22話「レイニーダスト」
魔物の話 39
眠りから目覚めたレイがまず初めに気付いたのは、自分の頬が濡れているということだった。
汗とも雨とも違っている。目に腫れぼったさを感じた。そこから連想し、この湿りの正体が涙であることを理解する。しかしなぜ自分が涙を流しているのか、全く思い当たるところがなかった。
おそらく夢を見ていたのだろうと思う。
それもおそらく、胸が張り裂けるような悲しみに満ちた悪夢を、だ。しかしレイは夢を見ていたということすらおぼろげだった。何とも掴みどころがなく、頭の天辺を掴まれ、持ち上げられているような感覚が脳内でくすぶっている。
ただ、頭に一瞬、佑の顔が過ったのは気にかかった。病室で指をからませ合った時の、彼の決意に満ちた表情が、判を押されたかのように頭から離れない。記憶にない悪夢と、頬に残る悲しみの跡のことも相まって、不穏な予感が胸の中を急速に広がっていく。
もしや佑の身にまた何か起きたのではないか。秋護の話によると、彼はけがをしているという。気にするなと言われたものの、一度思い出すと、不安でいてもたってもいられなくなった。
その心のうねりに促されるようにして、レイは瞼を上げた。
薄汚れた景色が眼前に広がり、そこで初めて、自分が背負われていることに気付く。歩いてもいないのに、周囲の景色が目まぐるしく移り変わっていく。体に伝わる揺れは、地震のような乱暴なものではなく、揺りかごのような安らかさがあった。
レイを背負うその背中はとても広く、そして温かった。その全身はいかつい装甲で覆われていたが、両の手で包み込まれるような心地よい温かみがあった。その体の芯を痺れさせるような温もりに、レイは自分の中の不安が少しずつ溶けていくのを感じた。
改めて確認をとる必要もなく、その背中が誰のものであるか、レイにはすぐに分かった。ふぅ、と唇のわずかな隙間から息を吐きだす。
「……お父さん」
「起きたのか、レイ」
アークは首を少しだけこちらに捩り、視線を向けてきた。その声は、その背中は、やはり父親のものだった。父親の声はどこか懐かしく、それだけで涙腺が緩むようだった。彼の片手はレイの体をがっちりと支えている。
相変わらず、その背中にしがみつく力さえ残されていなかった。おそらくアークが手を離したら、その瞬間、レイの体は真っ逆さまに落ちていってしまうに違いない。レイにとっては、それはひどくもどかしく、悔しいことだった。
駆けながら、アークが前方に跳躍する。すると腹の底がふわりと浮かぶような感覚が走った。アークが片足で着地すると、それに合わせて衝撃が身を揺さぶる。
「あまり喋るな。舌を噛むぞ」
階段としての造りを失った、瓦礫の道をアークは飛ぶように降りていく。あちこちから黒煙がもうもうとあがり、絶えず破壊の音が聞こえてくる。床は割れ、巨大なコンクリート片が突き刺さり、非常に足場が悪い。わずか数刻前までの静寂はどこにもなく、凄惨な光景が目の前に広がっていた。足を止めれば確実に、破壊の奔流に呑み込まれてしまうだろう。上から下から前から後ろから壊れていく世界の中を、必死にアークは駆けていく。
「なんで、お父さんがここにいるの?」
記憶が正しければ、自分は4階の広間で降りゆく瓦礫の中、置き去りにされたはずだ。次に目を覚ます時は死後の世界、ということも少なからず覚悟していた。しかし、気付けば、レイは父親の背中に乗せられ、ホテルの出口に向けて突き進んでいる。
天井を破って降ってきた巨大な瓦礫が轟音をまき散らす。アークは跳躍し、それを踏み台にすると、わずかな減速すら嫌うように長い廊下を駆け抜けていく。
「言っただろう。お前が危機に陥った時、必ず助けに行くと。だから来た。それだけのことだ」
鼻を鳴らし、アークが言う。破砕音を潜り抜け、背後に置き去りにしながら、先ほどよりはまだ原形を留めている階段を足早に降りていく。
レイはハッとした。確かに今日の日中、公園で父親はレイにそう宣言していた。約束を守ってくれたことに対する安堵の気持ちと、駆けつけてくれた嬉しさが混ざり合い、温かな気持ちが体内を巡っていく。黒煙が巡り、破壊が追いかけてくる、地獄のような風景の中にいても、レイはこれ程までに幸せだった。
あなたに幸せにしてもらわなくても十分、お父さんがいる限り、どんな場所でもどんな時でも私は幸福に生きられる。今ではどこにいるとも分からない、華永あきらに向けて言う。幸せの形は人によって違う。それは人に押しつけられるものでも、一方的に与えられるものではない。彼女との出会いは、レイに大切なことを教えてくれた。
自然に表情は綻ぶが、その感情を表に出すのも気恥かしく、レイは1つ軽い咳払いの後で、アークの首元から視線をわずかに外した。
「……それにしちゃ、遅いよ、お父さん」
「だがお前は死なずにすんだ。ボロボロになりながらも、頑張ったな、レイ。さすがは、この私の娘だ」
「……うん」
レイは思わず俯いた。頬のあたりがほうと熱くなるのを感じた。その瞬間、腰のあたりに触れる、父の手がとても大きなものに思えた。胸の高鳴りが、心の奥底から蘇ってくる。気だるい体を動かして、レイはその鉄の背中に頬を押し当てた。
「お父さんも、無事で良かった。心配したんだよ、これでも」
「それは悪かったな。娘に心労をかけるとは、私もまだまだだな」
「でも、珍しくボロボロだね、アーク」
ひやりとした感触を頬に感じながら、レイは流し目でアークの肩のあたりを見やる。普段、ひっくり返したボートのようなバインダーが取り付けられているそこは、今、ささくれだった金属片の突き出した、無残な様相を晒していた。バインダーの下に収納されていた砲口が剥き出しになっており、その先端はひしゃげている。左肩のものなど半ばから吹き飛び、どろどろに溶けて癒着していた。明らかにどちらのキャノン砲も使用不可能な状態だった。
背にも肩にも頭部にも、これまでのアークの活躍からでは想像すらできない程の数の傷がその装甲には刻まれていた。その様子からは苦戦の跡が窺える。やはり、“怪人ならざる者”たちとの戦闘は、これまでとは一線を画すものだったに違いない。
「砲塔を破壊された。左は使い物にならない。右も無理をすればあと1度、というところだがな。強敵だった。私も、まだまだ鍛錬が足りぬようだ」
煙を腕で払い飛ばしながら、アークが悔しげに言う。だが、その語調に喜色が混じっていることに気付き、レイは眉をひそめた。
「お父さん、なんだか嬉しそうだね」
指摘すると、父親は少しわざとらしく鼻を鳴らした。返事はなかった。おそらく照れ隠しだろう。しかし父親のどこか浮ついた様子は、明瞭としていて、レイモ何だか嬉しくなった。
爪の剥がれた指を、アークのその壊れた肩にそっとなぞってみる。くすぐったいような気持ちが心を這う。
アークは大きく跳んだ。ふわりと体が浮き、どすんという着地音とともにレイの体も大きく弾む。振り落とされるかも、という不安はほとんどなかった。父親の背後に回した手がレイをしっかりと抱きしめてくれていたからだ。父が側にいるということだけで、レイの心の中に潜む恐怖が根こそぎ削ぎ取られていくようだった。
「あと一息だな」
ついに入口のロビーまで戻ってきた。正面には入り口の扉が見える。瓦礫に埋もれていやしないかと思いきや、運のいいことに、その周囲はそっくり残され、しかもその扉は開け放されていた。
敷き詰められたカーペットの赤と、黒煙の色が絶妙なコントラストをこの場所に招いている。ソファーは落ちてきた瓦礫に押し潰され、その短い足が、巨大なコンクリート片からはみ出している。カウンターも割れて崩れ、無残な姿に変貌していた。
破壊の跡を巡る度、よく自分は生き残れたと思う。いま、まだここで呼吸を続けていられるのは父親のおかげに他ならない。ただ、この破壊の原因がマスカレイダーズであることを忘れてはならなかった。
レイは視線を細め、自分の空になった左手首を見やり、それからいま一度、アークの後頭部のあたりを見つめた。父親は何も聞かなかった。ただこの場を切り抜けるのに精いっぱい、という理由もあろうが、それ以上にレイに尋ねずとも状況を熟知しているかのような、そんな態度が滲んでいた。
その時、突然アークは足を止めた。急な制動によってその足裏と剥き出しのコンクリートが擦れあい、小さな火花が生まれる。ぴったりとその背中に体を密着させていたおかげで、急制止した衝撃がレイを襲うことはなかった。顔をあげ、何事かと、父の頭の陰から前方をのそりと覗きこむ。
そして、レイは目を瞠った。アークの行く手を阻むように、そこには大柄なシルエットが待ち構えていた。明らかに人間のものではない。煙に巻かれながら直立するその影は、背中のマントを熱風にはためかせ、不敵な笑みを零した。
