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15話「追いかけてきた過去」


魔物の話 29

 マスカレイダーズが所有するはなれの家に向かいながら、レイはあくびをかみ殺した。隣を歩く佑が、そんなレイの姿に眉尻を下げる。

「昨日はごめん。遅くまで付き合わせちゃって……まだ眠いよな」

 昨夜の戦いのことを、思い出す。闇夜を切り裂く装甲服の、銀色に煌めく体躯。灰になって散り散りに消滅していった怪人。それらの光景がまざまざと目の前に蘇るようだった。レイは首を横に振った。目をこすり、眠気をごまかす。

「別にいいですよ。悠を狙う怪人も倒せたし、とりあえずは安心しました」

「俺の力で悠を救うことができた。それがすげぇ嬉しい。これもレイちゃんがゴンザレスさんを紹介してくれたおかげだ。ありがとう」

「いえいえ。私は何もしてないです。あれは、お兄さんの力ですよ。もらったばかりの装甲服を使いこなせるなんて、凄いです。感動しました」

 佑を本当にマスカレイダーズに紹介して良かったのかどうか、長らく悩んでいたが、彼の快活な表情を見たらそんな憂鬱な思いも吹き飛んだ。装甲服の力を用いて、自力で悠を危機から救うことができた佑は上機嫌だ。やはり佑は暗く俯いているよりも、顔をあげ、明るく快活な表情を浮かべているほうがよく似合う。

 それにしても――とレイは病室に現れた怪人について想起する。

 あの怪人はフェンリルの攻撃を受けて、粉みじんに消し飛んだ。大量の灰を地面に残して文字通り、消失してしまったのだった。これまでにそんなケースはなかったので、正直に言ってしまえば、本当にあの怪人が死んだのかにわかには信じ難かった。確かにあの場は収まったが、実はギリギリのところで攻撃を回避していて、逃げ延び、どこかでひっそりと生きながらえていて、今も虎視眈々と悠に狙いを澄ましているのではないか。そんな嫌な予感が胸を過る。しかし佑の達成感に満ちた笑顔を見ると、それを口に出す気も失せてくるのだった。まぁ今は良いほうに考えよう、と楽観的な思考に身を委ねる。

 レイはまたあくびを1つしたあとで、空を見上げた。今日もまた風が強い。頭の上を足早に雲が過ぎ去っていく。歩きながら頭上を仰ぎ、レイは口を開いた。

「まぁでも、楽しみですよね。お兄さんがグァムに連れて行ってくれるなんて」

「え、俺そんなこと言ったっけ?」

「昨晩付き合ったら、なんでも言うこと聞いてくれるって言ったじゃないですか」

「そりゃ言ったけど。いきなりグァムっていう言葉が出てくるとは思わなかった」

「2年ぐらい前に家族で行ったんでしょう? 悠が楽しそうに話してましたよ」

 あぁ、と佑は口元に笑みを浮かべた。それから空に視線を移す。まるでその青いキャンパスに思い出の写真が貼り付けてあるかのように、すっと目を細めた。

「懐かしい。3年前だよ、確か。悠の入学祝いに行ったんだ。そっか。あれが最後の家族旅行ってことになるんだな」

 3年前は悠も今よりずっと体調が良くて、レイと一緒に学校生活を送っていた。それに佑の父親が勤める黒城グループもまだそれほど多くの分野に手を出していなかったので、家族団欒の機会も今よりずっと多かったのだろう。空を見つめる佑の表情は寂しげで、もう手の中から零れ落ちてしまったものを懐かしむような色を持っていた。

「今度行きましょうよ、みんなで」

 この強い風に吹き消されてしまわぬように、レイは強い語調を発した。佑はふと足を止め、こちらに顔を向ける。

「別にグァムじゃなくてもいいですから、行きましょうよ。うちのお父さんも、天村さんも、悠も、みんなで。きっと楽しいですよ。諦めるなんて、もったいないです。人生これからです」

 思いつきではあったが、そう一息に言うと、佑は意外そうに目を丸くした後、微笑を取り戻した。彼のその表情に心底、安堵している自分にレイは気付く。「ああ。全部終わったら、行こう」と佑が答えるのを聞いて、レイも小さく笑った。

「はい。ぜひ退院祝いを兼ねて。悠もきっと喜びますよ」

 そのためには早く、怪人を生み出す根源たるあの男を見つけ出し、倒さなければいけないな。レイは顔で笑いながらも、その内側で闘志を燃やしていた。

そのためにきっと"最高の怪人"と唄われる自分にしかできないことがあるはずだ。それを見つけ出して、やりきるしかない。先に待つ楽しい未来のためになら、辛く、苦しく、悲しいことに出会っても耐えられる。隣で笑う佑も心のうちではきっと、同じことを考えているに違いない。隣に同じような立場の人がいることは、1人ではないと言われているような気がして、なんだか嬉しかった。

 目的地には、そこから3分もかからず到着することができた。その家は一階建ての四角い倉庫というような外観を持っていた。ドアノブを捻り、開けると真っ白な廊下が目の前に伸びていた。床の素材はリノリウム製で、どうやら病院のように靴のまま出入りができる場所のようだ。レイと佑は顔を見合わせると、どちらともなく足を踏み出した。

 廊下を少し歩くと、左手にドアが見えてきた。白塗りの壁に緑色のドアという配色はどことなくセンスの悪さを感じた。ドアの中心に『部屋1』という看板が出ている。その前で立ち止まり、レイは1度扉をノックした。「はいはーい」というくぐもった声が返ってきたので、「入るよ」と応じ、ノブを捻って手前に引いた。「おじゃまします」と佑も挨拶をしながら、レイの後に続く。

 まず、ドアを開くと薬品の匂いが鼻を突いた。続けて視覚に、一面真っ白な室内が飛び込んでくる。壁、天井、床と白く塗りつぶされた空間に、これまた白いベッドが置かれているのはなんだか奇妙だった。

 その部屋の中で展開されていた光景を目にした瞬間、レイと佑はほぼ同時に声をあげていた。

「たくちゃん先生!」

「速見先生!」

 起きてたんですか、とレイは言葉を続ける。どうしてここに、と佑が声を繋ぐ。それぞれ意味合いは違えど、一斉に発せられた驚きの声に、ベッド上で上半身を起こしていた速水拓也は目を見開いた。

「黒城……と、君は、確か、楓のところの」

「なんで……」

 佑もまた目を丸くして、拓也を見つめる。口を金魚のようにぱくぱくとさせ、足を前に踏み出した。

「なんで、先生がこんなところで寝てるんですか」

 拓也に駆け寄っていく佑の背中を、レイは置いてけぼりをくらった気分で呆然と見つめる。

 どうやら2人のやり取りから察するに、拓也と佑は知り合いらしかった。マスカレイダーズには随分と佑の知り合いがいるものだな、とレイは偶然では説明がつかぬ奇妙な縁を感じずにはいられない。これではまるで、佑は最初からこの組織に入ることが決められていたようではないか。

 レイが首を傾げていると、その体に大きな影が重なった。見上げると、そこにはボロボロな狼の着ぐるみ、ゴンザレスが立っていた。いつも笑顔な狼の表情は、今日も変わらず健在だった。

「どうやら、奇妙な巡りあわせみたいだね。凄いね、偶然だね、素晴らしいね」

「ゴン太。これは一体どういうことなんだ? なんで彼がここにいる」

 拓也は眉を寄せ、ゴンザレスを見た。その表情は不安の色で染まっている。

「なぜ? それはね、彼がゴン太くんたちの、新しいお友達だからさ。君が寝ている間に、色々あったんだよ、ごめんね」

「そんな、まさか……」

 拓也は瞠目し、レイを、それから佑を見た。頭を軽く振り、そして視線をゴンザレスに戻す。

「彼の役目はなんだ。まさか、戦闘員ではないだろうな」

 拓也の声はわずかに震えを伴っていた。怒りと焦りが凝縮され、いてもたってもいられない、その情動がその声だけで伝わってくるようだった。

 そのまさかなんですよ、とレイが答えようとしたところで、ゴンザレスが声を張り上げた。彼の全身から発散されるそのあまりの迫力にレイは無理やり黙らされる。

「違うよ。彼はただの、連絡係さ。藍沢秋護くんだけじゃ、頼りないからね。増員さ。大丈夫だよ速見拓也くん。こんな子どもを、戦わせたりしたら、ゴン太くんが森の仲間たちに怒られちゃうからね」

 有無を言わせぬ口調だった。レイも佑も反論できず、表面上はぼんやりと、心中ではおろおろと状況を見守ることしかできなかった。なぜゴンザレスがこんな嘘を吐いたのか、理解できなかった。ただ自分たちの組織のリーダーが堂々と、真実を知る人らの前でメンバーに虚言を吐いたことに衝撃を覚えていた。

「そっか……なら、まぁ、いいけど」

 拓也は簡単に納得し、頷きながら、胸までかかった布団に視線を落とした。何だか2日意識を失っていただけで、随分とその体が萎んでしまったようだった。眠る前の彼にはあった、レイを庇ってキャンサーにぶつかっていった時のような覇気が、ごっそりと抜け落ちてしまっている。その痛々しい姿に、レイはただならぬものを感じた。

「先生。体調は大丈夫なんですか?」

 2日間もの間、意識を失っていた人にかけるセリフではないな、と思いながらもレイは尋ねずにいられない。拓也は小さく笑うと、両肘を曲げ、筋肉を作る真似事をした。彼の唇はやはりまだ青白かった。

「ああ。心配かけた。だけどもう……大丈夫だよ」

「なんですか、今の間は。それに大丈夫そうにはどうしても見えないんですけど」

「見た目で人を判断しちゃいけないぞ。平気平気。自分の体のことは自分でよく分かってる。むしろたっぷり寝たからか、随分体調がいいんだ」

 拓也は快活に言うと、それから自らの言葉を証明するかのように掛け布団から這い出た。そしてレイたちのほうに体を向け、ベッドから両足をぶらぶらさせる。骨ばった足の指を見て、拓也の体はこんなに華奢だったっけと怪訝に思った。

「うん、彼は大丈夫だよ。気付け薬を打っておいたからね。きっと元気いっぱいのはずだよ。ね、そうだよね?」

 ゴンザレスが口を挟み、拓也に同意を求める。拓也は瞳をわずかに翳らせると、1テンポ遅れて頷いた。首筋を指の腹で撫でる。よく見ればそこは赤く腫れていた。それは鳥の羽の形にも見える、奇妙な腫れ跡だった。

「あぁ、ゴン太の言うとおり。俺は、平気だ」

「気付け薬って、なんですか」

 ゴンザレスが口にした、あまりにも不審な単語をレイは聞き逃さなかった。しかし彼は答えない。レイの問いかけを無視し、「それで話の続きをするんだけどね」と室内にがらがら声を響かせ、一同を見渡した。

