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16話「オウガVSフェンリル」


鳥の話 30

 仁は物寂しい思いで、窓の外を眺めていた。

クラーケンホテル、2階の廊下。リネン倉庫のドアの向かい側にある、扉型の巨大な窓の前だ。すでにV.トールの姿は解いてある。

 窓ガラスは無数の傷や曇り、長い年月を経て張りついた埃などのせいでひどく汚れている。指でなぞると、爪の間まで真っ黒に染まった。

 風が強い。窓がガタガタと歯の音を鳴らすような音をたてて揺れている。外では風が小さな渦を巻き、砂埃を乾いた地面に立ち昇らせている。不法投棄のゴミ袋が流され、転がっていく。木は大きく傾いでおり、あともう少し風力が高まれば幹から折れてもおかしくはなかった。

 足音が聞こえたので振り返る。すると廊下の奥の方から現れた白衣姿の女性、佐伯かえでと目が合った。彼女は仁を見つけると、黒いフレームのメガネをかけた丸顔を微笑ませた。

「あらー、白石君。こんなところでどうしたの。1人?」

「はい、まぁ、見た通りです」

「ははぁー、そうなのー」

 間延びした喋り方は、彼女の特徴の1つだった。常にゆったりとした雰囲気を纏うかえでを見ていると、その周囲だけ時間の進み方が違うのではと錯覚してしまいそうになる。緊張の張り詰めた空気を和ませる能力が、彼女の存在自体にあるかのようだった。

「今日は風が強いわねー。外に出たら、どこかに飛ばしてくれるかしら。空を飛び回るのが子どものころからの夢なのよねー」

「へぇ。佐伯さんならきっと、どこまでも飛んでいけると思いますよ」

「あらー、あらあら白石君嬉しいこと言ってくれるじゃない」

「きっと佐伯さんの前世はたんぽぽなんですよ。綿毛になってからが本気、みたいな」

 適当に応じると、かえではパッと表情に明りを灯して「たんぽぽね、いいわねぇ。たんぽぽたんぽぽー」とはしゃぎだす。その場でくるくると回る彼女を見やりながら、仁は尋ねた。

「そういえば、佐伯さん。話の腰折るようで悪いんですけど、あの男の人の具合は、どうですか?」

 男、という単語だけで仁が何を言わんとしているのか理解したのだろう。回るのを止め、笑顔をそっと萎ませて、彼女は気落ちした顔になって答えた。

「なんかね、治療の跡はあるんだけど。ちょっと危ないかなー。皮膚も内臓も損傷が激しくて。ギリギリ生きてるって感じなんだよねー。器材とかが足りないっていうのもあるけど、どうしても延命措置になっちゃう」

 眉を曲げるかえでの表情は悲しげだった。医療に携わる者として、怪我人の命をいたずらに延ばすことしかできない自分を悔いているようだ。

「本当に生きているだけでも不思議なくらいなのよねー。傷の跡からして、負傷してから1週間以上経っているのは間違いないんだけど、どうみても、そんなに長く生きられるはずがないんだけどなぁ。驚異的な生命力ってやつなのかもしれないわねー」

 ケフェクスが匿ってくれと要求してきたあの男は、かえでの住まうこのホテルの診療室に運ばれていた。医療に通じていない仁の目から見ても、全身のいたるところに包帯を巻かれた男は、明らかに虫の息だった。とりあえず医療的措置が必要だという皆の意見が一致し、かえでの下に移したのだが、どうやらあまり芳しい状態ではなさそうだ。

 しかし、仁はあの男に生きていて欲しかった。自分とは無関係で、得体のしれない存在ではあるものの、それでもそう願わずにはいられなかった。

「命を繋ぐだけでも、いいです」

 仁の発したその一言に、彼女は眉を上げた。仁は数秒置いた後で、さらに言葉を続けた。

「あの人は確かに人を殺して、死体をいじくって、怪人を作って、また人を殺して……そんな人間の仲間だったかもしれない。生きていたって仕方のない、もしかしたら死んだ方が世のためになる部類の人間なのかもしれない」

 戦いの最中で目にした、怪人に襲われる人々のことを想起する。あんな化け物を世に解き放ったことは、おそらく許し難い罪だ。あの男は人々の平穏を壊し、命を脅かした。

 でも、と仁は心の中で続ける。頭の中で揺れる感情の波を制御しながら顔をあげると、かえでが目を見開きながらこちらを見つめていた。

「でも、あの人は、父だ。彼の帰還を信じて待っている息子がいるんだ」

 親子の絆はたとえ遠く離れても、途絶えることはない。物心つくまえに親と離別した仁が、雑踏の中から実の母親を見つけることができたように。頭では、体では忘れていても、心は、魂は親の匂いを覚えている。だから家族というものは尊くて、時には面倒で、だけれども美しい。その人間が悪人だろうが凡人だろうが聖者だろうが、子にとって、親は親だ。

「だから佐伯さんにはなるべく、あの男が長く生きられるように力を尽くして欲しいんだ。あの人のことを心から想っている人がいる。たとえ命を継ぎ足すだけだって、死んでるよりは、ずっといい。……親が死んだら、やっぱり、悲しいに決まってるから」

 ケフェクスの父に対する愛には偽りなどなかった。彼の言葉、1つ1つを思い出しながら仁は訴える。仁の発した言葉に込められた強い気持ちが伝わったのか、かえでは口元を緩ませた。その唇の横に1本の皺が引かれる。年齢を感じさせない、少女のような可愛らしい笑みだった。

「分かってるわよー白石君。うん、私なりに頑張ってみるつもり。あの人とも約束したし、私だってお医者さんの端くれなのよー。命を助けるのは、当たり前よね。うんうん。ありがとう、白石君。ちょっと楽になったわー」

「いえいえ。こちらこそ、じゃあ……よろしく、お願いします」

 仁は重ねて頼み込んだ。するとかえではこうしちゃいられない、とばかりに急に慌ただしくなり、「じゃあ早速様子みてくるかなー。風に吹かれてどっかいってる場合じゃないみたいね。ちゃんと地に足つけて頑張らなきゃ!」と意気軒昂たる態度で走り去っていった。

 その背中を見送った後、仁は再び窓の外に目を向ける。

かえでの話すあの人、とはおそらく、数年前に死んだ夫のことを指しているのだろう。黄金の鳥をマスカレイダーズから奪い返し、その直後に亡くなったという男。彼の魂を土壌として仁は、暗闇の中にたゆたう、一握りの光を掴むことができたといっても過言ではないだろう。もし自分がまだ力のない、たじろぐことしかできないままの人間だったら、と考えるだけでも恐ろしい。そうしてみると、顔も知らぬかえでの夫に自分は救われたといっても間違いはないのではないか、と仁は感慨深く想った。

 黄金の鳥、と呟いてみる。鞭で空を切るような風の音が、その声をかき消してしまう。

 再び足音の近づく音がした。

振り向く前に今度は、「白石さん、こんなところにいたんですね」と声が聞こえた。首を捻ると、そこにはあきらの姿があった。

 怪人の姿ではなく、当然金色のマントを羽織っていることもなく。あきらは白いTシャツとホットパンツという出立ちで背後に立っていた。彼女の16歳らしからぬ、おうとつの」ある肉感的なボディラインを浮き彫りにするようなその恰好に仁は照れた。反射的に窓に目を戻す。

「あきらちゃん」

「今日も、強いですね。風」

 仁の隣に立ち、偶然だろうが、かえでと同じ話題を口にする。先ほどと同じ流れを意識し「こんな強い風なら、空も飛べるかもしれないね」と返すが、あきらが苦笑いを浮かべてきたので、即刻後悔する。

「さっきはすみませんでした。なんか、一方的に決めちゃって……」

 彼女の口から突然、謝罪が飛び出したことに心底驚いて、仁は顔を向けた。あきらは後ろめたさを瞳に浮かべて、こちらを真っすぐに見据えていた。先ほどまでの触れがたい、神秘のベールに覆われた雰囲気はすっかり彼女から消え失せている。仁の前に立つ彼女は、紛れもなく葉花と同じ年の、まだ表情に幼さを残す1人の女の子だった。

 しかしシャツの袖から見え隠れする彼女の肌が、青く変色しているのを見て、仁は訝しむ。始めは痣にみえたが、すぐにそうではないことに気が付く。その色が、明らかに異常だったからだ。それはあきらの髪と同様、白けた空のような淡い色をしていた。疑問はあったが尋ねることもためらわれ、仁はその変色を一瞥するまでに留めた。その視線を悟られぬよう、あきらの顔に目を戻す。

「白石さん、あんまり気乗りしない顔、してましたよね。やっぱりマスカレイダーズと戦うのは気が進まないですか?」

「……うん。まぁね。正直、辟易してるよ。怪人を持ち帰って、調査する。それで黒い鳥を探し出す。このホテルで君に力を与えられた時に、そう聞いていたから。人を傷つけるのはやっぱり、抵抗があるというか……」

「白石さんは、優しいんですね」

 あきらは褒めるというよりは、呆れるようなニュアンスをこめて言った。その視線は仁の足に向けられている。エレフによって傷つけられた足の傷は、痛みこそ大分引いていたが、まだ治りきったわけではなかった。思い出したように頬がじんと熱をもつ。世界大統領と自らを称する男、アークに殴られた衝撃がまざまざと目の前に蘇ってくるようだった。

 マスカレイダーたちは幾度となく、怪人と戦う仁に対して、一方的に襲いかかってきた。その度に数えきれないくらいの痛みを負い、あまりにも多くの傷を受けた。ここまでされても戦いたくないと頑なに主張するのだから、自分は余程のお人好ししかもしれない、と仁は自嘲気味に思う。

 しかしそれでも、同じ人間と血を血で洗う争いを繰り広げるのには抵抗があった。やむなくマスカレイダーと戦わなければならないこともあり、仁も幾度もなく拳を振るってきたが、やはり人を殴る感触に慣れることはなかった。

「優しくなんかないよ、ただ臆病なだけだよ」

 仁は自分の右拳を撫でながら、思わず笑みを零す。それからこちらに気遣わしげな眼差しを送ってくるあきらに、意識して、彼女を安心させるような笑顔を表情に出した。

「でも大丈夫。僕だって覚悟があって、この組織に入った。やるさ。それが願いを叶えることに繋がるんだったら、余計に。こんなところで立ち止まってる暇なんか、ないもんね」

「はい。それに、運が良ければこれをきっかけとして黄金の鳥の鍵について聞けるかもしれません。何にせよ、悪いことはないはずです。……白石さんが納得してくれて、良かった」

 表情を綻ばすあきら。しかし心底、安心したような笑みを浮かべる彼女に反して、仁の心は沈んでいた。

 鍵――それは黄金の鳥を解放するために必要なものである。この鍵さえ発見し、破壊することさえできれば、マスカレイダーズとこれから戦うこともなく、また怪人を追うこともなくなる。この組織の目的が、黄金の鳥の復活だからだ。この鍵のことさえもう少し分かれば、話は早くなる。

 そして仁は幸か不幸か、その鍵の在り処を知っている。仁が命を賭してでも守ることを誓い、この組織に入団するきっかけともなった少女、楓葉花がその鍵だった。その事実が露呈したとき、あきらがいかなる行動を取るのか……仁には予想をすることさえできない。ただ、はしゃぎあい、同じベッドで互いに互いを庇いあうように眠る昨晩の2人の様子を見るに、あきらが葉花を手にかけることは、今の時点では想像し難かった。

 しかしこれは楽観的な、希望的観測にすぎないかもしれないぞと自分を戒める。そんなことを考えていると、あきらが「そういえば葉花さん、大丈夫ですか?」と思い出したように言うので、仁は思わず身を竦ませた。

 彼女に顔を向け、「なにが?」とぎこちなく返す。自然な反応を取り繕う余裕はなく、表情が強張っていることは自覚していた。

「葉花さん、怪人に襲われかけたんですけど」あきらは怪訝な面立ちで、小首を傾げた。彼女の頬を青いポニーテールが流れ落ちる。「もしかして、聞いてないですか?」

「え」

 聞いているもなにも、初耳だった。彼女の言っていることが一瞬、理解できず、仁は呆然とする。理解が追いつくにつれ、今度は胸の奥からざらついたものが押し寄せてきた。

「お店に、怪人が現れたんですよ。ドアが壊れてなかったですか?」

「僕が行ったら確かに、ドアがダンボールになってたけど。もしかしてあれ……戦闘の跡だったの?」

 葉花はあきらとはしゃいでいたらうっかり壊してしまったと、決まり悪そうに言っていた。なんとなくこれは嘘だな、何か隠しているなと、薄々感じてはいたものの、まさか仁が不在の間に怪人が『しろうま』に侵入していたとは、予想だにしていなかった。守ってきた日常があまりに容易く、無残にも蹂躙されたような気がして、恐ろしくなる。あと一歩違っていたらと思うと、体の芯が震えるようだった。

「はい。とりあえず怪人は殺しておきました。葉花さんに怪我はなかった、と思いますけど……」

「……確かに、葉花は元気だったよ。でも、怪人のことなんて一言もいってなかった。あきらちゃんはどうしたの、って聞いたら用事を思い出したから帰った、ってそう言ってた」

 なぜ葉花は仁に何も伝えなかったのか。都市伝説だとばかり思っていた怪人が自分の家に現れたのだ。恐ろしかったはずだ。信じられなかったはずだ。なのに、葉花は気丈に振る舞う様子も見せず、ただいつも通り、リビングでテレビを観ていた。何が現実で何が虚像なのか、わけがわからなくなり、仁は頭を抱える。

