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1話「薄汚れたランプ揺らして」(4章)

では4章の始まりです。1章、2章、3章。それぞれの主人公たちがみる景色と、そこに描かれる結果とは……? また長丁場になりますが、ご期待ください。


2010年 8月3日


鳥の話 1

 東海道新幹線を下車し、勾配の急な階段を下る。3時間近く座ったままだったので、歩くと腰にぎこちなさを感じた。丸めた拳で腰を軽く叩きながら、一歩一歩と歩を刻んでいく。周囲の流れに乗せられ、知らず知らずのうち早足になっていく。

 車内は冷房が効いていたため、駅構内に充満する生温い空気は体に堪えた。倦怠感が両肩に重くのしかかり、全身を引きずるようにして、雑踏の中を進んでいく。今日は38度を超える真夏日になる、と朝のニュースで報じられていたのを思い出し、さらにげんなりとした。肩をぶつけることなく歩くことが困難なほどの、激しい人ごみが、さらにその熱気と不快感を煽る。

 改札口を通過し、構内から外に出る。するとそれまでのじっとりとした熱気はそのままに、直射日光が加わった。満を持したかのように顔から汗が一斉に吹き出したため、手の甲でそれを拭う。それから錆びたペンチのように軋む腰を捻るようにして、駅の名前を記した黄金色の巨大な表示板を見上げる。

 白石仁は、名古屋に来ていた。

 白いワイシャツに、緩めた黒いネクタイ。下はジーンズという出で立ちである。普段通り、金に染めた髪をオールバックの形に固めている。荷物は手に提げている、デパートのロゴが入った紙袋だけだった。

 経営している喫茶店『しろうま』を休業にし、ある用事を果たすため、単身、早朝の新幹線でやってきたのだ。ついに来たぞ、という達成感も半ばに、忍び寄ってきた安堵の念が体の力を奪っていく。それでも太陽の光を照り返して眩い輝きを放つ、『名古屋駅』の文字を目にしていると、自然に頬が緩んだ。

 実は新幹線に乗ることどころか、他県に出ていくことも本当に久しぶりだったので、久々の遠出に昨晩から不安を感じていた。切符を買うとき、改札をくぐるとき、新幹線に乗車するとき、要所要所で緊張し、自分の行動を逐一確認しながらそれらの手続きを踏むことに労力を費やした。

 鳥瞰だ。自分の意識を頭上に打ち上げて、空から自分を眺める。昔からそうやって、己の立ち位置や現状を打診しながら生きてきた仁にとって、それは日常的な行為であり、目の前のことに視線を据えることよりは、はるかに容易だった。

 しかし終わってしまえば。出かける前に感じていた無数の懸念は杞憂に終わり、仁は無事、この通り名古屋の大地を踏むことができた。これは奇跡だ、と自分でも思う。ただひたすらに言いようのない感動が肌を伝った。

 特に信仰している宗教のない仁は、この地にたどり着いたその奇跡を、とりあえず名古屋城のしゃちほこに感謝すると、タクシー乗り場を探すために最初の一歩を踏み出した。


 幸いなことに、太陽光線を浴びながらタクシーを求めて駅の周りをうろうろすることも、車道に半ば体を乗り出しながら汗だくになって待つこともなく、タクシーは道路の端に並んで停車していた。

 5台あったが、そのどれも空車だった。順番を待っている人もいなかったため、仁は一番前に停まっている白いタクシーの後部座席に乗り込んだ。

 車内は鳥肌がたつくらいに冷房を効かせており、体中を湿らせていた汗が一斉に引く。少し肌寒くも感じたが、ぎらぎらと煌く太陽の光を受け続けているよりは楽なので、我慢する。ひとまずこの異常な暑さの中、苦行を強いられることもなくタクシーを拾えたことに、感謝の意を抱くべきだ、と思った。

「これも、しゃちほこのおかげですよね」

 口元に笑みを宿して、仁は運転手に喋りかける。

「不景気の仕業だよ」

 いかつい顔をした運転手はバックミラー越しに、片眉をひそめた。

 目的地を告げるとそれ以上、運転手と会話を交わすことはなかった。

 仁は鳥肌のたつ腕をさすりながら、流れていく窓の向こうの景色を眺める。見慣れない町並みではあったものの、懐かしさを、口に含んで噛みしめるように味わう。名古屋に来たのは、実に4年ぶりのことだった。変わっている場所、変わらない場所、覚えているところ、覚えていないところ。1つ1つ、目に映るものを記憶と適合させてみる。そうやって、頭の隅で埃を被っていた地図を丁寧に組み上げていく。その作業に没頭する。

 大きな道路を外れ、徐々に住宅街の中を横切り始める。それから30分ほどさらに走り、一軒家の隣に立つ古めかしい雑貨屋の前で停まった。プロの運転手らしい、揺れのないスムーズな停車だった。

 料金を支払って外に出る。ドアを開けると、激しい気温差に目眩すらした。日射しが厳しく、まともに目を開けていられない。慌てて雑貨屋の隣の木陰に避難すると、仁は額の汗を拭いながら、冷たい体を腕で抱くようにした。

 目の前には、2階建ての一軒家が建っていた。町の外れにぽつぽつと建てられている家々の中の1つで、周囲と比べても明らかに新しい。青い屋根と白い壁、そして色とりどりの花々が植えられたささやかな庭。その外観は洒落た田舎の喫茶店のようで、民家にしてはずいぶんと瀟洒な建物だった。

 変わってないな。仁は、記憶の中にある映像と何ら変わらぬその家の様子に、感慨深いものを覚えた。懐かしさに自然と笑みが零れてしまう。顔を引き締めようとするが、頬が緩むことを止められなかった。

「さて、と」

 懐かしむのはこのへんにして。その家を眺めながら口に出して、言ってみる。逃げ出してしまわないように、そうやって自分の心に楔を打つ必要があった。ここまで来たのに、怖気づいてどうする。奇跡に奇跡を重ねて、この地に自分は導かれたんだぞ、と根拠のない自信を心中で何度も唱え、己を鼓舞させる。

 しかしそれでも、整えられた緑色の芝生を踏み、ドアの前に立ち、インターホンに指を伸ばそうとすると途端に体が震えだした。蒸し暑さのせいではない。汗が、体の内からじわじわと滲み出てくるかのようだ。

 唾を呑みこみ、深呼吸。頭の中をあえて真っ白に保つ。意を決してインターホンを押そうと、指先に力を込めると、チャイムよりも先にドアが開いた。仁の行動を見透かしたかのような、本当に見事なタイミングだった。遅れてチャイムの音が、虚しく家の中に響いていく。

 空気を押し退けるようにして勢いよく開け放たれたドアは、仁の左足にぶつかって止まった。

 玄関の内側には、女性が立っていた。まさか家の前に人が立っていたとは思わなかったようで、ドアノブを掴んだ姿勢のまま、目を丸くしている。髪は肩に毛先が触れているくらいのセミロングで、大きな目と陽によく焼けた肌のせいか、どこか少年じみた雰囲気がある。黒いプリントTシャツに、ホットパンツを履いていた。

 女性は口をぽかんと開け、仁を見上げている。その瞳の色合いが徐々に移り変わっていくのが、はっきりと分かった。それに伴い、驚愕から困惑へと表情のほうも変化していく。

「白石……仁……?」

 女性が発したのは、胸の奥から絞り出したような声だった。彼女は動揺を顔全体に広げたまま、信じ難いものを目にしたかのように硬直している。仁は膝の痛みを堪えながら、左手をドアに添えて押し開きながら、右手を自分の顔の前であげた。そして満面の笑顔を作り、昔と同じように、彼女の名前を呼んだ。

「うん。久しぶりだね、都ちゃん。元気そうで、良かった」


 外見と同様に、家の中もまた綺麗に片付いていた。エアコンも扇風機も作動していなかったが、家の構造のせいなのか暑さはそれほど感じなかった。フローリング張りの居間に通された仁はプラズマテレビの横に置かれた、金魚の入った水槽を眺める。ぶくぶくと泡立つ水の中を、3匹の真っ赤な金魚が、尾びれを揺らして舞いを披露していた。

 さすがに中身は、前に来た時とは大分変ってるな。室内に軽く視線を巡らせながら、仁は思った。家具の配置は変わっているし、壁紙も貼りかえられている。かつてよりも、なんだか明るくなったような気がした。壁には、仁の腰あたりの位置に手すりが備え付けられている。木製でそれは部屋の形に沿うようにして、ぐるりと設置されている。それは明らかに、前回訪ねた時にはなかったものだった。

「そういえば、都ちゃん、髪、伸ばしたんだね。前会った時は男の子みたいだったのに。随分女の子らしくなっちゃって。仁君驚きだよ」

「何年前の、話だよ」

 リビングに戻ってきた都は、両手に缶ジュースを持っていた。両方ともコーラだ。それらをテーブルに置くと、傍らの椅子を引いて座った。

「最後に顔合わせた時は、確か高校生だったから。あの時、何年生だったっけ」

「あの時は」

 都は一瞬、そこで躊躇ったようだった。苦しげに顔を歪める。それから仁のほうを向くことなく、小さな声で答えた。

「多分、1年生、だった」

「そうか。そうだったね」

 2人の間に、沈黙が落ちる。都は持ってきたコーラを手に取ると、プルタブを引き、それに口をつけた。彼女が喉を鳴らす音だけが、室内に低く伝導していく。

 仁は手すりを後ろ手に掴むと、壁に寄りかかった。手すりはボルトを使って壁に打ち付けてあり、随分と頑丈に固定されているようだった。身長180センチを超える仁が全体重をかけても、びくりとも動かない。

「それじゃあ、今年で都ちゃん、20歳? もう、そんなに経つんだ。早いね」

 頭の中で指を折り、尋ねる。女性に年を訊くのはどうかとも一瞬迷ったが、まだ彼女は年を重ねることに危機を感じるような年齢ではない。はずだ。

 しかし都は答えなかった。相変わらず仁と視線を合わせようともしない。粛然とした重力がリビングに渦巻いている。荒んだ空気が、容赦なく体内の酸素を濁らせていく。口の中が乾き、仁は、わざとらしく腰のあたりを掻き毟った。時計の音と、外から聞こえてくるわずかな蝉の声や車のエンジン音が室内をぎこちなく包みこんでいく。

 直視はせずに、視界の端に捉えるようにして都の姿を窺う。

 あれから4年か、と思う。随分と女性らしくなった。かつては粗野な態度が目立ち、それが表情にも反映されたやんちゃな少年のような印象が強かった。しかし今はそれもすっかり落ちつき、子どもじみた明朗さはそのままに、大人びた殊勝な気配を醸し出している。本当に彼女は大人になった。時の流れは仁の胸に衝撃を与え、また同じくらい喜びも運んでくれた。都の真剣な横顔は、仁がかつて情愛を結んだ親友の姿を思い出させた。

 数分してから、仁はテーブルに近寄った。もらうよ、と一言断りを入れ、まだプルタブの起きていない、もう一方のコーラに腕を伸ばす。都は仁に背中を向けたまま、黙っている。コーラはすでに飲み終えたようで、缶は潰され、テーブルの上に転がっていた。

 仁が缶に触れようとした。

 その時。

 仁の手がコーラに触れる前に、都の手が、それを奪い取った。まるで空から狙いすましていた獲物を掠め取る鷹のように、その動きは素早かった。

「お前、なんで来たんだよ」

 都は仁に視線を向けることもなく、俯いたまま、そう言った。陰になっていてその表情は窺えなかったが、肩が細かく震えていた。

「もう絶対来んなって、言ったじゃないか」

「僕も、そのつもりだったんだけど」

 仁は都の向かい側の席に、腰を下ろした。気持ちを平静に保つため、スッと息を吸い込む。

「ごめん。わがままだとは、自分でも思ってる。だけど一回だけ、この一度だけで、もう一生会えなくてもいいから。会いたいと、思ったんだ」

「お前、自分がなにしたのか、分かってんのか?」

 都は怒気を孕んだ声を発した。熱のこもった空気が、仁と都の間を撫でていくようだった。

「お前がいなけりゃ、兄さんは、あんなことにならないで済んだんだ」

「京助は、今、この家にいるのかい?」

 篠宮京助。都の兄。そして、仁のたった1人の親友。仁は彼に会うため、はるばる東京から名古屋にやってきたのだった。

 これから始めることの覚悟を、決めるために。褌を締め直すために。背中を押してもらい、先に進むために。思い出したくもない過去を、単なる記憶として埋もれさせないために。