「まさか、こんなところで貴様に会うとはな……」
頭部からだらりと伸びた2本の触角。まるでサングラスをかけているかのような、真紅の光を放つ巨大な目。小さな口には細かな牙が生え揃っている。その体色は金、全身はまるで鎧でも着込んでいるかのように、見るからに頑丈で堅牢だった。
「マスカレイダー、アーク!」
「ふん。誰かと思えば、雑魚蟹か」
ガンディによってバイクで弾き飛ばされた怪人、キャンサーがレイの目の前に再び現れ、高らかにアークの名を叫ぶ。死んではいないだろう、とは予測してはいたが、やすやすと立ち上がりレイの前で言葉を用いているのを目の当たりにすると、やはりショックだった。
しかし、ガンディの与えたダメージはしっかりとその身に刻み込まれているようだ。その胸部には大きく、ひび割れた傷が広がっている。肩の装甲も先端の方が折れ、色は禿げていた。
「なんだと! 僕は最強だ!」
アークに嘲りの言葉を吐かれ、キャンサーは声を荒らげる。しかしけがの大きさのためか、それともレイに力を吸収されたためか、やはりその様子は、先ほどまでと比べると覇気に欠けている。一単語、その口から吐き出す度に、顔面を歪め、体を少し屈めるのは傷が堪えている証拠に違いなかった。
「……零、ちゃん?」
どこからか、レイの名を呼ぶ、女性の声が聞こえた。アークもその声に反応し、ぴくりと体を震わせる。するとキャンサーの背後から、おずおずと眼鏡をかけた女性が顔を見せた。
おそらく年齢は30代後半といったところだろう。体には白衣を纏い、その姿は医者というよりも小学校の養護教諭といった風貌だった。形の整った眉は快活そうな印象を周囲に与えている。眼鏡の奥にある子どもっぽい大きな瞳がいま、真っ直ぐにアークの背に乗ったレイを見つめていた。
その視線に込められた決死さに、レイは吸いこまれてしまうような錯覚に陥る。意識を丸ごとその女性の怯えるような表情に持っていかれる。しかし、アークがぼそりと呟いた言葉にレイの意識は引き戻された。
「佐伯夫人」
「え」
「間違いない。あれは佐伯夫人だ。佐伯零の、母親だ」
父親の声はわずかな動揺を伴っていた。見れば、アークの目も怪人の後ろから現れた女性に釘付けとなっている。彼女のどこか哀しげな表情には、どこか人の目を捉えて離さない凄味があった。
「お前のモデルとなった少女の母親だ」
父親に言われ、レイの脳裏に記憶が舞い戻ってきた。確かあれは病院の休憩室で、佑の父親と会話を交わした時のことだ。彼が見せてくれた写真の中に、その女性の姿はあった。レイと瓜二つの少女と隣り合い、こちらまで思わず頬が緩んでしまうような、魅力的な笑顔を浮かべていた彼女は、いま、表情を凍らせながらこちらを見つめてくるその女性と、同一人物だった。
その彼女が、死んだはずの自分の娘と同じ顔をした自分を思慕のこもった思いで呼んでいる。彼女の娘よりレイは大分年上であったが、この薄暗い空間の中では、その要素もあまり意味をもたないようだった。佐伯夫人は、月日を経て、娘が蘇ったのだと錯覚し、そして何よりも、娘が実は生きていた自分たちのあずかり知らぬところで生きていた、という御伽噺を信じ込みたいに違いなかった。
娘を二条裕美によって殺された後、父親は失踪し、その直後母親である彼女も行方をくらましたと聞いていた。その話を耳にした時、レイは最悪の事態を勝手に想像し、平穏な家族に突然襲いかかった悲劇に、何ともいえぬ悲しみを抱いたものだったが、その彼女が生きていて、しかもとこんなところで出くわすとは、思いもよらなかった。
「零ちゃん、よね? そうよね?」
キャンサーの背後から身を乗り出し、佐伯夫人は必死の形相でレイに声を投げかけてくる。その瞳は潤んでいた。彼女の悲痛な問いかけに、レイは顔を背けずにいられない。彼女がレイの名を呼ぶ度、胸を刺す痛みはその強さを増していくようだ。
自分は佐伯零ではない。彼女の姿を模して造られた偽物、怪人なのだ。その一言が言えず、しかしどうしたらいいのかも分からず、レイは黙り込む。アークも彼女にじっと視線で捉えたまま、何も発することはしなかった。
「うるさい! お前は、早くここから出ていってしまえ!」
キャンサーは娘の名を呼び続ける佐伯夫人を大声で制すると、一歩前に足を踏み出した。そして夫人を振りかえると、ずっと背中に負っていた何かを彼女に投げ渡した。
彼女は驚きながらも、何とか腕を伸ばして放られたそれをキャッチしようとする。しかし相当の重みがあったようで、彼女の細腕ではその重量を支えることは叶わず、それは手から零れ、床に音をたてて叩きつけられた。
「なにやってんだ!」というキャンサーの罵声を受けながら、佐伯夫人はそれを両腕で大事そうに抱えあげる。
佐伯夫人が抱えたその縦長の物体は、人間に他ならなかった。
その全身はまるで梱包された荷物のように、包帯で覆われている。純白の包帯には血が滲み、ところどころ赤く染まっていた。顔もまた包帯で片目と鼻と口以外が塞がれ、その人相を窺い知ることは困難だった。
しかし、そのミイラ男のような姿をした人物が何者であるか、レイはすぐに思い当たった。気づいた瞬間、全身に痺れるような震えが走り、思わず掠れた声を吐き出している。
「お父さん、あれ……」
「ああ、やはりここにいたようだな」
それまで茫然と事態を見守っていたアークが、ぐるりと首を1度回し、身構えた。その目は射抜くように、佐伯夫人の背中に押しつけられた包帯人間に向けられている。やはり父親も気付いたようだ。
あの包帯の人物は、佐伯零を殺害し、悠を誘拐しようとし、怪人を生み出すことで人々を恐怖に陥らせ、ディッキーを嬲り殺した男。レイにとっても、そしてマスカレイダーズにとっても宿敵である存在。
その名は、二条裕美。ケフェクスによって連れ去られ、行方をくらませていたその男がいま、佐伯夫人の腕の中で生死の境をさまよっていた。
佐伯夫人は座り込み、細い呼吸を繰り返す二条を抱えたまま、困惑した様子でキャンサーを見上げる。ロビーの隅のほうで破砕音が鳴り響き、空気を震わした。びくりと全身を引き攣らせる彼女を前にして、キャンサーは顎をしゃくり、ホテルの出口を示した。
「なにをしている。さっさと行けよ! 言っておくけど、その人をこれ以上傷つけたら、ただじゃおかないからな!」
キャンサーの怒号を浴びても、しばらく佐伯夫人はレイのほうを未練がましく見つめていた。しかしやがて観念したかのように力なく立ち上がると、二条裕美を背負い、彼の足をずるずると床に引きずるような格好で出口に向けて歩を進めていく。
「そうみすみすと、私が逃がすと思うのかね!」
アークは床を蹴ると、逃げようとする佐伯夫人の後ろ姿目がけて飛びかかる。しかしその行く先をキャンサーは全身を使って阻んだ。キャンサーの振るった太い腕は空を切る。アークは寸前で背後に跳び、それをすんでのところで回避した。
「思うさ! ここは絶対に通さない、ケフェクスとの、約束だからな!」
コンクリートの細かな破片の雨が、絶えず降り注いでいる。上階はすでに破壊によって舐めつくされていた。この1階のロビーもまた、いつ天井が落ちるのか分からない。そんな不安を過らせながら、レイは扉をくぐって外の世界に消えていく佐伯夫人の後姿と、割れた腹部を撫でつけながらも、苦々しくほほ笑むキャンサーとをほとんど同時に視界に捉えた。
「アーク。お前とは決着をつけなければいけないと思っていたところさ!」
「私は一度たりとも、そんなこと思った試しがないがな。お前のような小物。眼中にもないわ」
「うるさい! そしてお前を倒し、その背中にいる可愛い子を石化して愛でてやるんだ」
「嫌だよ」
まるで授業中、問題を解く生徒を指名する教師の如く、キャンサーは勢いよく突き出した人差し指をレイの顔に向けた。レイはさっとアークの背後に隠れると、か細い声で、そっと不平を口にした。
「なるほど、娘を石に、か」 アークは首を傾け、脅しをかけるように音をたてて鳴らすと声を低くした。「なら話は別だ。私はお前が再起不能となるまで、叩きのめさなくてはならないな」
「初めから、そうすればいいんだ」
キャンサーはにやりと笑うと、その輪郭を空気に溶け込ませた。彼の大柄な体と、景色との境界線があやふやとなり、その姿は徐々に萎んでいく。
そして彼の姿は、命の宿った甲冑のような怪人の姿から、1人の人間の男のものへと変容した。先ほどとはまるで逆に、その男の輪郭は少しずつ確かなものとして定着していき、そのイメージは明瞭としたものになっていく。
現れたのはすらりと背が高く、上等のスーツを着込んだ男だった。年嵩は30前半ほど。茶に染まった髪は男にしては長く、襟足や耳を覆い隠すほどだ。中世的な顔立ちをしており、目元など特に女性のそれのようだ。
