11話「喫茶店の悪魔(後篇)」
魔物の話 23
タルの周囲に空いた、細長い穴にプラスチック製の小さな剣が差し込まれる。息を呑むレイと葉花の間でスプリングの軋む音が鳴り、数秒の間を置いてタルの中から黒ひげが飛び出した。
剣を刺した葉花が派手な悲鳴をあげ、レイも身を竦ませる。しかしカウンターに転がる黒ひげを見つけると、自然とその表情には会心の笑みが広がっていった。
「どうやら、私の勝ちみたいだね」
余裕綽々とした動きで黒ひげを拾い上げ、レイはわざとらしくため息をつく。葉花は眉間に皺を寄せ、悔しげに上唇を噛んでいる。だが何かを思いついたように目を見開くと、顔の前で手を叩き合わせた。
「分かった、今のは練習だ! 黒ひげさんがつまらなそうだったもん!」
「違うよバカ。負けを負けと認めなよバカ」
「なんだと! いけないんだぁ、バカって言った方がバカなんだよ!」
「知らないの? バカって言われた方がバカなんだよ」
とにかく、とレイは嘆息し、タルに刺さった無数の剣を1本ずつ引き抜いていく。空いている穴は2つしかない。黒ひげがギリギリまでタルにしがみつく長期戦だった。
「あなたのことを、敬わないで済むのは本当に良かったよ。口先だけでも、絶対に嫌だったからね」
「なんだと! 青色、この金色がふざけてくるー!」
「ふざけてるのは、あなただよ。敗者は黙って、そのへんで丸くなってるんだね」
カメラのシャッターを切る音が背後で聞こえ、レイは振り返った。そこには丸椅子に腰かけた華永あきらの姿があり、ぎこちなく笑う彼女を携帯電話で撮影する秋護の雄姿があった。先ほどから耐えずフラッシュが焚かれ、随分とデジタルなシャッター音が店内に響いている。正直、かなり鬱陶しい。
「やっぱり何度見ても素晴らしい髪の色だ……なんだか、こう熱くなるな!」
「あの……もういいですか?」
「ちょっと待て。まだ右ナナメ後ろからのアングルを撮ってない、あ、ポーズは撮らなくて大丈夫。用があるのは、君の髪なんだ!」
力説をしながらあきらの後方に回り、秋護は再び携帯電話のカメラを向ける。「おぉ、光の角度で白くもみえる。完璧だ……。まさか現実にいるなんて、これこそ非現実的だ!」と呟きながら、また写真を撮る。
さらに彼女の後頭部からぶら下がるポニーテールの部分を、掌で撫でまわす。また服の上からでも分かるくらい豊満な彼女の胸を凝視する。渦中に置かれたあきらは身を固くしながら、前を向いたまま葉花を宥めるように言った。
「葉花さん、約束は守らないとダメですよ」
「でもー」
「敗者さんは、勝者さんに従わなくちゃなんですよ」
椅子に座らせられ、背筋を伸ばしながらひたすら頭の写真を撮られているあきらの口を通して発せられると、その言葉も妙な説得力を持って聞こえてくる。それからあきらは横目で救いを請うように、または呆れるようにレイを窺ってきた。
「随分変わった、お兄さんなんですね」
「変わってるんじゃなくて、変態なんです」
さすがにあきらが憐れに思えてきた。レイは秋護に背後から近づくと、そのわき腹に黒ひげの剣を突き刺した。あふぅ、と気の抜けた声を出し、秋護は身を捩じらせる。
「俺がわき腹弱いこと知ってて、そういうことする! 俺を刺しても黒ひげは飛び出ないぜ?」
「知りませんよ、そんな気色悪い情報。もう終わりにしましょう。いつまで撮ってるつもりなんですか、もうべたべた触りもしたでしょう?」
「いや、むしろここからが本番だ。全アングルを制覇が目標だからな! 俺のコレクター根性はいま、盛んに燃え始めているのさ」
「バンダナを耳に詰まらせてしまえばいいのに……」
レイは吐き捨てた後で、人差し指を伸ばし、秋護の鼻先に押しつけた。「1」という意味だ。
「あと1、数える前に止めなきゃ携帯電話を破壊しますよ」
「せめて1数える間にしてくれないと、さすがに俺でも無理だ。俺に非現実的な力はないからね」
「はいはい」
「痛い痛い! 剣を耳に刺さないで鼓膜が飛び出してしまう!」
分かったから、もう終わりにするから。そう言って観念すると、秋護は携帯電話を閉じポケットにしまった。あきらはようやく嵐が過ぎ去ったことを知ると、安堵の息を吐き出した。
「災難でしたね」
あきらの耳元に口を近づけ、小声で同情を示す。あきらは立ち上がり、尻をはたきながら困ったように眉を寄せた。
「でもボクが負けたのが悪いんですから。あんまり、悪いことは言えませんよね」
