18話「真実は雨のように」
魔物の話 34
鬱陶しいほどに打ち鳴らされる雨音に混じって、獣の猛り声にも似たバイクのエンジン音が背後から近づいてきた。草陰に身を潜め、戦いの成り行きを1人静かに見守っていたレイは、待ち望んでいたその音に、思わず笑みを浮かべて振り返った。
「やっと来た」
いてもたってもいられず、レイは立ち上がると傘を放り捨て、どしゃ降りの雨に身を晒した。
まず、遠くに2つの丸い光が見えた。
雨に遮った視界の中で、その光は空気に溶けるかのようだ。それは次第に大きくなっていき、その光がバイクの発するライトであることに気付いた時には、手を振るレイの前にその車体はやってきていた。つんのめるようにして、後輪を浮かし、バイクは停止する。泥を弾き、ぬかるんだ地面を駆け、雨の中を猛スピードで抜けてきたためか、そのシルバーのボディはひどく汚れていた。
「遅いですよ、藍沢さん。待ちくたびれちゃいました」
バイクにまたがったまま、被っていたヘルメットを取る秋護にとりあえず文句を吐く。
秋護は軽く頭を振ると、ヘルメットをハンドルに引っかけた。遮るもののなくなったその頭に雨は降り注ぐが、彼は意に介する様子さえみせない。トレードマークのバンダナは頭に巻かれていなかったが、履いているデニムのポケットから早速引っ張り出している。
「ごめんごめん。ちょっと道混んでてさ。雨まで降り出しやがるし、まったくこの世は予想外のことでいっぱいだよな」
「予想外じゃありませんよ。朝から今日は荒れた天気になるっていってたじゃないですか」
「そうだっけ? ま、主役は遅れてやってくるもんだろ。ある意味で超時間ジャストって感じだよな」
「藍沢さんは主役じゃないから、遅れてきたら、ただのだらしのない人ですよ」
くだらない会話を交わしている間にも、戦いは続いており、雨は降り注いでいる。先ほども一瞬、この悪天候にも関わらず空が明るくなった。おそらくアークが必殺技を発動したのだ。すでに敵味方いずれかに死人が出ているかもしれない。先ほどまで怪人と激闘を演じていたエレフの姿も、すでに霧の中に紛れてしまっていて確認することはできなくなっている。
レイは大きくバイクを回り込むと、秋護の後ろの席に飛び乗った。しっかりと車体をまたぎ、左右に頭を振って、体の位置を安定させる。服はぐっしょりと濡れ、前髪からは雨雫が絶えず流れていたが気にはならなかった。雨に濡れる覚悟すらなく、体が汚れることを恐れているようではどのみちこの先、生き残ることはできまいという冷静な判断も働いていた。
先ほどまで秋護が被っていたヘルメットを後ろ手に受け取りながら、これが戦闘前における最後の会話であることに気付き、レイは彼の背中に尋ねた。
「そういえば……フェンリルは、どうなったんですか。藍沢さんが送り迎えしたんですよね?」
尻ポケットから『1』の数字の振られたプレートを取り出した秋護は、首をほんの少しだけよじり、レイに視線をくれた。
「フェンリルって……あぁ、あいつか。天村だっけ。あれ、レイちゃんの彼氏?」
「そんなんじゃないですよ。友達のお兄さんです。どうなんですか、その……けがとか」
レイは最も気がかりなことを、口にする。心臓はすでに早鐘を打っていた。秋護は濡れた自分の髪をわしわしと掻き毟りながら、ばつが悪そうに言った。
「ま、命に別条はないけど。そこそこ、な。でも動けるし、すぐに意識も返るよ。平気平気。擦りキズだって」
秋護の発したつまらない慰めは、レイの耳に届かなかった。
佑がけがをしている。その事実だけが、先の鋭い刺と化してレイの心にしんしんと深く突き刺さっていくようだった。差し入るような痛みを胸に覚え、その場にうずくまりそうになる。ぎゅっと自分の胸元を掴みながら、レイは表情をしかめ、ようやく声を絞り出した。
「擦りキズで、意識不明にはならないと思うんですけど」
「なるなる。最近の意識不明はな、タチが悪いんだよ」
「タチが悪いのは藍沢さんの方ですよ。緊張感の欠片もないじゃないですか。真面目に報告してくれないと困るんですけど」
いつもの調子で努めて返答するが、レイの内心は動揺しきっていた。声が上擦るのを抑えるだけでも精一杯だ。なぜ佑が戦闘中に負傷をしたというだけで、ここまで胸が苦しく、頭が冷静さを失ってしまうのか、自分が自分で分からなかった。
「おいおい、これから戦うっていうのにレイちゃんがそんな顔してどうするんだよ」
秋護に指摘され、レイは自分の頬を掌で軽く包み込むようにした。その顔の筋肉はいつもより確かに、固く、強張っているような気がした。解そうと口端をあげようとしたり、瞼を持ち上げようとしたりするが、うまくいかない。
「何も悲しむことなんてないんだよ。あいつは確かにけがはしたけど、死んでもいないし、それに負けもしなかった。精一杯、自分の役目を果たしたんだ。立派なことじゃないか」
オウガを纏う、名も知らぬ人間を傷つけなくてはならないことに、佑はひどい罪悪感を覚えていた。こんなことをするためにマスカレイダーズに入団したわけではないと、ぼやいてもいた。しかし悠やレイを守るため、自分の心を押し殺し、己の役割を全うしたのだ。
「レイちゃんがすることは、悲しむことじゃない。自分にできることを精一杯やることだ。もちろん、俺だってそうだ。レイちゃん、言ってたじゃないか。自分にしかできないことがあれば、それをやり遂げたいって。今が、そのチャンスだろ」
秋護の話はレイにとって、もっともな話だった。佑は死力を尽くして自分に与えられた役目を全うした。ならば今度は自分の番ではないのか。こんなところで怖気づいている暇も、佑のことを気に病む余裕も今はない。そして彼もそれを望んではいないはずだった。
病室で拳を合わせた時のことを、思いだす。互いの体温を感じあいながら交わした、大きな約束。その誓いを守るため、戦いに身を乗り出す。もはや躊躇はない。
レイはヘルメットに深く頭を埋めた。バイザー越しに、秋護へと視線を送る。
「分かりました。いきましょう、藍沢さん。役目を、果たすために。この戦いを終わらせるために」
レイが毅然として言うと、秋護はにやりと笑みを浮かべ、手にしたプレートを掲げた。
「ああ、俺はもうとっくに準備万端。気合いマックスなんだ。じゃあ、さっさと行くかね、戦いの舞台ってやつによ」
そのプレートの角で、バイクのミラーを小突く。すると鏡面のわずかな揺らぎと共に、その中から装甲服のパーツが次々と飛び出してきた。レイの目の前で秋護はその装甲を次々と体に纏っていく。
そうして“ガンディ”の装着を完了した彼は、最後に頭部装甲の上からバンダナを巻き、大きく鋼の手を叩き合わせた。
「よし、行くか。レイちゃんしっかり捕まってろよ! 振り落とされても、拾いには戻らないぞ!」
レイはガンディの胴に両腕を絡ませ、体をその背に密着させると小さく頷いた。ガンディはアクセルを吹かし、一気にスロットルを回転させる。
かくして、轟音をまき散らしながらバイクは走り出した。ぬかるんだ土を背後に押しやりながら、雨風を切るように戦場へと飛び込んでいく。しかし目の前には、戦闘が行われている広場とレイたちがいた場所とを隔てる、背の高い緑色のフェンスがあった。
「ちょっとあの、藍沢さん。前」
秋護に止まるという選択肢は、ないようだった。一直線、真正面からフェンス目がけて突っ込んでいく。こんな時でも彼の走る道に揺らぎはない。躊躇や恐怖もその走り方からは少しも伝わってこず、さらにスピードを上げる始末だった。
傍から見れば、いや、同乗しているレイからして見てもそれは単なる自殺行為としか思えない。フェンスとの距離が5メートル弱に縮まってもガンディはアクセル緩めることはなく――そのままシルバーの車体は錆びたフェンスを突き破った。
金網の破れる音が耳のすぐ側を過り、鉄の冷やかな感触が肌に掠める。いつの間にか閉じていた瞼を上げると、そこはフェンスの向こう側に広がっていた、霧に満ちた景色の中だった。
「死ぬかと思った……」
レイは呼吸を整え、ばくばくと唸る心音を耳の奥で聞きながら、思わず声を漏らした。バイクのカウルとガンディの全身でこじ開けられた大穴を、レイの体はギリギリ通り抜けた。一瞬の判断で身を屈ませなければ、おそらく首から上が大惨事になっていただろうと確信できるくらいに、それは紙一重のタイミングだった。
