19話「その声を聴け」
始まりの話 3
曇り空の下に遠く広がっていく黒い光を認め、男は静かに微笑んだ。
雷鳴が間断なく響き渡り、驟雨が大地に降り注ぐ、そんな悪天候の中でもその光は、白紙に射影された影絵のようにくっきりと空に浮かんで見えた。
それは残光のようにおぼろげで、幻にしては明瞭な形を持っていた。その姿はまるで優雅に広げられた大きな翼のようだった。地上から生え伸びた高層ビルをごっそりと覆うその様相は、町全体を包み込む巨人の掌じみてもいる。
その翼の形をした光は10秒という短い時間を置いて、雲の中に薄れ、消えていった。知らぬ間に現れ、気付けば失せている七色の虹のような儚さだった。眼下の町に住まう人々のうち、どのくらいの数の人がこの空に作られた翼を目にしたことだろう。
「喜ばしいことだ。私の思う通りに、事は進んでいる。とても気分がいい」
男は窓ガラスに伝う雨の水滴を内側から指でなぞりながら、口笛を吹きすさぶ。その手にはウィスキーの注がれたグラスが握られていた。
一重まぶたにかぎ鼻。それが男の顔にみられる特徴だった。その表情だけを見れば70を超えた老人のように見える。だがその実年齢は痩せた肌に隠されて、はっきりとしなかった。
「あなたの計画はきっと上手くいきます。今までも、これからも。最後まで、全てはあなたの思い通りに」
男の背後に寄り添うように立つ、麦わら帽子を被った女性が眼光を鋭く光らせる。年嵩は20代後半というところだろうか。背は高く、黄色いワンピースをゆったりと着こなしている。彼女の声は男に対する愛に溢れ、彼の言葉に陶酔するような響きを孕んでいた。
「そのために私たちが、この命を投げ打ってでも協力致します。あなたがこの世に私を生み落してくれたその時から、私の魂も心も体も、そして命も、あなたに捧げるためのもの」
「感謝しよう。いい娘を持って、私は幸せ者だな」
ウィスキーをひと口含み、男はガラスに映り込む女性に向けて言葉を投げる。女性は口紅の引かれた赤い唇を綻ばせ、くすぐったそうに身をよじった。
「私もあなたのもとに生まれて、そして今、あなたの側にいることができて、心より幸せを感じております」
女性の声に偽りの色は一切なく、昇りつめんばかりの歓喜に満ちている。男は肩越しに彼女へと視線をやり、満足そうに歪んだ笑みを浮かべると、すぐに目を窓の外に戻した。
外は相変わらず嵐が吹き荒れている。風が強く、木の幹が悲鳴をあげながら激しく揺さぶられている。一陣の風が建物に強く吹きつけ、窓ががたがたと呻くような音をたてた。
「グリフィン」
「はい。なんでしょうか」
振り向かぬまま男が発した声に、女性は目を輝かせて応じる。どうやらグリフィンというのは彼女自身のことを指しているらしかった。彼女は自分の名前が呼ばれたことだけで浮つき、喜びを全身で咀嚼しているかのようだ。手をもじもじとさせ、彼の口からどんな言葉が継がれるのか期待の眼差しを向けている。男は手を後ろで組むと、胸をわずかに反らし、その目を細めた。
「お前のきょうだい達も、そろそろ調整が完了したことだろう。消息不明のナインに代わって、お前が私と他の奴らとを結ぶ渡し船の役割を担ってほしい。頼まれてくれるだろうか」
「それはもう、願ってもいないお言葉。是非喜んで、その役割、引き継がせていただきます」
女性は感激のあまり声を震わせ、涙ぐんでいる。男は指の腹で窓を小突いた。
「そう言ってくれるとありがたい。頼む。私はあまり、外界をうろちょろできる立場にないのでね」
雷が降り注いだ。轟音が渦巻き、空気がぴりりと痺れるような振動を帯びる。
稲光の照り返しを浴びながら、男は光の中で表情に影を浮かせた。
「さて、彼女はどこまで成長してくれるかな。お前を満足させるくらいまで、育ってくれれば万々歳なのだが」
グリフィンと呼ばれた女性ではない、この部屋にいるもう1人の人物に向けて男は言う。暗がりの部屋にうごめくその影はとても小さく、細かった。女性はそちらのほうを振り返り、畏怖と嫉妬の入り混じったような表情を浮かべる。目を眇めるその眉間には、わずかながら皺が刻まれていた。
そんな彼女の視線など気にもかけず、部屋の片隅にある小柄な影は冷たく笑った。男は首を捻ってそちらを見やり、微笑みを返す。それは大人が顔に出すにはあまりに不相応な、少年じみた無邪気な喜びの表情だった。
魔物の話 35
自分の心臓に吸い込まれるようにしてたどり着いた、その薄暗がりの中で、レイは鳥の形をした大きな影と出逢った。
つま先から伸びた自分自身の影が地面から剥がれ、起立している。レイはそんな感想をまず抱いた。目の前に黒々とそそり立つそれは、闇色でできた巨大な建設物のようだ。レイがこれ以上先に進むことのないよう、それは全身を使ってレイの行く手を塞いでいた。
胸の中に落ちてきたとばかり思ったが、心音が周囲から反響してくることもなければ、生温かな感触が肌を伝うこともない。音もなく、寒くもなく、あたりは蝋燭で照らした程度の淡い光に包まれていて、視界に留まるものといえば、やはり影で形作られた鳥以外にない。
レイは鳥を見上げる。鳥も首を下向かせ、レイを見ていた。鳥の輪郭はおぼろげだったが、その表情ははっきりと判別することができた。瞳を震わせ、気遣うように首を傾げている。
大丈夫か。
男女のどちらともとれない奇妙な声が、耳ではなく頭の深くに届く。首を捻らすようにして周囲を探り、その後で目の前の鳥に視線を戻す。その影の裂け目で区切られた、鋭い眼差しを見ているうち声の主がこの鳥であるという事実に至った。しかし驚きは大してなく、自分でも不思議に思うほどに、その事実に納得する。
レイは背後を振り返った。
光に掬われるようにして自らの足元から伸びた、人の形をした影がそこにはある。さらに視線を遠くに向けると、歩いてきた道のりを示すように、埃で区切られた無数の足跡が見える。それが、自分が自分であることの何よりの証明であるかのようで、妙に安心感を覚えた。
大丈夫。
鳥を見上げ、レイは静かに答える。力に呑み込まれることはなく、この体に巡る怪人の血に支配されることもなく、人の影を宿しながら生きていくことができる。これほど嬉しいことはない。
鳥は静かに顎を引いた。するとその形自体がおぼろげになっていき、周囲の景色もどろどろに溶けていった。
光と闇が混じり、幾何学模様が脳裏を巡る。そしてレイは足元が軽くなり、その身が浮きあがっていくのを感じた。感覚の世界から離脱し、現実の世界に戻っていくことを瞬時に察する。
影の鳥が自分の体と重なり合い、心音が昂ぶっていくのを感じながら、レイはゆっくりと瞼を閉じる。瞼の裏から、強い光が沸き上がってくるのがはっきりと分かった。
体温が体に舞い戻り、音が耳に帰ってくるのを感じると、同時にレイは目を見開いた。
雨が頬を叩き、髪を濡らす、その匂い。腕には滲むような痛みがある。寒気が背筋を這い上る。雷鳴が瞬き、大音量が耳をつんざく。
これが現実か、とあらゆる感覚を通じて気付かされる。
レイは意識するよりも先に、自分に馬乗りになり、その赤い双眸をこちらに近づけてくるベルゼバビーのわき腹を鋭く蹴りやった。その一撃だけで、まるで風に吹かれる藁半紙のように、ベルゼバビーは情けない声をあげて地面に転げた。そちらを一瞥することもなく、降りしきる雨をくぐるようにして、足元を確かめながらレイは立ち上がる。
キャンサーとケフェクスが身を凝らせ、息を呑んで、声もなく、こちらを見ている。レイはそちらに顔を向けることもなく、肌でその視線を感じた。2人の抱えた恐怖と動揺が手に取るように分かる。それが自分に向けられているものであるという事実に、レイは心の底から満足感を覚えていた。
レイの身を闇が取り巻いている。
無明の夜闇ともまた違う、純度の高い宝石のような美しさのある黒だった。それがとぐろを巻く蛇の如く、レイの周りを引きずるような音を立てながらゆっくりと回転している。その背後には、巨大な黒い鳥の翼が左右に広がっていた。
その黒のさざめきに呑み込まれるようにして、周囲から霧が少しずつ消失していく。風もなく取り払われていく濃霧の向こうから、巨大な建物のシルエットが見えてきた。
それはヒビの入った壁に幾重にも蔦が巻き付き、窓ガラスの多くは割られ、カラスが声をあげながら出入りしているような、寂れた風貌を持つ、時間に取り残された一軒のホテルだった。
場を埋め尽くさんばかりの霧から暴きだされた、そのホテルの威容を見上げると、それからレイは再び2人の怪人に視線を戻した。
レイは背中に少しばかりの力を入れた。肩甲骨のあたりから伸びた羽根を力強くはためかせ、飛翔しようとする――そんなイメージを載せ、全身の筋肉を解き放つ。
