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14話「昂ぶる予感」


鎧の話 26

 気の抜けたサウナのような生温い空気が充満している。古い埃の臭いが絶えず鼻を突く。天井からは電灯がぶら下がってはいるものの灯りはなく、締め切られたレースのカーテン越しに室内に入っている僅かな陽光だけが、薄闇を剥がし取っているかのようだ。

 シーツの敷かれていないベッドと、クローゼット。それがこの部屋に置かれている調度品の全てだった。窓際に置かれた花瓶には、花は刺さっておらず、ふんだんに埃を被っている。それだけでこの部屋が普段使われていない場所であることが分かった。

 不思議な霧に包まれ、その中であきらと出会い、気付けば直也はこの部屋に飛ばされていた。室内を観察することにも疲れ、ベッドに腰を下ろした姿勢で先ほどからじっと動かずにいる。視線の先にはこちらに背を向けて、先ほどから携帯電話で話しているあきらの姿があった。

 こちらからわざと顔を背けるようにし、手を口で覆いながらぼそぼそと話しているので、誰と何の会話をしているのかまるで判断がつかない。しかしその表情はこれまで直也が見たこともないほど、固く険しいものだった。時折、こちらをちらちらと横目で窺ってくるのも気にかかる。何か重要なことを話しているのかもしれない。もう、直也にあきらの心は見えない。

 会話はほどなくして終わった。携帯電話を折り畳むと、あきらは数秒の間じっと壁を見つめた後、こちらを振り返った。その顔には先ほどの緊張感に歪んだものは少しもなく、木漏れ日のような笑みが湛えられていたため、直也の胸はときめいた。それは直也の知っている華永あきらの姿だった。

「あきらちゃん……」

「待たせちゃってすみません、直也さん。思ったよりも電話、長引いちゃって」

「……ああ。別に、大丈夫だよ。おかげでちょっと頭の整理もできたし。気にしてない」

 一体誰と会話をしていたのか、と尋ねる気にもならなかった。あきらを取り囲むどす黒い霧は、直也が不用意に突っ込んで暴けるほど薄っぺらなものではない。

 直也はこめかみを掻きながら、スプリングの効かないベッドから立ち上がった。あきらと数週間ぶりに正面から向き合いながら、目の前の少女と記憶に残る恋人が本当に同一のものか、無意識のうちに照らし合わせている自分に気が付き、嫌悪する。

「それにしても、久しぶりだ。元気、だった?」

 疑念も疑問も心の中で渦巻いているにも関わらず、喉にせりあがってきた言葉はそんなあり触れたものだった。あきらは目を少しだけ瞠ると、心から嬉しそうに頷いた。

「はい。直也さんも、風邪とか引いてないですか?」

「健康なだけが取り柄なんだよ、昔から。バカはカゼをひかないって、所長にもからかわれてたぐらいだ」

「懐かしいです。所長も、咲さんも……あれからもう、3年経つんですよね」

「ああ。月日が経つのは早い。もう、3年だもんな」

「ボクたちが出会ったのも、そのくらいの時期ですから。なんか、感慨深いですね」

 そうだ3年だ、と直也は改めて思う。あの事件のおよそ半年前に、直也はあきらと出会った。彼女はケーキ屋でバイトとして働いていて。そこで素行のよろしくない客に絡まれていたところを、直也が救った、それがきっかけだった。まさかあの時は、自分が女子高生と恋に落ちるとは考えもしなかったが。

「あきらちゃん」

 呼びかけると、あきらは小首を傾げた。「はい?」と応じながらほほ笑む。直也は一旦、視線を床に移し一呼吸置いてから意を決して尋ねた。

「……なんで、いきなりいなくなったりしたんだよ。心配したんだぞ。いきなり音信不通になって、どういうことなんだよ。ちゃんと、説明してくれ」

 たまらず、あきらとの距離を詰める。しかし彼女の表情は動かない。変わらぬ笑顔で、可愛らしく首をわずかに傾けたまま、こちらを正面から捉えている。そのあまりの涼しげな表情に、若干の恐怖すら覚えながら、直也はさらに言い募った。

「あきらちゃん。頼む。話してくれ。……なにか俺に不満があったんだったら、反省するから。だから、訳をきかせて欲しいんだ」

 自然とその声に哀願の響きの混じり始めていることが、自分でも分かる。これまで心の淵でせき止めておいた思いの奔流は、あきらを前にしたことで、呆気なく堤防を破り、直也の喉から溢れだしてしまう。あきらの前に立ち、その顔を真っすぐ見つめ返しながら発するその声は、すでに涙を纏ったものへと変わっていた。

「俺は……あきらちゃんを信じたい。だから声を聞きたいんだよ。頼む……驚かないし、怒らないから聞かせて欲しい。なんで俺の前からいなくなったりしたんだよ。全然、納得できねぇよ」

 あきらはちらりと、窓の方を窺うような素振りをみせた。それから直也の方に顔を戻し、相変わらずの笑顔で言った。

「何を言ってるんですか。それはもう、直也さんが一番よくわかっているはずじゃないですか」

「……え?」

 掌に温もりが降りる。ハッとなって視線を落とすと、あきらの白い手がその手を柔らかく包み込んでいた。その爪はほのかな桃色を帯びている。

「これ、オウガですよね」

 直也は顔を上げる。すると、そこには『3』と書かれたメイルプレートを片手にかざすあきらが待ち構えていた。直也は絶句し、それから音をたてて唾を呑みこんだ。

「……知ってたのか」

「多分、直也さんよりも知ってると思います。……何日か前、美術館の裏で会ったの、覚えてますか?」

「美術館?」

 言われ、記憶を探る。天井を仰ぎながら、頭上に過去の映像を再生させていく。そして特に時間をかけることもなくその答えは見つかった。それと同時に、胸にざらつく感触を覚えた。重大な見落としを発見した時と、同じような気分。頭の血がサッと引き、引き換えに心臓の鼓動はうなぎ上りに跳ねあがっていく。

 美術館の裏で行われた、ダンテと怪人との激闘。草むらで怯えていた少年の姿が目の裏にすっかり焼き付いている。強烈な光を浴びて、塵も残さず消滅する怪人。そして両足で地に着地し、一息をついたダンテの前に現れた、異様な存在感を放つ謎の怪物。

 桃と白を基調とした体色。全身に走る金色の筋。鎧と肉体が一体化したようなフォルムを持つその怪物の正体があきらであることを、直也は知っていた。しかし、猛り立つその怪物が纏うあまりの威圧感に、声をかけることすらできなかった。できたことといえば、熾烈を極めていく戦いの間に立ち、これ以上互いに傷つけあう行為を止めさせることだけだ。

 あきらが直也の前から姿を消したのは、その直後だった。一瞬、虚を衝かれたような動作をみせていた怪物の姿が脳裏に蘇る。直也はやはり、重大な点をすっかり見落としていた。あきらには、直也を避けるだけのこれ以上とない理由があった。

 鋭い痛みを感じた。見れば、あきらの爪が手首に深く食い込んでいた。彼女の目が直也を探るように細まる。

「単刀直入に言います。ボクは、直也さんを疑っています」

「俺を、疑ってる……?」

「しつこく尾行されたり、事故を装って命を狙われたり。結構ありましたから、そういうの。どういう人たちがそういうことしてくるのかも、知ってます。直也さんも分かってますよね」

 あきらは自分の手の中にあるプレートを一瞥してから、再び直也を見た。その目が、ドラム缶の中に敷き詰められたタールのようなどす黒い色を帯びていたので、直也は二の句を継げなくなる。

 あきらを殺したがっている、というトヨの言葉が蘇る。彼女は黄金の鳥に捉われた男の娘だから。仲間の命を奪ったから。彼女の命を奪うことこそが、マスカレイダーズ全体の方針であるとトヨは暗に示していた。その実行を遅らせるよう、組織に抗ってまで力を尽くしていた拓也は今、とてもではないが発言できる状態ではないという。すなわち、マスカレイダーズの指針を鈍らせるものは何もなくなってしまっている。彼らは全力で、あきらを殺すことに意欲を傾けているはずだ。

「直也さんは、ボクのこと、黄金の鳥のこと、知っちゃったんですね」

 その言葉には諦観というよりも、慰めの心情が滲んでいるようだった。直也は彼女から発せられている剣呑な空気に取り込まれるようにして、気がつけば頷いていた。

「あの姿は、黄金の鳥の影響なのか? それとも……」

 直也の頭に過るのは、あきらが変化した異形の姿だ。人ではもちろんなく、しかし、怪人ともまた別の雰囲気を纏うその存在を直也はいまだ掴めずにいる。最近では人間としての姿形をもつ怪人が出現したことで、もしかしたらあきらもまた怪人なのではないか、という疑いすら持っていた。

 さてこの質問に彼女が何と答えるか。直也は表情を強張らせ、ひたすらに反応を待つ。ところが、あきらはこの状況でにこやかに笑みを浮かべた。くすくす、と小さく唇のすき間から笑い声さえ響かせている。

「ボクは人間ですよ、安心してください」

 唖然とする直也の前で彼女は答えた。自身の胸のあたりを上から下に撫でるようにしている。気を落ち着かせているかのようにみえる動作だった。目を強く瞑り、数秒してから瞼を上げる。今度のそれは祈りを捧げる仕草に似ていた。

「黄金の鳥から力をいただいて、ボクは戦う力を身につけたんです。黄金の鳥は命を照らす光。光は奇跡を呼び起こすんです」

 目を細め、うっとりとした顔つきで遠くを見るあきら。瞳を潤ませる彼女の横顔を見やりながら、直也は1つ身震いする。「そうか、奇跡ね」と皮肉を込めて言うと、「はい。この体は

奇跡なんです」と真顔であきらは答えた。

「黄金の鳥を信じ、祈り、その声を聞けば、誰もが幸せになれるんです。黄金の鳥は見放しません。どんな辛い時でも、いつだってボクたちの頭上に命の光を授けてくれるんです」

 直也は思わず天井を仰いだ。そこには黒ずみの目立つ汚れた天井があるだけで、電球や蛍光灯の類すら見当たらなかった。顔を戻し、眉尻を下げると思わず半笑いを浮かべる。口を滑らかに動かすあきらの表情は実に活き活きとしていて、まさに幸福の真っ只中にいるかのようだった。それは直也と一緒にいた時には一度も見せてくれなかった顔だった。

 胸にわずかな息苦しさを覚えながらも、直也が本題に入ることにした。どこにあるとも分からない、直也には視認することができない、黄金の鳥の象に向けられたあきらの意識をこちらに向けたかったという気持ちも少なからずあった。

「じゃあ、単刀直入に言う」

 截然と口に出すと、あきらはこちらに目を向けてきた。口元はまだ緩んだままだった。直也は息を肺の中に大きく取り込むと、さらに言葉を続けた。

「あきらちゃんたちなのか。怪人を作ってるのは。女性を誘拐して、殺してるのは」

 あきらの顔から笑みが消えた。真顔に戻るあきらを、直也も真剣に見つめ返す。目を逸らすものか、と自分に言い聞かせた。

 結局、あきらに対する数多くの疑惑の中で直也がもっとも明らかにしておきたかったのは、それだった。あきら自身が怪人とは別の力を持っていたとしても、その力で怪人を生み出している可能性は大いにあった。