男は気取った仕草で前髪を払い、薄い唇に不穏な笑みを宿した。その不気味な表情も、そのあまりに整った顔立ちの前では、どこか怪しげな魅力を醸し出す要素の1つとなっている。
イストやケフェクスと同じように、やはりキャンサーも人間としての姿を持っていたらしい。歪んだ性癖をもつあの怪人の正体が、こんなモデルのような美しい男性であったことは確かに衝撃的であったが、怪人が人間に変わり果てたこと自体に、特に感動は抱かなかった。だが、なぜこのタイミングで敵が人間としての姿を晒したのか、それだけは不可解だった。
ごくり、と耳の側で音が聞こえた。それは父親が唾を呑みこんだ音だった。アークは真っ直ぐに男を見つめていた。レイは自分の体を支えてくれているその手に、わずかな動揺が滲んでいることに気がついた。指先がわずかに震え、レイの腰を掴む力に一段と力がこもる。
「どうしたの、お父さん」
男を前にし、突如様子を変えた父親を不審に思い、レイは耳元に口を寄せた。アークは首をほんの少しだけ捩り、レイの姿を視界の端に引っかけるようにしたあとで、頭に浮かんだ考えを払うかのように、軽く首を振った。
「いや、なんでもない」
その答えがおざなりなものであることは明らかで、レイは眉を寄せた。だが、目の前の男が行動をみせたことで、その疑問は宙に置き去りとなる。
男は背広のポケットから、銀色の板を取り出した。かまぼこ板のような厚みのそれは、紛れもなく、マスカレイダーズが装甲を生み出すために使用しているメイルプレートだった。
なぜこの男がそれを、と考える間もなく、レイの目は男がかざしたそのプレートの表面に刻まれた文字に釘付けとなる。アークの息を呑む音が、耳のすぐ近くで聞こえた。
銀に彩られた、そのプレートに振られた数字は『4』。
それは、二条裕美が使用していた装甲服、“ファルス”を呼びだすためのプレートであることを示す確固たる証拠だった。
「怪人としての僕なら確かに手負いだが……この姿でなら、まだまだ僕は戦える」
男は瞳を愉悦の光でぎらつかせると、足元を見やった。そこには破壊の衝撃で散らばった窓のガラス片が、カーペットの赤い海に沈んでいた。彼はその中でもひときわ大きなものを、腰を屈めて拾い上げる。
「お前は、僕がこの手で葬ってやる」
右手のプレートを、左手のガラス片に、押しつける。するとガラスの表面が淡く光を放ち、そしてその鏡面を潜り抜け、金に輝く装甲のパーツたちが飛び出してきた。
「父と僕、2人の力でな!」
装甲は男の体にぴったりと寄り添うようにして組み上がり、その表情を鉄格子のようなマスクで覆う。すべての装甲がその身に集まった時、そこに黄金のファルスが誕生した。
レイはアークの背で瞠目する。話には聞いていたが、いざ目の当たりにすると、予想していた以上にそのカラーリングにはセンスがなかった。「ださっ」と思わず、小声で呟いてしまう。
それでもファルスの両腰からぶら下がった鞭を見ると、体が震えた。左腰の鞭にびっしりと生えた鉄の刺を視界に入れた瞬間、喉にむず痒さを覚える。恐怖を克服し、傷は癒えたものの、ファルスに加えられた痛みはレイの体の奥底にいまだ根強く残されているようだった。
その鞭を引き抜き、意気揚々とポーズを決めるファルスを前にして、レイは父親のある提案を投げかけた。
「お父さん、私を、床に置いていいよ」
アークはレイを振りかえると、何を言っているんだ、とも言いたげな視線で見つめた。レイは瞼を伏せるようにして、そっと頷く。
「足手まといになるの、嫌だから」
いまのアークは、レイを支えるために右手が塞がっている。先ほどの河人と同じ姿勢だ。河人が敗北した一因にはおそらく、その片腕は使えないことにあったのではとレイは考えていた。ならば同じ過ちは繰り返さない。父親には、全力で戦って欲しい。相手に言い訳する余地など与えない、圧倒的な力でファルスを叩きのめしてもらいたかった。
「分かった」
レイの強い気持ちが伝わったのか、アークは顎を引くと、レイの体を床に横たえた。カーペットには細かい砂が多分に入り込んでおり、カビの臭いがひどく、むせこみそうにもなったが、耐えられないほどではなかった。
耳のすぐそばで、破壊音が鳴り響く。もはや、このホテルが崩れるのも時間の問題だ。どのみち、ここでファルスをどかさなければ、レイも父親もあきらの言うとおり生き埋めだった。レイは周囲の不穏な物音を意識から切り離し、目の前のファルスを睨んだ。
「そこで待っているがいい。5秒で、けりをつけてこよう」
大言を吐き、アークは右手首を軽く振ると、床を蹴って飛び出していった。
「うん、信じてる、から」
レイは目を細め、遠ざかっていくアークの足音を見送る。柔らかな床に寝そべるだけで、全身から力という力が抜け出ていくようだった。
「それは、こっちのセリフだ!」
ファルスは鞭をしならせ、カーペットの上で1つバウンドさせると、その狙いを駆けるアークへと定める。アークは、闇の中を蛇のように這うその有刺鉄線を右手の甲で弾くと、左足を踏み込み、跳び回し蹴りをファルスの顔面に叩きこんだ。
よろめく敵に、さらなる追撃を加えようと拳を突きだす。しかしその一撃は空を切った。ファルスは素早く横に跳ぶと、着地するやいなや、手首を捻って鞭を手から射出した。
「まさかお前と戦うことになるとは、思いもよらなかったな」
アークは静かに呟きながら、前方に飛びだした。床を穿つ鞭を背後に置き去りにし、姿勢を低くして、ファルスの懐に入り込む。腹をへこますような強烈なストレートが、ファルスの体を後ろに突き飛ばした。崩れたホテルのカウンターに激突し、その闇に映える装甲が波打つ。
「くそっ!」
ファルスは苛立ちのままにカーペットを叩くと、起き上がり、もう一方の鞭を手に取った。先端に、鋭い針のような突起物が付けられたものだ。大きく腕を回すようにして、双方の手に掴んだ鞭をファルスは一斉に解き放つ。
右から、左から、一寸の狂いもなく襲いくる2本の曲線に対しても、アークは冷静だった。まず有刺鉄線のような鞭を躍るような華麗なステップで回避すると、タイミングを合わせ、もう一方を片手で掴み取った。
「私は、ある男がもつ愛の深さの前に敗北した」
針の先端を耳のすぐ横に流し、鞭のロープ部分をがっちりと手中に収めながら、アークは口を開いた。まさか動いている得物を素手で受け止められるとは思っていなかったのだろう。ファルスから驚嘆の声が上がった。
「奴は決意し、覚悟し、愛するもののために何度も立ち上がった。この私を前にして、跪くことも、逃げることもしなかった」
2本のうち、左手側の鞭を受け止めたアークはそれを力任せに引っ張った。有無を許さない圧倒的な牽引力にファルスは前につんのめるようにして、大きく姿勢を崩す。
「ならば今度は、私の番だ。私の娘に対する愛を、お前に見せつけてやろう。かかってきたまえ」
手首をくいと引き、ファルスを挑発するようなポーズをアークはとった。そこでレイは初めて気が付いた。見間違いだと思ったのだが、アークが足を止めた今、改めて確認し、それが間違いでないことを確信する。
アークの腹部にあるはずのプレートが、なくなっていた。そこに収まっているべき場所には今、長方形型のスペースがぽっかりと空いていた。そこから血が溢れ、足を伝って、床にじわりと影のような染みを広げていた。
父親は隠していた。自分がけがを負っていることを。そのいつ倒れてもおかしくない疲弊しきった体で、しかし躊躇いもなく4階まで駆けあがり、約束通り、レイを救いに来てくれたことを。
そしてレイは気がつかなかった。あまりに父親の言葉が平然としていたから。レイを心配させないために、歯を食いしばって、苦痛に耐えていたことを今の今まで知らずにいた。知らなければならなかった、どんな想いで父親がレイを助けに来たのか、知った時には、全てが遅すぎた。
背負ったレイを支えていた腕は1本だった。もう1本の腕は、けがを負っている腹にあてがっていたのだ。レイに隠すために。娘に自分の弱っているところを見せたくないがために。心配させたくないがために。
アークは掴んだファルスの鞭を、カーペットに叩きつけるようにして手放した。そして助走ゼロ、片足での踏み切りのみで、大きく跳躍する。上半身をようやく起こしたファルスの下に、放物線の軌跡を描きながら、アークは迫った。
ファルスは慌てて有刺鉄線のついた方の鞭を引き戻し、背後からアークを狙う。だが、その針が装甲を掻く前に、アークはファルスのもとに着地した。有刺鉄線の鞭がファルスの手に戻ってきたのと、アークの拳がその顔面を打ちすえたのはほぼ同時だった。
「なぜだ、なぜ、そのけがでここまでの力を」