 仁は親友に、会いにきた。彼との4年ぶりの再会を、果たすために。

「たとえいたとしても、会わせるわけないだろ。もう私たちの前に現れない。そう4年前にお前は約束したじゃないか」

 都はいまだ顔を伏せたままだった。まだ中身の入ったコーラの缶を、指先でへこませている。まるでその怒りの矛先を、脆弱なアルミ缶にぶつけるかのように。

「なのになんで。なんで今さら、来たんだよ。空気読まないのも、大概にしろよ! お前は一体なんなんだよ」

「君の言うことは、分かってる。だけど、無理を承知でお願いしたい。京助に、会わせて欲しい。お願いだ。これが最後にする。今日会えたなら、もう絶対に、君たちの前に現れることはしない。今度こそ、約束するよ」

「そんなこと、信じられるか」

 都はコーラをテーブルに戻すと、乱暴に席を立ち、早歩きで部屋を出て行った。家が震えるほど力強くドアが閉められ、仁は1人部屋に取り残される。コーラを口にする気にもならず、かといってここで引き返すわけにもいかず、仁は手持無沙汰に、壁掛け時計を見上げる。都が戻ってきたのは、その時計の秒針が盤面を3周した時だった。

「……来いよ。15秒だけ会わせてやる」

 都は開口一番、そう言った。

「考えが、変わったのかい?」

 仁が釈然としない思いを抱きながらも尋ねると、都は沈鬱な陰を表情に落とした。

「どうせお前、兄さんに会うまで帰らないんだろ。私だって、これから出かける予定があるんだ。いつまでも居座ってもらっちゃ、困る」

 なるほど。出かけようと思っていたから、チャイムを押すよりも先にドアを開けて出てきたのか。ようやく得心が行き、仁が頷くと、都は両方の手を広げた。

「でも、15秒だけだ。会ったらすぐ帰ってもらう。それと約束通り、もう二度と、うちに来ないでくれ」

 15秒という発想がどこから来たものなのかは分からなかったが、不服を申し立てる権利がこちらにあるわけもない。

「分かった。約束する」

 仁が承諾すると都は探るような目つきを見せ、しばらくして踵を返した。仁は席を立つと、彼女の後を追っていく。都はこちらを1度も振り返ることなく、またそれ以上言葉を連ねることもせず、リビングを出た。仁もそれに続く。

 連れて行かれたのは、リビングを出てすぐ正面にあるドアの前だった。すぐ右手には、2階に続くドアがある。廊下の壁にもまたリビングと同様、手すりが取り付けられていた。

 4年前、そのドアの向こうには京助の部屋があったことを仁は思い出した。この部屋で夜遅くまで語らい、学校で出された課題を教えあい、またある時には流星群を2人で眺めたこともあった。追憶を望まずとも、その映像は仁の胸の奥から零れ落ち、心の中に音をたてて散らばっていく。それら記憶の破片を再び組み上げようとするが、冬場の水たまりに張った薄氷のように、その映像は手で掬いあげた途端に消えていってしまう。

 仁の思考を読んだわけではないだろうが、都はこちらに背中を向けたまま、ぽつりと声を零した。彼女は先ほどから変わらず、俯いたままだ。

「覚えてるだろ。兄さんの、部屋だよ。今も変わってない。変わったのは、状況だけだよ」

「うん。もちろん。ここにも、思い出がいっぱいあるからね」

 都は手の甲でドアをノックした。1度叩いたら、反応を待ち、数秒してからもう1度叩く。それを数度繰り返した。結局室内から返事はなかったが、4回ほど叩いた後、彼女はドアノブを捻って、たっぷりと惜しむ素振りを見せつけながら時間をかけてドアを開いた。

「見張ってるからな。15秒だぞ。それからちゃんと、約束は守れよ」

「うん、ありがとう。本当に、恩に切るよ」

 都は壁際に寄って、仁に道をあけてくれた。俯いた彼女の表情は粛然としており、ぎゅっと下唇を噛みしめている。

 仁はもう1度都に礼を告げると、ぬかるみにはまってしまった足を引き上げるようにして、1歩1歩、室内へと歩みを進めていく。

 京助は室内のベッドで、眠っていた。布団をかけることなく、仰向けの姿勢で寝息をたてている。何気なく布団の上にごろりと寝ころんだら、そのまままどろみの中に引きずり込まれてしまったのだろう。京助の胸が呼吸とともに上下しているのを見て、仁は深く安堵した。

「相変わらず。1度寝ると、起きないんだね」

 彼は昔からそうだった。高校時代、午後からの授業で眠り出し、それからいくら先生に叱られ、周囲からちょっかいを出されようとも一向に目覚めず、放課後までそのまま寝通した、という京助の伝説の秘話を思い出し、仁は笑みを浮かべた。

「兄さん。最近、仕事、遅くまで頑張ってるから。仕事がない日は一日中、こんな感じなんだよ。別に悪いことなんてなにもないから、寝かしてやってるけどさ」

「それは、すごく京助らしいね」

 寝ている京助の足元には、車椅子が停めてあった。仁はそれをしばし見つめ、それから彼の右足に視線を移した。京助の右足は、膝から下がなかった。分かっていたはずなのに、現実を直視してしまうと、それでも仁は胸に引き裂かれるような痛みを感じた。

「兄さんが寝てる時だけはさ、なんかホッとするんだよ」

 都がため息と一緒に声を出したので、仁はそちらに首を向けた。彼女の茶色みがかった瞳には、ベッド上の兄の姿がくっきりと映しだされている。

「足は布団の中に入れてれば分からないし。寝るときは誰でも、目を瞑るじゃないか。そうするとなんだか、あの出来事が夢だったように思えて、ちょっと安心するんだよ。実際はそんなことしてても、なんにもならないのにな」

 勝手だよ、私って。都は疲れた表情で、再び顔を伏せた。その様子がいつも明快で騒がしい、記憶の中の都と重ならず、仁は衝撃を覚える。

「あの頃に、帰りたい。周りは死ななかっただけマシだ、とかいい加減なこというけど、やっぱり違うんだよ。兄さんがこんな体になって、いいわけがないじゃないか」

 都が首を、力なく振る。涙声になっていた。妹の泣き声がすぐ傍で聞こえているにも関わらず、京助は涼やかな寝顔を晒している。胸の動きがなければ死んでいるのではないかと疑うほど、静かな眠りだった。

「……僕のせいだ」

「そんなの、当たり前だろ」

 都が憎悪を露わにして、睨む。仁は拳を握り、自分の掌に爪を突き立てた。

 あの日、京助を新宿に誘ったのは仁だ。何の用事があって行ったのかは、未だによく思い出せない。それほど大きな意味はなく、ただ無造作に過ぎていく退屈な日々に、ささやかな刺激が欲しかっただけだったのかもしれない。

 学生時代の単なる暇つぶし。それが大惨事に巻き込まれるきっかけとなるとは、当時、思いもしなかった。

 遅延したバスに乗って仁が新宿にたどり着くと、そこには一握りの平穏までもが破壊しつくされ、踏みにじられた光景があった。

 立ち昇る無数の黒煙、熱気を振りまきながら音を上げて燃え盛る炎。瓦礫の下敷きになり、うめき声をあげる人々、血まみれになってもがき苦しみ、助けを請う人々。新宿は阿鼻叫喚の渦の中に放りこまれ、混乱の極みにあった。そしてその中には、ひっくり返ったワゴン車に右足を挟まれ、頭から血を流して倒れ伏している、変わり果てた京助の姿もあった。

 そのけががもとで、京助は両目と右足を失った。後にこれが何者かによる無差別爆破事件であることを知り、仁はその犯人と同じくらい自分自身を憎んだ。京助の履いている、ジーパンは右足だけぺちゃんこになっている。仁は思わずそれを食い入るように見つめてしまい、そしてその痛々しさと罪悪感に胸が軋んだ音をあげた。悲しげに響くその音色を、仁の耳ははっきりと捉えている。

「ごめん、京助」

 いくら謝ろうとも、今を変えることなどできない。分かっていたとしても、仁は心から

溢れ出す思いを吐き出さずにはいられなかった。

「謝って済むことじゃないって分かってるけど、それでも、ごめん」

 相変わらず、京助は気楽な顔をして寝息をかいている。この世の悪事をすべて無条件に許してあげようとでもいうような、安らかな表情が尚いっそう、仁の心を苦しめた。

 15秒を大分オーバーして、仁は部屋から出た。リビングに戻ると都は椅子に座り、無言でうなだれていた。テーブルの上に置いたままだったコーラの足元には、小さな水たまりができあがっている。

「今日はありがとう。無理言って、本当に、悪かった。約束通りもう来ないって、約束するよ」

「あぁ。そうしてくれよ。もう嫌なんだ。あの頃のことを、思い出すの」

 都は顔をあげると、切実な目を仁に向けた。仁はその力のこもった視線に肩を押されるようにして、廊下へと繋がるドアに手を伸ばした。

「僕だって、そうさ。もうあんな気分は、二度と味わいたくない」

「私、本気で思ってるんだ」

 ドアを開け、仁がリビングから出ていこうとすると、都が口を開いた。相変わらず、射るような視線でこちらを睨んでくる。

「何を、だい?」

 先を促すと、一瞬、都は顔を背けて言い淀んだ。しかし、すぐに仁の顔の中心に目を戻すと一転して、声を張り上げた。

「お前が兄さんの代わりに、足と目を失えば良かったって。生活がめちゃくちゃになればよかったって。結構、本気で思ってるから。今でも。たぶんこれからも、ずっと。犯人と同じくらい、お前のことも、許せない気がする」

「僕も」

 仁は頬を緩ませた。己の愚かさに、涙よりも笑いが先に出た。都の全身から放たれる憎悪を身に感じながら、振り返ることなくリビングを出る。そしてドアを閉める前に、都との別れを切りだす前に、はっきりと本音を紡いだ。

「僕も、そう思ってるよ」

「なら……なんとか、しろよ」

 都が、か細い声で返答する。仁はもやもやとした感情を胸に抱いたまま、無言で篠宮家を後にした。



魔物の話 1

 40人も観客が入れば、それだけで満員になってしまうだろう。

 数秒の目測だけでそんな光景が頭の中に浮かんできてしまうほど、そのライブハウスは小さかった。さらに質素でもあった。床には黒ずみが目立ち、ステージにも相当の年期が感じられる。

 天井に吊り下がった各種のライトは留め具が緩んでいるようで、床の上を軽く跳び跳ねるだけでぐらぐら揺れるため、見ていて非常に危なっかしい。もし数十人もの人間が足並み揃えて跳躍したのならば、ライトのみならず天井ごと抜けて落下してきそうな雰囲気すらあった。

 新宿にあるライブハウスだ。

 似たような目的をもつ建物が周囲に乱立している激戦区で、時代の流れを読み、出演者と客を効率よく集めてのし上がっていったタイプと、時代に取り残されて廃れていき、そのまま閉店の一途を辿っていくタイプとがあった。このライブハウスは、明らかに後者だった。

 室内同様、ピアノを2つ並べたらもうそれだけで埋まりそうな、ささやかなステージにはスポットライトが浴びせられていた。本日、ここで催し物が開かれる予定はないようで、室内に演奏者や観客の姿は見当たらない。そのため観客席は暗がりの中に沈み、どこか白けた空気が室内を独占していた。普段は人々の熱気や歓声、掻き鳴らされるギターやボーカルの歌声で溢れている場所だからこそ、余計に静寂が異質なものとして感じられるのかもしれない。

 スポットライトの浴びせられたステージの上には、ドラムとギター、そしてキーボードが乗せられていた。それぞれ等間隔に距離が置かれている。おそらく、本番と同じ箇所に配置されているのだろう。ギターは床に横たえてあり、サウンド・ホールの上にはA4用紙に印刷された楽譜が重ねてあった。

 ライトの元に演奏者の姿はなく、ただ楽器だけが綺麗に並べられているのはどこか奇妙な光景だった。客席とステージ上の明暗も加わり、その放置された楽器たちが独りでに震えだし、身じろいて、自ら音を響かせるのではないか、という童謡めいた予感すらもあった。

 その時、ドラムが音をけたたましい音をたてた。シンバルが床に落下し、湾曲した音色を周囲に反響させる。無論、楽器に命が吹きこまれたわけではない。また、どこかに身を潜めていた演奏者が現れ楽器の演奏を始めたわけでも、当然ない。

 ドラムは上方からの圧力によって潰され、木っ端微塵になって、その破片を客席の方まで飛散させた。

 客席の大型スピーカーの後ろに隠れながら、黒城レイは下唇を噛んだ。床にぱらぱらと破片が降り注ぎ、体のすぐ脇を鋭利なプラスチック片が通過する。破片の雨が止んだことを察するとレイは顔を少し出し、周囲を見渡してからステージの天井を窺った。

