹っ切れた気がする」

 礼を口にすると菜原は鼻の穴を膨らまして笑った。両腰に手をやり、自信に満ちた体勢で立つ彼の姿に、つられて仁も笑みを零してしまう。

「それに、ボスを怖がることなんてないさ。いざというときには、戦えばいいんだ。お前にはお前の夢がある。その夢を阻むやつがいるなら、なぎ倒して進めばいいんだよ」

「戦う? あきらちゃんと?」

 菜原の極論としか思えない発言に、仁は面食らう。しかし彼は冗談を言ったつもりでもないらしく、その反問に真面目な顔で応じてきた。

「人は、戦うんだ。それがたとえ立ち位置として自分より上にいる人間だとしても、相反する意見をもつなら激突するしかない。それぞれの誇りをぶつけ合うんだ。そこには間違いも、正しさすらない。純粋な魂同士が火花を散らし合う、その姿は美しい」

「それが仲間同士でも、かい?」

「仲間だからこそだ。逆に、その程度で壊れる絆なんて、仲間とはいわないだろ。互いの信念をぶつけ合って、認め合うのが仲間だろ。違うか?」

 菜原の言っていることは、潔いほどに極端で見方によっては屁理屈に聞こえるかもしれない。根拠も理論も何もない話であることは分かっている。

 しかしそれでも彼の言葉は、仁の心の中に立ちこめていた淀んだ空気をかき消してくれるくらいの威力はあった。これまで目の前に立ちふさがっていた常識という名の壁が風化していく岩壁のように、脆くも崩れさっていく。その音を確かに聞いた。

 考えてみれば仲間に信頼してもらうために、仲間に怯えていたというのも変な話だ。もう恐れることはしない。仁の心を、信頼と覚悟が後押ししてくれる。

 人と人とは傷つけ合わなければその関係を持続できない、と何かの本で読んだことはあったが。

 その一文に隠された真意に、菜原の言葉で仁は初めて触れることができたような気がした。




鎧の話 10

 尾行開始から10分が経過した頃、直也と拓也はランジェリーショップのショーウィンドウに寄りかかった姿勢で、目の前に聳える大きな病院を見上げていた。

 直也は小さく指を鳴らすと、隣にいる拓也の耳に口を寄せた。

「ビンゴ。おそらく、あそこに彼女はいる。随分苦労したけど、何とかたどり着けたな」

「でも、随分簡単にいっちゃったな……実は着いたらマスコミとかでいっぱい、ってこともあるんじゃないか?」

「さあな? まぁ、行ってみれば分かるって……よし、目標が動いた。そろそろいくぞ」

 歩道の端で立ち止まり、腕時計を確認していた男が再び歩を刻みだす。応じて、直也もショーウィンドウから背中を剥がすと動きだした。女性下着専門店の前でたむろしていた男性2人に対する周囲の冷やかな眼差しを感じるものの、あえて気にはかけない。

 変わらず目標を一定の距離を保って、楽しく会話に興じる2人組を演じながら、直也は最後まで緊張を解かぬよう努めて追跡を続けていく。

 ところがそのまま病院の入口に足を踏み入れるだろうと確信していた男が、その直前で横道にそれ、公園に入っていったので直也は困惑した。思わず足を止め、拓也と顔を見合わせてしまう。

「どうしたんだろう。休憩でもすんのかな」

「目的地が目の前なのに、それはないだろ……何かわけがあるはずだ。とにかく追うぞ。さっきも同じこと言ったけど、いけば分かる」

「急に随分と行き当たりばったりになったな」

「そう言うなよ。ま、こんなこともあるさ」

 そんなに頻出されても困るが、と心の中で付け加える。少なからず動揺してしまった自分を隠しておきたい気持ちも少なからずあったので、適当に答えた。

「まぁ、そんなこともあるよな」

 過去に思い当たる節があったのか、どこか拓也は遠い目になる。記憶の底を手繰るように目を細める彼の胸を直也は小突いた。

「回想モードに入ってんなよ。とにかく行くぞ」

 直也と拓也は早足で男との距離を一気に詰め、ちょうど入口で行き合った、ベビーカーを押す女性と並んで公園内に侵入する。

 中に入るとすぐにイチョウ並木が迎えてくれるような、それなりに大きな公園だ。遊具の数は少ないが、その代わり家族連れがシートを広げて弁当を食べられるような、広大な芝生があった。植込み越しに見える、赤いタイルで埋め尽くされた遊歩道では等間隔に設置された噴水から水飛沫があがっている。太陽の光をあびて、宙できらきらと瞬く飛沫が美しい。

 2人はどちらともなく足を止めると、植込みの合間を縫うように乱立している木々の陰にちょうど隠れるような位置に着いた。そこから、遊歩道の方を窺う。先ほどの女性がベビーカーを押しながら、直也の背後を足早に通り過ぎていく。不審そうにこちらを見やる視線を痛いほどに感じる。客観的にみれば、物陰から公園の様相を悩ましげに観察している2人組の男の姿は確かに不審者という他なかった。

 現実逃避という程ではないが、直也は気を逸らすため聴覚に神経を集中させる。すると遠くから子どもたちの威勢のいい歓声が聞こえてきた。時折、バットがボールを叩く小気味良い音が響いてくることから、どうやら公園のスペースを使って野球をしているらしい。ずいぶんと長閑で、平和に満ちた風景が流れているようだ。

「おい……あれ、見ろよ」

 気分新たに前方を改めて見やったところで、直也はふと気づき、遊歩道のほうを指差した。

 その指の先、噴水の前に置かれた空色のベンチに、1人の女性が座っていた。見覚えがある。その顔立ち、容貌は確かにあの建物の地下で幽閉されていた人物と一致するものだった。

 ただし服は清潔なものを纏っており、髪も後ろで束ね、顔には薄い化粧が施されている。生気を失っているようだった瞳も力強さを取り戻しているようだ。顔色もいい。憔悴している様子は、まったくみられなかった。何をするでもなく、ぼんやりと空を眺め平穏を満喫しているその姿は、直也の心を安心させる。少なくとも彼女の周りにだけは、平和の風が吹いている。そんな気がした。

「あの子だ」

 拓也も記憶の中の人物像と、目の前にいる女性の姿とを合致させたのか、囁き声で驚愕を口にした。声量は抑えられていたものの、その語調には興奮が滲んでいる。

「坂井……あの子だよ。俺たちが助けた。ああよかった、元気そうじゃないか。俺、ずっと心配してたんだよ」

「ああ。だけど、本当に危ないところだった。俺たちもあの子も、本当に運が良かったんだ。あと1日でも遅れれば、あの死体たちの仲間入りをしていただろうな」

 直也はあのガラスケースに収納され、綺麗に並べられた女性たちの死体を思い出し、下唇を噛む。今でも瞼を閉じると、ふとあの凄惨な光景が浮かんでくる。

 彼女たちは、夢の中にも出てきた。体の一部を欠損した女性たちは唸り声をあげ、震えた声で必死にあえぎながら直也に向けて一斉に腕を伸ばしてくるのだ。彼女たちが口々に恨みがましく叫ぶ、その内容を直也は知っている。女性たちは木のうろのように窪んだ目の底をぎらつかせ、粘り気のある唾液を纏わせた口を精一杯に開きながら、こう訴えかけている。

 なんで、私たちを助けてくれなかったの。

 あの子は助けてくれたのに。なんで私たちは、救ってくれなかったの。

 私の腕を返して。私の命を、日常を返して。

「あ、誰か来たぞ」

 拓也の声に、直也は我に返った。頭を軽く振り、こびりついた悪夢のような映像をふるい落とすと、意識を前方に向け直した。

 拓也の言うとおり、右手の方からベンチに座る女性に近づいてくる人影があった。それはおそらくここまで尾行をしてきた男だろうな、とばかり思ってそちらに目をやると、その意に反して、歩いてきたのは女性だった。

「え?」

 思いもよらぬ展開に、無意識のうちに声が漏れてしまう。噴水の脇を横切って颯爽と現れたのは、濃い茶色と白のラインを基調としたセーラー服を着た女子高生だった。

 黒いストレートの髪の毛を風に掬わせている。もみあげの辺りはみつあみにされており、縄で編んだストラップのように、頬に垂れ伸びている。腕には何の意図があるのか、真っ赤なハンカチが巻かれていた。

 身長はおよそ把握できる外見年齢と性別にしては、高い方だろう。目測で170センチ近くある。吊りあがった目と眉間に寄った皺、固く閉じられた唇のせいか、不機嫌そうな印象を周囲に発散している。しかしそこに冷淡なイメージは一切なく、どちらかというと、月夜に揺れる湖畔の水面のような、静謐なイメージを感じさせる。少女の人形のような顔立ちと、規範や命令を大儀に動いているとでも主張するかのような、人工物めいた独特の雰囲気がそんな感想を抱かせるのかもしれない。

 直也は表情を歪め、わずかに首を傾げた。

 突如現れた女子高生に、どこか見覚えがあったからだ。あの顔はどこかで出会ったことがあるような気がする。しかしそれ以上のことは思い出せない。喉元まで出ているのに、という状況だ。頭の底の方で引っ掛かっている感触が歯がゆく、また悔しい。あと1つ何かが脳の奥深くに沈殿した情報を押し上げてくれれば、この気持ちも和らぐのにと思う。わずかな希望を求めてこめかみを引っ掻くが、ただ痛みが走るだけで眠りこけた記憶は目覚めてこない。