 地下の冷凍室でみた体の欠けた女性たちの遺体。表情に刻まれた苦痛の色。あれを生み出した元凶があきらだとすれば、直也もここで彼女を許すわけにはいかなかった。たとえ戦いになっても止めてみせる、その覚悟がある。

 しかし直也の決意に反して、あきらは首を横に振った。それから軽く頬を上げて「直也さんはどう思うんですか? ボクがあの事件を起こしたと、本当に思ってるんですか?」と逆に問い返してきた。直也は一瞬、その悲しげな視線に虚を衝かれた後で、つい先ほどのあきらと同じようにかぶりを振った。

「いや。思いたくない。だけど、疑ってることは確かだ。あきらちゃんの口から答えが聞ければ、信じられる」

「さっきも言ったはずです。"蘇生"は命を尊く思い、その光を信じた人の集まりなんです。ボクも、他のみんなも、無関係な人を殺すことはしない。それは絶対です。それは黄金の鳥を疑うことになって、人生を絶望に自分から突き落とすことになります」

 また黄金の鳥か、と直也は心の中でうんざりと思う。だがあきらの口調は毅然としていて、笑い飛ばすことなどとてもじゃないができない妙な迫力に包まれていた。彼女の黄金の鳥に対する愛情は、本物だ。恋人として毎日を送っていた時にはまったく気がつかなかったが、今ではその純粋な気持ちが手に取るように分かる。

 直也はため息をついた。まだ納得しきれないものはあったが、あきらの口から語る言葉を信じると発言した以上、これより先の追及はおそらく意味をなさない。

「……分かった。信じるよ。あきらちゃんは、怪人とは無関係。そういうことなんだろ」

「怪人についてはボクたちも調べてる最中です。どこからきたのか、どうやって作られたのか、こっちでもまだ分ってないんですよ、実は」

「そっか……。そういえば鳥といえば、黒い鳥って知ってるか?」

 それは怪人を操っていた二条――ファルスが去り際に発していた単語だ。この黒い鳥こそが怪人の創造主に繋がる要素の1つであると、直也は睨んでいた。

 あきらはその単語を耳にすると、ほんの一瞬だけ戸惑いを浮かべた。見落としてしまっても仕方がないほどの、本当に些細な間だった。彼女は黒い鳥について何かを知っているなと直也は予測をたてた。しかしあきらの口からは「ボクが信じてるのは黄金の鳥です。間違えないでください。そんなの知りませんよ」と笑いながら返ってきた。

 恍けているな、とは気付いていたが追求することはしなかった。調査中、と言うことなのだからまだその全貌についてあきらたちも把握しきれてないのかもしれない。ここで「嘘つくなよ」と突っ込むことは可能だが、さらに話がこじれそうだった。それはどうしてもこの場で回避したい。直也が知りたいのは純粋たる真実だけだ。

 だからこそ直也は素直にあきらの言葉に信用を置くことにした。黄金の鳥を愛するあきらが、それを盾に言い訳を積みあげるわけがないという憶測もあった。ただ、"無関係な人は殺さない"という部分だけが引っかかりを感じた。

「直也さん」

 突然、あきらは改まった口調になると直也の名を呼んだ。直也は短く返事を返した。すると彼女は躊躇いをみせたあとで、思いきった口調で一息に述べた。

「ボクたちの仲間になってください」

 仲間。黄金の鳥を復活させる同盟。7年前に封印された人の命を玩弄する魔鳥を再び世に解き放つために尽力する集団。あきらはそのリーダーを務めている。なぜか。それが、彼女の血筋だからだ。生を受けたその瞬間から発生した使命だからだ。そのためなら怪人すら作り出し、理由は定かでないが女性たちを誘拐し、殺害することも辞さないだろう。

 あきらの視線は直也を勘繰っている。どういう反応をするのか窺っている様相すらある。直也は少し考える間を置いたが、実は問われたその瞬間からその答えは決まっていた。緊張に喉を乾かせながら、首を横に振り、淀みない本心をはっきりと告げる。

「ごめん。俺は、あきらちゃんの仲間にはなれない」

 あきらは顔色1つ変えなかった。手首を握る力も弱まる。直也は手を引っ込め、あきらから離れると、さらに続けた。

「だけど勘違いしないでほしい。俺はあいつらの仲間でもない。俺は……君の敵じゃないんだ」

「その証拠が、どこにあるんですか」

 それが彼女自身の口から出たものなのだろうか、と疑いにかかってしまうほど、あきらの語調は厳しかった。しかしその表情には笑みさえ浮かんでおり、そのギャップが直也を殊更不安にさせた。

「ボクだって、直也さんのことは信じたいです。今でも好きだし。これからずっとずっと一緒にいれたらって思います。だけど……ボクはリーダーなんです。個人的な事情で、信じて付いてきてくれる仲間を危険に晒すわけにはいきません」

「そのためには、俺を疑うことも辞さないってわけかよ」

「ボクはそのために生まれてきましたから。そのためだったら、何でも捨てられます。ボクは、みんなが幸せになれる方法を見つけたいんです」

「……そんなことはできない。できるわけがない。誰かが喜ぶ裏で、誰かが悲しむ。世知辛いけど、それが真理ってもんだろ」

「できます。黄金の鳥ならできるんです。黄金の鳥を、信じてください。ボクはやりとげなきゃいけないんです。自分にしかできないなら、やるしかないじゃないですか」

 先ほどとは逆に、あきらに詰め寄られ、直也は辟易する。そして真剣味の滲んだ彼女の表情を正面から捉えながら、自分が彼女を責める立場にないことを思い出す。自分も、トヨから話を聞き、あきらに絶望している。彼女のことを懐疑的な視線以外では見れなくなっている。話してくれなかったことを恨んでいる。

 しかしそれは、彼女の側に立ってみても、おそらく同じことだ。装甲服を纏って戦い、マスカレイダーズに所属する友人を持つ直也が潔癖を表明する手段は、おそらくない。あきらもきっとその手段を持ちえていない。

「……前に言いましたよね。ボクの日常を守って欲しい、って」

「……あぁ」

 初めて、あきらの怪物としての正体を知ってしまった夜。あきらはそう直也に託した。戦いになれば自分は自分でなくなってしまうから、直也には日常を守って欲しい。自分の人間としての最後の拠り所を守って、そして待っていて欲しい。確かに、そう言っていた。

「その約束を破ったのは、直也さんです。ボクは信じていたのに、待っていてくれなかった。だからボクは、直也さんから離れたんです。これ以上側にいたら、きっと、お互いに傷つくだけだと思うから……だから、決めたんです」

「……勝手に決めるなよ」

「それはお互い様です。なんで、オウガのこと、話してくれなかったんですか」

 あきらの憂いに満ちた目が直也を見つめる。直也は折れそうな心と、俯いてしまいそうな頭を何とかギリギリのところで支えながら、彼女を見つめ続ける。その表情を網膜に焼き付ける。

「それもお互い様だろ。あきらちゃんだって、俺に隠してた。全部もう分かってるんだ。隠しだてなんて、無意味なんだよ」

「……オウガを渡すつもりは、ないんですよね」

「俺もあきらちゃんと、気持ちは同じだ。俺はオウガを託された。自分にしかできないなら、やるしかないだろ」

 あきらに対して負い目を感じながらも、直也に引く気持ちは毛頭なかった。2人の間にあった何かが崩れ落ちる音を聞いてもなお、その雑音に耐え、感情を口にした。死に際の咲の表情は額の裏に蘇る。ここで引きさがったら、彼女の存在が遠くなってしまう。そんな気がした。

 あきらは僅かに目を見開いた。その後で、片頬だけを釣り上げるようにして笑んだ。納得したような、それでいて寂しげな表情だった。

「やっぱり、そうですよね。……今まで黙ってたんですけど、直也さん。お父さんに凄く似てます」

「あきらちゃんの父親っていうと、"蘇生"を作った?」

「はい。外見とかじゃなくて、雰囲気というか……頑ななところが、似てます。最初に会ったときからそう思ってました。初めに会ったときから」

 あきらと最初に出会ったのは、SINエージェンシーに勤めていた時で、行方不明中の男性についての情報を集めている最中のことだった。男がよく通っていたケーキ屋。その家の子どもではないようだったが、あきらはいつもそこにいた。彼女は当時13歳。中学1年生だった。後になって分かったことだが、あきらはそこでパティシエという夢に少しでも近づくため、店の手伝いを買って出ていたのだった。

 直也は当時、情報を少しでも多く集めようと、幾度となくその店に足を運び、あきらとも次第に多くの会話を交わすようになっていった。その時間が直也にはとても楽しく感じられ、また店のケーキも美味しかったため、その仕事が終わった後も直也はよくそのケーキ屋に向かった。それからつい1年前までその遠すぎず、近すぎもしない関係は続いていた。

 あの時、最初に声をかけたのはあきらのほうだった。あきらは直也に亡き父の面影を重ねていたのだ。一目見ただけで、その本質を見抜いた彼女の眼力には舌を巻くしかない。

「そうなんだ」

 あきらの父についてあまり情報を持たない直也は、何と返したらいいのか分からず短い相槌だけを返した。

「だから、直也さんには傷ついて欲しくないんです。戦いになんか巻き込まれて欲しくない」

 だからオウガを手放せと、あきらは言おうとしている。訴えようとしている。それが空気を通じて伝わってきた。。直也はその言葉が彼女の口から出る前に、声を発した。自然と語調は強いものとなった。

「……あきらちゃんがさっき言った通り、俺は頑ななんだ。オウガは手放せない。戦うことも、止めない」

 あきらの表情が固まった。前に身を乗り出そうとし、片足の浮いた体勢で止まる。だがすぐに姿勢を正すと、「そうですか……」といかにも残念そうに目を伏せた。

「悪いけど、俺は謝らない。あきらちゃんにも謝ってもらおうなんて魂胆は、さらさらない」

「……最後の夜の日まで、ボクは直也さんの悲しいところも、嬉しいところも、全部分かって、共有できるって思ってました」

 あきらが軽く自分の腹の辺りを撫でながら、言う。直也も頷いた。彼女も同じ想いを抱いていてくれたことが、嬉しかった。その目も、耳も、鼻も、肌も。彼女の感じた全てを理解できて、同じことを想って、同じことを考えて。そんなことがあきらとならできると、直也は信じていた。

 だがそれが過去の話であることに気が付いて、少し胸が痛くなる。あきらの唇に紡がれようとする言葉を、直也は彼女の口に出る前から、分かっていた。

「だけどもう、直也さんのことが分かりません。ボクはもう、あなたことが全然、見えないんです」

「……奇遇だな。俺も、同じだ。あきらちゃんのことが、全然分からない。おかしいよな。つい数日前まで、あきらちゃんのことを何でも分かるんだって想ってた。そんなの思い込みだったんだよな。俺は、あきらちゃんのことを何も分かってなかった」

「残念、ですね」

 あきらはため息を浮かべ、目を直也から逸らしながらおずおずとメイルプレートを差し出してきた。ぞんざいな仕草だったが、たっぷりの感情の余韻が含まれているようだった。

「直也さんから、たくさんのものを受け取りました。…最後の日の夜のこと、覚えてますか?」

「ああ。忘れないさ。きっと。いつまでも、覚えてる。夜のことだけじゃない、全部、俺は覚えてるから」

 直也は、彼女の手からプレートを受け取った。その表面に残るわずかな体温は、あと数分も経たぬうちに消えてしまうだろう。鉄は熱しやすく、冷めやすい。それを考えると、何だか切なかった。あきらは腹部に据えていた手を下ろすと、小さく頭を下げた。後頭部でポニーテールが揺れる。直也には彼女のそんな些細な仕草も、これ以上なく愛しく思えた。