 携帯電話は開いたまま、床に伏せて置いてあった。通話は済んである。後は駆けつけてくれるのを待つのみだが、果たしてそれまで逃げきれるだろうか。

 レイは表情に不安を滲ませる。その視線は、暗がりの中に蠢く怪人の姿を鮮明に捉えていた。

 "怪人"はちょうどドラムがあった地点から真上、つまり、天井にいた。まるでアメンボのように4本の足でしっかりとしがみつき、逆さまに張り付いている。

 それは双頭の怪人だった。人間のような体に、カマキリのような逆三角形の輪郭が2つ並んでいる。体色はこげ茶で、赤い斑模様が描かれていた。手足の先には指が3本しかなく、中指の先端は千枚通しのように鋭く尖っている。

 怪人は鼓膜を削り取るような甲高い鳴き声を発した。そして2つの頭を大きく後ろに引いたかと思うと、その頬まで裂けた口から熱線を吐き出してきた。それは一直線に、レイ目がけて飛んでくる。レイは素早く身を返すと、前に飛び込んだ。直前までいた場所が、つまり大型スピーカーが、熱線を正面から浴びて破裂する。頭から落ちたレイは、額を床に打ち付けてごろごろと転がった。スピーカーから飛んできた機械片が鼻先を掠める。先日買い直したばかりの携帯電話が視線の先で真っ二つに割れた。

 レイはすぐに身を起こすと、休む暇もなく前方に跳躍した。白色の熱線がレイの影を焼く。2つの頭から交互に撃ちだされる攻撃をくまなく回避するのは、非常に難儀なことだった。前屈みになり、たたらを踏むようにして熱線から逃げる。タイミングがわずかでも狂い、スピードがほんの少しでも落ちれば直撃をくらってしまう。

 息を切らして逃げまわりながら、レイは臍を噛んだ。自分の影の形を人間の姿から、翼を大きく広げた怪鳥へと変貌させる。熱線の途切れる瞬間を見計らって振り返るが、敵は相変わらず天井をゆっくりと移動していた。

 今のレイは、怪人の意思を掌握する力をもっている。

 それは3日前、誘拐された先の山小屋で出会った男曰く、"最高の怪人たる証"であるそうだ。レイは外見こそ人間そのものであったが、その内部構造は大きく異なっている。

 信じ難いことではあるが、熱線を放射しながら4つ足で天井を闊歩する、あの化け物とレイとは全くの同類だった。つまり怪人――世間的にそう呼称されているあの化け物には、レイもまた含まれる。そして"怪人を操る力"はレイがもつ、怪人としての能力の1つだった。

 その力は自分で思っているよりも強力なもののようで、その力を行使して、襲いかかってきた怪人を仲間に引き込んでしまったこともある。崖から飛び降りろと命令し、本当にそれを実行させたこともあった。怪人に限定はされるものの、この力が発動されれば、標的は意思を奪われレイの従順な手駒と化す。それは、これまでの実践経験から間違いはないようだった。

 問題はその発動方法だった。レイは自身の影を鳥の形に変容させることができるが、その状態の影を踏ませることで、その怪人の意思を奪取することができる。影はある程度伸縮可能で、大きさも一回り程度なら膨張可能ではあるが、しかし、それでもカバーすることのできない弱点が1つだけ存在していた。

 それが、いまの状況だ。宙を舞う敵や、天井をフィールドとして用いる敵にはこの力は全く影響を及ぼさない。つまり地に足のつかない敵にはこの余りに強力な力も、役目を果たせない。

 現状を打開する方法が思いつかぬまま迷いを覚えていると、足元で爆発が起きた。走る速度を緩めたレイの足元に、熱線が着地したのだ。

 直撃こそ免れたものの、体を浮かすほどの爆風と衝撃にレイは部屋の隅に置かれたパイプ椅子を巻き込んで転がった。その際に肩を強く打ち付け、思わずうめき声をあげる。それはつい先日、ある戦いの中でナイフを突き立てられた傷口のある箇所だった。

 倒れ伏したまま首だけをよじり、怪人に目をやる。すると視界いっぱいが真っ白な光に塗りたくられた。レイは咄嗟に椅子をつま先で蹴りやり、それを迫りくる光に向けてぶつけた。

 再び全身に衝撃と爆発、肌を焼き焦がすような膨大な熱が叩きつけられ、レイはたまらずステージの方まで吹き飛ぶ。頭から固い床に叩きつけられ、一瞬、目の前に星が散った。前髪を留めていたヘアピンが外れ、瓦礫の下に滑り込む。

 成すがままにいたぶられるレイを前に怪人が、乾いた笑いをあげる。からからからと、まるでガラスのコップに入れた氷があちこちにぶつかっているかのような声をあげている。その音が、室内に白々しく反響していく。

 怪人のあまりに無機質な声色におぞましいものすら感じながら、レイはステージの上に意識を集中させた。怪人の反応をキャッチし、この部屋に足を踏み入れた時に見た情景がふと脳裏に蘇る。

 口の周りに血を滴らせた怪人がドアを開けたレイを、じっと観察している。その両腕には若い女性が2人抱きかかえられていた。彼女たちは気を失っており、目が虚ろで、逆さになった頭からは絶えず血が零れ落ちていた。その女性たちの顔色の悪さが今でも、瞼の裏に焼き付いている。

 あの女性たちはいま、ステージの奥、丸められた赤いカーテンの後ろに隠されていた。怪人がそうしたのだ。そういう習性なのかもしれないし、もしかしたら何かの意味があっての行為なのかもしれない。しかしどちらにせよ、彼女らがステージ上に放置されているという事実は正しいに違いない。

 自分の現在位置と、女性たちの位置。2つを頭の中で素早く照合させる。視界に映る物や壁の位置、背中に伝わるステージの感触からおおよその距離を弾きだすと、レイはほとんど無意識に自身の影を伸ばしていた。

 鳥の形に変化した影がステージを昇り、その上をするすると滑りだす。まるで獲物に狙いを定める蛇のように進行する影はステージを縦断し、女性が眠っているカーテンにそっと近づいていく。

 鳥の影が、カーテンを覆い尽くす。まるで、そこにだけ月のない闇夜が出現したかのようだった。艶やかな色合いのカーテンに暫し、影を浸す。レイがそうしたのは、たった1秒か2秒の間だけだった。すぐさま足元に戻すと影は元通り人間の形になり、何事もなかったかのようにレイの足元で縮こまっている。

 帰ってきた自分の影をレイは、テレビの画面越しに見ているかのような、どこか現実感のない思いで見下ろしている。頭の中に霞が張っているのは、けがのせいだと思い込もうとする。断じて、怪人の力の副作用ではないのだと、自分で自分を説得させる。

 程なくして直前まで鳥の影に覆われていたカーテンの向こうから、青白い光が漏れ広がった。続けて光の球体が、カーテンを突き破って外に飛び出す。球体はキャッチャーに放られた野球ボールのように、空中で無数の縦回転を刻みながら天井の怪人目がけて一直線に弾きだされていった。

 けろん、と声が聞こえた。そしてその正体を見極めるよりも先に、光の球体が巨大な蛙へと姿を変えた。

 球体から首が伸び、手足が生え、体形や骨格がすり減らされるようにして形成されていく光景は、どこか優美なものさえ漂っている。

 光の色である薄い青から、黄緑色に変色した蛙はぐんぐんと天井に近づいていき、そしていかにも脆そうな灰色の天井に頭から激突した。

 衝撃が振動となって天井に波及し、吊り下がったいくつものライトが激しく揺れ動く。徐々に振れ幅は大きくなりそのうち遠心力にさらわれるようにして、そのうちの1つが落下した。

 落ち行くライトの真下には、怪人がいた。腹にその直撃を浴びた怪人は両手足を天井から引きはがされ、抵抗するもライトと共にあえなく墜落していく。

 レイは目を閉じた。自分の狙いが的中したことにひとまず安堵する。

 深く息を吸い、尖らせた唇の隙間から、口笛を吹くようにして吐く。それから自分の影を鳥の形に再び変化させると、怪人の落下地点目がけて影を伸ばした。

 宙に浮かんでいるのならば、引きずり落とせばいい。そう目論んでの行動だった。しかし、いつまでたっても怪人の落下音が聞こえてこないので、レイは不審に思った。恐る恐る瞼を上げると、そこにはステージの光を背負って伸びたままの自分の影が、淡々と床に貼り付いている。怪人の姿はどこにもない。

 唾で喉を湿らし、天井を仰ぐ。するとそこには高く跳躍し、中空を舞う怪人の巨体があった。

 怪人の口からは蛙の足が飛び出ていた。咀嚼と、舌で物をすする音が交互に聞こえ、蛙は怪人の口内へと姿を消す。怪人がたった今喰らったのは間違いなく、つい先ほどレイが死体から生みだした蛙だった。

 床に向けられている怪人のその腹部が、肉が擦れ合うような生々しい音をあげて陥没する。まるでスポンジを指先で突いたような跡がそこには広がり、間もなくして、その腹からもう1本腕が飛び出した。

 あまりにも意外な展開にレイは絶句する。そして理解した。あの腕を伸ばして床を叩き、怪人は自らの体が墜落する前に再び跳びあがったのだと。しかし怪人が影の上に落ちてこなかった理屈を導き出せたからといって、この状況を打破できる算段など皆無に近い。新たに出現した怪人の大木のように太い第3の腕は、レイの首を正面から掴みあげ、持ち上げた。

「あっ……」

 声は出せとも喉仏を指先で圧迫されているため、呼吸ができない。レイはたちまち、天井から伸びた腕に吊り下げられている格好になる。怪人が天井に貼りつくと、レイの両足が床から一度に離れた。そしてしなる床の感触がまだ足裏に残るうちに、ステージ目がけて投げ飛ばされた。

 背中と肩に痛みを感じた瞬間、ステージ上で倒れていた。そんな感じだった。

 苦痛に顔を歪ませ、必死に肺へと酸素を送り込む。ぶぶん、という空気を震わすような音が聞こえたので周囲を窺えば、何てことはない、レイはギターの上に落ちていたのだった。下敷きになったギターは板が割れ、弦が切れ、ぺしゃんこに潰されている。後頭部を強く打ち付けたためか、頭全体が激しく痛んだ。

 動かぬ体に鞭打って、首だけを怪人の方によじる。右肩の傷口が開いてしまったのか、生温い感触が腕を伝った。肩が熱をもち、脈打っているのを感じる。

 だからけたたましい音をあげてドアが蹴り壊された時も、レイはしばらく夢の中を漂っていた。どこか自分の世界ではないような、ビニール製のカーテン越しにその音を聞いているような気分だった。数刻遅れてそちらに目をやる。まだ耳の奥には、弦の震える音が残っている。

 砕けたドアと舞いあがる埃の向こうから、2人の男が現れた。薄暗く淀んだ景色の中に並び立ち、天井の怪人とレイとを交互に睨みつける。

「レイ。また随分、やられたようだな」

 スーツ姿の男の方が言葉を発した。痩身の中年男性で、髪は肩にかかるほど長く、精悍な顔つきをしている。鼻の下に生えた髭が、その全身に漲る威風堂々とした雰囲気を顕にさせていた。腕組をし、ふてぶてしい態度で状況を観察している。

 その隣には、灰色のタンクトップにジーンズという出で立ちの男、狩沢洋二が立っていた。タンクトップから突き出た二の腕は丸太のようで、体つきも筋骨隆々としている。艶のある黒い短髪で歳は30代後半にみえる。口をへの字に固く結び、顔面の筋肉1つ動かさずレイを見つめている。

「お父さん……」

 蚊の鳴くような声でレイはスーツ姿の男を呼ぶ。スーツ姿の男、すなわち、レイの父親である黒城和弥は背広のポケットに手を突っ込むと、1歩前に足を踏み出した。

「だが、もう安心するがいい。この私がきたからには、もうお前に手を出させはせん」

 くぐもったライブハウス内の空気を貫通するかのような、研ぎ澄まされた声調で黒城は宣言する。ポケットから手を引き抜くと、そこには銀に着色された長方形の板が握られていた。厚みはほとんどない。CDケースよりもそれはまだ薄かった。

 見ると、いつのまにか狩沢のほうも、黒城と同じような板を手にしていた。色が白という大きな相違点こそあるものの、形状に変わりはない。彼は一歩前に出ると、入ってきた時と同じように黒城の横に並んだ。