「葉花は、何も言ってなかったんだ。怪人が、来たなんて」

「きっと、白石さんを心配させたくなかったから、葉花さんは嘘をついたんです。そういう気遣い、得意ですから、葉花さん。こっちが心配になるくらいに」

「そんな気遣い、いらないのに。全部、話してほしいのに」

 いつまで父親ごっこを続けるつもりだ。耳の奥に、ハクバスのあざ笑うかのような声が蘇る。心に溜まったわだかまりを、自分に話してくれなかったことが何よりも悲しかった。

「ボク、葉花さんの前で、アエルになっちゃったんです。……怪人を、倒すために」

 あきらの告白に、仁は顔をあげた。アエルとは仁のトールと同様、黄金の鳥の力で怪物の姿に変化したあきらに付けられた名称だ。彼女は悲しげな表情で、小さなため息をついた。

「ごめんなさい。みなさんには、正体を悟られるなって言っておきながら、リーダーがこれじゃ、示しがつかないですよね。……葉花さんにも、もう会えません」

 あきらは目を伏せると、気落ちした声を発した。その瞳がわずかに潤んでいるのが分かって、仁はハッとする。彼女の背には寂寥感の塊が乗せられているかのようだった。責任を感じ、葉花に会えない苦しさを涙で洗い流そうとしている。その気持ちが、しゃくりあげる声となって仁に届く。

「正体が、ばれちゃいました。もう側にはいられません」

「葉花は多分、そんなこと気にしないと思うけど」

 実際、仁に彼女はあきらの正体のことなど1つも話さなかった。そしてあの葉花が、あきらの新たな一面を垣間見てしまっただけで、彼女との縁を切るとは考えづらかった。

 しかし、あきらは首を横に大きく振った。「違うんです」と沈痛さのこもった声をあげる。透明の涙が頬を伝った。

「ボクが、嫌なんです。葉花さんは大好きな人だから、巻き込みたくないんです。だからもう、会っちゃいけないんです。ボクは必ず、葉花さんを不幸にします。それは絶対なんです」」

 随分と飛躍した論理だ、と仁は眉を寄せずにはいられない。なんだか脈絡の薄い、突飛な考えのような気がした。確かに外部の人間に正体がばれたことは大きなミスではあるものの、そのことをきっかけとしてすぐさま相手に被害が及ぶとは思えない。

「なんで、そんな風に思うの?」

 仁は思わず尋ねてみる。彼女の切迫した表情は、こちらにも不安を振り分けるくらいの威力はあった。あきらは紅潮した頬を手の甲で拭うようにし、少し躊躇うような様子をみせたあとで、おずおずと口を開いた。

「個人的なこと、話してもいいですか?」

「うん、いいよ。構わない」

 仁が頷くと、あきらは窓の外を一瞥した。仁もちらりとそちらに視線をやる。その目の先を、透明のゴミ袋が風に巻かれて羽のように飛び去っていった。。

「前に、彼氏がいるって話したじゃないですか」

「あのお揃いの時計を買ってくれた、優しい彼氏?」

 あきらの発した"黄金の鳥"という単語に導かれ、クラーケンホテルに向かう道中で確か彼女はそんなことを話していたような気がする。青い盤面の時計をもらった、と嬉しそうに話していたことは思いだせる。しかし、彼女の手首にあの腕時計はなかった。仁の視線に気づいたのかは定かでないが、あきらはその手首をもう片方の手で掴み、腕時計がそこにないことを周囲に隠すようにした。

「ボクの正体を、その人も知っていて、だけどそれを受け入れてくれたんです。どんな姿になっても、あきらちゃんはあきらちゃんだって。そう言ってくれた時、もう涙も出そうになるくらい、嬉しかった」

「それは、いい人だね」

 数週間前のスーパーで、あきらの不気味な一面を知ってしまった瞬間、彼女をおぞましいものと思い込み、避けてしまった仁には耳の痛い話だった。もしあの時、葉花が巻き込まれていなかったなら。ハクバスから黄金の鳥と言う単語を聞かされていなかったなら、仁はおそらくあきらと距離をおいていただろう。葉花に、彼女とは付き合わない方がいいよ、とやんわり忠告していた可能性もある。

 あきらの彼氏とはどんな人物なのだろう。仁は急に興味が沸いた。しかし会話が進むごとに、あきらの表情が固く、険しくなっていくのを見て、不安を胸に過らせる。彼女の手首から消えた腕時計が、その気持ちをさらに助長させた。

「でも」

 あきらは言葉を落とした。暗闇に落ちて弾ける水の滴のような、透き通った、しかし暗澹とした声だった。

「でも久しぶりに会った時……あの人は、装甲服を着せられて、戦わされていました」

 仁は瞠目した。彼女の声に含まれた憤怒の濃度に、身震いさえした。彼女の体を包む空気がおどろおどろしく、凝って見えた。

「マスカレイダーズの仕業です。あの人たちは、ボクの大切な人をボクをおびき出すための餌に使ったんです。多分、本人は利用されたことすら分かってないんです。本当に心から心配して、来てくれたのに。あの人たちはそんな気持ちを利用したんです。こんなの、許せますか? ボクは……絶対に許せません」

 あきらの声は悔恨と怒りに震えていた。興奮した様相をみせるあきらを、呆然と眺めながら、仁は先ほどの食堂での彼女の態度に納得を見出す。だから、Z.アエルの姿で部屋に入ってきたあきらはいつもの穏やかな気配を消し、あれほどの怒りを周囲に発散させていたのだ。自分の大切な人が、日常に住まうはずの人が、戦いに浸食されていく恐怖。それを誘発したマスカレイダーズに、彼女は敵意を抱いたのだろう。

 彼女の気持ちは、よく分かった。つい先ほど、『しろうま』に怪人が現れたとあきらから話を聞き、仁は怯えたばかりだった。関係のない人、関係のない場所が標的に晒されるのは、やはり誰でも恐ろしい。

「それは」

 仁はどう応対するべきか判断がつかず、もっといえば、どんな言葉さえも彼女の激昂の前にはかき消されてしまうような気がして、言葉を詰まらせた。少し置いて、ようやく棒読みというほどではないが、感情の伴わない、その場しのぎの言葉を口にする。

「それは、許せないね」

 あきらは仁を睨みつけてきた。怒られるかと思い、背筋を伸ばしたが、彼女の口から怒号が飛ぶことはなかった。頭の中に膨らんだ熱気を逃がすように、大きなため息をつくと、蚊の鳴くような小さな声で言った。

「……実は見られたのは、葉花さんだけじゃないんです」

「……どういう、こと?」

「実はマスカレイダーズの人達も、その場にいたんですよ」

 仁は目を見開いた。彼女の口から飛び出した事実を噛みしめ、目の前が暗くなる。

「その場って、まさか、しろうまに……じゃないよね? あきらちゃん、違うよね?」

 あきらは仁を見ると、困ったような顔をして、俯いた。仁はその場で倒れそうになる。光に照らされていた日常という舞台が少しずつ暗澹とした闇に侵食されていく光景を想像し、眩暈さえした。

「なんで、そんなことに」

「怪人はどうやら、その人達を狙ってやってきたみたいでした。白石さんたちが連れてきたあの2人みたいに、喋る怪人で」

「ケフェクスたちと同じタイプの?」

 流暢に人間の言葉をしゃべるケフェクスのことを、仁は脳裏に呼び戻す。他の怪人と比べて、自分たちは死体の記憶が色濃く残っているのだ、と彼は説明していた。おそらくそのようなタイプの怪人は他にもたくさんいるのだろう。やっかいな話だな、と仁は眉間に皺を寄せる。

「あちらはあちらで、怪人と因縁があるのかもしれません。これは推測なんですけど、多分、怪人が店に来たのは偶然で、マスカレイダーズの人たちはボクを監視するためにやってきたんだと思います。あそこまで真っ向から接触されたのは初めてでしたけど、そういうの、前からありましたから。多分だいぶ前から、ボクに焦点を絞っていたんでしょうね。ボクは黄金の鳥を守った人の娘ですから、その後をつけてみれば、黄金の鳥を復活させようとする集団を見つけられるかもしれない、っていうのは道理にはかなってますけど」

「まぁ、確かに理屈にはかなってるね」

「マスカレイダーズは、ボクと同じくらいの年の女の子と、若い男の人でした。油断してたんです。昨日があまりにも楽しかったから、ちょっと気が緩んでたんです。そうじゃなきゃ……」

 あきらは床に視線を多し、唇を噛む。自らを痛めつけるように爪を立て、拳を固く握っている。仁は頭を強く振って意識を何とか安定させると、彼女の発した事実を心の中で反芻させた。4、5回、その話を胸の奥で繰り返すと、ようやく、先ほど食堂内であきらが主張していたことに納得がいった。

 もちろん彼氏を戦いの道に連れ去られ、利用された怒りもあるだろうが、急にマスカレイダーズに標的を定め始めたのは、おそらく、マスカレイダーズに彼女自身の正体を知られたことが一番の原因だったのではないかと気付いた。

 これまでこちらの素性が分からず、観察を続けていた彼らは、あきらの正体を知ったことでついに動き出した。そしてどうやったのかは分からないが、このホテルの存在や所在を割り出し、ここに攻め込もうとしているのだろう。あきらはそこまで予感している。だから、黄金の鳥を守るために、標的をマスカレイダーズに集中させたのだ。

 それを仁たちに向かい討てと、彼女は言っている。そういう切迫した状況があり、あきらはキャンサーとケフェクスの要求を呑んで、自分たちに力を貸すよう要求した。猫の手も借りたい、というのは彼女の本心だったのだろう。何を仕掛けてくるのか分からない相手だ。仲間は多ければ多いほどいい。

 身勝手な話だとは思う。あれほど仁たちには正体を悟られるな、後をつけられるなと忠告をしておきながら、トップであるあきら自身がその正体を明るみに出され、事実、そのせいで組織は危機に陥っているのだから。

 しかし、仁には彼女を責めることはできなかった。あきらも苦渋の選択を迫られたはずだ。組織か、それとも友達か。葉花を怪人の凶刃に晒したまま、ただの無力な一般人を気取ることも可能であったはずだ。

しかし、あきらはそうしなかった。彼女は自分を危険に晒してまで、葉花を助けてくれた。友達を見捨てることはしなかった。その事実は、仁の心に淡い光を灯した。やはりあきらは真相を知ろうとも葉花を殺すことなどしない、という確信を強めるきっかけとなった。

 だが、あきらが葉花を庇ったことは組織としての視線でみれば、非常にまずい結果を生みもした。相手は葉花とあきらの仲がいいことを知っているはずだ。そうなると、葉花の身に危険が及ばないだろうか、という不安が改めて仁の胸にくすぶってきた。

「でも、このままだと葉花はより危ないんじゃ」

 仁は胸騒ぎをそのまま言葉にする。その声は無意識のうちに、上擦ったものとなっていた。

「きっとあきらちゃんを誘い出すため、葉花を利用してくる。そうなったら、あまりにも危険なんじゃないかな……」

 仁の心配に、あきらはわずかに微笑みを浮かべて頷いた。顎を掻きながら、真摯な目で仁を見つめ返してくる。

「大丈夫ですよ。その辺に関しては、ちゃんと対策をとってあります」

 窓の外に視線を移し、彼女は遠くをみるようにした。青い空を背景として、雲に突き刺さらんばかりの高層ビルや、カラフルな店の屋根が点々としている。そこには生命の躍動感が溢れているようで、仁はみていると安心した。町にはたくさんの人が生きて、それぞれの毎日を送っている。

「しろうまと、ボクの家に、鳥の仮面の人を置いておきました。なにかあればすぐに駆けつけられるように。なんとかこれで、あとはボクたちが頑張れば、危険が迫っても事前に防げるはずです」

 なるほど、と仁は声をあげる。あきらはけして、怒りで我を忘れるということはなかった。冷静に状況を分析し、対策を練ってある。そういうところはやはり組織のリーダーだ、と仁は感服の思いを抱いた。

「ボクは、あの人たち、マスカレイダーズを許しません。あの人たちは無関係の人間を平気で犠牲にする……4年前も、そうでした」

「4年前?」

 仁は首を傾げた。4年前、といえば新宿の事件が起こった年だ。さらに菜原も、この年にマスカレイダーズによって弟が殺されたと悲しげに話していた。4年前。仁は身震いしながら、口の中でその単語を呟いてみる。しかし、あきらの反応はなかった。厳しい表情で窓の外を凝視している。

「それにもともと、あの装甲服の力は、ボクたち黄金の鳥を信じる者たちのための、力なんです」

「あれが、僕たちの、力、だって?」

「言ってませんでしたっけ。光は、ボクたちのものなんです。黄金の鳥を信じた人たちの上だけに、あの光は降り注ぐはずなんです。あれはみんなの、希望なんです。それなのになんであの人たちが持ってるのか、分かりません。けど、でも……」

 あまりに呆気なく、彼女の口から吐き出された意外な真実。あきらは首をよじり、廊下の突き当たりの辺に目をやると、猜疑心に満ちた眼差しで、人気のない空間をしばらく見つめていた。それはかえでが浮足立ちながら、立ち去って行った廊下でもあった。やがてあきらは仁に視線を戻すと、変わらず義憤のこもった口調で言った。