「直也さん。今までありがとうございました。大好き、でした」

「俺もだよ。今まで、ありがとう。この1年。楽しかったし、嬉しかった。できれば、もっと一緒に色々なことを話して、色々なところに行って、……もっと一緒にいたかった」

「今度会ったら、敵ですね」

「……それでも俺は、あきらちゃんとは戦わない。マスカレイダーズが狙ってるなら、俺が守ってみせる。俺は、そのためにこの力を手に入れたんだ」

「分かっているんじゃないですか。直也さんよりも、ボクのほうが強いんですよ」

 はっきりと、しかし悲しげにあきらは言った。

「守ってもらわなくても、自分で何とかできます。それにボクには、心強い仲間がいますから。だから直也さんには身を引いて欲しかったんです」

 事実、直也がオウガを使っても全く歯が立たなかった怪人を不意打ちとはいえ、あきらは瞬殺した。彼女が断言するその力量差は、おそらく正しいのだろう。しかし、直也はそこですごすごと引き下がるわけにはいかなかった。あきらの想いがあるように、こちらにもそれ相応の考えがある。

「それでも、俺はあきらちゃんを守りたい。あきらちゃんの彼氏じゃなくなっても、好きだった気持ちは嘘じゃない。いくら弱くたって、無謀なことだって、あきらちゃんが頑張って、苦しんでるのに指をくわえて待ってることなんてできるわけないだろ。愛しいから、守るんだ。当たり前だろ。あきらちゃんだって、そうなんだろ?」

 返事はなかった。代わりに、あきらは踵を返した。哀愁の漂う背中だった。直也は立ち止まったまま、その背に声をかけた。

「あきらちゃん」

「……はい」

「1年前に、人を殺したって本当なのか」

 トヨが言っていた、船見琴葉をあきらが殺害したという話。それが今のマスカレイダーズにある、反あきら体制を作る推進力となった。仲間を殺されたことに奮起した彼らは、『蘇生』のリーダーの娘である彼女を狙い、そして逆に殺されていった。

 あきらは僅かに目を瞠った。だがすぐに口元に柔らかい笑みを浮かべた。しかしその目は潤み、今にも涙が流れ出してきそうだった。それはあきらがこの場で初めて見せた、悲しげな表情だった。

「はい。殺しました」

 はっきりとあきらは、トヨの話に肯定を示した。初めてその事実を聞かされたときのような衝撃は、覚えなかった。ただ悲しかった。どうすることもできなかった自分が、情けなくてしかたなかった。

「ボクは人をたくさん殺しました。そのことを黙ってたのは、謝ります。だけど、直也さんのことが好きだったから。こんなこと、話せるわけないじゃないですか」

「……あぁ、大丈夫。分かってる。俺だって、自分がそんなことしたらきっとそうするから。だけど、それでも、話して欲しかった。俺を信じて欲しかった。俺だって、君と同じくらい、あきらちゃんのことを愛してたんだ」

 やっとその言葉を口に出して発することができた。だが、全てはもう遅すぎた。取り返しのつかない時間が、容赦なく直也の身を切り刻む。あきらは首だけで直也を振り返る姿勢のまま、さらに続けた。その笑顔は繕い方が不完全で、不自然で、それでいて歪んでいて、痛々しかった。

「ごめんなさい。だからもう、直也さんがなんて言おうと、後戻りはできないんです。ここで足を止めたら、申し訳、つかないじゃないですか。自分勝手だとは思いますけど、ボクが殺しちゃった人たちが、無駄死になっちゃいます。それだけは、嫌ですから」

「……そっか。ありがとう。分かってる、分かってるよ。こんな結果になっちゃったけど、あきらちゃんと話せて、本当に良かった」

「ボクも、良かったです。……ありがとう、ございました」

 体を前に戻す。そしてドアを開けて彼女は出ていく。片腕を抑え、片足を引きずるようにしてドアをくぐり、後ろ手にドアを閉める。もうあきらがこちらを振り返ることも、何か言葉を告げることもなかった。あきらの姿は、固いドアの向こうに阻まれて、消えた。

 最後まで、さよならは言わなかった。よく言えば余韻を、悪く言えば後腐れをたっぷりと残した別れだった。一度瞬きをすると周囲の景色が歪み、それから溶けていき、もう1度瞬くと黒く捩じれた空間に置き去りにされ、さらに目を閉じ、開くと、直也は元いたあの裏路地に立っていた。

 いつの間にか空は薄暗くなり、白い月が灯っている。風に煽られ、無造作に草がばさばさと音を立てて揺れた。怪人の姿も、ガンディの姿もなくなっていた。秋護のバイクもなく、直也のバイクだけが粗大ごみに混じって取り残されている。

 直也はしばしその場から動けずに、今の状況を、ゆっくりと咀嚼した。夜風に当てられたプレートは冷たい感触を直也の指先に届けている。あきらと話したことも、別れたことも、けして夢ではない。あきらは自分の前から去った。ありがとう、という言葉を最後に残して。

 感情が麻痺をしていて、考えることがろくにできない。だが、胸にぽかんと空いた穴だけは痛いほどに認めることができて。吹き荒れる砂埃混じりの強風の中で、直也は一筋の涙を頬に伝わせた。

 ありがとう、と心の中で、ここにいないあきらに向けて言った。この言葉が届けばいいと強く願いながら。




鳥の話 28

 再び痛みの強まってきた片足を引きずりながら、仁は『しろうま』に帰ってきた。時刻は午後6時を過ぎていた。馬の怪人、ケフェクスに様々な話を聞いているうちこんな時間までかかってしまったのだった。

 今日は自分が朝から出かける用のあったということで、店を閉めておいた。だから店側の玄関に回る理由はないのだが、気づけば足が向いていた。風が木々の間を吹き抜け、道には多量の埃が舞い上がっている。仁は目を伏せるようにして、砂埃の嵐の中を潜り抜けた。

 そうして『しろうま』の前に立ち、普段どおりの動作でドアをくぐろうとして仁は足を止めた。しばらく、ぽかんと目の前にあるものを見つめ、それから手の甲で目をごしごしと何度もこすった。腕を伸ばして、それに触れる。ひしゃげる感触が指先に跳ね返ってきた。

 『しろうま』の入り口に、ドアはなくなっていた。代わりに巨大なダンボールが店を塞いでいた。今朝までドアがあった場所に、ガムテープで固定されている。風に吹かれてミシミシと紙が擦れ合うような音をあげるダンボールを前に、仁は足の痛みも忘れてしばらく立ち尽くした。

 どこからかカメラのシャッター音が聞こえてきたのをきっかけにして、仁は我に代わった。周囲を見渡しても人の姿はなく、おそらくいまのシャッター音は気のせいであるとか身勝手に結論付ける。そんなことに時間をとられている場合ではないことに気がついた。裏手にある白石家としての玄関に回りこむと、靴を脱ぎ捨てて、階段を駆け上がった。

「葉花!」

 喉まで心臓が上がっているかのようだった。そのくせ頭だけは氷のように冷たい。まさに文字通り、血相を変えてリビングのドアを押し開くと、驚いた顔でこちらを振り返る葉花の姿があった。椅子の上で正座をし、どうやらテレビドラマの再放送を観ていたようだ。

「どうしたの白石君! 顔真っ赤だよ!」

「葉花、店のドアがダンボールに変わってるんだ! 一体なにがあったの?」

 あー、と唇に指を当てながら葉花は斜め上に視線を動かした。それから申し訳なさそうに伏せ目がちに言った。

「ごめん白石君。お店で青いのと遊んでて、つい夢中になって壊しちゃった。別にやろうと思ってやったんじゃないんだけど……」

「うん。それは分かってるから大丈夫だけど……けがはない? 痛いところとか、大丈夫?」

 仁は腰を屈め、葉花を正面から捉える。彼女はビー玉のような瞳でこちらを捉えたあとで、パッと顔を明るくした。

「うん、平気平気! 私は元気だよ。まったく白石君は心配性だなー」

「なら良かった。あきらちゃんは? もう帰ったの?」

 体を起こし、リビングを見渡してみるが、青髪の少女の姿はない。耳を澄ませるが、どうも別の部屋にいるというわけでもなさそうだった。

「青いの? 青いのなら、結構前に帰ったよ」

「帰った?」

「うん、用事思い出したんだって! 飛ぶみたいに帰っていったんだよ! びゅーんって」

 びゅーんと、擬音語を発しながら両手を大きく広げる葉花。どうやら飛行機をイメージしているらしい。仁はそんな彼女のポーズに微笑ましく思いながらも、捉えようのないわだかまりを感じていた。

「そっか、帰っちゃったんだ……」

 留守番を、そして葉花を任せたのに。確かに、家に泊まって葉花と遊んでやってくれという申し出自体が不条理極まりないことであり、帰ってしまったことに対して仁は彼女を責められる立場にいない。しかし帰るなら帰るで、連絡の1つくらいくれても良かったのに、と少し残念には思った。そういうところはちゃんとしているだろう、とあきらに勝手なイメージを重ねていたせいなのかもしれない。

 菜原が言っていたではないか。あきらは最近何か大きなものを作っていると。彼女は忙しいのだ。黄金の鳥を再生させる一団の長としての役割を、全うしようとしている。葉花のことが好きという気持ちにおそらく嘘はないが、それ以上に己の使命に燃えているのだろう。仁は何かに没頭する人間に対して強い憧れを持っている。あきらの思いに賛同したのも、彼女のそういう部分に惹かれたからかもしれないと今更ながらに思った。

 葉花は背もたれを前にしていた椅子を引きずって回転させると、仁に背を向けてそこに座った。そしてテレビを眺めながら、付け足すように言った。

「うん。お昼ちょっと過ぎくらいに。あとで青いのもドア、べんしょーするって。私もお金稼げるようになったら頑張るつもりだから、もうちょっと待っててね。偉くなって、ドア500枚くらい買ってあげるんだから!」

「……お昼過ぎ?」

 笑う葉花の言葉の半分を、仁は聞いていなかった。お昼過ぎといえばケフェクスに教会から連れ出され、ビリヤード台の置いてある倉庫に移動し、そこで彼ら怪人たちの要求に耳を傾けていた時間帯だ。そこでこの怪人たちをどう扱うべきか、あきらの判断を仰ぐため、菜原は彼女に電話をかけていた。葉花の話からすればその時には、『しろうま』をあきらは出ていたとのことである。

 あきらは一体その時間、どこに行ったのか。デビルズオーダーに関する用事で飛び出したと思っていただけに、その時間のすれ違いには何だかしっくりこないものがあった。あきらは今、どこにいるのか。暇を見て彼女に電話をかけてみようかと仁は、ジーンズの上からポケットの中に収まっている携帯電話をそっと撫でた。

「そういえば白石くん」

 テレビに目を向けたまま、葉花が言った。仁は彼女のその声色に若干の変化を感じ取った。小さな、しかし濃い寂寥感がその呼吸に載っているような気がした。

「なに?」

 仁は手近の椅子を引き寄せ、それに腰掛けながら慎重に言葉を返した。彼女は肩越しに振り返った。その顔は予想した通り、所在なさそうな寂しさが滲んでいた。

「タンス君ね、今日、帰ってこないんだって」

 反射的に仁は葉花の手元に目を落とした。その指には、朝にはなかったはずの絆創膏が巻かれていた。左手の親指。以前、葉花が包丁を使っているところを横目で見ていて、その指を切らないか内心でひやひやしていた覚えがある。