「残念ながら、華永あきらは、黒だったよ。真っ黒だ。そうだよね。君も、見たんだよね?」

 ゴンザレスはレイに尋ねた。釈然としない感情を胸に圧し込めながら、レイは拓也とゴンザレスとを見比べる。拓也は推し量るような目つきで、真剣な表情でこちらを見つめていた。

「……うん。怪物に、変身した。この目ではっきりと見たよ。あの人は、ゴンザレスさんの言うとおり、悪魔みたいだった」

 数秒の思案の末に結局真実を語ることにする。すると拓也が目に見えて落胆したので、少し気まり悪い思いを抱いた。「そうか」と一言だけ漏らし、あとは何も語らないのがどうしようもなく、気まずい。しかもなぜ拓也がこの報告で、これほどまでに落ち込むのか、レイにはまったく分からないのでフォローの仕様もなかった。

 どうしようかとうろたえていると、ゴンザレスが「それでね」と続けてくれたので、助かった。その言葉に縋るような気持ちで、「なんですか?」と返している。ゴンザレスは息を深く吸い込んだ後、さらに報告を重ねた。

「それでね、朗報だよ。華永あきらの潜伏場所が、見つかったんだ。藍沢秋護くんが頑張ってくれてね。やったね。ついに怪人たちを一網打尽にできる時がきたよ」

「……本当ですか?」

 レイは『喫茶店 しろうま』で目にしたあきらの、物腰の柔らかな態度を思い出す。あの人の心を癒すような笑みが瞼の裏に浮かぶ。そしてさらに彼女が異形の体へと変貌していく、その様が頭の中に映りこむ。最後に見たあきらに関する映像は、怪物に変わった彼女が逃げるように飛び去っていく、その後姿だった。

 怪物に変身する彼女と、怪人とが無関係であるはずはない。あきらの居場所さえ掴めれば、怪人の根源を突き止めることが可能なはずだとレイは確信していた。そしてそんな推測とは別にしても、あきらと再び会いたい気持ちは日に日に募るようだった。

「黒城レイくん。お父さんから、昨日の結果は、聞いてるよね?」

 レイは頷いた。二条裕美の奪還に失敗した、というのが昨晩帰宅した父親からの報告だった。玄関先で靴を脱ぎながらいつもより疲れた横顔を覗かせていたことが、レイの不安を誘った。父親は今朝早くに出たまま戻ってこない。一体どこで何をしているのか、見当もつかないのがひたすらに恐ろしい。

「ゴン太くんたちの予想が正しければ、二条裕美もきっとそこにいる。だからね、決めたんだ」

 何をですか。レイが尋ねる前でゴンザレスは笑顔に影を射し、愉悦に満ちた声をあげた。

「ダンテ、アーク、エレフによる本丸攻めをやろうってね。今日の夕方開始だよ。レイちゃんと藍沢秋護くんにも、もちろん参加してもらうから、予定空けといてね。瀬の原雅人くんも、もちろんくるからね。マスカレイダーズ大集合ってわけさ」

 今日の夕方とは、随分と急な話だった。しかし断る理由は、レイにあるはずもない。自分にも役目を割いてくれたゴンザレスに感謝したいぐらいだった。ようやく戦いが終わるという達成感と、あきらにまた出会えるという期待で胸が膨らむ。徐々に勢いを増していく心音は、レイを鼓舞しているかのようだ。

「うん。分かった。私、頑張る」

 力を込めて返事をすると、ゴンザレスは満足そうに顎を引いた。それから拓也のほうに顔を向ける。レイは壁際で途方に暮れている佑を一瞥した後、後ろ髪を引かれる思いでゴンザレスの視線の先を追った。

 拓也は顔を伏せていた。彼とは思えないほど、その表情は暗澹としたものがこもっている。そんな絶望の極みにある拓也に顔を寄せながら、ゴンザレスは容赦なく嫌味っぽい口調で言葉を投げかけた。

「さあ、次はこっちだね。君が寝ている間に、こんなにも世界は動いちゃったんだ。残念だね。でもさ、もういいよね、速見拓也くん。もう証拠もある。あの娘は、敵なんだよ。動いてくれるよね。病み上がりで、悪いんだけどさ」

 みんなを、守るためなんだよ。ゴンザレスは拓也の耳元で、そう付け足した。拓也は顔を上げた。それからゴンザレスを見た。その瞳には悲しみが色濃く宿っていた。

「もう俺が何を言っても、止まらないんだろ? 分かったよ。ならせめて……俺に華永の相手をさせてくれ。あいつの本音は俺が聞き出してみせる。あいつは、こんなことするような奴じゃないんだ」

 拓也の口から飛び出したセリフに、レイは二の句を継げなくなる。拓也は今、確かにあきらを庇うような発言をした。なぜ、彼が怪人に繋がっていると思われる人物を擁護するのか、その意図が分からない。

 しかし拓也の真剣な眼差しを見ているうち、ハッと気付いた。あきらは怪物でもあるが、それ以前にレイと同じ学校に通う女子高生でもある。おそらく拓也はあきらの担任なのだろう。拓也の教育に対する熱心さは、風の噂としてレイの所属する中等部まで聞こえてくる。

 たとえ怪人を生む根源だとしても、人ならざる者だとしても、拓也はあきらをかけがえのない1人の生徒として見ているに違いない。それならば、彼の優れない表情にも納得がいく。体の具合の悪さも相まって、あきらを疑い、彼女と戦わなくてはいけない自分の立場に精神的な重荷を感じているのだろう。

「美しい教師愛だけど、いつだって理想と現実には、落差が生まれるものだよ。森の仲間たちだってそんなこと、知ってるんだよ」

 ゴンザレスは白い壁をじっと見つめたままで、ぼんやりと言う。その後で、ベッドの方に目を移した。その表情の先には拓也ではなく、丸テーブルの上に置かれたダンテの黄色いプレートがあった。

「ま、いいけどね。じゃあ、華永あきらは君に任せよう。夕方まで休んで、調子を調えておいてね。足手まといは、ゴン太くん、困っちゃうから」

「言われなくても分かってるよ、ゴン太。証拠が出たなら、しょうがない。約束は守る。ちゃんとやるさ。俺だってマスカレイダーだ。やるときは、やるよ」

 ダンテのプレートに視線をやりながら、拓也は強い語調で返事をする。ゴンザレスは首をゆっくりと傾げ、そのままぐるりと頭だけを背後のレイに向けた。ホラー映画の1シーンにありそうなその光景に、レイは喉から心臓が飛び出しそうになる。ひゃあ、と小さく声をあげて、実際にその場で跳び上がった。

「じゃあ。2人とも、ちょっと話があるんだ。外に出て来てくれても、いいかな」

 レイの反応をまるきり無視し、ゴンザレスはドアに向かってさっさと歩いていく。激しく脈打つ胸を抑えながら、じっとその巨体を見上げていると、後ろから肩を叩かれた。振り向くと、そこには殊勝な顔つきをした佑が立っていた。

「お兄さん」

「行こう、レイちゃん。気になるじゃないか。話なんて」

「まぁ、気にはなりますけど……」

 レイはそろそろと拓也のほうを窺った。すると拓也は苦笑いを浮かべながら、掌でレイたちを払うような仕草をしてきた。ゴンザレスの話を聞いてこい、という意味だろう。その表情も動作もどこか弱弱しく、胸を強く摘まれるような気分に陥る。

 佑は拓也の方を一度も振り返ることもなく、レイを追い越して、先にドアを開けた。廊下に出ていくときにも、拓也を気にする素振りさえみせなかった。レイはいつの間にかプレートを手に取り、それをじっと膝の上に置いて眺めている拓也を気にかけながらも、ゴンザレスと佑の後に続いた。

 廊下に出て、後ろ手でドアを閉める。人間2人が並んだらそれだけでいっぱいになってしまうような狭い廊下に、ゴンザレスと佑は道を塞ぐようにして向かい合う形で立っていた。レイは彼らの間に入り、壁に寄りかかっている格好だ。佑の表情からは明るいものが消え、眉間には皺さえ刻まれていた。またその顔か、とレイはため息さえ漏らしそうになる。そんな顔、佑には似合わないというのに。

「目的は、果たせたのかい。可愛い妹を、守れたのかい」

 ゴンザレスは影の射す廊下で、歪んだ笑顔をみせた。実際には狼の着ぐるみの顔が変化するはずはないので日の当たる角度の影響なのだろうが、それでもレイには彼の声が薄気味悪く感じた。

「……フェンリルの、おかげで。何とか」

「そう、それは良かった。おめでとう。とてもハッピーだね」

「うん。ありがとう、ございます。ゴンザレスさんには感謝してる。悠を守れて、俺、凄く嬉しかった。もうただ見ているだけの自分じゃないんだって、そう思えた」

 佑はじっとゴンザレスに縋るような視線を向けながら、ぽつりぽつりと漏らしていく。相手の出方が分からず、慎重に言葉を選んでいるように見えた。

「でもまだまだ怪人はいる。俺はこの力で、妹を、みんなを、大切な人を、守りたい。守らなくちゃいけない。だから……」

「そのためにも、フェンリルを手放したくない、でしょ? 分かってるよ、君の気持ちは。君とゴン太くんは、3年前からの共犯者だよね。君のことぐらい、お見通しだよ」

 ゴンザレスの意味深な言葉に、佑は陰を全身に落として俯いた。レイは彼らの間に漂う、どこか剣呑な雰囲気に口を挟むことさえできない。どちらか一方に視線を注ぐことさえ憚れて顔は動かさず、目線だけで2人を交互に眺めた。内心では早くこの場から逃げ出したくて、仕方がなかった。

「それで前にも言ったけど、君がフェンリルを所持し続けられる選択肢はね、たった1つなんだ。覚えているよね。忘れてないよね」

 佑はズボンのポケットから『5』の数字が振られたプレートを引っ張り出すと、数秒間、それをじっと見つめた。ぎゅっと強く目を閉じ、それからゴンザレスを見る。その眼差しは傍から見ているレイが身を固くしてしまうほどに研ぎ澄まされたものだった。

 佑は頷いた。ゴンザレスは足を前に踏み出すと、腰を屈めて佑に自分の顔を近付けた。そのあまりに巨大な、鍋つかみのような手を彼の肩に置く。

「なら、オウガを、倒すんだ」

 佑はわずかに目を見開いた。下唇を噛む。また顔を下に向けようとする佑の行動を遮るように、ゴンザレスは先回りして追い、さらに腰を低くした立て膝の姿勢で、彼をさらに下から覗き込むようにした。