「そういう意味でも、許せません。あの力を、そんなことに使うなんて。黄金の鳥を、裏切ろうとするなんて」

「そういうことなら、まぁ、許せないよね」仁は殺気立った彼女の雰囲気にのみ込まれるようにして、無意識のうちに答えている。「うん、許せない」棒読みに聞こえていないことを、心底願った。

「黄金の鳥を巡る戦いは、ずっと前から、行われてきました。その度に人が死んで、誰かが悲しんで、誰かが憎しみを抱いて……。もうこんなこと、終わらせましょう。因縁はボクたちが断ちきらなくちゃいけないんです」

 彼女は力強く言った。

「そうだね」

仁も同調する。すでに、マスカレイダーズと戦うことに対する躊躇はほとんどなくなっていた。彼女と会話を交わすうち、その方向転換が衝動に突き動かされた単なる気まぐれではなく、冷静に考えた結果であったことが分かったからかもしれない。

「そうだね。……大丈夫、僕はもう迷ったりしない。僕は僕の意思で、あいつらと戦う。この組織を、黄金の鳥を守り抜こう。みんなの、幸せのために」

「はい。ありがとう、ございます。白石さんを誘って本当に良かったです。本当に……感謝してます」

 窓の外の景色を、1羽の鳥が猛スピードで横切る。カラスではない。もっと小柄で、羽毛は茶色い。しかしスズメにしては体が大きく、知識のない仁にはその鳥の名前を言い当てることはできなかった。

「葉花を助けてくれて、ありがとう」

 風に乗って空を舞い、弧を描いて木に止まる小鳥を見つめながら、仁は言った。顔を向けずとも、あきらが目を丸くしたのが分かった。仁は小鳥がきょろきょろと周囲を窺うようにした後に飛び立っていくのを見送ってから、ふっと息を吐いた。

「大丈夫。君は間違ってなんかない。本当に感謝してる。ありがとう、あきらちゃん」

 ホテルの真上を通り過ぎた飛行機のエンジン音が、空気を震わせ、やがて建物全体を揺るがすようだった。地の底から湧き出るようなその音はすぐに止む。太陽がわずかに傾いたのか、木の幹の表面を滑るようにして窓に陽が射しこんできた。その眩しさに仁は目を細める。夏の太陽に照らされ、途端に汗がじわりと額に浮いた。

「どういたしまして、白石さん」

 仁は景色から、あきらに顔を戻した。彼女の顔は綻んでおり、先ほどまでの怒りの形相はすっかり影を潜めている。釣られて仁も頬を緩めた。さらにあきらも白い歯を見せる。窓の下に生まれた陽だまりの中で、仁とあきらは向き合い、しばし感情を共有し、微笑みを交わし合った。




魔物の話 31

 風のそよぐ並木道を抜けると、青々と芝生の茂る広場に出た。

人口ではなく、自然に生えてきた草を均して作られた場所だ。白いワンピースに身を包んでいたレイは、丈の長い草に足首をくすぐられ、一度大きく膝を持ち上げた。しかし一歩進むたびに、その草たちは夜の繁華街でたむろする、酔っ払いじみた執拗さを込めて足に絡んでくるので、抵抗を諦める。こんな場所にスカートで来てしまったことを悔んだ。

 それにしても、風が強い。レイは風によってなびき、目にかかった前髪を片手で払いのける。気を抜けば後ろにふらついてしまいそうだった。胸に抱えたペットボトルを取り落としそうになり、ひやりとする。中身はスポーツドリンクだった。2本なら両手で掴んで持っていけるが、3本となると腕全体を使って運ばなければならない。体の小さなレイには、なかなか力の入れ方の難しい作業だった。草のふるいから逃れた埃が舞いあがり、周囲に散らばっていく。

 広場には夏休みだからなのか、家族連れやカップル、友人同士で遊ぶ子供たちの姿が点々と見受けられた。風は強いが、天気はいい。夕方から崩れると天気予報で見たが、頭上には憎らしいくらいの青空が広がっていた。

 しかし少し視線を遠くに持っていくと、空の切れ目が少し灰色に染まっていることに気付かされる。それは暗澹たる自分たちの未来を予兆しているようで、縁起でもない、とレイは顔をしかめた。

 広場を横切り、隅の方に向かうと、周囲の視線を一斉に浴びている場所が見えてきた。ある人は楽しげに、ある人は面白そうに、ある人は驚愕の顔つきで、それを見物している。その空間だけ、同じスポーツチームを応援する者同士が寄せ集まった観客席じみた妙な一体感が生まれていて、傍からみるとなんだか可笑しかった。

 ビシッ、と筋肉を叩く鋭い音が鳴り響く。汗がその肉体から飛び散り、空気に湿り気を残して消えていくのがここからでも見えた。

 広場の隅で、芝を掻き分けながら、2人の男が拳を交えていた。彼らが足を突きだし、拳を振るうたびにひゅんと風が唸り、続けて鈍い低音が辺りに爆ぜた。スパーリングだ。双方とも黒いタンクトップに膝丈の短いスポーツパンツ姿である。

どちらも堅そうな、筋骨隆々とした肉体を持っており、それらがぶつかり合い、筋肉を震わし合う様は圧巻だった。長閑な夏休みの平原の中だけ、そこだけまるで塩をまぶしたかのような、緊張した空気が流れている。ただその緊迫感は、ボクシングの試合の最終ラウンドを固唾を飲んで見守るのと似ていて不快なものはなく、爽やかな健全さに溢れていた。

「お父さん」

 レイは歩を進めながら、そのうちの1人に呼びかけた。黒城は左側から飛んできた相手の拳を、右手で受け止めると首をよじり、こちらに顔を向けてきた。襟を隠すまでに伸びた長髪は汗で乱れ、すっかり息があがっているようだった。黒城の相手をしていた男、狩沢も攻撃の手を休め、相変わらずの無表情でこちらを見やる。

「レイ。よくここが分かったな」

 黒城は芝生に投げ出されていた黒いリュックからタオルを2枚引っ張り出すと、そのうちの1枚で顔を拭った。もう一方は狩沢に投げ渡す。レイは父親に駆け寄り、飲み物を差し出した。

「前にもここでトレーニングしてたの、知ってたから。もしかしてと思って来てみたんだけど……はい、これ」

「さすが私の娘だな。気も鼻も利く。ありがたく頂戴しておこう」

 黒城はスポーツドリンクを受け取ると、自慢げに鼻を鳴らした。彼の体から発散される汗と埃の混じった臭いにレイは一瞬、くらっとした。その鼻を突く独特の臭いになぜだか惹きこまれる。常に真夏でも分厚い背広を着込んでいるので分からなかったが、狩沢ほどではないにしても、父親の体も十分引き締まっていた。胸板が厚く、腕は海辺の岩のようにごつごつしている。汗で濡れたその体を日光が照り返し、輝いている。その様は息を呑むほどに美しく、精錬された工芸品を思わせた。腕には黒い鳥の痣があり、それもまた彼の精悍さを引き立てる要素としてうまくマッチしている。

 久々に蘇ってきた、父に対する恋心。それを自覚をするとなぜだか無性に恥ずかしくなり、レイはそんな気持ちを振り切るように体の向きを変えた。丸太のような二の腕に浮いた汗を拭きとる狩沢に近寄り、そそくさとスポーツドリンクを手渡す。彼は手を伸ばし、それを受け取ると唇を横一線に固めたまま、「面目ない」と地に響くような低い声で言った。

 そこで狩沢の右腕、肩から肘にかけて包帯が厳重に巻かれているのを発見し、レイは目を瞠った。

「どうしたんですか、それ」

 包帯の巻かれたその範囲の広さに、レイは尋ねずにいられない。かすり傷を負った、とか、どこかにぶつけたとか、そういうレベルでは間違いなくなかった。彼からは汗の臭いと混じって、薬品の臭いが香る。おそらく包帯の下に貼られた湿布からのものだろう。

「問題はない」

 狩沢は短く答え、それ以上の追及を避けるかのように踵を返した。そこで初めて、レイは彼が左手を使って顔を拭いていることに気付く。彼の利き手は右のはずだった。

「火傷だ。私も負っている。奴らめ、教会に火を放ってきた」

 黒城は言うと、レイに大きな掌をかざした。そこにはテープでしっかりと固定されたガーゼがあった。父親が負傷した姿をこれまで、あまり見たことがなかったので、戸惑う。その不安を掻き消そうと、慌てて質問を返す。

「奴らって……なんだっけ、カニかまの人の、怪人?」

 頭にテンガロンハットを被った、細い目の色白な男。カニかまのイメージが強すぎて、彼の名前は失念してしまった。黒城と狩沢は誘拐された二条を追って、町外れの教会に出向いたのだという経緯を今更のように思い出す。

「あとあいつもいたぞ。お前が襲われていた、蟹の奴だ。あいつはファルスを使ってきた。趣味の悪い色になっていたがな」

「ロリコン怪人も、仲間だったんだ」

「あと、この前乱入してきた、羽の生えた化け物、あいつもいた」

 羽の化け物、と記憶をたどっていくうちレイはあの自分を蹴り飛ばした、悪魔めいた姿の怪物を思い出し、身震いする。

数週間前、公園で出会った黒コートの男に似た、暴力的で、それでいて荘厳な雰囲気を纏った怪物。あの怪物を、他と一緒くたに"怪人"と呼ぶよりしかたがないが、他の怪人と同等に扱うのも憚れるようなオーラをもっていた。そして同じ印象を、あきらの変化したあの怪物にも感じた。

 彼ら、彼女らは本当に自分たち、マスカレイダーズの戦ってきた怪人らと同類なのか、いまだに疑問を持っている。レイの怪人センサーに引っ掛かることなく、あきらやコートの男、悪魔じみた怪物が揃いも揃って怪人を相手取り、戦っていたことがその思いをさらに強めさせていた。

 やはりゴンザレスは何かを隠している。おそらくその答えが、次の任務に隠されている、レイにはそんな気がしてならなかった。

 そんな煩悶を余所に、黒城は顎ひげを撫でつけながら思い出したように言った。

「そうだな……あとは、そう、ミスターイカロスもいた」

「誰それ」

「町で出会った、悲しげな男だ。羽の奴とは仲間のようだった。まさかあいつも怪人だったとは、思いもしなかったがな。名前は私が名付けた。どうだ、素晴らしい名前だろう」

「わけのわからない人に、いきなりわけのわからないあだ名をつけられて、その人も不幸だったね」

「私に出会え、話しかけられた。それだけで一生の運を使い果たすほどの果報だと思うのだが」

「他人の人生を破壊して回らないでよ、お父さん」

 挨拶もなしに立ち去った狩沢を見送ると、レイは木陰にあるベンチに黒城と並んで腰を下ろした。スポーツドリンクをひと口、口に含む。頭上でばさばさと葉の揺れる音がやかましい。木の幹さえも軋んだ音をあげて、わずかに震えている。まさか自分たちの方に倒れてこないだろうな、そして毛虫が落ちてこないだろうな、とレイは青々と茂る木を見上げながら、不安を抱いた。

「奴らのアジトが、見つかったようだな」

 ペットボトルの中身を全て飲み干し、黒城はその底を覗き込むようにしながら言った。レイは無言で頷く。

「ようやく、だな。お前を苦しめ、傷つけた奴らに、また会える。腕が鳴る」

「私も頑張らなくちゃ。せっかくお父さんが生んでくれたんだもん。この力で、できることをしたい。力はないけど、私にしかできないことが、きっとあるはずだから」

 レイは自分の足元を見おろした。木の影に覆い被され、レイ自身の影は首から下が埋もれている。それでもその形が、きちんと人の形を保っていることに、なぜだか安心した。同時に、焦燥も胸に生まれた。

「華永あきらとは、どういう人物だったのだろう」

 黒城はレイの方を見ることもなく、前方に顔を向けたまま、言った。その視線の先を窺うと、ラケットを片手にはしゃぎまわる、バトミントンで遊ぶ若いカップルの姿があった。

 遅れて、レイは黒城に視線をやった。黒城は黒目だけを動かすようにして、レイを見た。

「お前は、会ったのだろう? あの後。藍沢が話していたぞ、癪に障るくらい、自慢げにな」

「藍沢さんは変態だから、許してあげてよ。お父さんの仲間じゃない」

「同属嫌悪という言葉もある」

「類は友を呼ぶっていう言葉もあるよ」

 レイは喫茶店で出会った青髪の少女、華永あきらについて思い起こす。ボクたちって何か似てますね、という彼女のセリフがまず最初に蘇ってきた。レイ自身も同じ感想を抱いた。あきらからは、自分と同じ匂いを感じた。しかし、同時にレイが持ち得ないものを彼女は当たり前のように持っているような感触もあった。

「大らかで、優しくて、明るくて、でもなんか底知れない人。私は、そう感じた」

 レイも前に視線を向けたまま、話す。女性が大きくラケットを振りかぶり、その勢いのまま、後ろに転げてしまう。男性が笑いながら、尻もちをついた彼女に駆け寄っていく。

「深くて、黒くて、だけど綺麗で。そんな影があるような、感じ。どこが、とは言えないんだけど、なんだか私に似てた。だけど、私にないものを持ってた」

「会いたそうだな、彼女に」

 レイは目を見開いて、黒城の顔を仰いだ。黒城は平然とした顔で、鼻を鳴らす。

「お前の考えていることを知るのは容易い。私はお前の父だからな。お前は、また華永あきらに会いたいと思っている。そこで何かを得たいと考えている。違うか?」

 口角を緩ませ、レイは大きなため息をついた。父に出し抜かれている気がして悔しいが、図星だった。両手を上げ、降参の意を示したくなる。心の中で白旗を上げ、レイは「うん、そう」とだけ短く返した。