 しかしそんな根拠も何もないことに考えを巡らせている時でもないことに気がつき、直也は慌てて右の方に視線をやるが、続いてスーツ姿の男が姿を現す気配はない。

 推理によれば、あの男は13人目の被害者であるあの女性に会うため、ここに辿りついたという展開のはずだった。しかし現実には男は公園に入った途端、急に音沙汰がなくなってしまった。道に迷っているのか、それとの心の中に住まうもう1人の自分と葛藤でもしているのか、なかなか女性の前に姿を見せない。

 おかしいな、と首をひねっていると、その女子高生はベンチに座る女性の前でぴたりと立ち止まった。それから表情の強張りを解いて、頬を緩め、柔らかく微笑んだ。それは見る者の心を一度で釘付けにしてしまうほど魅力的な笑顔だった。常闇にゆっくりと開いていく、白皙の花を彷彿とさせる。

 女性の顔色が、一瞬にして変わった。これまで呆然自失に空を眺めているばかりだった女性は、何かに弾かれるようにしてベンチを立ち、女子高生に対してこちらもまた十分に可愛らしい満面の笑みを表情に咲かせた。

 それからは急展開だった。女子高生は女性と一言も会話をするそぶりすら見せず、彼女の手首を掴みあげたのだった。

 そのまま2人は手を繋ぎ、移動を始める。直也と遊歩道の間には、茂みの中から突き出した1本の大きな木が立ち塞がっており、直也のいる位置からはその木に邪魔をされてしまって、歩きだした彼女たちの姿が一瞬だけ見えなくなってしまう。

 ほんのあと一歩、2人が足を踏み出せば、木の陰からどいてくれれば、何事もなくまた姿を現す。はずだった。

 木の陰になったのを最後に、女子高生と女性はあとかたもなく消え去ってしまった。

 公園の平穏な雰囲気に溶け込んでいってしまったような、さりげなさだった。後には噴水から噴きだす水飛沫がタイルを叩く音だけが取り残される。

「え……」

「え」

 直也と拓也は錆びた機械のようにぎこちなく首を動かし、顔を見合わせた。あまりに予想の斜め上をいく展開にうまく頭がついていけず、混乱する。しかししばらくすると、自分の立ち位置をだんだん理解できるようになってきて、直也は植え込みをかき分けるようにして移動し、遊歩道に足を踏み入れた。

 そこにはもう2人はいなかった。音もなく、影もなく。初めからそんな人間などいないとでも主張するかのように忽然と、姿を消していた。

 周囲に人の姿はまったくなく、遠くの方で相変わらず野球少年たちの喧噪が聞こえてくる。人の姿が見えず、ただ淡々と水を吐きだし続ける噴水のみが音を発信している公園というのは、どこか不気味な静けさがあった。

「……おい、速見。お前の位置から、いま、なにが起こったのか。みえたか?」

 前を向いたまま、直也は背後の拓也に質問する。返答する拓也もまた困惑を声に載せていた。

「俺の位置からじゃ、木が邪魔で見えなかった。だけど2人はそれまで、普通に歩いてた。それが木の向こう側に立った瞬間……いなくなっちゃった」

「あぁ、俺もそうだ。じゃあ、これは、どういうことなんだよ」

 木を調べ、地面に敷き詰められたタイルを蹴ってみるが、とくに異変はない。頭上を仰いでも、白い雲と絶妙なコントラストを生んでいる青い空が綿々と広がっているだけだ。周囲は何も変わらないのに、今、目の前で2人の人間が消えてしまった。自分の感覚が信じられず、耳の奥が詰まったようにきんと痛くなり、直也はたまらず頭を抱えた。

「これも、そんなこともある、の?」

 拓也が柄にもなく冗談めいたことを口にする。胸の奥を絞めつけられている直也は、怒鳴りつけるようにして反論した。

「んなこと、あってたまるかよ! おい、誰だ、今の? なんなんだよあいつは。一体、あの娘はどこにいっちまったんだよ!」

 直也は気が動転し、感情に背を押されるがまま誰にともなく尋ねている。そういえば、とあたりを確認するがあの女性の父親もいつまで経っても来ない。直也や拓也より先に公園に着いたのだから、このあたりで登場しても良さそうなものなのに。

 右に左に駆けまわり、立ち止まっては背伸びをして観察を繰り返すが、女性どころか、彼の姿も見当たらなくなっていた。

「俺たちが追ってきた男はなんだったんだよ。父と娘のすれ違いってことか? せっかく親父が見舞いにきたってのに、その直前で友達と遊びに行っちゃったとか、そういうことなのか? そんなのあるかよ……」

 直也は頭を掻き毟りながら、激昂する。苛立っていることは自覚していたし、それが冷静な思考を鈍らせる要因になることも分かっていたが、頭の中はぐるぐると濁った液体が渦巻いているような状態に陥っていた。手で掬った浜辺の砂のように、真実が指の間をすり抜けていってしまったような気分だ。あまりの衝撃に、目の前が真っ白になりかける。

「なんでここまできて……人が消えたんだぞ、こんなこと、あるかよ」

 悔恨が胸を煮えたぎらせ、直也は地団太を踏む。すると、拓也が声をかけてきた。その声には切羽詰まったものが込められていたが、直也よりもよほど平静を保っているように感じられた。

「とりあえず、公園内をもうちょい探そう。男も女の人も、まだいるかもしれない。俺たちがここに来たことは絶対、無意味じゃない。それを証明できるのは他の誰でもない。俺たちだけだよ」

 拓也の冷静な判断に、直也は自分の頭の中の渦が少しずつ消えていくような感触を覚えた。また軽く頭を振り、熱気を絞りだそうと大きく深呼吸をする。噴水からはじき出される少量の水分を含んだ空気が体内をじわりじわりと冷却していく。そうすることで少しだけ体にこもった熱をやわらげ、落ち着きを取り戻してから直也は強く頷いた。

「……あぁ、そうだな。よし、手分けするぞ。見つけたら、ケータイに連絡頼む」

「あぁ、了解だ!」

 拓也は女子高生がやってきた方角へ、直也は去っていった方角へ、それぞれ散開し捜索を開始する。直也は一目散にタイルの上を駆け抜けていく拓也の背中を振り返りながら、苛立ちに囚われて素人に宥められるようじゃ、探偵失格だなと自分に幻滅する。

 だが落ち込んでばかりもいられない。気持ちを切り替え、女子高生と女性が立ち去って行った方角をキッと見据える。

 2人は直也が見ている前で立ち去り、姿を消した。その間に要した時間は、ものの数秒だ。そんな短時間で遠くにいけるはずもない。それともどこかに隠れているのだろうか。あの突然現れた女子高生の素性が分からない以上、どんなこともありえそうな気がする。怪人が跋扈し、黄金の鳥なんてものが存在し、自分も装甲服をつけて戦っている。そんな非現実に満ちた、世の中なのだから。

 その時、周囲に視線を巡らせていた直也の目にふと止まるものがあった。先ほどまで女性が座っていた、ベンチの上だ。近づくとやはりそこに、二つ折りにされた桃色の便箋が落ちていた。躊躇うこともなく、それを拾い上げる。立ったまま緊張に震える手で便箋を広げ、そこに綴られていた文章を読み――直也は目を剥いた。

 読み間違いを防ぐため、もう1度上から下へ視線を這わせる。それを終えると、今度は音読をしてみた。一文字一文字、漢字の跳ねや止めにまで注意を払うようにしながら、ゆっくり読み上げていく。それからきょろきょろと周辺を窺い、誰もいないことを確認してから、直也は呟いた。

「おいこれは……なんだ、これは、なんなんだよ……」

 デフォルメされた豚のキャラクターが左下にプリントされた、桃色の便箋。その女の子らしい用紙にぴたりと合うような、丸っこい字がそこにはつらつらと記されていた。

 あの女性の書いたものだ、と直也は直感で思った。彼女はあの女子高校生に連れられていく直前、この場所に置き手紙を残していったのだった。

 そしてその文面を2度、3度と読み上げた直也は、便箋を片手に女性が姿を消した方向へと走り出した。頭の中では、手紙の内容が絶えず再生されている。奥歯を噛みしめ、地面をつま先で蹴りやりながら、焦りと動揺に背を押されて前へ前へと突き進んでいく。

 曲がり角を右折するが、そこにもやはり誰もいなかった。

「くそっ……俺はバカだよ本当に。何で見失ったりなんかしたんだよ!」

 直也は自分を責めながら、公園内を駆けまわる。先ほど入口ですれ違ったベビーカーを押す女性と出くわし、また不審げな目を向けられるが、構いもしなかった。

「すみません。女の人をみませんでしたか? 女子高生と一緒にいるんですけど」

 直也はまた無意識のうちに、心の中で手紙を読んでいる。耳の奥から聞こえてくるその声に支えられながら、さらに言葉を継ぐ。

「頼むから教えてください。このへんに……このへんにまだ、いるはずなんです!」


『お父さんへ

 迷惑かけてごめんなさい。お母さんは元気ですか。口では言えないかもしれないから、この手紙を通じて伝えます。今日、公園で会うことを約束したけど……もしかしたら会えないかも。私も楽しみにしてたんだけど、ごめんなさい。実は昨日、ある人から連絡がありました。一緒にあの場所で、監禁されていた女の子です。私はあの時は怖くて……今でも夢に出てくるくらい怖いけど、その子のおかげで何とか精神を壊さずにいれました。私よりも年下(高校生とかいってたかな……)でしたが、私なんかよりも、とても強くて心が逞しい女の子でした。ここを抜け出せたら親友になろう。彼女とどこかに遊びにいこう。それだけを信じて、私はあの暗闇の中で2週間、生き抜いてきたのです。だけど途中で彼女はいなくなってしまって、私はあの子は殺されたのとばかり思っていました。あの時はもう、私の人生はここで終わりだと正直思っていました。