「フェンリルはオウガを倒すために存在する。君がフェンリルを持つ資格を得るのはね、オウガを倒してからなんだよ」

 逃げるなよ、とゴンザレスは柔らかく、しかし冷酷な口調で言った。自分が言われたわけでもないのに、レイは背中に氷柱を突き立てられたような悪寒を覚える。そして気付けば、いつの間にかゴンザレスは身を起こし、こちらを見ていたのでレイはまた跳びあがりそうになった。

「さっきの話を聞いただろ? この黒城レイくんにもね、やることがあるんだよ。マスカレイダーズとしてのお仕事が、あるんだ」

 ゴンザレスはレイを目線で示すと、再び佑に顔を向けた。佑には悪いが正直、ホッとした。

「ゴン太くんにはゴン太くんの、彼女には彼女の、そして君には君のやるべき使命がある。これで分かったかな? オウガを、潰すんだ。そうすれば君は今よりももっと強くなれる。ゴン太くんが、保証するよ」

「……さっきの話からすると、みんな、怪人のところにいくんですよね。なら、それが済んでからでも。俺だって、怪人が憎い。力になりたいんです」

「ダメだよ。物事には、順序がある。本当なら、昨日だって渡したくなかったんだ。まずは示してよ。自分がフェンリルに相応しいかどうか。それからだよ、君が本当にゴン太くんの仲間になれるのはね」

 佑の懇願を言下に否定すると、ゴンザレスがそれから少しの間を空けて、今思い出したとでも言うように、わざとらしく手を叩き合わせた。ボン、という鈍い音がする。

「そういえば、君の持ってきた刃。専用の武器に改良しておいたよ。7年前のフェンリルにも、3年前のフェンリルにもない、君だけの新しい力だ。頑張ったから、気にいってくれると嬉しいんだけどな」

「……新しい、力?」

「望んだのは、君だよ。だから頑張るんだよ。君には期待してるんだから。フェンリルに相応しいことを、証明してくれよ」

 佑は立ち竦む。ゴンザレスは微笑む。レイは沈黙を貫いた。この場に漂う空気に息苦しいものを感じながらも、一歩たりともこの場から動くことが叶わない。

「分かった」

 少ししてから佑は応じた。空気に波紋を落とすような、凛とした声だった。

「オウガを、倒す。そうすれば認めてくれるんだろ? フェンリルは、俺のものなんだろ? なら、やるよ。もう俺は無力な俺に戻りたくない」

 ぎりっと骨が軋むような音が響く。佑の握りしめた拳からそれは聞こえてきた。苦難に耐え、しかし願いを叶えるため、心さえも投げ打った男の発する音だった。

 レイは再び佑を見失う。ゴンザレスの歪んだ笑い声が、耳朶を打つ。白く狭いこの家の廊下がひどく霞んで見えた。




鎧の話 28

 座席に座りながら、ジーンズの尻ポケット越しにオウガのプレートの厚みを感じる。直也は『3』の数字が振られたそれが、しっかりとポケットに入っていることを尻の感触で確かめた。これは自分が持ち得る、唯一の武器であり、盾だからだ。家に忘れてはどうにもならない。

 昨日と同じルート、そして昨日と同様に後ろにライを乗っけて、直也はバイクを走らせていた。

 非常に強い風が横殴りに吹いてくる。その強風に煽られ、ハンドルをとられてよろめく。直也の真上は雲の隙間に青い空が広がっていたが。はるか前方にはいかにも不機嫌そうな灰色の空があり、天気がこれから崩れることを予感させた。朝からベッドでごろごろしていたので今日の天気予報は知らないが、空気にわずかに感じる湿り気とこの風から察するにもしかしたら台風が近づいているのかもしれない。

 ハンドルをしっかりと握り、バランスを取る。ぴったりと背に体を密着させてくるライの腕も、直也の腹を絞めつけるような力を持っていた。速度をわずかに緩め、交差点を右折すると風圧に遠心力が加担し、運転手である直也でさえも振り落とされそうになる。直也にしがみついているだけのライは、さらにその恐怖を覚えていることだろう。彼女の腕にこもった力がそのことを雄弁に物語っていた。

 幸か不幸か道は空いていた。だから、風による妨害を受けながらも以前より少し早く到着することができた。ゆっくりとしたスピードで路地に侵入し、目的地の前で停車する。周囲を素早く見回し、感覚を研ぎ澄ますが、追手の気配はなかった。もう1度後方を確認してから、ヘルメットを頭から取り去る。

 向かい側に立つ蝙蝠のマークを掲げたボロアパートを一瞥してから、赤い屋根と白い外装をもつライ曰く"ピアノの先生が住んでいそうな家"の前に立った。ライもヘルメットを脱ぐと、直也の隣に並んだ。

「この家、昨日も行ったじゃないか。また冷たくあしらわれにきたのか?」

「やっぱお前もそう思ってたか。ま、突然押しかけて迷惑だってのは自覚してるけど、それにしてもあの態度は臭う」

 直也は玄関に足を進めた。あの女性のあまりにぞんざいな態度も疑いの要素として無論あったが、彼女の甲に貼られた絆創膏にも引っ掛かりを感じていた。ただのけがとして済ますこともできるが、何か妙だと直也は胸騒ぎを覚えていた。理由はない。これが探偵の勘というものなのかもしれないなと、心の中で苦笑する。

「でも、昨日行ったばかりじゃないか。絶対、怒られる。サンマぶつけられるかもしれない」

「ま、一応、トヨさんに頼まれて軽く家の中を見てくるように言われた、っていうこじ付けは考えてきたけどな。鉈橋の家族が、トヨさんにしか教えていない場所に資料を残していたからそれを回収しにきた、とかでもいいな。まぁ、状況に応じてどうにでもなるさ」

「適当だなぁ。もうちょい考えて行動しろよ」

「お前だけには、言われたくないけどな」

 色とりどりの花が綺麗に整列している脇を通り抜け、玄関に近づいた。チャイムを1つ鳴らす。だが、しばらく待っても何の反応も返ってはこなかった。

 さらに1分ほど時間をおいて、チャイムを二度三度と押す。しかし変化はない。轟々と唸る風に包まれながら、その白亜の家は沈黙を守り続けている。

 直也は風に吹きつけられて横倒しになっている小さな花々にちらりと目をやってから、思い切ってドアノブを掴んだ。装飾のついた金色のノブはどこか豪奢な雰囲気がある。まさかな、と思いつつそのまま手首を捻る。するとこちらが驚いてしまうほどの呆気なさで、そのドアノブは最後まで回り切ってしまった。引くと、当然のことながらドアが開く。

「マジかよ……」

 直也は思わず声を漏らしてしまった。これは罠なのか、それともただのミスなのか。どちらも同じくらいの確率であり得る気がしてしまい、直也は躊躇する。1センチほど開いたドアの細い隙間が、「入ってこれるなら来てみな」と誘っているような気さえした。その不吉な予感を気のせいで済ましていいものかどうかは、実に難しいところだった。

 ところがそんな直也の迷いを踏み越えるかのように、横やりから出てきたライの手はそのドアを全開にした。勢いに圧されて後ずさる直也の目の前で、ライは玄関への侵入を果たしている。

「おい、お前待てよ! おい!」

 直也もまたドアを潜り抜け、彼女を追いかけた。家の中に足を踏み込んだのと同時に風の直撃を浴びて、背後でドアが勝手に閉まる。

 直也は家の中に響き渡ったけたたましい音に首をすくめると退路が絶たれた事を振り返って確認し、嘆息した。実際には鍵が閉まっていないため、これからでも出ていくことは可能だが、この状況でもはや引き返す選択肢はないだろう。願わずも中に入ってしまったのなら、もはや前に進むしかないのではないか。それが自分の行動原理であることを、直也は不意に思い出す。

「こんにちは。失礼します。昨日もおじゃました者なんですが、どなたかいらっしゃいませんか」

 家の隅々まで届くように大声を出すが、やはり反応はない。一方、返事を待つ直也の前でライは靴をたたきに脱ぎ捨てると、堂々と家の中にあがりはじめた。挨拶もなく、靴を揃えることもせず、そんな傍若無人な彼女の振る舞いに直也は当惑を通り越して呆れた。血の繋がりがなくてもやはりあの男の娘か、と今更ながらに納得する。腰を屈めてライの靴を揃えてやりながら、直也は彼女の後姿を睨んだ。

「お前なぁ。あんま勝手なことすんなよ。危険なんだって言ったろうが。俺の指示を聞けよ」

「ドアのカギを閉めない方にも責任があるって言ったのは、おっさんじゃないか。それにあんなところで突っ立ってたって、しょうがないだろ。せっかく来たんだからさ」

「だからそういうことじゃねぇって。何度も言うけど、もうちょい話聞けよ」

「分かった分かった。でも楽しいな、こういうの。なんかスパイ作戦みたいな感じじゃん」

 ライはわざとらしくつま先立ちでそろそろと歩きながら、映画のBGMらしきフレーズを口ずさんでいる。直也も靴を脱ぎ、おじゃましますと誰にともなく断りを入れた後で、彼女の後を追った。

「おい。これは遊びじゃねぇんだぞ。お前は外で待ってろ。ここから先は何があるのか分からない」

 発する声も自然と囁くようなものになる。その声はライの耳に届きはしたようだが、直也からの忠告を聞くつもりは毛頭ないらしく、「そうそう。ここがリビングなんだよな」と言って彼女は手近にあったドアを開いた。

「おい! 勝手なことすんなって言っただろうが!」

 強い語調で囁きながら直也は、ドアの向こうに消えていくライに続く。向こう見ずな彼女のことが心配であったし、全く自分の話に聞く耳をもってくれないことに怒りも抱いてはいたが、こちらが後手後手に回っていることに焦りを感じていたのもまた事実だった。

 ライは直也が生きていく中で捨ててきてしまった大事なものを、たくさん持っている。いわば、昔の自分を映し出す鏡だった。ライに置いてけぼりをくらうことは、昔の自分に負けるかのようで許せなかった。

 ライによって開け放たれた部屋は、まさしくリビングだった。皮のソファーに、四角いテーブル。プラズマテレビにキャビネット。キャビネットの上にはレース状の布きれが敷かれ、熊のぬいぐるみがずらりと並んでいた。基本的な調度品はどうやらこの一部屋だけで揃っているようだ。

 直也は愕然としながらライを見下ろさずにはいられない。彼女はこのドアを開ける前から、中がリビングであることを言い当てた。しかもこの家について事前に把握していたかのような言動をみせたのはこれが初めてではない。昨日も、ライは茂みの中に隠れていたゴムボールを探り当てた。加えて、そのボールを見るなり懐かしい、と呟いていた。

