2話「鳥のお面を被った人たち」
「ケータイで読むには長すぎるだろ!」というご指摘をいただいておりますが、やはり長いです。読んでくださっている方々には感謝感謝ですね!
余談ですが、4章のサブタイトルはちょっと近いような遠いような……というネーミングにするように心がけてます。
鳥の話3
その晩、帰宅した仁を迎えてくれたのは、皿に積まれた焼き餃子の山だった。仁はただいまの挨拶をするのも忘れ、食卓に並んだ餃子にただただ目を瞠る。
自宅の玄関から階段を上がった先にある、リビングでのことである。
白石家ではこの部屋が一家団欒のスペースと食事をとるスペースという、2つの役割を兼ねていた。奥の方はリビングと直結したキッチンスペースになっており、漂ってくる調理の音と匂いをリアルタイムで感じながら食事の用意を待つことができる。
今、そのリビングは肉と小麦粉の焼けた匂いが混ざり合った、香ばしい匂いに満たされていた。しかし換気扇を回していないのか、部屋全体は薄い煙に覆われている。そのくすんだ情景を盛り上げようとするかのように、途切れ途切れギターの弦を弾く音が聞こえてくる。
音のする方へ目をやると、ソファーに腰掛けてギターを弾く少年、天村佑の姿があった。
佑は仁が帰ってきたことに気付くと演奏を止め、「仁さん、おかえり」と素っ気ない反応を示すと、再びギターに没頭し出す。彼の持っているのはエレキギターだったが、アンプが刺さっていないため、ぽろぽろとささやかな音だけが周囲に漏れている。1フレーズ弾いては首を傾げ、その度にチューニングを行っていた。難しい顔をしているところをみると、どうやら珍しく演奏に行き詰っているようだ。
「ただいま佑。随分頑張ってるみたいだけど。あんまり根詰め過ぎちゃ駄目だよ」
ねぎらいの言葉をかけるものの、彼の耳には届いていないようだ。仁は真剣な面持ちで試行錯誤している佑を、少しだけ羨みながら見守る。1つのことにのめりこむことは、それが何であれ良いことだ。自分にはそういう打ち込めることがなかったので、仁には余計に羨ましく思えた。だからそれ以上言葉を重ねることなく、佑との距離をおくことにする。彼の邪魔をしてはいけないと自らに言い聞かせ、身を引く。
焼き餃子に目を戻す。それは大きな皿に乗って、4人掛けのテーブルの中央に置かれていた。いい具合に狐色の焦げ目がついているものもあれば、真っ黒になって苦々しい香りを振りまいているものもある。それとは逆に青々とした中身が透けており、火が通っているのかさえ疑わしいものも発見できた。形も様々で、ぺちゃんこに潰れてワンタンのようになっているもの、上で包まれシュウマイのようになっているもの、生地が剥がれ無造作に肉の塊が転がっているだけのものすらある。
もちろん、ちゃんとスーパーで売っているような餃子の形をしているものも少数だが見受けられた。非常にむらがある料理だ、と仁は感心した。何となく、この餃子の山が老若男女、強者弱者様々な人々が入り乱れる人間社会を表わしているような、そんな飛躍した考えすら浮かんでくる。
日帰り旅行に疲れていたこともあって、その場から動く気にもなれず、一山の餃子にしばらく思いを馳せていると、キッチンの方から、とてとてと間隔の狭い足音が聞こえてきた。その可愛らしい音を聞きつけた仁は、自分の表情が緩んでいくのを感じた。
「おかえり白石君! ギョーザ!」
この家に居候をしている黒髪の少女、楓葉花がキッチンから駆け出て来るなり、仁を見上げて叫んだ。身長が180センチを超える仁と、150センチに満たない葉花とが立ったまま会話をするにはお互い、首を酷使しなければならない。見下ろす力と、見上げる力。仁は彼女と会話をする時、いつも地球に重力があることを思い知らされる。人間は皆、見えない力で地面に抑えつけられている。
「ただいま葉花。でも残念ながら僕は、餃子じゃなくてイカらしいんだ」
「イカ? そんなこと誰に言われたの?」
「それが僕も、よく分からないんだよ」
「よく分からない人に言われたの?」
「そうなんだよ。本当に。よく分からない人に言われちゃったんだ」
「そんなこと言っちゃいけないんだー。イカって言った人がイカなんだよ!」
そんな理論は聞いたこともないが、あながち間違っているとも思えなかった。他人への罵声は回り回って自分に返ってくることということか。仁は、頬を膨らます葉花に笑いかける。
「じゃあ、葉花の言うことを信じれば、僕が会った人はイカだったんだね」
「うん。そうそう、そういえばお土産は?」
葉花は目を輝かす、それから「名古屋名物の、胡散臭いコアラは?」と続ける。
仁は頭の中で、彼女の言うコアラを思い浮かべ、あれはけして名古屋名物ではないと思いつつ、葉花の要望に答えられなかったことを申し訳なく感じる。
「胡散臭いコアラはいなかったけど、素晴らしい金のしゃちほこゼリーは買ってきたよ。ご飯食べたらにしよう」
「ふうん。まぁ、いいや。あ、ご飯と言えばね。この餃子、全部私が作ったんだよ!」
葉花は両手を腕が開く限りまで広げて、テーブル全体を指し示した。
「これ、全部葉花が?」
仁はテーブルの上にある山盛り餃子と、白い粉にまみれた赤いエプロンを着た葉花とを交互に眺めながら驚嘆する。葉花は相好をゆるく崩しながら得意げに言った。
「そうだよ。いっぱい作ったの! すごいでしょー」
「うんうん。すごいよ、天才的だよ、葉花は。頑張ったね!」
「えっへん!」
彼女は弾力のあるきめの細かい頬に、白い粉をくっつけている。餃子を作る際に使用された片栗粉だろう。笑うたびにそれが上下に揺れる。それは角度によっては白粉にも見え、葉花の無邪気な可愛らしさを少しも損なってはいなかったが、指摘をしないでそのままにしておくのも悪い気がした。
手を伸ばし、葉花の頬に指を近づける。あと数センチで彼女の頬に指先が到達するというところで、仁は我に返った。慌てて指を引っ込める。動揺を押し隠しながら自分の頬を差し、言葉で片栗粉がついていることを説明した。
「ありがとう、さすが白石君だね!」
満面の笑顔で葉花は喜んでくれる。感謝の気持ちを述べてくれる。その表情が、仁の心を罪悪感で絞めつける。仁はその痛みから逃げるようにして、葉花からそっと目を逸らした。
「顔洗って来なくっちゃ。先に食べてていいよ」
「いや、待ってるよ。作った人を差し置いて、勝手に食べるわけにはいかないからね」
「そういうもんなの?」
「そういうもんさ。ほら、綺麗にしといで。可愛い顔が、台無しだよ」
昔となんら変わらぬ日常の最中に身を置いていると、仁は時折忘れそうになる。もう葉花に触れることさえ許されないということを。彼女を命の危機から救うため、自らこの状況を選び取ってしまったということを。
洗面所に駆けていく葉花を見送ると、仁は手持無沙汰に視線をさまよわせ、ギターを弾く佑にその焦点を着地させた。佑はその視線に、すぐに気付いた。
「なんか、最近スランプっぽいんだよ。どうしよう。ライブもうちょっとなのに」
佑は眉尻を下げ、肺の中にたまったネガティブな感情をすべて吐き出さんとするかのような、深いため息を落とすと、ギターをギターケースにしまい始めた。
「ライブっていつだったっけ?」
「2週間後。結構大きいやつだからさ。絶対に成功させたいんだよ」
「なのに、スランプなんだ」
「そうなんだよ。最悪だよなぁ、あーあ、なんでこんな時期に……」
肩を落とす佑の後姿を、仁は慰めの言葉も見つからぬまま眺める。この日のために、佑がこの夏休みも夜遅くまで、バンドメンバーと外のスタジオを借りて練習をしていたのを知っていたので、そのショックの大きさは理解できた。だからこそ、安易な慰めをしてはいけないと思った。ギターを弾いたことも、仲間と一丸になって何かを成し遂げた経験もない自分が、毎日精一杯頑張っている佑に大言を吐けるわけがない。そう考え、仁は佑の諦念を伴う発言に対して、小さく微笑むだけに留めた。
「とりあえず、夕飯にしよう。お腹いっぱいになれば、また調子を取り戻すかもよ?」
「もうスランプになってから、4、5回夕飯食べたけど」
「ならもっと、6回7回と食べればいいよ。大丈夫。信じるものは、きっと救われるんだ」
自分にも言い聞かせるつもりで仁が口にすると、佑は少しだけ目を瞠って、それから頬を緩ませた。
「仁さんもいいこと言うじゃんか。信じる者は救われる、か。なんかちょっと元気出てきたかも」
「そう言われると照れるよ。でも、元気が出たなら良かった」
「もうおかげさまで、元気満開ですよ。じゃあ、夕飯食べましょうか。いつもよりちょっと遅いけど」
中身の入ったギターケースをソファーの上に寝かせ、佑は大きく伸びをしながら立ちあがる。そこにちょうど、洗面所から葉花が帰ってきた。エプロンを脱ぎ、ぶどうのイラストが描かれた真っ白なTシャツ姿になっている。
「どう? 綺麗になった?」
顔の汚れを洗い流してきただけなのに、なぜか葉花はさながらファッションショーの出演者のようにその場でくるくると回っている。
「うん、大丈夫かな……1割くらいは」
仁は大きく頷いて反応を示す。そんな彼女の額にはまだ、不自然なくらい、白い片栗粉がいっぱいに塗りたくられていた。
もう1度洗面所に向かった葉花が戻り、全員が揃うと、餃子を囲んでようやく夕食が始まった。仁は買ってきたお土産を、冷蔵庫にしまっておいた。今日は葉花のせっかく作ってくれた料理を楽しもうと決めたからだった。買ってきたものは、明日食べてもいい。
白石家では夕食の時には極力、テレビを点けないようにしている。なるべく家族の会話を大切にしたい、という義父の思考がこびりついているためだ。だから仁もそれに倣って、テレビのリモコンを手に取らないようにしている。葉花も佑も最初はこの習慣に戸惑い、口々に不平を漏らしていたが、今ではそれにも慣れたようだった。佑がよくこの家に来るようになって2年になるし、葉花が居候を始めてからすでに半年が経つ。3人とも血の繋がりは一切ないものの、仁はこの食卓に家族としての繋がりを強く感じていた。
「ん、うまい」
タレにひたした餃子を齧った佑から、声が漏れる。彼の隣に座る葉花の顔がぱっと明るくなる。しかしその顔を横目で確認した佑は、照れ隠しなのか、唇をむずむずとさせてすぐさま前言撤回した。
「あ、やっぱりまずい」
その言葉を耳にした葉花の眉が途端に吊りあがる。頬が強張り、唇がへの字に曲がる。佑は気まずそうに喉仏を上下させると、まだ箸に残った餃子を眺めながら考えを吟味するようにし、少ししてから結論を下した。
「これは……うまずい!」
「どっちだよ!」
声を荒らげた葉花の手から、ラー油の瓶が飛んだ。それは至近距離から佑のこめかみに激突する。人体の急所にラー油の並々と注がれたガラス瓶をぶつけられた佑は悶絶し、餃子を掴んだままの箸を取り皿の上に置いてテーブルに突っ伏した。
「葉花、ラー油を投げちゃ駄目だよ。佑にごめんなさいしないと」
餃子を咀嚼しながら仁が言うと葉花は顔を赤く染め、頭の上で拳を振り回した。どうやらその一見、奇怪に見える行動は怒りを表現しているらしい。半年の付き合いを経て、何となく仁にも葉花の行動に隠された真意がだんだん読み取れるようになってきた。
「だってタンス君、タンスのくせにはっきりしないんだもん! 私の方に今のは分があるよ!」
「俺はタンスじゃねぇし、タンスがはっきりしなきゃならない道理もねぇ! ラー油投げる方が悪いに決まってるだろ!」
膝の上に落ちたラー油の小瓶を拾い上げながら、佑もまたいきり立つ。互いに譲り合わず、いがみ合う2人を前に、仁はひたすら餃子を口に運んでいく。肉の旨みが油を伴って口の中に広がる。噛めば噛むほど、その香ばしい匂いが口内から喉を伝って胃にまで届いていくようだ。
「とりあえず2人とも、ごめんなさいしようよ、ね? それで一見落着じゃないか」
「全然落着しないよ! はっきりしないタンス君が悪いんだもん。私は謝らないからね! でも……タンス君が先に謝るなら、やってあげないこともないよ」
「人にぶつけといてそれはないだろ。俺は悪いことしてないんだから、絶対謝ってやるもんか」
憤懣やるかたない、といった様子で佑は餃子を箸で乱暴に掴んだ。そしてそれをご飯の上に乗せ、がむしゃらにかき込み出す。ご飯粒が飛び散るのも意に介さず、目を向けず、米粒をひたすら胃袋に収めることだけに熱中している。彼のこめかみはわずかだか、赤く腫れているようだった。
「なにをぉ!」
そんな佑の怒りに任せた態度が葉花の心に油を注いだ。葉花もまた同じように箸で餃子をつまむと、それを口の中に放り入れ、さらにご飯を突っ込み始める。
宙を舞う米粒。聞こえるのは箸が茶碗を引っ掻く音だけ。いつの間にか、ご飯の早食い競争が2人の間で勃発してしまった。こうなってしまえば、あれこれ口出しをできることなど何もない。仁は自分の立場をわきまえていた。心配もしていない。どうせ喧嘩をしても一夜越せば、何事もなかったかのように、元通りになってしまうのが常だ。ぶつかり合うことで、深まっていくものもある。そんな理論も、佑と葉花と出会って初めて導き出せたものだった。
「でもこの餃子、おいしいね。葉花、お料理上手だったんだね」
葉花は動かしていた箸を止め、茶碗を下ろした。彼女は口の周りに、まるでサンタクロースの髭のように米粒をつけていた。唇のぐるりを米粒が取り囲んでいる。あれほど必死にかきこんでいた米粒はほとんど口の中にさえ入っていかなかったのではないか、と葉花の顔を見ながら仁は思う。
「本当? 本当に、おいしい?」
不安げに仁を覗きこむようにしながら、葉花が問いかける。仁は上っ面だけではなく、心の底から笑顔を作って頷いた。
「うん。おいしいよ。でも、なんで今日いきなり作ったの? ちょうど夕飯に悩んでたから帰ってきて、びっくりしちゃったよ」
「へへん。だって白石君、言ってたじゃん。この前、1人で何でもできるようにならなきゃ、って。白石君はお仕事でいつも疲れてるだろうし、お料理ぐらい、できるようにならなきゃ」
仁はまた胸に重りを載せられたような感覚を覚えた。思わず口に運ぼうとしていた箸を、その途中で止めた。髪をとかすことをせがむ葉花を、当たり触りのない言葉を用いて、自分でやるように諭した。その時の記憶が目の前に出現する。葉花の気持ちは目頭が熱く滾るほど嬉しいのに、その反面、彼女を気負わせてしまっている事実が悲しく、そして申し訳なかった。
笑い方がぎこちなくなってしまったことを仁は自覚する。しかしそんな仁を全く気にする素振りも見せず、むしろ葉花は嬉しそうに続けた。
「餃子だけなら、お父さんと一緒に何度も作ったからできるんだ。すごいでしょー。これから本を見ながらいっぱい色んなの作るからね」
「お父さんと?」
「うん、お父さん、餃子だけは得意だったから。あと卵焼きもおいしかったよ。あとはへっぽこくま太郎だったけど」
