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3話「その身に帰らぬ体温」

3話。だんだん長くなりますね! もはや1話で長編小説1つ分ある……皆さんも読み辛いと思うので、何とか対策立てたいと思っています。

鳥の話 6

 錆で軋む両開きのドアを、精一杯の力で押し開いた。仁は深く息を吸い込み、室内に足を踏み入れる。雨で濡れた衣服の端から、滴が床に落ちた。

『ホテル クラーケン』の食堂はホテルの外観と同じく、寂れきった姿を晒していた。壁紙はところどころ剥がれており,あちこち基礎がむき出しになっている箇所も見える。天井を仰げば蜘蛛の巣が張りめぐらされ、床に視線を落とせば一面に敷かれた赤いカーペットに灰色の埃で道ができていた。

 まだホテルが経営されていた頃は、この部屋もテーブルと椅子がたくさん並べられ、大勢の客を前に色とりどりのバイキング料理や高級なコースメニューが振舞われていたのだろう。壁に沿うようにして設置された調理場や、このまま室内運動場として用いることも可能そうな広大なスペースからもその豪奢な装いの一端が感じとれる。

 ところが現在。室内には壊れたテーブルや椅子があちこちに散乱しており、ホテル独特の高貴な要素はまるでない。一見すると廃墟のようなありさまだった。その寂寥感漂う雰囲気は、砂漠の中の枯れたオアシスを思わせる。実際、このホテルは時代の流れに取り残されて潰れ、撤去もされないままに長年放置されているのだから、その比喩はあながち的外れではないのかもしれない。

 もちろん電気も通っていないので壁にかかった無数のランプや、横倒しになったテーブルの上に置かれている電池式のライトが、室内の薄闇を剥がし取る光源となっている。

 夕立の豪雨がステンドグラス模様の窓を叩いている。それに耳を塞げば、他に聞こえるものといえばランプが空気を焦がす音くらいのものだった。時折、窓の外で強烈な光と共に雷音が轟き、その度に仁は跳び上がりそうになった。

 仁は背負っていた怪人を、少々乱暴に床へ投げ捨てた。肩に走る痛みがあまりにも激しくて、運搬をするのが容易でなくなったためだ。トンネルの中での戦いの末、どうにか奪取してきたものだった。そこからこのホテルまで背中に負い、はるばると運んで来たので、その重みに仁の細腕は痺れ切っていた。

 怪人の体は雨でぐしょぐしょに濡れていた。拾い上げようと腕を伸ばすと、右肩にまたも激痛が走る。顔を引き攣らせながらも、仁は深く息を吸い込むことでその痛みに耐える。頭を1度強く振って、髪に付着した雨の雫を吹き飛ばした。

 怪人はまだ気絶をしているのか、それともすでにあの一撃で死んでしまったのか、粗末な扱いを受けても指1つ動かさない。うつぶせの姿勢のまま転がる怪人は、青という体色も手伝って海辺の岩肌に生える奇怪な植物のようにしか見えなかった。

 拾い上げるのも諦め、雨に降られたせいなのか熱っぽい心地でその怪人を眺めていると、前の方から足音が聞こえてきた。顔をあげると、仁と同年齢くらいの男がこちらに歩み寄ってくるところだった。

「久しぶりじゃないか、仁。雨に降られるなんて、散々だったな」

 彼は男にしては、高い声をもっていた。赤いふちの眼鏡に、整髪剤でウルフに整えられた髪型。夏なのに白い長袖のプリントTシャツを着ている。首からはシルバーネックレスをかけていた。耳には同じくシルバーのピアスがみえる。

「うん。久しぶりだね、菜原君」

 菜原秋人。それがこの男の名前だった。仁とはこの小さな組織の中で、同僚という立場関係にある人物だ。薄く笑って仁が応じると、菜原は大袈裟に眉を上げた。

「嬉しいな。名前を覚えていてくれるなんて……怪人、倒したのか」

 彼は倒れ伏している怪人の姿を認めると、特にこれといった感情の揺らぎもなく言う。さらに今度は仁の方を一瞥し、「で、力の方には慣れたのか?」と尋ねてきた。仁は無意識に腹のあたりを軽く撫でるようにしながら、小さく顎を引いた。

「うん。だんだん使いこなせるようにはなってきてる。僕なりに頑張ってるつもりではいるんだけどね」

「だろうな。怪人を連れてこられたのが、何よりの証拠。お前は頑張ってるよ。十分に。あとで精一杯褒めてやりたい。そして抱きしめてやりたい」

「でも、久しぶりだよね。怪人を察知できたの。前に出たの、1週間くらい前じゃない?」

 V.トールの力を使ったのは実に久々のことだった。

 怪人が出没すると、このホテルに備え付けられた、曰く"探知機"が作動し怪人の正確な位置が捕捉される。そしてそこから計測されたデータをもとにして、あの鳥の仮面をかぶった男を介し、仁に戦いの指令が発せられることになる。

 この組織ではそのような形でラインが組まれているのであるが、聞いたところによると怪人探知機は実に不安定な代物らしく、たとえ怪人が出現してもそれを感知したり、しなかったりするらしかった。もっとぞんざいな言い方をしてしまえば、あまりアテにならない機械ということだ。

 この組織の中での仁の役割は、その与えられた力を行使して怪人と拳を交わらせ、気絶させるかもしくは殺すかして動きを止め、原形を保ったままその怪人を回収することだった。なのに、怪人を探知する機械が故障しているのではどうにもならない。これでは依頼の舞いこまない探偵事務所、オーダーの入らないレストランと同じようなものだ。ラインを動かすエンジンがストップしてしまっているのでは、何もこちらに流れてこないではないか。

 だから今日、怪人が探知され、鳥仮面の男が仁の前に現れたのは本当に珍しいことだった。掛け値なしに得たその驚きを仁が口にすると、菜原は得意気な笑みを浮かべた。

「あの装置な。ボスが夏休みだろ? だから毎日頑張ってくれてて、何とか今までよりかは正確さが増しそうなんだ。だから俺とお前の出番も、多分増えていくかも」

「へえ。それはいい傾向だね。そうなれば回収率も良くなって、さらに目標達成に近づくかも」

「その通り。これでマスカレイダーの奴らの後手を踏まずに済む。俺たちの戦いはこれからだ。そうだろ?」

 仁は深く頷いた。はっきりと口に出され、檄を飛ばされると胸の奥がカッと熱を帯びていくかのようだった。ふんどしを締め直さなければ、という気持ちになる。自分たちは未だスタートラインにすら立っていない。菜原の言う通り、ここから先が始まりなのだ。

「それで、そのボスは今日、ここにいるのかい? せっかく怪人持って来たんだけど……」

「ボクなら、ここにいますよ」

 聞き慣れた声が耳朶を打つ。それから数秒の間をかけて、暗闇の中から溶け出てくるようにして、青い髪の少女が姿を現した。

 ピンク色のネグリジェ姿だ。いつもはポニーテールに束ねられている髪型も、今は下ろされている。肩にかかった髪が、彼女が歩を進める度に薄闇の中で揺れ動く。その様子は実に艶めかしく、ランプのおぼろげな光に照らされた髪の毛はまるで生きた宝石のようだ。

「ボス、ご苦労さまです」

 現れた華永あきらを前にし、菜原はその場で跪いた。深く頭を垂らす菜原を見るなり、あきらは取り乱し「あ、いいんですよ。頭をあげてください。ボクにそんなの勿体ないですよ!」と立ちあがるように促す。それから仁の方に体の向きを転じ、柔らかく微笑んだ。

「おかえりなさい、白石さん」

「ただいま」

 ここは無論、仁が住んでいる家でも何でもなく。さらにこの世で現実と最も乖離した空間といっても、差支えないような場所だ。だから日常の証であるその挨拶をこの場で口にするのは一瞬、憚れたが、仁はその気持ちを悟られないように慌てて笑顔を作った。

「ただいま、あきらちゃん」

「持ってきてくれたんですね、怪人」

 あきらは横たわる怪人を見ると、さらに表情を明るくした。屈みこみ、興味津津に怪人の体を撫でまわしたり、叩いてみたりしている。それから「活きがいいですね」と、冗談ともつかぬことを口にした。「まだ生きてるみたいですね」

「そりゃ、倒したてだからね。築地市場もびっくりの新鮮っぷりだよ。急に動くかもしれないから、気を付けてね」

 倒したて、という言葉もないだろうなと自分で思いながらも仁は彼女に調子を合わせる。あきらは最後に怪人の眼球を指で突いてから立ちあがると、仁を見上げるその瞳を純粋な輝きで満たした。

「ありがとうございます、白石さん。ボク、白石さんに出会えて本当に良かったです。本当に、本当ですよ」

「喜んで、もらえたかな?」

「はいっ。すっごく嬉しいです! ありがとうございます!」

 あきらは小走りで近づいてくると、仁の手をとり、両手で握り締めてきた。人形を買ってもらった幼児のような無邪気さを湛え、満面の笑顔で見上げてくるあきらを見ていると、仁はちくりと心が痛むのを感じた。

 罪悪感が胸を抉る。残念ながら、君を喜ばせているのは僕が喜びたいだけなんだ、とは口が裂けても言えずに仁は無言で表情に頬笑みを宿す。

 すぐ目の前に立たれたことで、仁はあきらの体からうっすらと湯気が立ち昇っていることに気が付いた。さらにシャンプーの甘い匂いが鼻腔をくすぐってくる。そこでようやく、仁は彼女の服装に違和感を覚えた。

 こんな古びた、電気も通っていないような建物の中であきらは寝間着を着ている。彼女があまりにもそれが当り前のようにしているのでまったく気にもかけなかったが、冷静に考えてみるとすごく奇妙だった。ここは寝る場所でも、住む場所でもないのではないか、と烏の羽音さえ響き渡る室内を見渡しながら思う。

「そういえばさ。その格好。もう寝るところだったの?」

 腕時計を見ると、午後5時半を過ぎたところだった。高校生が寝床に就くのにはいささか早すぎる時間に思える。さらに1つ疑問を覚えると、まるで掘り起こしたじゃがいものように、謎が次々と連なって出てきた。そして一度質問をしてしまったのだから、二度するも三度するも大して変わらない気がしたのも確かだった。「それとさ。ここ、お風呂あったっけ?」

「電気もガスも水道もないけど、お風呂はあるんですよ」 最後の質問にまず答えると、あきらはちろりと舌を出した。「このホテルの七不思議の1つです」

「七つで収まればいいけどね」

 仁は部屋を軽く見渡しながら、眉尻を下げる。何年もの間、このホテルが誰の手にも渡らずに放置されていること自体が、一番の謎といえるのではないだろうか。

「白石さんもどうですか? お風呂。そのままだと風邪引いちゃいますよ?」

 まだ雨滴がしたたり落ちている仁の頭を気にかけたのか、あきらがそう提案してきた。仁は考える間もなく、その思いやりをやんわりと断った。こんな得体の知れない建物の中で裸になることは、サバンナのど真ん中で身ぐるみを剥がされるよりも危険なことのような気がしたからだった。

「あきらちゃんは今日、ここで寝るのかい?」

 代わりに尋ねると、あきらは口に手をあてがい、あくびをかみ殺す真似事をした。

「はい。とにかく忙しくて疲れちゃって……最近、あんまり家に帰ってないんです。帰りながら寝ちゃいそうで」

「そりゃ大変だ。お母さんとかには、ちゃんと言ってあるのかい?」

「なんとか、承諾してもらえてます。夏休みですから、多少無茶は利くみたいで」

「そうか、そうだよね。夏休みだもんね」

 夏休みという言葉に免罪符を込めているのではないか、と思わせる彼女の物言いに仁は心の中で苦笑する。それから一応、社交辞令として手伝いを申し出るべきではないか、と不意に思い立った。今さら過ぎるとも感じたが、申し出ないよりは良いはずだ。

「大変そうなら、手伝うけど。僕に何か手伝えることはあるのかな?」

「白石さんは十分、頑張ってくれてますよ。今日だって怪人持って来てくれたじゃないですか。ありがとうございます」

「あの持ってきた怪人。これから、分析するんでしょ? 何か分かるといいんだけどね」

 仁は怪人を一瞥し、眉を寄せた。この怪人を様々な角度から切り出すことで徹底的に調べ上げ、怪人の出所を探るのがあきらの仕事の1つだ。そのためだけに仁は、怪人狩りにせっせと出向いていると言っても良かった。すべては、そこから得られる結果のために。

「分かりますよ、きっと。だって白石さんが持ってきてくれたんですから。無駄なわけ、ないですよ」

「それは買い被りだよ。まぁ、何か成果が出ることを祈ってるよ」

「はい、どうも、ありがとうございます」

 この短時間に、もう何回彼女から礼をもらっただろう。けして悪い子ではないな、と分かっていながらも、それでも仁はあきらに完全に心を許すことができずにいる。それはやはり、彼女の全身から漲る不穏な空気が影響しているのかもしれない。それとも自分の方が、あきらを拒絶しているだけなのだろうか。どちらにしても、彼女との間に見えない壁が存在しているのは確かだった。しかし今のところ、その障壁を破壊する理由を仁は持っていない。

 仁とあきらの会話が途切れる瞬間を見計らったのか、菜原が唐突に声を上げた。それは怪訝の含まれた語調だった。

「なぁ、仁。お前……けがしているんじゃないのか?」

 仁はぎくりと体を震わせ、肩を抑えた。あきらは顔を上げると、目を丸くさせた。

「え、本当ですか。白石さん、どこか痛いんですか?」

 眉を下げて心配顔になるあきらと、目を細めて睨むようにしてくる菜原の視線に耐えられず、仁は小さく頷いた。

「ちょっと肩をね。やられちゃったよ。油断した僕が悪いんだ。大丈夫、寝れば治るよ」

 きっと、と小さな声で補足する。打撲が一晩寝て完治するなら、医者はいらない。

「……マスカレイダーに、やられたのか?」

 菜原の表情が急に強張った。瞳が憎悪で爛々と輝き、唇がひくひくと痙攣を始める。このまま黙っていれば胸倉を掴みかかられてしまいそうな迫力があった。これまでのどこか一歩引いた態度を一変させ、仁を問い詰めるように顔を近づけてくる。その眼光の鋭さに、仁は思わず身を引いた。

「どうなんだよ、仁!」

「……菜原さん」

 その行動を見かねてか、あきらは菜原の肩をそっと叩いた。そして無言で首を振る。菜原はあきらの方を振り返ると、深くため息をつき、頭を下げた。

「今は手当のほうが先です。ボク、包帯取ってきますから。白石さんと菜原さんはそこにいてください」

 あきらは冷静に2人に伝えると、髪を右に左に上下に揺らしながら走り出す。その献身さを前にすると、遠慮することが無遠慮であるような気がして、仁はその背中に向けて礼を言った。

「すぐ戻ってきますから。喧嘩、しないでくださいね!」

 最後に細々と言い残して、あきらは闇の中に消えていく。仁は彼女がいなくなっても、ぼんやりと光の届かない場所をしばらく眺めていた。

「さっきは、ごめんな。ちょっと、取り乱した」

 自分の頭をくしゃくしゃと掻きながら、菜原は恥ずかしそうに謝罪する。心中では正直まだ、穏やかでない波風が吹き続けていたが、仁は「いいよ」と微笑んでそれを許した。「大丈夫だよ、ちょっとびっくりしただけだから」

「仁。だけど、またマスカレイダーが出たら、俺に言えよ。絶対に教えろよ。死んでも伝えろ。お前が死んだら俺は泣くけど。それでも俺は奴らを潰す」

 菜原は先ほどのように憎悪を剥き出しにすることこそなかったが、何度も念を押した。仁は無理やり押しつけられる形で釣られるように「うん、分かったよ。死んでも教えるよ」と頷いていた。

「奴らは俺が倒さなきゃいけないんだ。仁、済まないんだけど。それをお前にも分かってほしい。俺はお前は大好きだ。だからこそ、どうしても伝えたいんだ。頼む」

 最後に謙遜の言葉と愛の告白を付け加えたものの、それは仁に対する抑圧に他ならなかった。

 しかし別段、彼の懇願は反感を覚えるような内容でも、不平や不満を吐きだすような提案でもなかったので仁は素直に頷いた。もともと、仁はマスカレイダーズに対してそれほど、憎悪や執着を持ち合わせてはいない。むしろ、なるべくなら彼らとの戦いは避けて通りたいと考えていたくらいだった。

 外ではひっきりなしに雨が降り続けている。仁は手近にあったパイプ椅子を引きよせ、心労の籠ったため息をつきながら腰を下ろした。

「うん。分かったよ、菜原君。あれは、君の獲物だ」




2010年 8月5日


鎧の話 4

「ねぇ。直也君」

「なに? 咲さん。その巻の続きながら、今俺が読んでるけど」

「もしもの、本当にもしもの話なんだけどね」

「なに。勿体つけないでよ」

「もし、私と直也君との間に子どもができたとするじゃない」

「……なんだよそれ」

「赤ちゃんよ、赤ちゃん。直也君の子どもを、私が産むの」

「だから、その前提がわけわかんないだって……なに、なんの話?」

「いいからいいから。それでね、例えば。例えばよ? その子が女の子だったら、直也君ならどんな名前つける?」


 直也は、まどろみの中から覚醒を果たした。

 真っ先に目に飛び込んできたのは空からの直射日光だった。眩しさに再び瞼を閉じ、それからそろそろと目を開いていく。光に慣れてきたところで、それまでの仰向けに寝そべっていた体勢から横向きに寝返りをうった。