「参加すること自体が不条理だから、言っちゃっていいと思う」
「でもそれを決めたのもボク自身ですから……やっぱり約束は守らなくちゃ、です」
約束とはいっても、先ほどの状況は文句や難癖の1つくらい付けても構わないだろう。自分やあきらのような、女子中高生なら尚更だ。しかしあきらは苦情さえその口から漏らすことはなかった。これを忍耐強いと取るべきか、内気と取るべきかは、実に判断の難しいところだった。
この少女も怪人なのだろうか。レイは笑みを浮かべるあきらに、懐疑的な眼差しを送る。華永という名字も気にかかっていた。それは拓也が怪物に向けて発し、黒城が当惑したのと同じ名前だ。それとこの少女が無関係であるとは、レイにはどうしても思えなかった。
いっそ暗に示した言動で揺さぶりをかけ、その真意を確かめてみるか。そう考え、身を乗り出そうとしたその時、店内に来客を告げるベルが鳴り響いた。途端に沈黙が一同の間を駆け抜け、全員の視線がドアのほうに集中する。
現れたのは麦わら帽子を被った女性だった。20代後半だろうか。淡い黄色のワンピースを身に纏い、血管が青く透き通って見えるくらいに肌の色が白い。体は骨と皮しかないのではと疑うほどに細く、まるでこの世の生き物ではないかのような不気味さを漂わせていた。
「すみません、あの、ちょっと今日はお店をやっていないんです」
この店の人間であるはずの葉花ではなく、なぜかあきらのほうがそう釈明する。申し訳なさそうに目を伏せるあきらの横で、レイは身を縮めた。閉店の表示を無視して押し入り、いつの間にかすっかり店内でくつろいでいる自分が急に恥ずかしくなる。
共犯者である秋護を見やれば、いつの間にか彼は葉花と談笑をしていた。「レインボーロードなら俺を止められないぜ? 小学生時代、クラスで一番早かったんだ」とよくわからないことを豪語している。彼の適応の速さに、レイは舌を巻いて傍観する他ない。「えー。私あそこ嫌だなぁ。すぐ落ちちゃうんだもん」と葉花は口を尖らせていた。
あきらが謝罪をした後も、女性はドアの前に留まり続けていた。後ろ手にドアを閉め、瞳だけを動かすようにして店内全体を見渡している。それからレイの顔に視線を止めると、口元に冷笑を浮かべた。まるで獲物を前にした猛禽類のような、ぎらついた眼光を向ける。
「そこにいたんですね。黒い鳥は」
女性はレイを真っ直ぐ、射抜くように指差した。黒い鳥、という単語にレイは警戒心を強めた。自分の体内に宿る鳥の血を滾らせ、怪人としての機能を意識してオンに切り替える。
「この頭上に浮かぶ蒼穹のように、あなたを無に還すためにやってきました。それでは、よろしくお願いします」
レイに突きつけていた指をゆっくりと動かし、手首を起こすようにして天井を指す。その瞬間、麦藁帽子のツバで陰になっている女性の目が金に輝いた。それからその体の輪郭がうっすらとぼやけていき、怪人の体躯へとすり替わる。
息を呑む間もなく、レイは後頭部に痺れを感じた。怪人探知機の作動だ、と気づいた時には、目の前から女性の姿が完全に消失し、成り代わるようにして怪人がその身を晒している。
「人目につくことは、あまり喜ばしいことではありませんが。来てしまった。なぜなら私は短気だから。そう、うかうかしていられないのです」
ケージを模した歪な体色をもつ体の、首の部分に鳥が止まっている。そうとしか思えない、奇妙なデザインの怪人だった。その頭部は雄大な翼を大きく広げた鷲の剥製のようだ。そしてそのイメージを確固なものとするかのように、胸部には羽を休めた鷲の絵が描かれている。その一見すれば滑稽な姿をした怪人の口から発せられる冷静で丁寧な言葉は、逆に恐怖を強めるスパイス代わりになっていた。
「怪人!」
レイは叫び、身構えるが、その時にはすでに怪人の手から羽が放られていた。空気を裂き、まるでダーツのようにレイの額目掛けて射出されたそれは、見紛うことなく黒い鳥の羽だ。二枚貝の怪人、イストが持っていたものと全く違いがみられない。
怪人の手から羽が離れ、レイの体に届くまで、時間にして僅か数秒。しかしレイにはまるでスローモーションのようにその光景がはっきりと見えていた。だから、その間に割って入ってきた人影も十分に認識することができた。
その人影、秋護はバンダナの結び目を頭の後ろで揺らしながら、颯爽と視界に現れた。彼は空中で鳥の羽をキャッチすると、ゴミでも捨てるかのように、床に投げつけた。
