23話「光射す牢獄」
4章エピローグ。ここで一旦、物語は完結です。
その牢獄に、光は射すのだろうか。
1
坂井直也は、夢を見ていた。
自分にとっての大切な人が、次々と目の前から消えてなくなっていく夢。咲も、太田所長も、あきらも暗がりの中に溶けるようにして、手を伸ばした矢先に目の前で霧散していってしまう。その様は、大事に掌に抱えた砂が指の間から滑り落ちていくのによく似ている。時を刻めば刻むほど、生きれば生きるほど、大切なものは増えていって、いつか自分が持つことのできる最大容量を超えてしまえば、あとは減るのを待つだけだ。
誰もいなくなった世界で、直也は耳を塞ぎ、目を覆う。寂しさと沈黙に耐えられなくて、さらなる痛みを背負うことが恐ろしくて、これ以上傷つくことがないように、直也はそうやって外界との繋がりを断ち切る。
そうやって、まるで独房の中で死を待つ死刑囚のように、暗闇の隅でうずくまり、ただただ、己の命が尽きるその時を望む。
しかしその時、闇に沈んだ直也のもとにどこからか声が聞こえてきた。それはまるで鈴の音のように直也の耳には届いた。閉ざした心に沁み入り、内側からゆっくりとその鍵穴をこじ開けていくような甲高い音色が、直也の胸中に涼やかな風を運んだ。
その音に導かれるがままに、直也は瞼を上げる。顔を上げ、空を仰いだ。するとむらのない暗闇に包まれた空に、ぽっかりと穴が空き、そこから一筋の光が地上に射しているのが見えた。
躊躇ったのは一瞬だった。目を眇めながら、その光に向けて、直也は手を伸ばした。しかし天より注ぐその光には、指先が掠ることすら許されない。温かく、直也の抱える全ての痛みを癒し、許してくれる光。縋るように、直也は立ち上がり、背を伸ばして、さらに腕を突き伸ばす。それでも届かない。つま先立ちになり、縋るようにして、空に掲げた指先を蠢かす。
少しでも光に照らされたくて、この身を蝕むような常闇から逃れたくて、必死になる。それでも光は、はるか上空に佇みながら、まるで自分を崇める人たちをあざ笑うかのように、その闇の裂け目から地上に温もりを落とし続ける。もちろん、その手が光を掴むことはない。届くこともない。しかし、その光を瞳に映すだけで、体の底から活気が溢れ、胸中に柔らかな温もりが満ちていくのは不思議だった。
「直也君」
懐かしい声が聞こえ、直也は振り返る。するとそこに淡い燐光を纏う咲が立っていた。闇の中で彼女の体だけが浮かび上がっているように見える。
「咲さん」
死んだはずの恋人を前にして、直也は呆然と立ち尽くす。夢だということは分かっていても、それでも目の前にもう1度、生きた彼女が現れてくれたことが嬉しかった。心が弾み、胸の奥がじわりと熱をもっていくのが分かる。
そして直也は自覚した。このむず痒いような感情の正体が、恋心であることに。
もう彼女がこの世からいなくなって3年も経つのに、幻の彼女を前にしただけで、こんなにときめきを覚えることに自分で驚いた。まだ咲のことが好きで好きで、たまらない。そんな自分の心の内に気付くと、失望と安心がほとんど同じ力で胸を締め付けるようだった。
顔をしかめ、身を固くする直也を見つめて咲は微笑んだ。笑った咲の表情は3年前となんら変わらぬ、もしくは、それ以上の魅力を振り撒いていた。
衝動が背中を押す。檻も暗闇も排除されたその世界で、直也は咲に触れようとその手を伸ばした。
「咲さん」
彼女の声が聞きたかった。彼女の体温を感じたかった。もっと咲とたくさんの話をしたかった。もっと咲と同じ時間を過ごしたかった。
その願いを血流に乗せて、直也は咲に駆け寄り、その手を必死に掻き抱く。もうなりふり構わなかった。もはや夢も現実も関係なかった。それが真か偽かなどという問答はすでに些細な問題だった。夢でもなんでもいいから、もっと咲と、同じ季節を巡りたい。
彼女の細い指に、指先が触れる。直也くん。声には出さず、咲は唇の動きだけで確かにそう言った。咲さん。直也も、張り裂けそうな胸の内を心の中で叫ぶ。そしてその柔らかな、温もりに満ちた手が直也の手を優しく包む。
その瞬間、直也の視界に純白の光が押し寄せた。もはや暗闇や閉塞感などどこにもなかった。手足に枷などなく、心に鎖もなく、空は明るく、地上は燃え、そして直也は自分を縛るあらゆるものから解放されていった。
そうして。
びくりと全身を引き攣らせるようにして、直也は意識を、取り戻した。
覚醒すると同時に瞼をあげた。すると、まるで油のたっぷり染み込んだ服を着せられているかのような、ひどい倦怠感が体に襲いかかってきた。全身の至る所が滲むような痛みを発していて、指先1つ動かすことも叶わない。呼吸も苦しかった。生きているのが自分で不思議なくらいだ。口の中は鉄の味が占めていた。