 なぜ今になって、そんなことを思い出したのだろう。

 直也は先ほど夢の入口で聞こえてきたやり取りに、戸惑いを隠せずにいた。

 いつ、どの場所で、なにをしている時にそんな会話を交わしたのかまったく覚えていなかった。ただ、そんな内容の話を咲としたことだけは克明に記憶している。そして同時にこの話を聞いた直後、恥ずかしいほどに取り乱し、混乱して、結局咲にからかわれただけであることに後々気付かされて、彼女に大笑いされた、あまりにも恥ずかしい自分自身の姿も蘇ってきた。

「ああ……あぁ……」

 心の中で身悶えながら直也は、しかし恋人に前触れもなくこんな話題を振られて、動揺しない男がいるものか、と自分自身を必死に擁護することで平静を保つことに成功する。もうこんな慙死の思いにかられるような出来事は忘れようと、直也はこめかみの辺りを拳で軽く叩いた。「よし、もう忘れたぞ!」とわざと、周りに聞こえない程度に大きな声を出す。

 昨日よりも早い時間、しかし同じ場所で直也は公園のベンチに横になっていた。昨夜の雨で湿っているかと思いきや、それほどではない。軽くハンカチで表面の湿っぽさを拭きとると、寝転がることもできた。

 腕時計を見ればまだ午前11時で、少し早く動きすぎたかと今更ながらに後悔する。しかしこれも仕事だと自分に言い聞かせながら、必死にあくびをかみ殺した。公園内には、ゲートボールに熱中する老人たちの姿の他に人の影は見当たらない。今日もまた暑い。直也はベンチの半分を覆う日陰に身を寄せるようにする。

 柳川からの連絡を待ち、あきらからの返信に期待し、どこから手をつけようか悩んでいるうちに、気づけば直也はこの公園に足を向けていた。この場所に漂う独特な匂いや雰囲気、そよぐ風の温度が心地よかったせいかもしれない。昨日よりも風は大人しいものの、時折運ばれてくる涼やかな空気が、体に溜まった疲労を洗い流してくれるかのようだ。

 その最中に寝そべっていると、再び睡魔が襲いかかってきた。自然に瞼が下りてくる。いっそもうひと眠りしてしまおうかと目を閉じかけたその直後。直也の耳に、鼓膜を劈くような大声が届いた。

「おっさぁああん!」

 直也は自分でも情けないと思えるような悲鳴をあげて、慌てて飛び起きた。ひたすらに暴れる心臓の音を耳の奥で聞きながら、胸に手をやる。それから顔を上げて前を見ると、両手を後ろ手に組んだ黒城ライが立っていた。昨日と同様、金髪を両端で結んである。山吹色のワンピースにジーンズという格好だ。

 顔の近くでけたたましい大声を発せられたため、耳がきんと痛む。直也は業を煮やし、ベンチを立つとライに怒鳴り声をあげた。

「うるせぇよ! こないだからお前は俺の鼓膜を破る気か……もうちょい静かに出て来いよ! それに俺はまだおっさんじゃねぇ、って何度言わせりゃ気が済むんだよ!」

「そんなことどうでもいいからおっさん、犯人探してくれよ。昨日約束したじゃないか!」

「いい加減、話を聞けよ! うるせぇし、そんな約束した覚えもねぇ!」

 昨日と全く同じやりとりを繰り返し、直也は疲労に両肩を押される形でベンチに座り込んだ。ライもその隣に腰を下ろす。その目に昨日の夕方あったような憎悪の炎は見られなかったものの、彼女は相変わらずやかましかった。

 暑さと煩さのダブルパンチに、直也は肩で大きく息をつく。胸の奥から絞り出すような大声を発したため、脳内の空気濃度が一気に薄れ、頭が少し朦朧としていた。

「じゃあ話を聞くから、探してくれよ」 

 言いながら、ライはポケットから細長い茶封筒を取り出した。持ち上げた時に金属の擦れ合う音が聞こえたので、どうやら小銭が入っているらしい。音の大きさからしても、相当な数であることは間違いない。彼女はその封筒を直也に押しつけると、顔の前で手を合わせた。

「お金だって、ちゃんとあるんだ。お年玉下ろしてきたんだ。だから、頼むよ。な?」

 懇願しながら、時折ちらりとこちらのほうを窺ってくる。直也は頭を軽く振ると、深くため息をついた。 

「……ああ。とりあえず話だけでも聞いてやるよ。で、なんだっけ。何を殺した奴を探すんだって?」

 話に耳を傾けなければ、ライはこの場から立ち去ってくれそうにもない。咲やあきらのことで調査をしなければならないこんな時に、これ以上彼女にうろちょろ付き纏われたら、真実にも遠ざかってしまうかもしれない。ここはライの話を聞いた上で説得し、自分から離れてもらうのが得策だと直也は考えた。

 そんな直也の思惑など知らず、依頼を承諾してくれたと勘違いしたのか、ライは途端に目を輝かせ、それから表情を歪ませた。

「ディッキーだよ! ディッキーをナイフでズタズタにしやがった奴がいるんだ! そいつを探して欲しいんだよ」

「なんだよ、ディッキーって。千葉にいるネズミとは違うのかよ?」

「違うネズミだ! ミミゴンじゃないんだ! たくわんが好きで敬語なんだ! 父さんのパンツ履いてる、私の甥なんだよ! 殺されたんだよ……探してくれよ!」

「……え、なんだって?」

 ネズミで甥? ミミゴン? 敬語を使う? ライの話していることの意味がまったく分からず、直也は頭の上に疑問符を浮かべるしかない。

「ちょっと待て、話を整理するから。ちょっと待てよ……」

 ライの表情をじっと窺い、頭の中で今の話を整理する。

 とりあえずネズミがナイフでズタズタに刺された、と憤っているのだからペット殺しを探してくれと依頼しているのではなかろうか、という結論にまず行き着く。この時代、日頃の鬱憤をか弱い小動物で晴らそうとする人間は、悲しいことに少なくはない。甥、と表現はそのペットを家族のように可愛がっていたということを示しているのではないだろうか。話を自分の中で勝手にまとめあげ、直也はいま一度ライに目をやって、深くため息をついた。

「ディッキーは頑張って生きてたんだ。それなのに……誰かが殺しやがったんだよ」

 拳を握り、義憤を露わにするライを前にして直也は良心の呵責と精一杯戦っていた。ゆっくり目を閉じ、数秒してから開く。そして最後まで躊躇いつつも、心に決めたことを口にする。

「……確かにペットを殺された、ってのには同情するし、俺もそんな小動物を嬲って殺すようなクズに対する怒りはあるけどさ。悪いけど、俺は今忙しいんだよ。どうしても、やらなきゃやらないことがあるんだ。だから、こっちの用事が全部解決したら調査してやるから。だからちょっと待ってろよ、な? 必ず見つけ出してやるからさ」

 直也が小銭ばかりの入った封筒を突き返すと、ライは信じられないという風に目を丸くさせた。

 今はとりあえず、自分の身の回りのことで精一杯だ。しかし体の中で滾る正義感にも逆らうこともできず、その結果、直也は妥協案を提示した。なかなかいい方法だと自負の気持ちもあったのだが、ライの方は気に食わなかったようで、もともと吊り目気味の目をさらに吊りあげた。

「嘘つくなよ」

「……は?」

 突然ライの口から放たれた罵声に、直也は言葉を失った。ライは瞳に怒りを滲ませて言い募る。

「忙しいなんて、嘘つくなよ!」

「何言ってんだよ、お前は」

「1年の半分はニートみたいな生活送ってるって、父さんが言ってたぞ!」

「……おい待て。それは誰のせいだと思ってんだよ、誰の!」

 なかなか仕事にありつけないのは、所長である黒城が仕事をなかなかこちらに回そうとしてくれないせいだ。真剣に仕事を引き受けてくれていてこの結果なら、まだ諦めの余地もあるものの、直也は黒城が真面目に仕事をしている場面を見た試しがなかった。仕事場のデスクでふんぞり返り、漫画を読みふけっているか、あるいは理解不能な妄想話をとうとうと喋り続けているかのどちらかだ。

 そんな所長に直也は常々、怒りを覚えていた。だからそんな男に軽んじられているのかと思うと、頭にカッと血が昇った。

「俺に仕事が回ってこないのは。お前の親父がサボってるせいだろうが!」

「ハーフニート! 仕事人とニートから生まれたハーフニート!」

 ライがさらに揶揄してくる。直也は我慢ならず、勢いよくベンチを立った。

「変な言葉作ってるんじゃねぇ! もうお前、帰れよ! 俺は宿題も放りだしてうろちょろしてるようなお子様と遊んでるほど、暇じゃないんだよ!」

「忙しい奴が、なんで公園で寝てるんだよ! もういいよ。お前もレイと一緒だ、ただのケチンボなんだろ!」

「それは色々都合があんだよ。大人の事情って奴が」

「そんなの知るか! 大人のくせに、このバカー!」

 顔を真っ赤にして一方的に言い募ると、ライは踵を返し、走り去って行ってしまう。水たまりを踏むと、水飛沫が辺りに迸った。手を伸ばしてその体を止めようとするが、いかんせん遅すぎた。一心不乱に駆けていくその後姿を眺めながら、直也はうなだれる。すでに熱気は幾分か冷め、心も落ち着きを取り戻し始めていた。

 直也を罵るライの瞳は、確かに潤んでいた。その悲愴に歪んだ表情が、頭の中に焼き付いて離れない。胸がちくりと痛む。その戸惑いをかき消すために、直也は掌に爪を立てて拳を握り締めた。

 今抱えている全てのことが解決したのなら、必ずライの依頼を受けてやろう。直也は心に強く誓いをたてた。どんな依頼だろうとえり好みをしない、というのが直也の中で確立されている仕事のスタイルだった。

「だけど、馬鹿はないだろ、馬鹿は……」

 直也の発した言葉は夏の空気の中に、虚しく溶けていってしまう。ゲートボールの試合が終わったらしく、勝利に沸き、一方で敗北を悔む老人たちの声が公園内を一層賑やかにさせた。




魔物の話 6

 数日前に天村氏と会話をした、あの病院の地下にある休憩スペースに、レイは佑と2人きりでいた。

 ここは佑と初めて出会った場所でもある。天村氏から真実を告げられ、黒城から愛の言葉を改めてこのテーブルで、佑と向き合う時が来ようとは、当時思いもよらなかった。

 悠の病室に向かう途中で出くわし、話があるということでそのまま連れてこられたのだ。

 今日もまた休憩室に他の人の姿はない。1度目や2度目ならただの偶然で済ませてもいいが、さすがに3度目だとこのスペースを利用する人が本当にいるのだろうか、と疑いたくもなる。

 エアコンと自動販売機の駆動音だけが、室内にとうとうと染みわたっている。無人の部屋をただ淡々と冷却するエアコンの風は、これこそ地球温暖化の権化だといわんばかりだった。

「それで、今日はどうしたんですか?」

 先ほど買ったコーラを口に含んでから、レイは訊ねた。佑はレイの正面に腰を下ろすと、オレンジ味の炭酸飲料のプルタブを開いた。ぷしゅ、と空気の抜ける音が耳に届く。

「実はさ」

 佑は話し始める前から、にやにやと相好を崩していた。胸の中を満たす幸福がそのまま滲みでてきたような表情だった。

「さっき医者から話聞いたんだけど、悠、一時退院できることになったんだ」

「え、本当ですか?」

 心の底から驚く。嘘じゃないですか、と言いかける。何年も闘病生活を続けていたのにそんなことあるはずないですよ、と。すると佑はさらに表情を蕩けさせて「そうなんだよ、それがマジなんだよ」と、どこか陶然とした様子で言った。

「本当に、本当なんですか……!」

 悠の体調の変化はここ最近、確かに著しいものだった。渋柿が熟成された色をつけるような勢いで、顔色は良くなっていったし、これまでの5割増しくらい食事も摂るようになった。例の事件を境にしたあまりに劇的な変化に、レイは二条裕美、橘看護師、白衣の男たちによる一団を疑うが別に悠の命を脅かしているわけではなく、むしろその逆のことが起きているのだから、彼らを糾弾するのは筋違いのような気がした。

 それに彼らは何もしていなくて、ショック療法が効き目を現した、という線もないことはない。とにかく今は悠の退院を喜ぼう。様々な憶測を巡らせた上で、レイはそう結論付けた。

「マジの上に、マジなんだよ」

 テーブルに身を乗り出し、佑がさらに言葉を重ねる。その瞬間、遅れてレイの心一面に眩いほどの光の園が広がった。

「本当、なんですか……」

 浮足立ち、頭がぼうっとして、レイは気付くと笑顔を浮かべていた。決壊したダムのように、幸福に満ちた奔流はレイの体中を息つく間もなく浸していく。突然のグッドニュースに落ち着かず、椅子から立ったり立たなかったり、周囲をきょろきょろ意味もなく窺ったりして、挙動不審になってしまう。

「良かった……悠が良くなって。本当に良かった。これで学校にも戻れますよ、また一緒に帰れるし、どっか遊びにだって……!」

「まだ、悠にはこのこと伝えてないんだよ。喜ぶだろうなぁ、あいつ。どんな顔するかな?」

「きっと、これまでの中で一番可愛い笑顔を見せてくれると思いますよ」

「見てみたいなぁ。やばいなぁ、さっきからにやにやが止まらない」

 悠の愛らしい姿を思い浮かべ、レイと佑は2人してにやにや笑う。悠に対する愛の深さで意気投合したからこそ、彼女のことを佑と話している時がレイは一番楽しかった。

「お祝いしましょうよ」

 レイが提案すると、佑は瞠目し、その後唇を緩めた。

「やっぱりレイちゃんとは気が合うなぁ。そう、俺もそう思ってたところなんだ。悠をびっくりさせてやりたいんだよ」

「じゃあとりあえず、プレゼント買いに行きませんか? 私はこれからでも大丈夫ですけど……お兄さんはどうですか?」

 佑はあぁ、と嘆くような声を発した。眉尻を下げ、申し訳なさそうな顔をする。

「実はこれから、バンドの練習があるんだよ。悪い。明日なら、なんとか都合つけるよ」

「そういえば、ギターかなんかやってるんでしたよね。前に悠から聞きました」

 佑がギターを演奏している場面に出くわしたことはないし、そもそもギターケースを担いでいるところすら見たことがなかった。レイはほとんど、佑に彼自身のことを尋ねない。全て悠を通じて得た情報ばかりだ。おそらく、佑もそうなのだろう。レイ自身が話してもいないようなことを、佑はいつの間にか知っているというケースがこれまでも度々あった。

「そうなんだよ。2週間後にでっかいイベントがあってさ、それに向けてラストスパートってとこなんだ」

 そう説明し、佑は「そういえば、それに悠も呼べるんだなぁ」と嬉しそうに付け加え、「そうだ。是非、レイちゃんも来てくれよ」と勧誘した。

「私が行っても大丈夫なんですか?」

「大丈夫大丈夫。入退場自由で無料だから。今度、パンフレット持ってくるよ」

「ありがとうございます。じゃあ、暇だったら行ってあげますよ」

「本当に、前触れもなく偉そうになるな……!」

「遠慮知らずで、礼儀知らずで、恥知らずな父親の影響です」

「ならしょうがないな」

「しょうがないわけないじゃないですか。そういうこと言うと怒りますよ」

「ならしょうがなくないな」

「諦めないでくださいよ。そういう雰囲気振りまいてると怒りますよ」

「じゃあ俺はどうすりゃいいんだ!」

 結局、悠へのプレゼントは明日一緒に買いにいくことになった。約束すると席を立ち、2人並んでロビーに繋がる階段を昇っていく。幅が狭いので、気付けばレイは佑の一歩後ろをついていく形になった。佑は段を着々と上がりながら、こちらを肩越しに振り返る。

「あ、そういえば、今日言ったことは悠には内緒な。夕方あたりに、医者が伝えるらしいから。そうしたら精一杯祝ってやろうよ」

「サプライズですもんね」 レイは前髪を留めているピンを指先でいじくりながら、微笑んだ。「いいですね、存分に祝ってやりましょうよ。きっと悠も喜んでくれますよ」

 そこまで言って、レイは佑の背中を見ながら不意に思い出した。数年前に悠を襲った誘拐未遂事件のことだ。かつては全てが謎に包まれた事件であったが、今では犯人は二条裕美であることが判明しており、その目的は天村氏に対する個人的な恨みであることまで暴かれている。

 その事件の中で、佑は悠を守るため自分の身を挺して二条に立ち向かったのだという。これもまた悠から伝聞されたエピソードではあった。そしてこの事件の真相を本人に確かめたいという熱が、どういうわけか急に沸きだしてしまった。

 衝動を抑えきれず、レイは階段を昇りきる前に佑を呼び止めていた。

「あの、お兄さん」

「なに?」

 足を止め、首を傾げながら佑が振り返る。彼の顔は未だ、緩みに緩みきったままだったが、レイが事件のことを、身ぶり手ぶりを交えて話すと急に神妙な顔つきになった。その変わりようがあまりにも激しいものだったので、やはりまずかったのかとレイは少し不安になった。

「それ、悠から聞いたの?」

「あ、はい。悠、すごくかっこよかったって言ってましたよ。おかげで助かったって、本当に心から嬉しそうに言ってました」

「そう……」

 先ほどまでとは一変した暗い表情を、佑はみせる。その様子を目にしたレイの頭に過ったのは、悠が発した懸念の言葉だった。

 佑は何だかその事件の後、様子が変だった。悠を守るとずっと呟いていた。そして緊迫した、暗い表情をしていた――。

「悠がそう言ってくれたんなら、嬉しいけど。でも俺はかっこよくなんかないよ」

 佑は自嘲気味にそう呟く。つい数分前まで予想だにしていなかった沈黙が休憩室の階段に落ちる。

 そのあまりにも気まずい静寂を破りたくて、レイは「いや、十分かっこいいですよ。素敵ですよ」と取り繕うように口にするが、それは気休めにもならなかった。

「いや。俺はただの、人殺しだよ」

 前に向き直り、再び歩を進める間際になって佑は囁くような声で言った。その発言が冗談とも本気とも判断がつかず、レイはしばらく階段の途中で立ち止まり、不穏な予感に押しつぶされそうになる。