 葉花はキッチンのほうを見やった。それから下唇を軽く噛むと、心底残念そうに嘆息した。

「せっかく麻婆茄子いっぱい作ったのに……。冷蔵庫に入れておいたんだよ。青いのと、私と、白石君と、タンス君の分。頑張ったのに」

「佑に電話したのかい?」

 仁は携帯電話を取り出しながら聞いた。葉花は無言で頷く。その長い髪がさらさらと肩から流れ落ちた。

「うん。今日はなんか病院にいて、そのあとはまた向こうのおうち帰るんだって。もうここには来ないのかな、タンス君」

 向こうのおうち、というのは佑の実家のことだ。葉花は首を捩り、佑の席に顔を向けた。仁も釣られるようにして、そちらに視線をやる。その椅子は主人の帰りを待つ健気な動物のように、息を潜めてじっと再び温もりを浴びるその時を待ち望んでいるように思えた。

「大丈夫。すぐに帰ってくるよ。だって、佑と僕と葉花とが揃って、この家じゃないか。帰ってこなくちゃどうにもならないじゃない」

 同じ屋根の下に住み、しかし3人とも血の繋がっていない集団。その間を繋いでいるのは家族という名の強固な光だ。その光はおぼろげで、儚くて、いつも危なっかしい。1人がいなくなるだけで、著しくバランスを崩してしまう。

 だからこの家には葉花も、佑も必要なのだ。帰ってきて欲しい。身勝手だと知りながらも、願わずにはいられない。

「うん、そうだよね。よぉし、帰ってきたら、怒ってやるんだから! なんで帰ってこないのって。覚悟しとけよ、タンス君!」

 自分自身を奮い立たせようにして腰を上げると、葉花はキッチンに向けて走り去っていった。葉花は無理をしている。ついこの前、ハクバスの言っていたセリフを思い出す。葉花は自分と相手とを繋ぎとめるために、自分たちよりもはるかに力を尽くしている。その小さな体にどんな重みを背負っているのか。考えるだけでも、仁の口からは濃い色のため息が漏れた。




魔物の話 28

 午後11時。昨日が今日に変わる1時間前。夏特有の仄かに青みがかった夜の色は、この病室内にも広がっている。タイマーセットした冷房はすでに切れていたが、室内の空気はまだひんやりとした冷たさを残していた。

 どこかで、周囲の迷惑など構わない何者かの打ち上げた花火が破裂する。2、3発、続けて弾ける音が宙に鳴り渡ると、夜はしんと静まり返った。虫の音と遠くから聞こえる車の走行音だけが、風と混じって窓ガラスを叩いてくる。強風で雲が追い払われたためか空には月がささやかな光を纏い、暗闇の中心で小さく輝いていた。

 音もなく、外側から窓が開かれる。吹き抜ける風がカーテンを捲りあげた。冷えた空気が外に飛び出し、入れ替わりに室内を生温い空気が襲う。ベッド下のささやかな空間で息を殺していたレイは、驚嘆が唇から零れ落ちてしまわぬよう、慌てて自分の口を掌で塞いだ。

 隣の佑を見やる。この狭苦しい空間の中で彼もレイと同じように身を屈め、額を汗で光らせている。薄闇の中でも彼の表情は捉える事ができた。その顔はこわばり、目は真っ直ぐ前方を射抜くようだった。肩と肩とが触れ合う距離にいるのにも関わらず、やはりそんな佑がひどく遠いものに感じられる。

 開け放たれた窓をくぐり、風を受けて大きく膨らんだカーテンを片手で払って、異形の影が床に着地する。レイは体を傾けると床に耳を摺り、寝そべるのに近い恰好で、その影を下から覗き込んだ。無理な体勢に腰や肩が悲鳴をあげるが、その声に耳を塞ぎ、我慢する。

 痛みに耐えた甲斐あって、ようやくその侵入者の姿を窺い知ることができた。月光を背負い、ゆっくりと面を上げたのは両目で色の違う瞳をもつ、踊子のような装いの怪人だった。胸には九官鳥の絵が描かれ、その上から痛々しいほど深い切り傷が刻まれている。

 レイは姿勢を戻すと、佑に目をやった。彼はこちらを見て頷く。それから声は出さずに、口を動かした。暗がりの中なので何と言ったのか判別は難しかったが、予想通りだ、とそう読めた。おそらくそれで正しいはずだ。病室に入ってきたのは、まさに佑が予想をした通りの人物だった。

 怪人はベッドの中で寝息をたてる悠を見つけたようだ。こちらに、つまりベッドに近づいてくる。どこか覚束ない足取りだ。耳を澄ませば、その呼吸にも雑音が混じっているようだった。怪人は安堵の息を吐き出すと擦れるような物音を発しながら、腕を伸ばした。その黒くとがった指をそっと悠の寝顔に近づけていく。

 その手が触れる、直前。

 佑が突然膝を立てたので、レイはぎょっとした。逸る気持ちそのままに、彼は体を前に傾けながら立ち上がった。

 ベッド下から突然現れた気配に、怪人は咄嗟に身を引いた。佑はさらに下半身を持ち上げ、全身をくぐらせて、完全に外に飛び出す。示し合わせも何もない、あまりに唐突な彼の行動に、レイはたじろぎながらも遅れて彼の後を追った。あまりに慌てていたので腰をベッドにぶつけてしまい、口から掠れた声が漏れる。腰を撫でながら身を起こし、目を丸くしている怪人と向き合った。

 それは間違いなく、先日、悠の病室に入り込み、窓ガラスを割って逃げていった怪人だった。レイの"怪人レーダー"にも反応しない、特殊な怪人。レイは色違いの目でこちらを探るように見つめてくる相手を、じっと見据えるようにした。

「深夜のこの時間に、来ると思ってた……」

 闇に炯炯と輝く殺意のこもった眼差し。怪人の体を片手で捕えた佑は、悠の寝顔を一瞥すると、それから床に下ろしたままの拳を握りしめた。レイは緊張し、身を固くしながらその様子を見守る。全身から冷たい汗が噴き出すようだった。もはや何が恐ろしいのかさえ、全く分からない。しかし、胸の底から沸きだすような怯えがレイの体を竦めさせていた。

「悠を囮に使うなんて、嫌だったけど。こうでもしなきゃ、お前を引きずり出せなかった」

 怒りも、焦りも、憎しみもその声にはなく。ただ淡々とした響きだけが、空気を震わせていた。どこまでまた花火が打ち上げられる。破裂音が空にこだまする。ほんの一瞬だけ、開け放されたままの窓を虹色の光が染め上げた。

 その光が暗闇で散り散りとなり、落ちていく。佑が前に身を乗り出すようにして動いたのは、偶然に違いないが、空が元の夜闇に戻ったのとほとんど同時だった。彼の手から尾を引くようにして、空気に銀色の線が走る。低姿勢で体ごと怪人にぶつかっていく。その手には、刃が握られていた。レイはハッと息を呑む。それは昼間、佑がバッグの中から取り出して見せてくれたものだった。

 刃物ではなく、刃、だ。折れた剣先の腹を包むようにして掴み、それを怪人に突き出したのだ。それも躊躇なしの、全力だ。自分の持つ全体重を片腕に込め、佑は怪人の命を奪うため刃を振るった。

 あまりに唐突な佑の行動に慄いたのか、怪人はいとも簡単に壁際まで叩きつけられた。しかしそれでも、一撃必殺を狙ったのであろう佑の攻撃は腕で防がれていた。刃は怪人のかざした右腕に半ばほどまで突き刺さっており、不気味な光を病室に振りまいている。

 佑は眉間に皺を寄せ、その刃をさらに押しこもうと力を込めるが、あえなく怪人の空いている方の腕で振り払われた。ベッドの手すりに腰を打ちつけ、彼は顔を歪める。その隙をついて、怪人は刃を腕に残したまま後ろ向きに跳び、窓のヘリに立った。そのまま演舞をするかのように片足を上げ、ゆっくり体を反らすとそのまま夜闇に向けて落ちていった。

「逃がすか!」

 ここでも佑に戸惑いはないようだった。彼は床を蹴ると、さらに窓のヘリを踏み台にして、怪人を追いかけた。頭を下にして真っ逆さまに落ちていく、佑の体。窓の外に消えた彼に、レイは遅れて驚愕し、現実感が伴ってくるのと同時に、焦りを覚えた。心臓を外から鷲掴みにされたような衝撃が全身を駆ける。

「……嘘。だって、ここ」

 ここは4階だ。まともに地面と激突したら、ちょっとした怪我では済まされまい。レイが風を浴びてばさばさと音をたてているカーテンを片手でどかし、窓を覗いた時には、怪人も佑も闇に姿を消していた。窓から体を迫り出させ、目を凝らすが、その一面に広がる黒色の濃度に変化はない。

 何かが地面にぶつかるような、鈍い衝撃音は、聞こえなかった。しかし、だからといってそれが彼の無事である証拠になるはずもない。レイは素早く室内に引き返すと、部屋の角、足元にぶら下がった懐中電灯を引っつかみ、再び窓から身を乗り出した。

 すっかり冷えた手で、懐中電灯のスイッチをオンにする。出力は最大だ。そして窓の外、眼下目がけて光を照射した。丸い光が暗闇を切り取り、そのままその円をうろうろと動かしていると、思ったよりも早く佑を発見することができた。

 佑は4階から浴びせかけられたスポットライトに包まれながら、二本の足で立っていた。頭には葉っぱが引っ掛かっている。頬や耳のあたりが血を流しているのか、赤く変色しているように見える。それに何だか服にも汚れが付着しているようだ。どうやらこの位置から把握できる状況のみを鑑みるに、落下した佑は植え込みに突っ込んだことで九死に一生を得たようだった。4階から落ちた衝撃をその程度で緩和できるものなのかは疑問なのだが、佑が無事であるという事実の前には、些細なことだった。

 彼が立ち、そして動いている。まずその事実にレイは深い安堵を覚え、危うく懐中電灯を取り落としそうになった。足ががくがくと震え、心臓は大音量で胸を叩いている。腰から力が抜けてその場に崩れ落ちそうになるが、窓枠を掴むことで何とか体を支える。上に戻ってきたら、心配させたことを罵ってやる。深呼吸をして酸素を脳の隅々まで取り入れながら、思った。

 汗で湿った懐中電灯の持ち手を握りしめ直し、それで病院の庭を照らす。そこでレイはさらに息を呑んだ。宙を睨みつける、佑のその視線の先には怪人の姿もまたあったからだ。やはり人間である佑が生きていて、怪人だけが再起不能に陥っている。そんな都合のいいことはなかった。

 怪人は腕に刺さった刃を引き抜くと、それを自分と佑のちょうど中間地点に投げつけた。深々と地面に突き立てられる、鉄色の剣先。そして怪人はじりじりとその場から後ずさろうとする。ぴょんと後ろに跳ね、その全身に巻かれた紫の布を風にはためかせる。