「待ちくたびれたぜ、怪人さん? まさか、こんな人の目のあるところで会うとは思ってなかったけどな」
レイは床に深々と突き刺さった鳥の羽を一瞥した後で、秋護を見上げる。予想に反することなく、彼の表情は日中の高い陽のように燦然と輝いていた。そのあまりに少年じみた顔つきに、頼もしいと思う一方で呆れる。
「レイちゃんと一緒に行動してれば、お前らにまた出会えると思ってたからなぁ! さぁ、始めようぜ。楽しい楽しい非現実の始まりだ!」
秋護はジーンズのポケットから『1』の数字の振られたメイルプレートを抜き取る。左手にはいつの間にか、まだ水が底に残ったガラスのコップが握られていた。コップの飲み口と、プレートの角とを掛け声と共に彼は叩きつける。刹那の沈黙を経て、ガラスの表面が薄ぼんやりとした光を発し、さまざまな理論と法則を無視して、コップの中から銀の光沢の浮かぶ鎧のパーツが飛び出してきた。
それは秋護の体を纏うようにして組みあがる。そうやって完成した装甲服、ガンディに包まれた秋護は拳を固めると、足を踏みだし、いきなり怪人の頭部を殴り飛ばした。
「この間はお前の仲間に世話になったからな……今日は思う存分、暴れさせてもらうぜ!」
足元をふらつかせる怪人に容赦なく、続けざまにボディーブローを放った。さらに浮いたその体に回し蹴りを打ち込む。怪人の体はドアを突き破り、外に飛び出していった。
レイはあきらと葉花のことが気にかかりつつも、秋護の後を追った。葉花は立ち上がった姿勢で、きょとんしたまま固まっており、あきらもまた事態を把握できていない様子で呆然と立ち尽くしている。
それが演技なのか、それとも本当に何も知らないのか――最後まであきらの心の底を覗けぬまま、レイは意識を目の先の怪人へと移す。
秋護の纏ったガンディと怪人との戦いは、歩道を超え、反対側の雑木林で行われていた。慌てて周囲を窺うが、偶然にも人の姿は見当たらない。レイは走り、文字通り火花を散らし合う2人に近寄った。
「どうした? こんなの、屁でもないぜ?」
ガンディは怪人の放つ空気弾を避ける素振りすら見せず、やすやすと胸で受け止める。その体は揺らぐが、痛みを感じているような様子はない。むしろ秋護の声は快楽のニュアンスを含んでいた。
「あんた……何者?」
拳を腹にうずめられ、地面に叩き伏せられながら、怪人が擦れた声を吐き出す。ガンディはその顔面につま先を突き刺した。
「マスカレイダーズのガンディ! 世界有数のハーフニートだ!」
蹴っ飛ばされ、仰向けに倒れる怪人の首をすかさず掴み上げ、空に掲げるガンディ。その口からは高らかな笑いが発せられている。鳥の足を模している首を装甲服のパワーで絞め付けられた怪人は、その苦痛から逃れようと必死に手足をばたつかせている。
「自己紹介したんだ。お前も自分の名くらい語るのが筋ってもんだよな? さぁ、訊き返そう。お前は何者だ?」
ガンディは先ほど、黒い羽を床に放ったのと同じくらいのぞんざいさで、怪人を地面に投げ打った。背中と後頭部を強くぶつけた怪人はうめき声をあげながら、ごろごろと転がり、ガンディから一定の距離をとった。今気付いたが、その頬にやはり赤い羽根のマークが刻まれている。
「……私は五女、“グリフィン”。言っておくけど、あんたの攻撃、ちっとも通じてないですからね!」
「嘘吐け。膝が笑ってるぜ? じゃあ、もっと俺を楽しませてくれ。非現実の世界に、誘ってくれよ!」
ガンディは腕を後ろに引き、軽く跳躍すると、鷲の怪人――“グリフィン”目掛けて拳を打ち出した。だが、その渾身の一撃は空を切った。
怪人の体が一切のモーションも布石もなく、突然巨大な竜巻と化したからだ。螺旋状に回転する風の塊には、さすがにパワーが自慢のガンディの拳も無力だった。意気揚々と突っ込んでいったガンディは大きく弾き飛ばされ、くの字に体を折って地面に叩きつけられた。
竜巻となったグリフィンは足元の草を次々と刈り取り、土を吐き出しながら猛進していく。その軌道は確実にレイのほうに向いていた。目を開けているのも困難なくらいの強風が、レイの足を地から浮かせる。体がよろめき、引き倒されそうになるのを、手近にあった木を掴むことでなんとか堪えている状態だった。長い髪がばさばさと音を立てて翻り、青々と茂っていた葉がまとまって木から落下してくる。根元にはすでに、葉っぱの山が1つできあがっていた。