するとその背に輝く翼から、溢れんばかりの黒い光が吐き出され、それはキャンサーとケフェクスの全身を瞬く間に撫でていった。
レイは体を内側から焼かれるような痛みと熱を覚えた。吐く息もどこか焦げ臭いような気がする。目の奥が熱く、肌が内側から針のむしろで突かれているような感覚も伴っている。
どこか意識を遠くに吸い込まれるような感覚の中で、レイはどこか他人事のようにその痛みを受けている。快感とまではいかないものの、心地よくはあった。この苦痛だけが自分の存在を今に繋ぎとめる役割を担ってくれているかのような、そんな気さえした。
光はレイを中心とした360度、全方位に射出された。
吐き出された黒い閃光が霧を完全に追い払い、雨粒さえも掻き消して、周囲に散る。レイの背に浮かぶ巨大な翼もまた、なお一層、その輝きを増した。
天と地を焼かんとするかのような強烈な光が止み、レイはスッと深く息を吸う。その吐息を肺の底から吐き出しきる頃には、すでに異変が始まっていた。
キャンサーの手から、鋏が零れた。バランスを失ったそれは横に倒れ、ガンディの顔のすぐ脇に落ちる。彼は小刻みに体を震わせながら、しかし、鉄の鎧でも着込んだかのようにぎしぎしと鈍く腰を捻らせながら、苦悶に顔を歪ませる。
「どうしたんだ。急に、体が!」
「動かない。まさか、これが……」
ケフェクスは慌てた様子で手中から炎を発生させようとする。しかしその掌には、火花に毛が生えた程度の火がくすぶるだけで、そこから先ほどのような火炎弾が生まれることはなかった。先ほどまで手に持っていたはずの炎で形作られた剣も消失している。彼は思うように動かない自らの体に身悶えながら、苦しげに口元を曲げると、レイを睨みつけた。
「これが、最高の怪人のもつ力の真髄なのか!」
まるで自分の体を動かすための制御回路が壊されてしまった、とでもいうかのように、キャンサーとケフェクスは声から伝わる必死さに反して、ぎこちなく身を震わせるだけだった。右手1つ上げることをとっても、非常にゆっくりと、体全体を震顫させながらやっとの思いで遂げている。そんな様子だ。
それは間違いなく、レイが先ほど放った黒い光の力だった。
最高の怪人のもつ力の真髄。レイはケフェクスの言葉を噛みしめるようにしながら、これが新しい自分の力であるということを頭で理解する。自分の掌をそっと見つめ、それから指1本1本を折るようにして、または伸ばすようにして開閉を繰り返した。先ほどまで疾風怒濤の勢いで、場の空気を席巻していたキャンサーとケフェクスを1人で制止させているということにまだ自覚は足りなかったが、自分が仲間の窮地を救うことができたことに対して、心の奥で膨らむような大きな喜びを感じていた。
「やったぜレイちゃん!」
キャンサーの腹を蹴りやって後ろに押し退かせると、ガンディは声をあげながら起き上がった。まだその足元は若干ふらついてはいたが、立ち上がるがいなや、拳に力を載せ、キャンサーの顔面に強烈なストレートを打ち込むその姿からは、憔悴した様子は微塵もない。
「ナイス非現実! やっぱり君は最高だ。俺の魂をいつだって、燃やしてくれる。俺も頑張んなきゃいけないよなぁ!」
相変わらず動きの鈍いキャンサーに、拳を2発、蹴りを3発、間断なく攻撃を重ねていく。宙を浮いた黄金の怪人の体は、激しく水飛沫をあげながら、地面に落ちた。
「ケフェクス……」
低く、腹の底を震わすような男の声が響いた。それは激しい雨音にも紛れることなく、明瞭な形を持ってレイの耳にも届く。目をやると、白ずむ景色の中に立つ、狩沢の姿があった。右腕の包帯は解かれ、そこから露出した惨たらしい火傷の傷跡が雨に打たれている。唇の端や額からは赤い血が、零れていた。それもまた雨に混じり、地面に流れ落ちていく。
「いや、段田」
「狩……沢」
敵の名前をわざわざ言い換えた狩沢の声は、少しも揺るぎがなかった。彼の眼はおそらく眼前の馬型怪人ではなく、その向こうにある親友の幻影を見つめているに違いない。テンガロンハットの男、段田右月の声で苦しげに狩沢の名を呼ぶケフェクスを前に、狩沢は、その眼光に空を貫かんばかりのしたたかな光を宿した。
「決着を、つけるぞ」
狩沢は静かに呟き、メイルプレートを握った腕を前に突き出す。足元から噴きだした強烈な光に包まれながら、彼は決意と共に、エレフの装甲を纏った。
鳥の話 35
※※※
雨雫に晒された感覚が、わずかに痺れを帯びている。
空に広がった黒い鳥の翼と、急激に萎んだ霧の世界。それらの影響でしばし息を止めた時間の中をZ.アエルが駆け抜ける。
彗星の如く尾を引いて、白い直線としか認識できない速度で狼の着ぐるみ、ゴンザレス目がけて突進していく。
その体がゴンザレスのすぐ脇を通過した。一定以上の距離をとって背中合わせに2人は立つ。
そしてわずかな時間を置いて。
ダガーを持つ手を下ろしたZ.アエルの背後で、ゴンザレスの左腕がちぎれ飛んだ。
水たまりの中に着ぐるみの腕が音をたてて落下する。その水面を震わせる、どこか不気味な響きをきっかけにして時間がうっすらと溶けだしていった。
彼女たちの対峙する、すぐ脇の地面へと空から墜落してきたダンテは突っ込んだ。ぬかるみを高く跳ね、草をむしりとるようにしながら、彼はまるで水切り遊びで水面に投じられた小石のように、地面に身を擦りつけながら吹き飛んでいく。
その後を追うようにして、続けざまにS.アルムが地上に降り立った。そしてうつ伏せになって倒れるダンテの側に立つと、それからZ.アエルと対峙する狼の着ぐるみを見つけ、怪訝な顔を浮かべた。
「……着ぐるみ、だと」
「……ゴン太? なんで、ここに」
憔悴しきった様子で、よろめくように半身を起こし、ダンテが言う。S.アルムはまだ喋る元気があったのかと言わんばかりに舌を打つと、彼の背中を力いっぱいに踏みつけ、その腹を泥土に押しつけた。
「さすがだね。やっぱり、口だけじゃないみたいだ。さすがだね」
ゴンザレスは突然空から降ってきた2人に視線も興味もくれず、Z.アエルに背を向けたまま、いつも通りの口調で言った。腕を切断されたにも関わらず、その声に苦悶の色はほとんどない。Z.アエルはダガーをその手に握ったまま、ゆっくりと首を捩って背後を窺った。
――そして彼女は息を呑んだ。その目がゴンザレスの腕に釘付けとなる。
「でもね。ゴン太くんだって、負けないよ。一回は一回、だよね」
ゴンザレスのちぎれた腕。
水たまりの中に沈んでいるそれがつい数秒前まで繋がっていた、着ぐるみの腕の断面から、成り代わるようにして新しい怪物の腕が生えていた。
青く滑らかな体表。よく見ればその質感は人間離れした、鉱石のような輝きをもっていることが分かる。指から伸びる爪は長く、その爪先には赤い灯がともっていた。腕の中から怪物の手を出現させたゴンザレスは薄い血管の浮いたその二の腕を上げ、背後のZ.アエルに向けて人差し指を振った。
「そしてね。肉を切らせて骨を断つ、ってこういうことだよね」
ゴンザレスの指摘をした瞬間、Z.アエルの右腕から血飛沫が舞った。彼女は息を呑んで、自分の腕に開いた傷口を見つめる。鮮血は高波のように噴き出すと、水たまりを赤く濁らせた。
そして、それだけでは終わらなかった。逆の手で傷口を抑え込み、ゴンザレスを睨んだZ.アエルの眼前を真紅の輝きが横切った。それはシャボン玉のようにも見える、赤い球体だった。ざらついた粒子を帯び、湿った空気の中でゆっくりと明滅している。
Z.アエルはそれを見つけるなり、再びハッと息を呑んだ。傷口から手を離し、その球体に腕を突き伸ばそうとする。
「じゃあね」
ゴンザレスが笑顔で言い放った次の瞬間、Z.アエルの体が強烈な光に包まれた。赤い球体は膨張を始めたかと思うと、突然、光を吐き出しながら破裂したのだった。膨れ上がり、柱のように持ち上がった閃光の中に、Z.アエルの体は吸い込まれていった。
「ボス!」
「華永!」
彼女が光の中に消えた瞬間、同時に2人の男の声が響いた。
先に動いたのはダンテだった。ダンテは注意のうつろいだS.アルムのわき腹を、腰を捩って蹴り飛ばし、さらに起き上がるのと同時に、その腹部をしたたかに殴りつけた。
彼の首元からはわずかに赤く、唸るような光があがっている。ダンテは腹部の刺し傷などものともせず、むしろ健康な時以上の機敏で力強い動作をみせると、ゴンザレスとZ.アエルが対峙する場所へと駆けだしていった。
「……ボスに、近づくなと、言っただろうが!」
殴られた腹を抱えながらも、顔を起こし、S.アルムは口をあんぐりと開くと、ダンテ目掛けて白濁液を吐き出した。その粘ついた液体は彼の背中に覆いかぶさった。