 そんな2人目がけて、双頭の怪人から二筋の熱線が吐き出された。空気を溶かすような音をあげて、赤い直線は到着した戦士たちに容赦なく降りかかってくる。

 しかし2人はまったく動揺する気配さえ見せずに、顔色1つ変えずに、掌に収まったその板を熱線に向けてかざした。黒城はさらに腕を振り抜き、熱線をその板で派手に弾き飛ばす。狩沢の方も同じように、板で敵の攻撃を難なく受け止めた。

「愚かだな。この私を知らぬ無知か、それとも知っているうえでの蛮勇か。どちらにせよ己を恥ずべき行動だ」

 黒城はありありとため息をついた。鼻の下の髭がそよぐ。それは怪人を高台の上から精一杯見下し、その頭を足の裏で踏みにじるような態度のこもった吐息だった。

「その態度、この私が粛清してやらねばならん。せいぜい感謝しろ。この私の手によって、その命が奪われることを」

 黒城は胸の前で両腕を交差すると、すぐさま空気を押し広げるようにして解放した。次の瞬間、室内の薄闇を隅々まで溶かしだすような強烈な光が彼の全身を覆う。最初は宛所もなく漠然とした姿を持っていた光だったが、徐々に鎧の形となって黒城を包みこんでいく。

 続けてもう1つの光が立ち昇った。狩沢だ。彼は腹に板をかざしたままの直立不動で、黒城と同じように光と一体になっている。

 室内の闇が勢力を取り戻し、その領域を広げていく。2人を囲んでいた光が徐々に弱まり、余韻を残しながら彼らの体の中心へとそれらは遠ざかっていく。そしてついに光はその姿を完全に消した。代わりに現れたのは装甲服を全身に纏った、2人の戦士だった。

 "対怪物戦専用装甲服マスカレイダー"。それがその鎧につけられた名前だった。

「まずは降りてきたまえ。上に立つのはこの私だ。いかなる覇者であろうとも、私を見下す権利など持ち得ない」

 銀色の装甲に、顔面をくまなく覆う仮面から覗いたレモン色の双眸。黒城が纏った装甲服、"アーク"は右手首のハッチを開くと、そこからせり上がってきたハンドガンで、怪人を狙撃した。銃弾を浴びせられた怪人は2つの口から悲鳴を重ねながらも、落とされまいと無我夢中で天井を引っ掻いている。

 アークの両肩に吊り下がった半円状の傘が、物々しい音をあげて持ちあがった。その下から一対の巨大な砲口が姿を現す。黒城が仮面の下で鼻を鳴らすと、その砲口から光の球体が破裂音を振りまきながら高速発射された。

 口を開き、熱線を放ちかけた怪人に2つの光の砲弾が直撃する。爆音と熱風が一瞬部屋を満たし、天井から一斉にライトが床に落ち、次々と砕け散っていく。それに混じって、怪人も鈍い音をたてて墜落してきた。甲高いうめき声をあげながら、床を引っ掻くようにしている。

「これで私の娘と同じ格好になったようだな。しかし、安心しろ。これからが本当の始まりだ」

 アークは右腕のハッチから覗くハンドガンを怪人に突きつける。レイは恐る恐る頭をあげ、慎重に体を起こした。頭の後ろに軽く掌を這わせると、そこが熱を持っていることに気付いた。出血はなかったが、こぶができている。しかし天井から突き落とされてこの程度のダメージだったのだから、不幸中の幸いだったと評さずにはいられなかった。肩にも痛みはあったものの、血で服が湿っているというようなことはないようだった。体の痺れも、徐々に抜けてきているようだ。

 自らの体を大まかにチェックし立ちあがろうとすると、怪人のひび割れた声が室内をこだました。驚いてそちらを見やると、床の上をもがき苦しみながら胸を掻き毟る怪人の姿があった。

 アークはそれを無言で見つめている。どこか二の足を踏んでいるような気配すらあった。父親にしては珍しい姿勢に、レイは捉えどころのない不安を覚える。黒城と、躊躇だとか遠慮だとか、そういう感情とは無縁のものだと思い込んでいた。

 突然、怪人の動きがぴたりと止まった。

 そして腕を下ろし、死んだ蛙のように大の字で寝転がるとその腹がめきめきと音をたてて縦に裂け始めた。第3の腕が伸びてきたのと同じような具合に、再び指を差しこんだスポンジのような皺が寄る。

 そして今度は腕ではなく、そこから黒いものが塊となって飛び出してきた。目を凝らさずとも、その光景は心の中にすり抜けて入り込んでくる。それは無数の生物が一丸となって、立ち昇る煙のような模様を描き出しているのだった。

 それはゴキブリだった。

 子猫くらいの大きさはある。一般的に見る昆虫ではなく、それもまた怪人だった。それが分かるのはそのゴキブリたちが二本足で立ち、足には靴を履き、まるでマスコットキャラクターのような風貌をしているからだった。そんな彼らが怪人の内側から腹をくぐって次々と現れる姿は、木の洞から羽ばたき出てくる小鳥のようでもある。しかし小鳥がもつ愛らしさとは真逆の、鳥肌がたつほどおぞましい景色がそこには広がっていった。

 ゴキブリは次々と、怪人の腹から溢れ出てきた。

 それほど広くはない室内に2、30匹は蠢いている。もともとあった暗がりの濃度が、ゴキブリたちの表皮の黒さでさらに深いものとなる。その数が増えるのと反比例して、双頭の怪人は仰向けになった体勢のまま白く濁っていく。まるで新緑が枯れ木と化していくまでを早回しで観ているかのようだった。

 ゴキブリに生気を抜かれているのか、それとも元からゴキブリが中に詰まった怪人だったのか、その原因ははっきりと分からない。分かりたくもなかった。レイは全身にむず痒さを感じて、1つ身震いする。首筋を摩るような羽音がまた、胸をしきりに引っ掻くようだ。

 アークの周囲でちかちかと光が瞬く。ゴキブリの両腕には鋭いカッターが備わっており、それがアークにぶつかる度に火花があがり、衝撃がその身を揺さぶっているのだった。いくら振りほどいても纏わりついてくる、その手数の多さにさすがの黒城も困惑している。銃弾を周囲にばらまくものの、その数の多さ故に照準を絞ることができない様子だ。逆に迎撃の隙を突かれ、アークの体からは絶えず火花が舞っている。

「ふん。そんな脆弱な武器の攻撃、このアークの前では赤子の駄々も同然……が、少々、目触り、耳障りだな」

 毒づきながら両肩のバインダーを再び跳ねあげ、光球を炸裂させる。だがゴキブリたちは予知能力でも持ちあわせているのではないか、と疑いたくなるくらいの身のこなしで攻撃を難なく回避すると、縦横無尽にアークをあらゆる方向から切りつけていった。そして足元がふらついたアークの首元目がけて、カッターを振りかざすゴキブリが飛び込んでくる。

「この程度の力でこの私に刃を向けるとは……笑止!」

 アークは右腕のハンドガンからの銃弾を命中させカッターを砕くと、バランスを崩すゴキブリを左手で掴みあげ、そのまま一息に握り潰した。またぞろ体の内側をぞわぞわとさせるような気味の悪い悲鳴をあげ、ゴキブリは絶命する。アークはその死骸を足元に落とし踏みつけると、周囲を見渡した。

 気付けばアークはその周り一帯をゴキブリにすっかり囲まれていた。円陣を組み、一斉にカッターのついた腕を突き伸ばして、そのおぞましい生物たちは一斉に襲いかかってくる。

 だが、その攻撃がアークの身を打つことはなかった。

 ゴキブリたちはアークの周囲に忽然と現れた、半透明の膜によって床に叩き落とされた。

 その膜はさらに第2陣、3陣と突っ込んでくる敵も続けて弾き飛ばす。アークを取り巻く不明瞭で、不安定で、不確かな壁が彼を外敵から守っていた。黒城はアークの下で鼻を鳴らすと腕組をしたまま、肩越しに背後へと視線をやった。

「狩沢。お前か……余計なことを」

 まんざらでもなさそうな様子で、そんなことを呟いている。その目の先には、ゴキブリの群れを物ともせずに歩みを進める装甲服の戦士、"エレフ"の姿があった。

 その中身が狩沢であることをレイは知っていた。だが、エレフを実際にこの目で見たのはこれが初めてだった。

 鉄色の重量感に満ちたボディ、全身のあらゆる箇所を繋いだパイプ、顔をすっぽりと覆っている仮面は逆三角形型をしており、目にあたる部分には線が1本引いてあるだけだ。工場で用いられる油圧機を人の形に組み上げたような印象をその外見から受けた。

「だが、誉めてやろう。私の役に立てたことを光栄に思いたまえ」

 アークを囲んでいた膜、が音も立てずに消える。それを見計らったかのように空中を旋回し、再度殺到してくるゴキブリたちをアークは回し蹴りで根こそぎ薙ぎ払った。さらにハンドガンからの銃弾を掠らせて、確実にゴキブリの手足を千切り飛ばしていく。そしてふらふらと覚束ない軌跡を描きながら滑空してくるところを、続けて容赦なく拳で叩きつぶす。

「これは神の業火だと思いたまえ。虫ごときがアークに触れたこと、地獄で購うがいい」

 両肩のバインダーが跳ねあがり、その下から飛び出した砲口が光を帯びる。吐きだされた光の砲弾はゴキブリたちを一瞬で、次々と焼き払っていった。

 アークと背中合わせに立つエレフは、銀と赤に色分けされた拳銃を手にしていた。その引き金を引き、ゴキブリを矢継ぎ早に狙い撃っていく。命中精度こそ低く、多くのゴキブリたちは弾丸をすり抜けていってしまうものの、その威力は恐ろしく高かった。

 たとえ直撃しても敵の体躯の一部を削ぐことが限界なアークのハンドガンとは異なり、エレフの所持する銃はこのサイズの敵ならば掠らせただけでも、木っ端微塵に破裂させることのできる威力をもっている。

 銃身に付いているコッキングレバーを引き、エレフは弾丸をチャージすると再び引き金に指をかける。6発。それが1回のチャージで撃つことのできる弾数の限界であるようだった。

 耳を劈くような轟音とともに、エレフの放つ弾丸を受けたゴキブリたちが、少量の肉片を散らせて粉砕されていく。しかし銃弾をすり抜けてくるものもまた多い。機敏な動きで大きく回り込み、あらゆる方向からエレフに切りかかろうと目を光らせてくる。

 しかしエレフは冷静だった。

 拳銃の側面部分には昔のオーブントースターに付いていたようなつまみと、1から3までを記したメーターが搭載されている。エレフは両腕を下ろすと、慣れた動作でそのつまみを2の場所まで動かした。

 エレフの周囲に半透明の膜が発生する。それに阻まれたゴキブリたちは膜に正面から激突し、自滅していく。蚊取り線香の煙にあてられた蚊さながらに、床で仰向けに寝転がるゴキブリたちを見下ろし、エレフはまったく感情を含まない、精錬された動作で銃弾を撃ち込んでいく。薄闇を背負うその佇まいには、白蟻を駆除する業者じみた淡白さがあった。短い間隔で聞こえてくる破裂音にレイは思わず顔をしかめ、左手で片耳だけを塞いだ。

 薄気味悪い羽音が近づいてくる。レイは視界の焦点を戦いの場から、己の目前へと移した。

 すると2人には到底敵わないことに感づいたのか、それともいかにも弱そうな対象を発見したからなのか。装甲服の戦士の猛攻から上手く逃れた数匹のゴキブリたちは軌道を変更し、一斉にレイを目指していた。

 満足に回避行動もとれず、しかも敵は飛行している。レイは自分の影を鳥の形へと変えようとして、下唇を噛んだ。これではあの双頭の怪人同様、敵の意識を乗っ取ることができない。ゴキブリの腕から直接生えているナイフが、ステージのスポットライトの光を反射して闇の中で瞬いてみえる。それが恐ろしいスピードで、レイを切りつけようと迫ってくる。

「レイ!」

 父親からの呼びかけに、レイは目を向けた。するとそこには両足と片翅のもがれたゴキブリ

を、フリスビーのように投げ飛ばしてくるアークの姿があった。

「お父さん!」

 薄闇を舞う傷ついたゴキブリは空中を2回ほど回転し、飛行中のゴキブリを数匹ふっ飛ばして、ステージ上で1度バウンドした。レイは父親の真意をすぐさま察し、影を鳥の形へと変貌させる。そして2度目にバウンドするだろうと思われる地点へと、その影を素早く配置した。