レイはガンディの固い背中を額で小突くと、その首筋を見上げて、じとりと睨んだ。雨が容赦なくガンディの体を打っている。カツン、カツン、と甲高い音が鳴り響く。この状況ではおそらく何を言っても、彼の耳に届かないだろう。レイは苛立つ気持ちを抑え、ヘルメットの下で深呼吸をした。
二重、三重と折り重なった深い霧の中でも、ガンディの運転に迷いはなかった。たった1メートル先の視界も定かでないのによく、恐怖を覚えることもなくアクセルを握れるものだと感心する。ただ、憧れの情は芽生えることはけしてなかった。
どこからか爆発音や、装甲服が叩きのめされる甲高い金属音が聞こえてくる。この霧のせいで方向感覚も距離感も掴めたものではなかったが、その皮膚の裏側を毟るようにずんずんと心臓に響いてくる戦闘音だけは、確かなものとして全身で感じることができた。
「おいレイちゃん。視界悪いけど、ナビゲートしっかり頼むぜ。任せてもいいよな?」
ガンディがちらりと視線を背後にやり、声を張り上げる。レイははっきりと伝わるよう、大袈裟なくらいに大きく頷いた。
「……はい。場所だけは何となく、感じますから。しばらくこのまま真っすぐでいいと思います」
キャンサーとケフェクスが近くで暴れている影響なのか、“怪人センサー”はまるで狂ったコンパスのように、ひっきりなしに様々な方向を示していてほとんど役には立たない。
しかし、それとはまったく別物の、鋭くこめかみを刺すような感覚が、ある一点を如実に指し示していた。
喩えるなら、それはまるで外灯のない夜道に射す懐中電灯の光のようだ。感覚が道を紡ぎ、その正しい目指し方を照らし出してくれている。そんなことはこれまでに一度たりともなく、しかもその先に待つものの正体もレイにはまったく判断がつかない。
不可解ではあるが、道しるべが他にないのも事実だった。それにレイには不思議と、この感覚をたどった先に敵のアジトがあるという強い確信があった。
この場に、華永あきらも来ているのだろうか。レイはガンディにしがみつきながら周囲を視線で探る。しかしこの深い霧の中では彼女どころか、仲間であるマスカレイダーの様子さえ窺い知ることはできない。拓也が、父が、狩沢は今どんな状態にあるのか、気にかかった。
するとそんなレイの不安を感じ取ったのか、秋護が運転をしながら言った。彼の声はこの喧噪の中でも、非常によく通る。こちらの声は届かないのに、秋護の声は伝わってくるのが少しだけ不公平に思った。
「大丈夫だろ。速見さんも、黒城さんも、狩沢さんも、みんな負けるところなんて、死ぬところなんて想像できないし。必ず勝つよ。みんな、勝って帰ってくる」
レイは秋護の意見に心の底から同調した。心配などしなくても、皆、レイの何倍も強い人たちが揃っている。そんな人たちが、怪人たちに負けるはずはない。それは願いではなく、移ろうことのない、強い確信だった。
「やはり、ここに来ていたな!」
突然、どこからか聞こえてきた強気な声に、レイは慌てて周囲を窺った。どこかで聞き覚えのある、しかもつい先ほどまで耳にしていたような気もする、男の声だった。まるでトンネルの中で発声されたかのように、その男の声はレイの耳にくぐもって届いた。
さらにその声に、秋護の小さな悲鳴が覆い被さる。何事かと視線を前に戻すと、そこにはバイクの進行を遮るように仁王立ちをする、黄金の怪人の姿が見えた。
スピードを出していたバイクは急停止することはできず、怪人は迫ってきた車体を片手で横殴りにした。その強力に抗う術などなく、バイクはけたたましい音をたてて倒れ、ガンディは座席から勢いよく転がり落ちた。
レイの体もバイクが薙ぎ倒されると同時に、宙に浮いた。地面に背中から叩きつけられることを覚悟し、目をぎゅっと強く閉じる。しかしいつになっても、衝撃や痛みはやってこなかった。それ以前に、自分の体が地に落ちた感触すら伝わってこない。
不思議に思い、恐る恐る目を開けると、鼻息のかかる近さに黄金の怪人、キャンサーの顔があった。
レイはぎょっとして顔を引き攣らせる。サングラスをかけているかのような真っ赤で巨大な目が視界を丸ごと埋め尽くしている。その瞳から逃れようと、自分の体を見下ろし、そこで初めて今の状況を察した。落ちた感触がないのも当然だった。レイはキャンサーに、その鎧のような腕でがっちりと抱きかかえられていた。
「久しぶりだな、最高の怪人ちゃん!」
「ロ、ロリコン!」
「違う! 僕はいいロリコンだ。呼ぶなら、しっかり形容詞を発音しなさい」
先ほどまでケフェクスと息の合ったコンビネーションを発揮し、エレフを追いつめていたこの怪人がなぜこの場にいるのか、レイは理解が追いつかない。しかもなぜかがっちりと抱かれているという現状も、混乱を助長する原因となった。
キャンサーはレイの眼前で、小さな口から舌を出し、じっくりと音を立てて舌なめずりをした。その手はレイの体の輪郭を確かめるように撫でまわしてくる。その陰湿ささえ覚える行動に、レイは怖気を覚える。体中の皮膚という皮膚に鳥肌が走る。
「やっと捕まえたぞ! ずっと会いたかったんだよ、君には」
「私はあんまり会いたくなかったけど」
「最後に君と別れたあの日から、僕は君のことが忘れられないんだ。そして僕は気付いた、これが一目惚れというものだとな!」
「ただの勘違いだよ。迷惑だから、離れて」
「いいや。せっかく再会を果たせたんだ。僕はもう君を離しはしない!」
鼻息を荒くし、さらに肉薄しようとしてくるキャンサーの顔を手で押し退け、体をできる限り逸らして、レイは彼を遠ざける。しかし強くその腕に抱かれているため、逃げることはできず、その行動も気休めにしかならない。影を鳥に変え、キャンサーの足元に重ねるが、操るなどもってのほか、その動きが鈍ることすらなかった。やはりこの怪人に、レイの中途半端な怪人の力は少しも効果を生みだしてはくれないようだ。
「朝も昼も夜もずっと考えてきた……是非、君を石化して、永遠に僕のものにしてやりたいとね! どうだ!」
「嫌に決まってるじゃない。あなたと同じ空気を吸ってるってことだけでも、死にたくなるのに」
「死ぬなんかよりも気持ちのいいことをしてやろう。石化した君の体を毎日撫でまわしてみたいのさ。痛いことはしない。なぜなら僕はいい奴だからだ」
昂揚したキャンサーの表情を瞳に映しながら、レイは病院裏で石像に変わり果てた2人の看護士のことを思い出している。深く掘りこまれた恐怖の表情。無機質な皮膚をもちながらも、生命の躍動感を全身から発散させていたあの姿。生きながらにして、キャンサーに体を好きなように弄ばれるなどどれほど辛いことだろう。
レイは体を揺らし、手足をばたつかせて必死に抵抗をする。しかしキャンサーの大柄な体はびくともしない。エレフの銃弾を受けても身じろぎもしなかった、あの装甲の硬さはやはり伊達ではないらしい。雨のせいで怪人の装甲は滑り、爪を立てることすらままならない。レイの髪はぐっしょりと濡れ、前髪は額にぴったりと張りついてしまっている。その頭を指で愛しそうに撫でながら、キャンサーは荒い息を口から吐く。
「僕は君が、小さな女の子が大好きだ。最強の怪人である僕はそれを手に入れる資格がある! 君もおとなしくこの僕の掌中に落ちるがいいさ!」
雷鳴が頭上で轟く。キャンサーは力尽くでレイの体を抱き寄せると、その鎧のような胸に頭を押し付けた。
しかしその、外すのは容易いことではないだろうと思われたキャンサーによる拘束は、呆気なく緩められた。ぬかるんだ地面を蹴り、跳躍したガンディの拳がキャンサーの頬を打ち据えたからだ。
呻き声をあげながらよろめくキャンサー。腕の力が弱まった一瞬の隙をつき、レイは彼の腕から素早く抜けた。半ば転げるようにして、その体から遠ざかる。キャンサーはすぐに姿勢を正し、反射的なスピードで追いすがるように腕を伸ばしてくるが、レイの前に立ったガンディがそれを遮った。その手首を掴み、背後に押し退ける。
「貴様……!」
キャンサーは掴まれた手首を撫でながら、真紅の瞳でガンディを睨みつける。ガンディは泥に塗れたレイに一瞥をくれると、前方に視線を戻し、呆れるようなため息をついた。
「怪人が一目惚れだの、女の子が大好きだの……面白すぎるだろ。どんだけ俺をわくわくさせてくれるって言うんだよ、お前は」
「痛い目にあいたくなけりゃ、そこをどけ。僕は彼女を石にする。お前なんかに用はないんだよ!」
「残念ながら、俺の心に火をつけたお前が悪い。さ、やろうぜ。楽しすぎるバトルって奴をな!」