どうやら仰向けに倒れているようだった。天井がぐるぐると回っている。
視線を素早く周囲に運ぶ。乱雑した調度品。めくれ上がったカーペット。砕かれた窓ガラス。たとえずぼろな強盗が押し入ったとしても、こんな風にはならないだろう。この室内に台風が発生した、と説明されたほうが、まだしっくりくるような気がした。
指先に何か固いものが触れた。目を向けると、そこにオウガのプレートがあった。咲の忘れ形見。死に際に託してくれた彼女の魂。直也はそれを手繰り寄せ、なくさぬように、強く手の中に握りしめる。
何時間くらい眠りについていたのか分からない。外はすでに真っ暗だった。雨が激しく、ひどい湿気と水気が容赦なく外界との隔たりを失った室内に入り込んでくる。
なぜ自分はここにいるのか、と濁った意識で考えようとするが、回線を違えてしまったテレビのように、途切れ途切れの映像しかその脳裏には浮かんでこない。一体どうして、何があって、自分がこんな大けがを負っているのか、即座に思い出すことはできなかった。
だがその胸のざわめきから、ひどく悲しく、信じ難い出来事に遭遇したことだけは確からしい。喉がひどく乾いていた。耳も遠い。気を抜けば、そのままなし崩し的に、再び気絶してしまいそうだった。
このまままどろみに意識を預けてしまっても構わないか。あまりに顕著な体の不調に乗っ取られるようにしてそんな考えが頭を過ぎった。徐々に意識が遠ざかっていくと、それに比例して、体から自分の重さが、ふっと抜け落ちていくような気がした。
しかし、目を瞑りかけたその時、直也はすぐさま瞼を上げた。胸に違和感を覚えた。まるで人が1人自分の体にのしかかっているかのような、局地的な重みを感じた。覚醒した直後は五感がまだ鈍かったこともあり、全然気がつかなかったが、少し時間を置いた今、その重みは確かなものとしてこの身に固く据えられていた。
直也は恐る恐る視線を下向かせる。自分の体に居座る異物の正体を、そっと確認する。息を止め、目を開き、唾を音をたてて飲み込んだ。
すると直也の視界いっぱいにブロンド色をした丸いものが映った。張りのある肌があった。床に投げ出された細い手足があった。肺に酸素を取り入れると、そこから柔らかな匂いが香ってきた。
それは黒城ライだった。直也の胸に頬を載せるようにして、覆い被さっている。その目は固く閉じられ、口端から垂れた涎は直也の服を汚していた。
気を失っているのか、寝ているのか、その姿から判断するのは実に難しい。時折、鼻が詰まったようないびきが聞こえることから、もしかしたら後者が正しいのかもしれない。
この状況で眠るなど、常人では考えられないが、彼女だったらあり得るな、と直也は即座に自分の考えに納得した。そして、胸の底から安堵した。
緊張感の欠片もないその寝顔を眺め、直也は思わず微笑んだ。そして腕を伸ばすと、彼女のたおやかな髪をそっと撫でてやった。
指先を流れていくその髪の感触。色は鮮やかな金。細く、まるで絹のような柔らかさをもっている。
「あの髪、お前の、だったんだな」
直也は掠れた声で呟いた。
今なら分かる。
オウガの手に握られていた1本の髪の毛と、直也が今撫でているそれが、どちらも同一人物のものであることを。化学的な根拠などなにもないが、それでも直也は確信した。
咲は怪人を作り出したと、あの男は言った。黒い鳥の痣は罪の証だと、直也の精神を嬲るように彼は宣言していた。
確かにそれは真実なのかもしれない。だが、今の直也には分かる。咲が殺人犯ではけしてない。行ったこと自体は同じでも、その信念や過程や結果はあの男と全く違うということが、今なら分かる。
突然姿を消した、咲の親友、鉈橋きよか。
咲の腕に刻まれた黒い鳥の刻印。
この家の構造を把握していたライ。
そしてライを見て人間の形をした怪人か、と呟いていた白衣の男。
その瞬間、全ての真相が直也の前に出揃った。ようやく頭の芯でもやもやとしていたものが晴れ、心に光明が射すようだった。
「ようやく分かった。お前が、俺にとっての、光だったんだな」
先ほど覚めたばかりの夢を思い出す。牢獄に閉じ込められた直也の前に現れた、届きそうで届かない、空の彼方に見える光。あれは何の暗喩だったのかと、わずかに気にかけていたが、直也に撫でられ、くすぐったそうに身をよじるライを見て、ようやく見当がついた。
咲は直也に2つの光を託した。1つはオウガ。そしてもう1つは新しい、命だ。自分が死ぬ間際まで咲は直也のことを想ってくれ、そして、直也が迷わぬようにたくさんのものを遺してくれた。
実に咲らしいと思った。そして今になって考えてみれば、彼女からは受け取ってばかりだった。仕事の先輩としても、恋人としても、人間としても。直也が彼女に与えたものに比べ、直也が彼女からもらったものはあまりに多い。