 レイの能力も、そして怪人であるという事実も、この場面で知っているのは黒城ただ1人だけだ。レイはゴキブリという名の親子のバトンを受け取ると、影に浸らせ、その意思を完全に奪取した。意識することも、思考を働かせることもせず、両足のないゴキブリはまるでそうなることが必然であったかのように、その術中に落ちた。

「ゴキさん、お願い!」

 床に落ちたゴキブリはレイの声にふらふらと身を起こすと、器用にも片翅をばたつかせて宙に浮かんだ。そしてレイに急迫するゴキブリの集団に顔を向けると、キッと仲間たちを睨みつけ、空気を両手でかくようにして猛進していった。

 思いがけぬ仲間の反乱に戸惑ったのか、集団の動きがほんの一瞬止まった。その隙をレイのゴキブリは敏感に捕まえ、先頭にいたものを両腕のカッターですれ違いざまに切り刻んだ。さらに続けて、両腕を横に伸ばしたままの体勢でぐるぐると回転し、プロペラのように集団のど真ん中を突っ切っていく。

 回転に巻き込まれたゴキブリたちは捻れ、裂け、千切られて次々と床に落ちていく。大小様々な黒いゴミが半紙に落とした染みのように散らばっていく。ナイフには当たらなかったものの、回転の力で空域から振り落とされたゴキブリたちは、すかさずレイが影でさらった。

 合計5匹のゴキブリを自らの支配に置いたところで、レイの周囲に敵の姿は見えなくなった。

 仲間に無理やり引きこんだゴキブリたちは、レイが命ずるままにカーテンの裏側へと身を隠した。表に出しておけば、事情を知らない狩沢が殺してしまうだろうということは容易に想像できる。レイの手中に入り、人に害悪を与えないことが約束された以上、攻撃をさらに加えられることは避けたかった。

 怪人だから、という理由だけで殺されるのならば。レイもまたその対象となってしまうのだから。

 腹の底に響くような唸り声が耳朶を打つ。

 双頭の怪人が両腕を付き、しこを踏むような姿勢で起き上がり始めていた。天井を自由自在に移動していた頃に比べると、明らかに痩せ細っている。目には力がなく、頬もこけていた。体色も灰色に変化している。それは死を彷彿とさせた。砂漠、と喩えても正しいかもしれない。

 命を吸い、生命がはびこることを許さない死の出発点。すでにゴキブリは全滅している。見る限り、残すところあと、その怪人のみだった。

 アークは腕を組んだ姿勢で怪人を眺め、鼻に息を通した。

「起き上がってこなければいいものを……。まぁ、いい。アークに歯向かったこと、私の娘を傷つけたこと、不用意に人を殺めたこと。3つの罪、すべて私が裁いてやる。せいぜい感謝したまえ」

 黒城がアークの中で口上を告げ終えたのと、2本の熱線が宙を切り裂いたのはほぼ同時だった。

 アークはバインダーを上げ、エネルギー弾を熱線に正面から叩きつけた。強烈な熱と熱とのぶつかり合いに空気がひしゃげ、爆発が天井の一部を容赦なく削り取る。アークは跳びあがると噴きあげる白い煙の中を突き破り、空中で腕を大きく引くと、怪人の頭の片方に鋭い拳をめりこませた。

 エレフは銃のつまみを2に運ぶと前方に光のシールドを発生させ、熱線を防御した。

 熱線の威力が殺され散り散りになるのを見届けてから、瞬時にシールドを消す。そしてまともに照準を合わせる素振りすら見せず、引き金を次々と引いた。銃声が室内に反響し、繰り出された銃弾が怪人の両腕を一瞬で吹き飛ばす。胸に着弾すればその部位一帯の肉が削がれ、顔面に当たればその半分を円の形に切り取っていく。

 2人のマスカレイダーの攻撃をほぼ同時にくらい、怪人は地響きをたてて床に転げた。さらに両足もエレフの銃弾によって跡形もなく破壊される。わずか数秒で四肢全てを失った怪人はか細いうめき声をあげて、その身を揺すっている。

 エレフはゆっくりと歩を進めながら、銃のつまみに手をやった。今度はメーターが3を指すように調節する。彼が足を踏み出すたびに鉄同士が擦れ合うような音が、空虚な室内に鳴り渡る。

 その右腕が白い閃光に包まれ始めたのは、その直後のことだった。

 エレフは銃を腰のホルスターに収め、怪人に接近すると、その胸を右足で踏みつけ、もう片方の足で肩のあたりを床に押し付けるようにした。そして弓の弦を引く動作さながらに右腕を大きく振り上げ、スッと呼吸を整えた。レイはその瞬間、空気が塩をまぶしたように引き締まるのを感じ、喉を唾で鳴らした。

「ふんっ!」

 エレフは太い声を発すると、拳を振り落とし、怪人の体を打ち砕いた。彼の拳の光が怪人に乗り移り、沸きあがるおぼろげな光の中で怪人はその身を蒸発させていく。

 エレフは完全に敵が消滅したことを確認すると、何事もなかったかのように踵を返した。その一部始終をみていたアークが不満そうに鼻を鳴らす。だがそれだけで、別段不平を洩らすことも、悪態をつくこともなかった。

 レイは安堵の息をつくと、そのままステージにへたり込んだ。肩が脈打ち、その度に強い痛みが襲いかかる。ライブハウスには5匹のゴキブリを除いて、怪人の気配はない。そのことを2人に伝えると、笑う膝を押すようにしてステージから飛び降りた。視界の端で、エレフがこちらのことなど気にもかけずに、早々に部屋を出ていくのが見えた。ドアが完全に閉まるその前に、レイは慌てて声をかける。

「狩沢さん、お疲れ様でした。またよろしくお願いします」

 丁寧に感謝を伝えると、エレフは立ち止まり、ドアの隙間からこちらを窺うようにした。それから小さく顎を引くような反応を返すと、ドアの向こうに消えていった。

「気に入らん」

 腕組みに仁王立ちという姿勢で、アークが不機嫌そうな声を漏らした。暗闇に沈むその装甲は影を背負い、いつもより殊更重苦しく見えた。

「この私を前にして挨拶もなしとは、大した度胸だ。礼儀もなければ、弔いもない。奴らしい」

「エレフ……だっけ。あれ、完成してたんだ。凄いね。これで4体目でしょ? 時代はハイスピードだね」

「今日が初の実戦だ。お前から電話をもらった場所に、奴もいてそのままついてきた。まぁ、今日だけは華をもたせてやろうと思ってな。初登場補正という奴だ。次回からはこのアークと、黒城和弥の独壇場となる。1度も出番がないほど、不憫なことはないからな」

「お父さんは優しいね」

「マスカレイダーは、アークただ1人でいい。この私がいれば十分だ。お前もそう思うだろう?」

「そうだね。お父さんみたいなのは、2人もいらないもんね」

 いつもとなんら変わらぬ黒城の調子に、レイはため息で応じる。威風堂々、唯我独尊が父親のキャッチフレーズだ。

「そうだ。そんなことはどうでもいいが、レイ」

 自分から話を切り出したくせに、黒城は自分で話題を投げ捨てた。自給自足だ。それから黒城は、装甲服のベルトのバックルに手をかけた。

「お前は平気なのか。まぁ、私の娘だから大丈夫だろうとは思うが。心配するだけ、損だとは思っているが。一応、念のため、万が一、何かあった時のために聞こう。大丈夫か。怪我とかはないのか」

 バックルを引き抜き、アークの装甲服を解除した黒城が表情1つ緩めずこちらに歩み寄ってくる。レイは肩にちらりと目をやってから、あえて微笑んだ。本当の痛みを顔に出すまいと、奥歯を噛みしめる。

「うん。ちょっと肩が痛いだけ。でも大丈夫、すぐ……治ると思う」

「そうか。無理はしないでくれたまえよ。悪化したら、大変だからな。お前がよくとも、私が困る」

 黒城はレイの手首を掴むと、その手を引いた。指先から伝わってくる父親の体温にレイはハッと息を呑む。その温もりに呑みこまれ、途端に頬が熱くなった。

「うん……ありがとう。お父さん」

 感謝を告げたレイはこの火照った気分を変えるために、首をよじってステージ上を見た。そのカーテンの向こうにはゴキブリ怪人と、まだ女性の死体が1つ置き去りにされたままになっている。

 死体の運搬も戦闘による傷跡の後片付けも、レイたちの役割ではない。他のマスカレイダーズのメンバーの仕事だ。しかしそうであったとしても、このまま無視をして通り過ぎることはできなくて。

「お父さん、ちょっと、ごめん」

 レイは黒城から手を抜き取ると、ステージの方に向き直り手を合わせた。目を深く瞑り、黙とうする。それから今度は光の中に散っていった怪人のいた場所を向き、また手を合わせた。

 怪人もまた、罪のない犠牲者の死体から出来上がっている。他者の命を受けて行動することしかできず、自分の意識さえももたない、空っぽの生き物。

 そのあまりにも悲しい魂に対してレイはただ、今はただ、擦り切れた気持ちで黙とうを捧げることしかできないのだった。

 


鎧の話 1

 夕陽の射す公園のベンチに寝そべりながら、坂井直也は携帯電話を開いた。

 通話もメールも着信がないことを確認し、ため息をつく。今日1日だけでも何度携帯電話を開き、こうして失意の吐息を空に浮かばせたか分からない。ベンチは木陰にあり、時折風がそよぐため、思いの外快適ではあった。直也は青から黒へ移り変わっていく空色を眺めながら、雲の流れを目で追っていく。この公園に来てからすでに3時間あまりが経過していた。

 園内には直也の他に、子ども連れの母親たちや散歩をする老夫婦の姿があった。遠目には、フリスビーを投げて犬と戯れているジャージ姿の女性が見える。公園の正面には5階建ての商業ビルが建っていた。直也はその入口の自動ドアをちらりと窺い、青い腕時計に目をやる。6時を少し回ったところだった。

 直也の今日の仕事は、またしても浮気調査だった。

 調査対象は商社ビルに勤める会社員で、依頼主はその妻だ。最近、夫の帰りが遅くまた不審な点も多いので素行を調べてほしい、というものだった。仕事が終わり、調査対象が退社するのは6時半。あと30分、直也はビルを見張り続けていなくてはならなかった。ここ2、3日にかけて盛り返してきた蝉のオーケストラが非常に鬱陶しい。日陰で寝ているだけなのに、汗で湿りきったシャツはごわつき始めていた。

 なんだか落ち着かず、踵でベンチを等間隔に小突く。それでも気持ちを抑えきれなくて、直也は身をよじった。携帯電話にまた目をやるが、着信のあった気配はない。

「なんでだよ……。どこ、行っちゃったんだよ」

 胸を満たす焦燥に、思わず独りごちる。吐きだす息に不安を乗せるが、いくら宙に浮かべようとも心のざわめきは収まらなかった。

 恋人である華永あきらと連絡がつかなくなってから、今日で1週間が経とうとしている。

 しばらく旅行に行ってきます。少ししたら帰ってきますから、心配しないでください。

 女子高生らしい絵文字を交えた、可愛らしいそんなメールを一通だけ残して、彼女は忽然と姿を消した。それ以後、電話も通じず、メールの返事もなく完全に音信不通となっている。

 その原因がまったく分からず、直也は戸惑いと不安に支配される他ない。なにかまずいことでもしただろうか、と己の行動を顧みるが心当たりはどうしても見つからなかった。彼女には訊きたいことが本当に山ほどあるのに、なぜこのタイミングでと思う。もしかしたら詰問される気配を本能的に察知して逃げだしてしまったのかもしれない。あきらはそういう人の気持ちに敏感なところがあった。

 ひょっとしたら、自分の気がつかないところで彼女を知らず知らずのうちに傷つけてしまっていたのかもしれない。そんな負の感情が、ぽっかり空いた胸の穴に入り込んでくる。直也はすでに今日何度目になるか分からない、重苦しいため息をつくと、縋るように携帯電話を開く。

 ぼんやりと待ち受け画面に目をやっていると、あきらの家さえもどこにあるのか知らないことに直也は気付いた。家族のことも知らない。どんな人生を送ってきたのかも教えてもらっていない。

 こうして改めて並べてみると、付き合ってもう1年近くであるにも関わらず、彼女について知らないことが多すぎることに気付かされた。2人で築いてきたこの1年は何だったのだろう。暗澹とした思いで、直也は目を閉じる。あきらにとって自分は一体何だったのだろう。次々とマイナスの方向を指す問いが、心に殺到してくる。胸の奥がずきりと痛む。時が刻まれるごとに、その傷口は徐々に押し広げられていくかのようだ。