ガンディはその場で高く跳躍すると、怒りを顕わにするキャンサー目がけてジャンピングパンチを打ち出した。その拳は胸を打つが、キャンサーに対する効果はやはり薄いようだ。地面に着地すると同時にボディーブローを鋭く打ちこむと、ガンディは即座にバックステップで敵との距離をとった。
「レイちゃんは早く、アジトに行け! 俺がこいつの相手をしてやる!」
キャンサーの太い腕を、胸を反らしてかわし、空気を震わして迫るハイキックを受け止めながらガンディはレイに叫んだ。
地面にへたり込み、呆然と戦いの模様を眺めていたレイは彼の言葉に自分の役割を思い出す。身を起こすと、泥で湿ったスカートに気付かないふりをしながら、踵を返して駆けだした。背後で鉄の叩かれるような鋭い音が鳴り響く。
「逃がさないぞ、どけ!」
キャンサーはガンディの頭を鷲掴みにすると、装甲に火花が散るほどの力でその体にボディーブローを食らわせた。息を詰まらせるガンディを投げ飛ばすと、黄金の怪人はレイに向かって歩みを寄せる。
「僕の欲望はこんなことじゃ止められない。さあ、大人しく石になるんだ」
「嫌だ!」
「いいだろう。聞き分けの悪い子は、大好きさ!」
キャンサーは背を見せて逃げるレイに向かって、広げた掌をかざす。その掌中に薄い光が帯びる。しかしそこから光線が発散させられることはなかった。ガンディがキャンサーを後ろから羽交い絞めにしたからだ。がっちりと両肩を絞められ、わけのわからない言葉を喚きだす。
「行かせないって言ったろ。お前の相手は、この俺だ!」
「離せ! 変なバンダナしてるような変態に、用はない!」
「おしゃれだろ、これ? そんなことより、石化ってなんだよ。ちょっと俺にやってみろよ。ちょうど、一回石にされてみたかったところなんだよ」
「バカ! 男を石化して何が面白いというのだ! 貴様はどいてろ!」
キャンサーはぶんぶんと自分の体を揺らし、ガンディを無理やり引き剥がすと、背中に手を回しどこからか長柄の高枝ハサミを取り出した。その切っ先を鋭く突き出し、ガンディを牽制する。
「そりゃ、残念だ。もっと非現実な光景がみられると思ったのによ!」
ガンディは足を踏み込むと、瞬きさえ許さない速度でキャンサーの懐に潜り込み、パンチのラッシュを叩きこんだ。びしばし、と肉体を叩く音が鳴りやまぬうちに、さらに膝蹴りで追撃を加える。隙のない攻撃であるが、やはりキャンサーにダメージが及んでいる様子はない。
レイはガンディに向けて1つ頷くと、痛みの差す方向に向けてしゃにむに走った。ぬかるんだ地面に足をとられて何度も転びそうになったが、それでも足は止めない。雨はさらに激しさを増しているようで、雨粒が痛かった。濡れた体は体温を容赦なく外に吐き出していき、そのためか頭がぼうとした。時々思い出したように、空には青白い光が走り、間髪いれずに雷鳴が空気を貫いていく。
レイは前につんのめるようにして、足を止めた。目の前に何者かが飛び出してきたからだ。肩で息をしながら、白ずむ景色の中に佇むシルエットに目を凝らす。それは150センチ超しか身長のないレイよりも、ずっと小柄だった。
「やっほー。久しぶりだね、お姉ちゃん! ぶんぶーん」
「あなたは……」
突如姿を見せたその女の子は、頭にベレー帽を被り、水玉模様のワンピースを身に着けていた。肩には小さな青い傘を乗せ、甘くとろけるような笑顔でこちらを見上げている。肩にかかるくらいのセミロングの髪と、どうみてもその相貌は幼稚園児にしかみえない。
それは黒城が捕え、そして二条裕美と共に行方知らずとなった怪人だった。子どもの姿をもった彼女は自らを“ベルゼバビー”略して“ネイ”と称していた。
その幼女が今、レイの行く手を塞ぐように、濁りのない瞳で佇んでいる。レイはその状況に茫然と対峙をする他ない。泥と雨に塗れた自分と、傘の下で無邪気に笑う彼女。その状況こそがそのままレイと幼女の立場を表しているようだった。
幼女の背後にきらりと輝くものが見えた。そう思った矢先に、レイのすぐ脇を何か巨大なものが通り過ぎた。泥を跳ね飛ばしながらそれは地面を滑り込み、派手に転げた。それが激突した柔らかな地面は、大きく陥没をしていた。
鉄色をしたそれを、レイは反射的に砲弾か何かかと思った。しかしすぐに違うと気付く。それはところどころ焦げ跡を作り、レイと同じように泥まみれの姿を晒すエレフだった。震えの止まぬ片手をつき、体の底から力を振り絞って起き上がろうとする、その姿はあまりに痛々しい。
「狩沢さん!」
よろめきながら膝をたてるエレフに駆け寄ろうとしたレイの視界に、紅蓮の炎が過った。戦慄を覚えて振り向くと、エレフが吹き飛ばされてきた方向からゆっくりとした速度で迫ってくる、灼熱の揺らぎを見た。
雨の中でも構わず熱を発し続ける火炎。それを纏いながら、一歩、また一歩と足を踏み出してくるのは大きな車輪を背負った、漆黒の体躯をもつ怪人。胸に馬の絵を掲げたケフェクスだった。彼の周囲は高い熱を発散しているためなのか、おぼろげに揺らいでみえる。
ケフェクスは仰向かせた掌に、ライターの火種ほどの大きさの炎を浮かせた。そしてエレフの横で棒立ちになっているレイに視線をやるなり、口元をにぃと歪ませる。
「これはこれは懐かしい顔だ。まさかお前が最高の怪人だったとは。俺のやったカニかま、ちゃんと食べたか?」
「……あなたが、二条裕美を」
マスカレイダーズの古い仲間として当然のように船見家へと入り込み、一同を油断させたところで、二条裕美を奪っていった怪人。レイはケフェクスの顔を見つめ返しながら、その表情に、テンガロンハットの男の顔を重ねる。その声は紛れもなく、あの男のものだった。
背後でまたしても、鉄を叩く甲高い音が響いた。瞳だけを動かしてみると、キャンサーが手にしたハサミでガンディを切り伏せた場面に出くわした。キャンサーはさらに立ち上がり、向かってくるガンディを蹴りで軽くいなしながら訴える。
「おい、ケフェクス! その子も幼女も傷つけるなよ! 僕が石にしてやるんだからな。お前が指1本触れることさえ許さないぞ」
「分かってるさ兄上。あんたの楽しみは奪いやしない。だが、大人しく、この先に行かせるわけにもいかないんでね」
ケフェクスはレイを一睨みすると、掌に浮かせていた炎をさらに上に持ち上げ、もう片方の腕を大きく振りかぶり、バレーのスパイクのようにレイ目がけ、火炎弾を打ちこんだ。
キャンサーの言葉に反し、いきなり攻撃の焦点を自分に絞ってきたことにレイは、驚く以上のことができない。視界に迫ってくる火炎弾を前に、反応する時間さえ与えられず、一歩も動けなかった。
しかしその攻撃は横合いから飛び込んできたエレフが防いだ。胸で火炎弾を受け止めた彼はよろめきながらも、地面に跡がつくほどに両の足を強く踏み込み、倒れようとする自身の体を何とか留めたようだった。
「狩沢さん!」
仮面の奥で苦しげに呻く狩沢を見つめながら、ケフェクスの行動の意図に今更気付かされる。
おそらく狩沢がレイを庇うだろうということを、見越した上での攻撃だったのだろう。他者を見捨てない、狩沢の優しさを利用した、あまりにえげつない戦法。エレフの中でぜえぜえと呼吸をする彼を横目にしながら、レイは自分の頭に熱いものがこみあげてくるのを自覚した。
「なんで、そんな、酷いことを」
思わず言葉がでた。声が震える。おそらく、それは寒さのせいだけではないだろう。体の奥底にじわりと熱がこもっているのを感じた。
「友達なんじゃ、なかったの? 狩沢さんと、マスカレイダーズのみんなと仲間だって言ってたじゃない。それなのにこんなの、ひどい」
「残念ながら狩沢と友達なのは、俺じゃないし、仲間だったのも俺じゃないらしい。騙していたのは悪かった。カニかまやるから、トヨさんに謝っておいてくれよ。可愛い可愛い、孫みたいなもんなんだろ、お前は?」
取りつく島もなく、レイの怒りに応じることもなく、ケフェクスはきっぱりと告げる。その背後に火炎弾を発生させ、再び篝火のように揺らめかせる。エレフは銃を片手に、足元をふらつかせながら、レイを庇うように立つ。その後ろ姿は負傷の大きさに反して、悲しいくらいに力強かった。
「早く、お前は、行け」
途切れ途切れに、低い言葉をエレフは紡ぐ。それは恐怖と不安に立ち竦んだレイの背中を、前に押しやる一言。
「俺たちの役目は、お前の、道を作ることだ。俺たちの、痛みを、無駄にするな」
「狩沢さん……」