「そういや、お前の親父ってどんな人だったんだよ。俺、会ったことないんだよな」
自分の頬に付いたご飯粒をつまんで食べながら、佑が訊ねる。しかし葉花の顔を見ようとはしない。どこか素知らぬ態度だ。
葉花もまたそっぽを向いたまま、空気に話しかけるように返す。お互いに逆方向をみていても、会話が成立しているようだから不思議だった。
「へっぽこくま太郎だけど、優しいお父さんだよ。また絶対迎えに来てくれるから、そのうちタンス君も会えばいいよ」
「なんだよ、そのへっぽこくま太郎って」
「なんか僕は、ちょっと分かる気がするけどね」
仁は葉花の父親の、ゴムボールのように大きく膨らんだ腹を思い出しながら口を挟む。顔にかけた大きな丸メガネも合わせて、なんだか見るからにひょうきんそうな相貌をしていた。熊というよりは、お土産で売っている巨大な狸の置物に似てなくもない。
仁が同意すると、葉花は可笑しげに声をたてて笑った。
「でしょ? タンス君も見れば分かるよー。わ、へっぽこだ!って思うもん」
「クマじゃなくて、へっぽこのほうが先に来るような外見なのか……さすがにお前の親父が、可哀想に思えてきた」
「いいのいいの、私のお父さんなんだから。へっぽこへっぽこ!」
早く来ないかな、お父さん。頬杖をつきながら葉花は遠くを見るような目つきになる。仁は正面から葉花のそんな表情を捉えながら、胸が詰まるような思いを抱く。
残念ながら、と口に出しそうになるのをすんでのところで抑える。代わりに頭の中でその続きを囁き、自身の体内に反響させる。
残念ながら、葉花の父親はおそらく彼女を迎えには来ないだろう。澄みきった空が頭上に広がっていた冬の日、葉花は突然父親によって白石家に置き去りにされた。その時、茶色いダッフルコートを着込み、丸メガネをかけたあの男ははっきりとこう言い残したのだ。
葉花を任せた。迎えに来れるかは分からないと。葉花はその時、彼に背負われて眠りについていたから、その会話を聞いてはいなかったはずだ。
後々になって判明したことだが、彼女自身は、ここに連れてこられたその理由を何も知らされていないのだった。また葉花は、父親の職業や元々住んでいた家の場所すら語ろうとしなかった。それでも、彼女のポケットに入っていた保険証を頼りに住所を調べ、また葉花自身にも場所を聞き出して、実際に彼女の家に行ってみたことがある。だが、その築40年はくだらないのではと思えるほど年季の入ったアパートの一室には、もはや誰も住んではいなかった。そのがらんどうになった空間は、葉花が親に捨てられたことを何よりも雄弁に語っているようだった。
自分の身の置き場を、葉花がどう納得し、どんな気持ちで新しい毎日を送っているのか、仁には分かり得ない。しかしこうして見た限り、彼女がこの家で楽しげに過ごしてくれていることには安堵していた。
ここにきてから一度たりとも葉花は、父親に自分から会いにいきたいと言ったことはない。彼女はいつも父親を待っている。おそらく信じているからなのだろう。これまで生活を共にし、ここまで育て上げてくれた、その信頼があるからこそ葉花は父の言うことに従い、泣き言も零さずにここにいる。
葉花のそんな純粋な気持ちを踏みにじることは、けして許されることではないだろう。
葉花には悪いと思っているが、仁は彼女の父親に不愉快な感情しか抱いていなかった。どんな理由があろうとも子どもを見捨てる親は最低だ。親は子どもを最後まで愛しきる義務があると思っていた。彼の顔を思い出すことすら腹立たしい。自分の経験から仁はいつしかそんな考えを常に指針として持つようになっていた。
いかなる事情があろうともこの家に来たからには、幸せにしてあげたい。仁は自分と葉花をどこか重ね合わせ、ふと思う。
義父は家族のいない仁をこの家に招き入れ、育ててくれた。ならば今度は自分がその役目を果たす番だ。この家に残り香のように染み付いた、遠い異国でさすらう義父の魂を受け継ぐこと。それが自分の生に与えられた使命ではないかと、仁は最近本気で考え始めていた。
まだお互いの顔を見ぬまま、佑と葉花は意地らしく会話を続けている。てんでばらばらの方角に話しかけているのに、それでも2人の間に穏やかな空気が流れているのは実に不思議なことだった。真冬の朝にふかしたエンジンのように、食卓は少しずつ温かみを取り戻していく。その空間内に意識を戻しながら、仁は真っ黒に焦げついた餃子を箸の先で突き刺す。
口に届く前に餃子はざらついた炭へと姿を変え、散り散りになってご飯の上に着地した。
2010年 8月4日
魔物の話 4
朝。レイが顔を洗い、新しいヘアピンで前髪を留めてから居間に行くと、すでに父親と妹のライが食卓についていた。
黒城家の居間はささやかな3畳間である。ドアを開けるなり、テレビの音声が耳に飛び込んできた。室内は湯気とともに立ち昇る味噌汁と、焼けた卵の匂いで満たされている。2人は部屋の中央に置かれた座卓を囲んでいた。
「おはよう。レイ、夜はよく眠れたかね?」
「おは! おい、レイ。お前遅いぞ! 先に寝たくせしてなにやってんだよ」
新聞を折り目正しく畳みながら朝の挨拶をする父親と、こちらを見るなり揶揄してくるライを前にレイは呆然と立ち尽くす。なんでライが私よりも早く起きているのだろう、と困惑を通り越して混乱する。その情景はこれまでこの家で暮らしてきた中でも、あまり目にすることのできない実に稀有なものだった。挨拶を返すことすら一瞬忘れ、慌てて「おはよう」と遅れて呟く。
少し焦りを抱きながらテレビに目を向けると、ニュース番組が放映されている画面の右上に『7:27』と時刻表示がされていた。それは長期休暇中においても守り続けている、いつものレイの起床時間だった。体内時計が狂ったわけでも、寝ぼけているわけでも、寝過してしまったわけでもないことを確認し、胸をなで下ろす。それから、ライの隣、すなわち自分の所定の席へと腰を下ろした。
レイの前にはすでに、茶碗に盛ったご飯とワカメの味噌汁、半熟の目玉焼きが用意されていた。隣を見るとライの頭には相変わらず、寝ぐせがあちこち跳ねている。しかしその目だけはぱっちりと開いているのが、滑稽さを増長させていた。彼女はまだ髪をくくっていないので、後姿だけで見ると、レイとまさに瓜2つだ。
同じ髪の色、似たような髪の長さ。姉妹とはいってもライとの間に血縁関係はないから、この一致は完全に偶然の所為ということになる。恐ろしいほど低確率で、おぞましいものすら禁じ得ない陰謀めいたものすら感じる偶然ではあったが、そこに口を挟む余地はない。偶然は、偶然だ。
ふと食卓を窺うと、ライはまだ朝食に一切手をつけていなかった。黒城もそうだ。レイとまったく同じメニューが湯気を発したまま放置されている。
黒城家ではなるべく、家族全員で食事を摂ることに決めている。それは父親からの提案だった。食べ終わりはばらばらでも、食べ始めは皆でスタートを切ろう。まるでそうすることで家族の調和が永久に保たれていくと信じているかのようだった。無論、その言葉に確証はない。しかしこの習慣も悪くはないなとレイは思う。珍しくレイより先に起きたライも、その約束事だけは忠実に守ったようだった。
「さぁ、娘たちよ。この私の手料理を存分に食すといい。その前に、私と家畜、それから私に感謝の意を告げたまえ」
普段通りの口上を黒城が述べる。言い終えるのを待ってからレイとライは胸の前で手を合わせ、声を重ねた。
「いただきます!」
黒城は満足そうに頷き、味噌汁に口をつける。気付けば箸を片手に持っており、それで具を汁の中から掻きだしている。父親のちょび髭がじわりと湿るのを黙認するとレイは、気を取り直す意味を込めて咳払いをした。これからが朝食スタートだ、と自分に言い聞かす。
「それでライ。どうしたの? 今日はやけに早いじゃない」
テーブルの上の箸立てに手を伸ばしながら訊ねると、ライはなぜか得意気な表情を浮かべた。
「そりゃあ。お前、今日が何の日か分かってんのか?」
「なんかあったっけ?」
「私がプール行く日だよ。9時から。まこりんと」
レイは顔をしかめた。他人のスケジュールまで把握してられるものか、と声を大にして言いたかった。しかもまこりん、と言われてもレイはそれが誰なのか見当もつかない。それが人の名前であることに気付くのさえ、数秒かかった。
しかし正直に文句を口にするのも、なんだかこちらの困惑を見透かされているかのようで気に食わない。結果レイは、思いついた言葉をわざと目を瞠って言い放った。
「まこりんって、何?」
「誰、だろ。前に言わなかったっけか? 友達の名前だよ」
「え、ライに友達っていたの?」
「馬鹿にすんな! いるに決まってるだろ、多く見積もっても4人はいる!」
「随分リアルな数字が出たね」
「どういう意味だよ」
「別に。妹の将来について少し憂いているだけだよ」
箸で切り分けた目玉焼きの欠片を箸で刺し、かじる。するとそこにワカメを髭につけた黒城が突然口を挟んできた。
「友達は1人いれば十分だ。この私の目にかない、世界中からたった1人選ばれた人間だけでな。その人間には周囲から羨望の眼差しが与えられるだろう。私の目にかかる人間は、ノーベル賞を受賞するよりも、貴重だ」
「あぁ。やっぱりお父さんって、昔から1人ぼっちだったの?」
「もちろんだ。並大抵の人間では、私に射す後光の光にあてられて燃え尽きてしまうからな。必然的に、私は覇道の存在ということになる」
「最近、学校で集団に溶け込めないで、トイレとかでご飯食べてる人が増えてるっていうけど」
数日前に、インターネットで見つけた記事をレイは思い出す。昔からそんな人はいただろうが、情報社会の弊害を浴びて、そんな人たちの溢れかえっている情報も日の光のもとに暴きだされてしまっている。
しかし、黒城はあくまで高慢だった。表情1つ変えぬまま、まるでそれが世界の真理であるかのように主張する。
「そんじゃそこらの小市民共と一緒にしないでもらおうか。私は自ら孤独を選んだのだ。私ほどの人間に吊り合う人間が、そうそうそこらにいるはずがないからな」
「1人になっちゃう人は、みんなそう言うらしいよ」
「当然だ。それは、私が最初に作りだした言葉だからな」
「えー」
「私の発言は世界だけに留まらず、時空さえも超えていく。実は人類に火の存在を知らしめたのも、この私だ」
言い切り、その後で、してやったりという表情で黒城はコーヒーを啜る。砂糖もミルクも入っていないブラックコーヒーを彼は好んだ。その光さえも拒絶する黒々しさは、黒城の主張を何よりも視覚的に表現しているかのようだった。
娘であるレイにも、さすがにそろそろ父親の言うことが理解できなくなってきている。自分の内に潜む、黒城と愛を育んだ女性、佳澄の懐の深さをこんなところで思い知った。血の繋がりがあるからまだ許せる部分もあるが、赤の他人でもしこんな人に出会ったなら、レイなら間違いなく即座に逃げる。
「なんだかよくわかんないけど、父さん凄いんだな」
ライが目玉焼きに並々とソースを注ぎながら言う。その顔つきを見る限り、彼女も黒城の言っていることがほとんど分かっていないようだった。そんなライの様子を見ていると、ふとした間違いで無人島に流れ着いてしまい、途方に暮れていた矢先、偶然にも先にその島へ漂流していた人間に出会えたかのような、極限状態での心強さを感じた。
目玉焼きは何もかけないほうが美味しいのに、とレイは少し勿体ない思いを抱きながらも、それを口には出さない。代わりに黄身の甘味だけで味付けされた自分の皿の目玉焼きを頬張る。
「確かにある意味、凄いよね。全然尊敬はできないけど」
「そうだ。もっと私を褒め立てるといい。賞賛の言葉はいくら吐こうとも構わんぞ」
「褒めてないよ」
「父さん凄い!」
「褒めなくていいよ」
ニュースキャスターの言葉が耳に止まり、レイはテレビの方に目をやる。その動きに伴って、引っ張られるように黒城とライも首をよじった。
聞き間違いではなかった。それは昨日新宿のライブハウスで女性の変死体が見つかったというニュースだった。ニュースキャスターが原稿を片手に淡々と話している内容を要約すると、昨日の午後4時ごろ、近くに住んでいる肉屋の店主がライブハウスで銃声と小さな爆発音を聞きつけ、警察に通報したらしい。室内に入ってみると、ライブハウス内は無残にも荒らされ、割れた電灯の破片が床に散乱して足の踏み場もない状態であったとのことだった。
女性の死体はステージ上のカーテンにくるまれる形で置かれていた。死因は現在調査している最中だが、警察は事件の方向で調べを進めるともに被害女性の身元の確認を急いでいるそうだ。
間違いなく、昨日、レイたちの関わった事件だった。レイはライに気づかれぬよう、黒城に目配せする。彼のほうもまたレイの顔を見やると、そっと頷いた。
何とかレイたちのいた痕跡はマスカレイダーズの一員が消し去ってくれたようだった。結果を見ると、次回も安心して怪人討伐に精を振るえるというものだ。黒城も同じことを考えているようで、その表情にわずかだが安堵の色が広がる。
しかし、女性を救うことができなかったという事実は、レイの心に重たくのしかかっていた。しかもそのうち1人は、すでに死体だったとはいえ、レイが怪人に変えてしまった。その結果彼女が死んだという事実自体が、この世から泡のように消えてなくなってしまった。気が動転していたから、しかたがなかったから、自分が死ぬところだったから。さまざまな言い訳が頭を過ぎっては、その度心を強く掻き毟る。その引っかき傷の裂け目から、レイの怪人としての顔がにたにたと笑いを浮かべながら覗き込んでくる。
頭を軽く振り、その妄想を振り払う。そして取り繕うようにして「ひどい事件だね」と安直な感想を述べた。何か喋らなくては、不安と恐怖に取り殺されてしまうような予感があった。
「最近、変な事件多いよなぁ。さっさと捕まえてくんないと困るよ」
何も知らぬライもまた、ありふれた感想を告げる。自然な会話を続けるために「そうだね」とレイは返し、「まぁ、私がいるから。お前たちは安全に違いないがな」と黒城が根拠のない自信をみせる。
「ライ、お前は何の心配をしなくていいぞ。この私の娘という立場は核シェルターよりも安全だ」
「あぁ、うん。信用してるよ。父さんのことはさ。この前言ってたもんな、『私は世界に光を降らし、闇を淘汰する。唯一無比の存在なのだ!』って。お父さん、闇の一族の末裔なんだろ? かっこいいじゃないか!」
「ライ。別に信用するのは構わないけど、お父さんの言うことを鵜呑みにするのはどうかと思うよ」
黒城に羨望の眼差しを向けるライに釘を刺す。なぜ闇の一族の末裔なのに、光を降らすのだと詰りたくもなるが、父親の痛々しい妄想に反応するのもなんだか悔しいので止めておいた。
すると黒城は別に誰も望んではいないのに、いらない注釈を加えてきた。