 痛みをその場限りにでも和らげるために、直也は携帯電話を操作してある動画を開いた。それは数日前、戦友である速見拓也からメールに添付されて送られてきたものだった。

 動画には薄暗い部屋が映し出されていた。埃っぽく、ガラス窓は白く曇っている室内。衛生的な部屋でないことはこれだけでも明らかだ。壁紙は剥げ、電灯は低い音をあげながら明滅を繰り返している。

 部屋の中心にはベッドがあった。

 そこに男が寝かされていた。口には酸素吸入器があてがわれ、顔には幾重にも包帯が巻かれていた。体は太いロープで固く縛りつけられ、彼が身じろぐたびにぎりぎりと音をたてている。

 煩悶のこもったうめき声が、室内に響き渡っている。もがき、苦しみ、枯れた魂を無理やり燃焼させてまで搾りだしているようなこの声を聞いているうち、何だか辛い気持ちになってくる。直也はこの動画を、一度たりとも最後まで観ることはできなかった。

「犯人は二条裕美だ。奴がファルスだったんだ。間違いない」

 都内の喫茶店で拓也に真剣な顔でそう告白されたとき、直也は驚かずにはいられなかった。二条裕美といえばいまや日本を代表とする政治コラムニストの1人であり、彼をテレビで見ない日はない、と断言できるくらいお茶の間の顔となっていた人物だった。しかし現在は行方不明となっており、連日ニュースで報道されている。彼の輝かしい経歴や活躍を追ったドキュメンタリーが製作されているということを、直也はその日の朝にラジオで知ったばかりだった。

 ベンチの上で軽く寝がえりをうちながら直也は動画を再生し、ベッド上の男を観察する。しかしその顔は包帯に遮られて本人であることを確認することは困難を極めた。声も割れて狂ったスピーカーのようになっており、こちらは参考にすらならない。しかし二条の写真を見比べてみると眉毛の形に一致がみられるため、言われてみればそうかも、とは思えた。しかし別人だと言われればそれはそれで信じるかもしれない。非常に曖昧な線だ。

 直也は携帯電話を操作して動画をある場面まで早送りし、停止させた。それはカメラが二条に少しずつにじり寄っていくシーンで、爛れた肌や血の滴る傷口が画面全体を埋め尽くすため、最も刺激が強い場面であるといえた。

 叫び声も大きく、その乱れた息遣いさえも聞き取れるため並の精神ではまともに観ることすら難しい。初めてこのシーンを観たとき、直也もまた胃の中にあるものを戻しそうになった。携帯電話の電源を切っても。瞼を閉じればその光景がありありと浮かんでくるため、その日の夜は一睡もできなかったことを覚えている。

 だがこの残酷な場面に、重要なことは隠されていた。それが今、直也が停めている場面。画面外から出てきた手によって、横向きに転がされた二条の背中がアップで映し出されるところだ。

 そこに黒い鳥はいた。鳥型の痣だ。翼を大きく広げ、つんと嘴を上向かせている。大きさは縦横5センチくらいで、痣としては割と大きいように思えた。

「黒い鳥」

 二条の背中に刻まれたその痣を凝視し、直也は一人呟く。記憶に間違いがなければ、それは死んだ元恋人の首筋にあったものと全く同じ形をした痣だった。

 ファルス、つまり二条は前回直也と拳を突き合わせた際、黒い鳥という謎の言葉を残して逃げていった。この痣はその黒い鳥との関連性はあるのだろうか。もしかしたら元恋人の死に二条が関わっているのだろうか。様々な考えを巡らすが、残念ながらその答えは二条自身に尋ねる他ない。

「とりあえず、二条から怪人とか女性の死体のこととか、色々引きだそうと思ってる。警察に届けるのはそれからでもいい。それが俺たちの総意だ」

 数日前の喫茶店で、拓也もまたそう結論付けた。熱のこもった視線を向けられると、その意見に従わずにはいられなかった。とりあえず何か進展があったら伝えることと、二条を絶対に死なせないことの2点を約束して直也はその日、拓也と別れたのだった。3日ほど前のことだったように思う。

 世間を、約一か月もの間騒がせた、連続女性失踪事件。行方不明者12人の死体が民家から見つかったことで新たな展開をみせたこの事件の犯人が、二条裕美であることが世間に知られれば相当な騒ぎになることは火を見るより明らかだった。

 そう容易く真相を開示するべきではないという拓也の言い分にも、頷ける部分があるのは確かだ。暴露によって発生した混沌の渦に巻き込まれ、明らかにされなくてはならない情報がうやむやになってしまうことだけは避けなくてはならない。

 電話の着信があったのは、また動画を最初から見ていた時だった。二条の血を吐くような叫び声が大きく、そして痛ましくなり、停止ボタンを押しかけたところで画面が切り替わった。

 もしやあきらからかと思い、わずかな期待に胸を膨らませるが、そこに表示されていた番号は見知らぬものだった。固定電話からのものだ。直也は体を起こし、眉をひそめて困惑する。画面を見つめたまま、3回4回とコールを聞き流し、5回目に差し掛かるところで通話ボタンを押した。携帯電話を耳に当てると、男の声が聞こえてきた。

「坂井直也君、ですよね? お久しぶりです。僕誰だか分かります?」

「え、え……すみません。間違い電話、とかじゃないですよね?」

「え? じゃあ君は坂井直也君じゃないんですか? おかしいなぁ、間違い電話かなぁ。確認したはずなんだけどなぁ」

「いや、俺は坂井直也ですけど」

「え? えっと……なにが、ですか」

「え……それはこっちが聞きたいんですけど」

 何だかしどろもどろになってしまう。仕事柄、見知らぬ人と会話をすることには慣れているはずなのに、この男の声調には他人の心を揺るがし、屈服させるような力強さが滾っていた。

 直也は電話から口を離すと一呼吸置き、頭の中を整理してから口を開いた。

「俺は坂井直也です。それに間違いはない。で、そちらはどちら様?」

「あー、やっぱり分からないかぁ。そうだよなぁ、3年ぶりだもんな。無理はないか」

 3年ぶり、という言葉に直也は表情を強張らせる。直也にとって3年、という年月はひときわ重大な意味を持っていた。先ほどよりも幾分か多く緊張を纏い、慎重に声を発するよう努める。

「あの……あなたは?」

「うん。あぁ、じゃあ改めて自己紹介しておこうかな」

 電話の向こうで男は小さく笑う。それはけして嫌味なものではなく、緊張感という茨の鎧を赤子の手で1つ1つ剥いていくような柔らかさを含んでいた。

 そしてその笑い方に導かれる形で、直也の記憶の奥底からこの男に関する情報が引っ張りだされた。やはりこの男と直也は以前、会っていたのだ。しかしその記憶は同時に起きたより強い衝撃にかき消され、記憶のゴミ箱に放り込まれてしまっていた。

 しかし今、直也はこの男のことを完全に思い出した。だから彼が次に発する言葉も予想することができた。そしてその予想は見事的中し、演技がかった咳払いの後で男はかしこまった口調で話し始めた。

「えっと。僕の名前は柳川昭博。3年前、SINエージェンシー放火殺人事件を担当した刑事でして。あの節は、どうもお世話になりました……」




魔物の話 2

 新宿から帰ってきたレイは、病室の丸椅子に腰かけていた。

 ベッドには親友である天村悠が上半身を起こして座っている。彼女は白のワンピース姿だった。カーテンの隙間から射しこむ夕陽が、彼女の白い手に小さな陽だまりを落としている。窓の向こうでは、夏を主張するかのように蝉がしきりに鳴き喚いていた。壁にかかったパンダ柄の時計から、午後6時を示すオルゴールが流れてきた。

「悠。これ、お見舞いに買ってきたんだけど……」

 レイはケーキの入った箱を悠に差し出した。右肩には新しい包帯が巻かれていた。痛むものの、肩があげられないほどではない。だから両手でしっかりと箱の底を掴むことができた。

 それは、新宿へ行った帰りに買ってきたものだった。通りがかりで店内に入ってから知ったのだが、雑誌などでも頻繁に紹介されるなかなか有名な店であるようだった。リボンが付いたその白い箱の中には、店員に見つくろってもらったケーキが数個入っている。そこからクリームの甘い匂いが漂い、病室内に浮かんでいる。

「ほら。俺からもお見舞い……」

 レイの隣に座る天村佑も、リボンの付いた箱を取り出した。箱の色はスカイブルーで、店名を象った雲が全面に浮かんでいる。限界まで崩した筆記体で書かれているため、その名前はほとんど読むことができなかった。その箱からもレイの持ってきたものと同じような甘い匂いが漏れている。レイと佑は箱を摘みあげたままの姿勢で、顔だけを見合わせた。

 2人の間に漂う困惑をよそに、悠は笑顔で応じた。

「ありがとう、たぁくん、レイちゃん。ちょうどいっぱいケーキ食べたいところだったの。みんなで一緒に食べようよ」

 悠の提案に反対する理由もなく、レイは箱を開けて中からケーキを取り出した。

「とりあえず俺のは、冷蔵庫にしまっておくよ。そんなに開けても食べられないだろうし。夕飯の後のデザートにでもしろよ」

 佑が席を立つ。病室の隅には四角い小型の冷蔵庫が置かれていた。その扉を開け、ケーキを箱ごと中にしまう。幸いにも冷蔵庫には氷くらいしか入っておらず、箱を入れるといっぱいになってしまった。

「でも、今食べて大丈夫? これから夕飯でしょ。食べられなくなっちゃうんじゃない?」

「あ、そっか。もう6時だもんね。でも、大丈夫だよ。せっかくレイちゃんが持ってきてくれたんだもん。食べなきゃ腐っちゃう」

「なんかごめんね。こんな時間に、ケーキなんか持ってきちゃって」

「ううん。いいよ。ケーキ大好きだし……嬉しい。ありがとう、レイちゃん」

 悠が微笑む。くたびれたダックスフンドのように左右で束ねた髪が、わずかに揺れた。むき卵のような弾力感のある肌に皺が寄る。相手に気負いを感じさせることなく、陽だまりのような優しさを心に射しこませることができる、そんな笑顔を彼女は自然にすることができた。そんな悠の表情が、レイはなによりも好きだった。

「よっし。じゃあ、そっちは冷蔵庫にも入らないし。とっとと消化しちゃおうぜ。早くしないと夕飯にも響くだろうし」

 顔を向けると、佑はいつの間にかプラスチック製のフォークと紙皿を持って立っていた。ちゃんと人数分ある。レイの手からケーキの箱をひったくると、ベッドの脇にある小さなテーブルの上に置いた。

 お願いします、とレイは佑に頭を下げた。それから悠のほうを見た。

「じゃあ、悠はエネルギーいっぱい使っておかないと。お腹いっぱいになってご飯残したら、また看護婦さんに怒られちゃうし……」

「う、うん。でもどうしよう……そんな簡単にお腹減らないよ。お、怒られちゃう」

「じゃあスクワットしてればいいよ。ここで。200回くらい。ほら、数えててあげるから。頑張って」

「200回! 膝が亀になっちゃう!」

「むしろ兎になるよ。足の筋力のせいで」

「兎さん! 目が赤くなっちゃう!」

「むしろ白くなるよ。汗で汚いものが流れ出て。健康にもいいよ」

 他にも色々なアイディアを3人で出しあったが、とりあえずお腹を空かせることは、食べ終わってから考えることにした。腹が減っては戦は出来ぬ、と適当なことを言うと、なぜか2人とも納得してくれたのでおかしかった。

 皿には佑が分けてくれた。悠が桃のショートケーキを取ったので、レイは黒と茶のコントラストが美しいチョコレートケーキにした。佑は残りのモンブランを手に取る。悠は掛け布団から両足を抜くと体を半回転させ、ベッドの端に座るようにした。そして皿にのったケーキとフォークを手渡すと、悠は目を輝かせた。

「近くでみると、すごい迫力だね、このケーキ。桃がいっぱい乗ってる。じゅわーって感じだね」

「そんな、博物館で恐竜みた感想みたいなこと言われても、全然嬉しくないんだからね」

「でも、分からなくはないなぁ。確かに、すごい迫力だ。栗が4つも乗ってる」

 佑が自分のと悠のとを見比べて、目を丸くする。2人からそう言われると、何の装飾もなく、無味乾燥とした地面が広がっているだけの自分のケーキが、なんだかとても質素なもののように感じられてくる。レイは眉をひそめ、ケーキを横から覗くようにして観察する。