溶解性のある液体を雨と一緒に降りかけられ、ダンテは苦悶の声をあげながらわずかによろめいた。装甲が白い煙をあげて溶け、肩が崩れ落ち、そこから伸びていた光の翼が消失する。それでもダンテは走ることを止めず、ゴンザレスに掴みかかった。肩を抑え、顔を自分の方に力ずくで向かせる。
「お前、ゴン太なのか……」
拓也の問いに、ゴンザレスは怪物の腕で鼻の頭を掻き、答えるのも面倒そうだった。ダンテは彼の、そのあまりに人間離れした腕を指差し、声を震わせた。
「その腕は、なんだ。お前も、まさか」
「うるさいなぁ。なんだっていいじゃない、そんなこと」
ゴンザレスはがらがら声で、不快を顕わにする。それから「先生に人を指さしちゃダメ、って教わらなかった? ゴン太くんは、悲しいよ」とわざとらしく天を仰ぎもした。その動作1つ1つに、ダンテを小馬鹿にするような悪意が込められている。
「それに、今はそんなことよりも。残念ながら、彼女がまだ生きていることの方が、大切なんじゃないのかな」
彼が発言した次の瞬間、ダンテの背後で大きく膨らんだ光の中から、爆音とともに、土煙と白い粒子を巻き上げながら、何かが飛び出した。それは確認するまでもなく、全身に傷を作ったZ.アエルだった。
神々しいまでの美しさを披露していた装甲はひしゃげ、くすんだ色に変わっているものの、それでもあの爆発に巻き込まれたにしては、かなりダメージは少なかった。
しかしその判断は、右腕を除いた場合に限る。
斬り裂かれた跡に爆発を浴びた右腕のダメージは、突出して大きかった。まるでそこだけ体の管轄から外れてしまったかのように、肩からぶら下がっている。その手首に装着された石板からちらちらと白い粒子が立ち昇っている。ほとんど無傷の左腕にダガーを1本握り締め、粒子を悉く発散しながら、Z.アエルは荒い呼吸を言葉に変えて、ゴンザレスに躍りかかった。
「華、永!」
ダンテは振り返ると、鬼気迫る勢いで突っ込んでくるZ.アエルを正面から受け止めた。まるで土俵際の力士のように、腰を落とし、足を踏み込み、彼女の胴に腕を回して、ダンテは必死にZ.アエルの体を引き留めようとする。
しかしダンテも必死ならば、Z.アエルも死に物狂いだ。彼女は無言だったが、その呼吸は荒く、黒々とした怒りと憎悪を宿していた。
Z.アエルは喉から金切り声があがる。そして彼女は、ダンテの脇腹にダガーを深々と突きたてた。
うっ、と呻く彼の体から力が抜け落ちた。両膝を地面に落とし、だが、それでも、Z.アエルを掴む腕は緩めない。彼女に縋りつきながら、必死に懇願するような視線で彼女の顔を見上げる。
「華永……止まれ、止まってくれ!」
「なるほど。粒子で爆発の威力を軽減したんだね。ま、この程度、君が相手なら驚くこともないけどね」
まるで何かを分析するような口ぶりで、ゴンザレスが唸る。着ぐるみの右手で、怪物の左手首を撫でつけながら、力を拮抗させあう2人を眺めているその姿は、あたかもその光景を他人事だと言い張るかのようだった。
「ゴンザレス、どういうことだ……こいつは俺に任せてくれると、そう言ったじゃないか……」
足元に血だまりを作りながら、ダンテは擦り切れた声を雨音に滑り込ませる。ゴンザレスはその巨大な頭をぐらりと傾げると、それから彼をあざ笑うかのように肩をすくめた。
「みんなが、あまりにも不甲斐ないからね。それにゴン太くんもマスカレイダーズのメンバー、なんだよ。じれったくて見ていられるわけないじゃない。ま、こういうことになるとは、予想していたけどね、最初から」
彼の発言に脱力したダンテの体から光が失せていく。散り散りとなり、宙を舞う光輝はまるでその命を空に運ぶシャボン玉のようにも見えた。
そして薄らいだダンテの下から現れたのは、体中を血で汚した速見拓也だった。S.アルムに突かれた左目の瞼は大きく腫れあがり、溶解液をまともに浴びたその背の皮は剥がれ、爛れている。その腹部はZ.アエルのダガーによって貫かれている。しかし、その手だけは彼女の肩を強く掴んだままだった。
「やっぱり、先生だったんですね」
「華永」
Z.アエルは静かに、彼の生徒、華永あきらの声で呟いた。拓也は彼女の肩を強く握りしめながら、瞳に光を取り戻した。鬼神の如き気配を滲ませていたあきらが、ようやく自分の知っている彼女に戻ってくれたことに、安堵を覚えたに違いない。少しずつ、彼の両の手から力が抜けていくのが分かる、その唇に笑みが広がっていく。
「そうだ、俺だ。お前の担任の、速見、拓也だよ」
雨と血に濡れた顔で、それでも彼女を安心させるかのように、彼は笑む。だがその目元は潤んでおり、結果、拓也は顔を引き攣らせるようにして半分泣き、半分笑っていた。
「やっと、お前に会えた。お前と、話したかったんだ。帰ろう。こんなところに、いちゃ、ダメだ」
その途切れ途切れに紡ぐ言葉は、彼女の魂に訴えかけるようだった。その間にも腹を穿つダガーの端からじわりと血が溢れだしていたが、目の先に希望を見出した彼にとっては、腹を裂く痛みでさえも遠い存在であるらしかった。
「お前を、待っている人がいるんだ。お前を愛してくれる人も……。だから、もう傷を重ねるな。お前が傷つくことで、悲しむ人がいるんだから」
Z.アエルは拓也の言葉に、無言のまま耳を傾けていた。それからゆっくりと首を傾け、涙ぐむ拓也の顔をじっと観察するように見つめる。
そして彼女の口から発せられた言葉は、拓也の表情を一瞬で凍りつかせた。
「話は、それだけですか?」
Z.アエルを取り巻く空気が魚眼レンズを通した見た景色のように、歪んでいくのを拓也は目にしたに違いない。
それからはもう、彼女は拓也と視線を合わせることはしなかった。
Z.アエルは容赦なく、拓也の体からダガーを引き抜いた。その傷口からおびただしいほどの血液が噴き出し、透明な雨雫を赤く染めると、拓也は目や鼻腔をいっぱいに開いて、声にならない叫びをあげる。
「無様だね」
ゴンザレスがのたうちまわる拓也を見つめ、心底楽しげに言った。
あきらの名をうわ言のように呼びながら、拓也はずるりと地面に倒れ込み、そのまま動かなくなった。Z.アエルは彼の体液で赤く染まったダガーの刃先を肩で拭いながら、体の下に血の海をじわり、じわりと広げていく拓也を見つめる。それから顔をあげると、雨音に負けない大音量を胸の奥から吐き出した。
「アルム!」
ダメージを重ねられ、触角を失った蟻のようにたむろしていたS.アルムは彼女に呼ばれたことを知り、首を数回振るって意識を取り戻すと、彼女の方に顔を向けた。
「はい、ボス」
「ホテルをお願いします。この人たちを、こいつらを、黄金の鳥に近づかせるわけにはいかないんです! 早く!」
「ボス、それは」
S.アルムは言い淀むと、当惑した様子をみせた。その目は、血だまりに倒れ伏す拓也を見つけ、それからその側で笑うゴンザレスに移った。明らかにこの場所から離れることに、躊躇を感じている様子だった。なぜここで自分が引かなければならないのか、という不満と、彼女への忠誠心が彼の中で争っているに違いない。
「ここはいいから、行ってください。……ボクも、すぐに後を追いますから」
だが、Z.アエルは彼に予断を許さなかった。彼女の一言は空気を確かに震わせ、強く握りしめられたような緊張感を周辺に拡散させた。再び時が、少しの間だけ止まる。沈黙がこの場に鎮座する。
時計の針が動きを再開したのと同時に、S.アルムは地上をきょろきょろと見回し、逡巡した様子を見せ、それから苦悶の表情を浮かべて頷いた。
「でも、ボス、俺は」
S.アルムはゴンザレスを見つめ、歯噛みをしていた。マスカレイダーズを目の前にしてなぜ自分が退かなくてはならないのか納得がいかない、そんなセリフが彼の顔に書かれているかのようだった。
しかし動揺をみせる彼に向けて、Z.アエルは口を開いた。それはつい数秒前までとは違う、義憤も憎悪の限りなく薄まった、慈愛の言葉だった。
「もう、関係ない人たちの幸せが、命が、こんな人たちのために奪われちゃいけないんです。ボクたちは、そのためにずっと戦ってきたんです。だから……お願いします。ここはボクがやりますから、あなたは、あのホテルを守ってください」
ぜえぜえと呼吸を鳴らす、その間から絞り出される強い口調。しかしZ.アエルの言葉は優しさに満ちていた。まるで木漏れ日を彷彿とさせるような、温かな日射しを感じさせた。
S.アルムにはまだふっきれないものがあるようだった。しかしそれでも、彼は身に纏わりついた重い荷物を振り払うようにして、空中をくるりと回転し、背を向けた。もはやこちらを振り返ることなく、翼をバサバサとはためかしながら、ホテルの方向へと一目散に去っていく。
「随分な言われようだね。心外だよ。命を弄ぶお前たちにだけは、そんなセリフ吐かれたくなかったね」
飛翔していくS.アルムに、ゴンザレスは怪物の左腕をかざした。その掌中に真紅の輝きが集中していく。