「私は最近、闇という言葉にはまっている。なんだかさらに高く、強い者になれる気がしてな。"闇の戦士"の、なんと気高き響きだろう」
「いいんじゃない。お父さんの将来を一言で表すとしたら、きっとその一文字だよ」
レイは空になった自分の食器を手に取り、立ち上がった。茶碗に味噌汁の入っていたお椀を重ね、それらを皿の上に載せる。
「ごちそうさま」
2杯目のご飯をソース漬けの目玉焼きで食べるライを横目に、レイは台所へと向かった。気づけば黒城の髭からワカメが取り去られている。いつの間になくなったのか、と不思議な気持ちを引きずりながら、台所に繋がるのれんをくぐろうとしたところで、レイは不意に足を止めた。
かさり、と木の葉が土に触れてたてるような音が聞こえてきたからだ。音のほうに顔を向ける。目の先には辞書や分厚い何かの専門書などが収納された、見るからに重厚そうな本棚がある。
その本たちに挟まれる形で、申し訳なさそうに透明のケージが置かれていた。プラスチック製のもので網目のついた緑色の蓋で閉じられている。昆虫や水生生物の育成によく用いられる種類のもので、このケージもその用途に漏れず、中にはカブトムシが入っていた。
雄だがまだ幼いようで、角は短く頼りない。だが甲冑を着こんでいるかのような、黒光りする胴体には威風堂々とした迫力があった。小さくても確かにカブトムシだ、となんだか感心してしまう。
葉と土の敷かれた地面の上でカブトムシは這うようにして、ゆっくり歩みを進めていた。やがてケージの壁に角をぶつけると、枝の端っこのような短くか細い手足をばたつかせ、壁をよじ登ろうとする。しかしプラスチックの壁の表面がつるつるしており、またカブトムシの脆弱な腕力では登ることすら叶わない。しかしそれでも執念深く、体を軋ませてひたすらに壁を両腕で引っかいていく。その様子はなんだか不憫で、レイは知らず知らずのうちに心の中でカブトムシにエールを送っている。
「どうだ、バタロウ。元気か? まだ死んでない?」
気づくと、隣に自分の食べ終えた食器を持ったライが立っていた。口の周りをソースで焦げ茶色に染めている。レイは、彼女の顔面に起こっている大惨事を身振りで伝えながら「バタロウ?」と問いかけた。訊いてはみたものの、およそその意味は、今の段階でも予測することができた。
ライは食器をアイロン台に乗せると、右手の甲で口を拭いながら、左手の指先でケージを軽く小突いた。
「こいつの名前だよ。カブトムシのバタロウ」
「ライの周りは、変な名前の人ばっかりだね」レイははっきりと眉間に皺を寄せる。予測がぴったり一致したのはいいが、なんだかもやもやとした気持ちが残った。「例えば、まこりんとか」
「全然違うだろ。まこりんはカブトムシじゃないし」
「え、違うの?」
「確かに虫みたいな奴だけど、とりあえず人間だよ! まったく、失礼な奴だな」
「今のライの発言のほうが何倍も失礼だと思うよ。あとで謝っておいたほうがいいよ」
「私はいつだって、失礼なことをしてないよ」
「ライが失礼じゃないなら、世界中の人間誰しもが公明正大だよ」
ライをからかうのもこのくらいにして、レイは台所に入ると流し場に置いた。今日の皿洗い当番はレイだが、手間の省略と節約のために全員が食事を終えてからまとめて洗うようにしていた。
居間に帰ってくると、ライはケージをつついたり揺らしたりして、まだカブトムシと遊んでいた。カブトムシに喋りかけ、嬉しそうに跳ね回るその姿をレイはぼんやりと眺める。気づけば口元が緩んでいた。
ケージの中でのんびりとした生活を送っている、そのカブトムシはつい昨日、ライがどこかから持ち帰ってきたものだった。ライはかつてカブトムシを1週間で殺してしまったことがあるので、レイとしてはこれ以上犠牲者ならぬ犠牲虫を増やさぬために、本来ならば反対しなければならないところだったが、今回だけは特別に許した。
ライが元通り、快活な笑顔を見せてくれるようになったのは、つい昨日になってのことだった。
レイが始めて生み出した怪人、ディッキーが理不尽に殺害されてから今日で4日が経つ。
それから最初の2日は、ライの頭上に陰鬱とした暗雲が立ち込めていた。部屋の隅でじっと俯き、睡眠も食事も頑なに拒否し、1日中泣き腫らしているライの姿はいつもの様子との乖離が激しく、実に痛ましいものだった。このままライは、悲しみに取り殺されてしまうのではないか。そんな今考えれば随分詩的な心配も、レイは一時期、本気で抱いたものだった。
彼女の背に射す影の濃さから、その状態は一週間ほど続くだろうとレイは見込んでいたが、復活は意外にも早かった。まるで土砂降りを振らせ続けた台風が過ぎ去り、すぐさま炎天下が舞い戻ってくるような清清しさがあった。朝早くに出かけ、夕方にカブトムシを連れて帰ってきたライの瞳には、大輪を咲かす花のような大きな輝きが戻っていた。
「ライ、もう、大丈夫なの?」
あまりの変わり具合に逆に懸念を抱き、レイは問いかけた。するとライは彼女特有の悪戯っぽい笑みをみせて、なんだか照れくさそうに言った。
「ディッキーのことは忘れないけど。いつまでもくよくよしてんのは、私らしくないだろ? 大丈夫だよ。心配かけて悪かった。もう私は大丈夫だから」
その言葉通り、ライは元気を取り戻した。まるで塞ぎこんでいた2日間を取り戻すかのように、朝から晩まではしゃぎ回っている。レイはライの心の強さに感服し、その優しさに圧倒される。
そんなライの根源を作り出した、彼女の母親とはどんな人なのだろう。あらゆる場面でふとライの本質に触れるたび、レイはいつもそんなことを考えてしまう。彼女自身、両親について知りたくもない、と何度も話しているのだから、そんなことを他人である自分が巡らせても仕方がないとは思う。しかしそれでも、レイの中学生らしい探究心がそっと顔を覗かせることがある。
ライを産み、育てた人は、一体何者なのか。そして今、どこで何をしているのだろうか。そしてなぜ、ライをあんな公園に置き去りにしたのか。
「レイ!」
思考の渦の中に入り込んでいたレイは、その一言で我に返った。視界の焦点を慌てて合わせると、食器を持ったライが不思議そうな目でこちらを見ていた。
「なに?」
内心の動揺を悟られないように、レイはまた取り繕う。額に汗が浮く。完全に感情を押し隠せていないことは自分自身が一番よく分かっていた。
返事をすると、ライは両頬を上げて微笑んだ。本棚から抜き出したケージを持ち上げ、レイの前にかざすようにする。
「食器洗ったらさ。バタロウのスイカ、一緒に買いにいこうよ。プールまで暇だしさ。な、いいだろ?」
レイは数秒だけその思いも寄らぬ提案に呆気にとられた後、すぐさまそれに同意した。ライの本当の両親は誰なのか、という詮索を頭から振り落とし、すぐさまどこの店が一番スイカは安いのだろう、と考え始める。
思考を働かせながら居間を縦断し、ドアを開け、廊下に出て、自分の部屋に戻る。そうしているうち、やはり昔のことに頭を捻らせているより、未来のことに頭を巡らせているほうが余程楽しいな、と今更ながら自分の気持ちに、気づく。
窓の外から強い日差しが差し込んでくる。蝉の声もじんじん響いている。今日も、暑い日になりそうだ。
鳥の話 4
「仁くん。どうやらまた、コーヒーの腕が上がったようだな。これは美味い。私好みの味だ」
顎鬚を蓄え、黒ぶちメガネをかけた中年の男、菅谷紀彦がコーヒーカップを片手に微笑む。仁はカウンターの内側でコーヒーを淹れながら礼を言った。
「ありがとうございます。ちょっと豆と、淹れ方を変えてみたんだ。ずっと義父さんと同じやり方でやっていたんだけど、やっぱり同じ豆を使ってても義父さんと同じ味は出せないや」
「それでいい。白石さんの真似をすることはないさ。今は君の店だ。自由にやればいいと思う。白石さんの淹れたコーヒーは格別だったが、私は仁君のコーヒーも好きだ」
仁が店主を勤める喫茶店、『しろうま』には今日も閑古鳥が鳴いている。カウンター席には常連である菅谷、テーブル席にはカップルが1組、向き合って座っているだけだ。世間の夏休みという概念は、『しろうま』の客足にはまったく影響を及ぼしていなかった。
窓から外の様子を窺うと、熱でゆらゆらと空気が歪んでいるような雰囲気がある。壁の時計に目を移すと、午前10時だった。この時間でこれほど高い気温を示しているのだから、午後になったら人間は皆溶けてなくなってしまうのではないか、とくだらないことを考える。
「今日の気温は40度近くになるらしいよ」
朝、テレビでやっていた天気予報で仕入れた情報を話題に載せる。菅谷は腕時計の盤面を指先で撫でるようにしながら、ホットコーヒーを啜った。
「ああ、そうらしいな。まぁ、夏だからしかたない」
「なのにやっぱり、ホットコーヒー?」
「当然だ。男はホットコーヒーだ。たとえ日中の砂漠で力尽き、干上がる間際に立たされようとも、私は最期までホットコーヒーを頭に思い描き続けるだろう」
「ホットコーヒー、マイウェイだね」
「なんだい、それは」
「いや、特に意味はないんだけど」
菅谷はスーツの背広を脱ぎ、ワイシャツ姿になってはいたものの、湯気の立つコーヒーを美味そうに飲んでいた。店側としては、この店でくつろいでくれることこそ満足の極みなので、「いつもありがとうございます」と仁は丁寧に頭を下げる。そんな仁の態度を前にし、菅谷は思わずといった様子で苦笑した。
「やめてくれよ。何度も言うように、私は頭を下げられるほど、立派な人間ではない。逆にコーヒーを淹れてくれてこちらが感謝をしたいくらいだ。仁君、いつも美味いコーヒーをありがとう。そしてこれからもよろしく頼むよ」
2人の会話を耳に挟んだのか、テーブル席のカップルがこちらを見て笑っている。仁は微笑み、そちらに軽く会釈を送ると、もう1度菅谷に頭を下げた。
「いえいえ。こちらこそ、菅谷さんのおかげでこの店は成り立っているようなもんだしね」
通りすがりの客は来るが、新規固定客のほとんど望めないのが『しろうま』という店だ。だから、菅谷のような昔なじみの常連客は正に店にとっての財産だった。その話をすると、菅谷は殊更、照れくさそうに笑んで、「そういうのは止めてくれと言ったろう。私のようなしょうもない人間に、そんな言葉は勿体無い」といつも通り自分を卑下した。
そんなことはないですよ、と仁が言いかけたその時、店のドアが開いた。内側に取り付けられたベルが揺れ動き、チリンチリンと音を鳴らす。仁だけでなく菅谷も振り向き、そちらを見た。
いらっしゃいませと言い掛けて、途中で止める。入ってきたのは佑だった。彼は『しろうま』のロゴが入った青いエプロンをしていた。頬には泥がついており、片手にじょうろを持っている。顔には滝のように汗が流れており、首にかかったタオルで必死にそれを拭う。その様子こそ仁が頼んだ表の花の水遣りを、頑張ってこなした何よりの証だった。
佑は後ろ手にドアを閉めると、開口一番「涼しいー!」と安堵に満ちた声をあげた。
「なんだよ仁さん。この店、天国じゃないですか。ずるいなぁ、こんなところで」
「佑、ありがとう。この暑さじゃ、花もしょげてたでしょ」
「暑いなんてもんじゃないですよ。ゲキ暑ですよ、ゲキ暑。朝からこんな暑いんじゃ、午後には人類みんな溶けてなくなっちゃいますよ」
「お疲れ様、ほらもう練習の時間でしょ? 早くシャワー浴びて着替えないと。間に合わなくなっちゃうよ?」
仁が指摘すると佑は壁時計を見上げ、やべっ、と声をあげた。それからまるでたった今、ここが喫茶店であることに気づいたとでも言うように周囲を見回し、微笑みを浮かべているカップルに軽く頭を下げた。
それから今度は、カウンターの菅谷にも挨拶を送る。すでに彼と顔なじみである菅谷は、軽く手をあげて返事をした。
「君もずいぶん頑張るね。偉いよ。私は子どもの頃、家の手伝いもしないで遊びまわっていた愚か者だったからね。君の事は尊敬する」
「いや、俺はそんなに大したことは……」
汗に濡れた額をタオルで叩くようにしながら、佑は照れて俯きがちになる。菅谷は満足そうに口元を緩めた。
「いや、誰にでもできることじゃない。もっと君は自分に自信を持ってもいい。私が断言しよう」
それは菅谷さんこそ、と仁は言い出しかける。前々から彼の言葉のところどころには自分を軽んじている部分がみられた。筋肉質というわけではないが、服の上からでも分かるほど引き締まった体に、落ち着き払った態度。物腰は柔らかで、常に自分に厳しくまた他人に甘い。菅谷は仁にとって、まさに理想の大人像といえた。だからこそ、菅谷にはもっと自分に自信を持って欲しかった。理想とする人間が弱気な発言をする場面は、なるべくなら見たくはない。
「まぁ、佑。せっかく褒めてくれてるんだし。受け取っておきなよ」
緊張して俯く佑の様子がどこか可笑しくて、仁はカウンターに頬杖をつきながら促す。佑は顔を上げると、菅谷の顔を見て、おずおずと口を開いた。
「あ、はい。どうも……そういえば、前から思ってたんですけど」
佑は一旦、言葉を切った。そしてわずかに視線をさまよわせ、記憶を再確認するかのような動作をしてから後を続けた。
「前に、ここじゃないところで会ったことありません? 俺がまだこの家に来る前、だと思うんですけど」
「それは……私と君が、ということかい?」
菅谷は佑の予想外の発言に、鼻白んでいるようだった。メガネの奥の目を丸くし、自分の胸と佑とを交互に指差す。佑は自信がなさそうに、一つ頷く。その表情は冗談を吐いている類のものではなかった。
仁もその発言には内心で驚いていた。『しろうま』で出会う前に、すでに菅谷と佑は知り合いだったかもしれないという話は初耳だった。興味が沸き、肘をカウンターから離して、少し身を前に乗り出す。
「確か、佑がうちに来たのって2年くらい前だったっけ? つまり、それ以前に菅谷さんと会ったことがあるって、そういうこと?」
「一応。でも……やっぱり勘違いかも。話しているうちに違う気がしてきた。なんか変なこと言って、すみません」
前言を即座に撤回し佑は菅谷へと、大げさに頭を下げた。その額から零れ落ちた汗が、床を丸く濡らした。菅谷は椅子に深く腰掛け、思案顔で顎髭を撫でつけている。
「ふむ」
まるで記憶を寄せ集めようとでもしているかのように、彼は空中の一点を見つめる。しかしやがて眉を寄せると、佑の方に視線を戻した。
「すまんね。私にはまったく心当たりがない。やはり、人違いだったんじゃないかな。私のような平凡な顔つきは、世界に3人どころか、その百倍はいるだろうし」
「やっぱり、そうですよね。あ、仁さん。遅くなりそうだから、今日は俺、夕飯いいや。外で食べてくる」
「あ、うん。分かった。葉花にも言っとくよ」
じゃあ、そういうことで、すみませんでした。最後に佑はもう1度、不用意に呼び止めてしまったことを菅谷に謝罪すると逃げ出すように奥の方へと走っていった。