後ろに押しやられながらも、右手の鞭を手放し、ファルスはがむしゃらに右腕を振るう。だが、そこにはすでに敵の姿はない。視界から煙のように消えてしまったアークを探し、きょろきょろと周囲を見渡す彼のわき腹に、背後から現れたアークによる渾身の回し蹴りが叩きこまれた。
「この程度、かすり傷ですらない。私を誰だと思っている?」
下腹部を強打され、ファルスの両足は床から剥がれた。吹き飛び、叩きつけられて、ごろごろと灰色のカーペットの上を転がるファルスに歩みを寄せながら、アークはそう言った。相変わらず、腹部からは血が流れ出し続けていた。しかしそのけがを、彼の動きはまったく感じさせない。
「お前の悪いところは、すぐに己を見失うところだ――以前、そう言ったことがあったな」
深い呼吸をしながら、アークがファルスを指差し言った。張り詰めた肩を解すように、ゆっくりと首を回す。
「なんだと!」
上半身を起こしながら、叩きつけられた言葉の意味を測りかねたファルスが叫ぶ。アークはふぅ、と重さのある息を吐くと、ファルスに続けて言った。
「どこかで聞いた覚えはあると思っていたが、まさかお前が怪人だったとは正直、驚いたぞ、真嶋」
ファルスの動きがぴたりと止まった。そして、食い入るようにアークを見つめる。それからハッとしたように息を呑みこみ、憎々しげに言葉を吐いた。
「貴様……まさか、黒城……黒城和哉か!」
「自分の上司を呼び捨てとは、許し難い無礼だな。まぁ、そのことは不問にしてやる。ありがたく思いたまえ」
不遜な態度で宣言し、こめかみのあたりを叩くアーク。ファルスの仮面の下から、ぎりと歯の軋む音が聞こえた。自分の体の上にのしかかる疲労や重圧を撥ね退けるようにして立ち上がると、2本の鞭を引っつかみ、アークと対峙する。
「まさか、貴様がアークだったとはな!」
「それはこっちのセリフだろう。まさか、お前が怪人だったとは、正直、驚いた。ここまで動揺したのは、20年ぶりくらいだ」
及び腰で構えるファルスに、アークは威圧するかのようにゆっくりと迫っていく。彼が一歩足音を刻むたびに、カチャリカチャリと、金属の擦れ合うような音の響くのが余計に相対する敵にプレッシャーを与える役割を担っていた。
「シザースブレイン計画だったか? 私を蹴落とす手段を色々練っていたようだったが、どうした。こんなところで油を売っている時間など、あるのかね?」
「うるさいうるさい! 逃げたのは、貴様の方だろう!」
ファルスは後ずさりながらも激昂し、2本の鞭をがむしゃらに打ち放つ。それは床をバウンドし、瓦礫の上を跳ね、タイミングをずらしてアークに迫る挟撃となった。
だが、アークは少しもうろたえなかった。冷静沈着な物腰で少しだけ身を逸らすと、自分の胸の上を、わずか数センチ上に鞭の切っ先を通過させた。さらに首を屈め、飛び交う有刺鉄線を頭の上に過らせる。さらにその間、わずか程も歩む速度を緩めることはなかった。
「私は逃げてなどいない。ただ、貴様から見えなくなっただけだ。夜になれば太陽が我々の前から引っ込んでしまうのと同じようにな。地球の裏側にいけば、太陽はいつでも存在する」
「その屁理屈が、この僕を何度小馬鹿にしたことか!」
ファルスはまるで、魚を翻弄する釣り人のように、鞭の柄をくいと軽く引っ張った。2本の鞭の切っ先は驚くほどの力で、アークを食い殺そうと返ってくる。
だが、アークは後ろを振り向くことさえしなかった。有刺鉄線のほうを手の甲で打ち落とし、針のついた方を足で踏みつけた。そしてついに、アークとファルスとの間を隔てていた距離は、3メートルより小さなものとなった。
「私は部下を馬鹿になどしない。お前が卑屈になっただけのことだ。甘えるんじゃない」
「うるさいわ!」
ファルスは両方の鞭を手放すと、痺れを切らしたように、ストレートを打ち出した。だが、その一撃がアークの身を揺さぶる前に、ファルスの体が宙を浮いた。アークの抉るようなボディーブローが先に、相手の体を貫いたのだった。
ファルスは立ち上がる。武器も戦術もなにもかもを放り出して、アークを攻め立てていく。ノーモーションからの宙を切り裂くようなハイキックは、アークの頭部を掠るに尽きた。
「僕は貴様の部下なんかじゃない! 蟹座の英雄、キャンサーだ! そして」
さらに逆の足を軸にして、回し蹴りに繋げる。それも避けられると、今度はよろめきながらのストレートに転じた。
「二条裕美の息子だ!」
だが、身を打って放ったその一撃もアークには届かなかった。アークのつま先が、ファルスのわき腹を穿つ。ファルスはくぐもった悲鳴と、けたたましい音を引きずりながら、真横に殴り倒された。
彼が起き上がろうとする前にアークはファルスの首を鷲掴みにすると、一息にその体を持ち上げ、壁にその背を叩きつけた。
ぐっ、と微かな呻き声がファルスの仮面の下から聞こえてくる。アークはファルスの首を片手で絞めつけながら、右肩のひしゃげたバインダーをぎこちなく持ち上げ、そこから砲塔を迫り出させた。
「まぁ、今更そんなことどうでもいいがね」
砲口に眩い光が充満していく。ファルスにとってその純白の焔は、地獄の門に見えたに違いない。ファルスは手足をばたつかせようとするが、アークは胸部を殴りつけ、その挙動を黙らせた。発散されていく光の矛先をファルスの顔面に向け、アークは高らかに叫んだ。
「部下であろうが、なんであろうが、私の娘に手を出した瞬間から、お前の死は決定づけられているのだからな!」
砲口に宿った輝きの塊がはちきれんばかりに膨れ上がり、ファルスを焼く、その直前のことだった。
レイは気配を感じた。首の後ろを這うような、空寒く、おぞましい雰囲気が煙のように流れてくる。あえて表現するなら、そんな感覚を唐突に覚えた。
渦中にいるアークとファルスはそれに気付かない。レイだけが、薄闇を滑るように2人に接近していく影に感づいている。レイは1つ、身震いした。嫌な予感が、思考に届くよりも先に心を直接揺さぶっていた。
「お父さん!」
レイは叫ぶが、崩壊の音の鳴り止まぬ建物内で、その声は父の耳に届かない。だが寸前で気配を察知したのか、アークは振り返った。しかしその瞬間には、視界を塞ぐように、レイから見れば、アークの姿を隠すように、悪魔の影が瓦礫の下より這い上がってきた。
その影から突き出された鋭い爪が、腰をよじったアークの顔面を容赦なく跳ねつけた。音もなく現れた悪魔に対応が間に合わず、アークは初めて床に転げる。激しい物音が床を揺らし、衝撃を浴びたアークは大きく咳き込んだ。
「襲撃、なんざ、姑息極まりないが、もう……これで、俺も、お前らと同じ、殺戮者だ」
甲高い響きの混じった呼吸を合間に挟みながら、アークを弾き飛ばした悪魔は言った。その背景で、ずるずると壁を滑るようにして床に尻をつくファルスが見える。突然現れた助け舟に、彼もまた驚愕の表情で、その悪魔を見つめていた。
その姿に、声に、レイは見覚えがあり、聞き覚えもあった。その身から流れ落ちる緑色の光が視界を照らすと、それだけで動悸が激しくなる。
体中の皮膚が剥がれ、腰から垂れ下がり、残った肌もケロイド状に歪んでいる。左腕はなく、翼も片方、半ばから千切れていた。両足は黒く焦げ、真っ赤な血が溶岩流のように滲んでいる。到底歩けるとは思えず、よく見れば残った翼で数ミリ宙を浮き、移動しているのだった。
そのあまりにおぞましく、そして悲しげな姿にレイは吐き気さえ催す。ガンディと共に光の中に呑み込まれていったはずのS.アルムだった。彼にはもう、目も鼻もなかった。ひしゃげ、捩れた深紫の顔面が首の上に置かれていた。ただそこに切れ込みのような口が引いてある。
ふらつき、身を起こしたアークの腹部に、S.アルムは容赦なく、爪を揃えた右手の突きを打ち込んだ。指先を明るい緑に発光させ、その光を劈くように放ったその一撃は、アークの装甲をやすやすと抜け、第一関節まで体内に埋められた。
「だが、復讐は、たとえ一欠けらでも、遂げさせてもらう。タダでは……死なない」
アークの体がびくん、と一度跳ねた。指を引き抜かれると、今度は後ろによろける。父親の体内から帰還を果たしたS.アルムの指先を見つめ、レイは眩暈がした。その指は、まるで始めからそういう体色であったと思えるくらいに、赤く濡れ、闇の中でてらてらと不気味に光っていた。
だが、アークはよろめきながらも倒れはしなかった。カーペットの中に埋もれた埃が吐き出されるくらいに、力強く足元を踏みつけると、即座に上体を起こした。さらに息をつく間さえ惜しいとでも言うように、前へ飛び出し、S.アルム目掛けて拳を放った。その一撃が、敵の肩先を掠めていく。
次の瞬間、アークの姿が忽然と消えた。そして次に銀色の装甲をくねらせながら、その姿を現したとき、すでにS.アルムの背後に回りこんでいた。