だから今こそ、少しずつ彼女にその差分を返していかなければならない。咲の遺してくれた光を守り抜くことこそが、それを成し遂げる、唯一の手段だろう。
信じるために疑うと、速見拓也は言った。初めはその思想に感銘を受け、真似をしようと奮闘したものの、そのうち、自分のけして強くはない精神力では分不相応な立ち振舞いであることに気付いた。
どんなに疑わしくても、どんなに影が大きくとも、それでも信じて信じて信じ抜く。そちらの方が、自分の性に合っているような気がした。
ライが何者なのか。その正体に関する真偽など、もはやどうでもよかった。ただ、直也の中にひしめく想いは、咲が遺したこの命を失いたくないという一心のみだった。
破壊の爪跡が色濃く残り、湿った風が吹きこんでくる。ライの全身から伝わってくる人型の体温は思いのほか高く、生の鼓動をありありと感じさせた。
そうして彼女の華奢な肩を、小さな体を、しっかりとその腕の中に抱き寄せる。寝ぼけているのか、彼女は直也の耳元で「チャーハン」と呟いた。
「うるせぇよ」
弱弱しく笑いながら、直也は彼女の耳元に声を零す。
ごうごうと、驟雨が家の前のアスファルトを激しく叩いている。
光など一切通さぬ厚い雲が空にはひしめいている。
しかし直也にはそんなこと、まったく関係がなかった。地上に落ちた光をこの胸に抱きしめた直也の心は、果てのない青空のようにひどく澄み切っていた。
2
埃の寝床であり、カビの温床ともなっている乱雑な、薄暗い室内。腐りかけの大きなテーブルの上に置かれた、パソコンのディスプレイだけが煌々とこの空間の中で光を宿している。
その下水道のような部屋の中で。
何事かが記された用紙を片手に掲げ、それを眺めながら、ゴンザレスは喜色に満ちた声をあげた。パソコンの脇にはケースに入ったCD-ROMと、小型のデジタルカメラが置かれている。
「うん。迅速なお仕事、助かったよ。ありがとうね――」
その言葉と同様に体を弾ませながら、狼の着ぐるみはステップを踏むようにして振り返る。その視線の先には踵を返し、この場から立ち去っていこうとする男の後ろ姿があった。その手には小ぶりな懐中電灯が握られており、この常闇を切り取っている。
「――瀬野原、雅人くん」
瀬野原雅人。そう呼ばれた青年が足を止める。耳をすっぽりと覆い隠し、肩に被さるまでに長い髪を振りぬいて、その狼の着ぐるみを鋭く睨んだ。
「とりあえず、プレート、その装着者、また気になった放置物はすべて引き上げておいた。人も物もすべて、トヨさんに渡してある。確認はすべて、そちらにして欲しい」
「奴らは君の存在に気付いてすらいないだろうね。御苦労さま。戦いたくないっていう君の意向を尊重して、君に出番を回すのは、大変だったけどね。監視役は、うってつけだ。ゴン太くんたちには、データが必要だからね」
ゴンザレスは手にした用紙をテーブルの上に投げ捨てると、卑屈な笑いを雅人によこした。
雅人は無表情でゴンザレスを見つめる。その顔には喜びも、怒りも、疲労の滲んだ様子もない。無味乾燥、という表現が一番しっくりきそうな、そんな表情を彼は浮かべていた。
よくいえば、冷静。悪くいえば、人間味のまったくない、能面のような表情。
「それにしても、不思議だね」
反応のいまいち薄い彼を前に、ゴンザレスは首をごろん、と大きく傾け、その顔に陰影を差し込ませて、瀬野原雅人を下から覗き込むようにした。
「君の大切な人を、殺した。彼女を前にしても、言われたことを淡々とやって帰ってくるなんて。不思議だね、ゴン太くんには、そんなの、無理だからさ」
「復讐なんて、なにも生み出さない。くだらないよ、そんなの」
表情に何の色も浮かべず、彼は唇だけを動かすようにして言った。ゴンザレスは彼の心のうちを見透かそうとするかのように、じっと、その視線を揺るがさない。だが瀬野原雅人は暗闇の中で微笑む狼の着ぐるみに怪訝な目を向けられても、動揺1つみせなかった。
「……お金はいつものところに、振り込んでおいて。俺は平和にくらせるためだけの、少しばかりの金があればいいんだ。戦いも、復讐も、くだらない」
そう吐き捨てると、彼は部屋の鉄扉に手をかけた。ゴンザレスは顔を起こすと、ふふんと鼻から息を通し、彼を追うようにして尋ねた。
「今度のお金は、なににつかうのかな? よければ、ゴン太くんに教えて欲しいな」
瀬野原雅人はノブを握ったまま、ひどく面倒くさそうに首だけで振り返った。その長い前髪の隙間から覗く目は、猜疑心に満ちている。ゴンザレスは取り繕うように、手を顔の前で振りながら、「嫌だなぁ。ただの、世間話だよ。取って食おうってわけじゃないから、安心してよ」と弁解口調で言った。言葉とは裏腹に、ゴンザレスの語調は何か含蓄のある、不穏さに溢れていた。