その輝きはまるで滴る血液のような、または、万物を舐めつくす灼熱の火のような、不吉なイメージを孕んだものだった。光は彼の掌中で螺旋状に渦巻き、赤色の光線となってS.アルム目がけて放たれた。
「……だから、邪魔は、させないよ」
赤い尾を引き、それは直線の軌跡を描いてS。アルムに追いすがっていく。彼は前進することに夢中で、自分に接近していく魔の光に気がつかない。その身を鋭く、光線が貫かんとする。
しかしすんでのところでS.アルムに光線が到達することはなかった。Z.アエルは力任せに拓也を振りほどくと、軽く腰を捻り、左手のダガーをまるでブーメランのように投げつけたのだった。ダガーは薄闇の下を飛び去り、光線をすげなく打ち落とした。ダガーは中空に咲いた赤い花に巻き込まれ、木っ端微塵に破砕される。
攻撃から逃れ、ホテルへの帰還を成功させたS.アルムのシルエットを見つめながら、ゴンザレスはそっと着ぐるみを揺らした。
「ゴン太くんの相手は、やっぱり君かな、華永あきらくん?」
「デビルズオーダーのリーダーとして、ボクは、あなたを倒します」
純白の粒子を掌にかき集め、先ほどのゴンザレスと同様にZ.アエルは白く彩られた光線をそこから撃ち放つ。ゴンザレスは至極落ち着いた動作で青色の腕を前に伸ばすと、そこから赤い粒子を迸らせ、応戦する。
正面から激突し合う2つの、異なる色の光。混ざり合い薄い桃色と化した光が視界を埋め尽くす。
「リーダーなんて、随分、偉そうな響きじゃない。許せないね。君みたいな生意気な子どもは、森の仲間たちも、ゴン太くんも、大嫌いさ」
「ならちょうどいいですね。ボクも、あなたたちのこと、大嫌いです」
Z.アエルは負傷した右腕を庇うように、体を捻り、回し蹴りを打ちだす。ゴンザレスは軽やかな動きで背後に跳躍すると、再び赤い光線をその手中より解き放った。
「君は目ざわりだよ。消し飛んじゃえばいいんだ」
※※※
魔物の話 36
※※※
重く、低く、鈍い音が周囲に弾ける。皮を叩き、肉を突く、耳を塞いでしまいたくなるような迫力に満ちた音だった。
エレフの鉄の拳が幾度となく、思うように動けないケフェクスを打ち据えている。
つい数刻前、黒い鳥の羽をレイが己に刺す前までの光景とは、まったく形勢が逆転している。成す術もなくケフェクスは殴り、蹴られ、無残な姿でぬかるみに転がりこむ。もがくように足を掻き、ようやく立ち上がった途端に、歩いて近づいてきたエレフの繰り出したボディーブローを体に突き立てられて押し倒される。その繰り返しだった。
泥の海であがくケフェクスの吐息は震え、その口からは苦痛の声が漏れている。胸に深々と刻まれた傷跡がエレフの攻撃によって徐々に開き始め、その痛みに悶えているのだ。エレフ自身もケフェクスのウィークポイントを狙わない理由はなく、その箇所に攻撃を集中させている。元よりその傷は、船見家の地下でエレフが負わせたものだった。
起き上がるケフェクスにエレフは素早く詰め寄る。剛腕を振るい、相手の右腕を一撃でへし折った。さらに上腕を捻ってのアッパーカットを顎に叩きこみ、その口から砕けた歯の破片を空に撒き散らかせる。
攻撃を浴びせかけられる続けるケフェクスはもちろんのことだが、エレフもまた拳を突き出す度に足元をふらつかせ、失いそうな意識を繋ぎとめるかのように頭を何度も振っていた。そんな彼の背中に勝利の昂揚はみられず、ケフェクスの身を打つたびに、その体には悲壮感が積み重なっているかのようだった。
ケフェクスの手から炎が放たれる。
しかしそれは以前ほどの威力は全く見受けられず、マッチの火種のような瞬きが宙を舞うに留まってしまう。エレフは胸郭を覆う厚い装甲で、それを受け止めると、腰のホルスターから銃を抜き去った。そして構える暇さえ惜しみ、狙う必要性も感じないとでも言うように、即座に引き金を引いた。衝撃音が空気を破り、ケフェクスの体を弾丸が貫く。破裂音が硝煙とともに空に立ち昇ると、ケフェクスは体中の力が抜けてしまったかのように両膝をついた。
ここでもエレフの攻撃は胸の傷跡を一寸のズレもなく、正確に射抜いていた。蜘蛛の巣が張ったような傷口は、打たれたガラス窓のように肉片をケフェクスの足元に零している。胸に描かれていたはずの馬の絵はもはや原形を留めてはいなかった。もしこれが人間なら、彼は自分自身の血だまりの中で溺れていたことだろう。
しかし怪人から、血液は流れない。だから体の不調と、傷の大きさだけが、ケフェクスに与えられたダメージの深さを知るための手がかりとなっている。
「まさか、ここまで俺がお前に追いつめられるとはな」
銃口を突き付けたまま歩を進めるエレフに、ケフェクスは荒い呼吸混じりの声を漏らす。
さらにエレフは惜しみなく、無慈悲に引き金を引く。銃口から、さらに着弾したケフェクスの体から、続けざまに小さな爆発が起きる。空気が爆ぜると同時に、彼の右腕がちぎれ飛んだ。
えずくような悲鳴を口の中にこもらせるケフェクスの左腕も、同様に吹き飛ばす。さらに今度は右足を木っ端微塵に砕いた。そしてエレフは小さな唸り声をあげ、銃に備えられたダイヤルを回転させた。
「さようならだ、ケフェクス」
直後、その右腕にはちきれんばかりの光が滾る。銃をホルスターに収めると、降りしきる雨粒を蒸発させながら、ケフェクスにその拳を振るった。
「だが、まだだ……まだ、終わりにするには、いささか切ない」
五体の内、両の腕と片足を失いながらも、ケフェクスの闘志は少しも萎えてはいない。残された片膝をたて、絶妙なバランスをとりながら、その両肩に二対、四本備え付けられている“馬の足”がロボットアームのような正確さと、諾足のような力強さを併せ持って、エレフの拳を正面から受け止めた。
その手から膨らんだ光は、ほんのわずかの間、進行を塞いだ4本の足と拮抗していたが、やがてエレフとケフェクスの間に、破裂を生み出した。
4本の“馬の足”は爆発に裂かれて、1つ残らず吹き飛ばされ、さらに飛散した衝撃波がエレフをも背後に薙ぎ払った。
ケフェクスの顔面は潰れ、その体は半ばから大きく裂けた。まるでへこんだピンポン玉のように予測不能な軌道を描きながら地面を跳ね転がり、ようやくその体が制止したと同時に、それを眺めていた狩沢の体からエレフの装甲が霧散した。
多くのダメージをひたすらに受け続けていたエレフの装甲は、再装着を行ったときには。すでにその構成の維持に限界を迎えていた。
一度強制的に装甲を解除された直後にもう1度同じものを纏うこと事態が、本来想定されていないことでもある。そんな不安定な状態で大量の光を一度に放ったものだから、装甲を維持することができなくなり、狩沢の身から勝手に離れ、消滅してしまったのだった。
全身に青あざを作った狩沢はプレートを握りしめ、雨に打たれている。その悲しげな視線の先には、ぴくりとも動かないケフェクスの肉塊があった。
短く切りそろえた黒髪を艶やかに光らせ、岩のような腕に雨雫を浮かべて、彼は熱のこもった息を整えている。
あちこちから聞こえてくる、爆発音、破裂音、金属同士が激しく激突する甲高い音、それらを含めた戦闘音を背に、狩沢は自分の手でその肉体を砕いた怪人をまるで悼むように、スッと目を細め、押し黙る。
そんな狩沢の前で、突然、ケフェクスの体に異変が起こった。
腕と片足を失って転げるケフェクスの輪郭が急激に薄らいでいく。そのむらのなかった黒い体色は灰色から白へと、色が抜け落ちていき、やがてイメージそのものもぼんやりしたものへと移ろいでいった。
思わず身を引いたエレフの前で、ケフェクスの姿は掻き消え、代わりに人間の男が姿を現した。頭に浅く被ったテンガロンハット。白く胸元にワンポイントの入ったTシャツと、黒いスラックスはどこか精錬としたイメージを見る者に抱かせる。
腕も足も、元の通り存在している。男は雨雫を払いのけるようにして身を起こし、両足でその地に立った。ゆっくりとあげた顔は、雪のように白く、目は糸のように細い。その相貌はどことなく狐を彷彿とさせるものだった。
狩沢は彼には珍しく、たじろいだ。
その男こそ、狩沢の親友であり、4年前にその生涯を終えたはずの人間、段田右月に違いなかった。
「どういう、つもりだ」
狩沢の声に感情が灯る。それは憤怒だった。声音をわずかに震わせながら、彼は親友と同じ姿をしたその男を睨んだ。
「そんな姿になっても、もう、俺の心は揺らがない。お前は、段田の名と姿を騙る、ただの化け物だ」
「あぁ、その通りだ」
段田は軽やかに笑い、テンガロンハットのつばを指先で撫でつけた。その頬が軽くへこむ。
「今の俺は馬の怪人、ケフェクスでもなく、もちろん段田右月というお前の親友でもない。俺はただの記憶だ。怪人にも人間にも成りきれない、カニかまのような化け物だ」