「黒城、スペシャル」 血の滲んだ声で、アークが宣言する。さらにおまけとばかりに上半身を捻り、そこからまるで独楽のように回転して、S.アルムの腰を鋭く打ち据えた。
だが、やはり腹に与えられた一撃が相当重かったのか、その蹴りからはパワーがほとんど失せていた。S.アルムは特にのけぞることもなく振り返ると、体中から緑色の光を漲らせた。
「これが、俺の、復讐だ」
擦り切れるような呼吸音を響かせ、S.アルムは吐き捨てる。その右手には薄汚れた、短い棒のようなものを掴んでいた。その棒に彼の体から生まれた光が注ぎ込まれていく。そしてその先端に、三日月の形をした緑の光刃が形作られた。
アークは腹部を押さえ、片膝をつけた姿勢で屈みこんでいた。その頭上に光の刃が振り下ろされる。
アークは回避をしようと、身を起こした。しかしぐらりと、まるで体の芯が均衡を失ってしまったかのように、その足元が揺らいだ。たたらを踏んでいる間にも、緑色の軌跡を描き出しながら、刃は空を裂く。アークは咄嗟に、身を守ろうと自身の左腕を襲い掛かる刃の前に差し出していた。
パッと光が散り、そのあとで金属が捩れるような不快な音が地を掻く。潤沢した光輝の中から絞り出されるようにして、黒い塊がごろんとカーペットに落ちた。
レイは唖然とした思いで、その光景を眺めている。現実感が、まるでなかった。宙をふわふわと浮いているかのようだ。全身から血という血が抜け落ち、すっと体温の逃げていくのが手に取るように分かる。
お父さん、と声が枯れるほど叫びたいのに、息が詰まり、喉からは乾いた空気しか出てこない。唇が張り付き、口の中から湿り気が一気に姿を消した。
父親の、黒城和弥のうめき声が暗闇を抉る。その足元には小さな血だまりが生まれていた。血液の零れ落ちているその起源をたどれば、父の腕にたどり着く。
アークの腕の肘から下が、なくなっていた。光刃によって切り裂かれた下腕は床に落ち、血の海の中に沈んでいる。残された上腕の断面からは、骨のようなものが突き出しているのが見える。
「お父さん!」
今度は声が出た。思いも寄らない大声が喉から飛び出したので、レイは自分で驚いた。自分の中にまだこれほどまでの力が残されていたのか、と信じられないような気持ちになる。しかし、相変わらずその体はぴくりともレイの意思に従ってくれないのが、ひどくもどかしかった。
だが、その全身全霊を振り絞って空に放った声は、今度こそ父親に届いた。
アークは右腕を伸ばすと、追いすがるようにしてS.アルムの棒を持った腕を捕らえた。爪を立て、絶対に振り払われることのないよう固く握り締める。手首を強くひね上げられ、その手中から得物が零れ落ちた。
「腕の1本くらい、くれてやる」
アークは顔をあげ、敵を睨んだ。左肩に備わった砲口に再び光が宿っていく。白く膨張を始める光の照り返しを受け、S.アルムの潰れた相貌が影に浮かびあがった。
相対する敵にとっての地獄の門を開錠させながら、アークは光の渦を照射するのとほぼ同時に、あらん限りの力を尽くして声を張り上げた。
「だが、支配させてもらうぞ! 貴様の命を、この私が蹂躙する!」
砲口から打ち出された太い光の直線がバインダーと砲塔を巻き込みながら、S.アルムの体を貫いた。螺旋状に吐き出された奔流は、S.アルムの全身を焼き尽くし、そのまま天井まで押し上げていく。そして大爆発とともに、光の粒が雨のように降り注ぎ、次々とカーペットに焦げた穴を作り出しいった。
室内に咲いた炎の華を背にしながら、アークの装甲は、まるでその役目を終えたことを自ら悟ったかのように溶けていく。そしてまるで水をかけた絵の具のように、光が流れ落ちていくと、その中から傷だらけの黒城が現れた。
彼の唇の端からは多量の血が零れていた。纏ったワイシャツの腹の部分も赤く染まっている。当然のことであるが、父親の左腕はやはりなくなっていた。黒いスーツの袖が不自然にへこんでいるのを目の当たりにし、レイは意識を失いそうになる。父親は足元をふらつかせ、うなだれるように両膝をついた。土気色の顔をしており、呼吸はひどく荒い。だが、レイを案じるように見つめてくるその視線は力強く、そして鋭かった。
天井に与えられた衝撃によって、破壊の進行は一気にその速度を増した。次々とコンクリートが剥がれ落ち、地面を揺るがしていく。爆破によって生じた炎がカーペットに引火し、瞬く間に燃え広がっていった。
みしり、という音が聞こえたことで、レイの視界にようやく黒以外の色が戻ってくる。しかしまだ錯乱しているせいなのか、鮮やかな色合いは瞳に宿らず、セピア色の景色が綿々と広がっている。
視線を上向けたその先に、巨大な瓦礫が見えた。レイの全身をすっぽり覆っても、まだお釣りがくるくらいの破片が、真っ直ぐにレイの体を踏みつけようと落下してくる。
「レイ!」
父親の冷静さを少しだけ欠いた、荒々しい声が建物内に反響する。だが到底、間に合いそうになかった。父親の履く革靴の音がたどたどしく、レイの耳に遠く聞こえてくる。
だがその時、間隔の短い、父とは別の足音が近づいてくることに気付いた。何事か、と思った次の瞬間、レイの頭上で瓦礫は木っ端微塵に砕けた。
散り散りになって、周囲にばら撒かれていく破片たちともに、レイの顔のすぐ間近へと先ほどの足音が着地した。
最初にその目が捉えたのは、金に彩られた足首。恐る恐る視線を持ち上げると、そこには飛散した装甲の破片の中で膝を突く、ファルスの姿があった。
レイは目を見開いていた。自分の身の回りで起きている展開に、まるで頭がついてこなかった。すぐ目の先に、金に塗られた金属片がばら撒かれる。そこには血の色がわずかに混じっていた。
ファルスは立ち膝の体勢のまま、レイの襟首を掴んで持ち上げた。首が僅かにしまり、苦しくはあったが不平を口にする力はない。そのまま彼は、上半身を捻るようにして、レイを出口目掛けて投げ飛ばした。
ほんの少しばかりの浮遊感の直後、背中から落ちたレイはカーペットにバウンドし、滑るようにして扉の前に到着する。
その瞬間、生温い風が身体中を撫でまわした。顔をあげれば、手を伸ばせば届く位置に、雨の匂い香る外の景色がある。レイは目を眇め、そのぬかるんだ地面を視界に収めた。
ファルスは腰に手を据え、満足そうに頷くと、緊張の糸がぷつりと切れたかのように崩れ落ちた。その全身は細かに震えている。片頬を床につけたまま、ゆっくりと首を巡らせ、そしてその仮面に覆われた表情を黒城へと向けた。
「貴様を倒すのも、あの子を石にするのも後回しだ。今日はいらん邪魔が入った、また、決着をつけてやる。だから、早く動け! あの子を助けてここから逃げろ!」
右腕を押さえるようにしながら、立ち上がる黒城に指先を突きつけ、ファルスは大仰に言い放つ。黒城は数秒の間、ぼうとその装甲服を見つめていたが、やがて鼻を鳴らした。
「ずいぶんな、風の吹き回しだな。真嶋。やはりお前は、場に流されやすい男だ」
「なんでもいいさ。とにかく、次に会うときまで、あの子には傷1つつけるな。可憐なものは、可憐なままじゃないと意味がないんだ」
「お前はここから逃げないのかね?」
ファルスは黒城からの問いかけに、何をそんな分かり切ったことを、とでもいいたげに鼻を鳴らした。だがその仕草には力がなく、眠たそうに話している間も時折頭が揺れていた。
「僕は死なない。貴様を超えるその時まで、生き抜いてやる。だから、貴様にも死んでもらっちゃ困るんだ」
「私が死ぬ? ふざけたことを抜かすのは、やめてもらおうか。お前に言われなくとも、私はレイを守り抜き、私自身も生きる。永遠にな」
脂汗を顔いっぱいに浮かせた黒城は、それでも何とか歯を食いしばるようにして立ち上がった。それから自分の首に巻かれたネクタイを外し、それを右手と口を使って、左腕に縛り付けた。おそらく止血をしているのだろう。
黒城はファルスと視線を交わした。わずか数秒ほどの間だったが、自分の信念を相手に伝えるには、2人には十分すぎる時間であったようだった。
「お前こそ、こんなところで死ぬなよ、真嶋。部下を見殺しにしたとなれば、私の名に、傷がつく」
「言っただろ、僕は貴様の部下じゃない! ごちゃごちゃ言ってないで早く行けよ!」
黒城はファルスに促され、レイの方に目をやった。そうしている間にも、瓦礫は容赦なくロビーを貫いていく。黒城は駆け出し、扉の前まで到達すると、レイを片手で救い上げた。
その瞬間、その体から香ってきた血の匂いにレイは泣きそうになる。それになんとか耐え、父親の肩越しに背後を見やると、ファルスは地面に突っ伏していた。