 でも、彼女は生きていました! もう嬉しくて嬉しくて……昨日は電話でいっぱいお話をしました。それで今日、会うことにしたのです。私は公園で待ってると言いました。彼女は来てくれるといいました。嘘か真実か分からないけれど。いまも夢みたいな気分だけど、せっかくだから待ってみようと思ってます。

 本当にごめんなさい。でも、私はこの頭の中にこびりついたイメージを消したい。彼女に会えば少しは薄まると思ってます。お父さんじゃだめなんです。私を救ってくれるのは、あの子しかいません。

 人の腕とか足が、怪人に、変わる。その怖さは、お父さんには分からない。黒い鳥が、怖い』




魔物の話 12 

「隠れても無駄だ。出て来い。早く私に、お前の成長した姿をみせるんだ! 黒い鳥に似た、その荘厳な姿を!」

 廊下に濁りきった声が反響する。レイは身を震わせ、自分で自分を抱くように縮こまりながらテーブルの下に隠れていた。

 逃げ回り、隠れ場所を探し末に見つけたアパートの一室だ。元からかかっていなかったのか、それとも施錠が破損していたのかは判断がつかないが、ともかくこの部屋のドアには鍵がかかっておらず、佑を連れて何とかこの部屋に転がり込むことができた。

 室内は蜘蛛の巣が張られ、虫の死骸がところどころに転がっており、もし潔癖症をもつ人が入ろうものなら、足を踏み入れただけでショック死してしまうのではないかと予測できるほどの不潔さだった。調度品は4人掛けの大きなテーブルと、クローゼットしかない。ワンルームでトイレもついていたが、この状況においてもそのドアを開く勇気は持てなかった。

 床には埃がたまっていたが、これ以上文句を垂れていられる状況でもなく、それにレイは自分がそれほど細かい神経を持つ人間ではないことを自覚していたので、とりあえずテーブルを隠れ蓑とすることに決めた。

 隣にはレイと同じ体勢で、佑が丸まっている。肩で息をし、汗だくになっていて随分と辛そうだ。それに対して自分は、とレイは自虐的な気持ちを胸に目を伏せる。佑よりも長い時間動いているというのに、疲労は少なく、また床や壁に幾度となく叩きつけられたのにも関わらずそれほど痛みを感じてはいなかった。

 それこそが怪人であることの証明、とイストは言った。自分と同類の存在だとも補足した。やはり私も、女性たちをさらい、殺している野蛮な化け物たちと一緒なのか。深く沈みこんだレイの心に諦念を秘めた絶望がひしめいていく。胸がつぶれるほどの悲しみが去来するが、涙は一滴も流れ出てこない。

「それにしても、怪人が本当にいたなんてな。なんというか、ただ、びっくりだ。もうそれしか言えない」

「言ってるじゃないですか。いま喋ってますよ、お兄さん」

「あ、本当だ。やっぱりそれ以外のことも、言える」

 佑が膝を抱えたまま言う。レイは彼の方に目を向けることはけしてせず、感情が表出しないよう努めた。

「それにしても、びっくりついでに殴りかかれるなんて。さすが噂以上の根性ですね。尊敬しますよ」

「ま。結局、勢いだけで全然ダメだったけどな」

 佑が自嘲気味に笑う。鉄パイプを振り上げ、イストに殴りかかった佑だったが、そこはやはり異形の生物と何の特殊能力も有しない人間の差。佑は触手で行動を妨害され、さらにイストに片手でいとも簡単にあしらわれて、結果、壁に投げつけられてしまった。ぶつけた時に切ったのか、その頬からは一筋の血が流れ出ている。

「でも……なんでこんなところに?」

 頬を伝い、顎の先から垂れていく血液の軌跡を目で追いながらレイは質問する。今彼と一緒になって、この廃墟アパートを逃げ回っていること自体、何とも信じ難いことだった。夢であってくれればいいのにと、切実に思う。

 佑はレイの方を向くと、こんな状況にも関わらず小さく笑った。

「ちょっと待ち合わせの時間よりも、早く来ちゃってさ。病院の周りを適当にうろついてたんだよ。そしたらレイちゃんと変な男が話してるのを見つけて」

「それで気になって後をつけて来てみたら、怪人に襲われてる私がいたってことですか?」

 後を継ぐと、佑は「あぁ、そうそう」と何度か頷いた。「驚いたよそれにしても。怪人って噂じゃなかったんだな……」と先ほどと同じ感想を漏らす。つい1時間前まで、怪人などただの都市伝説と思っている、そしてその論理が定着している世界にいたのだからその感想も無理はない。彼の驚愕の度合いも、うっすらとだが理解できた。

「……でも、別に助けてくれなくても良かったのに」

 俯いたまま、レイはぼそりと呟く。自分でも無意識のまま、独りでに口が動いた感覚だった。だって私は怪人なんですから、と心の中で付け加える。

「どういう意味?」

 突然向けられた批判に、佑は面食らっていたものの、怒りだす様子はみられなかった。そういう平然としたところは悠とよく似ていて、レイはほんの少しだけ安心を覚える。

「レイちゃんだって、もうちょっとでけがするところだったじゃないか。すげぇ危ないところだったと思うんだけど」

「私のせいで、お兄さんがけがする方が、よっぽど嫌です。悠にどう申し開きすればいいんですか。私なんか、どうでもいいんですよ」

 佑の頬に流れる血を、目線で指し示す。それでようやく気付いたのか、佑は血を掌で拭った。

「でも、レイちゃんが危ない目にあってるのに見過ごすわけにもいかないよ。見殺しにしたら、俺こそ次、悠にどんな顔して会えばいいんだよ」

「お兄さんは、訊かないんですか? なんで私が、あんな化け物に襲われているのか」

 さらに、あの怪人が私に言っている意味を知って絶望しないんですか、と続けたかった。イストの声は町内に響く選挙活動のアナウンスのように、絶えずアパート内を駆け巡っている。

 その言葉の全てを聞き取れるわけではないが、「お前は黒い鳥になるのだ」や、「なぜ世界を変革させる作業に取り組まない!」などといった、やはり先ほどとうとうと述べていたのと同じ類のことを叫んでいるようだった。レイとしては。その真意を佑がいつ知ってしまうのか、ということが怖くて仕方がない。秋護と違って佑はまともな人だろうし、とも思い、それが懸念に拍車をかける。

「まぁ、気にならないわけじゃないけど……今はそれどころじゃないし。早く逃げる方が先決じゃない?」

「でも……」

 レイは佑を一瞥し、また暗澹とした思いに駆られていく。自分は最高の怪人。そしてその力は人類を滅ぼすほどのポテンシャルを秘めている。こんな、人間にとって害悪にしかならない存在を守る価値などどこにあるのだろうか。レイは自分の手を見つめ、その内側に流れる黒い鳥の血を思い、恐れた。自分のことなのに、自分が一番コントロールできない。私は一体何なのか、という苦難の思いが絶えず心中で蠢いている。

「でもやっぱり、私は、そんなこと望んでないんです……私は、守られちゃいけないんですよ。だって……」

 お前は怪人だ、だから一緒に、人類を頑張って滅ぼすそう。イストの声が絶えず聞こえてくる。耳を塞いでもその言葉は、レイの心に直接突き刺さってくるようだ。怪人なのに、人を殺すのに、そんなのに世話を焼いたりしたら、きっと佑は後悔する。

 だからそうなる前に、佑をこの場から逃がさなくてはいけない。

 脳裏に憔悴した表情を浮かべ死んでいったディッキーや、バイクの上から殴り倒される秋護の姿が過る。守られてばかりでは、駄目だ。拳を固く握りしめ、強くなろうとあの山中で誓った時のことを思い出す。

 そしてレイは、胸中で確乎たる決意を固めた。

「……私が、お兄さんを助けます。お兄さんが、こんなところにいて良いわけないじゃないですか」

 レイが腰を上げ、窮屈に身を屈めながらテーブルの下から出ると、佑は目を見開いた。「おい、レイちゃん! 隠れてないと危ない」と驚愕を存分に含ませた声をあげ、彼もそこから出ようとする。しかしその動きを、レイはテーブルの前に立ち塞がることで制した。

「私なら大丈夫です。狙われているのは、私ですから。お兄さんはその隙に早く逃げてください」

「レイちゃん……」

「怪人に追いかけ回されるのは、私みたいな中途半端な人だけで、十分ですよ」

 レイは薄汚れ、ひび割れた窓に目をやった。父親が姿を見せる気配は相変わらずない。怪人を倒すのに思いの外、手間取っているのだろうか。ならば、駆けつけてくれるまで、囮としての役目を果たすしかないではないか。