「お前がそこまで言う人間だ。私も、会ってみたい。華永という姓にも、興味がある」

 そういえば、とレイは思い出す。あの病院横のボロアパートでの戦闘中、「華永あきらを知っているか」と拓也が悪魔じみた怪物に尋ねた際、黒城は驚愕を口にしていた。何か、彼女についての情報を知っているような様子だった。その件について訊くと、黒城はあぁ、とぼやいた後で、自らの記憶を探るように目を細めた。

「私が認めた数少ない友人に、華永という姓の男がいた。何年か前に事故で死んだがな。そんなにありふれた名字でもないから、つい反応してしまっただけだ。他意はない」

「華永さんが、その人の娘とか、親戚とかかもしれない、ってこと?」

「かもしれない。しかし違うかもしれない。奴に娘がいたことは知っているし、会ったこともあるが、随分昔だ。今、会っても、判断はつかないかもしれない」

 黒城にしては頼りない、謙虚な発言にレイはたじろいだ。随分と弱気だ。いつもの父だったら、「華永あきらは間違いなく、友人の息子だ!」と根拠もなく豪語するに違いなかった。しかし、今の黒城には遠慮があった。もしかしたら、すでに亡き友人に対して黒城なりの配慮を示しているのかもしれない。

 黒城は立ち上がった。周囲を見渡し、ゴミ箱が見当たらないことに気付くと、わずかに眉を寄せて空のペットボトルをリュックの中に突っ込んだ。

「まぁ、そいつが怪人であったならばおそらく別人だろうがな。気にするな。お前は、お前のやりたいことを、できることをやればいい」

 ベンチの背もたれに引っかけた薄手のジャケットを手に取り、袖を通す。一連の動作をこなす父親の背中をレイは見つめる。空から降り注ぐ、身を焼くような太陽の光に照らされながら、黒城はこちらを振り向きもしないで言った。

「何度も言うが、私はお前のことを心配してはいない。ただ、お前が危険に晒された時は、命を捨ててでもお前を守る覚悟が、私にはある。心に留めて置くがいい。……いくぞ、ゴンザレスのところに。戦いの、時間だ」

 レイの中に温かいものが広がっていく。自然と表情には、笑みが広がっていた。胸の中心に生まれた幸せの水が血液を流れ、全身を巡り、その体を優しく包み込んでいくようだった。

 しかし面と向かって感謝を告げるのも照れくさく、レイは熱に浮かされたような頭を必死に動かし、言葉を紡いだ。

「うん。期待、してるよ」

 父親の大きな背中。見ているだけで、何だかとてつもない自信が沸いてくる。親の存在の大きさをこんな場面で改めて感じた。視界の端に、幼稚園にあがって間もないくらいの男の子と、サッカーをして遊ぶ男性の姿を捉える。あの子もまた、父親らしき男に守られながら、影響を受けながら、時には反発しながら何が起きるか分からないこの人生を歩んでいくのだろう。

 みんなそうだ。考えると、妙に心が落ち着いた。黒城はレイの少し前で立ち止まり、気遣うようにこちらを振り返る。「レイ、何をしている。先に行ってしまうぞ」と鼻を鳴らす。

「待ってよ、お父さんの足が速いんだよ」

 レイは足に絡まる草を跳ねのけ、黒城に向かって走った。父親との間にある揺るがない絆。信じられるものがあるから、いくら迷っても自分を見失わずにいられる。こんな簡単なことに、レイは今頃になって気付いた。

 その偉大なる加護を受けながら、父の背中を追いながら、レイは地に足のついた思いで決意を固めるのだった。




鎧の話 30

 窓ガラスが破裂し、破壊音が部屋中に響き渡ったのはその直後のことだった。

 突然鳴り渡った大音量に男は全身を引きつらせると、リビングの大きな窓のほうに視線を向けた。グリフィンも同様にそちらに目をやる。怪人も音に反応して振り返り、その手に掴まれていた直也は無残にも床に投げ捨てられた。その瞬間からもう興味がなくなったとばかりに、怪人は完全に窓へと体を向ける。

肩を床にぶつけ、呻き声をあげる。それからまず直也は自分の喉元に手を這わせた。掌を見やると、そこにべっとりと赤い液体が着いてくる。動揺したがどうやら血はどくどくと噴きだしてくる、というわけでもなく傷は浅いようだった。動脈からも危うく逸れたようだ。直也は両腕に力を込め、上半身を起こしながら事態を何とか把握しようとする。

 割れた窓ガラス。フローリングにその破片が散乱している。ガラスを失ったことで、容赦なく室内になだれ込んでくるようになった強風がカーテンを激しく翻している。

 混乱に塗れた室内に立つ、白銀の鎧。並べられていたビール缶を蹴飛ばして、テーブルの上に立つのは見紛うことなく装甲服の戦士だった。家の中をのべなくかき回していく暴風の中で、威風堂々と直立不動の姿勢をとっている。

 目を引くのは、右肩から突き出した竜の首だ。左肩からは尻尾が生えている。首周りにはファーが敷かれ、その装甲服の全身に漂う重厚な雰囲気をさらに強めていた。

 直也は目を見開いた。その装甲服には見覚えがあった。森の中で直也を襲撃し、さんざん甚振ったあげく目的や正体すら告げずに立ち去って行った装甲服。腹部にはめられたプレートに刻まれた数字は、『5』――。

「あれは……フェンリル」

 直也はその戦士の名前を、気付けば口にしていた。7年前、反逆者が纏ったオウガを倒したことから"救世主の鎧"と称されていた装甲服だ。そして3年前、同じようにオウガを使用していた咲を殺害した容疑者でもある。なぜこいつがここにいるのか、いまだに状況が頭の中で整理できない。

 混乱しながらあたりを見回した直也は、ある重大なことに気付いた。一同の意識が、すべて自分から外れている。それは、これ以上とない絶好のチャンスだった。

 直也は余力を絞り出して立ち上がると、緑色の怪人を突き飛ばし、マムシのような男に飛びかかった。

男はゆっくりと首をよじり、ブリキロボットのようなぎこちなさでこちらに顔を向けてくる。彼の体が完全にこちらを向き、接近する自分の姿を認められる前に――直也は男に全身でタックルを浴びせた。

 そして、バランスを失った彼の手から素早くオウガのプレートをもぎ取った。勢いあまって床に転げる直也の背中に、グリフィンの放った風の塊が爆ぜる。直也は背骨が砕けるような強烈な圧力を受け、フェンリルの立つリビングに置かれたキャビネットに頭から突っ込んだ。全身に電撃を浴びたような衝撃が走り、指先までぴんと張り詰めるようで、直也はまったく身動きがとれなくなる。

「父になにをする……この無礼者!」

 怒りを顕わにしたグリフィンが掲げた掌に、三日月状の風の刃を生成する。唾を吐き散らしながら、それを直也目がけて投げつける。横向きに倒れた姿勢のまま動けない直也に半透明色の刃が迫る。しかし脇から飛び出してきた銀色の装甲片が、その攻撃を弾き飛ばした。

 直也はハッとなって、ぎこちなく首をよじり、自分が寄りかかっているキャビネットを見た。するとそのガラス戸に波紋が広がり、中から次々とオウガのパーツが飛びだしていた。吹き飛ばされた拍子に手から零れ落ちたプレートが、尻のあたりに落ちている。この状況から察するに、どうやら偶然プレートがガラス戸にぶつかり、装甲服を呼びだすスイッチが入ってしまったらしかった。

 次々と装甲がガラス戸から現れ、直也を外からの攻撃から庇うように空中を旋回している。その光景は直也には、オウガの中にこめられた咲の魂が自分に生きろと言ってくれているように感じられた。咲の声や体温が直也の体を包み込む。そうすると寂れ、血まみれになった直也の胸に、淡い光が広がっていくようだった。

「怪人……」

 怒りを孕んだ声がどこからか聞こえた。どこからだ、と視線をさまよわせ、それがフェンリルから発せられたものであることに気付いて驚く。フェンリルは小さく跳び、テーブルの上からフローリングに下りると、背中に携えた剣を左手で引き抜いた。それは数日前、直也に襲いかかって来た時にはなかった装備だった。刃の先端が黄色く塗られているのが特徴的だ。柄は狼の顔を模したようなデザインとなっている。装飾があっても握りやすく、使い勝手がよくなるよう計算されているようだ。

 フェンリルは剣を振り上げると、床を蹴り、力強くグリフィンに切りかかった。男を傷つけた直也に攻撃の焦点を絞っていたグリフィンは、予想外の方向からの攻撃に対処できず、強烈な一太刀を浴びた。悲鳴をあげ、後ろによろけたところをフェンリルはさらに追いすがるようにして、袈裟がけに切りつける。

「俺が、お前たちを殺す!」

 続けざまに繰り出された突きを腹に打ち込まれ、グリフィンは後ずさった。顔をあげ、すぐさま掌から風の塊を放って応戦する。しかしフェンリルは歩む速度を緩めぬまま、静かに左腕を突き出した。

 その手首から鉄色の刃が展開される。折り畳みナイフのように内側から展開した。さらに表出した刃は高速回転を始める。回転は刃を取り巻く空気に伝播し、螺旋状の波紋を描く。グリフィンの攻撃はその波紋に触れた途端、散り散りになって消え失せていく。さらに二度、三度と繰り返し発射される空気弾も、螺旋に巻き込まれて同じように撃ち落とされた。そのいずれも、フェンリルの元に到達することすら叶わない。

 攻撃が途絶えると、フェンリルは足を踏みこみ、一気に敵の懐に潜り込んだ。そしてグリフィンの胸のあたりを剣で一閃する。グリフィンは体勢を大きく崩されながらも、空気の刃を掌中に生成した。先ほど直也に投げ放ったものと同じ、三日月状のものだ。

 しかしその刃が手から離れるよりも早く、フェンリルは鋭い回し蹴りをグリフィンのわき腹に叩きこんだ。蹴りを放った足からも、左手首と同様に高速回転する刃が出現していたため、フェンリルに一撃を見舞われたグリフィンの腹部は大きく抉られていた。

 これが人間であったならば、内臓の大半をすり潰され、足元に血の海を作って即死していることだろう。怪人に血液はないので失血死はあり得ないものの、その足元には砕け散った肉片が散乱しており、腹に巨大な風穴をあけてふらつく怪人の様子から察するに、そのダメージは甚大のようだった。

 しかしフェンリルには一切の容赦がない。両足が地に着いたと思いきや、逆の足を軸にしてさらに回転。先ほどと同じ足で、再度回し蹴りを放った。今度は肩から胸にかけての肉を削ぎ取り、壁まで吹き飛ばした。

 フェンリルの眼差しが禍々しい光を帯びた。ような気がした。実際にその顔は仮面で覆われており、中の人間がどんな形相を浮かべてこの怪人を甚振っているのか、直也からはまったく把握することができない。

 フェンリルは雄たけびを上げると、剣を片手にしたまま、床を踏みきって大きく跳び上がった。そのまま前に飛びだし、空中で腰を捩じる。ぴんと伸びきった右足を鎌に見立て、グリフィンの頭部目がけて大きく振り抜いた。

 跳び回し蹴りを叩きこまれ、頭を削がれたグリフィンは力をなくしてその場に崩れ落ちた。頭、胸、腹と全身をくまなく粉々にされ、見るも無残な姿を晒している。ここまで肉体を破壊されたら、たとえ怪人でも生きてはいまい。直也は全身を引きずるようにして身を起こしながら、グリフィンに刻まれた、ねじ切られたような傷口を見て、ゾッとする。それはオウガの背中に深々と残された傷、そして折れた刀の断面とまったく同一のものだった。

 着地しこちらに背を向けて佇むフェンリルを見上げながら、やはりこの装甲服が、立浪良哉を、そして咲を葬ったのだと直也は実感を改めてもつ。この中に入っている人物は一体何者なのか、と痺れた頭で推測する。

 先ほどから発している声調から、男であるいうことは確実だ。それにかなり若い。おそらく直也よりも年は下だ。声色もそうだが、あのキレの良さとぎこちなさを同席させたような動きは10代の少年を彷彿とさせた。

 しばらく、とはいっても数秒の間、自ら手をかけた、動かないグリフィンをじっと見つめていたフェンリルであったが、やがてゆっくりと周囲を観察するように首を巡らせ始めた。その視線がある一点で止まる。彼が見つけたのは、溢れださんばかりの喜悦をみせる一重瞼の男の姿だった。

「フェンリルとは。これは珍しい。今日は随分と、意外な客が来るようだ」

「お前は……」

 フェンリル装着者の声に、動揺が混じる。その目の先には男の胸に掲げられた、巨大な鳥の痣があった。つい数刻前の直也と同じように、彼は存分にたじろぎ、食い入るようにそれを見つめている。この2人は以前出会ったことがあるのだな、と直也は直感で思った。それも両者の間にはただならぬ、いわば熾烈な関係にあることが、それだけのやり取りでも伝わってきた。