破壊は続く。やがて壁や天井が崩れ、ロビー全体を呑み込んでいく。まるで巨人の見えざる手が、部屋を両側から力いっぱい押しつぶしているような、そんなイメージをレイは抱いた。積みあがっていく瓦礫の中に、ファルスが押しつぶされる。もう限界だ、と思った瞬間、レイを左腕で抱きかかえた黒城は扉を蹴り開け、体を外に滑り込ませた。
生ぬるい空気が髪をそよがせる。雨粒を頬に感じ、そこでようやく外に出たことを実感する。
黒城とレイがホテルから飛び出した瞬間、まるで図ったかのように、ホテルは鼓膜を突き破り、空気を破裂させるような大音量を撒き散らしながら、崩れ落ちた。粉塵が巻き上がり、爆発的な風が2人の体を大きく揺さぶっていく。
「終わったか」
口の周りにべっとりと張り付いた血糊を舌で舐めながら、黒城がしみじみと言う。
「うん、終わったね」
父親の胸に頬を寄せ、抱きつくようにしながらレイも呟いた。父親の心臓の鼓動を全身で聞くと、それだけで心が静まるようだった。
レイが身を寄せると、父親はさらに残された腕に力をこめ、ぎゅっと抱きしめてくれる。それが嬉しくてレイは思わず唇を緩める。笑うことで、泣き出しそうになるのを何とか堪える。
終わってなどいないことは、分かっている。
父親が左腕を失ってしまったことや、最終的に自分がただの足手まといになってしまったこと。たくさんの仲間を危険においやってしまったこと。マスカレイダーズに殺されそうになったこと。様々な思いが茨の刺のように、胸の内側に突き刺さる。
瓦礫の山と化していく、古いホテルの外観。父の体温にくるまれながらその凄惨な光喜を見上げ、それでもレイは自分が生きていることに、戦いの終焉を感じ取った。
霧のような雨が降る。空には灰色の雲がひしめいている。
この場にたゆたう不幸や絶望を洗い流すように、冷たい雨は、いつまでも降り続いていた。
そしてそのわずか数秒後――黒城和哉は、事切れたように、しかしそれでもレイを残された腕で庇うようにしながら、雨の中に崩れ落ちた。
鳥の話39
怒涛の勢いで剣戟を振るうフェンリルを、利き手とは逆の慣れない手で握ったサーベルでいなしながら、V.トールはS.アルムが空で告げた一言を思い出していた。
――お前らなんだろ? 4年前に起きた新宿駅爆破事件。あれを起こした犯人は、お前らマスカレイダーズだ。お前らは、大量殺人犯だ。
新宿で待ち合わせをしていた京助がその事件に巻き込まれたと聞いた時の引き裂かれるような気持ちを、仁の胸は今でも記憶している。身を抓むのは、なぜ自分だけが助かってしまったのかという罪悪感と、京助の身体を奪った怒り、そして自分たちの周りを当たり前のように流れていた日常をいとも簡単に奪い去った犯人への憎しみだった。
京助だけではない。あの事件で多くの人間が平穏を奪われた。あの日生まれた悪夢は終わることをしらない。4年という月日が経過しても、仁の中では、そしておそらくあの惨事に巻き込まれた人たちの中でも、あの事件は少しも終わってなどいない。
4年前に弟を失った、と以前、菜原は言っていた。その時から感づいてはいたが、やはり、彼もまた仁や世界大統領と名乗るあの男と同じように、あの事件によって、大切な人間を失っていた。
そして彼は知っていた。世間では公表されておらず、いまだ調査中の札が掲げられている、あの事件の犯人の正体を。
もちろん彼の勘違いかもしれない。仁の聞き間違いかもしれない。だが、俯瞰的な目で見た真偽など仁にとってはどうでも良かった。仲間が悲痛の叫びとともに漏らしたその情報は、仁の中でかけがえのない真実だった。頭で考えるよりも先に感情が迸り、とりとめもなく押し寄せてくるその情動を止めることができなかった。
V.トールは敵の横薙ぎに振るわれた剣を、身を反らして回避しながら、その銀色の装甲服を睨みつけた。前に跳ぶと同時に、怒りを右手に宿し、一息に、切り裂く。
「マスカレイダー!」
斬撃を浴びたフェンリルは火花をあげながら、床に転げた。V.トールはさらに追いすがり、渾身の力をこめてサーベルを叩きつける。
「まだ、人の幸せを、日常を、お前たちは奪い足りないっていうのか!」
しかしフェンリルはしゃがんだままの姿勢で右腕を突き出し、その手首から伸びた刃でV.トールの一撃を受け止めた。その刃がまるでドリルのように急激な横回転を始める。刃と刃の触れあった箇所から、目も眩むほどの強烈な閃光が放たれ、回転に負けたサーベルがV.トールの手から離れ、大きく弾き飛ばされた。
もとより、利き腕ではない手で得物を取り扱っていたのが悪かったのだろう。宙を裂いたサーベルは、壁にかかっている富士山を映した写真の中心に深々と突き刺さった。唯一の武器を回収しようと、そちらに足を向けようとした矢先に、立ち上がったフェンリルの突進を浴び、V.トールは壁に激突した。みしり、と軋んだ音が駆け、店の壁に一筋の亀裂が走った。
フェンリルの右足首から、その右手首にあるものと同形状の刃が飛び出す。その刃を大きく振りかぶった足に乗せ、フェンリルはV.トールの首元目がけて回し蹴りを繰り出した。
疲労を感じさせない速度で小さな弧を描き、放たれたその一撃を、V.トールは頭を屈め、横に転がるようにすることで何とか回避した。肩口に鋭い痛みが走る。体を起こしながら見ると、まるで捩じれたような奇妙な傷跡が右肩に刻まれており、仁は動揺した。
思わず、背後を見やる。するとひとつ前の攻撃をかわした仁の代わりに受けた壁が、皺の寄るような螺旋状の傷が刻み込まれていた。そこに掛けてあった丸く大きな時計は床に落ち、真っ二つに寸断されていた。
壁に刻まれた傷と、V.トールの肩を削いだ傷口はどちらもねじ切られたような断面を晒している。おそらく、敵の足に備えられたあの刃で傷つけられた箇所は、このような傷口を施されるのだろう。そのあまりにおぞましく、痛ましい裂傷に、仁は背筋を凍らせる。
物怖じしつつもそれらを素早く分析し、その回答を探してフェンリルを見やれば、視界いっぱいに彼の放った二撃目の回し蹴りが迫っていた。
V.トールは横に跳ぶことで、攻撃をかわす。背後で引き裂かれるような激突音が鳴り響き、木片が宙を散り散りになって舞った。
つんのめるようにしてバランスを取りながら、すぐさま振り返る。するとそこには熾烈な蹴りを浴び、半壊したカウンター席があった。
寝ている葉花と蹴りが直撃した場所とはいくらか距離があり、幸いにも彼女に攻撃が当たらなかったことにとりあえず安堵する。彼女の白い頬に木くずが舞い降りる。彼女は細かな息をたて、小さな鼻を時折ひくりひくりと動かして、それでも尚、眠りについていた。
すぐ耳元でこれだけの大音量が響いているというのに、目を覚ます気配すらないのは明らかに異常だった。深く気を失っているのか、なにか薬で眠らされているのかもしれない。
仁は胸を衝かれる思いで、崩れ落ちたカウンターを見つめた。
ぱらぱらと音をたてながら、破片が床に散っていく。その音を耳にするだけで、涙腺がじわりと滲んでいくようだった。叩き割られ、無残な断面を晒したカウンターを前にすると、視界が白くぼやけた。
その席に座った速見拓也の弾くギターに耳を傾け、葉花の作ったホットケーキを頬張っていたあの頃が、すでに懐かしい。あそこには、佑がいた、葉花がいた、菅谷がいた、速見拓也がいた。そこには、かげがえのない幸せがあり、日常があり、そしてなにより、笑い声に溢れていた。
その場所がいま、徐々に崩壊を始めている。仁はずっとこの日常を守るため、そして葉花と過ごしてきた生活を取り戻すため、戦ってきたはずだった。道を踏み間違えても、いないはずだった。
壁に大きな刃の爪跡が刻まれ、テーブルは1つとして綺麗なものは残っていなかった。どれも足が折れ、または台の部分が半分に割れている。もはやこの場所を、喫茶店と呼ぶことはできなかった。破壊の傷は、悲しいほどに、思い出を汚く染めあげていく
徐々にその傷口を広げていく『しろうま』の店内を眺め、仁の心の奥底に沸いてきた感情は、降り積もった悲しみから転じた怒りだった。その怒りの矛先を、目の前に立つ銀色の装甲服に突きつける。憤怒が心の奥底から手を伸ばし、這いあがってくる度、仁の体内に存在する石板もその感情に感化され、大量の粒子を体外へと運んでいく。
青く透き通った粒子に身を巻かれながら、V.トールは、仁は、低い声を発した。
「ここから、出て行けよ」
フェンリルは葉花を一瞥してから、その手に握る剣の切っ先をV.トールの首に向けてかざした。敵が葉花に一瞬でも目をやったことが、仁の中の焦りと憎悪にさらなる火をくべた。
敵は葉花をさらなる危機に晒そうとしている。そんな予感が脳裏をついて回った。この相手を一刻も早くこの店から追い出さなくては、その可能性はいつまでもついてまわる。敵がいつ彼女を人質として扱うのか、分かったものではない。
「葉花に近づくな。ここは、お前たちが来ていいような場所じゃない」