空から降り注いだ火炎弾が、エレフの体を打つ。カメラのフラッシュを焚かれたかのような激しい光とともに、エレフの体はふらつく。銃を持つ手を上げる余裕さえ与えられず、赤く滾る雨をただ成されるがままに浴びている。
黒い煙を装甲から立ち昇らせるエレフに、レイは意を決して走り出した。エレフの背後から飛び出し、ケフェクスの脇を素早く通り抜けようとする。その間も、容赦なく雨の中に浮く炎の眩い輝きはもはや戦う力もないエレフを打ち据え続けている。しかしケフェクスは横目で、レイの姿を捉えていた。目がちょうど合ってしまい、レイはゾッとしたものを覚える。空中で視線が交差した。
「ここは通さない。そう言ったろ? 蠅!」
「あいあいさー」
ケフェクスは隣でくるくると、所在なさげに回っていた幼女に声をかけた。幼女は気の抜けるような声で返事をし、再びレイの前に両腕を大きく広げて立ちはだかる。
「こっから先はダメなんだってさー。お姉ちゃん、残念だね!」
傘を投げ捨てた幼女の瞳が、金色に染まる。すると彼女の人間としての姿がぼやけ出し、空気の中に消え、代わりに怪人がその姿を現した。青い体色をもち、体をぎざぎざとした刺で覆った小柄な怪人だ。胸には蠅の絵が描かれている。
レイは足を止め、顔を歪めた。黒城は、怪人が幼女に変身したと話していたがその情報に間違いはなかった。それが今、目の前で証明された。蠅の怪人、“ベルゼバビー”に変身した幼女は背中の小さな翅を振動させると、まるでロケットのようにレイ目がけて頭から突っ込んできた。レイは素早く横に跳んで、危うくそれを回避する。
「ぶんぶんぶーん。蠅が飛ぶー」
以前にも耳にした覚えのある、奇妙な替え歌を口ずさみながら、ベルゼバビーは飛び回る。スピードはないが、非常に小回りの利いた飛び方だ。旋回、迂回、上昇、下降。縦横無尽に空を飛び回り、レイを翻弄する。時折予想外の方向から体当たりが飛んでくるので、視線を忙しなく動かし、体を絶えず動かしてなければならない。時が経つごとに精神的にも、身体的にも、疲労が積み重なっていく。
「石になっててなまっちゃったから、準備運動だ! ぶんぶーん」
ベルゼバビーは一度レイの頭上まで空を昇りつめると、今度は一息に頭を下にして落下してきた。レイは背後にかわす。するとベルゼバビーは自分の体が地面にぶつかる前に、墜落途中で方向転換し、食らいつくようにレイ目がけて突進を繰り出した。へその辺りに怪人の小さな頭を埋められ、レイは呼吸を止められるとともに、後ろへ押し倒された。
「ぶんぶーん。お姉ちゃん弱っちいねー。強い怪人のくせに、変なのー」
立ち上がろうとしたレイの腹に、ベルゼバビーはどっかりと尻を据えてきた。ちょうど、彼女に馬乗りにされている姿勢になる。レイは歯を食いしばりながら、影を鳥の形に変えるが、やはり何の効果も生み出さなかった。皺の寄り、弱弱しく縮こまった影を眺め、泣きだしたい気分になる。
爆音が耳のすぐ脇を掠める。竜巻のような形状をした炎の渦に巻かれ、崩れ落ちるエレフの姿があった。立ち上る煙に混ざるようにして、その体から色が薄れていく。きめの細やかな銀色をしていたその身は、枯れ木のように白く移ろいでいき、やがてエレフの装甲は霧散した。
自らの身を守っていた装甲を強制的に解除され、倒れ伏す狩沢には、もはや立ち上がる気力もないようだ。うつ伏せに倒れたまま、体をぴくりとも動かさない。そんな彼に向けて、ケフェクスは容赦なく歩みを寄せる。その手に炎を纏わせ、輝かんばかりの高熱を帯びた真っ赤な剣を生成した。
「さて、狩沢。お前に引導を渡してやる。俺とおまえのくだらない因縁も、ここで終わりだ」
「狩沢さん……」
別の方角から、鋭い打撃音が響き渡る。恐る恐る視線をやると同時に、全身の到る箇所から火花を飛散させたガンディが、鋏によってめった切りにされ、前のめりに倒れ込んだ。
「威勢がいいだけで、大したことはないな。この僕に啖呵を切るくらいだから、もっとマシだと思っていたけど、拍子抜けだ」
キャンサーは彼の背中を踏みつけると、高枝ハサミを開き、刃と刃の間にガンディの頭を挟みこんだ。あとわずかにでもキャンサーが腕に力を加えようものなら、ガンディの首は切断されてしまうだろう。しかしそんな危機的な状況にたたされても、彼は動けない。見ればその装甲には無数の裂傷が刻み込まれ、背や頭は強い衝撃を受けたのか、軽く陥没していた。
そして最も損傷がひどいのはその拳だった。装甲が完全に割れ、砕けている。ガンディの拳はキャンサーの装甲に傷1つ与えられないばかりか、逆に大きなダメージを被っていた。
「藍沢さん……」
絶体絶命の危機に陥る2人の戦士を前に、レイは絶望的な思いを抱く。
そしてレイ自身もまた怪人によってマウントポジションをとられ、右腕を強く抑えつけられていることが、さらに気持ちを暗くさせた。小柄な割にベルゼバビーの腕力は高かった。身を捩ろうが揺すろうが、腹の上に座る怪人はびくともしない。
ベルゼバビーの頬まで裂けた口から、紫色の長い舌が射出された。悪臭を発する粘液を伝わせるそれは、レイの頬を抉った。肉を削がれる痛みとともに、鮮血が地に流れ落ちる。「あんまり暴れちゃダメだよー、顔に穴開いちゃうよー」と舌足らずな声で、幼女は恐ろしい言葉を吐いてくる。その声音には、あどけなさとは裏腹に容赦のなさが窺えた。
血の味を唇に這わせながら、レイは己の弱さを呪った。最高の怪人と湛えられても、怪人を前にして、まともな抵抗すらままならない。あまりにも無力な自分に怒りすら覚えた。狩沢や秋護が殺されそうなのに、手をあぐねて待っていることしかできない。
気付けば雨雫に混じり、頬には涙が伝っていた。悔しかった。自分が何もできないせいで、周りの人が傷ついていく。一体、なぜ自分はここにいるのだろう。一体自分のできることとは、果たす役目とは何なのだろう。先ほどまでその答えはすぐ側に寄り添っていたはずなのに、急にその姿を見失う。
笑い声が聞こえた。空気を震わすような大爆笑だった。けたたましい雨音の中にその声が埋もれることもない。圧倒的なボリュームと、狂ったようなリズムを併せ持って、その声は響き渡る。
声の主はガンディだった。キャンサーの足の下。鋏を首に食い込まされながらも、彼は笑っていた。死の間際に立たされながら、明るい雰囲気を振りまく彼の姿は不気味と呼ぶ以外なかった。レイだけではなく、ケフェクスもキャンサーもガンディに目を向け、揃って要領を得ない顔つきをしている。
「なにがおかしい? 今の自分の立場が分かっているのか」
キャンサーが不審げに口元を歪ませながら、至極最もなことを言う。ガンディは笑いを止め、しかしどこか浮ついた様子はそのままに首を僅かに上向かせた。
「あぁ、よーく分かってるぜ。だから、笑ってんだよ。死ぬのは苦しいから、だからせめて気持ちは明るくしておこうと思って。泣きながら死ぬのは、俺らしくないだろ?」
「貴様のことなど知るか! お前、どこかおかしいんじゃないのか。こんな時に笑うなど、どうかしてる」
鋏を握るキャンサーの手に力がこもる。その様子からは明らかな動揺が伝わってきた。しかし、秋護は少しも揺るがない。
「怪人におかしいって言われるほど、俺は非現実じゃない。俺はただ笑っていたいだけだ。だから、レイちゃんもそんな顔するなよ」
レイは目を丸くした。狙ったのかどうかは定かでないが、それはつい先ほど、佑が負傷したという報告を聞いて心の揺れたレイに対し、秋護が放ったのと同じセリフだった。
「泣くのは死んでからでもできる。そんなの一番後回しだ。まだ、全ての可能性を捨てたわけじゃないんだろ? 笑おうぜ。心が折れるそのときまで、俺たちは何にも負けちゃいない。俺たちの本気は、ここからだ」
やはりその身に刻まれたダメージは深いようで、鉄鎧の下で秋護は激しく咳き込んだ。声も胸の奥から絞り出しているかのように、枯れていた。しかしガンディの言葉に無理をしている様子はなく、彼は自らの死を受け入れながらも、それでも喜びを見出しているようだった。
キャンサーの言う通り、それは常軌を逸した情動なのかもしれない。だが、だからこそなのかもしれないが、彼の偽りのない本心はレイの心に深く切り込んできた。
「本気は、これから」
再び飛んできたベルゼバビーの舌を、首を横に傾けることでかわしながら、レイはうわ言のように呟く。そして空いている左手でポケットの上からスカートに触れた。爪をたてて軽く握り締め、ポケットの中に入っているものの輪郭を探り取る。