 それ以上、佑に何かを問いかける勇気はレイになかった。




鎧の話 5

 直也が自宅のアパートに帰宅した頃には午後12時を回っていた。さらに無造作に衣類の散乱した部屋を簡単に片付け、簡単な昼食を作っていると、速見拓也がやってきた。その頃には1時をとうに過ぎていた。

「ちょっと近くまで来たから、寄ってみたんだ」

 拓也は彼特有の、人懐っこい笑みを浮かべて玄関に立っていた。下はジャージ、上は白いTシャツという随分とラフなスタイルだ。後頭部を掻きながら「今日、仕事は休んだんだけどさ」と恥ずかしげに告白する。

「お前……どうしたんだよ、それ」

 ぽかんと口を開け、直也が驚嘆の声を漏らしたのは、拓也の首に黒い布切れが巻いてあったからだ。視線を落とせば、右手首にも同様のものがある。その一見、擦り切れたボロ布にしか見えないそれが、治癒能力を活性化させる力を秘めているということを直也は知っていた。だからこそ、拓也がその布を巻いている理由も大まかに察することができた。

「まさかそれ……怪人にやられたのかよ?」

「まぁ、そんな感じ。俺にはやっぱり、戦いは向いてないんだよなぁ。だからこれはそんな奴が戦いに出てくんなよ、っていう証だよ。まさに自業自得ってやつだ」

 布の巻かれた右手をひらひらと振ってみせながら、拓也が磊落に笑う。その話の内容に直也は眉をひそめた。

「最近ニュースであんま聞かないし、連絡もないけど、まだいるんだな、怪人」

「一時期よりは、かなり少なくなってるけどね。そのおかげで、何とか被害が出る前に食い止められてる。ゴンザレスは参っているみたいだけど」

「なんで?」

「怪人がいなくなれば、黄金の鳥の連中を誘い込む餌がなくなるわけだろ? なんだかんだ言いつつも、俺たちの組織の最終目標はそこだからさ。いや、もちろん怪人が減ったことを喜ばしく思ってもいるんだろうけど。だからこそジレンマがあるってわけなんだよ」

「なるほどな……まぁ、立ち話もなんだし。入れよ。ちょうど昼飯ができあがったところなんだ」

 直也は拓也を部屋に招き入れると、たった今完成したばかりのチャーハンを皿に盛り、振舞った。もともと1人分を想定して作ったため量は少なくなってしまったが、それでも平たい皿に小さな山ができるくらいにはなった。

「それで、あきらちゃんは怪人のところにも来てないのか?」

 ベッドの脇に広げた小さなテーブルに拓也と向かい合って座り、スプーンでチャーハンの山を崩しながら直也は訊いた。

 あきらが黄金の鳥を崇拝する一団に所属し、拓也たちの属する組織と刃を交えていることを知ったのは、およそ1週間前のことだった。その一団は、女性を拉致しその身を殺人犯達に提供している、いわゆる"怪人"を殺さずに連れて帰る、という奇妙な行動を繰り返しているらしく、マスカレイダーズの中では黄金の鳥の一団こそが怪人を操っているのではという説が依然濃厚のようだった。

 そんなはずはない、と直也は初めからその説を断固として否定している。あきらが殺人犯に加担しているなどあるはずがない。もし、それが真実だとしても絶対に何かわけがあるはずだ。しかし、あきらはあの日をきっかけに1通だけのメールを残して音信不通となってしまった。これが何を意味するのか、あまりに恐ろしくて深く考える気にもなれなかった。

 直也の質問に、拓也は口にチャーハンを含んだままゆるゆるとかぶりを振った。コップに注がれた水で、口内の米粒を押し流す。

「来てないよ。この前、仲間が現れた時に訊いてみたんだけど。見事にスルーされたさ。その結果が、これだ。完全に失敗したよ」

 拓也は首に巻かれた布を指差す。その痛々しさに、直也は目を伏せた。

「ごめんな。お前ばっかり、そんな目に合わせて……俺、時々思うんだよ。やっぱりマスカレイダーズに入ればいいんじゃないかって。そうすれば俺も戦える。そりゃ、あの着ぐるみ野郎はむかつくけどさ。お前も前言ったろ? 嫌なことをしなきゃならないのが大人だって」

「いや、お前は入るな。こっちに来ちゃ駄目だ」

 拓也はきっぱりと直也の提案を拒否した。その表情は真剣さが窺えるものだったので、直也も真顔になる。

「怪人の居場所だったら、教えられる限り俺が教えるから。お前は、マスカレイダーズに来ちゃいけない」

 直也は始め驚いて彼を見たが、そのうちため息をつき、口元を緩めた。彼の思惑を解することはあまりにも容易なことだった。

「やっぱり。お前、いい奴だな」

「お前がマスカレイダーズに入ったら、華永はどうなる? あいつはお前に裏切られたと思うはずだ。それだけは、絶対に駄目だ。華永にはお前が必要なんだ。たとえ世界中のみんながあいつを嫌おうとも、お前だけはずっとあいつの味方になってあげなくちゃいけないんだ」

 拓也の眼差しは、真摯な光を帯びて輝いているように見える。直也は自分の胸のあたりをぎゅっと掴むようにすると、その言葉を心に刻みつけた。

「……あぁ、分かってるよ。俺はあきらちゃんを信じてる。だから俺は待ってるんだ。絶対帰って来て何もかも話してくれるって、信頼してるから」

 信じることの大切さ。その重み。大きさ。拓也に会うことで直也は、また多くのことを知る機会を得た。しかし礼を告げるのも照れくさく、直也は俯いてチャーハンを口に掻きこんだ。

「俺はお前のそういう、まっすぐな所に心魅かれたんだ。きっと華永もそうだよ。あいつはそういう人の本質をしっかり見抜くところがあるから」

「よせよ。そういうこと真顔で言うの……なんか、恥ずかしいだろ」

 直也はさらに俯く。照れる直也の様子がおかしかったのか、拓也は声を立てて笑った。

「人を褒めるのに、恥も何もないよ。俺の本音として受け止めてくれればいいさ」

 チャーハンを食べ終え、2人分の皿を流し場の水に付けて室内に帰ってくると、拓也はベッドで横になっていた。本棚から勝手に抜き出した文庫本を、仰向けに寝転がって読んでいる。そのあまりに不遜な態度に、直也はため息を吐きださずにいられなかった。

「いやお前、いきなり人の家でリラックスしすぎだろ……」

「来客が思わず寝ながら読書に励みたくなるほど、リラックスできるいい家ってことだと思うんだ。いい部屋に住んでるじゃないか」

「いや、その理屈はおかしい。つかその小説、よく見りゃまだ俺が読んでないやつじゃねぇか! 袋に入れといたのに何勝手に開けて見てんだ!」

「来客が思わず先に読みたくなるような本を、お前は持ってるんだ。そのセンスは素晴らしいぞ、坂井!」

「おいこら、褒めれば、なんでも許されると思うなよな!」

 分かった分かった、と笑いながら拓也はベッドから起き上がると本棚に小説を戻した。そして直也に背を向けたまま、真剣さを滲ませて言った。

「そういえばオウガとフェンリルのことも調べてるけど……正直、難航してる。フェンリルのプレートも行方知らずだし。真実を知る切り口が、困ったことにまったく見えないんだよ」

 直也は同感、という気持ちを込めて力強く頷いた。"オウガ"のメイルプレートを除けば唯一の遺留品である金色の毛髪を片手に、事件の関係者をいま一度洗い直す作業に1週間を費やしたが、何の手がかりも得られなかった。また先日、柳川から聞かされた話が何とも掴みどころのないものばかりだったのも直也の心に深い打撃を与えた。拓也と同様、袋小路の中に直也もまた、囚われはじめている。その事実を自覚する度、また泥沼に足もとから浸かっていく思いに駆られるのだった。

 咲の死の1週間前に行方をくらませた、鉈橋きよかという女性のことを話題に出すと、拓也は難しい顔をした。

「確かにそれは臭いよなぁ。しがない音楽教師にも分かるくらい、嫌な臭いがぷんぷんだ。坂井はその人のことは、まったく知らないのか?」

「そりゃ、知っていたらとっくに調査してたよ。それによ。行方不明になった女性、って部分だけ見れば似てないか? 二条裕美の関わっている、あの事件と」

 それは思い切った推理だと、直也は自覚をしていた。しかし疑わしいことは、些細なことでも突っついていくのが探偵の本質だ。それがあまりに突拍子のない、飛躍した考えだったとしてもだ。昨日密かに考えを巡らせていたことを口に出すと、予想通り拓也は目を剥いた。

「まさか……3年前から女性拉致事件は起きていたって、そう言いたいのか? 怪人が動き出してたって、そういう意味なのか?」

「断言はしないけどな。お前が前に言ったことが正しいなら、怪人はここ数か月に現れた。だからこれは半人前探偵の、根拠も何もあったもんじゃない馬鹿げた推測だと思ってくれ。そういう可能性もある、って話だけだ。だけど疑う余地はあると思う。咲さんと同じ痣が二条にもあった、って時点で怪人絡みの事件と咲さんと所長が殺された事件とに、関連性がまったくないとは言い切れなくなったのは確かだ」

「そういえば、あの痣のことをゴン太にやんわり訊いてみたんだけどさ。やっぱり、分からないみたいだった。聞いたこともないって。」

「そっか。まぁ。あいつの言うことじゃ、どこまで正しいのか分からないけどな」

 直也は言いながら、顔を引き攣らせる。ゴンザレスに咲を侮辱された怒りは、いまだ胸の奥で渦巻いている。それは拓也が彼の名前を出すたびに疼いて、心の中をかき乱す。憎悪が抑えきれなくなる。だから直也は意図的に顔面の筋肉を硬直させることで、その気持ちの奔流が外に流れ出してしまうのを防ごうとする。

 拓也もその気持ちを汲んでくれてはいるようで、ゴンザレスに対する不審を露わにした直也の言動にも反論を唱えることはしなかった。ただ柔らかく笑みを浮かべ、それからスッと目を細めた。

「でもそれも、華永なら分かるかもしれないな。黄金の鳥と黒い鳥、そしてそれに怪人が加わるとなると……俺にはどうもその2つに関係性があるようにしか思えないんだけど」

「それは俺も同感。結局、そこに戻るんだよな……あきらちゃんに話を聞けば、案外この事件一気に解決できるような気がするよ」

「それか痣を持ち、怪人を操っている二条か……先が見えない、という意味ではどっちも似たようなもんだけど」

「そういや二条って、どこで治療してるんだよ。というか、誰が治療してるんだよ」

 前から薄々思ってはいた疑問を、直也はぶつける。すると拓也は少し怪訝そうな表情になった。

「俺も会ったことはないからよく分からないんだけど……9人目のメンバーってのがいるらしいんだよ。ゴンザレスくらいしか知らないらしいんだけど。その人が二条を治療しているらしいよ。治療されてるのは動画で送った通りだから、信頼しても大丈夫だと思う」

「今、何回、"らしい"って言ったよ」

 直也はあまりに不確定な不安定な答えに、怒りや呆れも通り越して動揺した。

「お前の信じたい気持ちも分かるけどよ。もっと、あの着ぐるみを疑った方がいいだろ……中身もわかんねぇし、何やってるのか底が知れないのに、よくあんなのと付き合ってられると思うよ。俺は感心する」

 あえて舌鉾鋭く言い放つと、「そうだな。坂井の言うとおりだな……ごめん」と拓也が目を伏せて謝るので逆に困った。明るいキャラの拓也にそういう顔をされると、まるで太陽が何の前触れもなく、雲に閉ざされてしまったかのような不安を覚える。

「こっちこそ、なんか、その……悪かったよ」

 慌てて謝り、室内に漂う黒くくぐもった空気を早く払拭しようと、直也は素早く次の言葉を継いだ。

「あきらちゃんか、二条か……キーパーソンは2人ともこんな近くにいるのに。なんで俺たちはこんなに苦しんでるんだろうなぁ」

 冗談混じりにぼやき、直也はベッドにもたれかかって天井を仰いだ。そうして吐息を部屋に浮かべていると、あきらと生活してきた全てのことが幻であったかのように感じた。

 ほんの数週間前まで彼女の体を抱きしめることさえできたのに、いつからこんなに遠くなってしまったのだろう。この部屋にあきらの温もりはすでになく、彼女が抜けた場所にはあまりにも不自然な空洞が生じている。

 あきらは一体、どこに行ってしまったのだろう。擦り切れた心と、疲労の滲む体で気付けば直也はがむしゃらに彼女を求めていた。




鳥の話 7

 客のいない『しろうま』のカウンターの内側で、仁は画用紙に色鉛筆で絵を描いていた。あきらに手当てされた右肩にそれほど強い痛みはなく、鉛筆を走らせるくらいだったらそれほど苦もなく行うことができた。

 先月、親知らずを抜いた記念に葉花からもらった画用紙と、小学生の頃に義父からプレゼントされた色鉛筆で、新たな世界を平面上に描きだしていく。店内には適度な温度でエアコンがかかり、軽やかなクラシック音楽が絶えず流れている。黙々と作業を進めるのには最適な環境といえた。

 絵を描くことは、昔からあまり好きではなかった。

 単純に苦手だからという理由もあったが、それ以上に、心に浮かんだ風景がこの指を伝い、視覚的なイメージとして外に流れ出してしまうことが何よりも恐ろしかった。自分の心模様が周囲に晒されるということを考えるだけで、全身を怖気が走る。心のうちに潜む何かが荒れ狂い、不意に他人を傷つけてしまう可能性を仁はずっと危惧してきた。

 他人とは違う、超常の力。サイコメトリーを身につけてから、さらにその不安はエスカレートしていった。自分の本心を表に出せず、人を信用できぬまま時を過ごし、そしてその形のない漠然とした恐怖を抱えたまま仁は、大人になってしまった。

 それでも鉛筆を取り、画用紙を広げたのは使命感からだった。これも葉花のためだと思えば、絵を描き、自らの心のうちを画用紙に転写することも辛くはない。そんなの無駄だ、ともう1人の自分が揶揄するが、その声に耳を塞ぐ。やってみなきゃ分からないじゃないか。何もやらないよりはマシだ、と小声で反論する。

 昨日、怪人と戦っている最中に見たクレープをなるべく詳細に描いていく。甘ったるい匂いや、食する音、口の中に広がるクリームの味、頭の中に浮かぶクレープ像、その全てを捻り出すような気持ちで時間をかけ、クレープ1つを丁寧に真っ白な画用紙の中央に描写していく。黒の色鉛筆で下書きを終えたら、今度は他の色で着色をしていく。渾身の力を込めて描き終え、額の汗を拭った時には、画用紙を用意してから実に1時間あまりが経過していた。

 音楽も周囲の気配さえもまったく意に介さないほど、絵を描いている間、仁は集中していた。おそらく客が来たとしても、肩を叩かれるまで気がつかなかっただろう。

 記憶の中の映像を搾りだし、筆に乗せることがこれほど精神力を消耗する行為だったとは始めるまで思いもしなかった。仁は画用紙を裏返すと大きく伸びをし、全身の緊張した筋肉をほぐす。コーヒーでも飲もうかと椅子を立ち、腰を捻って、背後に置かれたポットに手をかけた。

「白石くん。お絵描きの時間、終わったの?」

 カウンター席に腰を下ろした葉花が、退屈そうにこちらを見ていた。濡れた髪がきめの細やかな白い肌に貼り付いている姿は、幼いながらもどこか色っぽさを感じる。仁はコーヒーメーカーの取っ手部分を握ったまま、首をよじった姿勢で固まった。

「葉花……いつからいたの?」

「んー。白石君が、頑張ってギョーザの色塗りしてたところから。声かけても全然気付いてくれないから、待ってたんだけど」

 餃子じゃなくてクレープだよ、などとは言えず、また内心で自身の画力に大きなショックを受けながらも、仁は時間をかけてようやく「ごめんね。ちょっと、頑張りすぎちゃったみたいなんだ」と謝罪の言葉を口にした。

「プール疲れたでしょ。オレンジジュース、飲む?」

「うん、飲む飲む。さすが白石君。気が利くねぇ!」

 中年のおじさんじみたことを口走りながら、葉花はカウンターに頬杖をつく。仁は冷蔵庫を開くと、そこからオレンジジュースの入ったペットボトルを取り出した。

「今日は帰ってくるの、ずいぶん早かったね。プール楽しかった?」

 ぶどうの絵柄が描かれた、葉花専用のグラスにジュースを注ぎこむ。葉花は満たされていくオレンジ色の液体を愛おしそうに眺めながら、嬉しそうに頷いた。

「うん、楽しかったよ! でもやっぱり2日連続でふらふらするのも疲れちゃうから、今日はみんなで解散しようーって。正解だったかなぁ、眠くてしょうがないもん」

「そうだよね。毎日泳いでたら、疲れちゃうもんね。今日は、もう家でゆっくり休んだほうがいいよ。風邪引いたら、大変だからね」

「うん、分かった! じゃあ、テレビ観るついでに宿題やろうかなー」

 葉花の陶器のような白い肌が少し赤くなっているのを見て、仁は少し心配になる。葉花は日に焼けても黒くならず、その代わり、軽い火傷を負ったように赤く腫れてしまう肌質を持っていた。だから、本音ではプールのような日に焼けるような遊びをなるべく避けて欲しかったのだが、彼女の自由を束縛する権利はない。そこのさじ加減は、仁もわきまえているつもりだった。