喫茶店の奥は1枚のドアを隔てて、白石家の生活スペースと繋がっている。そのドアの向こうへと佑は消える。仁が菅谷の顔を窺うと、向こうも首を傾げてこちらを見ていた。
「私は本当に心当たりがないんだ。不思議なこともあるようだね」
ですね、と言いながら仁も首を捻る。人違いで互いに合意し、一見落着したはずなのになぜか心にしこりが残った。もしかしたら大事なことを見落としているかもしれない、と今の会話を思い返すが、別段拾うような発言はなかったように思える。
「そういえば、もう1人の同居人。女の子の方は元気かい? あの時は大変だったけれども」
菅谷が葉花の倒れた日のことを話題に持ち出したのと、入口のドアが開いたのはほぼ同時だった。
またも鈴が揺れて音をあげる。仁は今度こそ、いらっしゃいませ、と言い切った。
ドアの前には20代半ばとみられる、白いワイシャツにスラックス姿の男性が立っていた。片手に革の鞄を持っている。
知らない顔だ。大きな目に平たい顔つき。眉は太く、黒い短髪は整髪料で適度に盛ってある。通りすがりかもしれないが、男が新規常連客になってくれる可能性もありえなくはない。仁は意識して、いつもよりさらに輪をかけて表情に笑顔を咲かせた。出だしが勝負だ、と己に言い聞かせる。
「いらっしゃいませ、お1人様ですか?」
「いや、あの、お客のフリしちゃって何かすみません。楓葉花さんのお家はここで大丈夫ですか?」
男はきょろきょろと店の様子を窺い、目の合ったカップルに会釈を返し、それから仁を見つけてそう尋ねてきた。そこで仁はようやく、この男が客ではないことに気付いた。警戒心を内に滾らせ、笑顔のまま首を大きく傾げる。
「はい。そうですけど……失礼ですが、どちら様? 葉花はいま、友達と遊びに行ってますけど」
「あ、失礼しました。俺、じゃないや、私はその葉花さんの高校で担任教師やってます。あなたは、えっと、あなたが、噂の親戚の方ですか?」
男は緊張のためか、気が動転しているらしかった。声が上擦っている。しかし仁は男の担任教師、という自己紹介には納得した。彼からはまだ熱い大志を胸に秘め、教育に対する熱意に溢れた新米教師特有の匂いが漂っていた。
仁は名目上、葉花の遠い親戚ということになっている。たとえ親の許可の元であろうとも、血縁関係もない女子高生と23歳の男が一緒に住んでいると周囲に知れれば、この家にいることはできなくなる。いらぬ誤解をかけられ、手錠をはめられる結果になるかもしれない。また、少なからず意地もあった。葉花の父親の手をかけずとも、自分が葉花を育ててやるという気持ちがあり、周囲に疑念を抱かせることは、その希望の成就を阻むことに等しかった。佑がギターに夢を乗せるのと同じように、仁は葉花の成長に自分の夢を重ねていたのだった。
だから仁は周りに嘘を吐いた。そして葉花や佑にもその嘘を徹底させるよう、これまで幾度もなく話してきた。だが当の本人である葉花が、それを守っているかどうかは微妙なところだ。実際、彼女のクラスメートである華永あきらは葉花と仁とが赤の他人同士であることを知っていた。幸い、あきらは口の軽い人間ではなかったが、次はないかもしれない。仁は内心、いつ発覚するのかと脅えながら毎日を過ごしている。
「あ、はい。そうです。一応今は、僕が葉花の保護者代わりというか」
だから今日も、仁は笑いながら嘘を吐く。すると男はそのままでも大きな目を、さらに見開いた。
「なんだかあの、ずいぶん、若いですね。もっと年齢のいった方が出てくるかと思ってました」
「それは、実はこっちも。もっと担任っていうから、おじさんとかかと思ってた」
「うちは私立ですから。理事長が面白い人で、新任教師を1度でも担任に持たせよう、という試みをやってるんですよ。本人の経験にもなりますから。生徒にもウケはいいみたいです」
なるほど、と仁は得心する。担任をなぜ未熟な、若い教師にやらせるのか訝しんでいたがそういうことなら理解できる。仁はお茶でも出そうと踵を返しかけるが、男はそれを声で制した。
「あの、いや、大丈夫です。お構いなく。すぐに帰りますから、ちょっとプリントを届けに来ただけで。ちょっと預かっててもらえますか?」
「プリント?」
「俺の授業ではないんですけど、数学を担当している人がプリントを配り忘れてたみたいで。担任である俺、いや、私、僕が配ってるんですよ」
彼は自分を、速見拓也と名乗った。一人称が覚束ないのは、こういうかしこまった場に不慣れだからだろう。彼は菅谷の横に来るとカウンターに鞄を置き、中を探り始める。菅谷は腕時計を擦りながら隣にやって来た男を興味深そうに見上げている。がさがさと紙をかき分ける音が店内の静寂を破り、しばらくしてからホチキスで左上を留めたA4サイズのプリントが引きずり出されてきた。
「これです、これ。数学のプリント」
仁は差し出されたそのプリントを受け取り、拓也に椅子を勧めた。確かに彼の説明通り、表紙には『数学補講者 夏期長期休暇問題集』と太文字ゴシック体で書かれている。中をぱらぱらとめくると、なるほど、びっしりと計算問題や文章題が羅列されていた。
「葉花、やっぱりテストの点、悪かったんですか?」
プリントを閉じ、カウンターに乗せながら仁は苦笑する。すると椅子に腰かけた拓也は困ったように眉を寄せた。保護者にどこまではっきり物申していいものか、頭の中で推し量っているようだった。
「まぁ、こういう課題が特別に出ちゃうくらいに、ですかね」
ようやく当たり触りのない答え方を導き出せたのか、拓也がにこやかに言う。仁は浅いため息をついた。
「葉花。テストは見せてくれないんですよ。通知表みたら、数学の成績が2だったから。もしやとは思ったんですけど」
「宿題だけはちゃんと提出してますから。赤点は回避できたのかもしれません。その宿題も友達のを写してるだけっぽいですけど」
おそらくその友達、というのはあきらだろうなと仁は、脳裏に青髪の少女を過らせる。彼女ならどんな多忙な日々を送っていても、毎日宿題をこなすことぐらい、軽くやってのけそうだった。
「今度、言っておきます。ズルは駄目だって。言えばちゃんと分かってくれると思います。葉花はああみえて、いい子なんですから」
「こっちからも、やんわりと言ったりしてみますよ。そこは、任せてください!」
「学校での葉花は、どうですか?」
仁が尋ねると、拓也は両頬を上げるようにして微笑んだ。その表情はまるでひまわりのようだ、と仁は唐突に思う。太陽に向けて、のびのびと咲いている。実家の近くにあった、ひまわり畑を思い浮かべる。
「元気いっぱいですよ。勉強なんかできなくたって、元気があれば一番です! 健康で何か特技の1つでもあれば、人生なんとかなりますから」
「僕も、そう思います。元気なら、良いんですけど」
「俺も、いや、私も彼女の笑い声に元気をもらってますから。他のみんなも。クラスも賑やかになります。いいムードメーカーですよ。高校生活なんて短いんですから、その短い中を楽しく過ごせるようにするために、彼女みたいな存在は必要不可欠です。そう、まるで、オーケストラを彩るトロンボーンのような」
仁はこの男に好感を持った。葉花もいい担任に出会えたな、と感動すら覚える。楽観的な男だが、けして責任感がないわけではない。拓也の真摯な眼差しは、その内側に秘めるポテンシャルを如実に示していた。全身に滲む若さが不快感を与えず、むしろ爽快さを覚えるのは彼の生まれ持っての魅力なのだろう。
そんな拓也の様子が変わったのは、次の瞬間だった。ギターケースを肩にかけた佑が喫茶店に戻ってきたのだ。黒のタンクトップにジーンズといった姿に着替えられている。暑さで体力を消耗したのか、大あくびをしながらこちらに歩いてくる。
佑の姿が見えるや否や、拓也はいきなり席を立った。「それは!」と声を上げ、佑に詰め寄る。仁と菅谷は唖然とその後姿を見つめる他ない。
「え、なに? 誰?」
見知らぬ男に迫られ、佑は後ずさりをしながら取り乱している。拓也は佑を壁際まで追い詰めると、興奮気味に訊いた。
「君は、ギターをやるのか?」
言葉に出さず、佑は首肯して答える。その表情には眠気が消え、代わりに動揺と混乱が浮かんでいた。佑の反応に拓也はさらに目を輝かせた。まるでおもちゃを前にした子どものように、佑が肩にかけているギターケースを凝視している。
「そうか……音楽を奏でる人に、悪い人はいない。ちょっとギター、見せてもらってもいいかい?」
「あぁ。はぁ……」
佑の曖昧な返事を肯定の印と受け取ったのか、拓也はギターケースを受け取とると、チャックを引き始めた。じじじ、と小気味のいい音が響き、中からオレンジ色の派手なエレキギターが覗く。表面にはでかでかと狼のシールが貼ってあった。昨晩リビングで佑が必死に調律していたあのギターである。
拓也は壁にギターケースを立てかけると、前屈みになって、ギターを半分だけ引っ張りだした。そして弦を軽く指で叩いたり、ボディを手の甲で叩いたりする。その様子は壺の値段を定めようとする鑑定士じみていて、その背中にはどこか熟練した風格を帯びていた。
「これはいいなぁ。よく手入れもされてるし、使いこまれてる。演奏者の愛情をひしひしと感じる。こいつもいい相手に出会ったもんだなぁ。これからも大切にしてあげなよ。そうすれば必ず楽器は、所有者に答えてくれる。ペットや人間と一緒だ。信頼こそが、鍵なんだ」
感心するようにしみじみと、1人で呟いている拓也に誰も声をかけることができない。仁は戸惑い、カップルたちもこちらの様子を窺うようにし、菅谷はなぜか厳しい顔つきをしている。佑はギターケースに再び収められたギターを返されても尚、しばらく呆然としていた。
「では、このへんで。葉花さんによろしく伝えてください」
最後に挨拶を残して、拓也は去っていった。彼との遭遇はまさに嵐のようだった。強烈な印象を残して、そそくさと帰っていってしまうその姿は、改造やペイントを施した車が、轟音をあげて目の前をあっさりと通り過ぎていくのとどこか似ていた。
会計を済ませに来たカップルに声をかけられ、ようやく仁は我に返る。金を受け取りながら、ふと佑を見れば、その場で突っ立ったまま拓也が出ていった入口のドアを一心不乱に見つめている。その表情には希望と感服の思いが、端目からでも分かるほどありありと滲んでいた。
鎧の話 2
渋谷にある閑散とした喫茶店で、直也は柳川刑事との再会を果たした。
薄暗い店内には他に客もおらず、また柱の陰に隠れた席を選んだため密談には最適だった。店主はカウンターの内側で、煙草の煙をくゆらせながら退屈そうに新聞を広げている。
その眠たげな瞼を見つめ、直也もまたあくびを噛み殺した。会社員の浮気調査を終え、ほとんど徹夜で報告書を書き上げた翌日のことだった。
柳川は以前に会った時と、なんら変わっていなかった。大きな鼻に垂れ目、丸顔で短髪。薄汚れ、埃っぽいスーツも3年前のままだ。ここまで変化がないと、彼だけが周囲の時間から取り残されているような気さえする。
店に入ってしばらくは世間話や身の上話で盛り上がった。柳川の話は上手く、一見何てことのない、誰でも1度くらいは体験するような話を膨らませ、どんな話題だろうと笑い話に変えてしまった。彼の話術に耳を傾けながら直也は堪えきれず、何度も噴きだすことになった。
そして注文したコーヒーが運ばれてくると柳川はようやく本題に入った。先ほどまでのにこやかな表情を一変させ、鋭く虚空を睨むようにする。笑いを交えた話題で緊張を解していた直也も、彼の変化に気を引き締める。
「3年だ」
彼は手の指を3つ立てて、はっきりと通る声で言った。直也は柳川の顔ではなく、その指に目をやる。
「もうあの事件から3年も過ぎてしまった。なのに何の解決もできていない。本当に君には、申し訳なく思ってる。おそらく、警察に失望してるんじゃないかな」
「いいですよ、別に。警察がサボってるわけじゃないくらい、俺にも分かりますから」
そう、3年だ。直也は目を細くし、遠くを見つめるようにする。直也の元仕事場が燃やされ、元恋人と上司が殺害されてからすでに季節は3巡してしまった。なのに事件の核心どころか、その犯人も捕まってはいない。手がかりさえもない。もはやこの事件は詰んでいるのではないだろうか、と直也は心中で密かに感じていた。
警察に対して文句の1つも出てこないのは、以前、直也自身も事件について独自に捜査を行っていたからだ。直也も必死になって犯人を探そうとしたが、結局、何も分からなかった。その苦労とこの事件の困難さを、身をもって知っているからこそ短絡的に警察を責める気にはなれない。その一方で、胸中に渦巻く憤懣と悲愴は出口を失い行き場を求めて、直也の内臓をじりじりと焼いていく。その痛みを冷まそうと、直也は目の前に置かれたアイスティーに手を伸ばした。
「やはり、目撃者の少なさが痛い。もともと人通りの少ない通りにあったから、なんとも周囲の人間から証言を得づらいんだ。犯人らしき者の痕跡は何もなし。凶器さえも見つかっていない」
「相変わらず、完全にお手上げってことですか……」
直也は飲んでいたアイスティーを置くと、腕組をしてテーブルに視線を落とした。だがすぐにはたと思いつき、柳川の顔へと目を向けた。
「でも、何か新しいことが分かったから。俺をここに呼んだわけですよね?」
「さすが。鋭いね」
柳川はにやりと唇を歪めた。胸ポケットからメモ帳を取り出す。そしてそれをテーブルの上に落とすと、先ほどと同じように指を3本立てた。
「3つある。1つ目は、事件当日の目撃情報だ。遠野咲さんのな」
「咲さんの?」
直也は無意識のうちにズボンの右ポケットを撫でるようにしていた。指先に固く角ばった感触が伝う。そこには咲が直也に遺した、奇妙な贈り物が入っている。ズボンの上から掴もうとすると、金属同士が擦れ合うような音を発した。
柳川はメモ帳をめくると、手を留めたページに書かれている内容を読み上げた。
「目撃者はバスの順番待ちをしていた女性。4時少し過ぎくらいに、車の助手席に乗る遠野さんの姿を目撃したらしい。見間違えかもしれない、ということでずっと黙っていたらしいが、事の都合で警察署に来た際、偶然居合わせた担当の刑事に証言してくれたとのこと……どうだろう?」
「どうだろう、って言われてもな」
直也は苦笑した。新たな展開ではあるが、ポイントが限定的すぎる。これで何か進展が望めるか、と問われたら難しいところだった。
「乗っていた車の車種とか、ナンバーとかは分からないんですか?」
「色は白。セダン車で、大分古いやつだ。ナンバーはさすがに覚えてないらしい。今、捜索中だけど何せ事件から3年も経ってる。この線にはあまり期待しないほうがいいかもしれない」
「運転席に乗ってた人のことは?」
「分からないとのことだ。おそらく、遠野さんの影になっていたんだと思う。後部座席には誰も乗ってなかったらしい」