マスカレイダーズ。あきらと親交が深いから、というそれだけの理由でこの戦いにまったく関係のない葉花を犠牲にした。そして4年前もまた、その目的こそ分からないが、何百人もの人間を地獄に突き落とした。
こんな奴らを、許してはいけない。許せばまた、無関係な人間が犠牲になる。それだけは、あってならない。V.トールは憎しみを心の杯から溢れさせる。青い光を尾に引きながら、フェンリルに接近した。相手が剣を力強く振り回してくる。だが構わず姿勢を低くしたまま、その懐に飛び込んだ。
力任せに、その胸を殴りつける。容赦などなかった。固めた拳を振りぬいた腕に乗せ、自分の指が折れることも覚悟した、全力のストレートだった。フェンリルは先ほど自身が蹴り破ったカウンターに背中から突っ込んだ。
「この戦いを、終わらせる。もう葉花にこれ以上、苦しんで欲しくないから」
フェンリルはすぐさま身を起こした。呼吸はこれ以上とないほどに荒い。その装甲に覆われた首筋が赤く煌めく。剣をそのぎこちない左手に持ち替えると、右手首の刃を高速回転させ、V.トールに殴りかかった。だが、V.トールはその一撃を回避する。よろめくようにして、敵の突進をいなすと、その背に回し蹴りを叩きこんだ。
「僕は、戦う!」
たたらを踏むようにして入口のドアの方に押しやられるフェンリルに、V.トールは床を踏み砕き、急速に接近した。フェンリルの息を呑む音が聞こえた。銀色の体を薄暗がりに反射させて、こちらを振り返る。
敵のその動作が、その仮面の向こうで浮かべた表情が、仁のよく知る人物と重なって、一瞬、全身の力が抜けた。だが、その感情をすぐさま打ち捨て、V.トールはフェンリルに飛びかかると、電撃を唸らせた左拳をその腹部――『5』の数字の振られたプレートにねじ込んだ。
その途端、仁の頭の中に映像が、津波のように一気に押し寄せてきた。目眩がし、目の前が暗くなる。時間にしてわずか数秒のことだったが、仁にとっては、永遠のように感じられた。深淵に置き去りにされたかのような恐怖が走り、身を啄ばんでいくようだった。
破裂するような音が耳朶を打ち、そこでようやく仁は、その逼塞したイメージから解放された。意識を覚醒させた仁の視界に、ドア代わりに打ち付けておいた厚い板の切れはしを突き破り、外に飛び出していくフェンリルの姿が映る。
V.トールは数秒、じっとその裂けた板材を見つめる。外から湿った、生ぬるい景色が入り込み、肌に触れた。ゆっくりと、噛み締めるように、頭を整理させてから足を踏み出す。膝が震えていた。粘り気のある液体が心臓に絡みつくようだ。行くな、行くな、という声が頭のどこからか聞こえてくる。それを振り切るように、大袈裟にため息をついた。自分の呼吸音で心の声を塞いでみせる。意識さえすれば、動揺を抑えることはそれほど難しいことではなかった。
光の残滓を店内に残しながら、V.トールは足を踏み出し、フェンリルを追いかけるように外に出た。軒下に寝そべったままの拓也を一瞥し、ぬかるんだ地面に踏み入る。雨はまだじわじわと降り続いていた。足の傷もしんしんと痛む。だが今の仁には、その痛みもどこか遠くに感じられた。
意気軒昂とフェンリルを捕捉した先ほどとは一変して、その足取りはまるで鉛を付けられたかのように重かった。その黒塗りの肌には嫌な汗が浮かんでいる。心臓がざらついたような鼓動を発し、腹の底にはヘドロのような負の塊が渦巻いているようだった。
不快さと不穏さと不実さの権化のようなものが内臓をじわりじわりと焼いている。仁はその痛みを軽減するために、腹部を軽く撫でながら、ぬかるんだ地面に足の裏で触れた。膝を上げ、さらに足を前方に差し出し、進む。V.トールの歩んだ後に、足の形がくっきりと刻まれていく。
V.トールは自身の掌をちらと見下ろした。そうしながら己の感覚を、記憶を、疑う。だがそれが無意味であることに気付くと、ゆっくりと息を吐き出しながら、先ほど頭の隅に去来した景色を今一度思い起こす。
フェンリルのプレートに拳で触れた瞬間、サイコメトリーの能力が、仁の頭にある映像を寄こした。
まず、上下に揺れる真っ暗な視界からその映像は始まった。生温い感触が身をくるんでいる。皮膚に柔らかな何かが擦れているようだった。これはプレートの持つ記憶だ、という前提を思い出した上で考えを巡らせ、やがてここはポケットの中ではないか、という結論に行き着く。何者かのポケットの中にあるプレートに、仁の意識は潜り込んでいる。
ドアを開ける音が聞こえた。
おそらく家の中に入ったのだろう。やはりこの敵は店側の入り口ではなく、居住スペース側の玄関から内部への侵入を果たしたのだ。しっかりと施錠をしてきたつもりではあったが、マスカレイダーズの前では、そんな対処も大した意味を成さないのかもしれない。
床を歩く足音が聞こえてくる。ぺたり、ぺたりと裸足でその人物は店の方へ向かっていく。そして、もう1度ドアの開かれる音。今度はおそらく、店に繋がる扉に手を掛けたのだろう。
そこで突然、視界の揺らぎが止まった。
なんだ、お前たちは。上の方から声が降ってくる。おそらく、プレートの持ち主の声だった。それは少年のものだ。わずかに掠れ、疲労が存分に滲んでいる。その声音からは彼の動揺と戦慄が、はっきりと伝わってきた。
一時の沈黙が落ちる。その後で、少年のあげた怒声が店内の空気をぴりりと引き締めた。
「なんだ、お前たちは」
少年の声には困惑が滲んでいた。恐怖も含まれていた。しかしそれらを覆い隠すほどの、怒りが発散されていた。荒い息遣いが聞こえる。その体の震えがポケットの中まで伝わってくる。
「そいつを、どうするつもりなんだよ」
彼の憤怒を叩きつけられた、この場所で対峙している何者かの焦燥が宙を浮かんでいる。床を軋ませ、その相手に近づきながら、さらに少年は続けた。
「そうか。お前らが、ゴンザレスさんの言ってた……」
その時にはもう、彼の声は落ち着いていた。しかし平静を取り戻したというわけではなく、先ほどよりも静かな怒りを胸の底に湛えているようだった。その語調には何かを得心したかのような、響きがある。心の内にいきり立つ炎の熱で、彼の声は歪んでいた。
仁の視界を、上から降ってきた巨大な掌が覆った。さらにその掌によって全身を絞めつけられ、そのまま引っ張り上げられた。少年がプレートをポケットから取り出したのだ、と仁は遅れて理解する。
世界に色がつき、視界が開けていく。少年はプレートを目の前に翳した。そこでようやく、仁は状況を理解する。
予想通り、この場所はいま、仁が立っているのと同じ『しろうま』の店内だった。そしてこちら、つまり、少年のほうを見て、鳥のお面を被った3人がたじろいでいる。そのうちの1人の背には固く瞼を閉じる、葉花の姿があった。
「そいつを離せ。俺の日常を、お前らなんかに壊されてたまるか!」
己を鼓舞させるかのように、もしくは騙すように、店内に声が反響するほどの大音量で、少年は吠えた。彼がくるりと手の中でプレートを回転させたことで、仁は初めて少年の顔を見ることができるようになる。
声を聞いたときから、薄々感づいてはいた。しかし、そんなはずはないとすぐに心に浮かんだその推測を自らの手で握りつぶしていた。なぜ彼が仁の家にいとも簡単に侵入できたのか、その謎が、一瞬にして氷解していく。
プレートを掴み、苦痛の表情を浮かべて、鳥のお面を被った人たちと対峙する少年。彼の首筋には赤い鳥型の痣があった。その左手には痛々しいほどの包帯が、肘から指先にいたるまで幾重にも巻かれている。手首にはフェンリルが巻いていたものと同様の、球体の付いたリストバンドがみえる。
「ぶっ殺してやる」
眉間に皺を刻み、血走った目でプレートを見つめる天村佑は、己の命をかなぐり捨てるようにして、そのプレートをカウンター席に置かれたコップに叩きつけた。
「そんな……」
記憶の再生が終了し、仁の意識は今現在に舞い戻る。プレートの示した映像が嘘でないことは、自分が一番よく知っている。それだけに、苦しかった。脳裏に描かれたその映像を、信じたくはなかった。
「嘘だ。佑が、なんで……」
泥まみれになったフェンリルが、土の中から這い出るようにして、身を起こす。
この対峙する敵が、あの佑であることなど信じられるわけがなかった。彼がこんな血なまぐさい世界に存在していいはずがない。少し生意気だけど、いつも明るくて、音楽が好きで、周りに元気を分けてくれる、天村佑というのは、そんな少年だったはずだ。間違っても、あんな狂気を孕んだ目をするような人間ではない。
「出ていくのは……お前の方だ、化け物」
仁の心が揺れる。フェンリルがV.トールに向けて放ったその一言。その声は、やはり佑のものだった。その事実は鼓膜を震わすのと同時に、心を裂いた。