「好きな人が、見つかったんだ」
瀬野原雅人は小さく吐息を零したあと、前に向き直って言った。そして扉を開く。ぎぎぎ、と明らかに油の足りない、軋んだ音が部屋中に響いた。
「これは運命なんだ」
彼はきっぱりと続けた。それから自分の手元にちらと目を落とし、顔を上げて、扉の向こうを見つめるようにした。
「その人のために、プレゼントを買うんだ。これは、そのための金だよ」
「それは、素晴らしいね」
淡々と喋る瀬野原雅人に、ゴンザレスは全く感情の伴っていない声で言う。
「でも、珍しいね。君が、彼女の以外の人間に、興味を示すなんて」
そうゴンザレスが皮肉っぽく続けた、その時には、彼はドアの向こうへ姿を消している。入れ替わるようにして、室内に白衣姿の人物が入ってくる。シルバーのフレームの眼鏡をかけた、神経質そうな男だった。
男はすれ違った青年を振り返り、気にするような素振りをみせてから、部屋の中のゴンザレスに向き直った。後ろ手で鉄扉を閉める。その足取りには疲労が滲んでいた。
「おかえり。面倒な役目を押しつけて、悪かったね。そっちは、どうだい?」
ゴンザレスは、明らかに彼が座るのには小さすぎる丸椅子に無理やり尻を押しこむと、凝った肩を解すようにぐるぐると首を回した。男は指で眼鏡を押し上げると、白衣のポケットに手を突っこみながら、部屋の内部へと足を踏み入れていく。
「フェンリルとその装着者は回収した。離れに置いてある。今頃、船見さんが手当てをしているはずだ」
「彼も、しぶといね。オウガを倒せない子なんだから、これを機に処分してもよかったんだけど、命を粗末にしちゃいけない、って先生に習ったしね。もう少し、使ってあげても、いいかもね」
ゴンザレスはどこかうんざりとした様子で言うと、それから、気を取り直すように首を大きく傾けた。
「それで、敵は、どうなったのかな。あの化け物たちは、1人くらい、死んじゃったのかな?」
男を見つめるゴンザレスの目が、暗闇の中で爛々と輝く。その瞳に込められた期待の大きさに、男は一瞬、ばつが悪そうに顔をしかめると、テーブルの上に置かれた古びたビーカーを手でいじくりながら答えた。
「いや、死体は発見できなかった。どこかに吹き飛ばされたのかもしれない。あれほどの、爆発だったからな」
「ふぅん。そうなんだ。あなたが言うからには、その通りなんだろうね」
ゴンザレスの反応は煮え切らない。口では納得をみせているが、その実は彼の報告した結果に不服を覚えているに違いなかった。男を見つめるその眼差しには、明らかな疑いの色があった。
「一応、もう1度聞くけど、死体も、何もなかったんだよね。ゴン太くんに、なにも隠してあること、ないよね?」
ゴンザレスの周囲を取り巻く空気が、禍々しく歪む。パソコンの乗ったデスクがひときわ、軋んだ音を発し、埃が白い羽のように彼の周りから浮き上がった。男は、苦笑しながら言葉を返した。
「本当だ。私の言うことを、少しは信じろ。化け物の死体など、なかった」
そう男が断言しても、ゴンザレスはまだしばらく怪訝な顔つきで男を見つめていた。
しかし、やがて「そうなんだ」と呟き、息を漏らすと「なら信じるよ。ごめんね、ゴン太くん、疑い深くって」と心のない謝罪を口にした。
「そういえば」
男はまだ眉根に皺を寄せたまま、話を換えた。ゴンザレスはデスクに頬杖をつき、すでに彼の言葉の続きを待つ姿勢に入っている。
「いない、といえば。あの人質の女の子と、速見拓也もいなかった。……現場には、こいつが残されていたが」
そう言って、男が白衣のポケットから取り出したのは、薄い黄色のメイルプレートだった。それは拓也がマスカレイダー、“ダンテ”を装着するために必要なものだ。暗闇の中に沈むメイルプレートを前にして、ゴンザレスは不穏な笑い声をたてた。
「彼も、馬鹿だね。こんな大事なものを忘れていくなんて。まぁ、いいさ。どうってことないね。人質も今のところは必要ないし、速見拓也くんは、君の力で生かされているだけ。まさに、生ける屍なんだもの」
男は自身の首筋を指でスッとなぞるようにした。その指先が、ある記号を描き出す。それは鳥が翼を広げた形のように見えた。
「まぁ、2人のことは瀬野原雅人くんに頼んじゃえば、いいかもしれないね。そんなことに時間を割いている暇が、いまじゃ、惜しいからね」
いいアイディアが浮かんだ、という風にゴンザレスは拳を叩き合わせた。男は静かにぶつくさと提案を口にする彼を見つめる。その視線には、その狼の着ぐるみの本質を捉えようとするかのような鋭さがあった。
「華永あきらのお母さんも、結局見つからないし。7割成功、ってところかな。今回は。みんな頑張ったよ。褒めて、あげなくちゃね。すごいね、って。佐伯さんも、頑張ってくれたよ。どうだい、久しぶりの、外は」