 男は尖った顎を撫でつけながら、目を細めた。

「あれから3年か……どうやら、中身も昔と同じく、君らしいな。動きで分かった。元気そうで何よりだ。私も元気だがね」

 男の言葉に反応し、フェンリルは身を引いた。その隙を鋭く縫うようにして、男の背後から緑色の怪人が飛び出す。不意を突かれたフェンリルは、怪人の拳を浴びて大きくよろめいた。

「お前……生きてたのか」

 怪人の鋭利な爪を剣で受け止めながら、フェンリルが叫ぶ。しかし緑色の怪人の顔面から飛び出した扇風機に体を押しやられ、ソファーに突き飛ばされた。落ちてきた装甲服の重量に耐えきれず、ソファーはフェンリルの体の下で押し潰された。

「私にはまだやることがある。死なんさ、あれ如きではな」

「何を!」

 フェンリルは立ち上がると同時に、横に転げた。1秒前まで彼がいた場所に、怪人の爪が突き刺さる。フェンリルは左手首の刃を回転させると、拳を振るい、怪人の頭部から飛び出した扇風機を一撃で破壊した。

「フェンリル。君が私と再会するのは、少々早すぎた。この場はまだ、多くの言葉を交わす時ではないだろう」

 男は腕を後ろで組んだ姿勢で、ゆっくりと後退した。襖の付近で気を失ったままのライを一瞥した後、直也に視線を向ける。男はこけた頬を緩めた。

「命拾いしたな、坂井直也。だがいずれ、君にもまた脅威が訪れる。覚悟しておくといい」

「逃げる気か」

 直也は動くことを拒否する自らの体を、無理やり押し退けるようにして立ち上がった。それに応じて、周囲を漂う装甲服のパーツたちも直也の肩のあたりまで上昇し、再度旋回運動を始める。直也は手の中のプレートを握りしめた。

「させねぇよ」

 『3』の数字が振られたそのプレートを腹に押しつける。すると周囲を漂っていたパーツたちが我先にと直也の身に飛びかかり、互いに次々と組み合わさっていった。頭部のパーツが完成し、オウガを全身に纏った直也は重たい体を引きずって男に飛びかかった。

「逃がすわけねぇだろ、殺人犯!」

「それは困る。私はこの場から退散したいのだ。君の方こそ、邪魔はしないでくれたまえ」

 男は意外に軽やかなステップを踏んでオウガの突進を回避すると、鼻に皺を寄せた。それから口をあまり動かさずに小声で言った。

「……グリフィン」

 フェンリルに惨殺され、フローリングに転がった怪人の名を男は呼ぶ。すると確かに息絶えていたグリフィンの肉体から突如、強風が巻き起こった。死の臭いのする風だった。風は恐ろしいスピードでさらにその力を増し、そのうちグリフィンは小さな竜巻と化した。

 竜巻は一度、フィギュアスケートの選手さながらに床を跳ぶと、一息でオウガの元に到達した。オウガは竜巻から生じる圧倒的な遠心力にかなぐり倒され、壁に叩きつけられた。素早く顔を上げ、体勢を立て直すが、その時にはもう竜巻も、そして男の姿も消えていた。

 逃げられた。

直也はグリフィンの死骸が跡形もなくなっているのを確認してから、ほぞを噛んだ。ようやくあの事件の犯人に、そして3年前の出来事の真相に近づけると思ったのに。やはり真実はあとちょっとのところで、直也の手のすき間から零れ落ちていってしまう。

 直也は自分の無力と不甲斐なさに愕然とした思いを抱きながら、先ほどからけたたましく戦闘音が鳴り響いている方向に目をやった。

 フェンリルの繰り出したミドルキックが、怪人の胸部にうずめられる。たまらず後退する怪人目がけて、フェンリルは何度も何度も執拗に剣を振るった。その刃が怪人の身を駆け抜ける度、そこに黒い傷跡が刻まれていく。

「俺の前から、消え失せろ!」

 フェンリルは激昂し、剣を左手に持ち替えた。そのまま手首の刃を回転させる。鉄を削るような甲高い音が周囲に響き、刃の回転によって生じた螺旋状のエネルギーは手首を伝い、手の甲を介し、剣へと伝わっていく。遠目で見ているオウガにもそれがはっきりと分かるほど、その変化は顕著だった。フェンリルの左腕を取り巻く空間は皺が寄せ集り、大きく捩じれている。そんな現実的な観測を超越した、禍々しくもある光景に直也は戦慄すら覚えた。

 フェンリルは怪人の腹に、躊躇なく剣先を突き立てた。空間に浮かんでいた螺旋状の波紋が今度は剣から怪人へと一気に流れ込み、怪人の身を内側からずたずたに切り刻む。振動がその体を揺るがし、聞くに耐えがたい濁った音が室内を蹂躙していく。血を吐くような叫びをあげる怪人に、直也は女性の苦痛の呻きを重ね、たまらない気分になる。気付けば意識するよりも先に、体が飛び出していた。

「おいお前、止めろ……ッ!」

 しかし直也の声が、手が届くよりも先に、怪人は渦模様を描く波紋に呑み込まれるようにして、粉々に粉砕された。大量の肉片が部屋の中に飛び散り、オウガの視界を赤黒く染め上げる。もはや原形を留めてはいなかった。肉塊も残さず、怪人は数センチ単位の破片となって部屋を存分に汚していた。

 フェンリルは自分の体にこびりついた、怪人の肉片を軽く手で払い落している。剣の刀身にたっぷりと食い込んだそれを指でなぞり、床に零す。肩で息をしていた。やがてゆっくりと顔をあげ、首をよじる。そして赤く染まったその目が、呆然と立ち尽くすオウガを捉えた。

 その手が動き、先ほど怪人を完膚なきまでに打ちのめした剣を持ち上げる。その切っ先を、オウガの首元目がけて突き立てた。次はお前だとでも言いたげに小首を傾げ、こちらを睨んでくる。仮面に伝う、怪人の体液も相まってどこかその姿は猟奇的なイメージを振りまいていた。

「フェンリル……」

 コツコツ、と金属が何かにぶつかるような音が聞こえる。それ程遠くからのものではない。すぐ足元だ。導かれるようにして音源をたどると、自分の右腰に行き着いた。そこにぶら下げてある折れた刀が独りでに揺れ動き、腿を包む装甲に当たっているのだった。室内には先ほどから絶えず強風が流れ込んでくるものの、風向きから考えても、その影響とは思えない。

 刀が何かに引っ張られるようにして、まるで生を受けたかのように身じろぐという現象は不気味ではあったが、あまり構っていられる状況でもない。直也は刀を鷲づかみにすると、手の中でくるりと回転させ、しっかりとその柄を掴んだ。

固く柄を握ってもやはり刀は僅かに震えていて、少しでも力を抜けば取り落としてしまいそうだった。これまでにこんなことはなく、直也は奇怪な出来事に大いに戸惑う。しかし結局は原因を究明する暇も、対策を練る暇もなく、掌から滑り落ちそうになる刀を無理やり腕力で抑えつけるほかない。

「オウガ……」

 フェンリルの内側で、少年が口を開いた。やはりその声には10代の若者らしい柔らかな感触が含まれていたものの、言葉には冷たい棘のようなものが見え隠れしている。それでいて身を焼くような熱が彼の内側には滾っている。その漆黒の熱意に引き込まれるようにして、オウガは無自覚に両手で刀を握りしめる。

 暫し、オウガとフェンリルは向かい合い、見つめ合う。2人の間に風が通り抜け、揺らいだ装甲が軽く音をたてた。

 一瞬触発とは、このような状況のことを指すのだろう。ぴんと張り詰めた空気に緊張が滲む。装甲を突き抜けて、ぴりぴりとした痛みが全身を撫でる。立浪良哉や咲もこれと同じ気分を味わっていたのだろうかと思うと、少しだけ感慨深い気持ちになる。

 オウガとフェンリルは7年前より出会う度、幾度となく刃を交し合い、しのぎを削ってきた。そしてまたここでも、歴史は繰り返されようとしている。

 深く足を踏み込んだフェンリルが刃を回転させた右腕を振り上げ、飛び掛ってきた。オウガは身を屈ませてその一撃を回避すると、折れた刀を横薙ぎに振るった。フェンリルは剣の腹で刀を難なく受け止める。装甲服という人知を超えた力から生み出される衝撃同士の激突に、激しい火花が両者の間に散った。

「オウガ! 俺は……もう1度、もう1度、お前を倒す!」

 フェンリルは強い語調で吐き捨てながら、先端に刃を起こしたミドルキックを打ちはなった。自分の脇腹目掛けて飛んでくるその攻撃を、オウガは身を引くことで回避しようとするが、間に合わなかった。直撃コースこそ外れたものの、腹部の装甲は無残にも削り取られ、捩れた破片が足元にばら撒かれた。

「もう1度……?」

 獰猛な肉食獣のように容赦なく剣を叩きつけてくるフェンリルのラッシュを、オウガは何とか刀で受け止めながら首を傾げた。

「おいお前、それどういう意味だよ……!」

 真っ向から防いだ剣を力任せに薙ぎ払われ、オウガは大きくバランスを崩す。そこにフェンリルの右拳が迫る。大きく振りかぶられたその一振りはオウガの左肩の装甲を粉砕した。

「お前は3年前のフェンリルなのか? お前が……お前がオウガを倒したのか?」

 オウガは負けじと刀を突き出すが、そこに横に構えられた剣が待っていた。そのまま足を踏み込んで鍔迫り合いの形に持ち込むと、直也は手が届くほど間近にあるフェンリルの仮面に向けてさらに問いかけた。

「……お前が咲さんを、殺したのか? 黙ってないで、なんとか言えよ!」

 焦燥にかられて叫んだ直也の腹にフェンリルの鋭い膝蹴りが入った。身を2つに折るオウガの顔面を手の甲で張り、続けざまに胸に蹴りを打ち込まれる。装甲のひしゃげる鈍い音とともに、オウガは後ずさった。

「お前は……一体誰なんだよ?」

 フェンリルの振り下ろされた剣先を刀で防ぎ、お返しとばかりに左ストレートを打ち出した。拳は見事にフェンリルの胸を捉え、その体を後ろに押しやる。さらに渾身の後ろ回し蹴りを首に突き立て、壁に打ち付けた。

「何者なんだ、お前は! なんで俺に襲い掛かってくるんだ。目的はなんなんだよ」!

 直也は自分の呼吸が激しく乱れていることに気付く。ここ数日の度重なる戦いにより、肉体には思った以上に疲労が蓄積しているようだ。また今は精神的にも安定していない。直也の心は止まりかけの独楽のように、いつ倒れてもおかしくない状況にあった。

 フェンリルは剣を持った手を下ろした。その息もまた、直也と同様に切るに切れている。激しい呼吸音を発しながら、彼は逆の手でオウガの腹部を指差した。

 直也は首を曲げ、自身の腹のあたりをみた。そこには『3』の数字輝く、銀色のプレートがはめこまれていた。

「……プレート?」

 尋ねながら、プレートの表面を掌で撫でるようにする。鉄の固い感触が手に伝わる。

「オウガのプレート、なのか? お前の目的は」

 フェンリルは答えず、ただ自身の手の中にある剣へと静かに視線を移した。その剣先がほんの僅かに揺れているのをみて、直也は目を見開く。それはまるで、敵の剣がオウガのほうに飛び出したがっているように直也には見えた。その様は鎖の短い首輪をはめられ、塀の向こうの世界に憧れ、もがく飼い犬をどこか髣髴とさせた。

 オウガの刀も相変わらず身じろいでいた。こちらもフェンリルの元に引きつけられているかのような動きをみせている。なにか奇妙な巡り会わせを感じながら、直也はフェンリルの持つ剣に視線を這わせる。その黄色く彩色された刃の先端まで行き着くと、そこで目を細めた。

 だん、という床を叩く音が室内を駆け抜ける。その音に乗っかるようにしてフェンリルが躍りかかってきた。振り抜かれた剣をオウガは後退して回避する。タンスの上に並べられていた熊のぬいぐるみの首が2、3、一斉に飛んだ。

「悪いが、こいつは渡せない」

 直也は片手に刀をしっかりと握りながら、もう片方の手で腹部のプレートを上から抑えつける。戦闘中に不意を突かれ、ナインにプレートをもぎとられたという前例もある。そうやって警戒心を滾らせながらも、敵の攻撃を刀身で受け流すことを忘れない。

「俺の大切な人が残したものなんだ。俺に託してくれたものなんだ! だから……誰の手にも渡すわけにはいかない!」

 逆手に持った刀を切り上げる。しかしフェンリルは右手首の刃でそれを防いだ。がら空きになったオウガの胸に強烈な蹴りを叩きこむ。これまでの戦いで傷つき、すっかり耐久力を失ってしまっていた装甲に浴びせかけられた、その重い一撃に直也は一瞬、意識が飛んだ。気付いた時には顔面を殴られ、さらに胸に剣先による突きを打ち込まれ、その身体は宙を舞った。

 受け身をとることさえもできず、そのまま床に、背中から落下する。

しかし痛みも衝撃もその身には走らなかった。まるでクッションに受け止められたかのような、弾力ある感触が背中に広がる。鼻を突くのは、獣臭さ。その悪臭に咳き込みながら起き上がり、周囲を見渡す。

 そこは襖の向こうの部屋だった。黒い鳥の羽がぎっしりと敷かれたその部屋に、オウガはへたり込んでいる。手足を動かしても、触れるものは羽以外にない。がさがさという音が鼓膜に響く。