 足を踏み入れ、きょろきょろと目を輝かせて室内を見渡す彼女を見やりながら、さらに直也は写真に映った鉈橋そらのことを思い出す。

 黒城に拾われたと自称するライ。3年前に事故で亡くなった少女とまったく同じ相貌をもっており、しかも鉈橋家に関する記憶を持っている。その正体は一体何者なのか。直也は探る目つきになり、部屋の入り口で立ったままライを遠目で見つめる。

「それにしてきったない部屋だよなー。私の部屋でもここまではいかないって」

 ライの発言に直也は同意した。テーブルの上には潰れたビール缶が散乱している。その缶に紛れるように腕時計が放られていた。部屋の片隅にはゴミ袋が3、4つ放置されたままとなっておりそこから異臭が漂っていた。フローリングの床には目に見えるくらい大きな埃の塊が転がっている。まともな生活を送っている人間の部屋ではないな、と直也は玄関にいたときよりもさらに濃い不穏を嗅ぎとった。

「確かにひっでぇなこれは……。どうやらあの女性以外にも、男が住んでるらしいな」

 直也は壁から背中をひきはがし、室内を歩きまわりながら言った。様々な色のリボンをつけた熊のぬいぐるみたちをいじっていたライはその言葉に振り返る。

「なんでそんなこと分かるんだよ」

「テーブルの上に腕時計あるだろ。あれは男物だ。しかも確かあれはブランドものだからな、それなりに裕福な男だって分かる。あの女性と男がどういう関係にあるのかまでは分からないけどな」

「そっかー。で、おっさんは何探しに来たんだよ、そもそもこの家に。これじゃまるで泥棒みたいじゃないかよ!」

「片足突っ込んでるだろもう。ちょっとある事件との関連性を調べたいだけだよ。探偵の仕事っちゃ仕事だけど、趣味っちゃ趣味だな」

「ふーん。嫌な趣味だな」

「お前だってさっきまで楽しんでただろうが。それに制止振り切ってここまできたのは、お前だ」

 喋りながら直也はソファーの背もたれに手をかけ、テーブルの下を覗き込んだ。すると大量の埃に混じって、何か綿毛のようなものが見えた。気にかかり、腕を伸ばす。腰を折る体勢でテーブルの下に肩まで潜り込ませ、それを指先で手繰り寄せる。そして吐息1つでも舞いあがっていってしまいそうなそれをしっかりと手の中で握りしめると、身を起こした。手首に貼りついた埃を摘んで捨ててから、慎重に掌を開く。

 次の瞬間、直也は絶句した。目を丸くし、息を止める。全身が緊張し、まるで金縛りにでもあったかのように指先1つも動かせなくなった。

 テーブルの下から拾い上げたのは、鳥の羽根だった。

 親指に乗ってしまうくらい小さなものだ。遠目には糸くずのようにも見える。それが羽毛だと気付いたのは、表面に脂混じりのてかりがあったからだった。布団や枕から漏れたものではなく、確かにそれは、つい先ほど生き物から抜け落ちたばかりの、生きた羽根だった。

 直也が二の句を継げなくなるほどに驚愕したのは、その羽の色が黒だったからだ。

 昨日、あきらの口から幾度となく、"黄金の鳥"という単語を聞いた後だからであろうか、その羽を見た瞬間、直也の頭にはすんなりと"黒い鳥"の三文字が浮かび上がってきた。

 黒い鳥。それは二条が逃げ際に呟いた単語。黄金の鳥との関わりは未だ分からない。

 黒い鳥。それは咲がもつ痣。同じものが二条にもあった。痣の大きさと刻まれた位置さえ違うものの、双方ともまったく同じ形状をしていた。

 黒い鳥。それはとある企業の社長が見つけた、成功の秘訣。幸せの黒い鳥と彼自身が称したその正体は定かでないが、それを入手したことにより人生が変わったとまでインタビューでは答えていた。結果会社はその数年後に倒産するものの、1人の男を頂点にまで押し上げたという意味では、その力は本物なのかもしれない。

 黒い鳥。それはライに刺さった羽。ナインによって投擲され、彼女の首筋に深々と突き立てられた。はずだったもの。実際には羽は消失し、いまだにその所在は分かっていない。

「黒い鳥……」

 直也は口に出しながら、ゆっくりと首を捻る。

 心臓が高鳴る。

 額に汗が浮く。

 視線の先には隣の部屋へと続く襖があった。フローリングの部屋にぽつんと立つ襖は、どこか不気味な印象がある。その襖の先からおぞましいほどの瘴気を感じた。直也は手の中の羽を一瞥した後で、意を決してそちらに足を踏み出した。一歩、一歩と襖に近づくたび、全身が気だるく、重たくなっていくのを感じる。

「黒い鳥の、羽……」

 直也はズボンで手の汗を拭うと、襖に腕を伸ばした。指先が震える。この襖の向こうにある何かに並みならぬ恐怖を覚えていることは自覚していたが、それでも好奇心を抑えることはできなかった。この先に求めていた謎の答えが待っている。考えるだけで、胸が震えた。

 咲を殺した犯人も、怪人を生み出した根源も、そこには待っている。根拠はないが、強い予感はあった。

「黒い、鳥」

 深呼吸を1つ。それか襖に手をかける。自分の心音が耳の奥から聞こえてくる。粘りつくような静寂が身をつまむ。背後でキャビネットをいじっているライがひどく遠くに感じられる。

 直也は息を浅く吐き出すと同時に、襖を開け放った。

 それとほぼ同じタイミングで、少女の甲高い悲鳴があがった。振り向くと、そこには麦わら帽子を被った女性の腕によって、首を絞めあげられているライの姿があった。

 直也はしばし、呆然とその状況に釘付けとなる。あまりに唐突な展開に、頭がついていかない。女性はライの腹を小突き、気を失わせる。ライは女性の足元に力なく崩れ落ちた。白い涼しげなワンピースを纏った麦わら帽子の女性は、崩れ落ちる彼女を見下ろしながら、真っ赤な口紅の引かれた唇を緩めた。

「ライ!」

 慌てて駆け寄ろうとする直也を、女性は突き出した片手でこれ以上の接近を制するようにする。相変わらず女性の表情には喜色の色が浮かんでいた。

「なんだお前は……!」

 女性の全身から滲み出る迫力に圧され、直也は足を止めた。女性は直也の言葉を耳にすると、帽子のつばをいじりながら口を尖らせた。

「他人の家に勝手に入っておいて、その言い草はないでしょう。そのセリフをあなたたちにそのままお返しします。この泥棒たちめ!」

 女性の口調には刺があったものの、言っていることは至極正論だ。この状況では、勝手に人の家にあがりこんだ直也とライの方に非があることは明らかだ。反論できず、口ごもる直也の前で女性は気を失っているライの背中を踏みつけた。その瞳が金に染め上げられていく。

「あれだけナインが警告したというのに、ここまで入り込んでくるなんて。呆れて物も言えませんね。そんなに命を粗末にしたいのならば、ここで終わらせてさしあげましょう」

「なに……!」

 瞳の色の変化に引きずられるようにして、女性の姿が変貌を遂げる。人間としてのイメージが崩れ、どろどろに溶け、空気の色が混じり合うようにしてその体が怪人へと変化する。

 現れたのは、胴体に鷲の剥製をそのまま乗せたような外見をもつ怪人だった。それはあの草の生い茂る裏路地で、ナインを助太刀するかのように現れた怪人だった。一度見たら二度と忘れることなどできない、視覚的なインパクトに溢れている。あきらによって胴体から真っ二つにされたはずだったが、その怪人は何事もなかったかのように直也の前にいて、当たり前のようにこの部屋でライを踏みつけていた。確か名前は、グリフィンだとかいっていた覚えがある。

 続けて直也とライが先ほど入ってきたドアが開き、ひたひたと足音たてて、室内に一人の男が入ってきた。尖った頬に一重まぶた。枯れ枝のような痩身。乾いた果実のような肌を持つ男だった。年齢はおそらく50を超えたあたりだろう。その男の相貌を見た瞬間、直也の頭にマムシ、という言葉が過る。そのイメージを確固たるものとするかのように彼は舌をちろちろと、唇の端に這わせていた。

 男はライに視線を向けるなり、瞠目した。それから口元を歪める。「なるほど」と含み笑いを浮かべながら周囲の反応を置き去りにして、なにやら1人で納得している。男は口の中に含むようにぶつくさと何事かを呟いている。

「なるほど。少々驚いたが、人間型か」

 直也も無意識のうちに彼の視線の先を追う。つい先ほどまでの騒いでいた様子が嘘のように、ライは寝息すらたてず、胎児のように背をわずかに曲げた姿勢で倒れ伏していた。僅かに胸が上下していることに、安心する。まだ息のある証拠だった。

 グリフィンは足の裏でライの感触を確かめるようにしながら、男に顔を向ける。

「私も最初は驚きましたよ。もしや姉かと勘違いしかけましたが……近くに行ってみれば、なんてことはありませんでした」

「この世に偶然は数多くある。まさかもう1度、この場で出会うことになるとは思いもしなかった」

「同感です。私も甘い。思わず手加減をしてしまいました」

「まぁ、いいだろう。せっかくの客人だ。ただ殺してしまったのでは面白くない」

 男とグリフィンの話す会話の内容を直也は1つも理解できない。

 迷った末、ライに視線をやる。彼女の指は、先ほどからひくひくと痙攣するように動いていた。だが直也の意識は、ライの影に持っていかれた。

 その影に波紋が広がっているのを見て、直也は唖然とした。目を擦るが、現実は変わらない。まるで湖畔に小石を投じた後のように、または干したシーツが風に煽られ揺れるように、ライの影はたるみ、波打っていた。その輪郭が震え、おぼろげな像をフローリングに映し出している。寝ている人間の影がこんな動きをするものか、とCG作品でも観ているような気分になる。

 顎を撫でやってなにやら思考していた男は身を屈めると、腕を伸ばし、怪人の足の下にいるライの頬に手を伸ばした。その頬を、醜く変形した人差し指の爪で引っ掻く。彼女の濁り気のない肌に赤い線が引かれ、そこからじわりじわりと出血が始まった。指先でその真っ赤な血を掬うと、男は調味料の味見をするように、自身の指に付着したライの血を舌で舐め上げた。

「血が出るということは、かなりの上級ということか……なるほど。私は最近非常に、運が強いようだ」

 男の顔が、ライからこちらに向く。直也は弾かれたように動き、素早く構えた。右腕を尻ポケットに回し、その中に入っているオウガのプレートを指先で掴む。男は鬱屈とした感情を存分に込めたような眼差しで、直也の顔を舐めるように見つめた。

「やあ。我が家にとんだ珍入者だ。君のことはよく知っているよ。坂井直也。オウガの持ち主だろう?」

 突然、顔も知らぬ男に自分のフルネームを言いあてられ、さらにオウガの名も出され、直也は腕を捻った体勢のまま硬直した。なぜ俺の名前を、と問い返す前に男の口がすかさず動いた。