ゴンザレスが尋ねる。男は目をわずかに細めた。
「とりたてた変化はない。それはとても、悲しいことだ。私にとってはね」
男はテーブルに伏せた写真立てを一瞥した。彼の声にはどこか達観とした響きがあった。この世を捨てた、厭世的な含みがあった。そんな男を、狼の隻眼が物珍しそうに見つめる。男はそんな彼の視線から逃れるように、顔を逸らすと、手近にあった椅子を引き寄せ、腰を下ろした。
「黒い鳥」
パソコンのディスプレイの光に顔を浮かばせ、ゴンザレスがぼそりと闇に呟いた。
「なんだ?」 あまりに唐突な呟きを聞き取ることができず、男は椅子の背もたれに体を預けながら訊きかえした。「一体いま、なんと言った?」
「黒い鳥だよ」
ゴンザレスは先ほどと同じ言葉を繰り返した。その口調にはどこか愉悦の色が窺えた。
「マスカボムから伝わってきた音声で、彼らがそう話していたんだ。黒い鳥。どうやら、怪人の発生にはこいつが、一枚噛んでいるらしいね。面白そうだよ」
ちらりと、ディスプレイを一瞥し、ゴンザレスは鼻を鳴らすようにして笑った。
「とっても、面白いね」
そう声を漏らすゴンザレスの眼差しは、鋭い光を発しているかのようだった。男は自分の首筋を指で触れながら、「黒い鳥」と相手の言葉を小さく反復する。ゴンザレスの目はすでにディスプレイから離れ、どこか遠くのほうを覗き込んでいるようだった。それは頭の中で何か新たな計略でも練っているかのような、そんな表情だった。
「そういえば、喫茶店は、どうなっているのかな?」
ゴンザレスはまたも唐突に男に尋ねた。あまりに急激な話題の転換に戸惑いながら、男は首を傾げ、「店?」と聞きなおした後で、それが現場の前に建っていた喫茶店、『しろうま』であることを思い出したようだった。「ああ」と呟き、再び、眼鏡を指で押しあげる。
「店の入り口は爆発の余波を受けて少し壊れていたが、無事だ。少し手直しすれば、ひと月以内には店を再開できると思う」
報告を終えた男は、唖然とした。その話を聞いたゴンザレスが初めて、陰湿さのこもっていない、晴れやかな表情をみせたからだ。もちろん狼の着ぐるみの顔形が変化することなどないが、彼の雰囲気が突如、一変したのは事実だった。それは陰険さの鎧を常に纏ったイメージのあるゴンザレスが、初めてみせる、明るい表情だった。
「そう、それは良かったよ」
ゴンザレスは彼の心の動きなど意にも介さず、彼らしくない、心のこもった声で言った。心底、男の報告に安堵しているらしかった。彼の特徴であるがらがら声が弾んで、高低のはっきりした、歪な音が、その着ぐるみの中から聞こえてくる。
「ゴン太くんは、本当に、運がいいね。最高だよ」
ぐふ、ぐふ、と気味の悪い声をゴンザレスはたてる。その機嫌の良さに危ういものを覚えながらも、男は唇の端を吊り上げるようにして、歪な笑みを浮かべていた。
3
華永あきらは土砂降りの雨を頭から浴びながら、その足元に落ちる黒い塊を見下ろしていた。
まるでよく研磨された金属のような、滑らかな質感をもつそれは、雨に濡れて黒光りしている。表面には無数の溝があり、そこに金の塗料が流れていた。そこから空を舞う蛍のように瞬きながら、青色の光が絶えず立ち昇っていた。
あきらは屈みこみ、その塊をそっと撫でる。やがて手を休めると、指先をその表面にぐっと食いこませるようにした。だが彼女の細い指がいかにも硬そうなその物体を抉ることなどできるわけもなく、彼女の指の方が負け、その爪の間から鮮血が溢れていった。
虚ろな目でその黒い物体を見つめるあきらの頬に、雨雫以外の液体が流れていく。夜空を切り裂く雷鳴が彼女のしゃくりあげる声を掻き消した。
霧雨の中に浮かぶ『喫茶店 しろうま』はまるで幽霊屋敷のような、荒んだ姿を晒していた。昨日までこの店は営業していて、お客さんが話を弾ませながらコーヒーを飲んでいたんですよ、と言われても、おそらく誰も信じないだろう。
看板は割れ、ドアは崩れ、割れた窓ガラスの破片がガラスの水たまりを形作っている。
だがひどいのは外装だけで、入口側の壁こそ目茶苦茶だったが、そのカウンターやキッチン、さらに白石家の居住スペースはほとんど無傷に近い状態で、いつでも客を迎え入れる体勢が整っているかのようだった。わずか数メートル先は生物の息吹さえ許さぬような惨状が広がっているというのに、平然と店内を元のように残した様子は、奇跡を通り越して不気味な印象さえ与えた。
町の外れでこれほどの破壊が行われたにも関わらず、野次馬も警察も姿をみせないのは、雨降りの天気であるということや、もともと店がそれほど人通りの激しくない立地条件にあるということ、そしてなにより、ここで使われたであろうマスカレイダーズの兵器が、音もなく一瞬でそこにあるものを蒸発させるという特性をもっているということが重なったためだ。