 だから仁の言葉に、葉花が同意してくれたのには安心した。オレンジジュースをカウンターに置き、今度は先ほど淹れそこなった自分のコーヒーの準備にかかる。

 しかしポットを傾け、マグカップにホットコーヒーを注ごうとしたところで仁はまた手を止めた。葉花がジュースに口をつけながら、「そういえば、今日、青いのと会ったよ」と満面の笑みで言ってきたからだ。

「青いのって……もしかして華永、あきらちゃん?」

 仁はポットを投げ出すようにすると、慌ててカウンターから身を乗り出した。無意識に声が大きくなる。葉花は目を見開き、体を後ろに反らして、明らかに鼻白んだ。

「う、うん。そうだけど……白石君、どうかしたの? なんか私、変なこと言ったかな?」

 怯えと不安に表情を曇らせる葉花を前にして、仁は我に返った。ごめんと謝り、カウンターから離れて小さく深呼吸をする。胸に手をあてれば、心臓が激しく鼓動を打っている。

 ホテルにこもっているとばかり思っていたあきらが、町を普通にふらついていたというのはあまりに予想外だった。よく考えてみればそれは当然のことで、あきらだって生活用品や食料などの買い物に出かけるし、自宅にだって帰るだろう。"黄金の鳥復活の発起人"としての彼女の姿しか最近、目にしていないせいで、あきらもまた葉花と同じ女子高生であるという事実を完全に失念していた。

 状況を、あまりに甘く見過ぎていた。仁は自分を責める。さらにその後、気を取り直した葉花が「そういえばプールでけがしちゃったんだけど、青いのが絆創膏貼ってくれたんだー」と喋り出すので、またぞろ仁はカウンターから半身だけを飛び出させて、葉花に顔を近づけた。

「絆創膏!」

「ど、どうしたの白石君! 今日はなんだかアグレッシブだよ!」

 葉花の指を見やると確かに茶色い、おなじみの絆創膏が巻かれている。右の人差し指だ。空気がなるべく入らないように丁寧に貼られており、皺1つ寄っていなかった。その几帳面さの垣間見える処置方法は確かに、あきらの存在を匂わせるものだった。

「これを、本当にあきらちゃんが?」

 信じられずに、仁はもう1度尋ね返す。葉花は不審げな表情を見せることなく、弾んだ声で答えた。

「うん! 青いのはなんか今年の夏、すっごくでっかいことしてるんだって! いつか私にも見せてくれるって言ってたんだー。楽しみだなぁ」

 仁とあきらが逢瀬を重ねていることを、葉花は知らない。あきらの言う「でっかいこと」の意味を仁は知っているだけに、どういう反応をするべきか分からず、仁はただ曖昧に笑うだけに留めた。

 それから仁はカウンターを回り込んでホールに出ると、葉花に近づいた。そして1メートルくらいの距離を開けて、葉花の体を様々な位置から、頭の先からつま先まで舐めるようにして見た。ざっと観察した限りでは、特にこれといった異常は確認できなかった。仁は腰をかがめると、椅子に座った葉花と目の高さを合わせるようにしてから訊ねた。

「葉花、体調悪いとか、気分が悪いとか、怪我とか、痛いところとか、そういうところはない? 大丈夫?」

「眠いけど、元気だよー。だけど本当に今日はどうしたの白石君? なんかいつもより面白いね」

「それなら良かった。そうだね、今日の僕はちょっと面白いかもしれないね」

 立ちあがり、葉花に背を向けながら仁は大きな疑問を抱く。顎に手をやり、壁をじっと見つめた。頭が混乱し、状況をうまく判断することさえままならない。

 あきらもまた仁と同じように、黄金の鳥の力を備えている。それは彼女が目の前で、人ならざる者へと変化を遂げたことからも確かだ。

 そして葉花は黄金の鳥に関連するものに触れられたら最後、石と成り果ててしまう。それは彼女にとり憑いた男、ハクバスが数年前に受けた毒の影響なのであるが、そのため仁は葉花を守る力と引き換えに、葉花に一切触れることができなくなってしまったと、いう事情があった。

 今の話では、あきらは葉花を治療するためその体に触れたのだという。なのに葉花の体に異常はまったく見られない。本人も体調の変化をまるで感じていない。これは一体、どういうことなのだろう。

 なんだか納得できないものを覚え、もやもやとした感触を胸に抱く。いくら思考の海の中に落ちていこうとも答えは見つかるはずもなく、底の見えない深淵の中へとその意識は引きずり込まれていくようだった。

 なにかがおかしい、奇妙だ。しかしこの違和感は一体、どこから来ているものなのだろう。なにが真実で、なにが嘘なのだろう。周囲が突然、暗幕に覆われてしまったようになる。五里霧中。仁の動揺した心は、あてのない闇の中を彷徨っている。

「そういえば、白石君。夕方になったら、お買いもの行こうよ!」

 仁は無言で振り返った。するとオレンジジュースを一気に飲み干した葉花が、グラスを片手に大きな瞳でこちらを見上げていた。

「今日も私がご飯作るからさ! お買いもの付き合ってよー」

 葉花の話している内容が思考に届くまで、数秒を要した。困惑で脳の働きが凍り付いている気がする。仁は頭を強く振って、その硬直を解きほぐすとぎこちない笑顔で返事をした。

「うん、いいよ。分かった。今日は早めに店閉めるようにするから。そしたら、行こうよ」

「行こう行こう―。今日はカレーだよ、カレー。美味しいの作るからね!」

 腕を振り上げ、体全体で元気を表現しながら葉花は宣言する。仁はなんだか、急にわけがわからなくなり、そんな葉花の様子にも現実感がまったく沸かなかった。




魔物の話 7

 特に今日はこれといった用事もなく、一応明日は男の子と2人きりで出かけるわけだから、新しい服でも見ておくかと思い立ち、レイはデパートに足を運んだ。佑に特別な感情を抱いているわけではないが、身分相応のおしゃれをすることは女性として最低限のマナーのように思えた。

 近場にある8階建ての比較的大きな百貨店に入り、1階の食料品売り場を試食品などつまみながらそぞろ歩いていると、お菓子コーナーの前に見知った顔を発見した。レイは近づくと背伸びをし、菓子類の並んだ棚を眺めているその男の肩を叩いた。

「あれ、どこかで見たと思ったら。空気が読めないことで各界から酷評を得ている、藍沢さんじゃないですか」

「そういう君は毒舌の純度で定評のある、黒城レイちゃんじゃないか。どうしたの、こんなところで」

 棚の前でしゃがみ込んでいたのは、赤いバンダナを被り、灰色のパーカーを着た藍沢秋護だった。チェック柄のおしゃれなリュックを背負っている。秋護は腕に買い物かごを下げ、きょとんとした顔でレイを振り返る。かごの中を覗きこむと、缶チューハイが所狭しと敷き詰められていた。

「それは私のセリフですよ。なにやってるんですか、こんなところで」

「なにしてるって……これが、買い物している以外に見える?」

「いかにも怪しい男が、物漁りをしているように見えます」

「レイちゃんの中で、俺はそんな非現実的なキャラなのか……。だけど残念ながら、俺はただ買い物をしているだけだ。俺としたことが、すごく現実的なことをしているまでなんだ」

「そんな寝言は、寝てから言って欲しいですね」

「残念。俺は目を覚ましながらにして、寝言を言うことができるんだ。もしかして、知らなかった?」

「それはただの変態じゃないですか」

「おかしいな。ちゃんと、バイトの履歴書にも書いたんだけど……」

「じゃあ聞きますけど、その特技は、わが社にどんな利益をもたらしますか?」

「はい。寝ながら起きることができます!」

「ちょっと黙ってて欲しいんですけど」

「なんでレイちゃんが、面接官の言っていたことを知ってるの? どっかで見てた?」

 受け答えしながら秋護は、ポテトチップスの袋を掴み取り、かごの中に放り入れた。コンソメ味からうす塩味、梅味まであらゆる種類の味を次々と積み上げていく。彼が手を止め、満足そうに頷くときにはかごの中でポテトチップスの山ができていた。

「彼女が好きなんだよ、ポテチ。今日夜通しで、飲み会しようと思って」

 尋ねてもいないのに、丁寧にも秋護はかごの中身を指差しながら解説をしてくれる。レイは訝しさをわざとらしく表情に載せた。

「彼女とか……そういう冗談はバンダナだけにしてください」

「俺ももう20歳だし。恋人の1人や2人、そりゃいるさ」

 秋護は掛け声をかけて、重さに軋むかごを持ち上げると、体を傾けさせながらレジへと歩きだした。

「自分を普通の人だと思ってる、その思いこみが私には不思議でしょうがないんですけど」

 レイもその隣をついていく。

「おいおい。俺より普通の人間なんて、この日本にいるのか? いたら連れて来てもらいたいぐらいだ」

「藍沢さんが普通の人なら、日本人の9割は普通の人だと思うんですけど」

「そんなことはないだろ。俺が現実的だからこそ、周りには非現実的な光景が広がるんだ。俺が非現実的なら、他は全部現実的になっちゃうだろ。考えるだけでもつまらないよ、そんなの」

 秋護は物憂げに眉を寄せた後、レイの方を見やりながら、軽くほほ笑んだ。

「そんなことよりレイちゃんは彼氏とかいないの? 結構可愛いから、もてると思うんだけどなー」

「そんな褒めても、私からは悪口しか出てきませんよ」

「何もくれなくていいから、それはぜひ引っ込めてくれるとありがたいな」

「今日から藍沢さんのことを、カラフルバンダナ野郎と呼びます」

「それはまるで、バンダナが俺のチャームポイントであるかのようだ。やっぱりレイちゃんも、この俺のバンダナに魅かれたってわけか!」

「やっぱり、カラフル野郎って呼びますね」

 レジで会計を済ませると、せっかくだからソフトクリームでも食べようか、と秋護は提案してきた。どうせ暇を持て余していたし、断る理由も見つからなかったのでレイは賛成した。もはや、服を見る気は失せていたし、それ以前に持ち合わせが300円しかないことに今になって気がついた、という状況も意見の同調を後押しした。

 食料品売場の隅のほうにファーストフード店があり、そこでソフトクリームを注文する。レイはストロベリー、秋護はチョコレートを頼んだ。店の前には飲食スペースが設けられており、夏休みのせいなのか親子連れや学生で非常に賑わっていた。ちょうど真ん中のあたりに2人掛けの空いている席を見つけ、レイと秋護はそこに向かい合って腰を下ろす。

「奢ってくれて、ありがとうございます。明日は大地震がきますね」

 一応礼を言う。『ソフトクリーム310円!』という貼り紙を見たときは心底落ち込んだので、皮肉りながらも内心、助かっていた。秋護はソフトクリームを舐めながら得意気に微笑んだ。

「中学生に金出させるほど、俺は腐っちゃいないよ。まぁ、気にせず食えよ。大学生は暇も金もあるんだから」

「噂のハーフニートって奴ですか」

「なんだよそれ。俺はそんな言葉、聞いたことないな」

「でしょうね。多分使ってるの、うちの妹だけだと思います」

 それからはしばらく、お互い無言でソフトクリームを舐め回すことに集中した。デパート内は冷房で冷え切っていたので、口の中を冷たいもので満たしても爽快感は薄かったが、ストロベリーの甘みと、随所で織り交ざる酸味とが絡み合い、絶妙の旨みを引き出していた。

 しばらくすると、秋護がぽつぽつとマスカレイダーズの業務に関連したことを話しだした。

 またこの人は雰囲気を読まないな、と心の中で思いながら、レイは周囲の様子をざっと窺う。しかし周りもそれぞれの会話に熱中しているらしく、2人の話に聞き耳をたてている人はいないようだった。小声で話すようにすれば、喧騒が紛らわしてくれそうだ。

 話題のメインはやはり、怪人を今も生み出し続けている白衣の男のことだった。マスカレイダーズ総員で彼の居場所を突き止めようと躍起になっているらしいが、まるで霞を掴んでいるかのような手ごたえのなさらしい。あの男がどこの誰なのか、その素性さえも明らかになってないというのだから、大した雲隠れだった。

 怪人の探知能力が使えるレイでも、こればかりはどうしようもない。たとえ怪人を操り、彼らが潜伏している場所を訊ねたとしても、本能と単純な命令によって動いている怪人がまともに答えてくれるのかは微妙なところだった。実際、2日前に仲間へと引きこんだゴキブリたちに男の下へ連れていくことを命令したのだが、ただその場でおろおろと慌てふためいているだけだった。あまりアテにはならない。

 それ以前に、怪人はレイに悟られることなくどうやってここまでやってくるのかも疑問が残るところだった。二条の他にも怪人を隠れて運搬している者がいるということなのか。

「ま。今のところ一番早いのは、やっぱり二条裕美が証言してくれるのを待つしかないよなぁ。今のところ、それも絶望的らしいけど」

 結局そこに行き着くのか、とレイはため息をつく。二条裕美。レイを理不尽な理由でさんざんいたぶり、悠を酷い目に合わせたその男の名前を聞くだけで、怖気と憤怒が沸き上がってくる。しかし今は、あの男だけが白衣の男に繋がる唯一の手掛かりであるのは確かだった。

「9人目の人が、治してくれてるって聞いてますけど。本当ですか?」

 マスカレイダーズの一員であるレイすらもしらない、9人目のメンバー。彼が、もしくは彼女かもしれないが、医者であり二条を地下室でせっせと治しているということはレイも知っていた。

「俺も会ったことないんだけど。ゴンザレスがそう言ってたよ。ま、二条がまだ生き伸びている以上本当の話なんだろうけど」

 どうせならこのまま二条は苦しみながら死んでいってほしい、というのがレイの願いでもあったが、それでは白衣の男や橘看護師の位置を掴むことができなくなってしまう。二律背反する2つの感情が、レイの心の芯を激しく揺さぶった。

「そういえばさ、レイちゃんって一体、何者?」

 何の前触れもなく、秋護が訊いてきた。レイは当惑し、首を傾げながら眉をひそめる。

「私は私ですけど。今さらどうしたんですか」

「だって二条に狙われたり、怪人探知できたり。なんか普通の子じゃないなーってね。まぁ、本当に今さらなんだけどさ。あり得ないことマニアの俺としては、実にそそるんだよね、そういう部分が」

 私は何者なのだろう。秋護に問われたことを、レイはそのまま自分に尋ねる。私は怪人だ、と胸の奥に住まうもう1人のレイが答えてくる。お前は怪物だ。人間ではない。むしろ人間の生活を脅かし、その命を食いちぎる魔物なんだぞ、と。

 違う、とレイは心の中で断言する。私は人を守りたい。だから人の命を弄び、怪人を操作してさらなる命を連鎖的に玩弄していくあの男のことが、許せないのだ、と。

 己を評価するのは己自身ではない。胸の奥に立つレイの姿は、すでに人からかけ離れ、大きな翼を広げた鳥のものへと変化している。その鳥は細い嘴を開き、レイを諭すように囁きかけてくる。他人が怪人であるお前のことをどう思うか、確かめてみればいいさ。それでも相手は、お前を人間扱いしてくれるかなと、絶えず吐きかけてくる。

「レイちゃん?」

 秋護の声で、レイは我に返った。同時に指に冷やかな感触を覚えて目をやれば、溶けだしたソフトクリームがコーンを伝い、手に垂れてきていた。レイは慌ててコーンを持つ手を変えると、指に付着したクリームを素早く舐め取った。

「変な質問しちゃったかな。でも、俺はそういうレイちゃんの非現実的なところ、すげぇ興味があるんだよ。もっと俺に非現実を見せてくれ。そのためだったら、正体とかそういうこと俺は何でもいいんだ。二の次、ってやつだ。今が楽しければ、まぁそれはそれでいい」

 秋護は目を輝かせて、興奮気味にこちらを見ている。そのあまりの屈託のなさ、純真さにレイは呆れた。しかしそれと同時に、安心もした。たとえ父親以外の人間に正体を曝すことがあったとしても、少なくとも秋護は今の関係を保ってくれるのではという安心感があった。

「相変わらず、空気、読めないですね」

 喜悦や感動を正直に出すのもなんだか悔しくて、レイはいつも通り悪態をついた。その声は若干上擦っていたが、秋護には気付かれずに済んだようだった。




鳥の話 8

「あの子、すっごい嬉しそうだね。お誕生日なのかなぁ?」

 葉花が羨望の眼差しで見つめる先を、仁も目で追った。そこには両親には挟まれて歩く、大きな紙袋を抱えた男の子の姿があった。小学校にあがるかあがらないか、というぐらいの年齢だろうか。坊主頭にタンクトップ姿だ。紙袋には全国的にも有名なおもちゃ屋のマークが記されており、男の子が動くたびに、紙袋の中のものが激しい音をたてていた。

 男の子は駆けまわり、跳ねまわり、体全体で有頂天を表現していた。紙袋を振り回しながら浮かれている男の子を、その両親は柔らかく微笑んで見ている。それは幸せな家族の一コマを切り出したかのような構図で、仁も気付けばその光景に見惚れていた。

 買い物を終え、仁と葉花は並んで帰路を辿っている、その最中でのことだった。仁と葉花はそれぞれの手に、夕飯の材料の詰まったビニール袋を持ちながら会話を交わし歩いていた。その家族とすれ違ったのは、葉花が大きな身振りを交えて友達との面白おかしいエピソードを語るのを聞きながら、横断歩道を渡っている最中のことだった。