恐怖はある。躊躇いもある。緊張もしている。しかしこれ以上、この不安から逃げ続けるのは違う気がした。狩沢も、秋護も、佑も、父親も、拓也も、皆、恐怖を抱えながら、傷つきながら戦っている。そんな彼らの側で自分だけが、目の前の出来事から逃げ続けるなどという都合のいい話はきっとない。自分の抱いた決意はそんなものの前で這い蹲るようなものではないという、強い自負もあった。
だから、左手をポケットの中に突っ込んだ。まるで爪をくすぐるような感触が指先を伝う。レイは指が捉えたそれを鷲掴みにすると、外に強く引っ張り出した。生々しい、生物特有の脂分を表面に光らせた――黒い鳥の羽を。
よろめきながらレイが取り出したその羽1つで、場の空気が僅かな緊張を孕んだ。ケフェクスは足を止め、雨に目を凝らすようにしながらたじろいだ。
「あれは黒い鳥の……なぜ、あいつがあんなものを隠し持っている」
「式原の奴らから奪ったんだろうさ。おい、君、そんなものをどうするつもりだ。それは危険なんだぞ! 分かっているのか!」
キャンサーもまた困惑の声をあげている。
危険は百も承知だ、とレイは心の中で反論した。自分がこれを使おうとする事態に追い込まれるなど、数日前まで、レイ自身も想定すらしていなかったのだから。
レイを怪人としてレベルアップさせ、死を振り撒き、世界の秩序すら崩壊させうる存在、黒い鳥へと昇華させる。川神清一という男の姿を借りて襲い掛かってきた怪人、イストは自らの役目をそう話していた。それが、あの白衣からの男の命令だとも言っていた。
あの男の思う壺にはまるかのようで悔しくはあったが、自らの無力に打ちひしがれているはもうたくさんだった。佑がみんなを守るためにフェンリルを欲したのと同じように、レイもまた力に向けて手をかざす。それが黒い鳥という、諸刃の剣であったとしても。
レイは羽を掴んだ手を、大きく振り上げた。雨に打たれても、その羽が発する漆黒の輝きは絶えることを知らないかのようだ。一つ短く息を吸い込み、それから自らの右肩目掛け、ナナメに腕を振り下ろす。
「これはやばいかもな……蝿!」
レイが一体何をしようとしているのか、事態をようやく呑み込んだのだろう。ケフェクスは血相を変え、レイの上に乗る蝿の怪人に向けて叫んだ。
「余計な事はするな。君は君のままでいいだろう、せっかく小さくて可愛いのに!」
キャンサーも狼狽している。片手など鋏から手を離し、こちらに向けて腕を伸ばそうとさえしていた。
レイはぼやけた景色の中で、ベルゼバビーが舌を発しようと口をすぼめるのを見やりながら、薄く微笑んだ。
「今の私のままじゃ、ダメなんだよ」
腕を胸の前にかざし、舌を肘のあたりで受け止める。鋭い舌は皮膚を突き、軽い痛みが脳を駆けた。
「変わらなくちゃ。みんなみたいに。私のままで、変わらなくちゃ」
もはや怖くはない。自分には父親がいる、ライがいる、悠がいる、佑がいる。秋護や橘看護師のように自分の正体を知りながらも、受け止めてくれた人もいる。レイを作るものは、周囲を取り囲むすべてのもの。その景色が姿を変えない限り、自分を見失わないでいられる。そんな、気がした。
レイはベルゼバビーの舌を引きずったまま、少々強引に腕を突っ張った。そしてその手の中の羽を、力強く、自分の右肩に突き立てた。その瞬間レイは、自分の身を、強烈な光が貫いていくのを感じた。
雷鳴が空を穿つ。稲光が世界を覆い尽くす。湿った空気を跳ねのけるようにして、レイの体から巨大な鳥の影が立ち昇った。
鳥の話 34
V.トールが掌から電撃を放出する。アークがそれをかわす。互いに敵目掛けて打ちだした拳同士が正面から激突した。中空に火花を散らしながら、両者はほぼ同じタイミングで背後に飛びのく。
「いい表情をしているな」
ハンドガンを連射しながら、アークがどこか楽しそうに言う。銃弾はV.トールの足元を蜂の巣のように削いだ。その爪跡も雨に流され、数秒後には何もなかったかのように泥に埋もれていく。V.トールは胸中を焦りで満たしながら対する敵を鋭く睨んだ。
「背に守るべきものを持った、男の表情だ。射抜くような視線と、力強い情動。どちらも、数日前に会ったときに、お前になかったものだ」
額に角を生やし、黒く硬い皮膚をもつ化物に姿を変えている仁の表情が、傍目から見て分かるはずもない。しかしアークは、まるで仁の心を見透かすようにはっきりと言葉を口にした。
「野獣のような、しかし優しい強さだ。お前と身をぶつけあわせるたび、拳が触れ合うたび、その感情が伝わってくる。それがお前の本気だというのか。ミスターイカロス」
V.トールは彼の質問には答えず、地面に置かれた金槌を拾い上げた。バックルの石版から変化させたこの武器は破壊力こそ高いものの、非常に取り回しが悪く、アークのように素早く跳び回るような敵に対してその真価は発揮させづらい。だからこそ金槌を捨て、素手での攻防に戦術を切り替えていたのだが、時間に余裕がなくなってきた。
ならば使い勝手こそ悪く、手数は少なくとも、一撃の威力にかけてみるのもいいのではないか。そんな考えが過ぎり、V.トールは再びその掌中に金槌の柄を収めた。泥で滑りやすくなっていたが、上から力で抑え込むようにして使用する。
「私には娘がいる」
右腕の銃口を突きつけながら、アークが言った。仁はV.トールの顔に怪訝を浮かべる。
「私が持つもの中で、最も大切なものだ。あいつらができて、私は守るべきものの存在を知った。そこで生まれる強さもな」
しんしんと降り注ぐ雨の中。V.トールは金槌を地面に引きずりながら、前に足を進める。V.トールの通過した背後には、深く広い1本の線が引かれていった。
「もし、娘たちの命が脅かされる事態になったとき。私はあいつらを救うためだったら、鬼にも悪魔にもなろう。憎しみも受け入れよう。私は世界の全てを統べるものではあるが、1人の父でもある」
これまで聞いたアークの発言と、それはどこか違うセリフだった。その言葉には慈しみの情が多く含まれていた。優しさがあった。それは仁が受け取り、そして葉花にこれから渡そうとしているものと似通った匂いがした。
「自分の娘1人を愛せないものに、世界を愛する資格はない。娘を守ることができない男に、世界を救う手立てはない。お前の強さは、私と重なる」
アークもまた歩き出し、V.トールとの距離を詰めていく。時間が一秒でも惜しいのに、はやる気持ちに反して、仁の体はアークとの対決を望んでいた。理由は分からない。ただ、彼の言うとおり、仁もまたアークの強さに自分と同じものを感じ取っていた。
そして憧れてもいた。ハクバスに父親ごっこと揶揄された仁にとって、アークの放つ輝きはあまりにも眩しすぎた。やはりこの男は自分で称するように、太陽のような巨大な思いを胸に抱いている。だが、仁とてこの太陽を前に燃えつきる気はさらさらなかった。
「ミスターイカロス。お前の守るべきものに対する気持ちか、私の娘に対する愛か、どちらが強いのか雌雄を決しようではないか」
手首をかちゃり、と音を立てて振りながら、アークが提案する。V.トールは一瞬だけ足を止め、その後で、大きく頷いた。
「……望む、ところだ」
ぐるり、と腰を捻るようにしてV.トールは大きく金槌を振り上げる。それだけで水分の含まれた空気が振動し、音をたてた。両肩にずしりとした凶悪なほどの重さがのしかかる。こんなものを全力でぶつけられたら人間はどうなってしまうのか、考えるだけでも恐ろしかった。その恐ろしいことを、自分の意思で今からやろうとしている、という事実に腰が引ける。
しかし、怯えているわけにもいかなかった。
掌に葉花を救いたい気持ち全部をかき集め、仁はアークの頭を叩き割るイメージを脳裏に定着させながら、それを振り下ろす。重力にもぎ取られた槌は、もはや仁の意思という次元を超え、ただ無感動にアークへと迫る。
「この一撃で、終わらせる!」
両の腕にのしかかる強烈な重力に、体ごと持っていかれそうになりながら、全身全霊をこめて繰り出した一手だった。手ごたえも、金槌から掌を伝って確かに返ってきた。はずだった。
金属のひしゃげるような、耳障りな音が反響する。それはアークの両腕から聞こえた。V.トールは金槌の振り下ろした先を恐る恐る見やる。するとそこには、X字に組み合わせた両腕で金槌を受け止める、アークの姿があった。
この得物は掠っただけでも、肉を潰し、骨を砕く、それ程の重量を備えた武器だ。真正面から受け止めて平気で済むはずがない。しかし、アークは仁の予測をいとも簡単に覆した。