『しろうま』の前に広がる景色を一望した瞬間、あきらはここで使われた兵器の正体を理解した。それは『ホテル クラーケン』を破壊したあの兵器だろうと察することができた。
あきらは店から小道を挟んで向かい側にある林の中でしゃがみ込んでいた。
林、といってもそれはほとんど過去の話で、いまや木立は軒並みなぎ倒され、地面はめくれあがり、広範囲に渡って大きく陥没していた。
黒い塊は『しろうま』から300メートル程離れた、まだぽつぽつと高い木の残っていた地点に投げ出されていたのだった。
その物体はぴくりとも動かない。まるで初めから自分が石であると強調するかのようだった。ただ、青い光が空を舞う蝶のようにひらひらと、あきらの前を過ぎ去っていく。
濡れた草をかき分ける足音が聞こえたため、あきらは顔をあげた。前髪から滴が垂れ、顎を伝って、次々と地面に落ちていく。髪がぐっしょりと濡れきってしまったことも、薄いシャツの下から下着が透けてみえていることも、肌が泡立つような寒気を感じていることも、目の前に突きつけられたこの事実に比べれば、どれも些細なことだった。
「白石さん、あなたは守ったんですね。あの場所を、かけがえのない、自分の帰るべき光を」
涙に濡れた声であきらは呟く。彼女は全てを理解していた。この場でおきた、あまりにも悲しい顛末を。そして仁が己の命を賭してやり遂げた異形の正体を。
無傷の『しろうま』を眺めるあきらの目に、背の高い、金髪の男が映った。不自由があるのか、片足を引きずりながら、林の中を進んでくる。彼は青い傘を差していた。あきらの前で立ち止まると、その傘を持った腕を少し前に伸ばし、彼女を雨から守るようにする。
「傘くらい差せよ。変な病気をお前にこじらされたら、たまったもんじゃないだろうが。そうでなくても、やばいんだからよ」
男はあきらの右腕にちらと目をやった。彼女の腕は赤黒く腫れあがっている。おそらく指先には感覚さえ伝っていないに違いない。みるからに痛々しいその傷は、ゴンザレスと対峙した際、仕掛けられた爆弾によって与えられたものだった。
「……ごめんなさい。葉花さんは」
言いかけ、あきらは彼の背にも腕にも、別の人影がないことを認めた。認めた瞬間、打ちひしがれたかのように瞳を沈ませ、地面を見下した。
「いなかったん、ですね」
「ああ。いたとすれば、お面の奴らだけだ。だがみんな何とか一命はとりとめている。俺の粒子で止血だけはしたが、早く治療しないとやばいけどな」
男は舌を打ち、地面をつま先で蹴った。泥と土の中間のような飛沫が空気を横切る。
「それよりも、お前の友達の方だ。マスカレイダーズの手にまだあるとしたら、やばいな。状況的には、最悪だ」
あきらは男の言うことに反応すらみせず、じっと地面に横たわった黒い塊に視線を投じている。男は肩をわずかにすくめたあとで、その物体に目をやり、そして眉間に深く皺を刻んだ。
「なんだこりゃ……これは生きてねぇだろ。さすがに」
「生きていますよ、まだ」
あきらは男を見上げ、少し怒ったように言った。しかしその後で、「確かに虫の息ですけど」と決まり悪そうに続ける。だが終わりには、「でも生きていることは確かですから。生きている限り、可能性は無限なんです」と自信ありげに締めた。
「黄金の鳥の言葉か。人の口から聞くのは、久々だな」
にやりと唇の片端だけを上げるようにして男は笑んだ。あきらは男を険しい表情で見つめ返す。その目元は赤く腫れていたが、瞳に悲しみの色はなかった。
「黄金の鳥は、不死身です。どんな命も救ってきたんです。白石さんは、ボクたちとは、違います。それはあなたも分かってますよね?」
男は表情から笑みを消した。目を細くし、一転して殊勝な表情を浮かべる。彼女に傘を半分貸しているため、彼の背中は雨に濡れ、シャツは水を吸って変色していた。首元に水滴が垂れたのか、男は肩をびくりとすぼませると、それからあきらに尋ねた。
「それは分かるが。具体的に、どうするんだ。そいつだけじゃない。俺たちの話だ」
「岩手にいきましょう」
あきらの口から返ってきた提案に、男は眉を潜めた。怪訝そうに訊き返す。
「岩手?」
だが言葉を発してすぐに彼女の意図に気付いたようで、今度は目を丸く、声を落とした。
「まさか、タンポポの塔に帰るつもりか」
「今のボクたちはアジトも、力も失って、満身創痍です。一度、戦力を立て直す必要があります。お母さんも、もうそっちに向っているはずです。葉花さんはお面の人たちに任せて、ボクたちもひきましょう。後追いは、不利な状況しか生み出さないと思います」
「……だが、お前は、それでいいのか?」
男は慎重な様子で尋ねる。あきらは口元を緩ませると、頭を震わすようにして浅く頷いた。