なら結局何も分からないんじゃないか。直也は苛立ち、膝の上で拳を握り締めた。車に同席していた人で犯人が特定できるのではと踏んでいたのに、これではとんだ肩透かしだ。直也はアイスティーをストローで吸うと大げさにため息をついた。
「そうか……悪いけど、情報が少なすぎて推理も捜査もあったもんじゃないですね。……あと2つは?」
柳川は先ほど、新しい事実が3つ浮上したと言っていた。残りの新事実を直也がさっさと促すと、彼は嫌な顔1つみせずにそれに従った。
「鉈橋きよか、という名前に心当たりは?」
突然出された名前に、直也は眉をひそめた。首を傾げ、かぶりを振る。柳川がメモ帳に何事かを書き、こちらに見せてくる。そこには『鉈橋聖』と雑な字で書きこまれてあった。どうやらこれで、なたはし・きよかと読むらしい。しかし漢字が分かっても、直也の出す回答に変化はない。
「いや、全然知りませんけど。一体、誰なんです? 咲さんとなんか関係が?」
柳川は注文したアイスコーヒーからストローを抜き、グラスに口をつけて飲んだ。一気に半分くらいまでその黒い水を飲み干すと、メモ帳に目を落とした。
「鉈橋きよかは、遠野さんの高校時代の同級生だ。とはいっても共通点はクラスメート、ということくらいで特に親交が深かったというわけではないらしい」
「なら、あんまり事件には関係ないんじゃないですか? そりゃまともな人生送ってれば100人や200人、顔見知りの人間は出てくる。そんなの全員調べてたらキリがないじゃないですか」
「彼女は失踪を遂げている。それを知っても、君は同じことを言えるかい?」
にやりと意地悪そうな笑みを柳川は浮かべる。直也は息を呑みながらも、失踪しているからどうなのだ、と抗弁しようとした。咲と同じ学校に通っていた、程度の関連性しかない女性が行方不明になったとしても、それが事件と直接に関わるとは考え難い。
しかし柳川はまだ、にやにや笑いを崩さずにいた。その笑みは直也の力量を推し量っているようにも思え、少しムッとする。
「すまんね。実は彼女が失踪を遂げたのは、遠野さんが死亡するちょうど1週間前。しかも彼女が足取りを消す直前まで遠野さんはその場で一緒にいた、としたら?」
「な……!」
「ちょっと僕の方で調べてみてね。当日、近所の人が遠野さんを見かけていたんだ。しかも一緒に、鉈橋きよかもいたらしい。当時、君はなんか聞いていなかったかい?」
直也は反応を返すことも忘れ、柳川の顔を食い入るように見つめていた。咲が死ぬ間際に昔のクラスメートと会っていたなどという話は初耳だった。咲のことなら何でも分かっているつもりでいたのに、直也の中の自信がまた音をたてて崩れ去っていく。崩壊の音が耳の奥で反響するのを、直也はどこか他人事のように聞いている。信じ難い気持ちが心中でぐるぐると渦巻いている。
だから柳川が「実は、彼女の妹はそのさらに1か月前に亡くなっているんだ」と言った時もしばらく呆然としていた。数秒経ってから、「え?」と間の抜けた反応を晒す。
「妹の名前は鉈橋そら。友達数人と岩手旅行に行った際、山で遭難したんだ。当時、ニュースでもやるにはやったけど、あんまり騒がれなかったからなぁ。知らないかもしれない。小中学生10人とその保護者が登山中に遭難。通報の翌日、崖の下から死体となって発見された、ってやつ。結構でかい事件のはずなんだけど、確かなんか他の事件と被ったんだっけなぁ……ま、なんだ。これだけでも、十分調べてみる価値はあると思うけど」
柳川はメモ帳に、今度は『鉈橋宙』と書いた。これで、なたはし・そらと読むらしい。姉妹揃って読むのが難しい名前だな、と直也は眉間に皺を寄せる。それから鼻をわずかにひくつかせた。
「確かにそれはなんか臭うな……家族とかは?」
直也が問うと、柳川は奥歯を噛みしめたような表情をみせた。そしてまるで肩にかかる重力が急に増大したみたいに背筋を丸くし、顔を俯かせた。
「一家は離散したよ。子どもを2人とも、短期間で亡くしたんだ。母親の方は気が狂っちゃったみたいで、精神病院に入っている。酷いみたいで、まともな供述は望めないそうだ。父親は行方知らずだ。生きてるんだか死んでるんだか……調べても一向に分からない。死亡している線が署内では濃厚だけどね」
「ずいぶん、ひどい話だな……」
「人が死んでいる時点で、ひどくない話なんてあるかい? とにかく本人が失踪して、家族の行方も知れない以上、これもまた真実を確かめる方法は限られている。それに遠野さんと関わりは確かに深いけど、事件と繋がりがあるかと問われると断言はできない。ただ、疑う余地は十分にあると思う」
「確かに、怪しいっちゃ怪しいよな。さっきの奴よりかは、掴みどころもありそうだし、調べてみる価値はありそうですね。それで、最後の1つは?」
アイスティーを飲み干し、からからに干上がっていた喉を潤す。それでも足りずに唾を呑みこみ、彼の口が動くのを待った。
柳川はなかなか喋ろうとしなかった。話を続けることを憚っている雰囲気さえある。
彼の頬には汗が浮いていた。空になったグラスを持ち上げると、中に残っている氷を口の中に放り込み、噛み砕く。直也は無意識のうちに彼の行動に影響され、気付けばグラスを傾けて氷を舌の上に乗せている。店内は相変わらず静かで、衣擦れの音さえない。カウンターに目を向けると、その内側で店主がかすかな寝息をたてて居眠りをしていた。
突然、誰かの歌声が聞こえ始めた。男性のボーカルで、透き通った声と激しいリズムとが美しいコンビネーションを披露している。柳川はぎくりと全身を震わせ、ズボンから携帯電話を取り出した。歌声はそこから発信されている。彼が通話ボタンを押すと、同時に歌声も止んだ。
「すまない。ちょっと仕事が入った。またおいおい連絡するよ。今日はわざわざ悪かったね」
数十秒たらずの通話を終えると、柳川は申し訳なさそうに、顔の前で手を合わせた。直也は息を吐きだすと、椅子の背もたれに深くよりかかる。全身の緊張が一気に解かれ、指先までだらりと伸びきった。今日はこのへんでお開きということになりそうだった。残り1つの事実はまた次の機会に持ち越しだ。残念ではあったが、都合があるならいたしかたない。
「いえいえ。こっちこそ……情報ありがとうございました。こっちでも独自に調べてみます」
「あぁ。だがくれぐれも、無理はしないでくれよ。本来、それは我々警察の仕事だし。僕は別にいいけど、事件に顔をつっこむ素人を目の敵にしているような人もいるしね。警察が頼りないのも分かるけど、まぁ、ほとほどに。な?」
柳川は1000円札を1枚、テーブルに残すと足早に去って行った。直也は1人残って腕を組み、先ほどの話とこれまで得た情報とを頭の中で整理する。
考えようによっては失踪したクラスメートを追うようにして、咲は何者かによって殺された。そういう流れに持っていくことだってできる。そのためにはなぜ、咲は特別親しくもないクラスメートと、直也にも内緒で会っていたのか調べる必要がある。信じるために、疑え。拓也の言葉を思い出す。
「……あ!」
直也は声をあげ、立ち上がった。その拍子に店主が体を震わせて目を覚ますのを、視界の端で捉える。身をよじってドアの方に目をやるが、当然柳川の姿はなかった。
咲の遺した装甲服の手の中にあった、金色の毛髪。それを柳川に調べてもらおうと準備していたのに、すっかり忘れていた。椅子の上に置かれたメッセンジャーバックの中を覗きこめば、清潔なビニールケースの中に入った毛髪が身を潜めるようにしている。
直也は落胆し、椅子に座り直した。店主の不審感に滾った視線を背中に受けるが、無関心を装う。ビニールの中で落ちついた色彩を放つ毛髪を眺めながら、次に会った時は必ず渡そう、と心に決める。
直也は席を立つと、ポケットに手を突っ込み、中から長方形の板を取り出した。表面に羽を模したマークと『3』の数字が振られたその板を、直也はじっと見つめる。そしてそこに浮かぶ咲の魂に、小声で話しかけた。
「咲さん……3年前に一体、あんたは何を背負っていたんだよ。なんで俺に相談してくれなかったんだ」
手の中で板をぎゅっと握り締める。指先を包む冷たい感触は、彼女の持っていた温もりとはほど遠いものだった。
魔物の話 5
時刻は、午後1時になっていた。
「レイちゃん、来たのかい?」
靴を脱ぎ、船見家の玄関をくぐるとすぐに老婆の声がした。襖を開けて部屋の中に入ると安楽椅子に座した船見トヨが、微笑みながらレイに手招きしていた。紫色の髪の毛に、大きな花飾りを付けている。今年91歳になると聞いていたが、皺だらけの顔に埋もれた目は爛々としていて若々しい。年齢を重ねた証である白い眉毛も利発さを助長する要素となっているかのようだ。
「なんで、私だって分かったんですか?」
トヨはレイの声を聞かず、姿も見えないうちからその名を呼んだ。不思議がると、トヨは皺に埋もれた顔をさらにしわくちゃにして答えた。
「なぁに、年寄りの勘だよ。それにあんな可愛い足音でこの家に入ってくるのは、レイちゃんくらいしかいないからねぇ。ほら、こっちに来て。抱っこさせておくれ」
レイは戸惑いつつも頷く。歯の抜けた顔に満面の笑顔を浮かべているトヨを前にすると、中学生なのだからもう抱っこは恥ずかしいんですけど、とは言い出しづらかった。だからレイは、意を決してトヨに歩み寄り、その腕に抱かれる。老婆の胸を背中にし、膝に乗って抱きかかえられるのは羞恥心もあったが、温かい安心感でくるまれてもいた。
トヨの体には線香の匂いが染みついている。それは彼女がいくつもの死体を横目にして人生を歩んできた、その道程でついてしまった香りなのではないかといつも思っていた。トヨの表情は時折、生きることに疲れきったように見えるからだ。しかしそれを口にするのはさすがに憚られ、レイはトヨの腕の中で縮こまる。治りかけの肩の傷口が痛んだが、瞼を強く閉じることで我慢した。
「まったく、トヨさんは本当にレイちゃんが好きだよなぁ。べったりじゃないか」
青年の声がレイの耳に届く。声の方へ首をよじると、4人掛けのテーブルで携帯電話をいじっている藍沢秋護の姿があった。今日は黒いTシャツに、赤いバンダナというファッションだ。前髪がハリネズミのようにちくちくと飛び出している。秋護は携帯電話から目を離し、こちらに向かってにやにやと笑みを送っていた。
「まったくずるいよなぁ。レイちゃんにだけ。トヨさん、他の人にはすげぇ怖いのに」
「それはあんたが、いつもくだらない真似をするからだよ。人の家に上がってくるなり電話をピコピコピコピコ。ここは暇つぶしの場所じゃないんだよ」
「それ、俺よりも狩沢さんに言ったほうがいいんじゃないの?」
秋護は苦笑しながら、自分の正面に座っている狩沢を目で示す。タンクトップ姿の狩沢は、その岩のようにごつごつとした太い腕を周囲に晒しながら、ジクソーパズルに熱中している。指先で自分の狙っている場所に合うピースを探し、緩慢な動作で隙間を埋めていく。その動きはまさしく象の歩み、と評しても過言ではなかった。40代の大男が神経を張りつめさせ、パズルにいそしむ光景にはどこかアンバランスなものがある。
「とにかく、レイちゃんはあんたらみたいに無駄な時間を過ごしていないし。それに何より可愛いからね。優しくするのも道理に叶っているよ。レイちゃん可愛いねぇ、可愛い。お手手もこんなにちっちゃくって。飴玉あげよっか?」
「あ、いや、いえ、大丈夫です」
「おや、いい子だねぇ。大人になってからもそういう謙虚さを忘れちゃいけないよ。あんな大人になっちゃダメだからね。あぁ可愛い可愛い。ほら、いい子だ」
頭をくしゃくしゃと撫でながら、トヨはレイを褒めちぎる。
いつものことだった。レイが何をしようが、どんなことを喋ろうが無条件にトヨは賛成し、相好を崩して手放しで称賛した。レイにとってそれは嬉しさよりも、どちらかというと気恥かしい気持ちを喚起させる行為だったが、トヨに悪気はないと分かっているだけに、どうにも引き離しづらい。だから秋護が「ひっでぇなー。男女差別だよ男女差別。それじゃなかったら、可愛い子詐欺だよ」と口を尖らせるのをみて、レイはなんだか非常に申し訳ない気分になった。
「あ、そういえば藍沢さん。この前はお疲れ様でした」
トヨに撫でまわされ、もみくちゃにされながら、レイはここに来た目的を思い出し秋護に伝える。彼はすぐに何のことを言っているのか分かったようで、そっと口元を緩めた。
「あぁ。そっちこそお疲れさん。けがとか大丈夫だった?」
「はい、なんとか。狩沢さんとお父さんに、守ってもらいましたから」
右肩に宿る微かな痛みをごまかしながら、レイは微笑む。狩沢に頭を下げるが、彼の耳には入らなかったようで相変わらずジクソーパズルにのめり込んでいる。トヨが「レイちゃんがお礼を言ってんのに、どういうつもりだい。ほら、聞いてんのかい。でくのぼう」と詰ってもまったく反応すらしない。
船見家は、マスカレイダーズのアジトとして使われている。隠れてこそこそやるよりも、堂々と民家の中で集まる方が効率的だし、正体がばれにくい。というのがトヨの言い分だった。もちろんトヨと秋護もマスカレイダーズの一員だ。
活動内容はレイが怪人を察知し、その詳しい居場所を戦闘員たちに伝えて殲滅行動に移ってもらう、という流れがほとんどを占めている。
戦闘員は現在全部で4人おり、それ以外の人員は彼らのサポートについていた。レイは連絡係、トヨは司令、秋護は戦闘後の後片付けを担当するという具合にだ。片付けの他にも今は、怪人を生み出している男の居場所の捜索も担当しているはずだったが、彼の口から報告がなされていないところを見ると、余程難航しているらしい。
レイもあの男の卑劣な表情は思い出したくもないので、秋護に催促をしたりしない。マスカレイダーズがどこかに捕えているという、怪人を生み出した男の仲間である、二条裕美の件も同様だ。次の犠牲者が出る前に速く捕まえてほしいと望ながらも、レイはあえて、仲間たちに彼らの所存を任せる立場に甘んじていた。わがままだな、とレイは時々自分自身が嫌になる。
あと1人裏方についているメンバーがおり、彼を合わせると、現状でマスカレイダーズは9人という人数で怪人を撲滅するための活動を行っている。それがレイの知っている、マスカレイダーの全てだった。
「そういや、ついにエレフ使ったんだってな。どう、かっこよかった?」
「はい、すっごくかっこよかったですよ。怪人を片手で吹き飛ばしてました」
「いいな、それ。俺も見たかったなぁ」
頭の後ろで手を組み、秋護は天井を仰いでぼんやりと言う。だがすぐに姿勢を直すと、なんだか嬉しそうにしてポケットから1枚の板を取り出した。板は片手に乗るサイズで銀色に塗られており、表面には羽のマークと『1』という数字が刻みこまれている。
「見てくれ、じゃじゃん!」
「その効果音、古いですよ」
「じゃじゃん!」
「それ、狩沢さんのですか?」