 葉花はぴたりと体を動かすことを止め、首をよじり、最終的には体ごと向けて、その姿が見えなくなるまで男の子をじっと眺めていた。

「そうだね、お誕生日かもしれないね。葉花はお父さんとかお母さんに、どんなプレゼントをもらってたの?」

 歩行者用信号が明滅を始め、仁と葉花は早足で横断歩道を渡る。そして小学校の横にある歩道を通りながら、仁は思い切ってそう尋ねてみた。

「ゲームとか玩具とか、洋服とか……色々。お父さん誕生日とクリスマスにはサンタさんになってきてくれるんだよ!」

「あれ、葉花の誕生日っていつだっけ?」

「忘れないでよー10月の7日! ミミゴンと同じ誕生日!」

「それじゃあ、随分、気の速いサンタだね。それに、2回も来ちゃうんだ」

 しかも1回目は個別だ。ミミゴンというのが何を指すのかは分からなかったが、代わりに貸し切りサンタ、という単語がふと頭に過る。

「凄いね」

「白石君知らないなー? プレゼントを配るのはサンタさんのお仕事じゃん。クリスマスにしかお仕事しないんだったら、絶対生きていけないよ」

 なるほど、と仁は納得してしまう。葉花の考えも一理あると思った。サンタがどのようにして毎日の生計を立てているのか、など考えたことすらなかった。葉花の無邪気かつ大胆な発想にはいつも驚かされる。

「じゃあ、去年ってなにもらったの?」

 さらに訊くと、葉花は顎に指をあて、少し悩む素振りをみせた。それからうんうんと唸った後、突然表情をパッと明るくした。

「あ、そうそう。去年はお父さんサンタからシャーペンもらったんだ。ゴージャスなやつ! 忘れるところだったぁ」

「ゴージャスなシャーペン?」

「うんうん。あれだよ、私が使ってる。熊の絵柄がついた金ぴかの!」

 葉花の説明で、仁はようやく得心した。確かにデフォルメされた熊の顔が一面に描かれ、様々な箇所に金色の装飾が施されているシャーペンを葉花は使っていたような覚えがある。しかしあれが父親からのプレゼントであることは、全く知らなかった。

「今年は私の誕生日にお父さん、なにくれるのかなー。ねぇ、白石君はなんだと思う?」

 先ほどすれ違ったプレゼントをもらって喜ぶ男の子と同じように、葉花もまた軽くその場でとび跳ねながら無邪気な笑顔を漏らす。そのあまりに濁り気のない、純粋な表情に仁は胸を痛めた。一緒になって、彼女の父親に対する怒りがふつふつと煮えたぎる。

 なぜこんないい子の笑顔を無碍に奪うことができるのかと、本気で疑問に思う。もしこのまま葉花の誕生日まで姿を現さなかったのなら、あの男に父親を名乗る資格などない。仁は拳を固め、男への怒りを抑えようとするが、思わず顔に出てしまう。葉花の誕生日まで二か月。そこで本当の意味での雌雄が決するだろうと、極めて冷静に予測していた。

「何だろうね。葉花のお父さんと僕、あんまり会ったことないから、分かんないよ」

「そっかあ。そうだよね。あーあ、早くお父さん来てくれればいいのに。絶対白石君とも仲良くやれそうなんだけどなぁ」

「うん。僕もすごく残念だよ。こんな可愛い子を育てた人がどんな人なのか、お話してみたいし」

 上辺だけで同意する。しかし言った直後、自身の心に生じていた微かな痛みの正体にようやく気がつき、仁は付け加えた。

「でも本当に……お父さん、早く帰って来てくれるといいね」

 僕のお父さんは帰ってこなかったから、と胸中で言葉を継ぐ。もしかしたら葉花に対して嫉妬をしているのではないか、と仁はふと自覚を始める。自分を産んでくれた両親は仁を置き去りにして、蒸発してしまった。あれほど信じ、願ったのに、仁の想いは両親に届かなかった。

 だから一度葉花を捨てた男が、娘との再会を果たすため律儀にこの場所へと戻ってくることに、若干の妬みを覚えているのかもしれない。娘を置き去りにしたから、という理由はただの建前に過ぎず、実は怒りの根源もそこにあるのではと想像すると、仁は急に強烈な罪悪感に襲われた。結局、僕も自分勝手な人間だ、と自虐の念に囚われる。

「なに言ってんの白石君、絶対に戻ってくるに決まってんじゃん! お父さんは私を見捨てるなんてしないもん。きっといま、お仕事いっぱい頑張ってるんだよ!」

 葉花の希望に満ちた瞳と、晴れやかな表情が眩しい。それは仁の重苦しい心の鉄格子にも光を差し込むようだった。こんな葉花だから、命に代えても守り抜きたいと思ったのだ。絶望の淵に立っていた仁を救いだしてくれた、この光を。

 仁は左隣に歩く葉花の、小さな手にふと視線を落とす。日に焼けて少し赤くなっているものの、相変わらず肌荒れすら知らないようなきめの細かい肌をしている。指も短く、掌も小さいその手はまるでもみじのようだ。

 仁は右手に持っていた荷物を、左手に持ち替えた。自分の衝動を抑えるためだ。誘惑に負け、以前までの癖で葉花と手を繋いでしまう、ということがないように今さらながら、葉花の側の手で荷物を握る。こうすれば、何か間違いでも起きない限り葉花の手と仁の手が触れ合うことはありえない。

 なぜ、葉花の手がこんなに遠いのだろう、仁はぼんやりと考える。葉花との距離は1メートルもないのに、その間に隔たっている壁はあまりに厚くて高い。

 失うまでその大切さに気付かないのが人間というが、その格言をいま、身をもって感じている。失われたのは葉花の温もり。苦しみもがき、すがりつきたいほど、仁は葉花を求めていた。

 心の距離はまだそう離れていないと自負しているが、それもいつまで持つかと戦々恐々している。突然、あからさまに接触を拒みだした仁を、葉花はどう思うだろうか。一見、今まで通り、平然と暮らしているように見えるがそこまで彼女が鈍感だろうか、という疑問もある。いつまでこの関係のままいられるのか、先が見えず、恐ろしくなる。

 葉花を失うのが恐ろしい。しかしどうしようもできない。やはり目を逸らしながら生きている自分に、仁はまた嫌になる。

 「あ」 声をあげ、葉花が突然立ち止まった。仁は何事かと思い、足を止める。葉花が指差す先を目で追い、それから表情を硬くした。

 そこにはスーツ姿の男が立っていた。それが単なるサラリーマンでないことは、顔を覆った鳥のお面と喉元に刻まれた隻眼のタトゥーから分かる。今日のモチーフは鶏のようだ。お面の頭に当たる部分に赤いモヒカンのようなものが見え隠れしているのがその根拠だ。

 昨日の男と同じように、背広の胸ポケットからは白い紙が覗いている。お面を被り、仁の行く手をさえぎるこの男の様子は濁流の中で、風に揺れながらそれでも尚立ち続ける、健気な枯れ木を思い起こさせた。

 周囲に目を配れば、通行人も車も走っているのに、皆が皆、この男を視界に入れることすら遠慮したい、とでも言いそうに目を背けている。それが男の持つ独特のオーラのせいなのか、それとも単に関わり合いになりたくないだけなのかは判然としないが、それが非日常の象徴であることは紛れもない事実だった。

「葉花……本当にごめん。先に帰って、カレー作っといてくれるかな」

 きょとんとする葉花の顔を見下ろしながら、仁は柔和な笑みを浮かべる。そして顔をあげると、お面の男を鋭く睨みつけた。

「僕はこのおじさんと、ちょっと用があるからさ」

 



魔物の話 8

 レイは秋護の跨るバイクの後ろに乗っていた。シルバーガンの落ち着いた色彩を放つ、250CCのオフロードバイクだ。車種はネイキッドタイプで、その状態からまだ新車らしいことが分かる。タイヤの擦り減りが少ないのも、その印象を強めた。

「かっこいいですね」

 地下駐車場に停めてあったバイクを一目見て、レイは正直な感想を述べた。陰の中で佇む銀色のボディは未知なる兵器のようで、どこか毅然とした迫力があった。

「かっこいいだろ」

 秋護は座席のあたりを軽く叩きながら、得意気に言う。

「乗り手に似合わず、かっこいいですね」

 ヘルメットを受け取りながら、レイは言い返す。

「乗り手と一緒で、の間違いじゃない?」

「間違ってるのは、藍沢さんの持ってる鏡のほうですよ」

「そりゃあ、知らなかった。もっと早く言ってくれれば、デパートで買い替えたのに」

「ついでに、眼科にも行くことをお勧めしますよ」

「俺を気遣ってくれるなんて、レイちゃんは優しいなー。俺感動したよ」

「私の内の3パーセントは、優しさでできてますから」

「なんだと。消費税のほうが、まだ高いじゃないか」

 ソフトクリームを食べ終え2人でデパートを出ると、秋護がせっかくだから家の近くまで送ってやる、と声をかけてきたのだ。デパートまでは電車に乗って来たのだが、残り300円という財布の中身をこれ以上減らすのにも抵抗があったので、レイはその厚意に甘えることにした。

 風を浴び、周囲の風景が流れていくのを見ているのは楽しかった。大人用のヘルメットはぶかぶかだったが、それでも慣性の力に負けて道路に吹き飛ばされるということはなかった。エンジンが噴かされる音を間近で聞きながら秋護の背中に抱きついて、時速50キロの世界を肌で感じていると、まるで別の世界に飛び込んでしまったかのような気分になる。

 トラックとすれ違っても、恐怖がにじり寄ってくることはなかった。不安や悩みが風に巻かれ、散り散りになって背後へと消えていく。そんな妄想が脳裏に過る。

 ありがとうございます。直接言うのも何だか照れくさくて、わざと風に紛れるようにレイは感謝を告げる。エンジン音と喚き散らす風の音に遮られて、その言葉は秋護の耳には届かなかったようなので、少し安心した。

 視界が薄暗くなったのは、デパートを出て3つ目の信号を通過した時だった。突然、脳内に強烈なフラッシュを浴びせかけられるような目眩を感じたのだ。むんずと掴まれた無数の視覚的情報を、頭の中に直接叩きこまれたかのような衝撃だった。激しい頭痛と共に意識が遠のきそうになり、レイは秋護の腰に回した腕に力を込め、必死にしがみついた。

 秋護はその様子からレイの異変を察したようでウィンカーを出すと、バイクを車道の端に寄せて停まらせた。座席から降りるとヘルメットを被ったまま、レイに顔を寄せる。

「怪人が現れたのか?」

 レイは舌で唇を湿らせながら、顎を引いた。その拍子にヘルメットが頭からすっぽ抜けそうになり、ぴんと張り詰めたベルトが容赦なく首を絞める。ヘルメットを脱ぐと、秋護に渡しながらもう1度頷き、眉間に皺を寄せた。

「うん……しかもこの反応は、2体います」

「2体? 場所はバラバラ? 一体どこなんだ」

 レイは反応が示す位置と距離を敏感に感じ取り、こめかみを抉るような痛みに耐えながら、その詳細を伝えた。2つの怪人の反応が混線し、入り乱れる情報を整理するのは困難を極めたが、それでも何とか説明を終える。すると秋護はグローブを付けたままで、指を鳴らすような仕草をした。

「この前よりは、割と近場だな……このまま行けるんじゃないか?」

 秋護はそこでようやくヘルメットを取ると、ポケットから銀の輝きを帯びる1枚の板を取り出した。ポケット辞典くらいの厚みをもち、表面には『1』という数字が振られている。

「そしてまさかここは、俺の出番じゃないのか?」

 歩道側のガードレールに座り込むレイを尻目に、秋護は表情を輝かす。そして振り向き、背後のレイに期待のこもった眼差しを向けてくる。レイは呼吸を整えながら冷静に携帯電話を取り出した。

「変なバンダナの人は放っておいて、みんなに連絡しないと……」

 携帯電話を開き、レイはボタンの表面を軽くなぞるようにしながら逡巡する。現在、対怪人用の装甲服、マスカレイダーは4人いる。そのうちの誰が出動するのか、その采配全てはレイの手に委ねられていた。現場までの距離や怪人との相性、装着者のコンディションなどを考慮して状況に適切な戦士を送り込む。敵の強弱や数に応じて複数人送り込む場合もある。一昨日の戦闘がそのケースだ。それがマスカレイダーズにおける、レイに与えられた仕事。人々の命を守り抜くための、役割だった。

「今日は誰にするつもり? 2箇所だから、2人?」

「感じ的には、それ程強そうな敵でもなさそうですから2人でいいと思ってますけど」

「じゃああとは、誰を持っていくかだな」

 バイクを車道の端に停めたまま、秋護はガードレールを跨いでレイの隣に立った。そして戦闘員の名前を読み上げるのと一緒に指を1本1本、折っていく。

「速見さんか、黒城さんか、雅人か、狩沢さんか……そういえば今日は速見さん、仕事休んだとか言ってたような気がする。なんでかは、聞かされてないけどな」

 速見の持つダンテは、備わった飛行能力を存分に活用した遊撃手としての役割を持っている。現場にたどり着くスピードで競うならば、おそらくダンテの右に出る者はいないだろう。昨日受けたゴンザレスからのアドバイスのこともあり、1人目を拓也にすることは決めていた。

 さらに条件を絞り込むためレイは目を瞑り、脳裏に映る怪人の姿をさらに明瞭とさせるよう努めた。白と黒のボーダー柄をした怪人の体躯が瞼の裏側に出現する。その姿を口に出して説明した。

「怪人は地上型で、飛び道具は持ってなさそう。体もそんなに大きくないかな……でもジャンプ力は高いかも。足の筋肉がもりもりしてる。この分だと、足も速い、かも」

「それは両方とも?」

「多分……でもそれだとしたら、おかしいですけど。同じ怪人が2匹出るなんて、今までにないですし」

「まぁ、とにかく。素早い敵なら、速見さんだ」

 秋護は断言した。だがすぐに「いや」と自分の発言を否定する。腕を組んで、じっと青空を睨みつける。その横顔は真剣そのもので、本当に少しの間だけレイは秋護に見とれた。

「狩沢さんのほうがいいかもしれない。相手が格闘攻撃しか持っていなさそうなら尚更だ」

 レイは一瞬遅れて、頷いた。そして携帯電話の1のボタンを押し、続けて通話ボタンに指を滑らせる。まずは拓也と連絡を取ることにした。その次が狩沢だ。一瞬、一秒の判断が被害者の命を左右する。レイは緊張をしながら、早く出ることを願って、携帯電話を耳に当てた。

「藍沢さん。連絡終わったら、私たちも行きましょう」

「え?」

 秋護はレイの発言に面食らったかのように、声を零した。しかしすぐにその意図を察し、にやりと唇を歪めた。

「……なるほど、いてもたってもいられないってわけか」

「怪人が暴れてるって分かってるのに、待ってるだけってのも、後味悪そうじゃないですか。だったら行っちゃいましょうよ。やらない後悔よりも、やる後悔ですよ」

 呼び出し音を聞きながら、レイは小さく微笑む。現場から遠く離れているならまだしも、数分単位で到着できる場所にいるのならばなるべく、駆けつけたいというのがレイの本意だった。

 何ができるかは分からないが、何もしないではいられない。それは怪人として生を受けた自分の使命だと、レイは感じていた。

「お前の気持ちは受け取った。よし、法定速度ギリで駆け抜けてやるよ。速攻で行ってやろうぜ、非現実のある場所にな」

 意気揚揚と宣言し、秋護はガードレールを飛び越えて車道に出る。エンジンの唸る音を耳にすると、心の奥で奮い立つものがあった。鼓膜に響く低音に乗せられるようにして、レイの気迫も高められていく。

「はい、よろしくお願いします」

 秋護の投げてきたヘルメットをキャッチしたのと、拓也との電話が繋がったのはほぼ同時だった。




鎧の話 6

「あぁ……分かった。うん。あぁ、すぐに行く」

 切迫した表情を浮かべた拓也が、電話を切る。その通話内容がただならぬものであったということは彼の狼狽した様子からも察することができた。

 これからの方針について語り合い、互いの推論をぶつけていた最中のことだった。直也はベッドの端に腰掛け、拓也は床であぐらをかいていた。温い空気を掻きまわすように扇風機が回っている。窓の外からは、蝉の声がどこか遠くの方から聞こえた。

「怪人が、出たのか?」

 短く訊ねると、拓也は暗澹とした面持ちで頷いた。それからグラスに飲みかけの麦茶を一気に口の中へ流し込んでから、はっきりとした輪郭を伴った声で言った。

「坂井、お前も来てくれ」

「いいのか?」

 反問すると、拓也は自分の右手を掲げるようにした。そこには相変わらず黒い布が包帯のようにきつく巻かれている。

「俺もこんな状態だしさ。ピンチに追い込まれるとも限らないだろ? それに俺よりもお前のほうが強いし。いまの状況では、頼りになると思うんだよ」

「それはちょっと、買い被りすぎだろ」

 直也は苦笑しつつベッドから立ちあがって、作業机に足先を向けた。正面の一番大きな引き出しを開ける。中から取り出したのは『3』の数字と羽根のマークが刻まれた、銀色の板だった。掌を伝うずっしりとした確かな重みに身を委ね、直也は心の中に闘志を灯す。窓から差し込む光に晒されて虹色の輝きを放つ板は、まるでその意志を反映しているかのようだった。