「お前の一撃は受け止めた」
両腕を上に振るい、アークは金槌を跳ねのけると、強制的にばんざいの姿勢に持っていかれ、がら空きとなったV.トールの腹部に拳の焦点を定めた。腕を腰に溜め、細く、しかししたたかな息を吐く。
「では、今度は私の番だな」
彼が言葉を落とした瞬間、確実に周囲の空気がその濃度を増した。ぐんと前に引き寄せられるような、感覚を仁は覚える。アークの拳を取り巻く空間に皺が寄り、泥に埋もれた地面が裏返った。
V.トールが動く前に、避けようと意識する前に、突き出されたその拳はその胸を貫いていた。内臓を直接叩かれ、なぶられ、破壊されるような衝撃が頭から足元まで駆け抜け、激痛の後、V.トールの体はあえなく背後に吹き飛ばされた。
しかしV.トールは押しやられ、地面に全身を叩きつけられるまでの間に、電撃を放出していた。それは稲妻型の軌跡を描いて、鋭くアークの胸を抉る。その両足は地から離れ、アークとV.トールはほぼ同時にぬかるみへと突っ込んだ。
※※※
心と心とをぶつけ合い、戦うアークとV.トールの上空では、光の翼をひるがえすダンテと、漆黒の翼を広げるS.アルムが空を目まぐるしく飛び交い、激突していた。降りしきる雨など意も介さぬように、2人は中空を駆け回る。一進一退、どちらも引かぬ激しい攻防が、薄暗い雲の下で展開されていた。
S.アルムは体の周囲にぴったりと蛍光グリーンの粒子を貼り付け、とび蹴りを繰り出す。ダンテは腕でそれを受け止めると、ハイキックで攻撃を返した。振り回した槍で、迫るつま先を受け流しながらS.アルムは後退する。
「華永は、あいつはどこだ! どこにいる!」
突き放たれた槍の一撃をかわしながら、ダンテは豪雨に負けぬような怒鳴り声を放つ。S.アルムはその答え代わりとでもいうように、口から白い液体を吐き出した。
「教えるわけがない。お前らに、ボスと会う資格などない!」
ダンテは液体をギリギリでかわすと、即座に後ろに跳んだ。そこに槍を振り上げたS.アルムが追いすがる。槍の振るわれたタイミングに合わせ、ダンテは素早く前に飛び出し、槍の柄を踏みつけて、S.アルムの頭上を飛び越えた。
「ちょこまかと。顔がたいしたことないくせに、機敏に動きやがって!」
S.アルムは振り向きざまに槍を振るうが、ダンテは体を逸らし、それもまた危うく回避する。それから肩口より聳える翼を大きく上下に動かし、相手から距離をとった。
「あいつに、会わせてくれ。頼む。俺は、あいつを止めたいんだ」
「ごちゃごちゃ言ってるんじゃねぇよ。ボスがお前たちの言うことになんか、耳を傾けるはずがないだろうが!」
「届く! 俺はそう信じてる。あいつはただの女子高生なんだ。こんなところにいるような奴じゃないんだよ」
「ボスは女でも、高校生でもない。黄金の鳥の復活を掲げる、デビルズオーダーの首領だ!」
全身から緑色の粒子を発散し、S.アルムは槍を間断なく打ちだしていく。ダンテは顔の前で組んだ両腕で攻撃を防ごうとするものの、その気迫と絶え間なく襲いかかる衝撃に負け、後ろに突き飛ばされた。
「ボスを、あの人を、馬鹿にするんじゃねぇぞ!」
がら空きになったダンテの身に、S.アルムは躍りかかる。だがダンテは姿勢を大きく崩されながらも、自分の耳に備えられたインカムのヘッドホンへと手を伸ばしていた。
「馬鹿になんて……していない!」
そこに搭載されたダイヤルを1目盛り分だけ、回転させる。すると肩から伸びたその翼が小さく白色に瞬いたかと思うと、そこから無数の光の羽が矢のように、S.アルム目がけて掃射された。
線ではなく、面で襲いかかっているその攻撃には.アルムもさすがに鼻白んだ。
槍を新体操のバトンのようにくるくると高速回転させ、前に突き出して、飛び交う光の矢を弾こうとする。だがそれでもすべてを撃ち落とすことはできず、いくつかはS.アルムの黒々とした皮膚を貫いた。
ぐっ、と呻き体を丸めるS.アルムにダンテの拳が飛ぶ。だが、顔を起こしたS.アルムの眼光は、些細なダメージなど意にも介さないとでも言いたげな、怪しげな光を放っていた。
その手首にブレスレットのような装いで装備された三角形の石板の、その輪郭が変貌を遂げる。まるで粘土のように形を作りかえられたそれは、直径50センチはあるであろう太い針となり、手首から迫り出した。そして空を切って迫るダンテの拳にタイミングを合わせるように、S.アルムも腕を前に突き出した。
ダンテとS.アルムも拳は、中空でかち合った。長く手首から伸びた凶悪な針は、ダンテの拳に深々と突き刺さる。さらにS.アルムはダンテの腹を蹴りやり、針を無理やり引き抜いた。
今度はダンテの口から苦悶の声が漏れる番だった。ダンテの拳から血が噴き出す。さらに続けて、その手の甲から白い煙が立ち上った。どうやら手の皮膚が装甲を貫いて溶けだしているらしい。ダンテは喉を掻き毟るような、悲痛の叫びをあげながら、空中で悶える。それを見て、S.アルムは自身の腕に刻まれた裂傷を、じっとりと紫色の舌で舐め上げた。
「さぁて、そろそろ追いかけっこも終わりにしようぜ、マスカレイダー」
舌で傷を拭い、S.アルムは槍を左手に持ち替えると、針を石板へと戻す。さらにその石板を、槍を持ったほうの手で取り外した。手の中で槍をくるりと回し、それから口内の牙を見せつける。
「1人1人、この俺が始末してまわってやる。俺の復讐劇も今日でおしまいだ」
手に取った石版を槍の柄の、ちょうど中央にあたる箇所にはめこむ。S.アルムは槍先ではなく柄の方をダンテに向けて鋭くかざした。その先端に緑色の光が帯びる。さらに続けて、横に光は伸びていき、三日月のような形をした刃が突き出された。
槍から鎌への武器の変形。それこそがS.アルムの持つ戦力の1つだった。発生した刃は掻き集められた粒子で形成されているものの、それ自体に確かな実体が存在している。S.アルムがその柄を振るうたび、ぶんと蚊の羽音のような音が刃から聞こえてくる。
「どちらかが全員死ぬまで戦い続ける。それが、金銀戦争ってやつなんだろ? 違うのか?」
S.アルムは鎌を大きく頭上に掲げ、ダンテに接近すると、大きく振り回した。緑色の刃は流れるような軌跡を描いた。ダンテは肩から生え伸びた翼を翻し、とんぼを切って、それをかわした。
「なら、お前らのフィールドで俺もやってやろうってなもんだ。そうだろ?」
「そんな戦いは、7年前に終わったんだ。終わった、はずだった!」
S.アルムの口から目の前を覆うほどの白濁液が噴射される、ダンテは耳元のダイヤルに手をかざし、それを回転させた。すると、降りかかる白い雨を待ち構えるかのように、その頭頂部が激しい光を放出する。灼熱を振り撒くその光によって液体は蒸発し、ダンテの体に届く前にその全ては消え去った。
やがて光はうっすらと姿を消していく。空には元の通り、薄暗い雲がひしめき、濁った空気が席巻する。そしてそこに、ダンテの姿は忽然となくなっていた。
「……後ろか!」
空気の僅かな機微を読んだのか、それとも別の要因によって勘付いたのか。S.アルムは背後を振り返ることもなく、頭上を越え背中に回した槍で、後ろから飛んできたダンテの拳を受け止めた。
「読めてるんだよ……お前の行動は!」
腰を捻らせ、S.アルムは槍を横薙ぎにし、ダンテを突き飛ばした。さらに緑色の刃を煌かせ、宙を蹴って獲物を追いつめる。
ダンテは調子の狂った呼吸音を喉奥から搾り出すようにしながら、ダイヤルを再び回転させた。すると今度はその両肩から伸びた、バランスの悪い光の翼から、無数の細かい羽をナイフのように次々と射出した。
その羽たちは目にもとまらぬ早さで空中を滑るように動き、S.アルムをぐるりと取り囲んだ。そしてその事実をS.アルムが受け止めるよりも先に、光の羽はあらゆる方角から彼の体を切り裂いていった。
それはS.アルムにとって、予想外の反撃だったに違いない。飛んでくる光を紙一重でかわし、槍を振り回すことで防ごうとするものの、何十と放たれたその攻撃を全て回避しきるのには、圧倒的に手が足りなかった。
「くそ、これは!」
上も下も横もなく。息を揃えるように、あらゆる方角から攻め立ててくる光の刃は、次々とS.アルムの肉体を寸断していく。
そして、かわしきれず、翼や胸に鋭いダメージを突き立てられたその体は、翼を貫かれた事をきっかけにして、地上目がけて真っ逆さまに落下していった。
※※※