「私の死体コレクションを見つけてくれたのは、君だろう。知っているさ。一度、顔を拝みたいとは思っていたが、まさかそちらからきてくれるとはな。正直、驚きだ」

「死体、コレクション?」

 直也は声を震わせ、その口にするのもおぞましい単語を聞き返す。すると男はにたりと、唇をゆがませるようにして笑った。その相貌に、さらに直也はゾッとする。

「あの屋敷の地下に隠しておいた死体を明るみに出されたときには動揺もあったが……まぁ、些細なことだ。そんなことよりもこの場において大切なのは、この家に憐れなネズミが紛れ込んだということのほうだろうからね」

「地下、死体」

 直也はグリフィンと男とを見比べるようにしてから、ようやく彼の話す内容に見当がつく。あの冷凍保存された女性たちの苦しみに歪んだ表情が蘇る。その瞬間、直也の頭に光明が射した。間違いないと思うと同時に、口に出ていた。

「お前が……あの事件の犯人か。怪人を操り、女性たちを殺した」

「私も随分有名になったようだな。その通りだ坂井直也。ようやく会えて、嬉しく思うよ」

 目元に皺を寄せる男を前にし、直也は勢いよくプレートを取り出した。それからキャビネットの上に置かれた丸い鏡を一瞥する。

「お前が……!」

 直也の心に憤怒が充満していく。頭の中にどす黒い霧がひしめいていき、体温がすっと遠くなる。体の芯は凍えるようなのに、皮膚の表面は火照っている。耳の奥でぴりぴりと音がした。

「お前があんなことを! あの人たちを殺した……!」

 怒りに背を押されるようにして、直也はプレートを強く握りしめた。片手で鏡をかっさらうとそれを胸に抱いて、大股で男に歩みを進める。もはや冷静な判断などできなくなっていた。

「いかにも。まぁ、くだらないことではあるがね。彼女たちの死も、見つかったことも、私にとっては大した損害ではないからな」

「ふざけんな!」

 興奮に任せ、直也は床を蹴って飛びだした。助走をつけ、体を僅かに捻るようにし、プレートを握った拳で男に殴りかかる。しかし直也の体は、横やりから飛んできたグリフィンの空気弾によって打ち落された。直也はフローリングの床に腹を強く打ちつけ、一瞬、呼吸を奪われる。

「お前、だとは随分無礼ですねぇ。改めなさい」

 直也と男との間に立ったグリフィンは慇懃な口調で、直也をたしなめた。鷲の羽をばさばさとはためかせ、鷲の肢の部分を指でそっと撫でるようにする。

「私の父に対するこれ以上の侮辱は聞いていられませんね。ただの人間如きが。もがくことすらできないくせに」

「父親……だと……?」

 直也は激しく咳き込み、折った体をゆっくりと起こすようにしながら立ち上がった。グリフィンは背後の男の方をちらりと窺うと、その後で鷲の翼を激しく上下に動かした。両腕は胸の前で組まれている。今のやり取りでグリフィンから何かメッセージを受け取ったのか、男は首をわずかに傾げ、こちらに歩みを寄せてきた。

「いかにも。このグリフィンは私の娘。いやグリフィンだけではない、多くの怪人はこの私が産み出した息子、娘たちなのだ」

「怪人が、娘……」

 直也はグリフィンに視線をやった後で、男の顔を見た。気付かぬうちに男との距離が数センチと迫っていたので、心底驚く。足を伸ばせば相手の足を踏むことができ、手を伸ばし切らずとも相手と握手ができる。そんなところにまで、直也は男に接近を許してしまっていた。

「怪人とは人の欲の結晶だ。坂井直也。君は少し人間に対する買い被りが過ぎるようだ。真実を見せてやろう。怪人とはどのようなものなのかをね」

 男の手が素早く直也の胸の前を一閃する。にぃと片頬をあげた男の手にはオウガのプレートがあった。直也は慌てて自分の両手を確認するが、つい1秒前までその手にあったはずのプレートは忽然と姿を消していた。

「いつの間に!」

 顔をあげると、同時に直也は男に両手で掴みかかろうとした。だが相手の方が一歩早く、後ろに引いた。立ち代わるようにして飛びだしてきたグリフィンが、直也の頬を張る。かなぐり倒された直也は床を一度跳ね、先ほど開けようと試みた襖に激突した。その拍子に襖が外れ、埃を巻きあげながら倒れる。

 身を起こそうとした直也はまず、つんとした刺激臭を鼻に感じた。背筋を冷たい舌で舐め上げられたかのような感触が撫でる。後頭部にぴりぴりとした痺れを覚えながら、恐る恐る振り返った。

「君に是非見て欲しかったんだ。どうだ、素晴らしいだろう。美しいだろう。これが、人だ。生をも超越した、人の命というものだ」

 男の愉悦に歪んだ声も、直也の耳には届かない。襖の向こうに現れた和室。日の当らない、しめやかな空気に満ちた部屋。

 その部屋には無数の黒い鳥の羽がひしめいていた。あまりにその量が膨大なので、下に敷かれた畳が見えない。てらてらと暗闇で濁った輝きを放つ柔毛がところせましと敷き詰められている光景は、これ以上がないというほどにおぞましかった。

 さらに喉の奥に絡むような生臭さに、胃の中のものを戻しそうになる。内臓を内側から啄ばまれているような痛みが、体を襲う。

 その羽毛の中心に球状の何かが落ちていた。あまりに無造作に放られているので、始めは抱えるほどに巨大な豆電球にしか見えず、一体それが何なのかと思わず目を凝らす。

 次の瞬間、直也はその部屋を凝視してしまったことを後悔することになった。その球体には空虚を見つめる目があった。固く結ばれたままの唇があった。つんと飛びだした鼻があった。羽毛に混じり込む、黒い髪があった。

 それは人間の生首だった。血の気のない青白い顔。色のない唇。その瞳は埋め込まれたビー玉のように黒く濁っている。

 直也の頭にようやく理解が追いついてくる。そして気付いた。自分はあの切り取られた頭部の持ち主に見覚えがあることに。

 間違いがなかった。しかし信じられなかった。いくら頭を振ろうが、目をこすろうが、その猟奇死体は目の前から消えてはくれなかった。胃の中のものが喉元までせり上がってきて、直也は必死にそれに耐えた。頭の中が白く、霞む。

 羽毛の中に打ち捨てられた、人間の生首の正体。それはあの屋敷の地下で直也が救い出し、そしてナインによって連れ去られた――12人目の被害者の変わり果てた姿だった。




魔物の話 30

 診察室のドアが開き、ナース服に身を包んだ年配の女性看護師が顔を覗かせる。

「天村悠さん、どうぞ」

「あ、はい!」

 名前を呼ばれ、廊下の長椅子に腰かけていた悠が立ち上がる。壁に寄り掛かって彼女と会話を交わしていたレイは、看護師が消えていったドアを見つめ、目を細めた。

「今日がとりあえず、最後の診察なんだよね、そういえば。なんか、感慨深いね」

 悠の退院は気付けば明日に迫っていた。ついにここまできた、とレイは心の中で膨らんでいく歓喜を隠しきれない。様々な紆余曲折や信じられないくらいの困難はあったが、それらを乗り越え、病院以外のところでも悠と話し、遊び、触れ合うことのできる時をようやく手に入れることができる。そんな楽しい日常はもう指先に触れるところまできていて、それを思うと、浮かんでくる笑みを抑えきれなかった。

「うん。なんかちょっと寂しいかも。でも、退院できて良かった。レイちゃんともまた遊べるもん」

「私も嬉しい。そうそう。そういえばお兄さんがグァム連れて行ってくれるらしいから、みんなで行こうよ。夏休みも、あともうちょいあるし」

 一方的に約束しただけど、と内心で続ける。言ったあとで少し罪悪感を覚えたが、悠が表情をパッと明るくし、極上の笑みをみせてくれたので、そんな気持ちも吹き飛んだ。そんな悠の顔をみるだけで心に暖色の風が吹くようだった。

「グァム! 懐かしいなぁ……うん、また行きたい。絶対に行こうよ。レイちゃんもいれば、きっと前よりも、またずっとずっと楽しいよ」

「お兄さんに頼んでおくといいよ。悠のお願いなら、なんでも聞いてくれるだろうから」

「うーん、そうかなぁ」

「ちょっと言っておいてよ、『レイちゃんから、カニかまもらったら絶対食べなくちゃダメだよ、たぁくん』って、お兄さん、絶対食べてくれるだろうから」

 悠の声色を真似ると、なにそれ、と彼女は表情を綻ばせた。なんなんだろうね、とレイははぐらかす。あの時、佑が受け取ってくれなかったカニかまは、家のキッチンの流し台のところに放っておいてあるままだった。

「天村悠さーん。診察室へどうぞ」

 なかなか診察室にやって来ない患者を不審に思ったのか、再び先ほどと同じ看護師がドアの向こうから姿を現し、悠の名前を呼んだ。「天村悠さん、呼んでますよ」とわざと丁寧な口調を用いると、悠は「天村悠さん呼ばれてるね」とまるで他人事のように言った。

「まぁ、じゃあ検査頑張っておいでよ。ちょっと用事があって、検査終わるまで待っていられないのが残念だけど。影ながら応援してるから」

「うん、いいよ。レイちゃんにはレイちゃんの夏休みがあるもんね。その代わり、退院したら遊ぼうね。約束だよ」

「うん、分かった。みんなで、遊ぼう」

 約束を交わすと、悠は踵を返し、小さく手を振って診察室に歩いていった。レイも顔の前で手を振り、彼女の姿がドアの向こうに消えるのを見届けてから廊下を引き返した。

 階段を使って上のフロアに行き、悠の病室に入ると、そこに佑がいた。ベッドの上には悠の衣類が積まれている。彼は1枚1枚それらを手に取っていくと丁寧に畳み、青いボストンバックの中に次々と入れていた。

「お兄さん、来てたんですか」

 つい先ほどあのはなれで別れたばかりなのに、とレイは目を丸くする。佑もこちらを見やるなり、「レイちゃんこそ」と驚きを口にした。

「私とお兄さんは運命の赤い糸で結ばれてるのかもしれませんね、悠と」

「そりゃまるで、アメリカンクラッカーみたいだ」

 佑の喩えに、レイはカチカチと軽快な音を鳴らしてぶつかり合う、2つの球体を思い出す。70年代に流行した子どもの玩具だ。レイ自身はそんなもの見たことも、聞いたこともなかったので、おそらく魂の中で眠る父親の恋人、佳澄さんの記憶なのだろう。