「死ね! "お下げカッター!"」

 突然耳に飛び込んできた女の声に、一体何事かと振り返ると、次の瞬間壁が音を立てて崩れ落ちた。一斉に羽のような埃が舞い散り、視界が灰色に染め上げられる。そして驚く間もなく、レイに向かって小柄な怪人が飛びかかってきた。

 レイは身をかわそうとするが、埃で目が痛く、また口内に飛び込んだ埃が激しい咳を触発させていてそれすら満足に実行できなかった。

 気付いた時には、肩先を深々と切りつけられていた。鮮血が舞い、数秒の時間差を置いて激痛が襲いかかる。よろめき、テーブルに手をつくことで何とか姿勢を正す。

 レイちゃん、と佑が語調荒く呼びかけてくるがその声さえも、遠くに聞こえた。痛みに全身の感覚が鈍っているのだ。

 それでも気力を振り絞り、目を細め、埃の奔流の向こう側を見極めようとすると、仁王立ちのポーズをとる、1体の怪人を視界に捉えることができた。

 鳥の嘴を模したお下げに、胸に構えられたカラスの絵。赤髪の少女から変化した"バニッシュ"だった。

 その怪人の特徴的な、こめかみから垂れているお下げの先端からは血が滴っている。なるほど、あれが肩を切り裂いたのか、とレイは激しく痛みの自己主張をしている自分の肩を横目で見やりながら確信する。バニッシュが先ほど叫んでいた、"お下げカッター"というのもおそらく攻撃を行う部位を意味していていたのだろう。

「また会ったね。今度こそ、死刑執行の時間だよ!」

 鼻は顔にないが、鼻息を荒くしてバニッシュはレイを指差す。さらにテーブルの下から顔を覗かせている佑を発見すると、そちらにも指先を動かし、「ついでにあんたも死刑だ!」と宣告した。

 ついでで、親友の兄を殺されてはたまらない。レイは佑の姿を覆い隠すように左手をいっぱいまで広げると、バニッシュと真正面から対峙した。

「あなたたちの標的は、私のはずだよ。この人は、関係ない」

「別にそんなこと、私はどうでもいいのさ。ただ誰かを切るだけで、心が満たされるの。この気持ち、分かる?」

「そんなの、分かるわけないじゃない」

 こっそりと影を鳥の形へと変化させ、バニッシュの足元に重ねてみる。しかし結果は、やはりイストに力を行使した時と同じだった。なぜこの怪人たちに通じないのか。理不尽なものを感じ、胸を動揺がもやもやと占めていって、レイはたまらず奥歯を強く噛みしめる。こんなに自分は無力だったのか、と思い知らされるようで本当に情けなくなる。

「分かってよ。同じ怪人なんだからさ。同族ならではの、以心伝心みたいなのないの?」

「……残念だけど。私は、怪人である前に、黒城レイだからね」

 もうどうにでもなれ、とやけっぱちな気分でもあった。背後の佑の顔色を窺い知ることはできないが、おそらく動揺を浮かべているだろうということは容易に想像できた。あと数秒も経過すれば、それは恐怖に転じるだろう。それはそれで、構わないと思った。自分から離れ、守るという発言も撤回し、佑がこの場から離脱することを考えてくれるなら、自分の印象がどうなろうか知ったこっちゃない。むしろ好都合だ――そう、考えていた。

 もしかしたら、本当に自分の中に流れる父親の不遜な血が騒ぎ出したのかもしれない、と半ば本気で思う。そんな解釈を禁じ得ないほど、いまのレイは自分がかつてないほど強気になっているのを実感していた。胸の中で、魂が滾っている。その鼓動が全身を突き動かすかのようだ。

「だから、あなたと私は絶対に、違うんだよ」

「いや、同じだ。同じに他ならない」

 レイが断言すると同時に、部屋の外から男の声が聞こえてきた。ドアを押し開いて室内に入って来たのは予想通りと言うべきか、胸にホタテの絵を刻んだ怪人、イストだった。

 あたかもこの部屋の住人であるかのように、平然とドアノブを捻り、軋んだドアを開けるという手順を着々と踏んで侵入してきたイストに、レイは奇妙な感慨を覚えた。あら顔は怖いのに紳士的じゃない、とさえ考えてしまう。壁をぶち破って侵入してきたバニッシュを目の前にした直後だったから、余計に感服した。

「お前は不幸だ。本当の自分を知らないのだからな。真の幸福とは、自分の能力を最も活かしてくれる道を見出し、自分の持つべき力と適合した未来を掴むことで達成される」

 またイストがとうとうと述べる。レイはブロンド色の髪を振り回すようにして、大きくかぶりを振った。

「通りすがりの怪人に、幸せとか不幸とか決められたくない」

「馬鹿な。私はお前の力と、将来性を見込んでアドバイスをしてやってるんだ。人類滅亡に加担できるなど、他の誰にもできない。お前にしか、できない」

「私の将来を選ぶのは、私だよ」

 レイは2人の怪人を交互に睨みつけ、毅然とした口調で発した。人間、躊躇や羞恥を捨て去ってしまえばこれほど強気になれるものなのかと自分で自分に感動さえする。レイは横に突き出していた左腕を、半時計周りに動かして、そのままイストの顔面を鋭く指差した。

「私の未来は、自分で守る。黒い鳥になんか、絶対にならない。なんで、あなたたちの言うことなんか聞かなきゃいけないの。そんな変なのになるんだったら、死んだ方がマシだよ」

「……どうやら、これ以上。口で言っても無駄なようだな」

 イストはつまらなそうに長いため息を吐くと、一歩前に足を踏み出した。首を右に左に傾け、肩を軽く回すと隣に立つバニッシュ目がけて、短く声を飛ばした。

「妹よ。私に力を貸せ!」

「はいよ。兄貴、切って切って切りまくっちゃってちょうだいね。死刑だよ、死刑」

「あぁ、いいだろう。死なない程度に、死刑を実行させてやる」

 それは死刑ではなく拷問ではないのか、と抗弁したくなるが、声には出せない。イストの声には諦めと、それを覆い隠すほどの憤怒が存分に含まれていたからだ。押し隠してはいるようだったが、言葉の端々に怒りが滲み出ていてまったくその意味をなしていない。

 バニッシュに異変が生じたのは次の瞬間だった。突然跳び上がったかと思うと、首を180度回転させ、頭の両脇に携えてあった嘴型のお下げをぱたんと畳み、両足を螺旋状に絡ませ始めた。肩の骨格が異常を成し、人体では曲がることを許されない方向にねじ曲がり、背中の方に折り畳まれていく。

 そうしてできたのは、1本の大鎌だった。柄がイストの胸のあたりまであり、その先から三日月状の巨大な刃が突き出している。あの刃の湾曲部分に首をひっかけられたなら、確かにその先に待つ未来はバニッシュの言うとおり、死刑しかなさそうだ。

 イストは、バニッシュの変形した鎌を片手でひょいと持ち上げると、こちらに向かって得意気に裂けた口元を緩ませた。

「これが我が妹のもつ能力。彼女は私の武器となり、私は妹を操る腕となる。適材適所。そういう言葉がある。お前もこの言葉の意味を理解し、そして従うんだ。これは最後の警告だぞ。あまり実力行使にでるのは正直、好きではない。頭が悪そうだからな」

「それは、お互い様だよ」

「そうか」

 ふん、とイストが鼻を鳴らす。と同時にそのボコボコと激しく脈動する、紫色に濁った腹部から無数の触手を吐きだしてきた。逃げ場1つ許さぬように、縦横無尽、あらゆる角度から襲いかかってくる。数多の流れ星が自分に向けて一斉に落ちてきたら、おそらくこういう光景が見られるのだろうかと、そんなことを考える。

 ここで身をかわしたら、佑にぶつかってしまう。素早く考えを巡らせた結果、レイは避けることも自らを守ることもせず、あえて自分から触手に飛び込んでいった。

 レイちゃん、と再び、佑の切迫した声があがる。レイは手足や胴体、首筋を無数の触手に絡みつかれながらも、腹の底に力を込めるようにした。自分の腹筋が固く引き締まるのを感じる。

「ほう……ついに自らの運命を受け入れてくれたか。それでいい。お前の未来は、生を授かったときからすでに決められている。そこからあがく必要が、どこにある?」

「そうじゃなきゃ、人生楽しくないじゃない」

 レイは断言した。そして腹から胸に、そして喉に酸素を伝わせながら震える声で、天井目がけて叫んだ。埃が口の中に飛び込み、咳こみそうになるが、構いはしなかった。

「来て、ゴキブリさん!」

 肺に満たした酸素を一気に消費するような大声で、レイは仲間の名前を呼んだ。するとその声に呼応するかのように、開け放されたドアから、窓の外から、柱の陰から。5匹の巨大なゴキブリたちが次々と姿を現した。黒い鳥の力を行使して捕まえた、仲間たち。5匹とも無事であったことに、心底安堵する。

 それから鼻白むイストの前で、レイは内心ガッツポーズをかざした。レイが狙っていたのは、自分に触手が絡みつき、固定されている、このタイミングだった。今ならこの邪魔な触手を片づけることができる。