「だけど、怪人が出たって言うんなら……行かないわけには、いかないよな」

 銀色の板をジーンズのポケットに滑り込ませる。拓也も腰を上げると、尻を両手で軽くはたきながら微かに微笑んだ。

「そうこなくちゃ。よし行こう、こうしている間にも誰かが苦しんでいるんだ。俺たちが行かなきゃ、誰がその人の未来を守るんよ」

 直也は拓也の台詞に同意すると、タンスの上に置かれていたバイクの鍵と足元に転がっていたヘルメットを手にとり、先に玄関へと向かった。拓也も早足でその後を追ってくる。

 部屋から飛び出す寸前「ちゃんと鍵を閉めてけよ! 戸締りは? ガスの元栓閉めたか?」と田舎の母親のようなことを言われて、直也は思わず噴き出した。

「久しぶりにそんなこと、人から言われたよ」

「俺は、教師だから」

 拓也は偉ぶるわけでも恥ずかしがるわけでもなく、まるでそれが当然のような物言いをする。

「人の失敗をあらかじめ防いで、助けるのが性分なんだ」

 アパートの階段を二段飛ばしで下り、駐輪場とは名ばかりな、ロープが地面に埋め込まれているだけの更地にたどり着く。直也の真っ赤なバイクの隣には、拓也のヒヨコ色のスクーターが停めてあった。ヘルメットを被りながら、隣の拓也に尋ねる。

「場所は、ここから近いのか?」

 拓也はスクーターに跨る気配すら見せず、直也の準備が整うのを突っ立って待っている。その手には電子手帳のような薄さの、黄色い板がいつの間にか握られていた。

「バイクなら4、5分ってところかな。俺はダンテで行く。先導していくから、ついてきて欲しいんだ。目撃情報は怖いけど、そんなんで誰かの命が危険に脅かされたら、元も子もないし」

 直也は座席に腰掛けると、頷いた。拓也の主張は最もだと思った。本当に切迫した時は個人の事情などなりふり構っていられないものだ。その考えには素直に同調できた。

 鍵を差し込み、エンジンをふかす。振動を全身で感じながらギアやアクセルを操作していると、直也の頭にふと閃くものがあった。頭の中央で生まれたその光は、じわりとした鈍い輝きを伴って頭全体に広がっていく。

「そういや、今ふと思い出したんだけどさ」

 拓也は首を傾げた。直也はいま自分の中で姿を見せたそのアイディアを、慎重に口にした。

「いるじゃないかよ。二条でもなく、あきらちゃんでもなく。怪人について、黒い鳥について、知ってそうな人物が1人……そうだよ、なんで今まで思いつかなかったんだろうな」

「一体、誰?」

「……13人目、だよ。詳しいことは帰ってから話そう。とりあえず今は、目の前の命だ。そうだろ?」

 直也の確認に、拓也は殊勝な顔を浮かべて首肯した。「目の前の脅威を取り除けなくて、何が教師だ、探偵だ」と発破をかけるような発言を後に続ける。その言葉は直也の中で燃え盛る使命感に、油を加えた。

「よし、さっさと行って。とっとと片づけてくるか……」

 意気揚揚とスロットルを回転させ、直也はバイクを発進させる。身をすり抜け、否応なしに背中に吹きつけてくる風は、さっさと現場へ急行しろとしきりに急きたてているようでもあった。




鳥の話 9

 廃材置き場にたどり着いた仁――"V.トール"は、ピラミッド状に組まれた角材の陰から周りの様子を窺っていた。

 周囲を、赤茶色の塀で囲まれた場所だ。木材を積載したままのトラックやフォークリフトがあちこちに乗り捨てられてある。ところどころに、昨日の夕立の名残である水たまりが広がっている。

 廃材置き場、という名前を強調するかのようにロープで縛り付けられた角材の束や横たわる木材が、そこら中に溢れかえっていた。樹木のデパートと称しても大きな違いはなさそうだ。灰色の荒いアスファルトにも木屑が散りばめられ、その独特な色合いは奇妙な渦のような模様を地上に描き出している。

 不思議と人のいる気配はない。機械と木材だけが置き去りにされている。そしてそれらに取り囲まれる形で、怪人は傾き出した太陽の光を背負い佇んでいた。

 白と黒の縞々。モノトーンの体色をもつ怪人だ。充血した双眸と丸い口が顔に配置され、左手の甲には円形の盾が装備されている。よく見れば、頭頂部には林檎が乗っかっていた。首にぶら下げているのはバナナだ。胸にはキュウリが突き刺さっている。随分と食物が豊富な怪人なんだな、という感想を仁はまず抱く。

 しかし、その怪人が両脇に2人の女性を抱えてるのを確認すると、気を引き締めた。頭をだらりと垂らした女性たちは、その顔色さえ窺うことができないものの、どうやら気を失っているらしかった。その体からは一欠けらさえも、生気を感じることができない。

 逃げるためなのか、それとも周囲を警戒しているのか。怪人は女性を振り回すようにして突然、こちらに背を向けた。それが戦いの場に躍り出る契機だと仁は判断した。

「ちょっと、そこにおしゃれな君!」

 角材の陰から体を出したV.トールは、まず怪人を呼び止めた。揃えた右の指先を前方に向ける。

「お願いがあるんだけど。その人たちを、離してもらえないかな?」

 そして怪人が声に反応し、振り向くのと同時に、仁は指先から電撃を迸らせた。

 青白い光が中空を切り裂き、敵の顔面に着地する。耳を劈くような爆音を響かせて、怪人の頭が衝撃に揺れる。よろめく敵の胸にもう一撃電撃を浴びせかける。後ろに吹き飛ばされ、女性たちを取りこぼして地面を転がる怪人からは焦げ臭いにおいが漂い、それは仁の鼻腔にまで流れ込んできた。

 V.トールは、目を瞑ったままぴくりとも体を動かさない女性たちを目の端で捉えながら、彼女らのすぐ横を駆け抜けると、立ち上がろうとする怪人の口につま先をめりこませた。悲痛の叫びを漏らし、再び後ろに転がり込む怪人を見下ろしながら、左腰のサーベルを引き抜く。そしてその切っ先をまっすぐに、喉元へと突きつけた。

「残念ながら僕は、かっこつけて戦う正義のヒーローじゃないからね。邪魔が入る前に、さっさと終わらせるよ」

 仁はV.トールとしての目を通して、冷徹な視線で怪人をなぶる。雷のように迅速に、しかし確実な一撃を。それが仁の求めるバトルスタイルだった。基礎的な戦闘能力が低く、長期戦が苦手な仁には短期決戦が最も適している。サーベルを手前に引き、狙いを定めると、ビリヤードのキューを打ちだすのとほとんど同じ感覚で突き出した。

 その鋭い剣先が、素早く怪人の喉を抉りとる――はずだった。

 その瞬間、後頭部を殴られV.トールはたたらを踏んだ。サーベルは目標から少し外れ、アスファルトに深々と突き立てられる。振り向くとそこには、目の前で倒れているのとまったく同じ姿、形をした怪人が左手の盾を振り下ろしている光景があった。

「なんだって……!」

 それは盾の正しい使用目的から外れてるのではないか、と批判してやりたくなるほど、V.トールはその盾で滅多打ちにされた。鉄パイプでレンガの壁を叩きのめすような音が廃材置き場に響き渡り、終いには小さく跳び上がった怪人によるドロップキックで、右肩を突かれた。

 呻き声を漏らし、ただ一点に衝撃を受けたV.トールは、その威力に両足をつけていることすらできずに、背後へと吹き飛ばされた。まだ倒れたままの方の怪人を軽く飛び越え、角材の山に落下する。けたたましい音を立てて崩れ行く角材たちに埋もれながら、V.トールは攻撃を受けた右肩を抑えた。

 前回の戦闘による傷が癒えておらず、さらに一撃を加えられた肩はいま、ずきずきと激しい痛みを発している。しかしいつまでもここで寝そべっているわけにもいかない。体に覆いかぶさるあまりにも多くの角材を、左手一本で力任せに払いのけ、V.トールは起き上がった。

 手を地面から離し、両膝を伸ばして顔をあげた、その瞬間だった。今度は左のわき腹だ。鳩尾に打ち込まれた一撃は仁の呼吸を一瞬だけ止め、足元を覚束なくさせた。

 気づけば、背後にも怪人が立っていた。おそらく先ほど、V.トールを蹴り飛ばした方だ。2体のまったく同じ怪人を見分けることはできなかったが、仁は感覚でそれを理解した。しかしその理解を行動に繋げる暇さえなく、V.トールは背後から伸びてきた怪人の腕に羽交い絞めにされる。

 もがくが、怪人の太い二本の腕はV.トールの体をしっかりとロックしており、びくともしない。逆に絞めつけられているこちらの体のほうが、危うげな軋んだ音色を発している。全身を打ちのめされた傷に触れられ、仁は悲鳴を胸に詰まらせる。

 怪人の体から伝わってくる記憶の奔流も、途切れ途切れになる。まるでノイズの入ったテレビ画面のように、そこになにが映し出されているのかはっきりしない。ただ目の端でくるくると回転する布のようなものがあることだけは、分かる。しかしその映像も、脳内に行き着く酸素が減少していくのに伴って真っ黒に塗りつぶされていき、視界は現実に舞い戻る。

 足音が耳朶を打ち、慌てて前方に首を戻す。そこには胸のキュウリを生々しい音とともに引き抜き、それを両手で大きく振り上げる怪人の姿があった。

 キュウリにどれほどの威力があるのかは予想できない――あのつややかな光沢は明らかに野菜よりも金属に近いように見える――がともかく、そのキュウリは怪人の体の一部を担っているものだ。それに威力に自信がなければこの局面で、そんな冗談のようなことを仕掛けてくるとは思えない。どちらにせよ、この一撃を受けることが芳しいことではない、というのは紛れもない事実だった。

 V.トールは上半身を絞めつけられた体勢のまま、無理やりに右足を前に突き伸ばす。つまさきを揃えて放ったキックは、キュウリが体を打ちのめしてくるよりも早く、怪人の胸にたどり着いた。

 スッと小さく深呼吸。そしてV.トールは怪人の胸に軽く触れさせたつまさきから、強烈なフラッシュとともに電撃を射出した。

 放電を一点に集中させた、いわば雷の槍が、擦り切れるような音とともに怪人の体を後ろへ押しやる。鋭い電撃に貫かれた怪人は転げ、角材の山に背中から突っ込んだ。

 さて、あとはもう1体か。ぎりぎりと自身の筋肉の絞めつけられる音を耳にしながら、背後へと肩越しに目をやる。体を揺すってみるが、上半身は相変わらず、強靭な2本の腕でがっちり固定されているようだ。

 仕方がない。仁は嘆息するとV.トールとしての目をぎらつかせ、意識を腹部に集中させた。

 ベルトのバックルには、三角形型の石板が装着されている。

 仁は神経を研ぎ澄ました。そしてゆっくりと、食物を反芻する乳牛のような着実さと正確さをもって、その精錬された感情をバックルに下ろしていく。傍目から見れば、V.トールは不利な状況に絶望し、勝負を諦めたと思われるだろう。全身の力を抜き、首を垂らしている姿は、成す術もなくし、時が過ぎることだけをただ願っている人の姿と重なるものがあった。

 しかしこれは、勝利に向けた布石。一発逆転へのチャージ時間だ。V.トールは準備が整ったことを悟り、顔を上げた。同時に腹の石板から、無数の青い粒子が周囲に散開した。

 蜂の巣を突いたかのような勢いで、粒子は噴きだし続ける。危機を察知したのか、怪人は不安げな声を漏らし、青一色に染め上げられていく景色を見まわしている。注意が逸れたためなのか、その腕の力が緩まった。V.トールは右の人差し指指し指と中指とを何度も擦り合わせる。

「やったね。これで……ようやく、戦いが終わるよ」

 語尾を強め、V.トールは勝利を宣言する。指をマッチ擦るような力加減で擦り合わせると、爪先にちかちかと火花が散った。

 爆発が、V.トールと怪人を包みこんだ。

 2人の周りを飛び回っていた粒子が火花で引火し、連鎖反応を引き起こしたのだ。うねる炎に襲われ、怪人は身を焼かれ、悶え苦しむ。倒れこみ、アスファルトを必死になって転がるがその火はなかなか消えてくれないようだった。怪人の肉やアスファルト、木片、それらあらゆるものの焼けた悪臭が混ざり合い、黒煙とともに漂ってくるそれらが容赦なく目と鼻に突き刺さる。

 V.トールは体についた火を手で払いのけながら後退すると、火だるまになりながら、次第に動きをなくしていく怪人の姿を無言で見つめる。胸が痛まないことはないが、人々を拉致する敵だと認識をし直せば、その気持ちも薄まる。そして足元に落ちているサーベルをつまさきに引っ掛け、跳ねあげると、空中でそれをキャッチした。

 V.トールは先ほど粒子を発散していたバックルの石板を、大して力をこめるわけでもなく取り外した。その石板を、サーベルの柄に装着させる。何の窪みも、石板に吸盤が付いているわけでもないのに、2つは逆さにして振ってもびくともしないほど、しっかりと接着されていた。

 V.トールがサーベルを一振りする。変化は唐突に、しかしその変化の大きさは歴然としていた。

 サーベルの刀身が発光する。先ほどの粒子と同じような、深い青色だ。それはまるで夜道にオーロラが走ったかのような、神秘的な輝きだった。天高く立ち昇る青い炎の柱を想起させる。刀身の周囲を一見、夜空を浮遊する蛍のように見える発光体が2つ旋回している。

 V.トールは、角材を押しのけて身を起こすもう1体の怪人に向けて駆けた。青の輝きを存分に振りまきながら、アスファルトを踏み砕き、跳躍する。

 そして雄たけびとともに、当惑顔で立っている怪人目がけてサーベルを薙いだ。得物を振り抜き、着地したV.トールの背後で怪人の首がずれ落ちる。その丸い頭部が地面に落ちるのを追いかけるようにして、続けざまに管制機関を失った体も横に倒れた。

 V.トールは静寂さを取り戻した廃材置き場を見まわし、ため息を零した。全身を鈍痛が駆け巡るが、大したことはない。サーベルを腰に戻し、取り外した石板をバックルに戻す。

 怪人に狙われていた2人の女性は戦いの巻き添えを食うこともなく、涼やかな顔をしてアスファルトに寝そべっている。彼女たちが目覚めたら、またややこしいことになるだろう。V.トールは踵を返すと、首から上のない怪人の死体を回収するため、そちらに足を踏み出す。

 銃声が、轟いた。

 V.トールは腰を捻り、素早くサーベルを引き抜いて、顔の前にかざした。

 衝撃が、サーベルを持った手に伝う。刃は激しく震え、低い唸り声のような音を発した。

 そろそろとサーベルを見れば、その刀身には傷が入り、半ばから折れ曲がっている。V.トールのサーベルはけして、やわな硬度を持っているわけではない。怪人を切り裂き、鉄やコンクリートに叩きつけることを主務としたこの武器は、たとえ銃弾が直撃したとしても、こんなに容易く形状が変化してしまうような代物ではなかったはずだった。

 では、この惨状は一体どういうことなのだろう。への字を描く自身の得物を眺めた後で、V.トールは懸念を抱きながら、銃声が聞こえてきたと思われる方向に顔を向ける。

 その目が捉えたものに、V.トールは舌打ちをした。疲労が肉体に覆いかぶさるが、軽く肩を回して少しでも軽減させるよう努める。本当に辛いのはこれからだ、と己に鞭を打つ。

 遠目に見える、赤い扉の倉庫のあたりからこちらに迫りくる人影があった。全身を包む銀の鎧、体の至るとことにパイプが巻きつけられ、戦車のような重厚なボディをしている。

 その手にはごつい銃が握られている。その銃口をこちらに突きつけてくる。それは昨日戦った相手とは明らかに異なる姿をした、仁の初めて見る、マスカレイダーだった。

「また、あいつらか……出てこないで欲しいんだけどな、本当に」

 思わず愚痴が声に乗って出る。その悪態をかき消すかのように、再び銃声音が鳴った。

 マスカレイダーがこちらにかざした銃口から、ちかりと光が瞬く。次の瞬間、頬を何かが掠め、背後で爆音が轟いた。

 敵を視野に入れながらも首を傾け、音がした方の様子を窺う。

 フォークリフトが炎に包まれていた。油臭い、真っ黒な煙をもくもくと晴天に吐きだしながら真っ赤に燃えている。その周辺に機械片が飛散し、良く見れば焼き焦げているフォークリフトの大半は木っ端微塵に破壊されていた。この時になると、仁はようやくサーベルやフォークフトを破壊した攻撃の正体が、あのマスカレイダーの撃ち放った銃弾であることに気付いていた。

「こりゃ、洒落にならなさそうだね……」

 それを確認するため注意を逸らしてしまったのが、いけなかったのだろう。V.トールは足に激痛を覚え、思わず膝を落とした。痛みの走る場所を見下ろすと、黒く強固な皮膚が抉り取られ。炎よりもまだ純度の高い、真っ赤な血がそこから噴きだしている。

 恐ろしい力だ。仁は曲った自身の武器、一撃で粉砕されたフォークリフト、そして掠めただけでV.トールの体を傷つけたその銃の威力に、感服と脅威を抱く。しかし狙いは正確ではないらしい、と評価し心を落ち着ける。こちらが特に回避行動をとっていないにも関わらず、銃弾ははるか後ろにあるフォークリフトに当たったというのが、その根拠だ。どんなに威力の高い攻撃でも、当たらなければ意味はない。

 しかし、足をやられたのはまずかった。V.トールは痺れたように動かない右足を見下ろし、歯噛みする。このままでは的同然だ。

 ならば、とV.トールは右手の指を差し伸ばし、襲来したマスカレイダーへと狙いをつけた。

 戦いたくはなかったが、怪人の死体は都合の悪いことに敵との間にある。このまま怪人を担いで、大人しく逃走させてくれるとは到底思えなかった。

 相手が引き金を絞る。V.トールも指先に熱を集中させる。一瞬触発、とはこのことだと仁は思った。マスカレイダーは一歩一歩、アスファルトを揺らがすようにしてこちらに歩みを進めてくる。駆けてこないところをみると、見た目どおりの重量さゆえに、走ったり跳んだりすることはおそらく苦手なのではないかと予測できた。