「これ、変えようか? 俺はチョコでも大丈夫だけど」

「あ、いえ。大丈夫です。なんだかチョコが、これはこれで可愛く見えてきました」

「そんな動物園でナマケモノみた感想みたいなこと言ってても、レイちゃんつまんなそうだよ」

 悠が唇を尖らせる。図星ではあったので、レイは上唇を舌で引きよせるようにして噛んだ。彼女はこんな風に人の心を透かして見る能力に長けている部分があった。夜の水面のような輝きを持った眼差しで、こちらを見つめるのだ。その濁り気のない視線からは、いかなる暴君も逃げることは許されない。

「私はいつもつまんない顔だよ」

「そんなことないよ、レイちゃんはいつだって可愛いよ」

「悠の方がおしとやかで可愛いよ」

 レイはしれっと言う。悠は頬を赤らめた。

「そんなことないよ」

「そんなことはないなんて、そんなことはないよ!」

 悠が反論する。レイはその様子を窺いながら、小さく笑んだ。

「逆にそんなことあるよ」

「あるの逆はえーと……あ、ないよ! なんてことないもん」

「よく分からなくなってきたから、とりあえず、俺がもらうよ」

 そう言って眉尻を下げると佑は、自分のケーキが乗った皿をレイに差し出した。押しつけるような無骨なものはなく、提供をするような心配りを感じる仕草だった。皿の上では生クリームをかけられ、栗が丸ごとふんだんに使われた豪華なモンブランが胸を張っている。

 始めは断ろうとも思ったが、こちらを見つめる佑の視線があまりにも真っ直ぐだったので、無下にするわけにもいかなくなった。レイは2つのケーキを見比べると、おずおずと手の中のチョコレートケーキを佑に差し出す。すると彼は唇に小さく笑みを宿して、それを受け取ってくれた。

「ありがとうございます、お兄さん。このモンブランかっこいいですね」

「買ってきたのはそっちだけどな」

「じゃあ私が買ったからかっこいいんですね」

「急に自信満々になった……!」

「そういう血が流れてますから」

「自信満々な血?」

「無遠慮な血です」

 父親と血縁的なものはないが、それでも一緒に暮らし、1つの体温を分かち合っているうち血が混ざり合うことがあってもいいはずだ。レイは黒城和弥の娘。その事実が確固たるものである以上、血の繋がりの有無など何の問題にもならない。

 レイと佑のそんなやりとりを、悠はにこにこしながら見ていた。「お兄ちゃんとレイちゃん、いつの間に仲良しだね」と心底嬉しそうに言う。

 悠のためにも、佑とはこれからも仲良くあり続けようとレイはその時思った。たとえいかなる感情が芽生えようとも、悠の前で佑に剣呑な態度を晒すのは止めよう。そう己に誓いをたてた。

 佑も同じことを胸に据えたに違いない。こちらに目をやるなり彼は、笑みを見せながらわずかに顎を引くようにした。

 空調の音だけが耳朶を叩く室内で、レイたちはケーキを食べ合った。有名なだけあり、買ってきたケーキはこれまで食べたどのケーキよりも美味しかった。それともこの状況なら、どんなものを食べたとしても美味しく感じてしまうのだろうか。舌の上に甘いクリームが滑り、温い感触が口の中を埋め尽くしていく。

 佑が、悠の鼻の頭についたクリームを指すくい取ってあげている。悠は目を閉じて、照れくさそうに、しかし嬉しそうにその身を兄に委ねている。その様子を知らず知らずのうちに、レイはぼんやりと眺めていた。2人の間にだけ別の時間が流れているのでは、その景色だけ切り取られ装飾が施されているのではと錯覚してしまいそうになる。

 悠の身に起こった出来事について知っている人物は、ほんのひと握りしかいない。レイはそのひと握りのうちの1人だ。佑は知らない。悠も自分に起きた事件を記憶していない。悠をこの病室から無断で連れ出し、誘拐犯に引き渡した女性看護師は事件当日に退職してしまったという。悠は彼女が私用で退職したのだと思い込んでいた。何も知らされていないのだから、当然だ。一部の人間だけに深い引っ掻き傷だけを残して、真実はむらのない暗闇の中に投げ込まれてしまった。

 悠や佑がそれを拾うことはない。拾わないで、できれば詮索すらしなければいいとレイは、じゃれ合う2人を見ながら心の中で祈った。

 祈ることしかできない自分を、密かに呪いながら。

 ケーキを食べ終え、また少し雑談を交わしてからレイと佑は病室を後にした。悠に明日も来ることを約束し、後ろ手にドアを閉める。廊下の時計を見上げると、6時50分を回っていた。

 周囲は何だか慌ただしく、夕飯の乗ったトレーを運ぶ看護師や、負傷した身を押すようにしてゆっくりとしたスピードで歩く患者、レイたちと同じように病室から出てくる見舞客で溢れていた。その光景には不思議と緊張感はなく、与えられた日常をこなしていく優雅さのようなものがあった。

「悠、ちゃんと飯食えるかな……。結構ケーキ、腹にたまるし、怒られなきゃいいんだけど」

 看護師に押され、目の前を通り過ぎていく鉄色の配膳台を目で追いながら、佑は不安げな声を漏らす。レイは自分の胃のあたりをさすりながら、表情を歪めた。

「無理かもしれないですね。あんなに桃が入ってたし、もうあれだけで主食になるかも」

「病院の人にちょっと頼んでこようかな……悠を怒らないでください、って」

 佑は落ち着かぬ様子で、悠の病室を振り返ってはそわそわとしている。今にも看護師を捕まえて、頭を下げそうな雰囲気さえ漂わせているので、レイはその憂鬱を吹き飛ばせるようにあえて毅然とした口調で言った。

「大丈夫ですよ。悠はああ見えて強い子ですから。それはお兄さんが一番分かってるんじゃないですか?」

「あ、まぁそうだけど……。でも、やっぱり、怒られたら可哀想だし……」

「大丈夫ですよ。悠はああ見えて強い子ですから。それはお兄さんが一番分かってるんじゃないですか?」

「いま同じこと、2回言わなかった?」

「気のせいですよ。でも悠って最近ほら、顔色凄くいいじゃないですか。だからきっと、ケーキも夕飯も残さず食べられるに違いないですよ」

 実際、悠の病状はあの山小屋への誘拐騒動以来、薄紙を剥ぐように良くなっていった。拉致・監禁されたショックで健康になった、というわけでもあるまいが、別の体に生まれ変わってしまったのではないかと疑いを持ちたくなるほど、あの事件を境界線にして、悠の体調の変化は顕著だった。

 そういう裏付けもあり、レイは佑を宥めるつもりで言葉を発した。その目論見は、成功したようだった。彼は途端に表情を明るくし、「そうだよな!」と声を高くする。

「そうだよ。最近、やっぱり悠、顔色いいよな? このままもっともっと元気になって、そんで学校通えるようになって……なってくれるといいな」

「なりますよ。私も、お兄さんも悠のことが好きですから。このパワーが合わされば無敵に違いないです」

 レイは断言した。根拠も何もなかったが、それでも強く言い切った。佑は目を丸くしたが、すぐに小さく笑いを零した。はにかむような、しかし歓喜を瞳に含ませた穏やかな笑みだった。

「そうだな。レイちゃんがそう言ってくれると……なんだか、その通りになる気がする。ちょっと心が休まったよ。ありがとう」

「どういたしまして、です。じゃあそろそろ、行きましょうか。夕飯の時間になっちゃうし。お兄さんにも、ご飯作って待っている人がいるだろうし」

 両親が多忙で家におらず、親戚も地方に分断されており、妹も入院生活を送っている。そんな佑が知り合いの下宿で生活していることをレイは、本人の口から聞いていた。

「まぁ、今日は遅くなるかも、って言ってたけど。色々うるさい奴もいるし、さっさと帰ろっかな」

「そうですね。こっちも、色々うるさい人がいるから、帰らないと」

 レイは頭に妹の姿を思い描きながら、答える。腹を空かせて畳の上を転がりまわっている彼女の姿は、容易に想像することができた。今日の食事当番はレイだから、妹は不満を垂れながらも律儀に帰りを待っているはずだ。レイの知っている彼女は、そういう人間だった。

 他愛もないことを話しながら廊下を歩き、病院の玄関を並んでくぐり抜ける。夕陽に照らされて、アスファルトに2つの影が一斉に伸びた。

「じゃあ、また明日な。けが、早く治してくれよ」

「ありがとうございます。じゃあ、また明日」

 手を振り合って、レイは夕闇の中に溶けていく佑の後姿を見送る。そうしながら、レイは最後に彼が見せてくれた安堵の笑みを思い出していた。

 他人の心に日差しを当て、陽だまりを生みだしてくれるような、あの表情は兄弟ということもあり悠のものとよく似ていた。

 悠の笑顔が好きだから、レイは佑のそんな笑顔もまた好きだった。

 彼の表情を心に焼きつけ、その声を耳に染み込ませ、レイは1人家路を辿る。雲の切れ間から差し込む夕日が道路を白とオレンジ色に染め上げていく。その上空を移動していくカラスの群れを、レイは横断歩道の信号待ちをしながら感傷深い思いで見上げている。

 烏が地面に残した影と、怪人としての自分の影とを、ふとした思いで重ねながら。




鳥の話 2

 赤い空を横切り、上昇していく烏の群れを目で追いながら、仁は深いため息を零した。

 午後7時を回ったというのに、蒸し暑さは相変わらずだった。

 太陽の照りつけていた日中と比べても遜色ない、汗が滲んでTシャツに貼りつくような気温が続いている。暑さによる体力の消耗に加え、1日で東京と名古屋とを往復するというハードスケジュールをこなしたため、体には何重もの疲労が蓄積していた。

 新幹線の中で仮眠をとったというのに、まったく疲れが抜けている気配はない。むしろ堆積した疲れが体の奥底に沁み込み、しつこく根を張り始めているかのようだった。1歩1歩、足を踏み出すのが非常に億劫に感じてしまう。

 東京駅から山手線を利用し、新宿駅で降りる。車内も駅構内も、帰宅途中のサラリーマンや夏休みの旅行帰りの家族連れでごった返していた。人々の間をすり抜ける力もなく、仁は何度も人にぶつかりながら出口を目指す。始めは肩がぶつかる度に謝っていたが、終わりの方になるとその声さえも喧噪の中に掠れて消えていった。

 新宿駅を東口から出てすぐ目の前に、それはあった。

 植込みの中にそそり立つ無骨な石碑。笹の葉のような形状をしており、表面は非常に滑らかだった。文章と多くの人の名前がびっしりと彫り込まれている。『2月18日』という文字がひときわ大きく記されていた。

 雨に濡れようが、風に追い立てられようが、その石碑はこの3年間沈黙を守り続けている。さすがに年月の経過を一身に受けてはいたが、それでも黒々とした美しい光沢を保っていた。いま石碑は降り注ぐ夕陽を照り返して、眩い光を周囲に発散している。まるでその中に込められた魂が光の道に乗り、仁に何かを訴えかけようとしているかのように。

 石碑の前には花束やジュースやお菓子、小さなおもちゃなど様々な物品が並べられていた。仁は東京駅構内の売店で買ったお菓子をその山に加える。積まれた他のお菓子が崩れてしまわないように細心の注意を払った。それはこの石碑の周囲を漂っているであろう見知らぬ魂にあてた、仁なりの弔いの印であるつもりだった。

 2004年2月18日。ここ新宿駅で大規模な爆発が起こり、多くの死傷者が生みだされた。

 警察の捜査によって後々、この爆発が事故ではなく事件であることが発表されたときは動揺と不安が日本全国を一斉に駆け巡った。テロではないか、と疑われもしたが結局今でもその犯人の素性は掴めていない。情報の少なすぎることが、捜査を難航させている一番の要因らしい。誰がなぜ、どんな目的でこんな大量無差別殺人を起こしたのか、4年経ってもただの1つとして掴めていない。むしろ時が刻まれるごとにその痕跡は滲んでいってしまっている。

 京助もまたこの事件の被害者だった。彼は仁との待ち合わせの最中に爆発に巻き込まれた。

 そして両目と右足を失った。仁は石碑から視線を外し、アスファルトに目を凝らす。今でもそこに京助の眼球や足が落ちているのではないか。それを拾って届ければ、彼は元の体を取り戻してくれるのではないか。そんなあまりに荒唐無稽な空想が、不意に頭を過ったからだった。

 周囲では人の波が絶えず流れている。仁はその脇で立ち止まり、石碑を今一度眺める。ゆっくり目を閉じ、胸の前で手を合わせて静かに黙祷する。

 瞼の裏に広がる暗闇には、当時の惨状や剣幕をたてて仁に詰め寄る都の姿、そして今日目にしたばかりの親友の痛々しい姿が次々と描き出されていく。それらのシーンは仁の胸を浸す暇もなく、心を切りつけるようにしては去っていく。それはまるで、つむじ風とともにやってきては空を切り裂いて消えていく、一陣のかまいたちのようだった。