「ゴキブリさん、お願い!」

 ゴキブリたちは、一斉にキィと甲高い声をあげると、翅を広げ、滑空するようなスピードで移動しその腕に備わったカッターで触手を切り裂いていってしまった。イストは自分の体の一部を傷つけたゴキブリたちを逃がすものかと、無我夢中で大鎌を振るうが、一向に当たる気配もない。レイを捕えていた触手たちは次々と半ばから切断され、切り落とされた触手の先端部分は、トカゲの尾のように床の上をのたうちまわっている。

 束縛から急に解き放たれ、後ろによろめいたレイはテーブルに激しく腰を打ち付ける。電撃が走るような痛みに涙を浮かばせながら周囲を窺うと、少し離れた場所に並んで立つ、5匹のゴキブリたちを確認することができた。その表情にはどこか、一仕事を終えた職人じみた達成感が浮かんでいる。

 レイは顔の前で左手を立て、勇敢な戦士達に感謝を表した。

「この雑魚共が……同じ親から生まれた兄弟だからといって、このイスト、容赦はしないぞ。行け、妹よ!」

 イストは底冷えのするような低い声で威嚇すると、その手にある大鎌をゴキブリたち目がけて投げ飛ばした。大鎌は空中で解け、奇妙な回転運動を繰り返しながら、バニッシュの姿に戻る。彼女はゴキブリたちに頭から突っ込んでいきながら、その頭の両脇に掲げた嘴をぐるぐると回転させた。

「全員死刑! 行け、お下げ、カッター!」

 再び謎の技名を叫びながら、バニッシュはゴキブリたちを切り裂くため、鋭い2つの嘴で急接近をする。ゴキブリたちは迫りくる敵を前に、散開しようと足の裏を滑らせ、薄茶色の翅を背中からはみ出させる。

 しかし一斉に飛び立とうとしたその直前、いきなりゴキブリたちの体が真っ二つに切断された。始めは1匹、続けざまに2匹、3匹。4匹目が体を4つに引き裂かれ、5匹目が両足を持ってかれる。

 バニッシュの嘴からは、見えづらいが透明な膜のようなものが絶えず発散されているようだった。舞散る埃のおかげで、何とかその軌跡が見て取れる。直接嘴に当たらずとも、バニッシュのお下げカッターは、敵に一太刀を浴びせることができるのだ。

 相変わらず痛みの引かない右肩を抑えながら、レイはこの程度のけがで済んで良かったと思う。あれが直撃していたら、と考えるとそれだけでぞっとした。

 いくら生命力に溢れていることで賞されるゴキブリでも、体をいくつもの部品に分解されたのではもうどうしようもなかった。全員、上半身と下半身を分けられ、左半身と右半身も分断されているにも関わらず、ぴくぴくと蠢いているものの、立ち上がれる状態では毛頭ない。

 着地したバニッシュは、ゴキブリたちの体を足の裏で踏みつけ、1つ1つ潰しながら楽しげな笑い声を咲かせる。

「死刑死刑。私たちに反抗する奴は、誰であろうと死刑なんだよ。あー、気持ち良かった」

「ゴキブリさん……!」

 レイは視界がくらむようなショックを受けながら、無残な音をたてて潰されていくゴキブリたちを目の前にする。また自分を守って、誰かが命を落とした。ディッキーの最期がふと脳裏にフラッシュバックし。レイは胸が万力で絞めつけられるような痛みを覚える。

 しかしゴキブリたちの死に思いを馳せている間もなく、イストから触手が飛んできた。まだ切り裂かれていない触手が数本、残されていたのだ。バラバラにされ、踏みにじられていくゴキブリというあまりに凄惨な光景を前に、打ちひしがれていたレイは、攻撃に対する反応が遅れた。先ほどよりも明らかに数は少ないものの、それでも的確にレイの死角を突くしたたかさで、触手はあらゆる角度から狙いを済ませてくる。

 だが、イストが濁った声をあげて退いたことで、触手たちも一斉に引っ込んだ。何が起きたのかと視線をあげれば、イストの顔にめりこんだ鉄パイプが最初に飛び込んでくる。あまりに唐突な、予想だにしない衝撃に、完全に無防備だったイストは部屋の反対側まで吹き飛んでいった。

「また、危ないところだったな。レイちゃん」

 テーブルの下から佑が這い出て来る。鉄パイプを投げたのは、やはり彼だったらしい。レイの隣に立つと佑は、スッと息を吸い、こちらに顔を向けると微笑んだ。右肩の痛みも増し、その動きを止める力すら残されていなかったレイは、顔を歪め当惑と悲観を顔に浮かべる他ない。

「お兄さん……」

「なにがなんだか、まだ分からないけどさ。やっぱり、ここに隠れてたり、尻尾巻いて逃げだしたりなんてこと。俺にはできないよ」

 ゆらりと顔をあげ、小さな目でこちらを睨んでくるイストに、佑は毅然とした表情で応じる。その目に滾る闘志と決意のかがり火に、レイは息を呑んだ。

「レイちゃんが俺を助けてくれるなら、俺もレイちゃんを助ける。それでいいだろ? お互い、自分勝手だ」

 軽い口調でそう言い切り、さらに「この世は、自分勝手な人ばっかりだ」とも佑は続ける。

 レイはあぁ、そうか、と疲労しきった頭でようやく気がついた。車に連れ込まれそうになった悠が見た、佑の姿はこれだったのかとこの状況に立って見て納得がいった。

 なるほど、かっこいいなとレイは柄でもなく、思う。悠が兄に傾倒しているその理由もようやく分かったような気がした。確かに、佑は本気になるとかっこいいし、凄い。

 レイは気分を落ちつけるためにため息をつくと、佑に向けて小さく笑んだ。

「そうですね……お兄さん。助けて、くれますか?」

 依頼すると、佑はこんなあまりに切羽詰まった状況にも関わらず頬を緩ませた。そしてレイの顔の前で腕を伸ばし、力強くその親指を立てた。

「それは、こっちのセリフだよ」

「妹よ!」

 怒気を孕ませた声で、イストが叫ぶ。レイと佑は弾かれるようにして、その二枚貝の絵を掲げている怪人に顔を向けた。

「はいはい、分かってるって」

 首をぐるりと回しながら、気だるそうにバニッシュが応じる。「ただの人間のくせに……生意気なんだよね!」 バニッシュはぴょんと小さくとび跳ねると、先ほどと同じ工程を踏んで大鎌へと再び変形した。

 床の平行に滑空しながら飛んでくる大鎌を、イストは片手で受け止める。それから手の中でしっかりその柄を握り直すと、口の両端を不敵に上げた。

「くだらないゴミのような人間の分際で、私に傷をつけるとは……到底許し難い!」

 イストは大鎌で虚空を薙いだ。すると無色透明な刃が、室内に舞った埃を貫きながら、レイたち目がけて迫ってくる。

 レイと佑はそれぞれ逆方向に飛びのき、すんでのところで攻撃を回避した。背後にあったテーブルが真っ二つに切り裂かれ、その向こうにある壁に深々と真っ黒な直線が刻みこまれる。

「お前に、許してもらうために生きてるんじゃないんだよ!」

 乱暴に佑が言い放ち、手近にあったパイプ椅子を投げつけた。イストは腹から飛び出させた触手で、いとも簡単に椅子を弾く。そしてすぐに触手を引っ込めると同時に、鎌をバッティング練習に励む野球選手のように、間断なく振り回した。

 その度に見えない刃が、部屋中に散らばり、壁や床や調度品を傷つけていく。レイは鎌の動きから、刃が飛んでくる向きと距離を予測し、時には転がり、時には跳びながら、それらを回避していく。佑を見やれば、イストを挟んだ向かい側で佑も同じように、必死の形相で攻撃から逃げていた。

 埃と虫の死骸で汚れた床を転がり、休む間もなく立ち上がろうとしたところで、レイはテーブルの脇にポットが転がっていることに気付いた。桃色で一面に花柄が施された、随分と可愛らしいデザインのものだ。この部屋に住んでいた人の、忘れ物かもしれない。レイはあるアイディアを閃き、それを掴みとった。瞬間、レイのすぐ足元を刃が直撃し、床が割れるのと一緒になって太股から一筋の血が流れた。

 しかし、レイはそんな小さなけがには目もくれず、ポットを胸に抱えたまま無我夢中でイストに飛び込んだ。大鎌による追撃をしゃがんで避け、スキップをするようにして走り、手を伸ばせばイストに触れることができるくらいの距離まで接近する。

 まごまごしている時間は、なかった。一瞬でもタイミングを違えば、触手に再び体を拘束されてしまう。そうなればこの作戦は失敗に終わってしまう。

 レイは素早く、しかし落ち着いて持ってきたポットを、イストの触手排出口――腹に開いた空洞――に押し込んだ。穴の表面にポットの尻をあてがうと、上ぶたのあたりを殴りつけ、深々とその肉のひだが複雑に覆い重り、絶えず蠕動をしている穴の中へと深々と突き刺した。これで、あのやっかいな触手はもう出せなくなった。これで、少しはイストに近づきやすくなったはずだ。

 手早く作業を終えると、レイは転がるようにしてその場から退散する。逆上したイストの大鎌が追いかけてきたが、髪の先端をばっさり持ってかれただけで済んだ。埃に混じって、ブロンド色の髪の毛が宙を舞う。