 逃がすか! レイは心の中で叫んだ。この場所からでは聞きとることはできなかったが、おそらく佑も同じ言葉を怪人に投げかけたに違いない。彼は怪人目がけて駆けた。途中で刃をかっさらうようにして引き抜き、地面をつま先で踏み込んで、怪人目がけて跳躍する。右手に握っていた何かを、拾い上げた刃と走りながらぶつけ合わせたようだった。

 逃げようとする怪人に腕を伸ばす。なりふり構わず、この世の法則や常識といったしがらみからさえも逸脱するような勢いで、全身から跳び込んでいく。今夜で決着をつけてやる――日中、寂しげに表情を翳らせながら呟いていた、佑の言葉が脳裏に蘇る。その声が、彼の必死の形相と重なる。

 月光を照り返して輝く、佑の手にした刃から装甲のパーツが現れた。2つ、3つ、次々と刃の表面から跳ね出て、駆ける佑の周囲をくるくると旋回し始める。銀色のそれらもまた、淡い空からの光を浴びてきらきらと瞬いているように見えた。

 大きく踏み込んだ足、宙を舞う体、大きく前に伸ばした腕、強く固めた拳。次々と彼の体を銀色の装甲が包み込んでいく。装甲のパーツたちは回転しながら、次々とパズルのように組み上がっていく。さながら立体パズルのようだった。

 暗闇の中に装甲が過る。その拳が今度こそ怪人の胸を捉えた。ガードすることさえできず、背後に吹き飛ばされた怪人は派手に叩きつけられ、地面をバウンドし、庭に設置されていたベンチを破壊して転がった。

 ジャリ、と金属が擦れ合うような音を立てて、装甲服が着地する。

 顔まで頑丈な鎧で覆われると、そこに佑のいた気配は皆無になった。しかしその冷徹なまでに研ぎ澄まされた、憎悪と憤激の帯びた空気は全く変わらない。それだけが彼の存在を外部と繋ぎとめているような気さえした。

 佑が姿を変えたのは、右肩からは龍の頭部を、左肩からは尾を生やしている特異なデザインの装甲服だった。首周りはファーで覆われ、さながらその風貌は映画などでよく目にするマフィアのボスのようだった。他の装甲服を前にしたときには感じたこともない圧倒的な威圧感が、レイの肌を粟立たせる。あそこに立っているのが佑であるということさえ、一瞬忘れた。鬼神の如き佇まいで、倒れた怪人を見下ろす装甲服の戦士の姿がそこにはあった。

 "フェンリル"――。夕方、近くの牛丼屋で夕飯を取りながら佑が話していた、その装甲服の名前を反射的に思い出す。『5』の数字をもつ、マスカレイダーズが過去に作ったとされる装甲服。佑はそれを3年前の約束と称して、ゴンザレスから受け取った。悠を、怪人の魔の手から守るために。

 怪人はベンチの破片を払い飛ばしながら身を起こした。しかしその足は激しくよろめいており、大きく肩を落している。鳥の絵が描かれた胸を片手で撫でまわしてもいた。遠目からなのでそう見えるのかも分からなかったが、なんだか怪人のその仕草は苦しげだった。刃を突き立てられた方の腕はまるでその箇所だけその怪人の意思から離れてしまったかのように、だらんと肩から吊り下がっている。全く力が入っておらず、怪人が体を動かすたびに、腕を通していない服の袖のように揺れ動く。その様子は墓地に浮かぶ狐火を彷彿とさせ、自分もまた怪人であるということもあり、レイは目を逸らしたくなる衝動に駆られた。

 怪人は自身の腰に片手で触れ、そこに何かを掴んだ。闇に混じってしまい、それが何なのか視認することはできなかったが、怪人が腕を前に伸ばすと同時に銃声音が鳴り響いたので、すぐにその正体に見当をつけることができた。

 怪人は自らの武器である拳銃を手に取り、発砲したのだ。懐中電灯の照らす光とは質の違う、一瞬の白い輝きが薄闇に過る。

「俺に……そんなものは効かない!」

 佑は大声で叫んだ。4階にいるレイの耳にも届くほどの大音量だった。フェンリルが片腕を振るうと甲高い金属音が響き、足元から小さな砂煙が上がった。

 銃弾を打ち落としたのか、とレイが気付いた時にはフェンリルは前方に駆けだしていた。地を片足で踏み切り、高く跳躍。腰を捻り、大きく突き出した右足首にはいつの間にか白い輝きを帯びる刃が生えていた。それが"アーク"のハンドガンのように、装甲の内側に忍ばせているフェンリル特有の武装なのかもしれない。

「悠には、指一本触れさせやしない。お前はここで俺が殺してやる!」

 佑の雄たけびが夜に吸い込まれた。フェンリルは腰を捻り、右膝を曲げ、つま先を怪人に向けて、その足を一気に振り抜く。月下に躍る銀色の鎧は、獲物を追いつめ、その首筋に牙を打ち込もうとする銀狼の姿によく似ていた。

 フェンリルの放った、三日月のような軌跡を描く跳び回し蹴りは見事に怪人を捉えた。肩先に突き刺した刃をそのままわき腹まで引っ張ったような、袈裟がけの傷が怪人に刻まれていることが、ここからでもよく分かる。

 目を見開くレイの前で、そして両足で着地を遂げるフェンリルの背後で、怪人は断末魔を残し、粉々に崩れ散った。まるで砂のように頭からボロリと剥がれ、それをきっかけに全身がその形を保てなくなり決壊した。怪人の散りざまから、そんな印象をレイは抱いた。

 果たしてこれで終わったのか。疑問は尽きぬところだが、少なくとも一矢を報いることは叶ったようだ。フェンリルは怪人が崩れていった地面を踏みつぶし、確認をしている。その後周囲をきょろきょろと見回し、何か異変がないか十分に警戒をしているようだった。

 レイもそっと怪人の気配を辿ってみるものの、どうやら何の変哲もない静かな時間が流れている。最近では怪人探知機も眉つばものに成り下がり、絶対にいないと確信することができないのは悔しいところだったが、この近辺にはもうどうやら怪人の気配はなくなっているようだった。

 廊下が騒がしくなった。消灯したはずの院内が薄い光に覆われていく。うかうかしていれば先ほどの銃声を聞きつけ、人がやってくることに間違いはない。レイは自然に緩む頬を引き締めることも忘れ、身を乗り出して、佑に呼びかけた。

「お兄さん!」

 その呼びかけにフェンリルは顔を上げた。大きく肩で呼吸をしている。緊張と興奮と恐怖と、そんな色々な感情が混ざった心情で体を動かすのは、大いに辛かっただろう。彼の疲労は見る者の涙腺を緩めてしまう、感傷的な要素を持ち合わせているようだった。

 その装甲服が剥がれ、その中から佑が姿を現す。刃を右手に掴んだまま、佑もまた静かに笑んだ。汗で額に貼りついた前髪を、大きく頭を振ることで払うとサムズアップをレイに指しだしてくる。

 そんなことをしている場合じゃないのに、と心の中では思いながらも、レイは佑の淀みない笑顔に惹かれるようにして、気付けば親指を立てて返していた。息苦しいほどに張り詰めていた、自分と佑の間にある開け放された空間。そこに初めて、爽やかな風が吹き込んだような気分だった。




2010年 8月9日


鎧の話 27

 夏の暑さにうだる檻の中のライオンのように、直也は自室ベッドの上で寝ころんだまま体を動かせずにいた。朝早くから目を覚ましてはいたが頭の覚醒に体がついて行かず、もう何時間も枕に顔をうずめた姿勢のままでいた。窓の向こうに見える陽の高さと空腹の具合から予想するに、おそらく今は正午過ぎというところだろう。ガタガタと窓が音を立てている。今日も風が強い。

「……馬鹿だよな、俺」

 思わず、沈黙の部屋で独りごちてみる。だが、それで現状が変わるはずもない。胸にぽっかりと開いた穴が塞がるわけでもない。全てはもう過ぎ去ったことだった。今は思い出に変わり、抱きしめることさえできた体は、天を照らす太陽よりも遠い存在になってしまった。

 後悔はない。選択を間違えたとも思わない。このまま相手に対する猜疑心をお互い胸の内に忍ばせながら関係を続けていても、傷が深くなるばかりであっただろう。まだ針の穴のような傷であるうちに過去の関係を清算し、互いに納得のいく形で離別を決めたのはおそらく正しい選択肢だったはずだ。あきらが怪人を作っていないということがわかっただけでも、大きな収穫といえよう。

 だが、それでも直也の心は深い悲しみで包まれていた。どれほど手で掬って埋めようとも足ることを知らぬ心の空白が、虚無感が、全身からあらゆる力を奪う。それはおそらく、別れの原因がお互いの事を思って吐いた嘘であるからで。それがもし相手を貶めようとするような、悪意に満ちた言動がきっかけであったのならば、おそらくこれほど苦しむことはなかっただろう。

 あきらのために戦いたいと願った直也の気持ちは本心であり、直也に嫌われたくない一心で自らの素性や罪を隠したあきらの気持ちも嘘ではないから、これほどまでに胸が痛むのだろう。どちらかが一方的に悪いわけでもない。どちらも悪く、それでいて、どちらも悪くない。罪の重さを測る天秤は平行を最初から維持している。だから相手を責めるわけにもいかず、喉の奥から転がりだしてくるのは、感情の伴わない自嘲の言葉でしかない。

 なんだか急に部屋が静かに、そして広くなったように感じられる。行動や心の外側ではもう過去に見切りをつけているのに、その奥では未だこれで良かったのかとくすぶっている自分がいる。そんな歯切れの悪い自分を叱咤するその力さえも、今の直也にはなかった。

 窓ガラスから激しい物音が発する。ミシミシとガラスが軋む。おそらく春一番にも匹敵するだろうと思える強風が外では吹き荒れている。

 その風の音を打ち破るかのような不躾さで、玄関のチャイムが高らかに来客を告げた。直也がそちらに意識を傾けるのとほぼ同時に、ドアの引き開けられる音が聞こえ、その後でけたたましい音をあげてドアが乱暴に閉められた。

 直也はベッドから身を起こすと、あまりにも予想外すぎるこの一連の流れに、眉をひそめた。廊下をばたばたと走る音がこちらに向かってくる。部屋のドアを派手に開け放ち、駆け込み乗車さながらに室内へと飛び込んできたのは黄色いリュックを背負い、肩で息をする金髪の少女。

「おっさん! なんでいるんだよ!」

「いや、それは俺のセリフだろうが」

 ライは息絶え絶えにごろりと床に倒れこむと、「疲れたー」と疲労のこもった声をあげながら大の字に寝転んだ。「おっさん、ジュース出せよジュース」と口を尖らせてもいる。直也はそんな彼女の姿に自分の額を押さえ、肺の奥からため息を搾り出した。

「知るか……つかお前、どうやってここに入ってきたんだよ。鍵しまってなかったか?」

「しまってなかったよ。捻ったら開いた。だから入って来たんだ。だから私じゃなくて、悪いのはドアのほうなんだ」

「人の家のドアが開いてても、入ってくるやつはいねぇよ。不法侵入じゃねぇか。でもま、俺の落ち度でもあるな。そっか、開いてたか……」

 鍵の閉め忘れたドア。そういえばあの時も忘れていたっけ、と直也は回想を頭の上に浮かべる。あきらがこの家に来た最後の日。やはり鍵はかかっていなくて、彼女に無用心だと指摘されたことを思い出す。