段田は自分の掌のそっと目を落とした。その瞳は冷やかなほどに悲しげだった。狩沢は無言で親友の姿をした虚像の話に耳を傾けている。
「安心しろよ。おそらくもう1度ケフェクスの姿に戻ったら、俺はその瞬間に死ぬだろう。俺がいま、息を乱さずに喋れ、傷1つなくお前と顔を合わせていられるのは、この姿が単なる記憶だからだ。死んだ段田右月の記憶。だから年も4年前からとらないし、4年前以降の記憶も、俺には、ない」
段田はゆっくりと立ち上がった。あれほどの猛攻を浴びていたにも関わらず、彼の動きは実に滑らかだった。その表情は長年背負い続けてきた重荷を取り去ったかのような、軽やかさに満ちていた。
段田は顔を隠すようにテンガロンハットのつばを引くと、口元を緩ませた。
「そうだ。4年前に段田右月という男は死んだ。新宿の事件。あの爆発に巻き込まれてな。はめられたんだ。いや、罰が当たったというべきか。その死の瞬間まで、俺は明瞭に覚えている。正直、死ぬのは、怖い」
「お前は、あの事件の首謀者の、1人だったはずだ」
「お前達からもそう見えていただろ? 俺もそう思っていた。だが実際は違った。俺はただの捨て駒だった。あの女に、はめられたんだ。まさか、あいつがもう死んでいるとは思いもしなかったけどな」
段田は眉をあげる。豪雨に晒されて色の滲んでしまったハットを大事そうに被り、狩沢に歩を進めてくる。足元でぴちゃぴちゃと泥が跳ねた。
「生きていたら、驚かせてやれたのに。お前に復讐するため、地獄から這い上がってきたってな」
「あいつは、そんなことじゃ、驚かないだろう。亡霊を引きつれているような、女だったからな」
段田と狩沢との間にある隔たりは、わずか数メートルに縮んだ。しかしその心に、魂に空いた隙間はどれほどの時間を要しても埋まることはないのだろう。それが生者と死者との間に横たわる、縮まりようのない間隙に違いなかった。
「1つだけ、お前に謝りたいことがある。お前の中の親友像を汚しちまって、悪かった。これだけは申し訳なかったと思っている」
「お前は、二条裕美を、父と言った。つまり、段田は奴に」
「いや、お前らが目にした通りだ。段田右月はあの事件で死んだ。それからどう巡ったのか俺には知る由もないが、どうにかして、二条裕美のもとに段田の死体が渡り、そして」
段田はそこで一旦言葉を切り、もう1度自分の掌に視線を落とした。そこに刻まれたいくつかの曲線は、段田右月が生きてきた軌跡を何よりも如実に物語っているようだった。
「そして、俺が、生まれた」
「二条裕美は、ここにいるのか」
狩沢は段田に強い眼差しを向け、すかさず尋ねた。段田は小さく笑うと、そっとかぶりを振った。
「それを喋るわけにはいかない。言っただろ? 俺は死の怖さを知っている。その恐怖を大事な人にこれ以上味わってほしくはない。だからお前らに、あの人の居場所を、教えるわけにはいかない。たとえ、俺がその恐怖を再び味わうはめになったとしても」
「そうか」
狩沢も1歩、前に足を踏み出す。すでに手の届く範囲に、親友の姿があった。その親友の表情は、悲しくなるくらいに、笑顔だった。
「残念だ」
「なぁ、狩沢。お前はどう思っているか知らないが。俺はお前と出会えたこと、悪くはなかったと思っている。俺の中の段田も喜んでいたよ。本当に仲が良かったんだな、お前たちは」
ケフェクスはスラックスのポケットに手を突っ込むと、そこから何かを取り出した。それはパッケージに入ったカニかまだった。慣れた手つきでそれを破り、親指でパッケージのお尻を押してカニかまの頭を突出させると、それにかぶりついた。狩沢は特に動じることもなく、じっとそれを見守った。見守りながら、その唇から言葉を紡いだ。
「そうだ。だから、俺は躊躇した。あいつの姿をした、お前と、はじめは、戦えなかった」
段田がカニかまを噛みちぎる。一気に残りを口に含むと、もごもごと頬を動かし、ものの数秒も経たぬうちにすべて呑み込んだ。それから、「そうか」と短く応じた。
「それが、俺の甘さだ。段田は死んだ。俺は俺の記憶に、踊らされていた。だから、俺はお前を倒し、もっと強くなる。過去に取りこまれない、男になる」
「ナイスだ、狩沢」
段田はカニかまの入っていたパッケージを投げ捨てる。狩沢も手の中で握り締めていたメイルプレートを、力いっぱい背後にぶん投げた。
「兄上。父上を、俺の代わりに頼んだぜ」
段田が、狩沢にさえ聞こえないくらいの、ほんのささやかな声で呟く。その声は誰にも届かず、無情な雨音にかき消されていった。
その宙に浮かんだ言葉が、空に散っていくのを待つこともなく、狩沢の丸太のような太い腕が、段田の顔面を叩きのめした。段田はよろめき、だが不敵な笑みを浮かべて、狩沢の胸を拳で突き返した。
「俺の記憶の中にある。狩沢、お前と段田はこうして、7年前、スパーリングに励んだみたいだな」
再び狩沢の拳が段田の頬を張る。衝撃に揺さぶられた彼の頭からテンガロンハットが弾き飛び、泥土に沈んだ。段田は水たまりを足先で払いのけると、軽く駆けだし、隙のない飛び蹴りを狩沢のこめかみのあたりに埋めた。
「残念ながら、違う。これはただの、殺し合いだ」
つま先を頭に突き立てられても、狩沢の表情は相変わらず無愛想で、変わることはなかったが、その瞳に、声に、佇まいに悲愴が滲んでいた。狩沢が親友の虚像をその手で殴る度、親友の虚像に殴られる度、じわじわとその悲しみは狩沢を蝕んでいくかのようだった。
「今の俺は手ごわいぞ。なにせ、お前が相手にしているのは、お前の親友そのものだからな」
「だからこそ、意味がある」
狩沢はスッと息を吸い込むと、容赦なく、相手の腹に拳を突き立てた。ぐぅ、と段田は呻き声をあげ、体をくの字に折って後ずさる。追いすがるように、さらに狩沢はその顔面を殴り飛ばした。段田の体が浮き、水たまりの上に音をたてて落ちる。
「エレフではない。この俺の手で、お前を殴り殺す。それが俺の、過去との決別の方法だ」
段田は唇の端から流れ落ちる一筋の血流を手の甲で拭い、それから身を起こした。立ち上がった親友を狩沢はさらに打ちのめしていく。
だが、段田もやられてばかりではない。さらに襲いかかってきた拳に耐えると、段田は雨飛沫を貫くような右ストレートを狩沢の顔面に打ちこんだ。
2人の殴り合いは、しばらく続いた。
激しい雨音が地面を叩き、その視界さえもひしゃげさせていく。骨が折れ、肉が裂け、皮膚がへこむ、生々しい音が連打する。血飛沫が幾度も舞い、しかし、すぐに雨に流され、ぬかるみに溶け込んで消えていった。
雨脚が緩み、水たまりに広がる波紋もその数を減らした頃、そこには身じろぐことさえできずに横たわる、傷に塗れた2人の男の姿があった。
己の命を完全燃焼させ、雨に打たれる2つの肢体に、歩み寄る人影が1つ。黒い傘を差し、彼らを何の感情も語らぬ表情で見下ろすのは、肩にかかる程の長い髪をもつ青年だった。
彼はちらと2人を一瞥すると、深いため息をつき、それからホテルの見える方向へと足を向けた。
※※※
ざらつきのある黒い瘴気を身に纏ったレイは、自分に向けて射出されたその舌を難なくかわしていた。
その濡れた空気の中で玉虫色に光る、その舌の持ち主は小柄な体躯をもつ怪人、ベルゼバビーのものだ。
ベルゼバビーは背中に申し訳程度に付いた小さな翅を震わせ、敵対するものに的を絞らせない機敏な動作で、空を駆け回っている。
キャンサーやケフェクスの動きを封じ込めた能力も、ベルセバビーにはいまいち効果が薄いらしい。あるいは効果はあるのだが、それを超える潜在能力がこの怪人には秘められているということなのかもしれない。
どちらにせよ、そんなことはこの際どうでもよかった。もとよりレイの操作能力が効かなかった怪人でもある。新しい能力もそれほど通用しないことは、予想できていた。
動きを制限することに限界があるのならば、別の手段で攻めるまでだ。1つの失敗でいつまでもうだうだと悩んでいるのは、自分らしくないとさえ感じる余裕が、レイには生まれていた。
ベルゼバビーは、モチーフである本物の蝿よろしく、うろちょろと動きながらその合間を縫うようにしてその長い舌をまるで弾丸のように高速で飛ばしてくる。数刻前のレイならば、その攻撃の軌跡すら追うことはできなかっただろう。成す術もなく、自分がどのようにしてダメージを受けたのか、理解すらできぬまま殺されていたかもしれない。
しかし、今のレイは相手の攻撃の終始を二つの目で見切り、反応し、体を動かすことですげなく回避することができていた。舌による猛攻を、踊るようなステップでかわしていく。その度に足元で、泥水が音をたてて飛び散った。
「あたれー、あたれー!」