「いいんです。みなさんを、信じてますから。ここでボクが葉花さんを探してうろうろしても、きっと迷惑になるだけです」
彼女はそう言って、わずかに瞳に陰を射し、「それに、そこで待つことが、あの人の真意を知るための足がかりになってくれるかもしれませんから」と小さな声で付け加えた。
後半部分を、金髪の男は聴きとることができなかったようだ。だがそれでも、彼女の意図には気付いたようで、片眉を上げ、念を押すような態度をみせた。
「それはお前の本心なんだな?」
「当たり前です。嘘でこんな皆さんを惑わすこと、言うはずがありませんから」
あきらの語調は強かった。ただの思いつきや、その場しのぎでの提案ではけしてないことが、ひしひしと伝わってくるようだった。男はあきらの潤んだ瞳をじっと見つめ、しばらくしてから、観念するように息を吐いた。
「別に、異論はねぇよ。分かった。引越しの準備を進めておく。他の奴らにも、話を通しておこう。飯沼にも話を、通しておく」
「はい、すみません。お願い、します」
男は傘を手渡そうと、柄を向けてきたが、あきらは静かにかぶりを振ってそれを拒否した。彼はやれやれという風に肩をすくめると、踵を返し、また足を引きずりながら立ち去っていった。
「白石さん。あなたは、ボクたちは、幸せにならなくちゃいけないんです」
あきらは再び激しい雨に打たれながら、数刻前まで仲間だったその黒い塊を愛おしげに掌で撫で回す。彼女の頬にもう光るものはなく、成り代わるようにその眼差しには決意の火がごうごうと燃え盛っていた。
「だから……少しだけ、待っていてください。ボクがあなたを絶対に助けますから」
太陽にも、月にも、星にも見放された地上で、あきらは頭上にひしめく暗雲を振り仰ぐ。その切実な眼差しは、一時でも早くこの地に光の注がれる日を待ち望んでいた。
4
黒城レイは夜な夜なそぞろ歩く幽霊のような、覚束ない足取りで白塗りの廊下を歩いていた。廊下に電灯の類はなく、ひどく暗い。壁や天井の輪郭がおぼろげに見えるくらいだった。
二歩、三歩と足音を刻み、そして目の前に現れた扉に手をかける。レイの目にはその扉以外の全てがくすんだ灰色に映った。不確かな挙動でドアノブを捻り、誘われるようにその向こうに広がる室内へと足を踏み入れる。
レイはつい小一時間ほど前に、いま侵入を果たそうとしている部屋の、隣の居室で目を覚ましたばかりだった。
目を開き、きょろきょろと眼球だけを動かして、それから数分後、自分がベッドで寝ていることに気付いた。そして、ここがマスカレイダーズの所有する離れの家であることを察するのにはさらに数分の時間を要した。たくさんの管に繋がれた、ベッド上で横たわる速見拓也の姿が反射的に思い浮かぶ。
白い壁面に包まれた室内の淀んだ暗闇。レイはじっとその闇を見つめながら、まるでこれまでの全てが夢であったかのように感じていた。時間も場所も意味を成さず、夢と現実、表裏一体の今がただ淡々と流れている、そんな感覚だった。
自分や父があれからどうなったのか。どういう経緯でここにたどり着いたのか。そんな疑問でさえ、まどろみの中に溶けていくようだ。
それから1時間ほど、意識の消失と覚醒を繰り返し、そのうち意識が時間に追いつくと、徐々に感覚が体に戻ってきた。
骨が軋み、動くと内臓にも焼きつくような痛痒が襲いかかってくる。また、少し熱っぽくもあったが、レイは気だるい体を奮わせ、思い切ってベッドから抜け出した。痛みも起き上がれないほどに酷くはなく、ただ暗闇と睨めっこをしているのにも少し退屈を覚えていた。
つい数時間前まで死に掛けていたのにも関わらず、すでにそれほど激しい倦怠感もなく、自由に動き回ることのできている自分の回復力には、心底呆れた。確かにもとから人間より回復は早かったが、ここまで顕著ではなかったはずだ。やはり自分は先の戦闘で怪人として、さらなる進化を遂げたのだ。そのことに気付かされると、自ら望んで力を得たにも関わらず、実に複雑な気分だった。
人からかけ離れていく度、少しずつ悠や佑、それから多くの人たちとの距離もそれに比例して、隔たっていくような気がしてならなかった。
不安が胸に射し込む。壁に浮き上がった自分の影が人の形を保っていることだけが、弱弱しく萎んだ心に安堵の火をくべてくれるようだった。
そうして、じわじわと足元のほうから、身を食い破ろうと攻め立ててくる恐怖から逃げるようにしてレイは隣の部屋に足を踏み入れた。
室内は天井から吊り下がった電気傘の中で光る、淡い橙色の豆電球によって照らされていた。壁に掌を這わすようにして、おっかなびっくり、足音を忍ばせて部屋の中に入り込む。大きな音がしないよう、後ろ手でドアを、慎重に閉めた。