 目を開けると、隣に男が立っていた。

 数刻前の仁と同じように合掌し、深く瞼を閉じている。半袖Tシャツでも汗が滴るほどの暑さなのに、男は厚い背広を身に纏っていた。しかし彼の額に汗はなかった。顔立ちから40代に見えるにも関わらず、男の肌は瑞々しかった。

 鼻の下にある髭とがっしりとした肩幅をもつ男からは、精悍な雰囲気が漂っていた。肩に触れるほどの長髪は、彼の威厳を程よく増長させている。男の内側に常駐している、はちきれんばかりのエネルギーがその最大容量を超えて周囲に垂れ流されているかのようだ。彼の目から、鼻から、そして唇から、仁はその行き場のない力の奔流を感じ取る。

 男の瞼が上がった。筆で殴り書いたような、男の太く鋭い眉が揺れる。彼は始めに石碑を見た。その目には、石碑に記載されている死者の名前を1人残らず記憶に刻みこむかのような、使命感にも似た力強さがあった。

 そして次に、仁を見た。その瞳に宿る力強さに、仁は唾を呑みこんだ。そうして見つめられているだけで、全身の筋肉が固く強張るのを感じる。その視線に射止められているようで、男から目を逸らすことができない。

 男は不機嫌な表情を一切崩さぬまま、薄い唇だけを開いた。

「君はイカロスかね?」

「え?」

 思わず訊き返してしまう。単純に、男の発した言葉の意味を理解することができなかったからだ。

「違うのかね?」

 男は鼻の下の髭を、そっと指先でなぞる。仁は張り詰めた緊張を解きほぐすために手を開いたり、閉じたりした。その度に汗が爪の先を掠める。

「イカは嫌いじゃないですけど……。でも、タコのほうが好き、かも」

「ふむ。ならば君は羽虫というわけかね?」

「……虫?」

「そうだ、君は私に射す後光に引き寄せられた羽虫に違いない」

 なぜか男は得意気に断念する。思考の凍結をよぎなくされた仁は、はにかみながら首を傾けることで精一杯だ。

「あの、あなたは何を」

「もしくは私という名の太陽に飛び込んでいく、君はイカロスだ。おっと、私にそれ以上近づかないでくれたまえ。あと一歩でもこちらに歩みを進めたのであれば、君は紅蓮の炎を抱き、その身を焦がす結果となるだろう。私は無関係の人々に力を行使したくはないからな」

 男が訥々と語る内容を仁はぼんやりと聞いている。耳を傾けるほど、脳細胞をフル回転させるほど、この男の話の意味がわからなくなっていく。

 得体の知れない深みに嵌り、仁は周囲に救いを求めようとするが、人々は仁を気にもかけず、それぞれの道を猛進していく。明らかにこの男と仁に関わることを避けているように感じられる。

 非情だなとは思うが、もし仁が同じ立場だとしたら、やはり人々と同じ行動をとっていただろうと考えると、別段怒りは感じなかった。仕方がない、と観念をしてこの奇妙な男に向き直る。そして仁は、それまでの覚悟を隠すように満面の笑顔を浮かべた。店のカウンターの内側で日常的に活用している、得意の営業スマイルだった。

「あの……あなたの言っている意味がよく分からないんですけど。もう1度、お願いできます?」

「しかし君は幸運だ。この私と出会い、同じ時間を共有できたという今日の出来事。この奇跡を末代まで語り継ぐといいぞ。今日から君の伝説が始まるというわけだ。君の上には光が見えるぞ。この私に照らされ、七色に輝いて映っている」

 男は、まるで話を聞いていないようだった。仁は胸の奥で深呼吸を1つすると、とりあえずこの男に話を合わせることにした。

「僕の伝説?」

「私の名前は世界大統領、クロニクル。覚えておくがいい。あと10年もすれば、この名を知らぬ者は恥をかき、世界が私に頭を差し出し、私の誕生日が世界の祝日となる。そんな未来が訪れるだろうからな。これは決定事項だ!」

「おお、凄いですね。頑張ってください! じゃあ僕はこの辺で」

 仁は曖昧に笑って、踵を返した。

 蟻もゆだるこの暑さだ。健常者の内でも妄想や幻覚の症状を呈する人間がいないとは限らない。この男もおそらく、この暑さにあてられてしまった人なのだろう。トラブルに巻き込まれないで済むのならば、それが一番いい。だから仁は、この男と別れを告げることに決めた。

 男から背を向け、喧噪の流れに参加しようと足を踏み出す。その時、仁の背中に男は声を投げかけてきた。けして大声ではなかったが、その声は雑踏に遮られることなく直接仁の鼓膜を震わすようにして聞こえてきた。

「私はこの事件で、愛する女性を失った」

 足を止め、仁は振り向く。男は腕を後ろ手に組み、演説する識者のように大きく胸を張っていた。仁は人波の中で泰然とたつ男のその姿に、氾濫した川の中央で揺るがずに聳える大木の姿を見た。

「40年間、人をこれほど愛し、大切に思ったのはさすがの私でもそれが初めてだった。愛の美しさを私に教えてくれた女性だった。だが、この事件で死んだ。私の人生の中でも、本当にわずかな、ごくわずかな汚点の中でも最大級の失敗だ。私は彼女を救うことができなかったのだからな。そのせいで彼女はもうこの世にいない」

 知らず知らず、仁は男の言葉に引き込まれていた。その眼力だけではなく、彼の声もまた他人の心を鷲掴みにし、そのまま手中に収めるような、不思議な魅力を持っていた。

 男の表情は相変わらず変化しない。しかし光の当たる角度のせいなのか、出会った時よりも幾分、その顔には薄暗いものが凝っているように見えた。

「君は誰を亡くしたのかね? 無論。君はただの、群がることしか知らぬ愚かな野次馬ではないのだろう? 目を見れば分かる。君もまた、後悔を胸に抱いているはずだ。どうだ。いま、心の中で頷いただろう」

 仁は小さく呻いた。男の言葉が鉄串のように胸を貫いていく。たじろぎながらも、仁は視線だけは男に向けるよう努めた。それだけで、体の中で揺らぐ一本の柱が支えられるような気がした。男の眼差しには、脅威と安寧という二律相反の感情が見事に並び立っているようだった。

「友達です。高校の時の親友で……まだ生きてますけど。体の一部を、事件で失いました」

「なるほど。友か」

「高校で出会った……唯一の親友なんです」

 気付けばとうとうと仁は告白していた。笑われるだろうと思ったが、そんな杞憂に反して、男は口を開いた。

「ふん。この事件ではないが、私もかつて心から信頼していた友を失ったことがある」

「え……」

 男の目に、暗澹としたものが落ちる。しかしそれは一瞬だった。仁が瞬きをする間には、彼の表情に毅然としたものが舞い戻っていた。

「だから君の気持ちもよく分かる。だが安心しろ、君の負の感情はこの私が受け取った。私は世界だ。1人の人間では支えきることが難しい悲しみや憎しみも、この私は億単位で支えることができる。これも縁だ。私が手を貸してやろう。人1人の悩みの重さなど、世界の上では蟻1匹にも劣るわ」

 豪快な理屈ではあるものの、その言葉は仁の胸に柔らかく澄み渡っていった。つい数分前に会ったばかりで、男のことは何も知らないに等しいのにも関わらず、彼のもつ悲しみの一部と自分の心に潜む本当の気持ちとを共有することができたような気がした。

 男の言葉を聞いていると、気持ちが軽くなっていくようだった。風船とまではいかないが、地面に埋まるばかりだった気持ちの重量が、人間らしい重さを取り戻していく。

 人の流れに逆らうようにして、仁と男は立ち止まり、対面している。男は悠然とこちらに近寄ってくると、仁の手をとった。

「これも何かの縁だ。神からの授かりものと思い、受け取るがいい」

 最後まで真顔でそんなことを言い残し、握手を交わすと、男はくるりと仁に背中を向けた。そして片手を上げ「さらばだ。ミスターイカロス」と言い残し、人々の中に混ざっていった。

 それが自分をクロニクルと名乗る、あまりにも奇怪で不思議な男と仁との最初の出会いだった。




魔物の話 3

 アスファルトを揺るがすような轟音が迫ってくるのを耳にし、レイはぎくりと体全体を引き攣らせた。

 病院から家に帰る途中、小学校と国道の間に挟まれた、人通りの多い歩道を歩いていたときのことだ。レイは足をもつれさせながら、小学校の周りを取り囲んでいる緑色のフェンスに寄りかかった。人間1人の寄りかかった重みで、フェンスが軋んだ音をたてながら歪む。そして深く息を吸い込み、身を縮めて、その時が一刻も早く過ぎ去るのを待った。

 真っ黒い排気ガスと前髪を跳ねのけるような突風を残して、ガードレールの向こう側を大型トラックが通り過ぎる。トラックが目の前を行ってしまい、交差点を右折して視界から消えていってもなお、レイは頭を抱えるようにして耳を押さえ、目を血が滲むほどに強く瞑っていた。

 道行く通行人から奇異と同情のない交ぜとなった視線を感じたが、恥辱感よりも恐怖が勝っていた。そのままフェンスに寄り添われるような形で、地面に座り込む。通行の妨げにならないよう、体育座りの体勢で小さくなった。

「……怖い、怖い……」

 油断していた。

 レイは歯の根が合わぬほど震えながら、自分のあまりに軽率だった行いを後悔した。男に背中を押され、トラックに轢かれかけてから1週間近く経過するのにも関わらず、あの時の戦慄や絶望感は心と記憶に生々しく刻みこまれている。

 それは不意に、例えばテレビに映ったトラックを見ただけでも、恐るべき速度で蘇ってくる。まるで洞窟の入口に足を踏み入れた冒険者を、暗闇の中から腕を伸ばして捉え、頭から食いちぎらんと目をぎらつかせている魔物のように。

 その魔物は、いつだって、どんな時でもレイの頭の中に存在している。いつレイを恐怖で取り殺してやろうか、虎視眈々と狙っている。だから気を抜くことは許されない、いつでも極限状態でいなければならない、そういうはずだったのに。

 悠や佑と会い、会話を交わしたことで心に隙が生まれてしまったのだろうか。その隙を魔物は見過ごさず、すかさず狙い討ちを仕掛けてきたというわけなのか。だとしたら、自分に元のような日常は帰って来てはくれないというのだろうか。

 震えが完全に収まらぬまま、レイは腰を上げ、歩きだした。いつまでもこんなところに座っていてはまた、トラックがやってくるかもしれない。または同情の手を差し伸べられるかもしれない。激しく揺らめき、中心軸のぶれたレイにとってはそのどちらも避けたいところだった。

 フェンスを片手で掴み、己の体を支えながら進む。フェンスが切れると、今度は壁を指先でなぞるようにして帰り道を辿った。

 息を切らせ、歩くレイの元にも夜が訪れる。藍色だった空気は徐々に黒の成分が足されていき、見る見るうちにその色合いは深くなっていく。車道を駆け抜けていく車のライトが眩しい。

右手に小さな公園が見えたため、そこを横切ることにした。遠回りになってしまうものの、園内ならトラックに出会うこともあるまい。不審者よりも、公園でたむろする素行の悪い少年たちよりも、いまは何倍も、公道を疾走する鉄の塊のほうが恐ろしかった。

 ブランコと鉄棒しか遊具の見当たらない、寂れた公園だった。レイの膝あたりまで雑草が伸びており、整備が行き届いていないことが明白だ。レイは草に素足をなぞられ、くすぐったいものを感じながら歩みを進めていく。がさがさ、と足元で音が鳴る。ところどころに置かれた外灯の光が、レイの身に降り注いでいく。

 光を背負い、生み出された影の形は、翼を広げた鳥の姿をしていた。まるでこの世の万物を吸い込まんとするかのような黒々さをもつその鳥は、レイの意識を放れ、独りでに大きく、その度にふてぶてしく育っていく。

 レイは気付いていない。

 自分の中の怪人の血が、日を追うごとに膨れ上がっているということに。

 鳥の影がゆらぐ。レイが公園から出て、影が夜闇の中に消えてしまっても、その鳥はアスファルトの上で巨大な翼をはためかし続けている。その様子はまるで、己のことさえ理解できていないあまりに迂愚な主人の滑稽さを、大声で嘲笑っているかのようだった。



1話 完

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