無邪気な声をあげながら、がむしゃらに地面を穿つベルゼバビー。レイはぬかるみを片足で踏みつけると、瘴気を引きつれ、怪人目掛けて飛び込んでいった。
舌がその口に戻っていく前に、渾身のストレートを腹に叩き込む。体重の軽いレイの放つ拳では、重い一撃は期待できない。しかし、ベルゼバビーの体勢を崩すことは可能だった。レイにとってはそれで十分だった。
うめき声をあげるベルゼバビーの首根っこをレイはむんずと掴むと、力任せに地面目掛けてその体を投げつけた。泥の飛沫があがり、怪人の小さな体はぬかるみの中に半身まで沈む。顔をあげようとするその背中を、レイは強く踏みつけた。その衝撃にベルゼバビーは再び顔面を土の中に打ち付ける。翅がバタバタと、蝿特有の耳障りな音をたてるが、その体は1ミリも浮くことはなかった。
自分の中で急成長したこの黒い鳥の能力を、レイはどこか俯瞰的な感覚で見下ろしている。
感覚で動いているわけでも、全てを理解した上で行動しているわけでもなく、かといって身体が勝手に意識を乗っとっているのとも違う。自分の意思で、しかし、自分ではないものの力で、レイはベルゼバビーの攻撃をかわし、瞬時に敵の懐に移動し、その腹に拳を埋めていた。
おそらくこの力の至るところまで熟知しているような気がした。この力はレイが生まれたその時から持っていた力。胸に宿り、長い間眠りについていたもう1人の自分が抱いていた力だ。
だからこそ使いこなせる自信がレイにはあった。そして今まで胸の中で膨らんでいく黒い鳥の影に、血管の中を流れる悪魔の血に、尋常ではない怯えを感じていた自分を今こそ跳ね除ける。黒い鳥は他の誰かではない。あの巨大な影も、かけがえのない自分の一部であることに気付いた。気付かされた。
自分のままで、変わること。それは自分の長所も短所もすべてをひっくるめて、受け入れることだ。レイが生まれてきて良かったと言ってくれた人がいる。レイが怪人であることを知っても、それ以前と同じように接してくれた人がいる。受け止めてくれた人がいる。だから今度は、自分が自分の正体を受け入れる番だ。
熱に浮かされるような思いで雨に打たれていたレイは、眼下に広がった光景にハッとなり、意識を現実に引き戻した。
同時に鼓膜をねじ切るような甲高い音が襲い掛かってきた。反射的に耳を押さえるレイの前で、ベルゼバビーの背中から光の円環が立ち昇る。その円環はレイの行動を先回りしたかのように、浮き上がり、その体を有無もいわせず跳ね除けた。
泥の中を転げ、それでもすぐに立ち上がったレイの前で、ベルゼバビーが中空に飛び上がる。レイは目の周囲に付着した泥を腕でふき取ると、全身泥にむらなく塗れた怪人と正面から対峙した。
「ぶんぶん。こんなことじゃ、へこたれないよー。今度はおねえちゃんが泥んこまみれになる番だよー」
「やれるもんなら、やってみればいいよ。負けないから」
「意地が悪いなー。ぶんぶーん」
ならやるよ。ベルゼバビーはそう続けると、口の中から舌を目にも止まらぬ速度で発射してきた。
レイは身構えた。両腕を前に突き出し、足を後ろに引いて、受けの姿勢をとる。細かく視界に振る雨の中でも目を見開き、一挙一動さえ見逃すことのないよう、目の先にいる敵を強く見つめる。
空気が唸り声をあげ、小さな光輝を口内に残して、レイに狙いを定めた舌が飛び出してきた。
レイは後頭部にわずかな痺れを覚えた。その瞬間、意識するよりも早く指が動き、あと数ミリで額に到達するという危ういタイミングで、その手はベルゼバビーの舌を掴み取っていた。
「もう、離さないよ」
舌を引っ張られ、こちらに向けてたたらを踏みながら、苦しげに息を漏らすベルゼバビー。その声を耳に入れないよう振る舞いながら、レイは舌を強く握り、片足をしっかり踏み込む。
レイはスッと、浅く息を吸った。足元から血流をたどって、くすぐるような感触が這い上がってくるのが分かる。目の前が暗くなる。しかしスポットライトで照らされたかのように、手足をばたつかせてもがくベルゼバビーだけが、淡い光の中で取り残されて見えた。
レイの足元の影が鳥の形へと変化した。
大きな翼を優雅に広げた姿を見せており、これまで幾度となく目にしてきたものであるはずなのに、今は、何だかそのシルエットがとても親しみのあるものに感じた。
その影はレイの足から離れ、地面の上を滑るように移動すると、ベルゼバビーの足元を広く覆い尽くした。たじろぐ彼女の姿を隠すように、その影から深い黒色をした光の柱が立ち昇る。
レイは舌から手を離した。するとベルゼバビーはくぐもった叫びをあげながら、その地面から噴き出した暗い光の奔流の中に吸い込まれていった。
影は晴れ、巨大な鳥のシルエットがレイの足元に舞い戻る。心なしか、その鳥の腹にあたる部分が少しばかり膨れているようにも見えた。その嘴の隙間から、いまにもげっぷが飛び出してきそうな予感もある。
つい3秒前までベルゼバビーのいた地点を、いまはいない場所を、目を細くして見つめながら、レイは声をわずかに震わせながら呟いた。
「これが、私の本当の力……」
胸の奥から昂揚感が立ち昇ってくる。そのくせ、頭は夢でもみているかのように白みがかった景色を視界に被せていた。手を握り締め、自分の爪を掌に刺す。小さな痒みが掌を覆った。そうすることで、これが現実であることを自分の中で確固たるものにする。
レイは雨に濡れてふやけた自らの手を見下ろした。そうしながら大丈夫、と心の中で言い聞かす。大丈夫、私は私のままだ。イストの言葉通りにはならない。世界を滅ぼし得る存在になど、なるわけがない。その実感が、皮膚の奥まで染み入っていく。
何よりもその事実がレイの心を浮き立たせていた。鳥の羽を刺した箇所をそっと撫で、そこに傷跡1つないことに気付く。その事実は、あの羽もレイの欠けた一部であるのだと告げられたかのようだった。
黒い鳥の影の上に佇みながらレイは、その身に宿る己の力を、もう1人の自分を、二度と離れることがないようしっかりと自分の中に抱きしめた。
※※※
雨に銀色の装甲を反射させて、ガンディの体が舞う。上半身を捻り、しなやかに伸ばした右足で鋭いハイキックを打ちだした。そのつま先をキャンサーの顔面にめりこませ、後方へ押しやる。
「貴様……調子に乗るなよ!」
キャンサーは錆びた重機のようにぎこちなく腕を背中に回し、高枝鋏を取り出した。その柄が強く握られ、振り下ろされる、その前に、身を低く屈めて素早く懐に潜り込んだガンディが固めた拳でワン・ツーを決めた。
強固な黄金の装甲に、対人装甲服であるガンディの拳ではダメージはほとんど与えられない。イミシャドよりも高いポテンシャルを持っているマスカレイダーのダンテでさえ、キャンサーにダメージを与えることはできなかったのだから、その理屈は至極当然のものであるといえた。
だが、それはすでに過去の常識だ。
キャンサーはガンディの拳を浴びて大きくのけぞった。その装甲には彼の拳の跡が、くっきりと残されている。ガンディは跳躍すると、巨体をよろめかす黄金の怪人目がけ、ジャンピングパンチをその顔面に叩きこんだ。
「悪いがそれは、聞けない注文だ。ますます調子に乗らせてもらうぜ。お前が倒れるまでな!」
意気揚々と爽やかに宣言するガンディに、ギリっと、キャンサーの口の中から歯軋りが聞こえる。キャンサーはもう一方の手も腰に回し、さらにもう1本鋏を取り出した。
「残念ながら、はるかに遅いぜ!」
だが、片足を踏みこみ、機敏な動作で接近したガンディの腕によってその鋏は振り払われた。周囲に広がった泥土に鋏が深々と埋まる。舌を打ちながら、キャンサーは頭上に駆ける雷鳴と同時にもう一方の鋏も振り下ろすが、ガンディはすかさず鋏の刃と刃が交差している繋ぎ目目がけて蹴りを入れた。
弱い部分を狙われた鋏はキャンサーの手から呆気なくすっぽ抜け、宙をくるくると回転し、彼の背後に突き刺さる。
「なぜだ。僕は最強の怪人なのに、なんでこんな、勘違いしたオシャレ野郎に歯が立たない!」
両手の武器を一瞬で失い、キャンサーは歯噛みした。彼は気付かない。自慢の装甲の硬さや、その戦闘能力がほとんどレイの力によって取り払われてしまったということに。雨の中で悔しさに打ち震えるその怪人に向けて、ガンディは腕を前に突き伸ばし、すげなく答えた。
「簡単なことだろ。お前よりも、俺の方が毎日を楽しんでいるからな。今だってそうだ」
ガンディの内側で響く、秋護の声は弾んでいた。その上気した呼吸や、刻む奇妙な鼻歌が、彼がこの窮地を心より楽しんでいることを、何よりも雄弁に語っていた。
「戦いでもなんでもなぁ。楽しんだ奴が、勝つんだよ!」
「そんな理屈が通るか!」
キャンサーは怒鳴りつけると、憑き物を払い落すかのように自分の体を大きく振り回し、ショルダータックルを放った。硬い外殻が弾丸のようにガンディの身を打つが、彼は素早く後ろに跳ぶことでそのほとんどの衝撃を殺した。さらに2歩、3歩と背後にステップを踏み、怪人から距離を取る。