部屋の中はレイの寝ていた隣の部屋と、まったく同じ構造をしていた。キャビネットやベッドの位置もまるでなぞった様に少しも狂いがない。だから、ベッドの上で誰かが眠っているのも、すぐに発見することができた。
レイは慌ててベッドに駆け寄った。その目には、ベッドに横たわる彼の姿しか見えなかった。途中、床に置かれていたゴミ箱に足を引っ掛け、転びそうになるが、バランスを取り直して、どうにかベッドまでたどり着いた。
縋りつくようにしてベッドのヘッドボードに手をかけ、そこで眠る人物に自分の顔を引き寄せた。
レイの直感は当たった。タオルケットを胸元までかけ、仰向けに眠るその少年は、見紛うことなく、細かな寝息をたてる天村佑だった。
彼の表情はひどくやつれているように見えた。その眉間に刻まれた皺や、その目の下に浮かんだ隈、またそのあまりにか細い呼吸のせいでもあるが、魂そのものが縮んでしまったかのような印象をレイは横たわる彼の姿から受けた。
ごくりと唾を飲み込む。それでも胸騒ぎが止まらず、むしろそのざわめきは激しくなるばかりで、自分の胸をそっと掌で撫でた。そうしながら、レイの視線は彼の体を舐め、そしてその左腕に行き着く。
そのタオルケットの上に乗せられた左腕には、包帯が幾重にも巻かれていた。表面にはわずかに血も滲んでいる。肘の少し上から始まり、そこから指の先までをきつく縛りあげているようだった。
彼の左腕を見た瞬間、レイは目を見開いた。脳裏になだれ込んできたのは、父親の左腕が切り飛ばされ、その断面から鮮血が吹き出す光景。床にごとりと音をたてて父の腕が落ちる、その映像だった。
父が生まれたその時から共に生きてきた、その腕がまるで無関係を装うかのように、足元に転がる。無秩序に、無造作に、そして無慈悲に打ち捨てられたその肉塊は、もはや誰のものでもなかった。
自らの血に濡れながら足元をふらつかせるアークを目の当たりにした途端、心の中にぽかんと穴が空いて、さらに続けてそこから悲しみが漏れ出てきたことを今でも覚えている。夢であってくれ、とこれ程までに願ったことは、おそらくないだろう。
その感覚が、一気に蘇り、レイの心を激しく痛めつけた。さらに数珠つなぎとなって、嬲り殺されたディッキーの無残な死体や、体を槍で貫かれたガンディが頭の中にフラッシュバックする。黒々とした奔流が胸中で渦巻き、全身に纏わりついてくるようだった。
レイは悲鳴をあげそうになるのを堪え、気を失いそうになることにも耐え、身を震わせながら佑の顔を見つめた。彼の胸が静かに上下している。佑は生きている。命が鳴る音を、これ程までに伝えてくれている。
その事実が、体の内側を引っ掻きまわすようなこの苦しみを、少しずつ緩和させていった。
「お兄さん、約束、守ってないじゃないですか」
レイは指摘する。息がうまくできず、声が揺れた。それから自分の手に視線をやり、包帯の巻かれている指を見つめる。それはあきらの足によって爪の砕かれた場所だった。思い出すと、痛みが込み上げてくる。顔をわずかにしかめながら、それでも、ぎこちなく微笑んで、レイは言った。
「でも、お相子ですね。私も、こんなにボロボロになっちゃいました」
佑の頬に涙が伝う。それはシーツに黒い染みを作った。何か悪い夢を見ているのか、呻き声をあげては、表情を引きつらせている。
そのしゃくりあげるような呼吸からは、彼の孤独がひしひしと伝わってきて、レイの胸まで苦しくさせた。信じていたものが実は全て偽物だと明かされたかのような、大切に想っていた人からひどい裏切りを受けたかのような、そんな痛々しい孤立感を彼の呼吸は感じさせた。
レイはそっと、包帯の巻かれた彼の手をとった。その手を、柔らかく握ってやる。あの陽だまりに包まれた病室の中で感じたのと同じ彼の体温が、レイの体温と混ざり合う。
「大丈夫ですよ。私は、ずっとここにいますから。ずっと、離れませんから」
そう唇に言葉を宿す、レイの目からも知らず知らずのうちに涙が溢れている。レイは佑の指に自分の指を絡ませながら、そっと視線を仰いだ。そこには、矩形に切り取られた明りとりの窓がある。
そこから薄い雲の被った月が見えた。夕方から夜遅くにかけて猛威を振るい続けた激しい雨は、今ではすっかり止んでいる。雨上がりの滲んだ空に、煌々と光が照り輝く。
寄り添い合う2人を、月は空高くから優しく見つめていた。
4章 完
4章、エピローグです。長い長い話でしたが、ようやくここで一区切り。続編となる第3幕を公開できる日はいつになるか分かりませんが、ここで一旦筆を置きたいと思います。読んでくださって皆さま、本当にありがとうございました。第3幕ではぼちぼち風呂敷をまとめていく段階に入りたいと思っております。ちりばめた謎や人間関係をまとめていければ、と思います。がんばりますので、楽しみにしていてください。
それでは、また続きで会いましょう。