「私とお兄さん、1つしか年離れてないのに喩えから加齢臭がしますね」

 レイが指摘すると、佑は「この前、テレビでやってたからさ。昭和時代特集みたいな感じのやつが。そこでかちんこちんやってたんだよ。あれ、どこが面白いんだろうな」と苦笑混じりに弁解した。受け答えをしながらも、彼の手は休まず、悠の服をバックに押し込み続けている。

 退院が明日に迫った今、佑は病室の片づけを買って出ていた。とはいっても病室を変えた際、悠自身が不要なものを全てまとめて家に送ってしまったから、それほど手間はかからない。衣類を除けば、歯ブラシやコップなど小物くらいしか残っていなかった。ボストンバック1つと紙袋がいくつかあれば、収まってしまうくらいの量である。

 退院の手続きは全て、佑がとったらしかった。彼の両親は仕事で、日本中、はたまた世界中を飛び回っているため、本来親の役目であろうそういったやり取りを、全て兄である佑が受けている。緑色のワンピースの皺を伸ばし、軽やかな手さばきで畳む佑の横顔は様々な心労が重なったためなのか、少しやつれて見えた。

 娘の退院の日くらい、帰ってくればいいのに。天村氏の柔和な、しかしどこか頼りない表情を思い出し、不信感を覚える。このままでは佑と悠が可哀想だ。

 そんな少しばかりの同情の気持ちも相まってか、レイは気付けば衣類を畳むのを手伝っていた。特に申し合わせたわけではないが、自然の成り行きで、レイが下着類を、佑が服やズボンを畳む役割に分担されていった。

 衣類の整理が完了すると、今度は小物を片付ける作業に移行する。洗面用具は今日の夜と明日の朝、まだ使う機会があるのでそのままに、筆記用具やノート、溜まったペットボトルなどを今度は紙袋に突っ込んでいく。それが終わると今度は腰を屈め、ベッドの下にある、見舞いなどで色々な人からもらった菓子折りや小物に手を伸ばした。

 大企業の幹部を務める父を持つ、立派なお嬢様である悠に対し、世間体を気にして、または儀礼的な役割で、見舞いに来る客人は数えきれないくらいいた。彼らは皆、大抵、体裁のいい菓子折りなどを片手にやってくる。競い合ったわけでもないだろうが、そのどれもが高級菓子だった。多い時には1日に何十人もの人間が悠の病室を出入りする。当然、悠の小さな体にそんなに菓子が入るわけもなく、ほとんどはこうして余らせてしまうのである。最初の頃こそ、レイはよくこのお菓子をもらっていたものだが、いい加減飽きがきたのと、友達が見舞の品としてもらったものを喜んでいる食べている自分に嫌気が差して、止めた。

 大きく膨らんだ紙袋を部屋の隅に寄せ、額に浮いた汗を拭いながら体を起こした。腰を撫でつけながら、視線を佑にやると、彼は窓の外を見やりながら呆然と立ち尽くしている。その目は真っすぐに、蒼穹に佇む雲を捉えているようだった。

 腰に走る鈍痛と共にレイはムッとし、何を片付けないでぼうっとしているのか、と文句の1つでも吐こうかと思い、口を開きかける。しかしその前に、佑が唇を動かした。レイに顔を向けることなく、窓の前に立つ見えない誰かに向かって吐きかけるかのようだった。

「なんで、怪人なんて、いるんだろうな」

 佑はくすぶるようなため息を、宙に浮かべた。視線は変わらず鋭く、窓に突き立てられたままだ。

「なんであんな奴らが、俺たちの周りにいるんだよ。おかしいだろ。みんな、早くいなくなればいいのに。そうすれば、悠も、安心して暮らせるのに」

 佑の瞳に宿る感情。それは紛れもなく、憎悪だった。怪人という人知を超えた、その理不尽な存在そのものに途方もない怒りを覚えている。彼の口から吐き出される、そのため息の深さと陰湿さにレイは胸が痛くなる。怪人ならこの部屋で、あなたと一緒に服を畳んでましたよ、などとは口が裂けても告白できなかった。

 佑の間に生まれたこの絆を、絶やしたくはない。悠に好かれたいから、などという当初あった打算的な思いはいつの日か消え、残されたのは佑に対する想いの強さだった。レイは自分が、佑に惹かれ始めていることを自覚していた。悠の兄として彼ではなく、彼本人に心が動かされ始めている。その気持ちがどうしようもなく、レイの心をくすぐった。ノミを振るい落そうと毛を震わせる犬のように、その場で軽く身じろぐと、佑が見ているのと同じ雲を見つめた。

「そのために、私たちが頑張らないと、ですよね」

 結局、今は自分の正体を隠すより他がない。もともと怪人を倒すための組織であるマスカレイダーズに入団した怪人など、その存在自体が矛盾しているのだ。今更、ごちゃごちゃ悩むことではないように思えた。今は目先の任務のことに集中するのが、吉だ。

 佑はレイの方をちらりと見やった後、そこにフェンリルのプレートが入っているのか、ジーンズのポケットを寂しげに見つめながら言った。

「……そうだな。俺も、頑張らないとな」

「お兄さんも一緒に行けないのが、残念です。怪人1体倒せるくらいの力があることは分かったのに……私からもう1度、ゴンザレスさんに言いましょうか?」

 レイの申し出に、佑はかぶりを振った。「オウガを倒すのは、フェンリルの役割だから。最初から言われてたことなんだ。約束を破るわけにはいかないよ」と寂しげに笑う。

「オウガ?」

 ゴンザレスが決死の声色で佑に語りかけていたその単語に、レイは疑問を抱く。そういえば、秋護も電話でそんなような言葉を使っていなかったか、とも思ったがうろ覚えだった。言葉の響きから、なんとなくフェンリルやファルスと同じような装甲服ではないかと勝手にイメージを膨らませる。

「ゴンザレスさんも言ってましたけど、なんなんですか、それ」

「装甲服だよ。フェンリルはその装甲服を倒すために、作られたんだ。だから自由にフェンリルを使うんだったら、その過程をお前も踏めよってゴンザレスさんは言ってる。俺は無理やり入団させてもらった身だし、文句はいえないだろ」

 レイは自分の予想が見事に的中したことに、驚いた。そし彼の話を聞いているうち、あることを不思議に思う。マスカレイダーが生みだした装甲服同士が戦わなければならないという理屈が何だか解せなかったのだ。しかしその疑問を口に出すのは、止めておいた。その辺の理由は佑の口ぶりからして、彼も知らない可能性が高かったし、それにここで慌てて尋ねる必要性も感じなかった。それよりも、訊きたいことがたくさんあった。

「居場所とか、分かるんですか? というか、誰が持ってるんですか、それ」

 すると、佑はジーンズの左ポケットをまさぐり、中から正方形の機械を取り出した。それを自分から離すように、腕を伸ばして、レイに突き出す。レイは彼に近づき、その機械を覗き込んだ。機械の中央に液晶画面があり、その中にここ一帯の地図が表示されているのが見えた。隅の方で、緑色の点が絶えず明滅を繰り返している。それはトヨがファルスを探すために用いた機械と、実によく似ていた。

「この点滅しているところが、オウガのある場所だ」

 佑は画面上の右色の点を、人差し指で小突いた。

「プレートにレーダーが仕掛けてあって、オウガの居場所をいつでも探れるようになってる。これをみると、今は埼玉にいるらしい」

「埼玉?」

 レイは眉間に皺を寄せた。通りで、見たことのない場所だと思っていた。液晶画面に表示されている範囲を探しても、見覚えのある道や建物は発見できない。

「そこまで、どうやって行くんですか。もしかして、徒歩?」

「なんか、バイクで連れていってくれるみたいだよ。マスカレイダーズにそういう人がいるって、ゴンザレスさんが言ってた。とりあえずそれでいいから行って来い、って」

「ははぁ」

 眉間に刻んだ皺を、レイはさらに深くする。マスカレイダーズ、そしてバイク。その2つから連想される人物は、あの男の他にいなかった。拓也、黒城、狩沢がこちらの任務に携わってしまう以上、手が空いているのは確かに彼ぐらいしかいない。

「それは、災難ですね」

 あの男の頭の後ろで揺れるバンダナの結び目を思い出しながら、レイは佑を慰めた。「御愁傷様です」とさらに続けると、佑は要領を得ないのか軽く首を傾げた。

「それで、オウガを持っている人って誰なのか、分かってるんですか?」

「……いや、分からない。俺は今から顔も名前も分からない、俺とは全然無関係な人を、傷つけにいくんだ」

 佑の語調には苦痛がふんだんに込められており、レイは何も言えなくなる。彼の憔悴した様子も手伝って、その姿は非常に痛々しかった。彼は拳を、絞めつける音がするほどに固く握った。

「正直、辛い。俺が装甲服を手に入れたのは、マスカレイダーズに入ったのは、怪人を倒すためなのに……人を、傷つけるためじゃないのに」

「お兄さん……」

 悲愴を顕わにする佑に対し、何と声をかけていいものか、レイには分からなかった。迂闊な言葉をかけてしまえば、この場で彼の心が砕け散ってしまいそうで恐ろしかった。彼の身から広がる、暗褐色のオーラが床を伝い、ベッドを昇り、天井に広がって、部屋中を舐めまわすようだった。レイの心もまた小さな痛みを伴って、疼きだす。伝播した彼の痛みが、レイをどうしようもなく心細い気分にさせた。

「でも、やるしかないんだ。やらなきゃ、悠も、レイちゃんも、みんなも、守れない。そのためだったら、俺は心を捨てられる。オウガと、戦える」

 佑は顔を上げた。動きの止まっていない天秤のような不安定さはまだあったが、その目には己の信念を貫き通すことを誓う力強さがあった。レイの萎んだ心に、彼の熱意が吹き込まれていく。レイは佑から目を離せず、その表情に釘付けになる。瞳が凝り、息が詰まった。

「だから、レイちゃん。死なないで。元気にまた、帰ってきて。オウガをたとえ倒しても、レイちゃんがいないんじゃ、意味がないんだよ」

 佑の視線は揺るがない。レイを真っ直ぐに射抜いていた。その気持ちに圧されるように、レイはぼんやりとしたまま首を何度か縦に振っている。顔が熱く、心臓は普段とは違ったリズムを刻んでいる。

「良かった」

 佑は柔らかくほほ笑んだ。あの、悠と瓜二つの魅力的な笑顔だ。レイは自分の心音がさらに1つ、高鳴るのを感じた。頭の中が白く染まる。

「俺も頑張るから、レイちゃんも、頑張って。またここで絶対に会おう。約束だ」

 佑は拳をレイの前に突き出した。2秒ほど遅れてレイはその仕草の意図に気付き、慌てる。レイも丸めた手を差し出すと、佑の拳とぶつけ合わせた。ゴツン、と骨と骨とが触れ合う音が響く。互いの指に浮きあがった夏の汗が、それぞれ相手の手に伝わっていく。じめっとした相手の皮膚の湿りが移ってくる。その湿り気はけして心地いいものではなかったが、互いの体温を確かめ合うその瞬間をレイはたまらなく愛しく感じた。