 視覚と聴覚を刺激する、あまりにおぞましい景色に直也は装甲の下で身震いした。脳裏に女性の、血の気のない生首が蘇る。あの光のない、深い沼のような眼差しがフルサイズで迫りくる。

 その陰湿なイメージを払拭させようと直也は頭を大きく振った。額からは汗が流れ、胃のあたりには黒々としたものが塊としてあるのを確かに感じる。

 辺りにひしめく鳥の羽の山を見渡す。そうしていると記憶の中から、咲に刻まれた鳥の痣の映像が引っ張り出されてきた。あの怪人を作り出した男は、痣は怪人を生んだ者の証だと言っていた。咲は死体から怪人を作ったのか。死者の魂を蹂躙し侮辱するような、人間がやったとは到底思えない、そんな残虐な行為を本当に行ったというのか。

 憶測の世界に逃げ込もうとする直也の意識を締めだすかのように、剣を振りかぶったフェンリルが襲いかかってきた。オウガは咄嗟に右手で刀の柄を、左手で刀身を掴み、刀を鉄の棒のように用いて攻撃を防いだ。

 上からの圧力によって押し倒されたオウガは、腰の力だけで上半身をほんの少しだけ持ち上げ、上から覆い被さろうとしてくるフェンリルの剣をやっとの思いで受け止めている。そんな姿勢だった。フェンリルは両手で柄を握り、全身全霊を込めて押し切ろうとしてくる。オウガも負けじとフェンリルの体を押し返すため、力を込める。拮抗し、正面からぶつかり合う力と力に、剣と刀はギリギリと唸り、割れるような悲鳴をあげている。

 そんな鳴動に、突然、耳をつんざくような不協和音が重なった。甲高い、そして不安定な音だった。鋸をたゆませた時の音をもっと歪めれば、おそらくこんな風に聞こえるだろう。空気を震わすというよりは、空気を捻じ曲げるような、何とも不快な音だった。

 その音の発信源は剣と刀が触れあっている箇所だった。叩き合わせてもいないのに、そこからは小さな火花が瞬いているようにも見える。そして直也が最も驚いたのは、刀の割れた断面と、剣の先端がまるで飴のように曲がり、1つになろうとしている姿だった。フェンリルも力を緩め、その光景を固唾を飲んで見守っている。

「まさか……やっぱりそうか」

 もしや、とは思っていた。フェンリルの剣と、オウガの刀。これらはもともと、1つのものではなかったのかと。数週間前、雑木林でオウガを広げた際、拓也は不思議そうに言っていた。7年前の戦いでは、ちゃんとあったはずのオウガの刀が折れていた。3年前に咲が使用した時、何者かによって破壊されたに違いない。そしてその刀の折れた断面はねじ切られたような形をしており、その形跡はフェンリルのもつ武器によるものであると。

 折れた刀の先端部分は、現場に残されていなかった。フェンリルを纏って咲を殺した犯人が持ち去ったのだと直也と拓也の間では結論づけていた。そしてどうやらその予想は、見事に的中したようだ。

 刀の足りなかったパーツは現れた。3年前のフェンリルと一緒に。まるで引かれ合ったように時を超えて、ついに刀同士は再会を果たしたのだった。

 オウガは相手の武器を一瞥した後で、フェンリルの仮面に閉ざされた顔を睨んだ。相変わらず相手の視線は、剣と刀による奇妙な現象に注がれていた。

「その剣先、オウガのだろ」

 直也の発した言葉にフェンリルはびくりと体を震わせて、こちらを見た。

「3年前、咲さんと戦った時に、お前はオウガの刀を叩き折った。そして折れたパーツを持ち去った……違うか? 違ったなら言えよ」

 フェンリルは答えない。太い息を吐き出しながら、オウガの顔を見つめ返してくる。直也はその沈黙を肯定の意として解釈した。

「もう1度、とお前はさっき言った。もう1度オウガを倒すと。そんな奴が、刀のパーツ持って現れたんだ。これで疑わなかったなら、そいつの目は節穴だ。お前は咲さんを殺した」

 オウガは両腕に力を込め、軽く刀を押した。無気力状態であったフェンリルは虚を衝かれたようで、大きくバランスを崩してよろめいた。

「お前は、人殺しだ」

 たっぷりの重みを含んで言い放った言葉に、フェンリルはまたも身震いした。オウガはそのわき腹を力任せに蹴りやり、彼を自分の上から乱暴にどかした。突き飛ばされたフェンリルは先ほどまでの威圧的なイメージを崩し、黒い羽のプールの中へと弱弱しく転げた。

 オウガは立ち上がると、腰を捻り、こちらに視線を仰いでくるフェンリルを見下ろしながら続けた。

「……だけど、教えてくれ。咲さんは、殺されても仕方がないことを、何かしたのか? 正しいのはお前なのか? 咲さんは一体、なにをしたんだ」

 直也の知らない、3年前の咲の姿。その空白を埋めることが、直也には恐ろしかった。しかしこのまま見て見ぬふりを決め込むことが正しいとは、やはり思えない。自分には真実を知る権利と、義務がある。咲が直也にオウガを託した理由。鳥の痣の真相。まだ直也は彼女が抱いて消えた真実になにも近づけてはいない。だからこそ、フェンリルに問いかける。あきらのケースと同じだ。少しでも彼女に対する不審を潰せように。信じるために疑え。拓也のセリフを胸に留める。

「お前は何で咲さんを殺したんだ。答えろ……答えろよ。3年前の8月。一体、何があったんだ。答えろ!」

 心を枯らすようにして、直也は叫ぶ。フェンリルは剣を杖代わりにして慎重に立ち上がった。しかしその足取りは覚束ない。彼の体に引っ掛かっていた羽が、はらはらと落ちていく。漆黒を振りまきながらその中心に立つ銀色の鎧の姿はなんとも幻想的だった。

「黒い鳥の、痣……」

 フェンリルの中から若い声が返ってくる。吐息混じりの、怒りに震えた声だった。

「俺は怪人を許さない。それを生みだそうとする奴も」

「咲さんはやっぱり、怪人を作ったのか。3年前からやっぱり、怪人はいたのか」

 さらに直也は質問を重ねる。だが、フェンリルが顔をあげ、さらに重たそうに剣を掲げるのを見て身構えた。彼はさらに足を踏み出す。オウガとの距離を少しずつ詰めていく。

「だから俺は昔も今も、怪人を倒さなくちゃいけない」

 鳥の羽を足先で掻き分けるようにして迫ってくるフェンリル。オウガは刀をしっかりと握りしめた。やはりその刀身は大きく揺れていて、近づいてくるフェンリルの剣に反応を示している。

「守りたい人が、いる。助けたい人が、いる。そのために、この力で守り続けるために、オウガが必要なんだ!」

 一閃された剣を、オウガは刀ですかさず受け止めた。またしても鍔迫り合いの形となる。不協和音が部屋中に響き渡る。足元の羽が震え、散り散りになって虚空を舞っていく。

 オウガはフェンリルの腹にひざ蹴りを打ち込んだ。さらに刀のつばで胸のあたりを殴り、襖に押しやった。

「わけわかんねぇよ。3年前も、なのか? 咲さんを殺したのも、そんな理由なのか?」

 受け身をとったフェンリルはすぐさま立ち上がると、オウガ目がけて飛びこんだ。そのまま剣で袈裟がけに切りつけてくる。

直也は再度、その攻撃を刀で受けようとする。ところが、フェンリルは剣で切りかかると見せかけ、そちらに注意を引かせたところを、左のボディーブローで迎えてきた。まともに攻撃を食らい、後ずさるオウガの首をむんずと掴む。彼はそのまま上半身を大きく捻り、背後のリビングへとオウガを投げ飛ばした。

 視界がぐるりと回転し、直也はテーブルに背中から落ちた。装甲服の重みでテーブルは足が砕け、雪崩のように押し潰された。

 仰向けに倒れるオウガに、フェンリルの影が重なる。彼は大きく持ち上げた剣を、力任せに振り下ろした。オウガはテーブルの上を転がるようにしてそれを回避すると、起き上がりざまに刀を振るった。しかし、その突飛さを狙った一撃は読まれており、フェンリルの左足から突き出した刃によって防がれた。

 そのまま足を大きく払われ、オウガの手から刀がもぎ取られる。

宙を舞い、弧を描いてキャビネットに墜落していく刀の軌跡を目で追う暇もなく、フェンリルの左拳が飛んだ。それも高速回転する刃を用いての、だ。防ぐ武器はもうない。胸を逸らしてかわそうとするが、完全には無理だった。刃が装甲の上を滑り、その瞬間、強烈な光が迸る。その光になぎ倒されるようにして、オウガは背後に吹き飛ばされた。直也は掠れた悲鳴をあげた。

 綺麗な火花を放射しながら中空を飛んだオウガの体は、またしても床に叩きつけられた。

 直也は胸を強く圧迫されるような感覚を覚え、攻撃を受けた箇所を撫でた。触感だけでも分かるほど、その装甲はひどく変形しており、また高熱が発生しているようだった。薄目を開けてみてみれば、黒い煙が自分の胸からもくもくと立ち昇っており、驚愕する。装甲へのダメージは見るからに甚大だった。そのおかげというべきか、怪人の体を抉るほどに強力な回転刃を浴びたにも関わらず、直也自身はそれほど大きな傷を受けてはいない。ただ全身をくまなく覆うような、気だるい重みがあった。

 立ち上がろうとして床に手をつく。その掌に柔らかい感触が返ってきたので、直也はぎょっとした。振り返り、そちらに視線をやると、そこには相変わらず気を失っているライの寝顔があった。オウガの手は知らず知らずのうち、彼女の小さな手を掴んでいた。

「な……!」

 重い金属音を耳に捉え、首を前に戻す。するとそこには、剣を左手に持ち替えたフェンリルの体躯があった。剣を掴むその手首からは、先ほどオウガを切り裂いたばかりの刃が生え、音もなく回転している。その刃が生みだす螺旋状の波紋が空気を伝い、剣を包み込んでいる。直也の頭に過るのは、その状態の剣を胸に打ちこまれ、内側から木っ端微塵に砕け散った緑色の怪人の姿だ。状況はあの時と、まったく同じだった。ただ、傍観者か、自分が被害者かという違いはとてつもなく大きい。

 オウガは視線だけを動かし、背後に倒れるライを一瞥した。ここでもし避けでもしたら、ライに攻撃が当たってしまう。いや、たとえ避けずに防ごうとしても、あの一撃を浴びればオウガはもちろん、すぐ側にいる彼女も無傷では済まないだろうということは予測できた。怪人に見せたあの攻撃には、そんな確信を抱かせるだけの破壊力があった。

フェンリルの目に、ライはおそらく映っていない。彼の仮面の向こうにある瞳は一心にオウガだけを映しているようだった。彼の視線は揺るがない。その足取りにも、剣を振るわんとする行動にも、一切の迷いが読み取れなかった。

 守らなきゃいけないんだ。少年の悲痛な叫びが、耳に蘇る。その声と重なって、フェンリルの剣はオウガの頭目がけて振り下ろされた。直也の視界に広がる空気に、大きく皺が寄る。その波の中心を貫くようにして、剣先が迫る。止めろ! 声をあげようとするが、とても間に合わない。

 守らなきゃいけない。少年のセリフが直也の中にスッと入り込んでくる。今、自分にもその相手がいることに気付く。俺だって守らなきゃいけない。直也は心の中で、沸き上がる情動を言葉にして、唱えた。

 その時、直也はぴりりとした痺れを指先に感じた。その痺れは指先から手首へ、そこから肩へ、さらに頭や胸にまで広がっていく。さらに右手が急に熱く滾るのを感じた。見れば、その手にはライの手が重なっていた。直也の目には、彼女の体が仄かな黒い光を纏っているように見えた。その影は人間のものから遠ざかり、まるで、翼を広げた鳥のような形に変化している。

 直也はライの手を強く握りしめ、呻くような痺れを全身に感じながら、左拳を無我夢中でフェンリルに打ち放った。その拳は波紋状に広がった空気を正面からぶち破り――フェンリルの剣を持つ左手に突き刺さった。

 オウガの拳の先から、爆発的なエネルギーが生まれる。その一撃はフェンリルの左手を衝撃波で切り裂くと、その手首に装備されていた刃を粉々に吹き飛ばした。たまらず腕を引っ込めたフェンリルの手から、剣が落ちる。彼は左手を抑え、全身を揺すってもだえながら苦痛の叫びを漏らした。

 フェンリルは動揺しながら、オウガにおぞましいものを見るような視線を向けてくる。

直也もまたライから慌てて手を離し、自分の両手をまじまじと観察しながら驚いていた。今の内から噴き出たかのようなパワーは一体なんだったのか、見当が全くつかず、狼狽する。

 オウガは身を起こした。体のあちこちでぱちぱちと、ヒューズが跳ねるような音がする。痛みはないが何だかそれが煩わしく、思わず体を捻ってしまう。しかし音は止まず、さらに装甲の上で火花まで散り始めるので困惑する他ない。

 フェンリルは右腕の刃を回転させ、殴りかかってきた。左手は脱臼をしたかのように、肩から垂れ下がったままだ。しかし腰を十分に捻り、足を踏み込むことで片腕だけでも全力と変わらぬ威力を取得しているようだった。