「お前たちが、お前たちがいるから、お前たちがいなければ、こんなことに、ならなかったのに」
フェンリルが近づいてくる。V.トールは動けない。竦んだ体は、身じろぐことさえ許してはくれなかった。ただ茫然と、立ち尽くす。迫りくる光景が、現実のものとは到底思えなかった。
フェンリルの薙いだ剣が、V.トールの胸を切り裂いた。よろめいたその体に、今度は右の回転する刃を叩きこまれる。V.トールは後ずさり、呻き声を発した。
「お前たちがいるから、あいつも、悠も、安心して生きられないんだ」
フェンリルの内側から聞こえてくる佑の声は、泣いていた。刃物を振り回し、傷だらけになりながらも、他者を傷つけなければならないことに、そしてどうにもならない現実に、戻れない過去に、先の見えない未来に、嘆いていた。悲しんでいた。そしてむせび泣きながら、憎悪を呑まれながら、V.トールの体をめった切りにしていった。
意識が遠ざかっていく。
蹴られ、殴られ、切りつけられ、倒れては起き上がり、また押し退けられて。そうして泥まみれになったV.トールは、気付けば『しろうま』から小道を挟んで向かい側にある、木立に転がりこんでいた。
草を掻き毟るようにして、上半身を起こす。虚ろに持ち上げた視界に、フェンリルの飛び蹴りが迫った。回転する刃で胸を抉られ、仁は一瞬、息ができなくなる。そして時間が溶けるように痛みがのしかかってくると、吐き気がこみあげてきた。
痛みに痛みを重ねられ、泣きながら戦うフェンリルに心を削がれ、やがてV.トールの肉体は限界を迎えた。
全身から力という力が抜け、宙に溶けていく自らの鮮血を視界に収めながら、V.トールは膝から崩れ落ちた。体の底から粒子が抜けていく。それはまるで、仁を浸食していた粒子が自らの役目を終えたことを悟ったかのような、潔さだった。
これまでとは違い、V.トールの姿を引きずるような感触を残して、青い粒子をじわりじわりと散らすようにしながら、仁は人間の姿に戻った。いつもならば、瞬時に人間と化け物の姿を入れ替えることができるのに、今回はわずかながらタイムラグが生じたような気がした。
湿った空気が人としての肌に纏わりつく。ぬかるんだ地面に横たわる仁を、細い雨が打ちつける。
フェンリルが足を止めた。その剣を握る腕が下ろされる。装甲が飛散する。金属同士が擦れ合うような、甲高い音が空を滑る。視線を仰ぐと、そこにはやつれた表情を驚きの色で染めた天村佑が立っていた。装甲服はその体からたち消えていたが、リストバンドは手首に装着されたままだった。その腕には、プレートの記憶を覗きこんだ際に得た映像と同様、血の滲んだ包帯が巻かれていた。
「仁、さん……?」
彼の唇が、仁の名前の形に動く。仁はそっと微笑んだ。唇の両端を緩め、眩しいものを前にした時のように、薄く目を細めた。
おかえり、佑。
声は出なかった。
だがかろうじて、口を動かすことくらいならできた。その言葉が佑に伝わったかどうかは分からない。佑の頬には透明の滴が伝っていた。
その時、彼の左手首に装着されたリストバンドから、不穏な光があがった。
そこに携えられた球体に、突然、対角線の切れ込みが入っていく。その直線をなぞるようにして、球体は四方に割れていく。佑も仁も、突然リストバンドに起きたその変化に、ただ目を丸くする。
球を形作っていたカバーが四方向に倒れ、外気に晒された内部には、小さな四角い箱のようなものが備えられていた。
仁はあまりにも滑らかに変化していくその装置の不穏さを、真っ先に嗅ぎ取った。気づいてからは、早かった。理解も納得もいらなかった。意識するよりもはるかに早く、仁は本能のままに粒子を再び体の表面に浮きあがらせ、自らをV.トールに変化させていた。
「佑!」
仁はすぐさま、佑に跳びかかった。身を引く佑に構わず、その腕を掴み、もう片方の手で上から球体を鷲掴みにする。超人の膂力を最大限に発揮し、リストバンドから球体を剥ぎ取った。金属のねじ切れるような、くぐもった嫌な音がして、球体はV.トールの手の中に引き込まれる。
瞠目する佑の表情が眼前に広がった。V.トールは彼の体を、思いきり突き飛ばした。その一撃で佑の体は宙を舞い、小道を超えて、『しろうま』の前に落ちた。
それから二転、三転と転げ、そのあとですぐさま上半身を起こす、彼の姿を見て、V.トールは心の底から安堵した。あとはこれを捨てるだけだと、手の中で完全に展開しきったその金属に意識を傾ける。
肘を曲げ、肩を後ろに引き、腕を伸ばした。だがその指先から剥がれる前に、その金属から強烈な光が放出された。
仁は光に塗りつぶされていく視界の中で、何気なく、『しろうま』の方に視線を向けていた。あの場所には守りたい人がいる。守りたい場所がある。そのために、仁は自分の心を否定しながら、身を削りながら、戦ってきた。
いま、その想いが胸を満たしている。悲しくはなかった。後悔もなかった。ただ一握りの寂しさだけを感じた。景色が遠くなる。一人ぼっちだった仁を拾い上げてくれ、育ててくれた家がその輪郭を怪しくさせ、背景と混ざって消えていく。
あの場所にはいま、葉花がいる。彼女は眠りについている。周囲でこれほどまで激しい争いが行われているのにも関わらず。
先ほど睡眠薬でも飲まされたのではないか、と勘繰ったが、どうにもその予想には違和感があった。
サイコメトラーによって送られた映像の中で、鳥のお面の人たちは、すでに眠りについた葉花を背負っていた。彼女を連れて、この場から逃げ出そうとしていた。もし、薬を盛られた、もしくは気を失わされたとしたら、誰がどのタイミングでそんなことをしたのだろう。
鳥のお面の彼らか、それとも、まだ見ぬ人物か。店の床に散らばったコップのガラス片、そして『スーパー丸橋』の紙袋を思い出す。
まさか、と仁はV.トールの下で目を瞠った。これは単なる予想だ。証拠は不十分で、ほとんど、ただの直感だった。鳥のお面の彼らが意固地な葉花を外に運び出すため、眠らせたという手も考えられる。
だが、仁の思考はそれとはまったく別の人間を思い浮かばせた。しかし、それを口にする時間は残されていない。たとえ口にしたからといって、どうにかなるものでもなかった。
光の中に体が取り込まれていく。死が、急迫する。
球体から手を離す時間は残されていないことを察した仁は、身体の中に据えた石板に意識を働きかけた。その想いに呼応し、石板はV.トールの体表に青い粒子を滑らせ始める。林檎を頭に乗せた奇妙な怪人を焼き殺した時の、アークの放った光のオーロラを受け止めた時の、あの破壊のイメージを脳に焼きつける。
守りたい人がいる。守りたい場所がある。
もはや仁は何も考えることができなかった。ひたすら無意識に、体の奥底から絞り出した粒子の波を、周囲に拡散した。V.トールの体を青い閃光が纏う。全身に這う金の曲線をも発光させたその背に、翼の形をした粒子の集合体が舞い散った。
佑が何事かを叫ぶ。葉花のいるしろうまが景色の中に白く滲んで消えていく。
京助――。
仁は指先から焼けてなくなっていく自分の体から、意識を剥離させながら、親友の名前を呟いた。彼は今も、事実のベッドで眠りについているのだろうか。明けない空を呪っているのだろうか。彼の苦難を思うだけで、仁はたまらない気持ちになる。何度自分が肩代わりしてやれたら、と考えたのか分からない。しかし実際、そんなことはできないから、だから仁は彼の寝顔に誓った。
京助。もう僕は同じことを繰り返さない。君の日常は、僕らの平穏は奪われてしまった。だけど、だから、もう失いたくない。そのために僕は――。
ギターの弦に指を絡ませながら、難しい顔をしている佑が目の裏に浮かぶ。葉花が顔を粉まみれにしながら作った餃子の香ばしい匂いが嗅覚に蘇る。あの家で生まれた、あらゆる思い出が胸に押し寄せる。
失いたくないものが、ここにある。繰り返したくない未来が、すぐそこに迫っている。だからこそ、たとえ惨めでも、徒労になろうとも、仁は足掻く。もがき続ける。仁は声の限りを尽くして叫んだ。それに伴い、体からあふれ出る無数の光の粒もその量を増していく。
立ち昇る光の奔流が仁の体を啄ばんでいく。徐々に目の前が暗くなり、耳が遠くなり、そして数秒も経たぬ間に体中の感覚が消えていった。それでも仁の心に灯る火は熱く滾っている。その潰えぬ信念は、膨れ上がろうとする暴力的な光条を外から抑え込み、その拡散を確実に防いでいった。
雲が割れる。空を一瞬の光が埋め尽くす。頭上に折り重なる木々の葉が、振り落ちる先から蒸発していく。
それらを洗い流すように、雨が降る。弱まったと思われた雨脚はまた徐々にその強さを増し、暗雲から吐き出された最後のひと搾りは、その場に広がる平穏の色を褪せさせていった。
22話 完