「はい、言われなくても分かってます。お兄さんこそ、ライブが近いんですから、けがしないでくださいね」

 レイが小声で忠告すると、佑は照れくさそうに苦笑して自分の左手に視線を落とした。親指から小指まで、順々に、屈折を確かめるようにゆっくりと曲げていく。最後に5本を揃え、固く握りしめると、彼は強く頷いた。

「お兄さんのギター、楽しみにしてるんですから。左手をけがしてもう引けない! とか言い出したら、怒りますよ。カニかまを食べてもらいますから」

「……あぁ、分かった。あのカニかまは食べたくないし、そういう意味でも、心に留めとくよ」

「お兄さんが帰ってこなかったら、悠も、私も寂しいから。だから、こっちからも約束しときます」

 また、この場所で。拳を突き合わせたレイと佑はそれぞれの想いを胸に宿しながら、互いの無事を祈り、誓い合った。

 そしてその数分後、2人はそれぞれの戦いに向け、準備を進めることとなる。




鎧の話 29

「嘘だ……」

 直也は腰を砕き、へたりこんだ姿勢で、生首を前に震えた。光を失った2つの瞳はこちらを執拗に責めたて、怨嗟を滾らせながら睨んでいるかのようだった。

 心が、身体が、目の前にある現実を拒絶する。いまだにこの状況が夢か真か判断できずにいる。黒く滲んだ視界の端を走馬灯のように景色が流れていく。

 冷たく死の匂い漂う地下室で生を叫んだ彼女はまるで、暗闇を照らす蝋燭の灯りのようだった。地下室で傷だらけになり、怯えきっていた姿。公園のベンチで嬉しそうに友達を待つ姿。父親のことを想う気持ちに溢れた、丸文字の文面。あの女性と顔を合わせた回数は2桁にも満たないが、それでも、直也はあまりに理不尽な不幸に見舞われてしまった彼女が、幸せになるよう心の底から願ってきたつもりだった。

「嘘だ……嘘だ……!」

 しかし彼女に関する色鮮やかな映像はやがて途切れ、色を失ったモノクロと化し、滲んでいってしまう。次に直也の眼に映るのは、体から下を失い、光も表情も感情すら失った女性。直也は頭を抱えると天井目がけ、掠れた慟哭をあげた。

「嘘だ!」

 自身への悔恨と罪悪感に心がひしゃげそうになる。爪を畳に食いこませ、肩で息をしながら、胸にたまっているものを全て吐き出そうとする。溢れだした感情の奔流に取りこまれそうになる直也を男が正面から覗き込む。腰を屈め、直也の目をじっと見つめ返し、嫌味たらしく笑う。

「君の行いはけして無駄ではない。しかし、あの地下室で彼女を助けたことは。彼女自身を苦しませただけだったというわけだ。おぼろげな希望をみせておいてそれから絶望に突き落とすとは、なかなかの外道ぶりじゃあないか」

 直也の心に、土石流のように純度の高い、ある感情が流れ込んだ。直也は掌に自分の爪を突き立て、そのまま固く拳を握りしめた。全身がくまなく震顫している。抑えられず、止められず、直也は滑るように飛びだすと間近に立つ男目がけて拳を打ち放った。

 だがまたしても、その一撃が男に見舞われることはなかった。拳が男に届く前に、直也の体はグリフィンに蹴り飛ばされたからだ。胸につまさきをうずめられ、宙を浮いた直也の体は背中から和室の奥のほうに落下する。したたかに背中を打ち付け、呻き声をあげる直也に鳥の影が重なった。鷲の頭のグリフィスがこちらを推し量るように見下ろしていた。

「何度言っても分からないようですね。父にこれ以上、無礼を働くというのならばこちらにも考えがありますよ」

 そう言って直也の前にグリフィンがかざしたのは、その怪人の腕に捕えられたライだった。ライは首を掴まれ、ぶらぶらと畳から10センチほど離れた中空で揺れている。

「この子をそこの生首と同じ目に合わせたくなければ、父に従いなさい。さもなくば、どうなることか……」

 聞く人の精神を嬲るような、たっぷりと抑揚を付けた声をグリフィンは発する。その手に力がこもっていく。ギリギリと音を立てて、ライの首が固く閉めあげられていく。眉間の皺が深くなり、彼女の表情にもみるみる苦悶が広がっていく。

「ライ! おいお前、やめろ!」

「この苦しげな表情……実にそそる。生と死の境界線ってところか。私は人間のこの瞬間が大好きでね。魂が最も美しい輝きをみせるこの時を、待ち望んでいるのだ」

 苦しげに喘ぐライを舐めるように見つめながら、男が昂揚した調子で言う。男の眼差し、そしてその声色からは凍えるほどの狂気が剥き出しになっていた。

「この子も首をねじ切ってやったら、さぞいい声で鳴いてくれるだろうなぁ。実に懐かしい。またあの声をこの耳に焼き付けたい。同じ顔なら、きっとあのときの興奮を呼び覚ましてくれるはずだ」

 起き上がろうとした直也の体を、グリフィンは力強く踏み潰した。腹這いになった姿勢のまま、直也は身動き1つとれない。肺が圧迫されて息苦しい。指先が痺れ、感覚がなくなっていく。直也は奥歯を噛みしめながら、それでも必死にもがいた。そんな直也に、男は「そうそう」と手を叩き合わせ、「そういえばついこの間、このグリフィンは今と同じように、人を殺したんだ」と面白おかしい与太話を始めるかのように繋げた。

「男だ。うろちょろしていて、邪魔だったからグリフィンに始末してもらったのだ。男の魂を甚振る趣味はない。池袋に放置しておいたが……今日あたり、身元が判明する頃だろうか」

 まさか、と直也は思った。嫌な予感しかしなかった。このタイミングで、男が直也に全く無関係な話を振るはずがない。これはさらに直也を絶望へと突き落とす話で――そしてそこから導き出される真実は、あまりに残酷なものだった。

「見当がついたようだな」

 男は嬉しそうに言った。そしてまた背を曲げ、膝を折り、中腰の体勢になると、彼は口元に手を当てて内緒話をするかのよう小声で囁いた。

「君が助けた女性の、父親。さて、彼はどこに行ったんだろう。家にも帰っておらず、仕事にもここ何日か行っていないらしい。行方をくらました娘を探すため、旅行に出かけたのかもしれない。高い、高い、雲の向こうに」

 スーツ姿の男。片手に提げた娘へのプレゼント。待ち合わせの時間に遅れぬよう、雑踏に呑みこまれそうになりながらも、何度も腕時計を確認する仕草。それらがみんな丸ごと、直也の目の前から消えていく。胸をひしめくのは、怒りや良心の呵責といった負の感情さえもごっそりと引き抜かれたかのような、大きな喪失感だった。

「どうして……」

 直也の口から零れ出たのは、涙の混じった声だった。直也は首だけを上向かせ、こちらを見おろすグリフィンと男を赤い目で睨んだ。

「どうして、そんなことができるんだよ。あの人が、なにかしたか? あんたに迷惑かけたのか? こんな無残な殺され方するようなこと、したのかよ」

 ぜえぜえと呼吸をしながら、直也は体の片隅に溜まった感情の残りカスをかき集める。そして片腕で腰から上だけを半ば強引に起こしながら、胸の中で巨大な塊となった感情を叫び声に載せて吐きだした。

「お前は、なんなんだよ。何人苦しめて、何人殺せば気が済むんだよ!」

 身体的にも、精神的にも胸が潰れそうで声が出しづらい。それでも直也は叫んだ。感情を指先まで絞り出すようにして、その感情を槍のような形に変え、男を貫かんとする。

「みんな、みんな未来があったのに……それを踏みにじって、お前は一体、何様のつもりなんだよ!」

 男に噛みつく勢いで直也は体を揺さぶり、床の上を泳ぐようにして、男に指1本でも触れようとする。このままでは気が済まなかった。溜まった老廃物からは有毒ガスが噴出される。それと同じように、不完全燃焼した感情は胸の上でくすぶり、直也の心に切りつけるような痛みを生じさせていた。

 この男を、こいつを殺してやる。強烈な殺意が腹の底から沸きあがり、直也の身を無我夢中に動かす。もはやライが人質にとられていることも忘れていた。直也の血走った目にはマムシのような男と、その足元でゴミのように転がる女性の生首しか見えなかった。もはや冷静な感情など置き去りにして、衝動に流されるままもがき続けた。

「私が何様か、か」

 男は独りごちると、鼻を鳴らし、直也の興奮を冷やかな視線で受け止めた。彼は指を着ているワイシャツの一番上のボタンに添えると、それを1つ1つ外し始めた。

「面白い質問だ。ならばこう言っておこう。私は君と何ら変わらぬ人間だとね。ただし、今は、と付け加えよう」

 上から順々にボタンが外されていき、男の痩せた体、薄い胸板が顕わになる。角ばった体。肋骨の浮き出た腹部。黒染みの点在する荒れた肌。そしてその胸には、鳥が大きく翼を広げた形の痣。

 咲の首筋に刻まれ、二条にも残されていた痣がこの男の体にもあった。それは一寸の狂いもなく、そして間違いなく、咲と同様のものだった。

 前に乗り出した姿勢のまま固まり、唖然とする直也の前で男はポケットから何かを取り出した。それは先ほど、直也がテーブルの下で見つけたのと同じ、鳥の羽根だった。色は、黒。男は根の部分を指先で摘むと、それを直也の目の先で左右に軽く振った。

「君を生かしてはおけないが、私やグリフィンがとどめを刺すのでは芸がない。人生はいつも、変化と好奇心に満ちていなければならないからな」

 喋り始めた男の胸の痣が淡く、黒い光を放ち始めた。鳥の形をなぞるようにそれは輝きを増していき、そしてはちきれんばかりのエネルギーが周囲に拡散されていく。

 その漆黒の閃光は胸から男の腕を伝い、その手に握られた羽根へと集約されていった。今度は羽根自身が明滅を始める。光が途切れ、また浮き出る。その間隔は徐々に短くなり、ついには完全に光と化した。

 一体何が起きるのか。不安な気持ちに包まれ、いてもたってもいられなくなる直也に向けて、グリフィンはその背をぐりぐりと踏みにじりながら余裕たっぷりに笑った。

「あなたは運がいい。とくと見ておきなさい。これが、怪人の生まれる瞬間。私のきょうだいがこの世に生を授かる時です」

 男が光の中で、不気味な笑いを浮かべた。すると光の羽根から漆黒の光線が放出され、畳の上に寝転がった女性の生首に直撃する。光はドーム状に膨らんでいき、それをすっぽりと覆い隠した。羽根から発射されていた光線が止んでも、畳の上に置かれた半球状のそれが消えることはなかった。