 オウガは咄嗟に右腕を動かした。するとその次の瞬間には、その拳はフェンリルの腹に深々とうずまっている。その一撃はまたしても、凄絶な破壊力を生んだ。壁際まで一撃で吹き飛ばされるフェンリル。背中をしたたかに打ちつけた、その装甲服の腹部には蜘蛛の巣のようなヒビが走っていた。彼は腹を抱え、片膝を落としてうずくまった。乱れた呼吸が、そのダメージの深さを物語っている。

 直也は自分の右腕を恐る恐る見やる。絶えず電撃が走っている装甲を観察していると、なんだか不安になった。自分の力が自分で分からず、捉えどころのない恐怖を覚える。

「力が上がってる……でも、なんで急に」

 鼻白むオウガの前で、フェンリルは顔をあげた。キッとこちらを睨むと、全身を引きずるようにしながらこちらに駆けてくる。片足で跳躍し、もう片方の足を鎌のように曲げ、オウガ目がけて打ち放った。グリフィンを葬った、跳び回し蹴りだ。オウガは身構え、それから片足を持ち上げて、ハイキックで応戦する。

 ところがその時、全身からふっと痺れが引いた。あまりに突然のことだった。火花も消え、電撃も潰える。纏っている装甲が急激にその重量を増したような気がした。その蹴りのスピードも先ほどのパンチのように己の理解を超えるようなことはない。

 何の前振りもなく逃げていった力に、直也は目を丸くした。次の瞬間、そのオウガの顔面をフェンリルの跳び回し蹴りが撫でた。

 対抗して蹴りを放ったことにより、体が傾き、敵の照準から外れたのがせめてもの幸いだった。またしても攻撃が直撃することはなく、刃はオウガの仮面だけを綺麗に切り裂いた。オウガは横に蹴倒され、ライの横に転がった。

 これまでの戦いによるダメージが、蓄積されていたこともあるのだろう。オウガの仮面は、けたまましい音を立てて砕け散った。左目に相当する部分が、ねじ切られたような断面を残して破壊される。金属片が足元にぱらぱらと落ちていく。すっぽりと開いた穴から、直也の顔の左半分が外気に晒された。

 高いところから重いものが落ちたような、轟音が響いた。低く重い音とともに家全体が震える。どうやらフェンリルが床に落ちたらしい。やはりあの拳の一撃が効いていたのだろう。おそらく着地をする余力もなく、オウガに跳び蹴りを放つとそのまま空中で意識が途切れたのだろう。しかし、直也は耳でしかそれを捉えることができなかった。割れた仮面の破片が目の周辺に刺さり、視界を血で塗りたくられていたからだ。痛みも強く、堪えようとも声が歯のすき間から漏れてしまう。

 また掠っただけにしろ、頭部に与えられた衝撃は尋常ではなかったらしい。体の中心から末端に到るまで、麻痺していて全く動かないのが何よりの証拠だった。まるでふわふわと宙を浮いているかのような感覚で、頭の中は人気のない雪原よりもまだ白かった。

 意識を失う、という自覚の前に頭の中が闇に引きずりこまれていく。少年の呻き声を、聴覚の端に捉えた。痛みにもがき、悲痛を漏らしている。必死に床を引っ掻く音も聞きとれた。かなりの苦しみがこちらにも伝わってきて、それを与えたのが自分であることに、直也は強い罪悪感を覚える。

 しかしそのうち、それらの音もなくなる。どうやらフェンリルの方も完全に気を失ったらしい。直也もオウガを纏ったまま意識を瞼の裏に委ねる。その直前、耳の穴に滑り込んでくるようにして、この家に入ってくる足音が聞こえてきた。スニーカーの先で砂に埋もれたフローリングを引っ掻く音だ。土足のまま、家の中に泰然と侵入してくる。

「やっと終わったかぁ。随分激しくやりあってたみたいだな、待ちくたびれた」

 緊張感のかけらもない、あくび混じりの声が頭の上から聞こえてくる。どうやら先ほどの足音と同じ人物らしい。男の声だ。まだ若い。直也は自分と同い年くらいだと、鈍った頭で推測する。

「あんたもなかなかだったよ、オウガの人。だけどもうちょいだ。同士討ちとは、なかなか燃える決着じゃないか」

 オウガの人、という呼び名でピンときた。視線を移すことはできなかったが、その話し方と声だけで判断はついた。直也の知る範囲内で、その2つの要素にぴたり適合する人物は1人しかいない。そしてそんな直也の確信を強めるかのように、男は「非現実的で、素晴らしすぎるぜ」と興奮した様子で言った。

 やはり、藍沢秋護か。頭にたなびくバンダナを想起しながらも、直也の視界はぶつぶつと壊れかけのテレビのように覚束なくなっていく。

「さてと。こんなところで、寝てる場合じゃないっぽいぜ。お前には、まだ仕事があるんだとよ。きついが頑張ってくれよ、少年」

 秋護がさらに言葉を連ねる。それは直也に向けた発言ではなく、声の聞こえる方向からしてフェンリルに対するもののようだった。

 なぜこの男がここにいるのか、やはりフェンリルの中身はマスカレイダーズの人間なのか、結論にたどり着くまでの余裕もなく、しつこくしがみついていた直也の意識はあえなく深い谷底に落ちていく。這いあがる力もなく、目の前が真っ暗に閉ざされた。

 強い風が吹いた。その風はこの家の中に漂う暗澹とした空気を、晴れた空に解き放っていくようだった。ライの寝息が耳にかかる。彼女の髪の匂いが香る。いつの間に触れていたのか、彼女の体温が指先に伝わってくる。ライの生きている証に、生の輪郭に触れた直也は、閉塞感に満ちた闇の中で、とてつもなく大きな安心感を覚えるのだった。

 淡い光が、心の中に生まれる。その光の正体に、直也はようやく気がついた。

 



魔物の話 32

 腕時計の短針が6の数字に振れる。その瞬間、隣に立つゴンザレスが嬉しそうな声をあげた。

「さあ、時間だ。始めるよ、最後の戦いを」

 彼のがらがら声は、待ち望んでいたショーが紆余曲折を経てようやく開演されたことに喜ぶ熱狂的なファンじみてもいて、レイは違和感を禁じ得ない。薄く照る光の下に照らされた狼の笑顔は、これまでで一番輝いているように見えた。

 人気のない、寂れた公園でのことだ。土地の狭い場所を、猫の額ほどしかないと形容するが、まさしくこの場所はその比喩にふさわしい。雑草が生え放題に生え、遊具といえば長い草に浸食された滑り台しかない、本当に小さな公園だった。手すりの1つをとっても錆び切って、ちょっと触るだけで掌が真っ赤になる。力のある人ならば、軽く叩いただけでも木っ端微塵にできそうだった。

 その公園の隅に、レイとゴンザレス、そして拓也、黒城、狩沢は集まっていた。男3人が並んで立ち、その前に金髪の少女と着ぐるみが並んでいる格好だ。傍から見れば異様な集団だろうが、道を通りかかる人影はなかった。

 レイの手首には、『しろうま』に出向いた時と同様、球体の乗ったベルトが巻かれている。レイに負わされた任務はマスカレイダーが敵と交戦している間、敵のアジト付近にもぐりこみ、怪人の察知能力を駆使して、その詳しい位置を確かめることだった。その連絡を行き届かせるために、この装置が必須というわけだった。

 重大で、危険な任務だ。しかしだからこそ、燃えるものがある。レイは球体を掌で撫でるようにすると、小さく深呼吸をした。

「最後か」

 黒城が上目遣いにゴンザレスを窺うようにしながら、口を開く。先ほどのラフな姿とは一転、いつも通りの分厚いスーツ姿に戻っていた。彼の口調はどこか疑わしげだった。片眉が上がる。「そうなるといいがな」

「なるさ、みんな頑張ってくれたから。その働きは、絶対に無駄には、ならないよ。これで、終わらせようよ」

「そういえば、瀬の原さんは?」

 レイはふと気にかかり、マスカレイダーズに在籍するもう1人のメンバーの名を尋ねた。病室で彼も参加するとゴンザレスは言っていたが、この場にその姿はない。

「あの人も参加するって言ってなかったっけ」

「嫌だなぁ。参加するよ? 彼も。みんなとは違う場所でね。今日も行ったよね、人は人によって、活躍する場所が違うんだよ。君には君の役割が、瀬の原雅人くんには、瀬の原雅人くんの役割があるんだ」

 ゴンザレスは説明した後、興奮気味にあたりを見渡した。わずかに着ぐるみの毛が震えているのは見間違いではないはずだ。

「そうさ、みんな役割がある。それをちゃんと、成し遂げることが大切なんだ。ね、速見拓也くん? 君も、頑張ってくれるよね?」

 名指しで呼ばれた拓也は、そっと顔を上げた。やはりその顔色は悪い。頬は青白く、唇は紫色をしていた。1つ1つの動作にも力がなかった。まるで亡霊のような雰囲気を纏う拓也に、レイはあの溌剌とした拓也の姿が重ならず、戸惑う。無理やり体を動かそうとする彼の姿は、これ以上とないくらいに痛々しいものだった。

 その様子を見かねたのか、黒城は鼻の穴を膨らませ、口を挟んだ。

「病み上がりの男が参加しても、足手まといになるだけだ。私のアークだけで、十分だろう。私の力は戦艦10隻にも値する。お前は大人しく、家で休んでいたまえ」

 言い方は乱暴だったが、その言葉の中心には拓也に対する気遣いが滲んでいた。しかし拓也は大きくかぶりを振ると、黒城とゴンザレスを交互に見比べるようにした。

「俺はやるよ。これまで、逃げてた分のツケがきたんだ。それに、俺はまだ華永を信じてる。あいつは化け物なんかじゃない」

 声を出すだけで体のどこかが痛むのか、拓也は深い皺を眉間に刻みながら、魂を絞り出すようにして喋る。その拳は固く、悲しいほどに強く握られている。

「信じるために、疑うんだ。そのために俺は、戦うんだ」

 拓也は宣言した後で、ちらりとほんの数秒の間、レイに向けた。それはレイの顔、というわけではなく、視線の方向からして手首、あの球体のついたリストバンドに注がれていた。レイがその刹那の視線を気にかけたのは、その目が猜疑心に満ちていたからだ。拓也もそんな目ができるのか、と思うほど、その表情は厳しいものだった。

 すぐに彼は目をそらしてしまったので、問いかけるタイミングを逃してしまう。いまの表情の意味が掴めず、不安な気持ちがレイの心を過った。

「その甘さが、命取りにならなきゃいいんだけどね。やることやれば、ゴン太くんに文句はないよ。狩沢さんも、大丈夫だよね?」

 彼の脅迫めいた名指しの矛先が、今度は狩沢に向く。彼は右腕を覆った包帯を撫でつけながら、いつも通り仏頂面で「問題ない」とだけ返した。

「戦えるように、なったのかい。もしかしたら、あの段田右月くんの亡霊が、いるかもしれないよ? それでも、大丈夫なのかい?」

 これまたいつも通りなのだが、ゴンザレスの声は人の不安を不必要に煽るニュアンスが込められている。彼がそれを意識的に使っているのか、はたまた無意識なのかは分からないが、人に不快感を与える話し方であることに違いはなかった。

「問題ない」

 しっかりとした芯のある野太い声を、もう1度狩沢は発する。その安定感のある声調はレイをハッとさせ、心を新たに引き締めさせた。

「奴は、もう死んだ。あれは無関係の、段田を騙っているだけの化け物だ。目の前に現れたなら、即刻に撃ち殺す覚悟が、ある」

「それは、いいね。あとはそれを、実行するだけだよ。がんばって、マスカレイダーズ、いや、君自身のためにも」

 ゴンザレスは終わりに、3人の男たちに視線を巡らせた。レイもそれに倣って、視線を配る。彼らは皆一様に、ほぼ同じタイミングで自分のプレートを取り出し、片手に握りしめた。

「じゃあ、時間だ。行くよ、これまでさんざんゴン太くんたちを苦しめてきた奴らを、懲らしめるんだ」

 懲らしめる、というどこか幼稚な言い方が、彼の声色とも相まって恐怖を誘う。狼の顔は愉しげに、しかし嘲笑うように、歪んでいる。「さあ」 ゴンザレスは短い腕を大きく広げると、大声で宣言を果たした。

「金銀戦争の、始まりだ」

 その言葉に突き動かされるようにして、3人は一斉に腹の前でプレートを握る腕を振った。その腕の描き出した軌跡に色が付き、光の帯が腹部を覆う。そして淡い光が彼らの体を包み込んだ。

 公園に立ち昇った3つの光は、天を突き、雲を切り裂いた。うねる光の奔流は足元の地面を削り、大気を震わすようだ。ひと際強烈な輝きをばら撒き、霧散した光の向こうに現れたのは、3体の装甲服。

 頭部にインコムを付け、腰からロングコート調の黒い布をぶら下げた戦士、ダンテ。

 こめかみのあたりから2本のアンテナを伸ばし、両肩に舟をそのままひっくり返したような形のバインダーを両肩に装備した戦士、アーク。

 体中に太いパイプを張り巡らせ、鋼鉄のような分厚い装甲をもった戦士、エレフ。

 砂埃とともに払われた光の向こうに現れたのは、3人の戦士が揃い踏みをする、堂々たる光景だった。

「みんな、頑張ってください」

 レイは彼らを心から労う。この戦いが間違ってはいなかったと、未来に希望を灯す戦いであるように、祈りをこめて。

「……私も、頑張る」

 先ほど拓也が口にした、華永あきらという名前をもう1度脳裏に蘇らせる。願わくば彼女と出会って、そこから自分の生きる上で糧となる何かが得られたらいい。そんなことを想いながら、レイはキッと、暗雲渦巻く空を見上げる。