「僕はな、小さな女の子を追いかける時でも、お前のような奴らを踏みにじる時でも、最強の怪人を名乗る時でも、いつだってマジで全力なのさ! この気持ちがそんな遊び半分に負けてたまるか!」
自分の体を引きずるようにして、キャンサーは高く跳躍した。そして自分の膝を抱くように、その体を丸めると、視線を仰がせるガンディに向けて力強く飛びかかった。
それは単純な降下というわけではなかった。ほとんど視認できないような速度で細かに回転が施されている。振りしきる雨を掻くようにして落ちてくるそれを避けるつもりはないらしく、ガンディは飛んでくる黄金のボールを睨むと、立ち止まったまま静かに身構えた。胸で受け、先ほどのように身を引いて勢いを殺そうと考えたのだった。
しかしその威力は彼の予想の範疇をはるかに凌駕していた。
黄金の球体は、背後に跳ぼうとしたガンディの体をそのまま力任せになぎ倒した。胸に衝撃をまともに叩きつけられ、ガンディは派手に転げた。泥まみれ、土まみれになりながら、どちらが天でどちらが地なのか分からなくなるほど転がり、大きな水たまりの中に突っ込むことでようやく止まった。水の中から顔をあげ、擦り切れたような呼吸で上半身を起こしながら、ガンディは顎を撫でつける。
「ったく、痛ぇ……。やるなぁ、あいつ」
その口調はさすがに苦悶が含まれていたものの、やはり、どこかに愉悦が垣間見える。ガンディは気迫十分に立ち上がり、周囲を見回した。霧はすっかり晴れたものの、曇天の薄暗がりに阻まれて視界が悪く、キャンサーの姿は遠方にそれらしきシルエットを確認できるに留まっていた。どうやら、ガンディの体は随分遠くまで弾き飛ばされてしまったらしい。
敵との距離を確認し、秋護はため息を1つついてから、今度は近場に目を向ける。そして2メートルほど離れた地点に、横倒しになった自身のバイクが泥土に漬かっているのを発見すると、その身に宿らせた喜悦の色をさらに濃いものにした。
「よお、相棒。こんなところにいたのか。探したぜ」
今の攻撃でひび割れ、破片を零す胸装甲を軽く手の甲で叩き、ガンディは口笛を鳴らした。駆け足でバイクに近付き、泥の中から装甲服の発達した膂力を用いて引き上げる。座席にまたがりエンジンを入れると、手元のスロットルを見せつけるように回転させた。
「ったく、俺もお前も泥だらけだな。ま、綺麗なまんまじゃ、いられないよな。この時代」
すっかり土に覆われたミラーを指で擦りながら、ガンディはバイクに話しかける。その口ぶりには、古くからの親友に話しかけるような親しみがこめられていた。
そこで秋護は、起こしたバイクの後輪のあたりに広がる水たまりに目を留めた。水たまりの中から、半分顔を覗かせる形で、四角い何かが突き刺さっているのを見つけたからだ。拾い上げると、それがメイルプレートであることが分かった。付着した泥を指で拭い、それが白色であることを確認する。
「狩沢さん……」
このプレートの持ち主を探してガンディは視線を巡らすが、激しい雨によって視界が閉ざされ、確認することはできない。ガンディは肩をすくめると、それを腰背部の装甲のすき間に挟みこみ、バイクにまたがった。
「ま、楽しくいこうぜ。汚れても、痛くても、辛い思いも後悔も、一時だってしたくないからな」
ハンドルから一旦、両手を離し、頭に巻かれたバンダナの結び目を強く締め直す。じっとりと水を吸い込み切っていたためか、思いのほかその結び目は固いものになった。
獣の咆哮じみたエンジン音を響かせながら、ガンディを載せたシルバーの車体が動き出す。その迷いのない走りは、彼の行く手を阻むように吹きすさぶ風や雨を置き去りにした。
※※※
地の底から響くようなそのバイクのエンジン音は、現実感のない勝利に所在なく立ち尽くしていたレイの意識を覚醒させた。音の方に目をやると、薄闇を切り裂く二筋の光と共にバイクに乗ったガンディが、こちらに向けて走ってくるのが見えた。
「藍沢さん!」
泥土を吐き出しながら、もうもうとした砂煙を背負って駆けてくるバイクにレイは大きく手を振り、声を投げかける。しかしこの悪天候の下でレイの姿は見えていないのか、バイクは少しもその速度を緩めることはなかった。おぼろげではなく、くっきりとガンディの姿が見える頃になってもそのスピードは変わらず、ガンディの視線は明らかにレイではなく、その背後に向けられていた。
その時点で、レイは嫌な予感を覚えていた。後ずさろうとしたその時には、すでにガンディは目前まで到達し、水溜まりをはねのけながらレイの脇を通り過ぎようとしているところだった。
「藍沢さ……」
髪をかき乱すほどの強烈な風が駆け抜け、レイの発する声もその中に取り込まれて消えていく。その時、すぐ横を駆け抜けようとするバイクから腕が伸びた。レイの手をがっしりと掴むと、そのまま勢いに任せて体を引き上げ、遠心力を利用して背後に投げ飛ばす。
レイはひっ、と悲鳴をあげ、慌ててガンディの肩を掴んだ。そのまま渾身の力を使って、自分の体をガンディに引き寄せ、しゃにむにその胴体にしがみつく。
体に腕を回し、バイクの後ろに収まったレイを横目で確認すると、ガンディは「よし」と納得のいった声をあげた。
まだ激しく心臓が高鳴っている。つい先ほどの、命を捨てるようなガンディの行為には、本当に喉から心臓が飛び出てしまうかと思ったほどだった。湿った風を深く肺に満たすと、レイはガンディの泥まみれの冷たい背中に抗議した。
「よし、じゃないですよ。死ぬところでした。自分の無茶に、人を巻き込まないでください」
「まぁ、いいじゃないの。元気そうでなにより。じゃあ、このまま、突っ込むぞ」
ガンディが顎をしゃくり、前方を示す。レイは導かれるようにして、そちらに目をやった。そこには鬱蒼とした曇り空の下で深々と佇む、古ぼけたホテルの威容があった。
外壁には無数の蔦が纏わりつき、ひび割れている。ところどころのガラスが破壊されており、その隙間からカラスが空に向けて飛翔していくのが窺える。雷鳴が天を揺るがすたびに照らされるその姿は、生気に乏しく、不気味な印象を衆目に与えていた。
「きっとあれが、俺たちの目的地。敵のアジトなんだろうな。レイちゃんがピカーってなった瞬間さ、霧が消えて、あれが出てきたんだよ」
流れていく景色を見つめながら、レイはようやく霧がすっかり失せていることに気が付いた。それもまた自分の新しい能力の仕業なのだろうか、とぼんやり考える。真相は分からないが、タイミングからいってそれ以外の理由が見つからないのも確かだった。
つい先ほどまで、レイの体の周りを覆っていた黒い瘴気は肌の内側に今は身を潜めているようだ。しかし心の内に宿っていたもう1人の自分――黒い鳥と1つになった、その感覚は消えていない。そして同時に頭の中が霞がかったような、根の深い体調不良も残っていた。気を引き締め直さなくてはいけないな、とレイは敵のアジトを前に強く奥歯を食いしばる。
「あそこに、青い子もいるんだろうな」
ガンディが進行方向を見据えたまま、ぼんやりと言う。レイは小さく頷いた。前髪に付着した泥が額を伝い、頬を流れていく。
「多分……いますよ」
「そうか。楽しみだな」
言葉の割に、ガンディの口ぶりはあまり楽しげではなく、レイは眉をひそめる。その殊勝な物言いは彼が発するにしては珍しい類のものだった。
だがその心に引っ掛かった一抹の疑問を口にする余裕は与えられなかった。その時、バイクの上を飛び越える巨大な影をレイは見つけた。それはバイクの進む先、およそ10メートル前方に着地する。巨体を揺らすようにして、真紅のマントを翻し、振り返るそのシルエットは、黄金の蟹型怪人、キャンサーのものだった。
「逃げるんじゃあない。まだ貴様と僕との勝負はついていないのだからな!」
「ロリコン怪人!」
片手に高枝ハサミを掴み、こちらにかざしてくるキャンサー。行く手を阻むように再び姿をみせた怪人を前にレイが思わず声をあげると、ガンディはばつが悪そうに言った。
「やっぱ、負け逃げは無理だったか……しょうがない」
エンジン音を唸らせ、さらにバイクは速度をあげる。振り下ろされないよう、レイは瞼を閉じ、腕に力を込めた。
「このまま、正面突破だ!」
「やらせるか! 最強の怪人の名にかけて!」
キャンサーは鋏を投げ捨てると、駆けだし、両足を地面から離して突っ込んできた。空中でとんぼを切り、再び体を丸め、高速回転しながら落ちてくる。
ガンディはさらにスロットルを回し、スピードを上げると、姿勢を低くして突進によって発生する衝撃に備えた。「レイちゃん捕まってろよ!」と彼が大声をあげるときにはすでに、レイはガンディの腹に回した自分の腕と腕とをがっちりと組み合わせ、固い背中に額を押しつけている。