 イストは自分の腹にすっぽりとはまったポットを見下ろすと、それに手をかけようともせず、激しく地団太を踏んだ。

「貴様……小癪な真似を。なぜ分からない! 人類がいる限り、地球は悲鳴をあげ続ける。地球を救えるのは、貴様だけだというのに。その可能性を、自ら捨てるというのか!」

「あなたの言う通りに、私はならない。私のやりたいことは、私が決める!」

「こんな人間と!」

 イストは、今度は佑の方を見ると激しく歯軋りをした。そして佑目がけて鎌を、槍のように真っ直ぐ突き出した。

「こんな人間と一緒にいるから、そんな考えが生まれるんだ! 貴様ほどの逸材が腐るのだ!」

 佑はその、憤怒の込もった一撃を完全に避けきれずに右肩にくらった。短いうめき声をあげて、佑は窓の脇に背中を打ち付ける。

 レイは自分の心臓が縮みあがるのを感じながら、声と共に跳ね起きた。

 気が気でなくなり、「お兄さん!」と叫ぶが、佑の方もこちらに視線を向けており、何かを合図するかのように小さく頷いたのを見て、ハッとした。その足元には空の段ボール箱が落ちていた。さらに彼の手には、窓の外からの日を浴びてきらりと輝く何かがある。

 なるほど、と佑の真意に気づき、レイは周囲に視線を巡らす。すると1メートルほど右の方に、四角い目覚まし時計が転がっていた。盤面を覆うプラスチック製のふたが割れ、長針がひん曲っている。本体の方もひびが入り、見るからに故障をしているようだった。これ幸いと、レイはその時計に歩みを寄せる。

 時計の元まで辿りつく寸前、さらに言えばイストが鎌を佑に向かって振り下ろそうとする直前、レイは頭の中に映像が割りこんでくる感触を覚えた。こめかみを針で刺されるような頭痛が走り、奥歯を噛みしめ、顔を歪める。

 それは、怪人の位置を察知した合図。ここに2体いるのに、またさらに怪人が出たのかと絶望的な思いを抱きながら、その滑り込んできた映像を頭の中で再生させる。その怪人が暴れている周囲の景色、怪人の容貌、怪人の目を通して見る光景が次々と頭の端を過っては、ちぎれて消えていく。時間にすれば、ほんの一秒もの間に流れていく映像の山にうんざりとしながらも、レイはあることに気が付いていた。

 怪人を操る力も、イストとバニッシュには効果がない。怪人を生む出す力は、近くに死体がなくては発動できない。

 なら、自分に残されている力は何だ。レイは考え、悩み、そして見出した。黒い鳥から授かった最高の怪人と呼ばれる所以の力。それは皮肉にも、レイが最初に自覚した人知を超える力だった。

 レイは窓の方に鋭く視線を走らせ、それと同時に足もとの時計を蹴った。大鎌を振り上げている姿勢だったイストは自らに向かって飛んでくる時計に気をとられ、わずかながら首を背後に捻った。

 その瞬間を、待ち望んでいた。レイは無意識のうちに、行け、と周囲に聞こえないような小さな声で呟いている。その言葉に後押しされたわけではないだろうが、佑は段ボール箱をつまさきでイストの胸めがけて蹴りあげた。時計を手の甲で払いのけたイストは、その段ボール箱にも敏感に反応を示し、捩った首を前に戻そうとする。

「俺が嫌いな奴は……妹を悲しませる奴と!」

 佑は乾いた喉を擦りきらすような、掠れた声で叫びながら腕を前に突き出した。その手にはいつの間に拾ったのか、ゴキブリたちに備わっていたカッターが握られている。

「妹を、大事にしない奴だ!」

 佑の振るったカッターは、イストの顔面に深々と突き刺さった。頭の中で泳いでいた金魚を貫通し、耳の脇からその先端が顔を覗かせている。

 佑はカッターから手を離すと、よろよろと力なく後ずさった。イストは絶叫しながら大鎌を放り投げると、両手で顔を激しく掻き毟った。さらに頭を抱えた体勢で、その場で足踏みを繰り返す。血は一滴も流れていないが、その様子から塗炭の苦しみは十分すぎるほど伝わってくる。その姿はおぞましいほどで、敵であるはずなのにレイは心が痛んだ。

「兄貴!」

 大鎌からいつの間にか戻ったバニッシュが、切迫した声調でイストに呼びかける。しかしイストは呻き声をあげるばかりで、それに応じる気配すらない。今の一撃が致命傷だったのか、よろよろと壁に寄りかかり、顔に刺さったカッターを引き抜こうとしている。

「ただの、人間ごときが、この私に」

 吐きだす言葉にも、どこか覇気がない。イストは力が抜けたように、壁伝いに座りこむと丸くなり、そのまま動かなくなってしまった。

 レイはイストの前を、大股で駆け抜けると、肩で息をしている佑の手を引っ掴んだ。「お兄さん、行きますよ!」

「え、どこに?」

 間の抜けた声をあげる佑を、レイは引っ張り連れていく。そして窓に体の向きを転換させると、がたついた窓ガラスを力任せに開き、片足で踏み切った。

「窓の外の世界に、ですよ」

「そんなこと、させるわけないでしょうが!」

 ガラス窓の外に舞うレイ目がけて、お下げをフル回転させながらバニッシュが迫る。その双頭の刃から見えない斬撃が迸る。かと思いきや、その直前になって、突然バニッシュの体が床に力強く叩きつけられた。

 見れば、頭と胸の一部、それから右腕だけを残したゴキブリが床を這い、腕を伸ばしてバニッシュの右くるぶしを掴んでいた。

 ゴキブリは残された片方の目だけで、じっとレイを見つめてくる。レイは心の中で礼を言うと、窓の下枠をさらに蹴りやり、窓の外にまろび出た。

 そうして、颯爽と飛び出したまでは良かった。しかし思ったよりも窓と地面までの距離があり、また片手が塞がっていたために満足な受け身もとれず、無残にも胸を地に打ち付けてしまうという結果に至ってしまう。さらに続けて顔面もぶつけ、鼻の先が擦れてしまった。

「レイちゃん、大丈夫?」

 とん、と音を立てて綺麗に両足で着地する佑を、レイは卑屈さを込めた眼差しで見上げる。それからうつ伏せになったまま前方を見やり、その視線が捉えたものに、焦りが全身から汗となって噴き出していくのを感じた。

「さすが私の娘……うまくやってのけると、確信していたぞ」

 アパートの前に広がる、長く伸びた雑草で敷き詰められた敷地。その中心に、アークは立っていた。その全身を包む銀の鎧は、太陽の光をことごとく反射して実に眩しい。レイはその姿を直視することができず、顔を逸らしながら、視界の端でそちらを窺う。

 アークの中に入っている父親は、いつもの不遜極まりない態度で、鼻を鳴らした。

「ふん。少し手間取ったがな。なに、今では私の踏み台として使ってやっている。どうやら命令通り、レイに察知されない能力を解除してくれたようだ。私に踏みにじられるその幸福を、あとで存分に感謝してもらわなければな」

 雑草に阻まれて気付くのが遅れたが、よく見れば、アークは怪人を片足で踏みつけていた。それも顔面につまさきを立てるようにしている。焦げ茶色の体色、ということしかこの位置からでは判別できない。しかし、つい先ほど感じた怪人の気配はこれだったのかという得心はいった。おそらく、イストの言っていた"レイの察知能力から逃れる術をもっている怪人"だろう。いま、レイがその存在を感じ取ることができるのは、父親の言うとおり、アークによって屈伏させられたからだろう。

 そのおかげで、レイは怪人の察知能力をフルに発揮し、部屋の中からアークの存在をすでに認識することができた。そして父親の出すサインに気付くことができたのだ。ただし自分の目ではなく、怪人の目を通してという形で、だが。

 アークが腰を低くし、構えているのは土管のような形をした、巨大なバズーカ砲だ。その表面を覆う血管のように張り巡らされた螺旋状のチューブが、鈍い光を帯びている。

 それは、アークが砲撃を開始するための準備を終えた証だった。それが意味することの恐ろしさを、レイは他の誰よりも知っているつもりだった。

 レイは水をかけられた猫のように跳びあがると、背後の佑に慌てて促した。

「お兄さん、早くアパートから離れてください!」

「え? なに?」

 佑は状況が上手く飲み込めておらず、ひどく混乱している様子だ。しかし順序だてて説明をしている時間はなく、レイは佑の手をとると、その体を力任せに引っ張った。

「いてて、腕がちぎれるって!」

 佑が痛みを訴える。

「千切れたって、構うもんですか!」

 レイはいい加減になだめる。全身が吹っ飛ぶくらいだったら、片腕がなくなるくらいマシだろうとも言ってやりたかった。

 前につんのめりながら、レイに連れていかれる形で佑もアパートから遠ざかった。レイはアークと目線を交わし、アークはその合図を受け止めて、力いっぱいに吼えた。

「私の娘を傷つけし、うつけ者どもめ。このアークの神々しき炎に、焼けて朽ち果てたまえ!」

 バズーカ砲の巨大な砲門が、強烈な光に包まれる。その直前に、レイは一度だけ後ろを振り返った。

 窓の下枠を乗り越えて、室内から外に小さな影が飛び出してくる。バニッシュだ。彼女はレイと佑の姿を視界に捉えると、いきり立った様子で、こちらに体を向けてきた。

 兄に振り下ろされた凶刃を恨み、自らを足蹴にされた憤りに逆上している。なんて美しい兄弟愛なんだろう、とレイは皮肉っぽく思う。人間であっても怪人であっても、人のために怒ったり悲しんだり、幸せになったりできるものなのだと新たな発見をしたような気持ちになった。