そしてS.アルムは、アークのハンドガンによって滅多打ちにされるV.トールの前に落ちてきた。
よろめくV.トールのその手に金槌の姿はない。敵の激しい攻撃に見舞われ、途中で取り落してしまったのだ。葉花のことを想い、自分の使命を感じ、焦りを募らせるばかりの仁に対し、アークは冷静に着実な攻撃を重ねてくる。仁は徐々に劣勢に追い込まれていった。
頭を強く打ちつけたS.アルムは、ぬかるんだ地面に倒れ伏した。アークは硝煙の立つ銃口を天に向けると、その緑色の光を纏う怪物を見つけ、鼻を鳴らした。
「ふん。誰かと思えば、お前か。まだ生きていたとはな。驚きだ」
「な――アルム!」
菜原君――言おうとして、慌てて言い換える。戦闘中、仲間の人間時での名前を口にすることはタブーであることを思い出したからだった。
「アーク……」
S.アルムは緑色の瞳を細めるようにして、上半身を起こしながらアークを睨みつける。しかしそのあとで上空を見上げ、いまだ宙を舞うダンテに視線を移すと歯をぎりと軋ませた。
「今度こそ、お前も倒してやりたいが、今は奴だ。――頼んだぜ」
悔しげな表情を浮かべ、彼は背後のV.トールを見やる。V.トールは力強く頷いた。
「うん。任せてよ。こいつは、この男は、僕が倒す」
自分に言い聞かせるように、仁は語調を強める。宣言をすることで、それが単なる理想ではなく、手の届く現実に移り変わっていくような予感があった。
「今まで、傷つけられた君の分まで、僕は頑張るから。だから、君も、死なないで」
言葉に乗せた切実な思いは、S.アルムに伝わったようだった。彼はしばし、きょとんとしたあとで、口角を広げ、笑顔を浮かべた。
「お前がこの世にいてくれる限り、まだまだ俺は死ねないな。分かった。お前も、死ぬなよ」
S.アルムは地面を蹴り、翼を1つ羽ばたかせると、下半身を引きずるようにして曇天に飛び立っていった。
しかしV.トールに彼を見送る隙は与えられなかった。アークの回し蹴りが、気付けば顔面に迫っていた。咄嗟に腕で受け止めるものの、その一撃は上腕に瞬くような痺れを生じさせるほど、強力なものだった。
「私を倒すだと? 砲台を1つ壊したくらいで、ずいぶん大きく出たようだな」
「やるさ。いまの僕は、この前までの僕とは、違うんだ」
V.トールは大きく腕を振ってアークを突き飛ばすと、逆側の手の指を立て、そこから電撃を宙に泳がせた。青白い光の線を、アークは左側のバインダーで受け止めると、それを素早く展開し、砲口を顕わにする。打ちだされた光の弾丸は、V.トールの足元の地面を大きく抉った。
「僕を待っている人がいる。だから、行かなきゃいけない!」
ぬかるんだ土飛沫が逆巻く最中で、V.トールはきんと空気が音をたてて凍りつくのを確かに感じた。
寒気が背を這うような感覚だった。ハッとなり、雨水の降り注ぐ頭上を仰ぐ。
するとそこに、肩を大きく上下させて呼吸をするダンテに対し、翼を平行にして猛スピードで飛び込んでくる怪物の姿があった。
ピンクと白を基調としたボディカラーをもつその姿。黄金の翼をはためかせ、さらにそれと同色のマントを翻し、仁たちのいる地点より少し離れた場所を目指して宙を横切っていく。
それはデビルズオーダーのリーダー、華永あきらの変化した怪物、Z.アエルだった。
これまで何をしていたのか、彼女はあまりにも突然に黄金色の風を背負い、霧の中を突き破るように現れると、地表目がけて一直線に降下していった。
「やっと、見つけた」
彼女の口から、そんな言葉が漏れた。両手に掴んだダガーを握り締め、表情の分かりづらい顔を、それでも険しく引き締める。
「待て!」
ダンテは声をあげながら、彼女の進行方向に立った。構え、身を挺してその体を受け止めようとする。声も絶え絶え、空中でよろめくダンテは明らかに憔悴していたが、それでも心の火だけは熱く燃え盛っているようだった。あきらのことを心より案じる気持ちが、その視線にはこれ以上とないほど込められているように思える。
しかしその想いが、Z.アエルに届くことはなかった。彼女の眼中にダンテはなく、その視線は地上を射抜くようだった。そんな彼女にとって、自分の前に立ちふさがるダンテは蚊ほどの価値も見出せなかったに違いない。
Z.アエルはまったくスピードを緩めることもなかった。ダガーを持った両腕を大きく広げ、ダンテと接触する手前でそれを大きく振り回した。
音はなかった。刃の軌跡すら見えなかった。しかしその攻撃が直撃したことは、ダンテが血飛沫をあげながら後ずさったことで、分かった。空を赤く染めながら、動きを止めるダンテの前をZ.アエルは過ぎ去っていく。
駆け抜ける寸前、彼女の脱ぎ捨てた黄金のマントが、宙を泳いだ。
振り返ることもなければ、ダンテに一抹の興味を抱く素振りすらみせることはなかった。ダンテの装甲は振るわれた刃物によって深く引き裂かれ、その傷は中の人間にまで達したようだった。胸から腹部にかけて歪んだ傷口を晒したダンテは、さらに苦しげな呼吸を吐き出しながら、Z.アエルの姿を最後まで見つめていた。
そして彼女はV.トールのいる場所から100メートルは離れた霧の中に飛び込み、そして再び消えていった。
「華、永」
口から零れる言葉もまた、弱弱しい。真紅の液体がダンテの装甲を汚している。ごうごうと降り注ぐ雨に混じって、その鮮血は大地に零れ落ちていく。
アークはちらりと、大きな傷を負った仲間に一瞥を送ったものの、ほとんど気にすることもなく、左手首から強靭なワイヤーを射出してきた。V.トールは水たまりに足をとられながらも身を翻すが、その半透明のワイヤーはまるで鋭利なナイフのような切れ味をもって、その体を裂いた。刺すような痛みと、それに伴って肩から噴きあがる血飛沫を見届けながら、仁は上空で血に塗れたダンテをどこか自分と重ねる。
「ボロボロだな、お前。どんなに必死になろうとも、ボスがマスカレイダーズの言葉に耳を貸すはずがないだろうが。バカな奴め」
空に戻ってきた泥まみれのS.アルムが、ダンテの前に立ち、笑った。その笑顔にはこれ以上とないほど、卑屈なものが宿っていた。
S.アルムの翼には虫食いのような穴がいくつも開けられていたが、飛行にはさして問題がなさそうだった。ダンテは体を伏せながらもじっと霧にZ.アエルを透かして見ようかとするかのように、彼女が消えていった方角を見つめていたが、ようやくゆっくりとS.アルムのほうに顔を向けた。その動きは、血と一緒に魂までも流れ落ちてしまったかのように虚ろだった。
「戦いが終わった、とかさっき言ってたな。ふざけるな。終わってねぇよ。勝手に終わらせたのはお前らだ。お前らのせいで死んだ人間の家族のことなんて、気にかけもしないんだろうな。そういう奴らだろ。昔から、お前らは」
S.アルムは仰向けに倒れるダンテの首に、鎌の刃をかけた。正面から彼を見据え、その命を手中に収めながら質問をぶつける。ダンテは力なく、荒い呼吸で、ぼんやりとS.アルムを見つめ返した。
「お前は菜原春斗という名前を覚えているか?」
「菜原……」
ダンテは呟いた。始めは記憶を探るように心もとない返事だったが、やがて思い至ったように、「菜原!」と明瞭さのこもった声をあげた。S.アルムは鎌を持つ手に力を込めた。
「そうだ。覚えていてもらわなくちゃ困る。あいつは7年前までお前らの仲間だったんだからな」
緑色の瞳を憎憎しげにひずませて、彼は吐き捨てる。その体から空を覆い尽くすほどの粒子が放出されていく。どうやらその量は彼の感情のどよめきに連動しているようだった。
「俺は春斗の兄貴だ」
ダンテの体がびくりと震えた。その表情が驚愕の色に染められていくのが、仮面越しでもはっきりと見て取れた。
「お前らを信じて、お前らに唆されて、殺された人間の家族なんだよ」
S.アルムは叫ぶ。雨音にも、雷鳴にも負けない、空気を焦がすような怒気に膨らんだ大声だった。その声は悲痛なものとして、仁のもとにも届いた。アークも攻撃の手を少し緩め、そちらに視線を向ける。V.トールも血を拭い、相手の攻撃をかわしながら、耳をそちらに傾ける。
「春斗だけじゃない。お前らは何百人っていう無関係の人間を殺したんだよな? 春斗は罪をかぶせられたんだ。そして殺された」
対峙するS.アルムとダンテの間に、痺れるような緊張感が広がっていく。刺々しく、周囲の何かもを傷つけるような、無差別な感情の共鳴。S.アルムは今にもダンテの首を掻き切ってしまいたい衝動を押さえ込むかのように、鎌を持つ手を震わせた。ダンテは沈黙を守ったまま、ぜえぜえと呼吸を揺らして正面からS.アルムを見つめている。