 しかしその向けられた銃口は、目をそらそうものなら噛み砕かれそうな威圧感をもっている。両足が地面に根を張ってしまったかのように、身動きがとれない。ただ指を伸ばし、電流の狙いを定めるのみ。

 空気がきゅっと、引き締まる。済みきった空間に銃声が轟き、光の弾丸が発射される。

 V.トールも青白い光を手中に滾らせ、電撃を撃ち出すことで応戦する。

 2人の狭間で攻撃同士が出会い、正面から激突しあって、破裂する。仁が息を呑んだときには、視界は溢れださんばかりの炎に包まれ、鼓膜を刺すような衝撃音に満たされていた。




鎧の話 7

 商業ビルの骨のような外階段を駆け上がり、息を切らせながらその屋上にたどり着く。直也は目の前に開かれた光景に、表情を引き締めた。

 先日の雨が嘘のような、実にあっけらかんとした空を背景に、"ダンテ"と"怪人"が戦いを繰り広げていた。

 頭にはリンゴを乗せ、首にはマフラー代わりのバナナを巻き、胸をキュウリで刺した随分とコミカルな外見をもつ怪人だ。両眼は充血しており、シマウマのようなボーダー柄の体色を備えている。

 大ぶりのパンチと、ローキックでいつも通り果敢に怪人を攻め立てるダンテだったが。直也はその姿勢に違和感を覚えずにはいられなかった。

 ずっしりとした重い一撃を装甲服の拳に乗せて、敵の体に打ちこんでいくのがいつものダンテの攻撃パターンであったが、今日はなんだかその重みが随分軽いように感じられた。ダンテの息もすでに随分とあがっている。攻撃をする度に、ダメージを受けてもいないのに疲労が積み重なっているようにみえる。

 やはり、手首の怪我が影響を及ぼしているのだろうか。怪人もその体調の異変を察したようで、左手に装備した円盤形の盾を用いてダンテを突き放すと、胸のキュウリを意気揚揚と引き抜いた。

 そして、そのキュウリを一閃する。胸に一太刀を浴びたダンテは火花を散らして弾き飛ばされた。後ずさりし、よろめいたところをさらにキュウリで突かれる。軽やかなステップを踏むように、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら襲い来る怪人に滅多打ちにされたダンテはフェンスに激突し、ぐったりと頭を垂らした。怪人は嬉しそうに頭のリンゴを撫でながら、まだその場で跳ねている。

「速見!」

 直也はきょろきょろと周囲を見まわし、やがて太陽光を反射して輝く鉄製の手すりに目を留めた。近づけばきっとその表面には、逆さまに立つ自分の姿が映り込んでいるはずだと期待を込める。

 おそらくその手すりは、よじ登りを防止するためのものだろう。フェンスを遮るかのように設置されていることから、そう察することができる。高さは直也の胸あたりで、少々細いのが不安要素ではあるものの、ここに他の反射物は見当たらない。可能性が目の前にあるならば、がむしゃらにでも引っ掴んでみるべきだ。直也はどこかで耳に挟んだそんな言葉を思い出し、決意を新たに頷いた。

 手すりを目指して走りながらポケットに手を突っ込み、中から『3』と番号の振られた例の板を取り出す。辿りつくと小さく深呼吸をし、それから板を静かに手すりへと押し当てた。

 息を、呑む。緊張感が走る。たっぷりと夏の日差しを取り込んだ手すりの熱が、板を介して指先に伝わる。直也はこれを遺してくれた、かつての恋人に心の中で懇願する。装甲服を展開してくれ、と声に出さずに叫ぶ。

 一拍置いて、手すりが光を帯びた。まるで手すりが切り裂かれ、中に詰め込まれていた宝石が顔を出したかのような強烈な輝きだった。続けてその光でできた裂け目から、次々と装甲のかけらが飛び出していく。場所が場所であるため、大変窮屈そうではあるがそれでもひしゃげ、自らへこみながら胸を覆うパーツ、足を守るパーツといった具合に大小様々な装甲の部品が姿を現す。直也が板を手放すと、それは腹のあたりでぴたりと空中に停止した。

 それらは宙を舞い、くるくると回転をしながら1つずつ直也の身体に纏われていく。柄と途中で割れた刀身しかない刀が手すりの中から飛び出し、装甲服の腰に収まった。頭部をマスクで覆われ、関節や鎧のない部分に黒いボディスーツが敷かれると、そこに直也の面影はまるでなく、代わりに立っていたのは銀色の装甲服を備えた戦士、"オウガ"だった。

 オウガを装着した直也は地面を蹴ると、大きく振りかぶった右拳で怪人の背中を殴りつけた。ダンテのすぐ隣のフェンスに頭から突っ込むと、怪人は甲高い悲鳴のような声をあげる。

「坂井!」

 ダンテが驚嘆と安堵のこもった声を発した。オウガは手を軽く挙げて応じると、キュウリを振りかざしながら急迫してくる怪人へと注意を傾ける。

「変なもんで攻撃してくるんじゃねぇよ! 人の緊張感を台無しにしやがって……このツケはしっかりと払ってもらうぞ」

 オウガは吠えながら回し蹴りで、振り下ろされてきたキュウリを半ばからへし折る。さらにその遠心力を利用してもう1度回転すると、今度は逆の足で怪人の脇腹をしたたかに蹴りやった。

 バランスを崩しながらも、盾で応戦しようとしてくる怪人目がけて、オウガは躍りかかる。顔面を殴りつけると、胸にパンチのラッシュを叩きこみ、さらにハイキックで首に一撃を見舞った。

 攻撃の連打を浴びせ、足元を覚束なくさせる怪人を、さらに攻めたてようとオウガは腰を低く落として身構える。決定打がなく、長期戦にならざるを得ないのがこの装甲服の弱点でもあった。幸いなことに、自分の持久力や体力、格闘能力や腕っ節に直也は自信があったが、対して精神力の脆さもまた自覚していた。

 やはり、たとえ相手が怪人だとしても何度も何度も、相手が死ぬまで暴力を働くことに抵抗感がないはずはない。怪人との戦いは自らが望んだ道であるが、拳を振るいその痛みが指を伝う度に心が絞めつけられる。

 怪人が丸い口を限界まで広げて、大きく息を吸いこんだ。訝しむ暇もなく、その口から何かが吐き出される。白い液体だ。唾液のようでも、うっかり机上に零してしまった修正液のようでもある。それがオウガと怪人の間に落ちた。液体は若干飛び散り、汚らしい水玉模様を地面に描きだす。

 その液体からあっという間に、煙が立ち昇った。液体の色と同じく、ドライアイスのようにもくもくと視界を包みこむ真っ白な煙だった。煙が空気に溶け込むようにして消滅すると、その中で陽炎のように浮かびあがっていたシルエットが少しずつ暴かれていく。

 現れたのは、先ほど液体を吐きだした怪人とまったく同じ姿形をもつ、怪人だった。同じように頭頂部にリンゴを乗せ、同じように盾を構え、同じようにキュウリが胸を貫通している。怪人は胸からキュウリを引き抜くと、その切っ先をオウガにかざした。

「増えた? ふざけた武器だけが、本領じゃなかったってわけか……」

 瓜二つの姿をもつ、2人の怪人の注目を一身に浴び、直也はたじろぐ。しかし跳躍し、2体の怪人が一斉に襲いかかってくるのを確認すると、仮面の下に浮かべた表情を引き締めた。敵が新たな能力を露呈したということは確実にこちらが追い詰めている証拠だ。このまま攻め立てていけば、勝利を得ることができると確信できる。

「だけど、ただ増えただけじゃ強くなったとはいえないぜ!」

 オウガはまず、キュウリを振り回しながら落ちてくる1体目の怪人の体の下を前転でくぐり、かわすと、盾を突き出してくる2体目の怪人の顔面を正面から殴りつけた。地面をつまさきで蹴り、空に放物線を描くように宙返りをすると、よろめく怪人の背後に着地した。

 手すりに腰でよりかかり、フェンスを足の裏で蹴とばす。その反動を用いてオウガは怪人の背中に抱きつくと、そのまま腕を巻きつけるようにして羽交い絞めにした。

「速見、今だ!」

 直也はこの時を、待っていた。

 視界の端で捉えていたのだ。肩から光の翼を放出し、空に舞い上がるダンテの姿を。彼はいま、淡いほのかな灯りを背負いながら空中で待機している。

 直也がいくらその身体能力を駆使し、上手く立ち回ったところでオウガの能力では、怪人に与えることのできるダメージなどたかが知れている。人間相手ならばノックアウトできるパンチも、怪人に対してはまるで手ごたえがない、という経験はこれまで幾度となくあった。

 だが、今日は違う。今日は仲間がいる。2人の心が重なれば怪人を追い詰め、撃破することなどあまりにも容易いのはないかと直也は心から信じていた。

「あぁ、いくぞ! 坂井! 食べ物をおもちゃにするような奴を……俺は絶対に許さない!」

 ダンテは耳にあてがわれているインカムのヘッドホンに手を伸ばし、そこに搭載されているダイヤルを回転させた。カチリ、と音がし、ダンテは両腕を広げて全身で十字架のようなポーズを取った。10秒も経過することなくその頭部に光が集い、太陽を脅かすほどの輝きが天に広がっていく。

 ダンテは頭に光で燃え盛らせたまま、頭を下にすると、地上の怪人目がけてミサイルの如く突っ込んだ。急降下するその全身が真っ白な光輝にくるまれ、空気との間に強烈な摩擦が生じているのか、その周辺には真っ赤な熱が帯びている。

 赤と白のコントラストが美しい、煌びやかな光を引き連れて、ダンテは怪人に正面から突っ込んだ。オウガはぎりぎりまでダンテを引きつけると、寸前になって怪人を前に押し出し、自分は横に転がってすんでのところで回避する。

 オウガは自分の真後ろで空気が膨らんでいく感触を覚え、さらに続けて、肌が焼かれるような強烈な熱と光によって、ここ一体の夏らしい空気が淘汰されていくのを感じた。

 残されたのは、ゆっくり身を起こすダンテとどろどろに溶けた手すりやフェンス、そして小さな焦げ跡の残ったコンクリートの地面だけだった。

 影も形も残さず、断末魔をあげることさえも許さずに蒸発させる。それがマスカレイダーと対を成した者に用意された末路だった。

「あと……もう1体!」

 背後の気配に寸前で反応し、オウガは折れた刀を腰から引き抜きながら振り返る。唐竹割りをしてきた怪人のキュウリを刀でタイミングよく受け止めると、がら空きになった胴にキックを叩きこんだ。

 さらに、駆けてきたダンテが続けて怪人の前で小さく跳躍し、強く固めた右手で斜め上方から殴りかかった。

 咄嗟に円形の盾を掲げてくるものの、捨て身の拳の前に一撃で砕け散る。戸惑う様子の怪人に対し、前に飛び出したオウガはその折れた刀で二度、三度と斬りつけた。その使用方法は刃物としての役割よりも、むしろ鈍器としての意味合いの方が強い。しかしダメージを刻みこんでいることには変わらず、痛みを抱えた怪人はよろよろと後ずさった。

 さらに怪人の肘を強く小突き、その手からキュウリを手離させる。連続攻撃を終えるとオウガは一歩、後ろに飛んだ。

 声を掛け合うこともせず、しかしオウガとダンテは息のぴったり合ったタイミングで、空高く跳びあがった。

 オウガは宙でとんぼ返りをし、ダンテは右足を真っ直ぐに伸ばす。ドロップキックの体勢を空中でとった2人はほぼ同時に、怪人の胸を捉え、そのまま蹴り飛ばした。

 装甲服2人分の脚力は、怪人の臓器を潰すのに十分過ぎた。一瞬、怪人が空中で停止したかのように思うと、タイムラグを置いて後ろに吹き飛ばされ、鉄の手すりを砕き、フェンスをぶち破った。

 屋上から落下していこうとする怪人を前に、ダンテは着地をする暇さえ惜しむように慌てて駆けだした。両肩から翼を生成させ、地面スレスレの低空飛行でフェンスの穴から身を乗り出し、腕を伸ばして怪人をキャッチする。彼は左手一本で怪人の片足を掴んでいた。怪人は8階建てのビルの屋上からぶらぶらと、頭を下にして揺れている状態だ。本当に紙一重だった。直也もまた装甲服の下で安堵の息を吐きだす。

「で……どうなんだよ。死んでるのか?」

 直也はバックルから板を引き抜き――右にスライドすれば、簡単に抜けるようになっている――自分の体を離れ、手すりの中に帰っていく装甲服を見送ると、ダンテに近づいた。口から黄緑色の液体を吐きだし、白目を剥いた怪人の姿は生々しく思わず嘔吐感がこみ上げたが、ダンテはそんなことなどまるで構わない、といった様子で顔を近づけてまじまじと観察をしていた。

「あぁ、死んでるよ。大丈夫。あとはこいつを、消し去るだけだ」

 判別を終え、立ち上がると、ダンテは耳のダイヤルに手を伸ばした。

「あ、ちょっと待ってくれないか?」

 慌てて直也が制すると、ダンテはダイヤルを回転させようとしていた手を止め、怪訝そうに首を傾けた。

「なんだ、何か忘れ物?」

「いや、なんのだよ。黄金の鳥の奴らさ、この怪人を狙ってくるわけだろ? だったらここにしばらく置いといたら、今回も来るんじゃないのかな」

「でも、あいつらは来る時と来ない時とがまちまちなんだよ。怪人を拾うことに積極的じゃないのか、それとも怪人を察知する能力がいまいちなのかは分からないけど。だから俺もそれほど会ったことがあるわけじゃなくて……」

 ダンテは仮面の後頭部を指で掻きながら、その続きを口にするのを躊躇った。直也はそこに継がれるはずの言葉を大まかに理解していたが、それだからこそ語調を強くした。

「だけど可能性はあるわけだろ? 5分だけでいいから、怪人を消すのはもう少し待ってくれないか。わずかでも期待があるなら、それを最後まで信じたいんだ。頼む」

 直也が頭を下げると、ダンテは数秒だけ間を開けた後、あまり気乗りしない様子ではあったがその希望を承諾してくれた。

「誰かに現場を見られていると、まずい。本当に5分。そうでなくても、誰かがここに昇ってくる気配があったら、怪人消して帰るぞ」

「分かってるって……サンキュ」

 もう1度、直也は礼を言うと、怪人を背にして空を見上げる。夜の気配が高まる空の様相は、どこか情事的な物哀しさがあり、じっと仰いでいると胸の奥が震えた。

「あきらちゃん、来ないかな」

 戦闘の中でもいいから、怪物の姿のままでもいいから、あきらに会いたい。そして話をしたい。たとえその結果、咲の真相に少しも近づけなくても、それでも構わなかった。この心にぽっかり空いた隙間を、あきらと過ごす時間で埋め尽くしたいだけで、また彼女と会えるのならばそこに、難しい理屈やこねくり回された打算は無用のように思えた。

 ただ彼女に会いたいという思いが、胸の中でひしめき合っている。その窮屈そうな音を耳の奥で感じながら、直也は戦場に舞い戻って来た夏の空気に、深いため息を浮かべた。




魔物の話 9

 突然、バイクが急ブレーキをかけたので、レイは頭を思い切り秋護の背中にぶつけてしまった。

 ヘルメットを被っていたのでこちらにダメージは少なかったが、背中に頭突きをくらった秋護のほうが小さな呻き声をあげる。秋護とレイは怪人の反応のある現場に向かう途中で、近道のため人通りの少ない路地裏を選んで走っていたところだった。

 左右に並ぶ店はそのほとんどがシャッターを閉じていて、唯一、綺麗に外装が磨かれており営まれていることが確認できるクリーニング屋も、ドアに『夏期休業中』の貼り紙がしてある。空を見上げれば雲が流れ、太陽が照り輝いているというのに、この静けさは異常ではないか。

 おそらく、例の女性誘拐殺人事件の余波だろうとレイは予測した。始めは謎の連続失踪事件という見出しだったが、失踪した女性たちの死体が見つかったことから誘拐殺人へと名称が変更された、例の事件だ。もちろんレイたちマスカレイダーズは、それが二条裕美や白衣の男の操る怪人たちの犯行であることを知っている。

 こんな物騒で不可解な事件が起きているからこそ、人々は皆、人通りの少ない道をなるべく避け、あえて混雑した満員電車のような道を歩くようにしているようだった。みんなでやれば怖くない、ならぬ、みんなで歩けば怖くない、の心理だ。

 バイクは低いエンジン音を唸らせながら、そんな閑散とした道の真ん中で停止していた。どうしたのだろうと不安に思い、片手一本で支えながら体を横に傾ける。秋護の横から首を伸ばすようにして前方を窺うと、そこにはバイクの前に立ちはだかるようにして2人の人間が立っていた。

 1人は男性。もう1人は少女。

 男の方は20代後半という具合で、銀のフレームのメガネをかけどこか知的な、しかし冷徹そうな顔立ちをしていた。髪は長く、耳がすっぽり隠れている。真夏にも関わらず、群青色のカーディガンを羽織り、首には真っ赤なマフラーを巻いていた。指にはめているのは貝殻の指輪だ。