 レイは自分の手を伝ってくる、佑の体温をふと感じ、なんだか胸が満たされていくのを感じる。これが悠の感じていた手なのだと思うと、なんだか佑が愛しくてしかたがなくなった。知らず知らずのうちに、彼の手を力いっぱい握りしめていた。

 そうしている間にも、バニッシュは片手を伸ばし、こちらに一秒でも早く追い縋ろうとしてくる。だがその体があと1メートル前に進むことよりも、彼女の体が光に包まれるほうが早かった。

 バズーカ砲から放たれた光の奔流は、アパート一軒丸ごと呑みこみ、立ちはだかる閃光の壁はむらなく建物を溶解し、焼き払い、木っ端微塵に打ち砕いた。

 道路工事の何倍にもなる、瞬間的な轟音が耳をつんざき、レイは意識がほんの少しの間だけ混濁した。しかしその衝撃が過ぎ去ると、門のところまで佑を引き連れ、必死になって走った。

 肩が痛み、足がもつれ、息があがる。しかしそのどれもが、生命の証であり、レイは嬉しかった。自分は単なる化け物じゃない、と体が精一杯主張してくれるかのようだった。

 その錆びた鉄扉の向こう側に、どんな世界が広がっているのか。レイはまだ知らない。




鳥の話 13

 ホテルの2階も、ロビーが大広間にすり替わっていることを除けばまったく同じ構造をしていた。

 赤いカーペットの敷き詰められた長い廊下の左右に、宿泊室のドアがずらりと並んでいる。廊下には暗澹とした空気がこもっているようでもあり、相変わらず全ての窓に分厚いカーテンの敷かれた屋内は薄暗く、生温かく、気味が悪かった。忘れたころにカラスの羽音とけたたましい鳴き声が響き渡り、その度に仁は命が2,3年縮むような衝撃を覚えるのだった。

「そういえば。菜原君に見せたいものがあるんだけど」

 激しく胸の奥を叩いている心音が少しずつ元のペースを取り戻し始めた頃、仁はそう隣の菜原に呼びかけ立ち止まった。

 後頭部を掻きながら振り向く菜原は面倒そうではなかったが、興味を示したようにもみえなかった。

「なんだ? 卑猥なものか、それともいやらしいものか?」

 半分だけ瞼を下ろし、彼は低い声で言う。仁は考えることもなく「どちらかというと、厭らしいものだよ」と返した。

「なんだ残念。それで、なんだよ。お前もいやらしいものをみせてみろよ」

 その物言いこそ卑猥じゃないか、と思いながらも、仁は彼の厚意に感謝をして右手に青く細かい粒子を纏わせる。すると掌の上に寄せ集まった粒子群の中から、V.トールのサーベルが飛び出してきた。仁がサーベルを片手で掴むと、同時に粒子は蜘蛛の子のように散っていく。

「これ、曲がっちゃったんだけど。治るかな?」

 刀身の半ばあたりから、くの字に折れ曲ったサーベルを差し出すと菜原は顔をしかめた。手に取り、傷を負った部分に目を近づける。

「こりゃ酷いな。俺たちの武器は並大抵の攻撃じゃ壊れないはずなのに……一体、なにがあった?」

「あぁ、それは……」

 仁はその質問に応じるのを、一瞬躊躇った。脳裏には、ある言葉を耳にした瞬間、態度の急変した菜原の姿が過る。しかし結局、ここまで話を進めたのだからと思い、その言葉を用いて答えた。

「実はマスカレイダーに、やられたんだ」

 菜原の顔を見やりながら、仁は唾を呑みこんで喉を鳴らす。また目を暗闇に潜む猫のように細く鋭くさせ、頬をひくつかせながら、憤怒を露わにするのではと警戒したが、それは取り越し苦労だった。

菜原は仁の言葉を「あぁ、そうか」と何でもないことのように聞き流すと、サーベルをあらゆる角度から眺めながら「これなら大丈夫。少し時間をかければ治せるよ」と評価を下した。

「凄いね菜原君。武器の修理も、できるんだ」

「俺じゃない。第2食堂の魔女に、頼むんだ」

 魔女? それに食堂ってまだあったの? 2つの疑問が同時に浮かび、一度に喉から吐きだしそうになって言葉に詰まった。その内なる逡巡を察したのか菜原は天井を指差し、メガネのフレームを指で押しあげた。

「このホテルの4階。一番奥。そこに第2食堂がある」

「へぇ。まったく知らなかった。というか、4階って階段が封鎖されてなかったっけ」

 このホテルに来て2週間足らずが経過していたが、未だにこのホテルの全貌は掴めていない。

 しかし4階に続く階段を、積み上げられた椅子や机でこしらえた手製のバリケードが塞いでいる、その光景だけは目にした覚えがあった。なぜここまで執拗に封鎖されているのか好奇心が刺激されないわけではなかったが、仁の中では得体の知れない予感のほうが勝っていた。触らぬ神に祟りなし、という言葉を思い出し、面倒なことには関わり合いたくないという思いからいつもその階段の前を素通りしていた。

 仁の指摘に、菜原は曖昧に頷いた。

「あぁ、されてる。簡単には誰も4階以上には昇れないし、そこまでして昇ろうとは思わないだろうな。俺も実際に行ったことはない。この話も小耳に挟んだだけだ」

「それで、その魔女っていうのは何なんだい?」

 鏡の中にいる鎧の男に遭遇し、黄金の鳥などという不可思議な存在を知り、石化する人間に戦慄したにも関わらず、仁は魔女なんてファンタジーな響きだなと考えていた。そしてそんなことを考えている自分に驚いた。自分が非現実な存在になってしまったというのに、まだ日常に片足を突っ込んでいるのかと呆れる。この世界に、あり得ないことなんてないのではないか。最近は特にそう感じていた。

「俺も詳しくはしらない。第2食堂室に住む魔女。噂では、ボスのブレインらしい」

「あきらちゃんの?」

「黒幕、ってほど大袈裟なもんじゃないだろうが。いっぱしの女子高生であるボスに知識や行動概念を吹きこんでいるのは、その魔女だっていわれてる。ま、誰もその姿を見たことがないらしいけどな……ただ1人、ボスを除いては」

 話に耳を傾けながら、ありえない話ではないな、と仁は思った。菜原の言うとおり"いっぱしの女子高生"であるあきらが、たとえ少人数でも組織を自ら運営するためには、何者かによる補助が必要不可欠ではないかと考えていたからだ。

 仁は3階が透けて見えるはずもないのに、ぽつぽつと染みの刻まれた天井にじっと目を凝らす。物音もせぬこの天井の裏側に、会ったこともない人間が住んでいるのを想像するとなんだか不気味だった。

「その魔女が、僕のサーベルも治してくれるのかい?」

 それは魔女じゃなくて鍛冶屋の領域じゃないか、と言いかける。菜原は眉をひそめた。

「何でもできるから、魔女って言われてるんだろうな。俺もよく分からん。まぁ、ボスに渡してみれば、あとは何とかしてくれるさ」

「そういえば、なんで魔女? なんかすごい魔術を使った、とかすごい由来があるのかい?」

 "第2食堂室の魔女"などという、大仰な二つ名で呼称されるぐらいだ。よほどとてつもないことをしたに違いない、と仁はそこに至るまでの逸話に密かに期待を寄せていた。なにせ、あのあきらを陰から支えているというのだから裏付けも十分だ。

 しかし、それを尋ねると菜原は途端に不機嫌になった。俯き、ちらりと仁の方を窺い、それからうら若き乙女のように赤面した。

「俺が勝手に名付けたんだよ。悪いか?」

「いや、かっこいいと思うよ。凄いなー、そんなの僕には思いつかないよ。魔女ってかっこいい響きだよね!」

 考えるよりも先に、賞賛が口から発せられていた。それが嫌味や謙遜に聞こえなかったかどうか、仁には少しも自信がない。

 仁と菜原は『080』と表示されたドアの前で足を止めた。菜原がドアを手の甲で叩く隣で、仁は静かに深呼吸をする。気づけばまた心臓が激しく踊り出し、舌がからからに渇くほど緊張をしていた。

 部屋の中から、はい、と軽やかな返事が届き、菜原はドアノブを捻る。ドアを押し開くと同時に、甘ったるい匂いが鼻腔をくすぐった。それは室内から漂ってくる。

「あ、白石さんに菜原さん。こんにちは。今日も暑いですね」

 迎えてくれたのは、純白のバンダナに淡い水玉模様のエプロンという装いのあきらだった。

 両手にはやけに可愛らしい桃色の鍋つかみを着けている。細い腕で額の汗を拭うあきらを見ていると、砂糖を溶かしたような甘い匂いと重なって、焼き菓子の香ばしい匂いが部屋に充満していることに気付いた。ここもまた、籠るような暑さに満ちているが、食欲を刺激する要素が漂っているだけ、埃臭い食堂や、生き物の臭いがどこからか流れてくる廊下よりかは大分ましのように思える。