 あの日はもう戻らない。あきらが玄関をくぐってこの部屋に入ってくることも、おそらくこの先ないだろう。大切なものは失ってから気づく、とは作詞の常套句ではあるがその言葉の意味をようやく直也は身をもって思い知った。

「おーい……おっさん?」

 目の前で現実がぶれる。過去に取り込まれそうな直也の意識を引き戻したのは、大きく顔の前で手を振るライの姿だった。直也は背筋を伸ばすと、もう1度深い息を吐き出した。

「何ぼっとしてんだよ。おーい!」

「ああ。すまん。……つかお前、何しに来たんだよ。その様子だと随分焦って来たみたいだけど」

 ライのこめかみから流れ、頬を伝っていく一筋の汗に目をやりながら直也は尋ねる。するとライは思い出したように忙しなく立ち上がり、直也を正面から力強く指差した。

「そうだよ、おっさん!」

「人を指差すなよ。指でさされていいのは、犯人だけだ」

「うるさい。自分から話振っといて、何で途中で出ていくんだよ。これだよ、これ。この写真! もう昨日のこと忘れちゃったのかよ!」

「昨日……あぁ、写真って咲さんのか」

 心を揺さぶり壊すような衝撃的な出来事が続いていたため、すっかり頭から抜けていた。昨日、ライの家にあがらせてもらい、そこで何らかの証拠が得られないかと咲の写真を取り出して見せたのだった。写真を見たライは確かに、何か妙なことを口走っていたような気がする。その内容は覚えていないが、重要そうなことだったような記憶が頭の端にこびりついて残っていた。

 しかし、直也の興味はライとのやり取りではなくもっと前の時間軸に遡っていた。あきらに関する真実を聞かされ、絶望の風に吹かれるままにSINエージェンシー跡地に出向いた直也の前に、ライは現れた。直也は彼女を連れて、トヨが貸していたという元鉈橋家に足を運んだ。

 寂れた土地に立つその一軒家の玄関のドアを叩くと、眠たそうな顔をした女性が現れ、鉈橋家に関する資料をまとめたものを手渡してきた。ライと瓜二つの顔をした、鉈橋そらの映っている写真の入った例の封筒だ。いまあの封筒は、部屋の隅に転がったメッセンジャーバックの中にしまったままになっている。

 九官鳥の怪人、"ナイン"が現れたのはその直後だった。連続誘拐殺人に巻き込まれた11人目の被害者。現時点で最後に殺されたこととなっている女子高生、滋野アヤメの姿をもつその怪人は、直也の命を何の予告もなく狙ってきた。警告、と口にしていたことを思い出す。そしてナインは秋護とバイクを走らせ向かった裏路地でも、虎視眈眈と直也を追跡していた。

 一体なぜ、自分が突然怪人に照準を合わせてきたのかずっと疑問に思っていた。もしやあの屋敷の地下で冷凍された女性死体を見つけ出し、世間の明るみに出してしまったことが原因ではないかと勘繰りもしたが、それにしても時間が開きすぎている。それならばもっと早く、怪人で直也を狙うことも可能であったはずだった。

 ではそれ以外で、と記憶を手繰り寄せる中で閃いたのが、あの元鉈橋家のことだった。貸し手であるトヨですら、そこに住んでいる人間の詳細は知らない。玄関をくぐって現れた女性の、手の甲に貼られていた大きな絆創膏が脳裏に蘇る。あの女性の対応は、突然の来訪者に対するものにしても、あまりにそっけなかった。まるであの家の内情を知られたくないかのようだった。

「まさか……」

 独りごちながら直也は想像を巡らせる。顎に手をあて、考え込む姿勢をとっている。

 自分は怪人を作っていないと、あきらは断言をしていた。怪人を操っている首謀者を探している最中だと話してもいた。どうやら黄金の鳥の力を求め、自身も化け物じみた姿をもつ一団にとっても、この地域を跋扈している怪人は不可思議な存在らしい。

 もしかしたらその首謀者があの家にいるかもしれない、と直也は考え始めていた。多くの女性らを恐怖に陥れ、殺害し、その身体の一部を奪った人物。

 推理を組み立てていくうち、直也はいてもたってもいられなくなった。唖然とするライの前で立ち上がる。タンスの上に置かれたバイクのヘルメットとキーに手を伸ばすと、それらを引っつかみ、開け放されたままのドア目がけて駆けた。「おい、待てよおっさん」と眉間に皺を寄せるライを振り返った。

「ちょっとでかけてくる。話はあとで聞いてやるよ。とりあえず鍵閉めるから、自分ちに帰れ」

「私も行く! ここで抜け駆けはずるいだろ!」

 直也のすぐ背後に駆け寄り、不服そうな視線を向けてくるライに直也は肩を落とした。

「危険なんだよ。それにお前が行っても面白いことは何もないぜ?」

 するとライはムッと唇を曲げ、背中のリュックを下ろした。一体何が始まるのかと怪訝に思っているうちに彼女はファスナーを引き、それを開いた。彼女が勢いよく中から取り出したのは、先日直也が買ってやった黄色いヘルメットだった。彼女はそれを両手で掴むと、直也の胸に押し付けてくる。

「ほら、ちゃんとヘルメットだって持って来たんだから。な、いいじゃないか。大人しくしてるからさ!」

「お前なぁ……」

「ここまできたら、死ぬまでちくしょうだろ。な!」

 切実な視線でこちらを見つめてくるライの顔を見つめ返しているうち、直也は気付けばその表情に自分を重ねていた。直也自身も一度、何事かに首を突っ込んだら、それがどんな厄介事であろうとも終わりまで足を踏みこんでいかなければ気が済まない性質だからだ。その性格が原因で時にはトラブルに巻き込まれたり、本来の目的を見失ったりしたこともある。その度に咲や太田所長には叱責を受けたものだった。

 だからライの気持ちを理解することはできる。怪人の存在を知り、それと戦う戦士を目撃し、興味を惹かれないわけがない。その証拠に彼女の全身からは好奇心の波が絶えず生まれているようだった。その濁りのない瞳を正面から受け止め、直也は乾いたため息とともに観念した。

「お前が何を言いたいのかさっぱり分からんけど。いいよ、分かった。ついてこい。その代り、ちゃんと言うこと聞けよ」

「さすがおっさん。話分かるよなぁ! よし、じゃあさっさと行こう。今度こそちゃんと鍵閉めて行けよ!」

 ライは直也の脇を潜り抜けると、ヘルメットを被りながらさっさと廊下を駆けていってしまった。その背中を見やりながら、直也は先ほどの彼女の発言を思い返す。鍵閉めて行けよ、とは拓也にも言われたセリフであった。いま、彼は怪人に敗北し意識不明の状態にあるという。この家に来た時の、溌剌とした拓也の様子からは想像し難いが日常的に命のやり取りをしている以上、このような結果が生まれることは必然だったのかもしれない。

 これが終わったら再び船見家に行き、拓也に会わせてもらおうと直也は考えていた。その時に、いい報せをベッドに伏せる彼にきっと届けることにしよう。直也は気を引き締め直すと、玄関のドアに寄りかかってこちらに呼びかけてくるライに、大股で足を進めた。




鳥の話 29

 仁――V.トールは『ホテル クラーケン』、1階にある食堂にいた。

 全ての窓が開かれており、風が室内を通り抜けるため、以前来た時のようにいるだけで汗が沁みでてくるようなことはなかった。相変わらず古い椅子や机が雑多に転がった部屋で、足の踏み場もない。腐っているものも多く、もはや本来の用途を果たすことが難しいものばかりだった。

 その中でも4本の足を無事に保っている、比較的綺麗な机を選び抜き、さらに座っても簡単には潰れないような椅子を見つけ、とりあえず腰を落ちつけられるスペースをやっとの思いで仁は作り出した。全てをやり終えるとさすがにくたびれて、黒い装甲の上には玉の汗が浮いた。

 そのあまり大きくはないテーブルを挟み、V.トールとケフェクスは椅子に腰を下ろして向かい合っている。ケフェクスが画用紙に絵を描く、その手元をV.トールは覗き込む。そこには棒人間の絵があり、右矢印が引かれて、その先には頭に角を生やした棒人間が描かれていた。

「でも、驚きだな。まさか、怪人が人の死体から作られていたなんて」

 2人の棒人間が並んで立つ図を見つめながら、V.トールは小さく頷いて見せた。驚き、というよりは信じ難い、という気持ちの方が強かったが、それを口には出さない。ケフェクスは絵を指先でなぞるようにしながら、こちらに視線を上向かせた。

「黒い鳥と人の死体で、怪人の体は構成されている。あとは各々のイメージだ。作り手の才能が、そこには出る」

「その作り手が怪人にとっての親……つまり、君にとっての、あの男というわけかい?」

「そういうことだな。俺の父上は数体の怪人を作った。だが、彼はあの事件には直接関与していない。いわばただの下っ端だ。多くの怪人を生みだし、人間たちを襲わせている人物は、他にいる」

「それが……あの事件の犯人だっていうのかい?」

 V.トールとしての目の奥で、仁は眉をひそめた。棒人間に視線を落とし、そこにニュースを報じているテレビの画面を重ねる。これで、被害者は11になりました。近隣の皆さまは外出の際、十分に注意をしてください。淡々と警告を告げる、女性ニュースキャスターの顔が思い浮かぶ。

「連続女性失踪事件……今は、誘拐殺人に名前変わったんだっけ。まさか、あの死体がこんなことに使われていたなんて」

 ケフェクスが語った、怪人に関係するいくつかの真実。その中でもとりわけ仁を驚かせたのは、怪人を生みだしているその人物が、現在日本中を騒がせている殺人事件の犯人とイコールで結ばれるという話だった。

 11人目の被害者である女子高生が誘拐された際、葉花と年が近いということもあり、大きな戦慄を抱いたことは記憶に新しかった。もし、何かの運命がこじれて、巡り合わせが悪く、葉花が標的になっていたら、と想像するだけで今でもゾッとする。おそらく日本中の高校生やその親族、友人なども同じ気持ちでいたことだろう。

 その犯人が怪人を誕生させ、女性を襲わせていた。さらにそこで襲った女性の死体を使ってさらなる怪人を生みだしている。卑劣な話だ、とV.トールはテーブルの上に置いた拳を震わせる。顔を上げ、ケフェクスを見た。

「それで、その男が、今、"黒い鳥"を所持してるってわけ?」

 黒い鳥。それは黄金の鳥を模して作られた人工的な魔鳥の名称だ。黄金の鳥を復活させるための手がかりがこの鳥にあるとあきらは予測しており、そのために仁たちは怪人を回収し、調査してその在り処を探し求めてきた。いわば、黒い鳥はデビルズオーダー全体の当面の目標ということになる。

 それが見つかれば、葉花を死の運命から逃すこともできる。V.トールは少し体を前に乗り出すと、期待を胸に膨らませ、ケフェクスに顔を近づけた。

「それで、君はその人の居場所を知っているの? だったら教えて欲しい。僕たちの目的は、黒い鳥を見つけることだ。その在り処を、知りたい」

 心音が高鳴り、落ち着かなくなる。自分で自分の身を諫めながら、その馬の口から紡がれようとしている返答を待つ。

 しかし仁のただならぬ期待に反して、ケフェクスは憂鬱なため息を零した。それだけで嫌な予感がした。そしてその胸騒ぎは的中し、「残念ながら俺たちには分からない。信じられないかもしれないが、これは本当だ。役に立てなくて、心苦しい」と自分の胸を掌全体で撫でまわすようにした。