装甲服を纏うために必要なその板を"メイルプレート"というが。その数字が記されたメイルプレートは、エレフのものを入手する前まで狩沢が所持していたものだったはずだ。それを指摘すると秋護はプレートで肩を叩きながら、嬉しそうに頷いた。
「もらったんだ。狩沢さんはエレフもらったからさ、いらないだろ? 欲しい、っていったら本当にくれてさ。いやもう、狩沢さんありがとうございました。凄く嬉しいです」
「構わぬ」
「あ、喋った」
久々に聞いた狩沢の声に、レイは思わず口走る。両手で口を押さえたが時はすでに遅く、じろりと睨まれてしまった。
レイの発言を耳にしたからなのか、それとも狩沢の威圧的な視線を目にしたからなのか秋護は噴きだし、そのままテーブルを叩いて爆笑し出した。
「いいねレイちゃん、今の。レッサーパンダが立ったみたいな、言い方だ」
涙が滲むまで笑われると、さすがに少しムッとする。トヨの顔を見上げると、秋護を憐れむような目で見ていた。レイは1つため息をつくと、トヨの体から離れ、床に両足をつけた。
「藍沢さん。それはちょっと、古いです」
「いいんだよ。非現実的なところが素敵じゃないか。こういうのは流行り廃り関係ないんだって。それにしても確かに、狩沢さんが喋るのは非現実かもなぁ」
「だから空気の読めなさを指摘されるんですよ」
「分かってないな。俺はあえて空気を読んでないんだ」
「じゃあ、読んでくださいよ」
「俺が雰囲気を読んだら、大地震が起こると噂されているんだ」
「じゃあ私は、大地震が来ることを望みますよ」
胸がざわざわと騒ぎ始めたのは、それから間もなくのことだった。脳裏に強烈な光が差し込んだかと思うと、川が氾濫し堤防が決壊するようにして大量のイメージがなだれこんできた。まるで映画のシーンを細切れにしたような、映像の荒波が意識をかき乱そうとしてくる。
頭がきんと絞めつけられるように痛み、目眩が生じる。レイは床に座り込むと頭を抱え、自分で自分を抱くようにした。
「レイちゃん、大丈夫かい」
血相を変えて、安楽椅子から立ちあがりレイの背中をさするトヨ。それに対し、秋護は至極冷静だった。頬杖をつきながら「怪人が出たのか?」とむしろ頬を弛緩させる。「非現実が出たのか?」と言い換えたりもしている。
「大丈夫です、ありがとうございます」
レイはこめかみを押さえながらゆっくり身を起こすと、壁際に置かれたソファーに腰かけた。何度か頭を振り、脳裏を過るイメージを振り捨てるようにする。
怪人が活動を開始する時、レイの中を流れる怪人の血がそれを無意識のうちに察知する。外部から無理やり、情報を差しこまれるといつも頭や胸に激痛が走る。何度味わってもこれだけは、慣れることができない。これから先もおそらく無理だろう。怪人としての能力はレイを苦しめさえするものの、助けることはあまりない。レイは痛みが引くのを待たずに、肩で息をしながら入手した怪人に関する情報を周知に広める。
「場所は、ここから南に10キロ。今は使われていない古いトンネルの中です。中を探検している女の子……高校生だと思います、その人たちに狙いを定めています。体の色は青。目の数は3。飛行能力は多分ないです」
「10キロか。なかなか遠いな。しかもまだ明るいうちから頑張るねぇ。で、レイちゃん。誰を行かせるつもりなんだい? とりあえずここに、レッサーパンダみたいなおいちゃんがいるけど?」
秋護が茶化して言うと、狩沢が席を立ち、レイを無言で見た。その手にはすでに、エレフを装着するための白いメイルプレートが握られている。
レイは狩沢を見つめ返し、口を結んで頷いた。少々ここから目的地まで距離はあるものの、先日目にしたエレフの実力ならばたとえ時間を要したとしても、到着すればその分怪人を素早く射とめてくれるだろうと予測できる。レイも、狩沢に行ってもらうことには賛成だった。その旨を、彼に伝えようと口を開きかける。
だがその時、奥の襖が音をたてて開かれた。同時に襖の向こうから大量の埃が舞いあがり、こちらの部屋にまで広がってきた。粒が大きいのか、それとも小さい粒が無数にあるのか。空気の中を移動する埃たちの姿が、はっきりと視認できる。前置きもなく埃の襲撃をくらったトヨは咳きこみ、秋護は顔の前で手を振って埃を薙ぎ払うようにした。狩沢は表情をまったく変えず、レイは口を手で押さえる。
「あんた、寝てるのはいいけど。もっと気を使ってこっちにきておくれ。目がしばしばしてしょうがないよ」
ごほごほ言いながら、トヨが怒りを口にする。その矛先は、開け放たれた襖をくぐって現れた、全身を狼の着ぐるみで包む男に対して向けられた。
「ごめんね。ゴン太君、ちょっと寝過ぎたみたいなんだ。言い訳にならないよね。本当に、ごめんね」
片目が外れ、全身に補修の跡が残されたままの薄汚い着ぐるみ。それを頭から足の先まですっぽりと着込んだ男。彼こそがこのマスカレイダーズのリーダー、ゴンザレスだった。ゴンザレスが首にかけた、銀色のネックレスを揺らしながらレイに歩み寄ってくると、その巨大な頭を近づけた。レイは自分の顔ほどもある、黒くて丸い鼻を片手で掴む。
「ゴンザレスさん、いたんだ。こんにちは」
「嫌だなぁ、ゴン太くんって呼んでよ。そっちのほうが可愛いじゃない。ゴン太くんは人間のみんなと仲良くなりたいんだ。よそよそしい態度は、嫌いだよ」
まぁ、いいけどね。ゴンザレスはそう呟き、自分で話題を切りあげると、こう提案した。
「ダンテをいかせなよ。遠いんでしょ? あれなら飛べるからね。早く着けるよ」
「速見さんを?」
秋護は訝しむように目を細める。狩沢も表情こそ変化しないが、突然の代案に当惑している様子だ。レイもまた瞠目して、ゴンザレスの顔を見つめる。しかし着ぐるみの狼の顔は、舌を出して笑っているだけでその真意を何も伝えてはくれなかった。
「ゴン太くんたちの目的は、犠牲者が出る前に怪人を始末することだからね。速さが肝心なんだ。だったら早く、彼に連絡付けなきゃ。そうでしょ。ゴン太くん、なんか間違ってるかな?」
リーダーがそういうのなら、いたしかたない。それに彼の言っていることは、怪人を倒す力を持つ組織として理に叶っているように思えた。別にこちらとしても不服はなく、レイは黒い薄型の携帯電話を、ポケットから手に取った。
それはメールと通話機能しかないシンプルなもので、レイの私物ではなく、ゴンザレスからメンバー全員に配布されているものだった。昨日の戦いではうっかりこれを自宅に置き忘れてしまい、自分の携帯電話で父親に連絡するはめになってしまった。その結果、買って3日も経たないうちに、その電話はおしゃかになってしまったのだから、笑えない。
配布されている携帯電話は販売されているものとは仕様が異なり、1を叩き、続けて通話ボタンを押せばマスカレイダー、"ダンテ"の装甲服を所持している戦闘員、速見拓也に繋がるようになっている。レイは操作を終えると携帯電話を耳に当て、拓也が出るのを待った。
「ま、速見さんもやるときはやるから。怪人なんて、ばばっと倒してくれるだろ。こりゃ、今回は狩沢さんお預けだなー」
携帯電話で塞がっていない、もう片方の耳でレイは狩沢をからかう秋護の声を聞いている。
実は私も怪人なんですよ、とはこの場でさすがに言い出せなかった。レイの正体を知っているのは今のところ、黒城を除けばあの山小屋にいた、怪人を作り出している一団だけだ。
自らが怪人であるにも関わらず、怪人を倒すための集団に所属しているなど矛盾しているな、とはレイ自身も感じている。しかしそれでも、怪人から多くの人を守りたいという純粋な気持ちに変わりはない。衝動といってもいいくらいだった。レイはマスカレイダーズで活動し、人々を救う役目を担えていることに誇りをもっている。だからこそ、レイは仲間だろうと、容赦はしない。悠をさらい、レイの正体を知っていた、あの白衣男に命じられるがまま人間を襲う怪人は許さない。怪人にされた死体の魂を救済するという意味でも、その行いに迷いはなかった。
「大丈夫だよ。速見拓也くんは、今日機嫌良さそうだったから。テンションの乗った時の彼は、すごいよ。きっといい戦いを、見せてくれるはずだよ。こんなに推薦しているゴン太くんを、信じてよ」
誰に弁解するわけでもなく、ゴンザレスが呟く。その根拠はどこからくるのか、そしてその情報をどこから仕入れたのか、様々な疑問を頭に巡らせている間にぼそりと音がして電話が繋がる。
鳥の話 5
その手紙がきたのは『しろうま』から客が姿を消し、仁が手持無沙汰に店内のテーブルを片っぱしから拭いていた時だった。
時計を見ればまだ4時ちょっと前で、しかし客が来る気配もまったくないので掃除をしては新聞を広げ、時には軽やかなステップなど踏みつつハミングを口ずさみながら、いたずらに時を過ごしていた。
佑は夕飯時になるまで帰らないだろうし、葉花もおそらく同様だろう。彼女はプールに行ってくると言って出かけて行ったが、これまでの様子から、それだけ済ませて帰ってくるということはないだろう。外出して友達と遊んでいる以上、しばらくどこかをほっつき歩いているはずだ。
閉店時間はまだなので、この場所を離れるわけにもいかず、仁は暇を持て余していた。そういえばクロスワードパズルの雑誌を前に買っておいたっけ、とふと思いだし、椅子から腰を上げた。手紙が届いたのは、その時だった。
まるで見計らったかのように、ドアが開いた。ベルが静かに揺れる。吹きこんだ風が偶然ドアを押しやったのかと錯覚してしまいそうになるほど、それは忍びやかな来店だった。
「いらっしゃいませー」
いつものように、満面の笑顔で来客を歓迎する。しかしこの時ばかりは、仁はすぐに表情から笑みを消し去った。頬を強張らせ、ドアの前に立つ人物を睨むようにする。
彼は腹の前で手を組むようにし、無言で立っていた。顔には鳥のお面を被っている。嘴の部分が前に飛び出しており、丸い眼球もお面の目にあたる部分に乗せられていて、三次元的な構造をしている。薄いグレーをしているからあれは鳩だろうか、と仁はそのお面を見やりながら予想する。
男の体つきはがっしりとしていて、仁と同じくらい長身だった。高価そうなスーツを着込み、これまたブランド物の真っ赤なネクタイをしている。胸ポケットから真っ白な便箋が、ちらりと顔を覗かせていた。切手は貼っておらず、郵便番号も書かれていない。
「随分、久しぶりだね。君が来たってことは、僕の出番かい?」
男が声を発さずに頷く。
よく見れば、男の喉仏には人体の脳みそを簡易に描きだしたかのようなマークが彫り込まれていた。タトゥーのようでもあるが、そんなところに果たして彫ることができるのだろうかと疑問にも思う。一歩間違えたら、頸動脈を突き破ってしまうのではないだろうか。あれが本当にタトゥーだとしたら、彫ったのは相当腕のいい彫師に違いない。
喉仏に刃物をあてがわれている様を想像し、喉元にぞわぞわとした感触を覚えながら、仁は男に近づいた。躊躇なく、その胸元に差しこまれた便箋を抜き取る。男は仁が手紙を奪っても、変わらず直立不動の体勢だった。指1本動かさない。そのお面の下で彼がどんな表情を浮かべているのか、無性に知りたくなるが、その好奇心を唾とともにぐっと喉の奥へ飲みこむ。
便箋の中には、1枚のメモ用紙が入っていた。そこには女の子らしい丸文字で、簡単な用件と、これまた大雑把な地図が記されている。仁はその位置を頭の中で想像し、特定してから叩きこむと、メモ帳と便箋を男の胸ポケットに突っ込んだ。くしゃくしゃになった紙を押しこんでも、男は怒りだすどころか身じろぎもしない。そうされるのがルールであることを、意識レベルで納得しているかのような振る舞いだった。
ポストが口に手紙を入れられることに不服を漏らさないのと同じように、冷蔵庫が体内の食物を出し入れされるのを拒絶しないのと同じように、彼もまた手紙を渡し、受け取るというルールに徹している。だから仁も、少し悪いような気持ちを抱きながらもそのルールに従う。そして仁に課せられた本当の役割は、これから始まる。
エプロンを脱ぐと、手近にあった椅子の背にそれをかけた。息を軽く吸うと、それだけで体の隅々まで酸素が行き渡ったかのように感じられた。命の源が全身を伝い、それに伴い闘志までもが血液を巡る。エアコンを消し、窓の鍵が閉まっているか確認して、店内の電気を消す。
それから寡黙な人形のように同じ姿勢を保ち続けている、鳥面の男に近づくと、肩に手を置きその活躍を労った。
「暑い中、いつもご苦労さま。じゃあ、できるだけさっさと済ませてくるよ。……お土産はなにがいい?」
男の横を通り過ぎると、仁は外に出た。腕を伸ばし、ドアノブにぶら下がっている表示板を『CLOSED』に回転させる。湿気を含んだ暑さに額から汗が滲み出るが、反して仁の体内はひどく冷え切っていた。指先が震え、口の中が干上がる。胸の奥にある冷え切ったものを、仁は離さぬよう両腕でしっかりと抱きしめるようにする。
そうして出かける準備を終えると、仁は店内に男を残したまま、後ろ手にドアを閉めて『しろうま』を後にした。
『しろうま』の周辺は、雑木林に囲まれている。そのため普段なら森林浴ついでにジョギングや散歩を楽しむ人や、のんびりと木立の中に備えられたベンチでくつろぐ人たちをちらほら見かけることができるのであるが、今日は人の姿を認めることはできなかった。
吹きぬける突風に木々がざわめき、砂埃が舞い上がる。重なりあう葉が空を覆い隠しているため、ここのあたりは市街地や住宅街と比較すれば格段に涼しい。それでも身を気だるい空気が包むようなのは、この湿気のせいだ。葉の隙間から見える空はまだ青々としているが、遠くに目を運ぶと灰色に移り変わっている。一雨きそうだな、と仁は地面を踏みしめるようにして歩きながらぼんやり思う。
仁は雑木林の中を進んでいた。足元の草花をつま先でかき分け、近寄ってくる虫を手で振り払う。そしてオールバックに固めた髪型の額の上にある生え際を掴むと、手でゆっくりと、前髪を眉毛のあたりまで下ろしていった。
仁の足元から、青に着色された微細な粒子が沸き上がる。まるで蛍の大群が一斉に目覚め、活動を開始したかのような光景だ。ただし、それはたとえ木陰で薄暗くとも今は昼間である、という条件を無視した上での喩え話だ。自ら光を放つその粒子は太陽の下であろうとも、輝きを失わず、ちかちかと瞬いている。無数のそれらに囲まれ、仁の体は余すことなく埋め尽くされていく。
粒子を纏った仁の体が、かすかな光に炙られるようにして、凄まじいスピードで変質していく。皮膚が衣服も巻き込んで硬質化し、頭から足の先まで黒曜石のような光沢を放つ色合いに染まっていく。顔は歪み、溶け、まるで適当にこねくりまわした粘土のような縦横無尽さで崩れていき、そのうち目も鼻も分からなくなる。そうしてやがて、獣と無機物の間のような表情を作りあげ、段々と人の相貌を保たなくなっていく。