 ポケットに入れた手の中に、病院の前で回収した黒い鳥の羽を握りしめながら。




鳥の話 31

 携帯電話の受話口から、声が聞こえてくる。その背後で風の切る音が聞こえるので、どうやら外からかけてきているようだった。

「仁君。これから、私は一番の大仕事に出るんだよ」

 声の主は、菅谷だった。何だか興奮している。彼の鼻息までもが回線を伝って耳に届く。

「成功したら、君に一番に報告しよう。そういえば、ドアが壊れていたけど、強盗でも入ったかい?」

「あ、店に来たの?」

「あそこは私の、第2の故郷だからね。行って当然さ。まぁ、その様子だと大事ではなさそうで安心したが」

「まぁ、そんな大したことでもないよ」

 店に怪人がやってきて、壊していったとはさすがに言い出せない。適当にはぐらかすと、菅谷は声をたてて笑った。

「そうか。それより、今はどこにいるんだい?」

「ちょっと、友達と一緒にいるんだ。菅谷さんほどじゃないかもしれないけど、結構僕にとって大きな、用事なんだよ」

「そうか。いつ帰ってくる?」

「なんで?」

「仕事が終わったら、店に行きたいと思ってね。あぁ、でももうその頃にはどのみち店が閉まっているかもしれないな」

 苦笑する菅谷の声を聞きながら、仁は頭の中で様々な憶測を巡らせ、それから答えた。

「……2時間ほど、かかるかな。よければ明日来てよ。最高のコーヒー、ごちそうするからさ」

 その後も、彼といくつか雑談を交わし、仁は電話を切った。液晶画面を見つめ、この状況で電話をかけてきてくれた彼に感謝する。今の会話で、大分気持ちを解すことができたからだ。携帯電話の電源を落とし、ポケットに入れる。日常は一旦、ここで打ち止めだ。心の中でけじめをつけ、ゆっくり深呼吸をした。

 それは、わずか数十分前のことだ。

 今の仁は再びV.トールの姿を纏い、クラーケンホテルの屋上に立っている。空は薄暗く、遠くからごろごろと不吉を誘う音が聞こえてくる。空気は湿り気を帯び、どこからか雨の匂いが漂ってくる。肌をじわじわと侵食するような熱気は、嵐の到来を予感させた。

 V.トールは自身の右腰に目をやる。そこにはサーベルが元の形で、しっかりと収まっていた。先ほど"第2食堂の魔女"によって修理され、戻ってきたのだ。エレフの銃弾によって折れ曲がった刀身は完全に修繕され、美しい姿を取り戻している。

 魔女に頼んでくれた菜原に改めて礼を言おうと、顔をあげると、こちらを緑色の眼差しでじっと見つめるS.アルムと目が合ってしまい、仁はぎょっとした。

「おい、仁」

 S.アルムは腕を組んだ姿勢で立っていた。彼の黒々とした翼の表面には、水滴が浮き、いち早く雨を察知している。V.トールは彼の体を観察したあとで、呆けた声を返した。

「なに、菜原君」

「俺さ、この戦いで勝ち残ったら、仁と結婚しようと思うんだけど」

 仁は驚かなかった。ほんの数秒考えた後で、「へぇ。それはおめでとう」と暢気に返すと、「いや、お前だよ。なんで他人事なんだよ」と怒られた。

「この戦いで、ようやく俺はマスカレイダーズをぶっ潰すことができる。俺の弟を殺した奴らに、復讐することができるんだ。それくらいの褒美があっても、いいだろう」

 4年前に、弟をマスカレイダーズに殺された。彼が語った真実の、その詳しいところを仁は聞いていない。そんな前からマスカレイダーズという組織があったのか、そもそも具体的に彼らはなぜ、どうやって菜原の弟を殺したのか、謎は多かった。彼の弟に会ったことは当然のことながらないが、弟とよく似ていると言われたことで、仁は彼に強い親近感のようなものを覚えていた。

 尋ねてみるか、とも思う。しかし口を開き、胸を膨らませ、喉に声を滑らせる、その寸前でやはり止めておいた。この状況でするのに、適した質問ではないと感じたからだった。それに、自らがマスカレイダーズを憎む理由を吐露したときの、悲しげな彼の姿に抵抗感を覚えていたからという理由もあった。もしかしたら、後者の気持ちの方が強かったかもしれない。

 代わりに、仁はV.トールの顔面の下で眉を寄せ、「でも、大抵映画とか漫画とかでそういうこと言う人物は、生きて戻れないもんだよ」と指摘した。するとS.アルムはどこからその根拠が沸いて出てくるのか、自信満々な態度で言った。

「いや、俺は死なない。まだお前の唇を奪っていないからな。死ぬのは、それからでいい」

「ああ」

「ああ、じゃねぇよ。なんで他人事なんだよ。一世一代の俺の告白を流すなよ」

 そんなこと言われても、と表情を曇らせ、仁は戸惑う。すると強く吹き付ける、湿り気を孕んだ風に乗って、ケフェクスとあきらの会話が耳に聞こえてきた。右手側に顔を向ける。V.トールのすぐ隣にはZ.アエルがおり、その向こうにはケフェクスの姿が見えた。

「それで大将。あんたは奴らが、全ての戦力をこの戦いに注ぎこんでくると思うか?」

 どうやら大将、というのはあきらを指しているらしい。Z.アエルはちらりとケフェクスを一瞥すると、目の前に広がる荒廃した景色に視線を戻した。彼女は食堂の時と同様に金のマントを羽織っていた。強風に煽られ、ばさばさと音をたててそれはたなびいている。

「ボクは、そう思ってます。これはこれまでの戦いとは違う、いわば雌雄を決するための争い。そんなこと、向こうもおそらく分かっているでしょう。これは、現代に蘇った、金銀戦争です」

「金銀戦争、か。懐かしい響きだな……」

 ケフェクスが感慨深げに、吐息を漏らす。「7年ぶりに、聞いたな」と囁くように続ける。さらにもう1度、「懐かしい」と口にし、目を細めた。

 Z.アエルはもう1度、彼の方に視線をやったが、それ以上何も言わなかった。「金銀? じゃあ俺が主役だな。僕は黄金の最強怪人だからな。そうだろボクっ娘! 僕の独壇場なんだろう!」とケフェクスの右隣ではしゃぐキャンサーには、当然のように目もくれない。反応もなければ、反論もなく、無視を決め込んでいる。キャンサーに対する随分と冷やかな彼女の態度に、仁は必死に笑いを堪えた。

「お前、まだいたのか……死んだと思ってた」

 S.アルムが呆れ混じりのため息をつく。その声を敏感に聞きつけたキャンサーは、列から大きく身を乗り出し、S.アルムを睨みつけた。

「聞こえているぞ、貴様! この僕に何という物言いだ!」

「聞こえるように言ってんだよ、お前みたいな阿呆には、口に出さなきゃ分からないだろ」

 売り言葉に買い言葉とはこのことだな、と仁は冷静に思う。唾を撒きながら口論を始めるS.アルムを、諫める気にもならなかった。キャンサーは黄金色の体を紅潮させると、指先で遠慮なしにS.アルムを指した。

「言っても分からないお前よりは、随分マシだろう! お前の存在自体が気持ち悪いと言ってるんだから、少しは慎んだらどうだ!」

「……これほど、腹が立つこともないな。気持ち悪い奴に、気持ち悪いと言われるのは我慢ならん。この戦いで、マスカレイダーズよりも先に死んで欲しい」

「それは貴様がな。アークに二度も負けといて、随分でかい口が叩けるもんだ。尊敬するよ、その無神経ぶりにはな」

 それは、菜原にとって非常に痛い指摘だったらしい。彼は途端に表情を強張らせ、さらに憤怒の色を瞳に宿らせた。

「お前……言わせておけば、ごちゃごちゃと。奴らが来る前に消し墨にしてやろうか?」

「できるものなら、やってみろというのだ。この負け犬が!」

 列の右端と左端で、一瞬触発の空気を漂わせるS.アルムとキャンサーに、仁は心底呆れる。なにも一番遠い位置に立つ者同士で喧嘩しなくても、と思っているとケフェクスが口を開いて、「兄上、何もこの位置で口論しなくてもいいだろ。なんだか凄く、無謀な気がしてならない」とキャンサーに言ってくれた。彼の言葉に、仁は壮快な気分になる。こっそり、隣のS.アルムに感づかれないように音のない拍手を送った。

「兄上は誰よりも強い。その強さをいまこそ、奴らに引導を渡すために使ってくれ。俺は無理でも、兄上なら容易いだろ? あなたならもっと、大きなことを成し遂げられるはずだ。こんな小競り合いで、ムキになっちゃいけない」

 ケフェクスは落ちついた口調で、頭から湯気を噴きださんばかりの兄を宥める。その様子はどう見ても慣れていて、彼の苦労を窺い知ることができた。キャンサーは弟の言葉で、途端に上機嫌になった。目を丸くし、その後で、口角を上げる。

「ふふん。さすがナイスな我が弟。分かってるじゃないか。そうだ、あんな雑魚、いつだって倒せるもんな。僕の力はあんな奴に使うほど、安いもんじゃあない」

「あいつ、調子に乗りやがって……」

 拳を震わせ、キャンサーを憎々しげに見つめるS.アルムの手を、V.トールは取った。彼はハッと身を竦ませて、こちらを振り返る。V.トールはゆっくりと、かぶりを振った。

「菜原君。こんなところで、無駄な争いをするのはよくない。君がけがでもしたら、僕は凄く悲しい。だからさ、ここは引こうよ。僕のために、頼むよ」

 懇願すると、S.アルムは視線を中空に彷徨わせたあとで顔を赤くした。そして照れくさそうにそっぽを向き、何度もつっかえながら空に向かって言った。

「お、お前がそこまで言ってくれるなら、あいつを許してあげないこともないかな。いいよ、許そう。まったく、恥ずかしいことをさらりと言いやがって、憎いけど愛しすぎるな」

 ぶつぶつと何事かを言い募っているS.アルムの目を盗み、V.トールはこっそりケフェクスと視線を交した。そうやって目を用い、互いの健闘をたたえ合う。お互い苦労するね、という労いの言葉を視線に滲ませた。

「来ましたよ」

 Z.アエルの一言で、空気が一度に引き締まる。V.トールは濃霧によって閉ざされた景色を窺った。すると遠くに、うっすらと銀に輝く光が見えたような気がした。

 ついに戦いの火蓋が切って落とされようとしている。波及した緊張感が空気を伝わり、V.トールは身を固くした。ついに1つの決着が、今日ここで、着けられる。自分が勝ち残れるか、ということよりも、この戦いで一体何が変わるのか、ということのほうにより興味があった。

葉花のことを思い出す。

両親に見捨てられた少女。他人の身勝手な行いに巻き込まれ、命の危機に脅かされようとしている女の子。彼女は何も悪くない。悪いのは、彼女を取り巻く全てのものだ。それらを破壊し、葉花を覆う薄暗い牢獄に光を射すために、仁はこれまで戦ってきた。そしてその集大成がこれから、始まろうとしている。緊張を覚えないわけがなかった。これまで自分が何をしてきたか、その真価が鏡映しのように試されるのだから。

 体が震える。武者震いだ、と己に言い聞かす。深く息を吸いこみ、怖気づく心を必死に励ました。葉花、僕に力をくれ。拳を握りしめ、彼女の表情を、声を、そして数週間前までこの掌に感じていた彼女の体温を、ぎゅっと胸に抱きしめる。

 視界が眩い光に包まれた。ホテルを正面から見て左から、キャンサー、ケフェクス、Z.アエル、V.トール、S.アルムの順番で屋上に立ち並んでいる状況にあった。その一同を覆い隠すような、広範囲に及ぶ光の波状攻撃がもうもうと立ちこめる霧を一蹴し、迫りくる。

「行きます!」

 5人の中心に立つあきらの声が、高々と空に響き渡る。V.トールはサーベルを腰から引き抜き、構える。S.アルムも槍を背中から取り、頭の上で一回転させてから、地面を突いた。

 キャンサーは鋏を取り出し、ケフェクスは掌中に炎をかざす。最後にZ.アエルが右腕でマントを大きく払ったあと、太股のリストバンドから一対のダガーを手にした。

 霧の向こうに現れた、3つの影。それらは当初おぼろげな姿でしかなかったが、徐々に輪郭を形成していった。それは人の姿をしている。少しして、装甲服の戦士であることが分かる。さらに霧が薄らぐと、その細部が見えるようになってきた。

 右から、"ダンテ"、"アーク"、"エレフ"。

全て、これまで仁が戦った覚えのある戦士たちだ。それら全員が横に並び、けして急くことのない足取りで着実に、こちらへ歩みを進めてくる。

 ダンテが拳を前に突き出し、構える。アークが右手首のハッチを開き、ハンドガンの銃身を晒す。エレフが銃を手に取り、その銃口をこちらに突きつけてくる。向こうの戦闘準備も万全のようだった。ぴりりと痺れるような敵意が、体を心地よく揉む。

「行くぞ!」

 4人の男の、熱意の孕んだ声が重なった。それぞれの得物、それぞれの能力をその身に宿し、光にくるまれながら、戦士たちと向き合う。

 空を破るような雷音と共に空から大粒の雨が降り出した。


2010年 8月9日 18:03


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