 仁は落胆を隠しきれなかった。その姿があまりにも落ち込んで見えたのか、ケフェクスは謝罪を口にし、頭を下げた。仁はその率直さに慌てて、顔の前で手を振った。

「いいよいいよ。分からないなら、仕方ない。そんなにうまくはいかないよね。怪人が死体ってことが分かっただけでも、収穫だ。納得もいったしね」

「そう言ってくれるとありがたい。聞いた話だが、奴と黒い鳥の居場所を知るのは怪人でもほんの一握りらしい。俺の父上もおそらく、今の居場所は知らない。周到で、どこまでも隙を見せない男なんだ。きっと仲間にも隙をみせない」

「まぁ、連続殺人犯なんてやってるような人だからね。それだけも警戒心は持ってしかるべきなんじゃないかな。そうじゃなきゃ、とっくに捕まってる」

「警察も意外と有能だからな。並の人間じゃあ、犯罪なんてやらないほうがいい」

 ケフェクスの口ぶりは皮肉を吐くようだった。仁も頭に、『しろうま』近辺にある外灯のあまりの少なさを思い出しながら、彼の意見に同調する。

「それで、怪人の中でも黒い鳥の在り処を知るものは一握りらしいんだが……そのうちの1人が奴ら怪人たちの頂点に君臨する存在。その怪人は、大お姉ちゃんと、そう呼ばれているらしい?」

「大、お姉ちゃん?」

 V.トールは眉をひそめた。随分と語呂の悪い名前だ、と思うと同時に、死体や怪人の纏う空気に似合わぬ愛嬌をその発音に感じた。

「大きな姉で、大お姉ちゃん、らしい。俺も詳しいことは知らない。俺の父上はある意味で不遇だ。奴の目論見を、その頭の中身をなにも知らされていなかったのだから」

 目を細めるケフェクスからは、父に対する情念が少なからず伝わってきて、仁は好感をもつ。「そうだね」と心から同感を示すと、「でも……死体から怪人が作られたってのには、驚いたけど、納得がいったな」と話題を意図的に変えた。あまり今の話題に集中しても進展はないのでは、という思いがあった。

 言いながら仁は自分が怪人に触れた際、掌から頭に、じわりとした温かさを伴って伝わってくる映像のことを思い出す。子どものころに得た力、サイコメトリーによるものであるが、なぜ怪人の体に触ってその記憶を呼びだせるのか、ずっと疑問ではあった。サイコメトリーは物の記憶を呼び覚ます力であり、生物には効果を及ばさない。それなのになぜ、怪人にはこの力が適用されるのか。今のケフェクスの話を信用するならば、その理由もようやく判明したことになる。

 あの映像は、死体がもつ記憶だったのだ。もっと分かりやすく表現するならば、人間が死ぬ間際に経験したことに関する映像だ。魂をなくした抜け殻は、その時点でもはや生物ではない。ただの、物だ。タンパク質の塊だ。真相を突き付けられると、これまで狩りの対象としかみていなかった怪人が、悲しくそしておぞましいものに思えてくるから不思議だった。

「僕たちは、1度死んだ人間を殺していたんだね。なんかちょっと、恐ろしいというか、申し訳ないというか……」

「ま、一度死んだ人間が蘇ったわけじゃあない。それに躊躇したって今更どうにもならないし、お前たちのやってることはおそらく正しい。マスカレイダーズの連中も同じだ。怪人は本来、この世に生まれちゃいけなかった存在だ。死体を使って生まれた俺たちが、間違ってる」

 ケフェクスは淀みなく自己否定を口にする。怪人である彼からそんな言葉が出るとは思いもよらなかったので、仁は驚いた。

「直接犯行を行っていないとはいえ、俺の父上は殺人犯の側に望んでついた共謀者。俺の父上は間違っている、人間の屑だ。だがそれでも……助けたい。かけがえのない、存在だからな」

「うん、分かるよ」

 仁は自分の父親を頭に浮かべながら、共感を示す。世界を飛び回る父親にもしものことがあれば、仁は自分の全てを投げ打ってでも力になろうとするだろう。たとえ血は繋がっていなくても、親子の絆が固く結ばれていることは実感していた。

 ケフェクスはV.トールの反応に驚いたような素振りをみせたあと、目を細めた。どこか遠くを見るような表情だった。

「俺たち怪人は、しょせんカニかまのようなものだ。どんなにもがいても、どこまでもいっても模造品にすぎない。だから、本当の繋がりを尚更大事にしたいと思ってる。あの男が父であることには、嘘偽りもないからな」

「君も誰かの死体から生み出された、怪人だ」

 仁は自分の中で確かめるように呟いた。小さく顎を引くケフェクスに、さらに問う。

「君にはあるのかい? なんというか難しいけど……生前の記憶が。君の元になった人間が持っていたものが、君にもあるのかい?」

「なんで、そう思う?」

「いや、人の言葉を喋る怪人なんて初めてだったからさ。他の怪人にはなくても、君にはそういうのがあるんじゃないかと思って」

 その説は半ば勘であったが、あながち外れではないのではと自負の気持ちがあった。ケフェクスは馬の口を緩めると、胸に打ちこまれた大きな傷跡をそっと指先で撫でるようにした。

「鋭いな」

 言った後で画用紙を折り畳んだ。四つ折りにし、テーブルの隅に滑らせる。それから「その通り。俺には、俺の記憶とは別に、死体の記憶がある。それもたっぷり、色濃くな。頭の奥にひっついて、離れない。そんな感覚だ」と、後頭部に腕を回しがりがりと強く引っ掻いた。

「俺だけじゃない。兄上もそうだ。そうなるよう、父上から作られた。死体の記憶を引き継いだ怪人。自我は強いが、その分、複雑な命令をこなせるようにな」

 ケフェクスはゆっくりと首を回し、右手の方に顔を向けた。V.トールもその視線を追う。そこには小さな女の子を象った石像の周囲をうろうろする、金色の怪人、キャンサーの姿があった。頭にベレー帽を乗せ、とろけるような笑顔をみせるその幼女の石像はあの地下倉庫にあったものに違いなく、なぜこんなところにと仁は呆然とするほかない。さらにキャンサーがその石像の全身をまんべんなく、黄色のタオルで丁寧に拭いていることに、尚更不可解なものを覚えた。

 明らかに昂揚した様子で、ぶつぶつと何かを呟きながらキャンサーは石像に顔を近づけ、その頭を撫でている。彼の口からは、「やはり小さな女の子は最高だ」であるとか、「やはり石化はモデルがいいと映える」であるとか「これは芸術だ。僕は興奮してきた」であるとか、不穏としか呼ぶ他ない単語が端々に聞こえてくる。最終的には幼女の石像を抱きしめ、頬ずりをし始める。テーブルに頬杖をついたケフェクスが大袈裟にため息をついている。V.トールはその光景を眺めていることしかできない。

 キャンサーが愛でているその石像を、横から出てきたS.アルムの足が突然、蹴り飛ばした。石像は低い衝撃音を響かせて床に倒れ、側にいたキャンサーも釣られるようにして転げた。悪魔然とした姿を持つS.アルムはキャンサーを軽蔑の眼差しで見下ろしながら、鼻を鳴らす。

「この場所に、そんな気持ち悪いものを持ってくるんじゃない! たとえ石像でも、吐き気がする」

「貴様ァ! 俺の芸術を!」

 キャンサーはすぐさま起き上がると、S.アルムの肩を掴んで詰め寄った。その表情は怒りあまり歪んでいる。S.アルムはキャンサーの胸を強く叩いて彼の体を自分から遠ざけると、声を荒らげた。

「ここは黄金の鳥の膝下なる神聖な場所! そのような場所にションベン臭いガキを持ってくるなど言語道断! お前ごと出ていけ!」

「そのションベン臭さが小さな女の子の魅力だというのに、分からない奴め。この最強の怪人である僕が、お前らに力を貸してやろうっていうんだ。仲間にしてくれと泣いて請うならまだしも、追いだされるいわれはない!」

「残念だな。俺はまだ、お前らを受け入れることを認めちゃいない。俺は子どもと、女と、礼儀を知らないアホが大嫌いでね。女とガキが好きな気持ち悪いお前と一緒の空気を吸うなんて、ごめんだな」

「気持ち悪いのは貴様のほうだろう。この浮ついたホモ野郎め。どうせ男なら誰でもいいんだろ?」

「……人を小馬鹿にするのも、いい加減にしろ」

 S.アルムはキャンサーの腕を鷲掴みにすると、その手に力をこめた。ギリギリと骨の軋むような音がこちらまで響いてくる。

「発言を撤回しろ。俺は一途な男だ。浮気などもってのほかだ。俺が心に誓った男は、この世にただ1人だけだ」

 ちらりと、S.アルムがこちらを一瞥してくる。その視線の意味が分からず、また突然こちらに目を向けられたことに動揺して、仁はV.トールの下で半笑いを浮かべるしかない。

 S.アルムはキャンサーの手を中空に投げ出すようにすると、その緑色の光を灯す、ぎらついた瞳で相手を睨みつけた。キャンサーも息を荒くして、S。アルムに剣呑な眼差しを送っている。

「やはりお前とは、決着をつけなくてはいけないようだな」

 S.アルムが背中から蒼銀の槍を引き抜く。

「あぁ、望むところさ。貴様じゃあ、僕の足元にも及ばないことを思い知らせてやろうか」

 怒りに顔を赤く染めながらキャンサーも腕を後ろに回し、高枝鋏を取り出す。

 一拍を置いて、2人は互いの息がかかるくらいの至近距離でそれぞれの得物を大きく振り下ろした。甲高い金属音と火花が瞬き、激しい衝突が部屋を揺るがす。

「……いいの? 止めなくて」

 雄たけびをあげながら、槍と鋏をぶつけ合わせでは離れ、殴り合っては後ろに跳び、激しい大立ち回りを繰り広げている2人を眺めながら、V.トールはケフェクスに問う。ケフェクスはいつの間にか取り出していたカニかまを頬張りながら、呆れたように鼻から息を抜いた。

「無理だ。ああなった兄上は、俺じゃあ止められない。まぁ、いつものことだから何とかなるだろう。あんたのほうこそ、いいのか?」

「嫌だよ、あんなところに割って入るの。怪人やマスカレイダーズと戦うよりも、恐ろしい」

 椅子やテーブルを押し退け、破壊しながら身をぶつかり合わせる2人をしばらく見物していると、食堂のドアが軋んだ音をあげながら開いた。足音もなく、床の上を滑るようにして入ってきたのは――ピンクと白を基調としたボディをもち、背中に金の翼を揺らす怪物、華永あきらの持つもう1つの姿である、Z.アエルだった。

 いつもとは装いが異なり、彼女は黒と黄に塗られた厚手のマントを肩に羽織っていた。そのこれまでとはどこか様子の違う、崇高な佇まいにV.トールは思わず席を立ち、身を固くした。彼女がこの部屋に現れたことで室内の空気が一変し、張り詰めるような緊張感が広がった。その変化を敏感に嗅ぎ取ったのか、キャンサーとS.アルムも争いの手を休め、じっとZ.アエルのほうを見つめる。