額からは、粒子によって形作られた1本の鋭く細い角が生え伸びる。顔面にはスリットが敷かれ、口元はすっぽりとマスクのようなもので覆われていく。
さらに粒子がひときわ大きな輝きをみせたと思うと、その体表を滑るように移動した。粒子の通過したあとには、ペンでなぞったかにように金色の深いラインが敷かれていく。それはまるで、体を伝って滴り落ちる血液のように、幾重にも枝分かれしながら独特の絵柄をその身に刻みこんでいく。粒子のうちいくつかはその体に、まるで粉雪のように染み込んでいき、残りのいくつかは徐々に光を失い、空気に吸い込まれるようにして消えていく。
粒子がその身から完全に離れ散っていくと、仁は人の姿を完全に失っていた。
ユニコーンを象った兜を被る、西洋の騎士。今の仁の姿を説明するのならば、そう表現するのが一番手っ取り早い。全身を黒光りする鎧に包み、頭に1本の角を湛えた兜を纏う。腰には抜き身のサーベルが挿しこまれ、腹部のバックルには円盤状の古めかしい石がはめ込まれている。
"V.トール"。
仁は、生まれ変わった自分の体の名前をそう教えられていた。
約1週間前、寝ている間に、体内へと埋め込まれた石板によって、仁は人知を超える力を手に入れた。それがこの体だ。
引き換えに失ったものは、あまりに大きい。だがこの力を得たこともまた、同じくらい大きかった。マイナスではないのだから、まだマシではないか。一歩下がって、一歩進むだ。
仁は少々無理やりに、ポジティブな思考へと自分の気持ちを持ち上げていく。これは、大切な人を守ることのできる力だ。せっかく得た力を、発揮しない手はない。だから仁はこの力を行使する。先にどんな弊害や絶望が待ちうけていようが、今を変えることのほうが余程重要だった。
話によると、トールというのはどこかの神話に出てくる神様の名前らしい。この力を授けてくれた少女はそう当然のように話していたが、神話や民謡といった話に特別疎い仁は初耳だった。菅谷ではないが、自分のような人間がよく知りもしない神様の名前を名乗っていいのかどうか、少し不安にもなる。
V.トールとなった仁は手首の関節を鳴らして、戦闘に特化した己の肉体の馴染み具合を改めて確認する。しっかりと身に定着していることを納得すると、助走もつけずに地面を蹴り、周囲に砂煙をまき散らしながら高く跳躍した。
頭上を覆い隠す密集した葉の集落を突き破り、空に飛び出す。そして平泳ぎの要領で両足を勢いよく後ろに突き出し、両手で空気を掻くようにした。それだけで大きな推進力が生まれ、吹きつける風が、布を切り裂くような音をたててV.トールの体を前方に押しやっていく。
強化された手足で空中を1度掻けば、まるで音速ジェット機のようにその体は空を一直線に貫いていく。徐々に速度が落ちていき勢いが失われる度、再び空を掻く。すると爆発的な力が生まれ、その体を後押ししてくれる。それを繰り返しながら、V.トールは目的地に向けて飛んでいく。純粋な飛行能力を持たないV.トールにとってこれが一番てっとり早く、最も迅速に狙った場所へ辿りつける移動手段だった。
住宅地を超え、眼下には整備された街並みが広がっている。スクランブル交差点を渡る人々が、ここからだと何か1つの巨大な塊のように見えた。車道では車が渋滞している。色とりどりの自動車が行儀よく一列に並ぶ光景は、どこかビーズアクセサリーを思い出させる。
町に立つ無数の人々は、V.トールの姿を捉えることはなかった。地上から大分離れたところを飛んでいるし、万が一発見できたとしても、黒い影がちらりと動いたぞ、くらいにしか認識できないに違いない。
ビデオを3倍速で早送りするようなスピードで、仁の視界に映る景色は流れていく。鳥や飛行機が前から飛んでこないことを祈りながら、さらに両手をもがくように掻きやって速度を上乗せしていく。V.トールが通過した後の空には、尾を引くようにして青色の粒子による鮮やかな直線が描きだされていった。
視線を下に向けると、古いトンネルがあった。街から大分離れ、人気も少なく、比較的背の高い木々が乱立する僻地である。そこにぽつんと、あるのが当然とばかりの白々しさで灰色のトンネルは置かれていた。
5年ほど前に新しいトンネルが開通したため廃止され、それからというもの一種の心霊スポットとして密かな脚光を浴びている、という情報を仁は風の噂で聞いた覚えがあった。いまこうして自分の目で確かめてみると、あながちその噂も嘘ではないな、と確信する。トンネルには怪しげな蔦が絡みつき、また上空からでも分かるほど酷く汚れていて確かにおどろおどろしい雰囲気を纏っていた。"歓迎 幽霊様一向"という旗が見えるかのようだ。
V.トールは姿勢を立て直し、進行方向と逆側に足を突きだすことで無理やり制動をかけると、粒子を周囲に発散させながら頭を下にしてトンネルへと落下していった。
また一度中空を蹴り、落下速度を飛躍的に加速させる。摩擦によって硬質化した肉体が火花をあげ、擦り切れるような音を林道に轟かせる。そうやって全身を赤く燃え上がらせながらトンネルの天井を頭で破壊し、無数の破片と一緒にその内部へと転がり込んだ。
トンネルの中は非常に薄暗く、かび臭かった。破壊した天井の穴から一筋の光が注ぎこみ、V.トールを闇の中に浮きあがらせている。ゆっくりと身を起こし、未だに細かい砂礫が降ってくるその破壊跡を一瞥してから、トンネル内の状況を素早く窺う。
目の前に立つのは、青い体色をもつ怪人だ。縦一列に人間と同じ眼球が3つ並び、口はファスナーのようにたわみつつ、頬のあたりまで裂けている。全身のいたるところにビー玉のような球体が埋め込まれ、一定の間隔で明滅を繰り返している。
続けて顔面スリット内の眼球を動かし、仁は背後に視線を移す。そこには全身を装甲服で包んだ何者かの姿があった。視界の隅に引っ掻けるようにして覗き見ているため詳細は分からないが、頭をすっぽりと覆うマスクにインカムが付いており、また腰からはロングコート状の黒い布が吊り下がっていることだけは把握できる。その装甲服は明らかに当惑し、身構えていた。こちらが動き出せば、すぐにでも殴りかかる準備はできているぞ、と脅迫を受けている気がする。
仁はその装甲服が、"マスカレイダー"という名称をもつことを知っていた。
V.トールは、とりあえず背後の装甲服を無視して怪人に躍りかかった。小さく跳躍し、そのこめかみにつま先を叩きこむ。怪人はぐにゃりと曲げた唇を風のそよぐ水面のように揺らしながら、低い唸り声をあげる。そして腕を頭の横に上げ、難なくその一撃を掌で受け止めた。
「やるね。……だけど残念ながら、どっちにしても痛い目にあうんだ。本当に残念だよ」
思わず小声で呟く。怪人が全身を震わせ、ぎゃっと悲鳴をあげて後ずさりをしたのはその直後だった。
退く怪人目がけてV.トールは掌をかざす。その掌中から青白い光をあげて、山なりの線を虚空に描いた電撃が放出された。体内よりあふれ出る青い粒子を混ぜ込んだ、その電撃を浴びた怪人は足元をふらつかせトンネルの壁によりかかる。先ほど、怪人に足を掴まれた時もこの方法で体から突き放したのだった。掌のみに留まらず、足先や頭からでさえもV.トールは自在に電流を放出することができる。
Vトールは壁にもたれ呼吸を乱す"怪人"目がけて、拳を振り下ろした。しかし機敏な動作で腰をかがめ、横に転がることで敵はそれを回避してくる。つい1秒前まで、怪人の背中が触れていた壁を勢いあまって粉砕すると、V.トールはお返しとばかりに打ち込まれてきた敵の拳を、すんでのところで回避した。
たたらを踏み、姿勢を大幅に崩す怪人の首を、V.トールは正面からむんずと掴む。そして右足を踏みこみ、掴んだその腕を前に突き出して、怪人の体を壁に叩きつけた。あまりに力をいれて押し込めたため、壁が軋んだ悲鳴をあげ、怪人を中心としてあらゆる方向に一斉にひびが走る。叩きつけた箇所は深く陥没し、怪人のシルエットをその表面に浮かび上がらせた。ドスン、という衝撃音がトンネル内を冷たく反響していく。
息を浅く吸い込むと頭の中が白く塗りたくられ、何も考えられなくなる。心の中が空になり、そこに透き通った風が通う。V.トールは冷静にそして冷酷に、凍えた感情で胸を占めると怪人の首を掴んだその指先に電撃を行き渡らせた。肘にじんとした熱さを覚えたと思うと、すぐにその感触は掌に移っている。
至近距離から打ち込まれる電撃が、怪人の肉体を崩壊に誘っていく。青白い光に蹂躙されながら怪人は始めこそ手足をばたつかせてもがき、甲高い鳴き声を必死にあげていたが、ものの1分もしないうちにぐったりと頭を垂らしていき、それでも構わず電撃を流し込み続けると、終いにはぴくりとも動かなくなってしまった。
3つあったその眼球は血走り、今ではてんでばらばらの方向を向いている。口からは黒い煙を吐き、全身からは白い湯気を噴いて、その体表は熱によって赤くただれていた。
電流を放出し続けている間、仁の頭の中にはある映像が送り込まれ続けていた。ふとした物事に直面した瞬間、そのイメージに引きずりだされるようにして、かつてあった出来事を思い出していくような。そんな覚束なさで、その切り取られたワンシーンは脳裏に再生されていく。
それは公園だ。ブランコが揺れている。シーソーが軋んだ音を発している。子どものはしゃぎ声が聞こえ、犬がどこかでしきりに吠えている。
すぐ隣で若い女性のあどけない笑い声が響く。噴水の水が落ちる音も聴覚を捉えた。嗅覚に反応するのは、香ばしい生地の香りとストロベリーの混じった甘いクリームの匂いだ。クレープだ。口の中に運ばれると、仁の口内にも甘い食感が広がっていく。友達と雑談を交わしながら、公園で歩きながらクレープを食べている。その光景が目の前に浮かんでくるようだった。
「……クレープ」
呟き、仁、V.トールは我に返る。電流は流していないものの、怪人の首を強く掴んだままであることに気付き、慌てて力を緩めた。気を失っているのか、それとも死んでしまったのか。もともと血もなければ、脈もない。怪人の生死を判断するのは実に難しい作業だった。
とりあえずやることは済んだ。V.トールは首を回してコリを和らげると、怪人を肩に担ぎ、踵を返そうと足を踏み出す。
「待て! ちょっと待ってくれ!」
その行く手を阻むように、背後から声がかかる。振り返ると、あの装甲服の男がこちらに歩み寄ってくるところだった。
「俺は、マスカレイダーのダンテ。自己紹介したから今度はそっちの番だ! お前は、黄金の鳥の関係者なのか?」
唐突に自己紹介をしてくるので仁は思わず挨拶を返しそうになった。すんでのところで、言葉を飲みこむ。戦闘中は正体の漏洩を防ぐため、必要以上に声を出してはいけない、というのが仁に架せられたルールの1つだった。
それにしてもこの男の声はどこかで聞き覚えがある。それほど昔ではない、おそらくつい最近だ。しかしそれを問いかける手段も、そしてその必要もないことに気がつき、仁は男に構わず首の向きを前に戻した。
「お前は華永あきらの居場所を、知っているのか?」
男の質問を黙殺する。なぜ彼があきらのことを知っていて、その居場所を仁に問いかけようとするのか訊ね返したい気持も沸いたが、ぐっと我慢する。
「彼女を探している人がいる。居場所を知っているなら、教えて欲しいんだ。頼む」
足音がトンネル内に反射し、響き渡る。敵であると認められている男に、あの少女の居場所など教えられるはずもない。とりあえず相手が衝動的に戦いを挑んでくるタイプでなかったのは幸いだった。避けられないと思いつつも、なるべくならマスカレイダーズとは、拳を交えたくないというのが仁の本音だった。怪人と戦い、その死体を持ち帰る。自分の仕事はそれだけだでいい。
「本当は、戦いたくなんてない」
装甲服の男、ダンテはいきなり大声をあげた。それは悲痛の叫びだった。V.トールは、はたと足を止める。しかし振り返ることはしない。彼と正面から向き合ったならば、その真摯な気持ちに心を動かされてしまうと予感したからだった。
「だけど、みんなを守るために、子どもたちが安心して暮らせる未来を切り開くために、俺は戦士になったんだ。だから! お前にその怪人を持っていかせるわけにはいかない。……できればここに、置いていって欲しい。頼む。この通りだ」
カチャリと装甲服が擦れ合う音が聞こえた。彼に背を向けているので確認はできないが、どうやら頭を下げているらしい。腰を折って深々と。なぜこの男がそこまでして自分の行く手を阻もうとするのか、仁の頭には理解が追いつかない。
だから深く考えを巡らすことを止めて、再び歩きだした。足の裏にアスファルトの冷え冷えとした感触が伝う。足音はトンネル内に響き渡り、そのためあらゆる方向から低い音色が飛び交っているように感じられる。
その中に、小石が地面を跳ねるような。ほんの小さな衝撃音が混じった。V.トールは腰を捻ると同時に少しだけ身を反らした。するとつい今までVトールの体があった場所に、ダンテの鋭い右拳がねじこまれた。
「戦いたくはないけど……それでもお前が怪人を離さないなら、俺は戦うしかない。そのためだったら俺は、戦える」
こちらを見ることもなく、拳を突き出した姿勢でダンテが強い思いを吐き出す。V.トールはその仮面にふさがれた横顔を凝視しながら、胸の中がカッと熱くなるのを感じた。
彼の言っていることは仁にも分かる。力を持っているのだから、それを行使して誰かを救いたい。その気持ちは痛いほどに、理解できる。仁もそのために、こんな化け物めいた姿を手に入れたのだから。
しかし、だからといってそれが、ここに怪人を置いていって良いという理由にはならない。マスカレイダーという鎧の男の集団は、怪人と戦った際、その死体を塵1つ残さず蒸発させてしまうのだという話を仁はこれまで幾度もなく耳にしていた。
それでは困る。仁に与えられた命令は、怪人と戦い、その死体を持ち帰ることなのだから。
ある男の、身勝手な行動による被害を受けてしまった葉花を救うためには、今はあの青髪少女の信頼を得るしかない。彼女に失望されてまた元の、葉花が苦しんでいる姿を見ていることしかできない、単なる傍観者に戻りたくはない。だからこそ、絶対にこの男に怪人を渡すわけにはいかない。
V.トールは怪人を地面に放り投げると、回れ右をして体を完全にダンテへと向けた。
そして突然の行動に身構えるダンテの目の前で、腰からサーベルを引き抜いた。右手に握ったサーベルの刀身を、V.トールは左手の指で軽く撫でるようにする。その刃は仁の腕と同じくらいの長さをもち、薄闇の中でも怪しくぎらついた光を発していた。
至近距離でしばらくの間、V.トールとダンテは睨みあった。
10秒、20秒……1分と時間だけが過ぎ、その間、双方とも身じろぎもしない。トンネルの外から聞こえる蝉の声が、別の世界からのもののように感じる。仁はV.トールと一体になりながら、刹那も隙を生み出すまいと神経を尖らせる。その黒光りする皮膚に嫌な汗が浮く。