 そして、まるで布団の中にいた誰かが起き上がろうとして掛け布団が持ち上がった時のように、光は盛り上がり始めた。縦に伸び、まるで粘土細工のようにぐにゃぐにゃと激しく光は変容し、そうやって人間じみた姿を形作っていく。

光でできた人型の何かがみるみるうちにでき上がっていき、ある程度のところで動きを止めるとやがて、その光度を薄れさせていった。

「なん、だって……」

 直也は目をこれ以上ないほどに瞠った。喉が一気に干上がり、胸の奥がすっと冷たくなった。先ほどから、というよりもここ数週間ばかり、にわかには信じ難いことばかりが続いているが、その中でも今目の前で起こった現象は格別だった。

 晴れた光の中に、生首はなくなっていた。代わりに人の形をしたシルエットが立っていた。緑色の体色と顔面から胸部にかけて埋め込まれた扇風機が特徴的な怪人だった。右の親指の爪だけが異様に長い。口はまるで蟻のように、くの字型に鋭く尖っていた。

「怪人に必要なのは、親と、死体と、黒い鳥。そして私たちが持つイメージ。すなわち欲望だけだ」

 男が自分のこめかみを親指の爪で引っ掻く。その仕草に応じたのかは不明だが、光の中から生まれた怪人は、腕を伸ばし、直也の襟首を掴むと豪快に持ち上げた。グリフィンはすでに横に避け、痛めつけられている直也を含み笑いで観察している。

 怪人は片方の口角だけを上げ、歪な笑みを浮かべている。その細腕からは想像もつかないほどに腕力は高く、直也の口からは掠れた吐息だけが零れていく。

「驚いただろ? それが怪人だ。私がイメージした。なかなかセンスがいいだろう」

 イメージ? 直也は酸素の足りなくなった頭で、男の発する言葉1つ1つを脳内に留める。さらに男は先ほど、怪人には死体が必要とも言っていた。

 死体。氷漬けの死体。バスの事故で体の各部を損失した死体。さらわれた女性たち。彼女たちからもまた、腕や眼球など多種多様な部分が欠けていた。そして先ほどまでこの部屋に置かれていた女性頭部。いま、その死体は消失し、代わりにこの怪人が姿を現して――。

「まさか……」

 直也は喉の奥から絞り出すようにして、ようやく声をあげた。なぜあの地下室に安置されていた死体からは、体の一部が取り除かれていたのか。なぜこの男は女性たちを殺害していたのか。怪人とは何か。どこから生まれるのか。その謎が徐々に、直也の中で氷解していく。

「まさか、あの死体を使って怪人は作られていたのか? それを可能にしているのが、黒い鳥なのか?」

 黒い鳥。欠けた死体。死んだ人間が蘇る現象。真っ黒なベールで包まれ、単なる独立した点として存在していた多くの情報が、全て綺麗な1本の線で繋がっていく。

 涎を垂らしながら怪人は、直也を力の限り投げ飛ばした。畳に叩きつけられ、全身を揺さぶられるような痛みを覚えながらも、直也は鮮明になっていく頭の中の映像に引きずられるようにして、身を起こした。それから顔をあげ、こちらに無表情な視線を向けてくる男と向き合い、1つ身震いした。

 推理が正しいなら、それはもはや人間の所業ではない。命を理不尽に奪ったあげく、その死体を蹂躙し、己のしもべとして操り、別の命を刈るための道具にする。そしてそれを成した本人は罪に溺れることも、罰を受けることもなく、悠々と笑いながら生きている。

 狂っていると思った。この男が直也を見つめてくることに、目眩すら覚えた。もはや怒りすら浮かんではこない。悪魔を前にしたかのような、絶対的な戦慄が頭の先からつまさきまで駆け抜ける。

「そうだ、当たりだ」

 男は直也を指差し、その後で、緑色の体色をもつ怪人の肩を叩いた。怪人は苦しげに身を揺すり、恐る恐るといった調子で男を見た。その姿は明らかに怯えていた。

「君が救ったあの女性。その生首から作りだしたのが、この怪人だ。どうだろう。気にいってくれただろうか。生前よりもずっと美しくなったと思うんだがね」

 怪人は青い瞳で直也を見た。その視線から伝わってくる深い悲愴、諦念の感情に直也の全身から力が抜けた。姿形は大きく変わってしまっても、直也には分かった。この怪人は、あの女性と同じ匂いを持っている。男の言うことは、嘘ではない。両手を上げ、怪人が天井目がけて目がけて発する獣の唸り声は、あの女性が泣いているようにしか聞こえなかった。

 そのあまりの悲しみの深さに身動きのとれなくなる直也に向かって、男はさらに講釈を続けた。

「死体が怪人といっても、にわかには信じ難いかもしれないが……このグリフィンなら、分かりやすい。君は先ほど、こいつが人間の姿から怪人になったのを目にしただろう」

 男はグリフィンに目をやった。直也の目も自然にそちらに向く。

「あの人間は、グリフィンの生前の姿だ。生前の記憶も持っている。最近作り出したんだがね。どうだ、面白いだろう?」

「なんだと……」

 直也も反射的にグリフィンを見た。男は両手を掲げ、神からの啓示を謳う宗教家じみたポーズをとる。

「彼女の名前は忘れたが、確か去年、長野で出会ったことだけは覚えている」

 彼の眼がスッと細くなる。それはまるで、つい最近のことを思い出すような顔つきだった。

「彼女は大きな果樹園を経営する家に嫁いだ娘のようだった。もちろん、赤の他人である私に詳しい素性など知る由もないがね。ただ、青いツナギを身に纏った彼女はかごにいっぱいのミカンを抱え、同じ年くらいの男と楽しげに歩いていた。その様子は、幸せそのもので……」

 男はそこで一旦、言葉を切った。それから目を一層輝かせ、悪戯をした子どもがするような仕草で、ちろりと舌を出した。大の大人がみせるその幼稚な姿は、不相応の極みであり、ひどく不気味だった。

「だから私は彼女を、解剖してみたいと思った」

 笑顔を浮かべる男は、実に愉しげだった。話の内容と、男の語調のアンバランスさに直也は全身の体温が急激に下がったような感覚に陥る。

「二条君を使って彼女の足を止めさせ、1人になったところを狙って、車で撥ねた。気を失ったところで金槌で、頭を割って殺した。あまり首から下を傷つけたくはなかったからな。そしてバラバラにしたあと、死体を切り取って怪人にした。右足だっただろうか。とにかく、そうやって彼女は蘇った。このグリフィンという怪人としてね」

 グリフィンはなぜか咳払いをし、照れくさそうに男を見やった。男の話を聞くなり、最初に直也の頭に蘇ったのはセーラー服姿の少女、地下室で死んでいたはずの滋野アヤメの姿だった。なるほどそういうことか、と得心する。ようやく謎は解けた。しかし、爽快感は一切覚えなかった。捉えどころのない気持ち悪いものが胸で渦巻いているようだった。

「あんたは、狂ってる」

 精一杯の侮辱を吐くが、男に効いている様子はない。彼は微笑みすら湛えて、直也の発言を受け流した。

「そういえば、君はこの痣に見覚えがあるようだったな。最初これを見せたとき、君の表情が明らかに変わったように思えた」

 男ははだけさせたままの自分の胸を、掌で丸く撫でた。そこには翼を大きく広げた、鳥の痣がある。それはもう光を放ってはおらず、沈黙を守りながら彼の肌の上に貼りついていた。

「この痣をどこで見かけたのかは知らないが……1つだけ言えることがある。この痣があるということは、その人物もこの私と同じように、死体から怪人を作りだしたということだ」

 男が口にした結論は、何となく読めてはいた。怪人が生み出される時、この痣が激しい反応を示していたことは記憶に新しい。もしやあの痣が怪人を作り出す起因となっているのでは、という説を予測していなかったわけではない。

 ただ、考えなくなかっただけだ。信じたくなかっただけだ。自分の推理を自身で打ち消すことにはなるが、そうでなければいいのにとすら考えていた。咲の首筋に刻まれた鳥の痣。怪人を操る二条や、目の前で怪人を生み出したこの男とまったく同じ痣。

 咲は一体、直也の預かり知らぬところでなにをしていた? 死体をこねくりまわして、怪人を生み出し、また別の人間の命を蹂躙する。

 それが男の語る黒い鳥の使い方。そして痣を持つ者が犯した、罪の内容だった。それは直也の持つ咲のイメージとはかけ離れ過ぎていた。バカな、としか思えない。咲がそんなことをするわけがない、と激しく頭を振る。しかし頭の中にこびりついた、咲の痣の映像は消えてくれなくて、さらに直也を苦しめた。

「さて、君の知っているその人物は一体誰を殺して、どんな怪人を作ったのだろうか」

 男は直也の心を弄ぶように、浮足立った口調で言う。軽いスキップすら踏んで、直也の周りをうろうろと歩きまわっている。

「これで分かっただろう。怪人を作るのも、また人だ。君が信じていた人間なんだよ、坂井直也。人の欲が怪人を作り、そして人を殺す。絶望したか? なら、ここまでしてやった甲斐というものがあるんだがね」

 緑色の怪人が腹の底に響くような唸り声をあげながら、直也の頭を鷲掴みにした。精神的な揺さぶりをかけられ、身も心も満身創痍だった直也は抵抗すらできず、怪人に掴まれ壁に背中を押しつけられた。怪人が唸る度、その口からは粘り気のある唾液が飛び、顔にかかる。怪人の2つの目が、直也を悲しげに見つめる。息を切らす直也の目からは、一筋の涙が流れていった。

「……ごめんな。本当に最後まで助けてやれなくて、ごめん。苦しいだろ、辛いだろ? そんな目に合わせちゃって……本当に、悪い」

 嗚咽混じりの謝罪も怪人には届かない。怪人は腕を後ろに大きく引き、そしてその長い爪を直也の喉元目がけて突き出した。直也は目を瞑り、己の死を待った。救いようのない現実を次々と叩きつけられ、自分の無力さをさんざんに思い知らされ、そしてあきらだけでなく咲をも疑うほかなくなった直也に、生にしがみつく気力はもはや皆無だった。

「自分が恩を売った女に殺されるなど、我ながらセンスのいい演出だ」

 男のさざめくような声も、耳の奥に届く前に溶けてなくなっていく。グリフィンと、床に転がったライと、目を輝かせる男に見守られながら、怪人の爪は直也の首に躊躇なくその狙いを定めた。



15話 完


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