 Z.アエルはV.トールとケフェクスのいるテーブルの近くまで、歩を進めると部屋をぐるりと見渡した。

「はじめまして。あんたが、黄金の鳥を守る人たちの、親玉か。今回は迎えてくれたことを、心より感謝している」

 ケフェクスは立ち上がり、口調とは裏腹なかしこまった仕草で手を差し伸ばした。Z.アエルは彼の手と顔を交互に眺めた後、ふっと息を漏らすと、軽い握手を返した。

「あなたたちが、電話で話を聞いた、怪人ですか。ボクたちに協力してくれるらしいですね」

「条件付き、ではあるが、そちらにとっても悪い内容じゃないはずだ。おそらくそれも、電話で聞いているだろうが」

「これは驚きだ。まさかボスってのが、女だったとはね」

 気付くと、こちらにいつの間にか寄ってきていたキャンサーがケフェクスの背後から首を伸ばしていた。それからケフェクスを押し退けるようにして、前に出る。警戒感など微塵もない動作でZ.アエルと正面から向き合った。

「それに大人の女性ではないな。僕の勘では中高生だろ? 僕の勘はよくあたるんだ。なぜならナイスな存在だからな」

 顔をZ.アエルに近づけ、じろじろとその体を舐めまわすように眺めるキャンサー。Z.アエルは無感動にじっとその陰湿な視線を受け止めている。

「その神々しさ、実に僕好みだ。石にしてみたくなる体だな」

 キャンサーはZ.アエルにゆっくりと、何かを探るように腕を伸ばしていく。その目は確かに、彼女のもつ雰囲気に呑まれ、惹きこまれている様が見受けられた。そしてその指が、彼女の腰に触れようとした、その瞬間。

「やはり無礼な奴だな、お前は」

 2人の間に横から入り込んだS.アルムがキャンサーの手首を掴んだ。キャンサーはサングラスのような巨大な双眸を憎々しげに歪ませた。勢いよくS.アルムの手を払いのけ、激昂する。

「男が僕の手を軽々しく握るんじゃない! 僕の手に触れていいのは、小さな可愛いお手手だけだ! 貴様の汚らわしい手で僕のナイスな心が穢れたらどうする!」

「どぶ沼みたいな濁った心しといて、よく言うぜ。安心しろ。お前の心はなにをされようが、これ以上汚くはならねぇよ。お前の目を見れば分かる」

「なんだと貴様、言わせておけば! 僕に対して無礼だろ!」

「ボス。あなたからの命令であっても、俺は反対ですよ。こんな奴を仲間にするなど、正気の沙汰ではない」

 感情をむき出しにしたS.アルムは珍しく、あきらに抗議する。しかし彼女はその訴えを視線だけで制すると、目の前のキャンサーに目を戻した。

「1つ確認しておきたいんですけど。あなたたちは、強いんですよね」

 Z.アエルの口から飛び出したセリフに、仁は唖然とする。さらに「ボクたちの目的に見合うだけの、働きをしてくれるんですよね?」と言い換え、キャンサーを見上げる。実に挑発的な態度だった。キャンサーは鼻を鳴らすと、胸を大きく張り、自信満々に答えた。

「当然。僕を誰だと思っている? 最強の怪人様だぞ。お前たちこそ、僕の足を引っ張らないか心配なぐらいだ」

「なら、安心ですね」

 Z.アエルは笑いながら言うと、今度はケフェクスを見た。彼は恭しく再び頭を下げた後で、彼女を見つめ返した。その目には決意をこめた、力強さが宿っている。

「自慢じゃないが、そんじょそこらの怪人よりも力はあるはずだ。きっと役に立てると思う。要求を聞き入れてくれた以上、期待は裏切らないよう、尽力したい」

「おいおい、ケフェクス。あまり謙遜するなよ。お前はこの僕のナイスな弟なんだ。他の怪人とは、レベルが違う。もっと自分の力を誇るんだ」

「お前はもっと、自重したらどうだ」

 ケフェクスの控えめな態度を指摘するキャンサーに、鋭く切り込むS.アルム。再び殺伐とした空気の流れる2人の横で、Z.アエルは改まったように、口から息を吐きだした。

「みなさん」

 ぐるりと、彼女は一同を見渡す。1つ呼吸を置き、それから慎重に言った。

「突然のことですみませんが、マスカレイダーズを、倒しましょう」

「えっ」

 V.トールは思わず声に出してしまった。S.アルムが目を見開くのが見えた。ケフェクスが口を歪め、キャンサーはふっと息を漏らす。様々な感情が入り乱れる場に、Z.アエルはさらに言葉を投じた

「信じるとか疑うとか、今はそんなこと言ってられる状況じゃなくなりました。今必要なのは、マスカレイダーズを潰せるだけの戦力です。そのためなら猫の手も借りたいんです」

「ここにいるのは、蟹と馬ですけどね」

 不服さと喜びの入り混じった複雑な感情を含ませた声で、S.アルムが指摘する。

「猫よりも蟹の方が何倍も役に立つだろうが」

 キャンサーが実にくだらないことを、腹立たしげに呟く。

「それは違いない。さすが兄上。ナイスな切り返しだ」

 ケフェクスが棒読みで兄を賞賛する。キャンサーはしたり顔で、鼻息を荒くした。

「なんで、急にそんな事態に?」

 V.トールは動揺を隠せず、Z.アエルに問いかけた。これまで怪人に焦点を絞り、黒い鳥の在り処についての情報を集めるという指針で行動していただけに、そのあまりにも急激な方向転換は解せなかった。マスカレイダーズは適当にあしらい、真っ向からぶつかることはなるべく避けるべき存在だと仁は認識していた。エレフを蹴り飛ばした時の感触が蘇る。破れた装甲服の中から現れた男の、苦しげな表情が脳裏に過った。怪人ならばまだしも、やはり人間を相手に戦うことは仁には苦痛だった。暴力に訴えて物事を解決すること自体、昔からあまり好まなかったし、そういうこととは無縁の生活を送っていたからだ。

「それに、僕たちの目的は黒い鳥だったはずだ。そうやって黄金の鳥を解析するって、君は言ってた」

 その足がけとなる証言だってついに手に入れたのに、と思いながら、V.トールは横目でケフェクスを窺う。彼もまた、腕組みをした姿勢でこちらに目を向けていた。

「それともここまできて黄金の鳥を復活させるのを、諦めるつもり?」

「諦めるわけないですよ。でも今は、非常時なんです」

 Z.アエルの口調は厳しい。そこからは切迫した様子が感じ取れ、仁はそれ以上言葉を継ぐことをためらった。代わりに「非常時って……どういうこと」とだけ、躊躇いがちに尋ねた。

 Z.アエルはまた一同を順に見やった後で、驚愕の事実を口にした。

「――じきにマスカレイダーズが、ここに攻めてきます。多分今日か、明日には」

「なんだって」

 声をあげたのはS.アルムだ。仁も同じセリフを心の中で叫んだ。まさか、と思う。この場所は深い霧で閉ざされていて、許可を与えた者以外はホテルを見つけることすらできないのではなかったのか。

「なぜ、奴らにこの場所がばれたんです? ステルスモードは働かせていたし、俺も仁もへまはしていないはずですけど」

 S.アルムが眉間に皺を寄せ、仁が思っていたことを代弁してくれる。その目は不審げにキャンサーとケフェクスを眺め回している。こいつらがアジトをばらしたんだ、とでも言いたそうだった。

「ボクが誘ったんです。マスカレイダーズを、一掃できるように」

 実に滑らかな物言いで、とんでもないことをZ.アエルは口にする。しかし誰も彼女の勝手な行動を咎めることはしなかった。その身から発散されている憤怒のオーラは、皆の口を黙らせるには十分すぎた。Z.アエルを見ているだけで、全身から一気に冷や汗が吹き出す。戦慄が腹の底から喉まで駆けあがり、軽くえづいた。

「いいですよね」

 Z.アエルは明るい口調で言った。しかしやはりそこにも、煮えるような感情が滲んでいる。なにがいいのだ、とは思っていても、口にだせる雰囲気ではなかった。

「怪人よりも先に、マスカレイダーズを倒しましょう。邪魔者がいなくなったほうが、これからスムーズにいきますし。そもそも最初に仕掛けてきたのは向こうです。これまでが、悠長すぎたんです。許してきたのが、間違いだったんです」

 マントを翻し、Z.アエルは興奮気味に言い募る。彼女にしては珍しく、沸きだした感情を制御できていないようだった。その強い声は部屋全体に反響するかのようだ。恐ろしいスピードで変転していく事態についていけず、仁は彼女の言葉を右から左に流しながら呆然と立ち尽くす。

 でも、と仁がようやく口を開こうとした瞬間、S.アルムが足を前に踏み出した。その鋭く生え揃った牙を見せつける。

「俺は当然、賛成です。ボス。あんな奴ら、さっさと潰しておくべきです。百害あって一利なしとはこのこと。生かしておいても、なにもいいことはない」

「奴らとは因縁があるんだよな」

 S.アルムの意見に同調したわけではないだろうが、キャンサーが口を開いた。その表情は綻んでいる。この状況を心底楽しんでいるようだった。

「だけど僕も忙しいから、そろそろ奴らとの遊びを終わりにしてやってもいいと思ってたところだった。奴らと僕の強さの差は歴然としている。楽勝さ。楽勝すぎる。な、ケフェクス?」

 意気揚々と告げるキャンサーに、ケフェクスは大きく頷いた。背負った車輪が揺れる。たてがみを震わせながら、彼もまた嬉しそうに両手の拳同士をぶつけ合わせた。

「俺もマスカレイダーズには少なからず関わりがある。いいだろう。戦うには申し分のない相手だ。全力で取りかかろう」

 ケフェクスというこの場での最後の良心を失ったことで、仁は取り残されたような気分に陥った。足場を取り除かれたような浮遊感が体を襲う。ここまできてしまえばもう、多数決だった。1人の身勝手な反論で、この4人の意見を覆せるとは思えない。仁は黙りこくり、傍観者のスタンスに立って変わっていく事態を見守る。

「ですが、ボス。それならば余計にこいつらを仲間に引き込むのは危険です」

 組織の目的を対マスカレイダーズに移行するという方針には異論のないS.アルムであったが、まだ人選には納得がいっていない様子だった。

 怪人2人を一瞥すると、「これは大事な戦いです。だから尚更、得体のしれないような奴らを引き込むべきではないと俺は考えます」とZ.アエルに物申した。さらに「この蟹は装甲服を使っていた。マスカレイダーズからのスパイという可能性も考えるべきです」と不審を顕わにする。その発言にキャンサーは、口を苦々しく歪め不満を吐き出した。

「僕を勝手にあんな奴らの仲間にするなよ。まったく、見る目がない奴はこれだから困る」

「疑いたい気持ちは分かる。今は信じろとも言わない。結果で示そう。奴らを倒せば、それでいいだろ?」

 S.アルムと向き合ったケフェクスがわずかに首を傾げる。S.アルムは2人を見比べた後で、Z.アエルに目をやった。彼女は1つ頷くと、先ほどよりも若干穏やかさの戻った声で言った。

「はい。お願いします、頑張りましょう。黄金の鳥を、守るために。みんなで戦いましょう。みんなの幸せのために」

 大仰な言い回しに、仁は戸惑う。燃え上がり、士気を高め合う4人をどこか冷めた目で見つめながら、V.トールは焦りを感じ始めていた。


14話 完

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