動き出したのは、ほぼ同時だった。蝉の大合唱が息をつき、一斉に鳴り止んだのがゴングになった。
ダンテが拳を打ち出す。V.トールがサーベルを薙ぐ。サーベルは身を低くしたダンテの頭上を切り裂き、迫りくる拳をV.トールは左腕で受け止めた。
互いに後ろへ跳躍し、再び攻防が始まる。V.トールはサーベルを振り回すが、ダンテの機敏な動作に翻弄され、なかなかその刃が相手の鎧を削ることはない。しかし一方で敵の鋭く突き出される拳も次々に回避していった。最初にワン・ツーを腹にくらってしまったものの、それ以降はステップを踏むことで何とか攻撃をかわしている。だが絶えず敵の攻撃を見定め、それに応じて体を動かし続けることは、非常に体力と精神力を消耗することだった。
頭に酸素が追いつかず意識が軽くとび、その隙を見事に突かれて、V.トールは顔面に拳を突き立てられた。
視界が揺れ、足元がふらつく。しかしよろけながらも、これ以上の追撃は阻止しようとサーベルを横薙ぎにした。その無策に振るった刃は見事、ダンテの胸を切りつける。彼が衝撃に後ずさっている時間を使い、V.トールは体勢を立て直した。
仁に与えられた命令はあくまで怪人の確保であり、マスカレイダーと戦うことはではない。V.トールは指先に熱を集中させると、電撃をダンテの足元へと放った。アスファルトが焼け、砕け、破片が飛散し、砂煙が噴出すようにトンネル内を覆う。
それは即興の煙幕となった。戦いに関してはまるで素人の仁では、長期戦は不利だ。おそらく熟練した相手とは基礎の体力がまったく違う。ついこの間戦いの道に足を踏み入れたばかりの自分が、そんな相手に勝てるはずもない。自身の力量を仁はそう下し、砂煙が消えぬ間に逃亡を図ることを画策した。
周囲を軽く見渡して地面に転がっている怪人を見つけると、それを拾い上げるため身をかがめる。
しかしその体に手を触れかけたところで、V.トールは自分に向けて迫ってくる大きな気配に気づいた。手を止め、砂煙がもくもくと沸き上がる場所に目を向ける。まさか、と嫌な予感が脳内を駆け巡る。
その砂煙が内側から破られたのは次の瞬間だった。まるで闇の中から飛び出してくる黒塗りのトラックじみた、乱暴さと凶暴さを背負って、煙の中から両肩に光の翼を宿したダンテが姿を現した。
ダンテの翼を用いた滑空からのタックルは、当惑していたV.トールの胸に直撃した。両足が浮き、続けて後ろに吹き飛んで、右の肩を強く壁にぶつける。
そのままダンテに運ばれるようにして、V.トールの体は壁に擦り付けられていく。衝突された勢いで手からサーベルが落ち、アスファルトに深々と突き立てられた。
まずい、と仁は口元のマスクを歪ませた。腹に頭を押し付けられたまま背後に押し込まれ、重力が邪魔をしてほとんど身動きがとれない。右肩が擦られている壁のコンクリートからは盛大な火花があがり続け、そこだけトンネル内が真昼のような明るさを発散している。吹き付ける空気が鼻と口を押さえ続けているため次第に意識が遠くなる。
V.トールは不自由な左手の中指だけを、ダンテの右手に向けた。そして中指1点にのみ、体内を駆け巡る熱をもっていく。体の動きを抑え込もうとする重力と気圧に、決死の覚悟で抵抗しながらV.トールは電撃を撃ち放った。
白い電撃は曲線を描いて、ダンテの右手首を穿った。
全身のあらゆる箇所を強固な装甲で包んだ装甲服に身を包んでいるダンテであるが、手首や肘、膝などの関節には装甲が纏われておらず、代わりに黒いビニールのようなスーツが肌に密着しているだけとなっている。鎧部分に電撃は通らないかもしれないが、そこに攻撃を撃ちこめば効果はあるのではないか、と仁は予測した。その判断は見事に功を奏したようだった。
ダンテの口から悲鳴があがる。突然の痛みに混乱したのか飛行高度が落ち、その体が極端に傾いた。体がぐらぐら揺れ、それに伴って速度が落ちたことで、仁はようやく呼吸がまともにできるようになる。
V.トールはさらにダメ押しとばかりに、左腕でダンテの首を掴んだ。そして力のあらん限りを込めて絞め上げると、掌に収束させた電撃を一度に開放した。首もまた装甲によって守れていない箇所の1つだった。
ぎゃ、と1つ声をあげるとダンテの体は空中で急停止し、そしてV.トールを巻き込みながら墜落した。
2人は慣性に従ってもつれあい、トンネル内を激しく転がっていく。どちらが上で下なのか、目まぐるしく入れ替わる視界の中、V.トールは絡まりながらも肘を相手の鳩尾に打ち込み、ダンテを無理やり引き剥がす。弾き飛ばした相手の体は薄闇に弧を描き、天井にぶつかって、頭から地面に叩きつけられた。
動かなくなったダンテを横目に見ながら、V.トールはよろよろと起き上がる。右肩に激痛が走る。肩をあげようとするが焼けるような痛みが全身を伝うため、諦めた。ささくれだつように削れた傷口を抑えながら、怪人へとゆっくり近づく。息が切れ、頭の中は霞がかかったかのようにぼんやりしていた。
そんな仁の体を突き動かすのは、一抹の使命感、義務感。焦げ臭いトンネル内に歩を進めるたび、その心は荒んだ景色に彩られていくような気がした。
「参ったね。これから夕飯作らなきゃ、いけないのに。これじゃ包丁持てないじゃないか……」
ぼやきながらV.トールは縋るように、地面に刺さったサーベルを掴み、引き抜く。
気を抜きさえすれば、この場で気を失ってしまいそうだ。しかし怪人を持ち帰らなくてはならない。そして少女を、華永あきらを喜ばせなくてはならない。それが葉花の命に繋がると考えれば、肩の痛みも、全身を蹂躙する疲労感も、名も知らぬ相手を傷つけてしまったことによる心の傷も、まったく辛いとは感じなかった。
サーベルを腰に収め、次は怪人に歩み寄る。伸ばした手がその青い体に触れたとき、ようやく今日の仁の仕事は終わりを告げたのであった。
鎧の話 3
空気が湿り気を帯び、空に翳りが射し始め、蝉の鳴き声が小さくなったなと思ったところでぽつぽつと雨が降ってきた。
そんな感想を抱いているうちに、それはどしゃ降りへと変わる。バイクに乗って国道を駆けていた直也は、首をすくめてその雨をやり過ごそうと努めながら、滑り込むようにしてコンビニの駐車場に飛び込んだ。雑居ビルの1階を占めているコンビニで、ビルの2階3階にはまた違う店名が掲げられている。しかしその前に広がる駐車場は車が5台駐車すれば埋まってしまうほど、ささやかなものだ。今日はその全てのスペースに車が停まっていた。直也は左端のワゴン車と植込みの間にある、窮屈な隙間にバイクを停める。
「なんだよ、いきなり。今日は雨、降らないわけじゃなかったのかよ……!」
朝見てきた天気予報の晴れマークを思い出すと、自然に愚痴が口を突いて出る。直也はキーを引き抜くと、それをメッセンジャーバックにしまう時間さえも惜しく、ヘルメットを被ったまま慌ててコンビニの脇にある外階段に駆けこんだ。
1つ階段をあがると、2階の踊り場には天井があった。直也は踊り場の壁によりかかり、浅くため息をつく。びしょ濡れだった。ヘルメットの縁、髪の先、顎、指先からまで全身のあらゆる箇所から雨水が滴り落ちている。雨を吸った服のせいで、体が気だるく、重い。
ヘルメットを取って、メッセンジャーバックを開き、取り出したスポーツタオルで軽く髪を拭きながら、バッグの中身を確認する。中のスペースをほとんど占めているA4サイズの茶封筒を発見しその表面に触れてから、胸をなで下ろした。タオルが湿り気を帯び、ごわついていたので心配したが、封筒は濡れていなかった。
直也はこの雑居ビルの2階にある仕事場、『なんでも屋 ノアール』の事務所に、報告書を提出するため来ていた。直也としては柳川と別れた直後にすぐ向かいたかったのだが、その旨を今の雇い主である所長に連絡すると、私用のため4時になってから来るよう言われたのだった。
「私用ってなんですか」
訊ねると電話の向こうの所長はほくそ笑みながら、「闇に選ばれし者たちが集う会議だ」と返してきたので、直也は即刻携帯電話を閉じた。この所長と会話を交わす度、直也はこの職場を去りたくなる。それでも退職届を出さないのは、この不景気に自分の希望する職にありつけていることの重大さをよく分かっているからであり、それに気付かされる度、なんだか複雑な気分になった。結局のところ、自分は探偵のままでいたいのだ、と再認識させられるからだ。あんな悲惨な事件があり、新しい生活も始まったのに、やはり元の場所に帰ることを望んでいるのだと自分の気持ちに気付かされる。
金色の縁に青い文字盤をもつ腕時計に目をやると、4時ちょっと過ぎだった。直也は大きなあくびをしながら、事務所へと向かった。多くの謎を残して死んでしまった元恋人である咲のこと、何も言わぬまま連絡がつかなくなってしまった現恋人であるあきらのこと。様々な情報が頭の中で入り乱れ、ごちゃごちゃになっている。それに徹夜明けという条件も加わって頭が上手く働いてくれない。
二条の背中にもあった咲と同じ形をした痣のこと、咲の死ぬ少し前に失踪した、鉈橋きよかなる人物のこと。拓也から聞いた黄金の鳥のこと、それを祭っている組織のこと、あきらがそれに関わっているだろうということ。そして、謎が多すぎる言葉、"黒い鳥"のこと。
知りたいこと、調べたいことはあまりにも多い。だからこそ、この報告書を出したらすぐに眠りにつこうと直也は考えていた。この眠気では、冷静な判断もできそうにない。無理をして考え事をしても逆効果だ、と自らの身を評する。今は休んで、明日からまた思考を巡らせるのがベストだ。時間があるとはいえないが、切羽詰まってまで急ぐことはないと心の中でもう1人の自分が言っている。その声が、胸にしみじみと響いてくる。
この仕事を終えたら、直也はしばらく休みをもらうつもりでいた。自身を取り巻く全ての謎の解明に尽力するためだ。わずかであるが、貯金もある。どのくらい時間を要するか見当もつかないが、予算を照らしあわせ、一月くらいだったら食べていけるという推測をたてた。
一か月。タイムリミットは意外にも、短い。しかしじっくりと行動をしていかなければならない。慌てることは損にしかならない。直也はそれを自分に言い聞かせる。
事務所のドアの前までの廊下には屋根がついているため、濡れる心配はなかった。直也はスポーツタオルを首にかけると、片手に茶封筒を持ったまま、入口へと向かう。
あと20メートル、という位置まで来たところで直也は立ち止まり、眉をひそめた。事務所の前に人の姿が見えたからだ。一旦躊躇するが、湿った風に背中を押されるようにして足を踏み出す。
ドアの前に立ち、こちらに体を向けているのは少女だった。黄色いレインコートを着て、直也の方を食い入るように見つめている。年は13か14だろう。顔立ちからすると、それよりもう少し幼いかもしれない。髪の色は鮮やかな金だ。量は多く、耳の辺りから両端を結んである。湿り気が見て取れ、雨で濡れたのかと始めは思ったが、彼女の右手に目を移してなるほどと合点した。その手には、水着などを入れるビニール製のバックが握られていたからだ。おそらく少女はプールで遊んで、帰ってきたばかりなのだろう。それを念頭に置いてからよく見れば、目も少し赤くなっているように感じる。
直也はその少女の顔を、知っていた。確か、ノアールの所長の娘だったはずだ。彼女のことは事務所の周りでよく見かけていたから分かった。挨拶程度なら、言葉も交わしたことがある。
彼女の前で立ち止まり、その表情を見下ろしてから、直也はドアに視線を移した。ドアには『なんでも屋ノアール ようこそ!』と中年の所長には似合わない女の子らしい絵柄で、木の看板が打ちつけられている。おそらくこの少女が作ったものではないか、と予測する。
「こんなところで何やってんだよ。お父さんはいるか? 4時の約束だったんだけど」
問いかけるが、少女から返事はない。直立不動のまま、直也を相変わずじっと見上げている。何か物申したいが、なかなか上手く声に乗って出てきてくれない。それを歯がゆく感じている。そんな表情だ。直也はさらに眉間に刻んだ皺を深くした。
「なんだよ。俺の顔に何かついてるか?」
「私、おっさんが4時に来るって父さんから聞いたんだよ。だからずっと待ってたんだ」
少女は口早にそう発言した。「ずっと待ってたんだよ」もう1度繰り返す。
直也はまずおっさん、という自分を指す言葉がまず気になり「おっさんじゃねぇよ。まだ23だよ」と訂正するが、その矢先から彼女は「おっさんに頼みがあるんだよ」と続けた。
「話を聞けよ!」
声を荒らげるが、返答はない。ただじっと視線を送ってくるばかりの少女に、直也は大きく肩を落とすと、体の向きをドアに方向転換した。
「いいよいいよ、俺はどうせおっさんだよ。あーあ、やってられねぇよなぁ……」
少女が豪雨を突き破るような大声をあげたのは、そんな愚痴とも卑屈な発言ともつかぬ言葉を呟き、ドアノブに手を伸ばしかけたときだった。少女が何と言ったのかまで分からなかったが、直也は心臓が飛び出しそうなほど驚き、浅く息を吸い込みながら慌てて振り返った。すると、なんだか興奮気味に肩で息をしている少女とちょうど目が合った。
「びっくりするだろうが! さっきから一体何なんだよ。言いたいことがあるなら、さっさと言えよ」
「おっさん、探偵なんだろ? だったら探して欲しい人がいるんだ」
眠気と少女の横暴な振る舞いに、頭にきていた直也だったが少女の目を見てハッとした。
彼女は懇願の眼差しを向けている。それも強い怒りと憎悪、さらにそれらの感情をさらに外側から内包させるほどの悲しみを含んだ、強い眼差しだ。見れば頬はぴくぴくと動き、ケージを持つ手も震えている。その切迫した様子に、直也はただならぬものを感じた。怒りも忘れて腰を折り、少女の目線と同じ場所に立つ。
少女は今にも涙が滲んできそうなほどの眼力で、直也を射抜くように見た。その瞳に宿る大きな憎悪に、なんだか罪悪感が芽生えてしまう。彼女に何も悪いことはしていないはずなのに、罪を責めたてられているような気さえした。
少女は深く息を吸い込んだ。それからその身と同じように、ひどく揺れた声で、はっきりと直也に対する依頼内容を口にした。
「探してほしいんだ。……ディッキーを殺した、犯人を」
降りしきる雨がアスファルトを激しく叩いている。少女の声は落ち着いていたが、雨音にもかき消されず、周囲の空気を震わせた。直也はふと視線を落とし、少女の着ているレインコートの胸元を見る。そこには名前を書くために空けられた、白いスペースがあった。『name』と小さい文字で表記されているため、それが分かる。その空白は今、マジックペンで書かれた彼女の名前で埋められていた。
黒城ライ。それが少女の名前だった。直也は彼女の顔を見て、もう1度名前に目を戻す。そうやって少女の顔と名前を、初めて頭の中で一致させた。
2話 完