 少女の方は10代半くらいだろうか。眉が吊りあがり、どこか強気そうな顔立ちをしていた。しかし丸顔のためなのか、刺々しい雰囲気はどこか影を潜めているように思える。髪は両端で結ばれ、真っ赤なスプレー缶を丸ごと1本吹きつけたかのような、むらのある染め方をしている。頭にはドクロを模した髪飾りを付け、スカートをひらひらとさせたゴスロリ衣装に全身を包んでいた。

 2人から漂ってくる不穏な空気に、レイと秋護はヘルメット越しに目配せをし合った。面倒なことになった、というのがそのアイコンタクトから得た共通の感想だった。焦りが心を急かす。早く行かなくては、現場に向かっている意味がないではないか。

「おい、急いでるんだ。悪いけど、そこどいてくれよ」

 秋護が大声を出す。しかし2人からは引く気配をまったく感じることができなかった。男は無表情で、少女は含み笑いを浮かべて、こちらを眺めている。レイは2人の不遜な態度を、心底不快に思った。

 秋護も同様のようで、しきりにつまさきでバイクのボディを小突いている。先ほどよりも棘のある声で、「早くどけっていってるだろー。邪魔だよ、邪魔邪魔。交通妨害禁止!」と言い放つ。

 何も言いださないのも失礼だと思い、レイも「禁止!」と取ってつけたように小声で訴えた。

「道を開けてやってもいい。……が、お前はダメだ。後ろのガキ」

 『不愉快』の三文字をありありと表情に浮かべながら、男の方が言った。突き出された指は明らかにレイに向けられており、前触れもなく指名された意外さに思わず「え、私?」と声をあげてしまう。「それは、可愛い子詐欺ですか」とさらに付け加える。

 「男女差別だ」と秋護が低い声でさらに補足した。そしてうんざりとした口調で、首を気だるそうに回しながら言った。「まぁ、そういうわけだからさ。こいつも通してやってくれよ。俺は、区別はするけど差別は嫌いなんだ」

「死刑だよ死刑。あんたはこれから、死ぬんだよ」

 少女が明るい口調で物騒極まりないセリフを口にする。隣に立つ男は呆れるように肩をすくめると、人差し指を使ってメガネを押し上げた。

「それは少し違うな、妹よ。滅びるのは人類のほうだ。この地球を汚染し、関係のない生物たちを虐げ、汚く醜い心を内に秘めながら地上を闊歩している。人類こそ、私たちが撲滅させなくてはならない、悪しき種なのだ」

「兄貴の言ってることは、いつもよく分かんないだよなぁ……。いいじゃん、みんな殺しちゃえば。シンプルが一番いいよ」

 兄、妹とお互いを呼び合う2人は兄弟なのだろうか。それにしては顔立ちも性格もあまり似てないな、と不審に思った。

 早口で捲し立てる男を前に、レイと秋護はきょとんと立ち尽くす。男が何を突然言い出したのか、その内容の半分も理解することができなかった。

 男はどこか遠い空を見つめるようにし、身ぶり手ぶりを交えながら、宙に浮かんだ詩を読み上げるように言葉を続けていく。

「私は嘆かわしい。なぜなら、お前が人間の中に混ざって仲良く暮らしているからだ。その力で人類を滅亡に追い込むことだってできるのに、それをしないお前に、私は嫉妬しているのだ。なぜその力はお前にある。世界の平和を願う、私に授けられなかったのか!」

「だから私がお前をぶっ殺してやんよ! 死刑だ死刑!」

「妹よ、少し黙っていて欲しい。とにかく、感情論はひとまず置いて。私に与えられた使命を聞いてほしい。それはただ1つ。最強の怪人であるお前を、覚醒させることだ」

 心臓の鼓動が一気に跳ね上がる。男の指は真っ直ぐ、レイを指していた。見上げれば、いまの言葉を秋護もしっかりと耳にしていたようだった。独白された内容が要領を得ないらしく、しきりに首を傾げている。

 言い逃れはできない。お前の正体は怪人であると、道端でいきなり暴露されたことはレイの心にただならぬ衝撃を与えた。しかもそれをマスカレイダーズの一員である秋護に聞かれてしまった。これが一番、レイにとってはまずいことだった。悪い方向に向けば、最悪マスカレイダーズに追われる身になってしまう可能性も否定できない。心の底で積み上げてきたものが崩れる音を聞いた。

「黒い鳥の血を色濃く受け継ぐお前に、人間の生活など豚に真珠、馬に念仏。言語道断。人を捨て、人類を滅亡させる作業に励むべきだ。それが宿命というものだろう?」

「あなた……あなたたち、誰なの?」

 街中で偶然出くわした単なる男女が、レイの正体や黒い鳥のことを知っているとは到底思えない。レイは恐怖に肌を粟立たせながら、つっかえつっかえ問いかける。すると男は嫌悪感を剥き出しにした表情のまま、薄い笑みを口元に宿した。

 その瞳が金の色彩を帯びたのを見て、レイは意識するよりも早く彼から飛び退いていた。

 男の姿が、変わる。まるで人間の形が溶けだしていくようだった。輪郭が明瞭さを失い、どこか掴みどころのない印象に移り変わっていく。そしてパズルをばらし、まったく新しいピースを下から高速で組み上げていくような経過をたどって、男は怪人へとその姿を変えた。

「やっぱり、怪人!」

 頭の隅から光が溢れ、そこからいま、視覚情報として得ているものと同じ映像が脳内に飛び込んでくる。人間から変化をすることで、この世に現出する怪人。レイはこのタイプと、かつて出会ったことがあった。

 二条裕美を父と慕い、その命令のままにカメキチを殺害し、最終的には黒城のアークによって塵になった怪人――"シーラカンス"を瞬間的に、想起する。男から変化した怪人をざっと観察してみても、シーラカンスとの共通点が多く見受けられた。

 石灰のように無機質な色をした、真っ白い体。顔の額から上は、頭蓋の形に切り取られた丸いガラス張りの水槽になっていた。中では2匹の金魚が優雅に泳いでいる。目は切れ込みのような細いものがあるだけで、牙の生え揃った口は大きい。深海魚のような顔つきをしている。頬には赤色の塗料で描いたような、鳥の羽の絵が記されていた。胸には二枚貝の絵が描かれ、腹部にはわずかな蠕動を繰り返す、緑色の空洞が空いている。

「私の名は、イスト。黒い鳥と1つの命、そして1人の親から生まれた。お前と同じ、怪人だ」

「あんたと同じなんて気に食わないけど、実は私もそうなんだよねぇ」

 声の方を向けば、いつの間にかそこにも怪人が立っていた。頭部にそのまま髑髏の意標が使われている怪人だ。やはり頬には、赤いペイントで羽根の形が描かれている。頭の両端には、鳥の嘴がお下げのように設置されている。

 全身の体色は黒だ。そこに金と白で、様々な記号や文字がびっしりと書き込まれている。胸にはカラスの絵が描かれ、右肩には孔雀の羽根のような、漆黒の翼が展開していた。喋らなければ、その正体があの赤髪の少女だとは気付かない。

「こいつの名は、バニッシュ。俺の妹で、つまりのところ親は私と同じだ。お前なら、誰か分かるだろう?」

 イストが、少女から変化したその怪人を紹介する。レイは様々な可能性を思い描き、そしてあらゆることを考慮させた結果、1つの結論を導き出した。頭に浮かんだのは、小屋の中で喜々とした表情を浮かべ、これまで手にかけた女性について弁を振るっていた男の姿。

「あの死体マニアの、白衣の人?」

「ピンポン。正解! 賞品は死刑!」

「違うと言っているだろう、この低能が! まぁいい。お前に説明するのは、酸素の無駄遣いだ。……とにかく、お前はこの場で真の力を得なくてはならない。それが分相応、選ばれた生き方なのだからな」

 その時、レイの前に跨っていた秋護が突然立ち上がりバイクから降りた。当惑しながらもレイは釣られて飛び降りる。秋護はヘルメットを被ったままだったが、その視線は真っ直ぐ2人の怪人に注がれているようだった。

「藍沢さん?」

「随分楽しい状況になってるじゃないかよ。路地裏に潜み、女の子を狙う悪党共なんて非現実すぎて面白すぎるじゃないか」

 こういうのを待ってたんだよ。そう後に続ける秋護の声は興奮に震えており、いまにも舌舐めずりを始めそうな雰囲気すらあった。

「なんだ、お前は? クズのような人間が。そこをどけ。なんならここで消してやってもいいんだがな」

 イストはその心に滾る不快な感情を隠そうともしない。バニッシュも体の向きを変え、嘴状のお下げを軽く揺らしながら可愛らしく小首を傾げた。

「なに? 死刑希望?」

「うるせぇ、なんだお前らこそ愉快な外見しやがって! いつもの俺なら、お前らに喜んで勝負を挑むさ。こんな機会、めったにないからな。だがな……」

 秋護はそこで一拍置き、2人を人差し指でさした。胸に満ちた興奮を抑えきれない。そんな感情が伝わってくるかのようだった。

「今は話は別だ。俺の仲間を、レイちゃんを返してもらうぞ!」

 その言葉が最後まで本当に言い切れたのか、判然としない。少なくともレイは、"かえして"、の、"て"、までしか聞き取れなかった。秋護はバニッシュに腹を蹴られ、写真屋の入口に下りたシャッターまで吹き飛んだ。がしゃん、とけたたましい音が響き渡り、背中を強く打ち付けた彼は地面に落ちると、ぴくりとも動かなくなった。

 バニッシュは両足で着地すると、声をたてて笑った。

「あんまり活きがってんじゃないよ。こいつが終わってから、あんたはゆっくり死刑にさせてもらうよ。兄貴、あいつなら殺してもいいでしょ?」

「いいだろう。どうせ、人類はすべて抹殺するつもりなんだ。1人死ぬのが早くとも、全体からみれば何の影響もない。貴様の好きにするがいいさ」

「藍沢さん!」

 全身がサッと冷たくなる。秋護の頭はヘルメットですっぽり覆われているため、その顔色を窺い知ることは不可能だった。しかし両腕を投げ出した体勢で人形のように寝転がった秋護を前に不安が殺到し、レイはヘルメットを脱ぎ捨てると、慌てて駆け寄ろうとした。ところが、その行く先をバニッシュが遮る。彼女は愉悦に満ちた声色を発し、通せんぼをしてくるかのように両腕を広げた。

「人の心配してる暇なんか、あんの? 自分の身を心配しなよ。覚悟してちょうだいよ。私がこれからズッタズタに切り裂いてやるんだからさ」

「……だから、違うと言ってるだろう。私たちが姉から受け取った任務は、こいつの覚醒だ。殺すことではない。そこを履き違えるな」

 バニッシュとレイの間に、イストが割りこんでくる。彼はレイを、冷やかな目で見下ろしてきた。陰湿さの見え隠れするその細い眼は、対峙する者の気力を根っこから削いでいくかのようだ。

 バニッシュは不満そうな顔で、秋護からも顔を逸らす。頬を膨らませて、こちらを睨んでいる。

 レイは下唇を噛むと、自分の影を鳥のものに変化させようとした。ところがイストに睨まれているためなのか、それとも知られたくなった事実を触れ回されたことに対する衝撃が感じていた以上に大きかったのか、どんなに気を集中させようとも、レイの影は人の姿から崩れることはなかった。

 自分が内包しているはずの力が、自分の思い通りにならず、レイは焦眉の思いで何度も自分の影に視線を落とす。しかし一向に、力は発現してくれなかった。

 ごぼり、と水泡が沸き上がるような音が聞こえたのはそれからすぐのことだ。その音源がどこからなのか、と探ろうとした瞬間、イストの腹に空いた穴から飛び出してきた触手がレイの両腕に絡みついた。

「な……!」

 声をあげようとするレイの口を、さらに緑色の触手が塞ぐ。壺の中から手足を出す蛸のようにイストの腹部から、はちきれんばかりの勢いで飛び出した触手は、レイの全身の自由を次々と奪っていく。両手足を縛りつけられ、胴体を絞められると完全に身動きがとれなくなってしまった。

 突然の緊急事態にパニックに陥り、頭の中が真っ白になってしまう。叫び声さえ出せず、もがく力もなく。レイの体は無数の纏わりつく触手によって一瞬で捕捉されてしまう。ぬるりとした粘膜に覆われた触手は肌をくすぐり、気持ち悪い感触が全身を覆う。

「よし成功だ。このまま姉のもとに持ち帰ろう。そして私の成果を報告する」

「私? 私たち、じゃないの? 自分1人で勝ったような言い方すんなよ、感じ悪い」

「馬鹿な。お前は邪魔をしただけだろ。いつも思うが、もう少し、身をわきまえたらどうだ。妹にしては、お前は腹立たしいぞ」

「妹にしては、ってなんだ。兄貴にしては、妹を大切にしようという気持ちが全然伝わってこないんだけど?」

「黙れ。妹は兄の道具であればいい。くだらないことしてないで、行くぞ。お前と漫才をする気は、私にはさらさらない」

 殺伐とした会話をバニッシュと交わしながら、イストは触手でぐるぐる巻きにしたレイをそのまま持ち上げ、踵を返す。バニッシュは不平を垂れながらも、その後をのんびり歩いてついていく。

 触手は絶えず収縮し、体を絞めつけてくるため、レイは呼吸をすることすら困難になっていた。肺の中の酸素が触手の蠕動によって押し出されるが、顔を押さえられているため、外気を吸い込むことができない。苦悶にもがくが、やはりびくともせず、レイは次第に考える力も、抵抗する余力さえも奪われていく。

 そんなレイの絶望を振り払ったのは、腹の底に響くようなバイクのエンジン音だった。

 突然、バニッシュが間延びした絶叫を上げて吹き飛ばされた。前に飛び、頭から地面に落ちて店のあたりまで転がる。

 あまりに突然の出来事に、驚く間もなく、今度は軽い衝撃に背中を押されたイストが前のめりに倒れこんだ。触手に漲っていた力が一斉に緩み、レイは前方に投げ出される。地面に肩から落ちたが、触手によって簀巻きにされていたのが吸収材代わりになったのか、思ったよりも痛みは少なかった。

 大きな影が体に落ちてくる。降り注ぐ日の光を遮ってくるその人影に、レイが首を捩るようにして頭上を仰ぐと、そこにはバイクにまたがる秋護の姿があった。

「藍沢さん」

「早く乗れ、レイちゃん! ここはさっさと逃げ出すぞ。早く!」

 差し迫った声をあげ、秋護は首で自分の背中を示した。レイは頷き、狼狽しながらも何とか身を起こす。

 イストがダメージを負ったからなのか、触手は大分緩くなっていた。頭をくぐらせて、レイの体を蹂躙していた触手を外し、放り捨てる。束縛が解けたことを確認する間もなく、前のめりに走って、縋りつくように秋護の背中に抱きついた。酸素がしばらく、頭に十分行き渡らなかったためか、まだ意識は朦朧としていた。

「しっかり掴まってろよ。暇な大学生のドライビングテクニック、見せてやる!」

 秋護は起き上がろうとするイストの背中を容赦なく轢くと、クラッチとギアを操作し、アクセルを捻って加速しながら、路地の出口に向かって飛び出した。背後で憤激混じりに声が聞こえるが、レイと秋護を乗せたバイクはそんな喧噪すらも置き去りにして、風を引き連れながら一般道に滑りだしていく。

 途中、2体の怪人は襲いかかってくる気配をみせたが、レイは先日仲間に引き込んだゴキブリたちを思い出して、こっそり操作し、食いとめる。生き残ってくれることを願いながら、レイは後のことをゴキブリたちに委ねた。

「非現実的なことに巻き込まれた、がなんとか助かったな。狩沢さんからプレートを受け取っておいて良かった」

「……まさか、プレートで防いだんですか? あの、攻撃を?」

 狩沢からもらった、と『1』の数字が刻まれたプレートを掲げ、玩具を与えられた子どものように喜んでいた秋護の姿を思い出す。しかしあんな、掌に収まってしまうほど小さなもので、咄嗟に蹴りを受けることなどできるだろうか。

「できたんだから、しょうがない。超ラッキーだった。すげぇスリルだったなぁ。死ぬかと思った。俺の死んだふり、なかなかのもんだったろ?」

 ははは、と軽やかな笑いをあげる秋護にレイはうんざりとする。状況が状況だけに、どう考えても笑い事ではなかった。

 ウィンカーが出され、国道に侵入する。振り向き、周囲を観察するがあの2人の姿はどこにもなかった。信号待ちをする人たちや、道路を連なって走る車、日常的な市街地の1日が順調に展開を続けている。今だけは何とか逃げられた、と思いたい。これで諦めるはずはないと思いつつも、一時の安心に胸をなで下ろさずにはいられなかった。

「レイちゃん、大丈夫か? 連絡できる? ヘルメットしてないから、警察来る前にそろそろ停まらなきゃいけないんだけど……おーい、大丈夫か?」

 秋護が心配そうに声をかけてくる。だがレイはその言葉を風とエンジンの音で聞こえなかったことにした。怪人であることをばらされたショックと、触手に攻撃されたダメージが重なったことから、あまり人と話したい気分ではなかった。特にこの状況で秋護とは、最も会話を交わしたくはない。あまりに大きな秘密を暴露されてしまった後に、どんな顔をして彼と向き合うことができるだろうか。

 様々な動揺や混乱が胸をかき乱し、頭の中では無数の糸が修正不可能なほどに絡み合っている。あまりに多くの情報が注ぎ込まれたため、まったく頭の整理ができていない。レイは風にブロンドの長い髪の毛をなびかせながら、秋護の背中に頬をつけ、ゆったりと瞼を閉じた。これから先は頑張るから、今だけは休ませて欲しい、誰にともつかず、レイは許しを請う。その積み重なった心労は、レイの意識を眠りの園へと引きずり込んでいった。


3話 完

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