 匂いの正体を探ろうと室内に視線を巡らせると、テーブルの上に置かれた皿に盛りつけられているクッキーの山を見つけることができた。香りの発信源はまさしくこれだろう。

 天井にはやはり電灯の類はなかったが、カーテンと窓が開け放ってあるため、室内は光に満ちていた。これで風でも吹いていれば少しは涼しくなるのだろうが、窓の外にある青々とした大木の葉は揺れる予兆すらみせない。部屋の中には大きめのシングルベットとクローゼット、テーブルにオーブントースターがぽつぽつと配置されていた。

「ちょっと行き詰っちゃって。気晴らしに、クッキー焼いてたんです。お菓子を作ってるときだけは、色んなことを忘れられます」

 悪戯っぽい笑みを浮かべ、あきらはクッキーを手にとって眺めている。硬貨のような形状をしており、綺麗に出来上がっていた。外面だけで評価するならば、店で売っているものと比べても遜色はないだろう。

「電気も水道もないのに、クッキーは焼けるんだね」

 仁は突然、不穏な空気から、突然日常的な風景に帰されたことに動揺を覚えながら、ぼんやりと呟く。目の前に積まれたクッキーが現実的なものだと考えることはできなかった。

「クーラーも蛍光灯もないですけど、オーブントースターは使えるんです」

 冗談のつもりなのか、それとも真面目な話なのか、あきらはさも当然のようにそんな無茶苦茶なことを言う。クッキーを焼くために必要な電力を、少しでもいいから冷房器具に回してくれればいいのに、と心から思った。

「水道は出ませんけど、お風呂には入れるのと一緒ですよ」

 さらに隣に立つ菜原が「なるほど。クラーケンホテルの七不思議の1つだな」と妙な納得をみせるものだから、仁もそうか、そういうものなんだなと認めるしかない。朱に交われば赤くなるとはこのことか、と実感する。あらゆる常識がこの世界では、覆される。

「あれ、白石さん。けがしちゃったんですか? 大丈夫ですか?」

 仁が足を引きずっていることに気付いたのだろう。あきらが眉を寄せて、こちらに駆け寄ってくる。それから仁の前で立ち止まると、甘ったるいクッキーの香りを振りまきながら腰を折り、身を屈めて仁の足をじっと見つめる。ズボンの裾を捲り、そこに巻かれた包帯を見ると悲しそうな顔をした。

「大丈夫だ。心配ない。俺が愛情をこめて手当てをしてやったからな。もう心配ないんだ」

 そんなあきらに菜原が声を振りかける。胸を逸らし、自信に満ちた口ぶりだ。本当ですか?と真偽を問い質したそうな眼差しで、こちらを見上げてくるあきらに向かって、仁は白い歯を見せた。

「うん。そういうことらしいから。全然平気だよ。ありがとう、あきらちゃん」

「そうですか。大丈夫なら、いいんですけど」

 気遣わしげにアーチ状の眉を寄せ、あきらは身を起こした。

「そういえば」

 あきら、と、けが、という2つのワードが頭の中で合致し、ある話題が仁の口を突いて出てきた。

「そういえば、葉花のけがの手当て。してくれたって、本当?」

 心の中では恐る恐る、外面上は世間話を装って、仁は尋ねる。あきらはすぐに、あぁと得心のいった反応を見せ、小さく笑った。

「はい。昨日、偶然買い物の途中で会って。せっかくだからゲームセンターでちょっと遊んでたら、指切っちゃったみたいなんで、ちょうど持ってた絆創膏貼ってあげましたけど……なにかありました?」

「あ、ううん。ありがとう。葉花も久々にあきらちゃんに会えて喜んでたよ。また遊んであげて。夏休み毎日、なんだか暇そうなんだ」

 はい、と朗らかに返事をするあきらを見つめながら、仁は、これはどういうことなのだろうと頭を悩ませていた。黄金の鳥に関係する力を得たものに触れると、葉花は石になって死んでしまうはずだ。なのにあきらに触られても、葉花は平然としている。

 ハクバスが嘘をついたとは思えない。実際、仁が触れることで葉花は石になってしまったのだから。あきらはさらに嘘をついていないだろう。葉花と口裏を合わせて、事実を隠ぺいする理由もない。

 一体、これはどういうことなのか。謎を解こうにも、どうにもとっかかりが脆弱すぎて、仁は袋小路に迷い込む。あきらが特別なのか、それとも仁が特別なのか。その答えは、戦いの中で見つけられるのだろうか。

 1歩、2歩と、こちらに体を向けたまま後ずさっていく彼女を前に、仁は勇気を奮い立たせる。報告をするならば自分のほうから、それもするなら早いほうが良いと思った。口を開くとしたなら、もうこれ以上のタイミングは再び現れないだろう。言うなら今だ。仁は息を吸い、肺を酸素で満たした。

「あきらちゃん」

「はい?」

「怪人を連れてこれなかった僕を、咎めたりはしないのかい?」

 思い切って発言すると、あきらは眉を今度は上げ、驚愕の二文字を顔全体で表現した。しかしそれも一瞬で、すぐに口元を微笑ませる。

「残念じゃない、といえば嘘になりますけど……白石さんが頑張ってくれたのを、ボクは知ってますから。大丈夫ですよ。それよりも、白石さんが生きて帰ってきてくれたことがボクは嬉しいです。ありがとうございます」

 剣呑な雰囲気を振りまかれる覚悟で望んだのに感謝をされ、逆に戸惑う。「え、いいの?」という何だか釈然としない気持ちが胸中でぐるぐると渦巻いている。

「いいのかい? これで」

 抜けきらない胸の濁りが気持ち悪くて、気づけば仁は先ほど思ったことそのままを口に出して、尋ねていた。

「いいんですよ、これで」

 にっこりと笑顔を咲かすあきら。その青空にふわふわ浮かぶ雲じみた、明朗な表情を前にして、ようやく仁の両肩に乗っかっていた罪悪感の重りが、剥がれ落ちていったような気がした。

「君のためじゃない。僕は僕の願いを叶えるために、これからも戦い続けるつもりだ。それでも、いいのかい?」

 心なしか軽くなった肩を右、左と交互に回しながら仁は確認を重ねる。それは先ほど、菜原から伝えられた大切な言葉。葉花を救うため、その命を守るため、幸せな生活を取り戻すため、仁は非日常に足を踏み入れた。これからも、その目的は変わらない。その永久不変を誓うために、いま、ここであきらと向かい合わなくてはならない。そうしなければ、先に進むことはできないだろうというのが仁の決心だった。

「いいですよ」

 仁の決意の重さに反し、あきらは軽やかに言って返した。砲丸を投げたら、新聞紙を丸めたバットでホームランを叩きこまれたような意外性を仁はまず感じた。思わず、あきらの顔を正面から見つめたまま「え」と声を零してしまう。「え、いいの?」と呆けながら呟く。

「はい。ボクも白石さんも菜原さんも、ここにいる人たちの行き着く先はみんな同じですから。1人の1人の願いが、みんなの夢を作るんです。ボクが手伝いますから、みんなで未来を切り開きましょう。そのために、こんなことをしてるんですから」

 小さなガッツポーズを取って、あきらが激励の言葉をあげる。数秒、沈黙の間が生じ、それから菜原が「よし、やってやろうか」と大声を出した。彼は一歩前に足を踏み出すと、あきらと仁のちょうど中間地点に立ち、拳を硬く握ると、手の甲を上にした状態で腕を前に突き伸ばした。

 円陣を組むのだろうかと予測すれば、まさにその通りの流れで、あきらは広げた手を菜原の手の上に重ね合わせた。

 状況はよく分からず、濁流のように予測不可能な方向に流れていく展開の、その速度に追いついていけてはなかったが。仁はふっと唇の隙間から吐息を漏らすと、あきらの手の上に、広げた自分の手を載せた。

 もう肩が強張ってしまうほど、緊張をする必要などどこにもないのではないか。頭だけでなく、全身で、もう少し大袈裟にいってしまえば魂で今更ながらにその事実を理解することができた。

「俺もそんな感じで。これからも、よろしくお願いしますよ、ボス。そして、仁」

 汗で滑るのか、メガネのフレームを指で押し上げながら菜原も同調する。あきらは嚇怒するわけでも当惑するわけでもなく、ただ満足そうに自己主張の激しい仲間たちを眺めていた。それだけでも拍子抜けなのに、「はい、好きにしてください!」と宣言するものだから仁としては何がなにやら分からなくなる。しかし、このやり取りを通じて肩の荷が下りたのは事実だった。

 命を操る魔鳥、黄金の鳥。その鳥を取り戻すために集った3人の意思は、ここでようやく初めて1つになることができた。仁には、そんな気がした。

 それぞれが三角形の頂点を担うような形で、仁と、あきらと、菜原はそれぞれ向かい合い、手と手を重ねあいながらしばらく立ち尽くす。

 しばしの無言が3人の間に流れ、その隙間を焼けたクッキーの甘ったるい匂いが縫っていく。

「じゃあ、黄金の鳥が目を覚ます、その時まで……みんなで頑張りましょう!」

 あきらが言い放ち、仁と菜原はその強い語調に引きずられるようにして思い思いに掛け声をあげる。

 なんだか学生時代の部活のようだ、と仁は不思議な感慨を覚えるが、嫌な気持ちはしない。


4話完

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