宙を走る稲光と、躍りかかるキャンサーのシルエットが重なる。頭上の大気に滲むような質量を与えながら、圧倒的なアドバンテージを振りかざして降下してくるそれは標的になった者の感情を揺さぶり、恐怖を胸の奥底より沸き立たせるような強力なプレッシャーを持ち合わせている。
レイも思わず目をぎゅっと瞑り、衝撃が車体を震わすその時を待つ。雨の冷たさがよりその感度を増して肌に沁みてくる。そして視界を自ら閉じ、神経を外部に開放したことで、新たに見えてくるものがあった。
それはガンディの運転するバイクの走りに、まったく揺らぎが感じられないことだった。
恐怖や躊躇といった、腰の引けたような感情はその運転にはまったく含まれておらず、強い確信と自信をスピードに乗せ、襲いくるキャンサーの巨体を正面から受け止めようとしている。
いつもは秋護の、その根拠のない、無謀ともいえる自信に呆れていた。その傍若無人ぶりに彼を軽んじてもいた。しかし近づいてくる脅威をものともせず、恐怖に足をすくわれることもなく、冷静にハンドルを握る彼の姿に、レイは一瞬、惹きこまれた。彼はけして追いつめられてはいなかった。自分が敗北を喫すことなど微塵も考えていない。絶対の信頼を自分自身に置いていることが、その態度から溢れ出ているようだった。
ほんの少量の、秋護への憧れが胸に滲む。
そしてレイは、そんな彼と一緒に戦いたいと思った。彼のように恐怖を跳ねのけ、戦えることができたら。自分をもっと信じることができたら。今、レイはそれを願った。祈りをこめた。
レイはゆっくりと、瞼を上げた。すぐ目前に黄金の塊が落ちてくる。雨を引きずり下ろし、空気をびりびりと振動させながら、ガンディをレイとバイクごと叩き壊そうと近づいてくる。 死の迫るこの状況が、恐ろしくないといえば嘘になる。しかし、もう瞬きすらするつもりもなかった。心の中で湧きあがる自信。再び体の奥底から黒い鳥のイメージを呼び起こす。脳にゆるやかな回転を加えられたのかと錯覚するような、妙な気持ちの昂ぶりとともにレイの背後には、霧を瞬く間に払いのけたあの漆黒の翼が姿を現した。
傍目からみれば、バイクにまたがるガンディの背に黒い翼が展開している、という構図になる。黒い瘴気を纏いながら、雨の中心を貫くように疾駆するシルバーのボディ―。両方の車輪を浮かせ、ガンディは自身のバイクと1つになって、上方より襲いくるキャンサーに突っ込んでいく。
その時、レイの掌にわずかな痺れが走った。始めは雨を浴び続けているばかりに体が冷え、そのために指先がかじかんでいるだけだと思い込もうとした。
しかしその痺れがなかなか治まらず、次第に痛みが強くなってくると、無視することもできなくなった。おや、と思っていると続けざまに今度は、ガンディの装甲が小さな火花を生み始める。レイの手の痺れはじんとした、わずかな痛痒を伴って自分の手首とガンディの腹部の両方に向けて染み入っていく。
「藍沢さん!」
青白い電撃を発し、ばち、ばち、という弾けるような音を空気に散らばせるガンディ。装甲服が放電するなど、レイはこれまで見たことも聞いたこともなかった。これは不吉の前触れではないのかと、その異変に嫌なものを覚えたレイは慌てて呼びかけるが、彼の耳にその声は届いていないようだった。
頭のてっぺんを掴まれ、上に引っ張られるかのような感触がレイの身を襲う。バイクの車体が浮き、両輪が地面を離れ、推進力に従うがまま、宙を駆けた。
レイは殊更強く、ガンディにしがみついた。正面にキャンサーの、球状に丸めた体躯が迫りくる。そして尚一層、ガンディの体を駆け巡る青白い光がその光度を増した。全身から跳ねる火花も一段と大きくなる。空中に置き去りにされながら。一体何事かと目を瞠るレイの前で、ガンディの装甲が変化を始めた。
電撃が装甲の上を滑るように移動し、その部分に金色の装飾が施されていく。右肩には鋭利な突起が出現し、右の甲を火花が覆うとそこに金のサポーターが装着される。レイの場所から見ることは叶わないが、顔面や胴体にも同様に青白い光が舐めまわしていく。
ガンディは黒い翼を背負い、さらに全身を光にくるまれながら、薄闇の空を貫いた。高速回転するキャンサーにバイクのフロント部分を衝突させる。体を縦に横に激しく揺さぶられるような衝撃がバイク上のレイにも伝わり、そして目を焼くような凄まじい閃光を撒き散らしながら――ガンディの操るバイクは、キャンサーの体を激しく吹き飛ばした。
悲鳴と爆発を抱きながら、キャンサーが地面に激突する。その頭上でバイクは大きくバランスを崩し、レイとガンディの体はその車体から振り落とされ、中空に投げ出された。
「痛っ!」
レイは右半身を下にして墜落した。地面が水分をたっぷりと含んでいたおかげで、痛みは少なかったが、体はくまなく泥にまみれてしまった。泥の中から自分の体を引きずり出すようにして身を起こすと、手の届く範囲にガンディも倒れていた。その新たに出現した肩の突起を恐る恐る指で小突くと、ガンディはびくりと体を震わせたあとで、ゆっくり顔をあげた。
「よお、レイちゃん……無事か?」
「はい。私は大丈夫です」
「そっか。俺も、平気だ」
ガンディは荒い呼吸の間隙を縫うようにして起き上がると、レイの手をとった。眉間にしわを寄せ、レイが見上げると、彼は空いているほうの手で弱弱しくサムズアップを作った。
「走るぞ、レイちゃん。無事なのは多分、あちらさんも同じだろ!」
彼の言葉に弾かれるようにして、レイはキャンサーの方を見た。その体は泥の中に埋まっていたが、指がぴくぴくと震えるように動いているのがここからでも分かる。おそらく、あと30秒もしないうちにその上体は地面の内から姿をみせるだろう。
キャンサーのすぐ近くに、地面に突き刺さる秋護のバイクが確認できた。そのボディはひしゃげ、後輪は宙を空しくくるくると回転を続けている。その損傷の具合から、故障しているのは明らかだった。
ガンディはそちらのほうを哀愁漂う視線でしばし見つめた後、レイの手を引き、感傷を振り切るようにして走り出した。
ぬかるんだ地面は滑りやすく、走りにくいことこの上なかったが、それでもレイとガンディはホテルの入り口目掛けて必死に駆けた。お互いに戦闘の直後であり、しかも怪我をしているため、すぐに息が切れ、足元がおぼつかなくなる。しかし、足を止めることはなかった。目的地がもうすぐ眼前にそびえていることに、興奮すら覚えており、それがレイの体を押す推進剤となっていた。
満身創痍の2人に会話を交わす余裕などなく、レイは上目遣いにガンディを見た。彼の装甲は今では大きく変化をし、体のあちこちに豪奢な装飾が刻まれている。秋護はおそらく、自分の纏う装甲に起きた異変に気がついていないのだろう。そんなことに気をかけている余裕はない、とでも彼の短いスパンで吐き出される息は言いたげだった。
まるで自分の力が移ったかのようだ、とレイは思っていた。自分の掌に生まれた痺れがガンディの装甲を伝い、その形状に変容を加えてしまったような印象を、先ほどバイク上で味わった一連の流れから覚えていた。
もちろん、これまでにこんなことは一度たりともなかった。レイは自分の手を握る、意外に大きな秋護の手を見つめながら、疑問を深くする。もしかしたらこれも黒い鳥の力を解放したことで得た、自分の新しい力なのかもしれないと解釈するが、それでもまた何か釈然としないものが胸の内で漂っていた。
「レイちゃん、危ない!」
ガンディがこちらを振り向いた。その切迫した声と様子に、レイは無理やり思考の海の中から脱却させられる。反応する前に、レイの体はガンディに突き飛ばされていた。肩を強く突かれ、たまらずバランスを崩して尻餅をついてしまう。
目を丸くし、レイは何事かと素早く顔をあげる。しかしその時には、すでに全てが終わっていた。
膝から崩れ落ちる、ガンディの体。その身から魂が空気中に微細な光を放って、宙を昇っていくのが見えたような気がした。レイは彼がその身を地に預けていく、その短い時間をまるで、永遠のように感じていた。
「藍沢……さん」
彼の名を呼ぶ声も喉につかえ、うまく発音することができない。しかしそれでもレイは胸を震わせながら今1度、全身の力を振り絞るようにしてその名前を叫んだ。
「藍沢さん!」
ガンディの体は肩から背中にかけて、鋭い銀の槍に貫かれていた。それははるか頭上、空から射られたものだった。レイはゆっくりと、恐る恐る、痺れたように動かない自分の体を無理やり起こすようにして、空を仰ぐ。
そこには蛍光グリーンの粒子を振りまきながら、曇天を滞空する悪魔じみた怪物、S.アルムの姿があった。
19話 完