「知ってんだよ。俺は全部」
血を流すダンテも苦しげだったが、言葉を紡ぐS.アルムもまた顔を歪めていた。胸の中に渦巻く様々な負の感情の行き場を見失っている。そんな塗炭の苦しみを、その表情は物語っていた。
雷が空を駆ける。光が遠い地上を打つ。S.アルムは歯を軋ませながら、最後の言葉を、一息に口にした。
「お前らなんだろ? 4年前に起きた新宿駅爆破事件。あれを起こした犯人は。お前らマスカレイダーズだ。お前らは、大量殺人犯だ」
時間が止まった。
少なくとも仁にはそう感じられた。両足を着けていた地面が宙を浮き、雲がぴたりと動きを休め、空気の淀みさえ凝ったかのように錯覚した。
今度は声だけでなく、衝撃がV.トールとアークを揺さぶった。不可視の、しかし、確かな実体のある言葉の衝撃に双方ともほぼ同時に足を止めた。
始めは聞き間違いだと思った。
戦闘音や雷鳴、雨音など様々な雑音で周囲は騒がしい。間違った情報が仁の耳に降りてきたという可能性も、少なからず考えられた。しかしV.トールにハンドガンの銃口を突き付けていたアークが完全に攻撃の手を休め、じっと続報を待つかのように視線をS.アルムに向けているのを見て、やはり自分の耳は間違っていなかったと確信した。
アークも仁と同じように、あのおぞましき事件で大切な人をなくしたと言っていたことを思い出す。4年経った今でも犯人の詳細は少しも掴めていないということだったが、まさかマスカレイダーズがあの事件に噛んでいたとは、予想だにしていなかった。
アークは真っ直ぐにダンテとS.アルムを見つめていた。仁は初めて、彼がたじろぐのを見た。慌て、口数が多くなることさえなかったが、静かに宙を仰ぐアークの横顔は驚愕に硬直し、まるで石像のような佇まいだった。
今の会話の真偽についてS.アルムに問いただすべきか、そう考えているうちに、S.アルムは手にした鎌を一振りし、ダンテの肩を切り飛ばした。さらに続けて、鎌の柄の部分、すなわち槍の腹で、その胸郭を殴打した。
苦痛の籠った声を空に解き放ち、衝撃に身を打たれて吹き飛んでいくダンテを、S.アルムは蛍光グリーンの尾を引いて追いかけていく。彼らの姿が幾重にも積まれた霧の中に潰えていたのとほとんど同じタイミングで、空に異変が起こった。
地上から黒い螺旋状の何かが突き昇り、暗雲を貫いたのだ。ここからそう離れてはいない。500メートルかそこらの距離だ。それはあまりにも巨大な影だった。
うねうねと宙を激しく動き回り、そして左右に枝分かれしていく。空を切り取った、あまりに巨大なシルエット。仁の目に、それは鳥の翼のように映った。
黒い鳥の翼。
反射的に仁は、怪人たちを作り出しているという“黒い鳥”のことを思い出す。“黄金の鳥”のコピーとして作られたそれと同じ色をした、巨大な翼がこの場に現れた。そこに何か覆しがたい、不吉な意味が隠されているような、そんな気がした。
その影はこの場にある霧を、その身ですげなく食い尽くしていく。翼がはためくたびに、鬱蒼と空気にこびりつくようだった霧は払われ、中に隠されていたものが衆目の前に晒されていく。
それはもちろん、仁の背後にも範囲が及び、ついにデビルズオーダーのアジトである古びたホテルが――霧のカーテンを剥がされ、顕わになった。
仁は息を呑む。
これは非常にまずい事態ではないのだろうか。目を見開き、動揺するV.トールの前で、アークが黒い翼を茫然と見上げながら何かを呟いた。何を口にしたのか正確に聞き取れはしなかったが、何かを案じるような優しい声音で「レイ」と言葉を零したように、仁には聞こえた。空に広がる大翼を見据えるアークの目は、ついに姿を現した敵のアジトのことなど心底どうでもよさそうだった。
※※※
「ホテルか。ずいぶんぼろっちいね。こんなものを、アジトにしていたなんて、程度が知れてるね」
霧で暴かれた空間に、ボイスチェンジャーを通したような、歪ながらがら声が聞こえてくる。V.トールとアークが立ち、S.アルムがダンテに告白を叩きつけたその場所からおよそ、300メートルほど距離を置いた、背の高い雑草の生い茂る場所でのことだ。
そこに、寂れた狼の着ぐるみが立っていた。片目がなく、汚れ、ほつれたその全身は薄闇の中という場面も合わさって、ホラー映画じみた不穏さに溢れていた。
「やぁ、こんにちは。初めまして、になるのかな。こんにちは、ゴンザレスだよ」
着ぐるみは平坦な声で、笑ったままの顔で、声を発した。そして自らをゴンザレスと名乗る。それに対峙するのは、ダガーを両腕に構えた、Z.アエル。
「ゴン太くんはね、逃げも隠れもしないよ。だからみんなも逃げないでね。勝つのは、ゴン太くんの、仲間たちなんだから」
Z.アエルが逆手に掴んだダガーは、この着ぐるみを切り裂くのを待ち望んでいたかのように、小さく震えていた。ゴンザレスは彼女に目をやると、可愛らしい仕草で、しかし不気味としか思えない挙動で首を僅かに傾けた。
「やっと会えたね。華永の、娘。さっきの放送、聞いてくれたかな」
「あなたがマスカレイダーズのリーダーですね」
「そうだよ。当たり。よく分かったね。ゴン太くんは、リーダーなんだよ」
屈託なくゴンザレスは答える。彼を取り囲む空気は、あまりに淀んでいて、目の前にするだけで不安を周囲の人間に煽るようだった。
しかしZ.アエルから伝わってくる殺伐としたオーラも、彼に引けをとってはいない。おそらく一歩足を踏み出せば、彼女はこの着ぐるみを、蚊を潰すよりも無感動に殺すだろう。そんな雰囲気が満ちていた。
「でも、ゴン太くんがここにいること、よく分かったね。勘でも当たったのかな?」
ゴンザレスは自分に向けられた憎しみの矛を、意に介する素振りすらみせなかった。人を小馬鹿にするような口調で会話を続ける。Z.アエルはダガーの切っ先を、彼の首に向けながら、強張った声で答える。
「これは金銀戦争ですから。それを分かっているなら、リーダーが来ないはずはないと思っていました。だからボクは最初に探したんです。再現したかったんでしょう? 7年前の、あの戦いを。だからそれに合わせたまでです。こちらもそれは、望むところでしたから。お父さんができなかったことを、ボクが、成し遂げるんです」
彼女の回答に、ゴンザレスは薄気味悪い笑い声をたてた。けらけらと、心を嬲るような声が雨の中に吸いこまれ波及していく。やがて笑いを止めると、彼は大きな手で小さな拍手を行った。
「素晴らしいよ。さすが、彼の娘であるだけは、あるよね。ごめんね。君のこと、馬鹿にしてた」
静かに呟き、ゴンザレスは拍手を萎めていく。そして暗がりに張る蜘蛛の巣じみた、陰湿な声を発した。
「でもね、こんなところにいてもいいのかな? おともだちが、死んじゃうかもしれないよ。君のお母さんも、いま、探してるんだ。死ぬのも、時間の問題だね」
ゴンザレスの言葉にも、Z,アエルは動じなかった。彼女は身に宿らせた怒りの色を静かに濃くし、ゴンザレスを睨んだ。
「やっぱり、葉花さんを」
「ごめんね。本当にごめんね。だけどゴン太くんは、反省しないよ。君が悪いんだ。おともだちは何にも悪くないのに、悲しいね。君のせいで、危険に晒されてるんだ。君がいなければ、みんな不幸にならずに済んだんだよ」
機械的な音声が、おぞましい響きをもって驟雨の中を跳ねまわる。Z.アエルは武器を構えると、ゴンザレスにその切っ先を突き付けた。
「あなたを、殺します」
彼女の声は凛としていた。目の前の敵をその瞳は揺らぐことなく見据えていた。
「あなたを殺して、この戦いを、終わらせます」
Z.アエルが凛とした態度で宣言すると、ゴンザレスは狼の着ぐるみの下で、くぐもった笑い声をたてた。
「望むところだよ。でもね。ゴン太くんは、死なないよ」
ゴンザレスは左手首をごしごしと擦りながら、その表情に影を落とした。その笑顔が黒々しく、まるで夜の水面に映る三日月のように、歪む。
「いい加減死ぬのは、君だよ。華永あきら。父親と同じようにね、この戦いで消えるといいんだ」
ゴンザレスが全てを言い終える前に。
Z.アエルは足元から、まるでジェット噴射のように純白の粒子を放出すると、その勢いに乗じて、ゴンザレスに飛び込んだ。彼女の手に光るダガーの刃が、身を切り裂くその時も、狼の着ぐるみは曇天の下でけして笑みを絶やさなかった。
18話 完