竜巻は大量の土煙を吐き出しながらレイの前まで来ると、急に萎みだした。徐々に回転速度が緩やかになっていき、勢いを失った独楽のようにバランスが崩れていって、ついには怪人に戻る。
怪人は元の姿を取り戻すやいなや、その手から黒い鳥の羽を投げつけてきた。まずガンディを突き放し、レイに照準を合わせる。始めからそういう魂胆だったのだろう。レイを黒い鳥にするため、それがあの白衣の男が下した決断であるとイストが言っていたことを思い出す。
しかし、そんなことにおめおめと従ってやるものか。レイは飛んでくる羽をすんでのところで回避した。羽は背面に立つ木の幹に突き刺さって止まる。そして舌打ちをする怪人目掛けて、いつの間にかその背後に近づいてきていたガンディの拳が振るわれた。
グリフィンは振り向きざまにその一撃を、十字に組んだ腕で防いだ。だが衝撃は大して殺すことができなかったらしく、全身を痙攣させるようにして片膝をつく。そこにガンディの強烈なボディーブローが飛んだ。
「なぁ、おい。戦いって、超楽しいよなぁ!」
誰に同意を求めるわけでもなく、嬉々とした叫びを空に響かせるガンディ、もとい、秋護。
怪人はさらに間断なくさらに放たれたガンディの回し蹴りを紙一重でかわすと、地をつま先で引っかくようにして飛翔した。
さらに上空で竜巻に変化し、今度はレイの頭上をも飛び越える。その行く末を目で追うと、店の方にゆるやかな軌跡を描いて降下していくことが分かった。『しろうま』の破れたドアの前には外での騒ぎを見に来たのか、葉花とあきらの姿があった。
まさか、とレイが思った時には竜巻はグリフィンに戻っている。彼女らの前に着地すると怪人はあきらを押し退け、葉花を手慣れた動作で羽交い絞めにした。
「なにすんだ! このとりー!」という葉花の文句を黙殺し、もがくその体を片腕1本で抑えつけながらグリフィンは心から嬉しそうに笑った。
「さぁ、あなたがどうするべきかもう分かったんじゃないですか? 最高の怪人」
レイはグリフィンを睨む。個人的感情でいえば葉花のことは好かないが、自分のせいで他人が傷つくことはあまり気分のいいものではない。そっと背後を一瞥するが、ガンディは黙ってゆっくり被りを振るだけだった。仲間のことを第一に考える傾向にある秋護は、こういう状況にめっぽう弱いのだ。自分の危険は省みなくても、他人の命を賭すことはできない。彼は、そういう男だ。
「大人しく私の命令に従いなさい。……そうでなければ、最悪の事態になりますよ。私は、この灼熱の太陽のように短気だから」
「人質なんて、随分セコいことをするんだね」
「何を言っても無駄ですよ。私の心は風と一緒。形はなく、壊れることもない。傷ついてもすぐに戻る。これが私の強さ」
「人は傷ついて強くなると思うんだけど」
「だからあなたは弱い。私が、いや、私たちが成長させてあげる。それが使命。あなたが、黒い鳥なんです。今は赤子のようだけど、もっと強くなれる……」
グリフィンは葉花の首を強く絞めあげる。彼女は呻き声を口の端から漏らし、無理やり黙らされた。レイはその痛ましさに足を踏み出しかけるが、なかなか気持ちの踏ん切りがつかない。人質か脅迫かで詳細こそ違えど、イストの時と同じように、自分はまだ迫られている。生まれながらの宿命に寄り添って黒い鳥になるか、それともその摂理に逆らうべきか。
レイはもちろん断固として逆らうつもりでいるのだが、今のような状況に陥ると心が揺れた。怪人とは何なのか、自分とは何なのか、少し分からなくなるからだ。
「葉花さんを、離してください」
レイではもちろんなく、後ろで立ち竦んでいるガンディでもなく、そうとなればあとはこの場に1人しかいなくて、すなわちあきらが突然言葉を発した。驚いて見ると、その表情は強張っており先ほどの柔和な様子は掻き消えていた。
グリフィンは鼻を鳴らした。「何を言ってるんですか? あなたには訊いていない。それとも、この場で八つ裂きにされたいんですか」と凄味のある声を発する。
しかしあきらはレイの予想の範疇を超えて、頑固だった。そして脅しにも屈しない強い精神力を備えた女性だった。
「葉花さんを離してください」
もう1度放ったその言葉は、先ほどよりも若干の憤りを孕んでいるように思えた。レイは自分に向けられているのではないと分かっていながらも、鳥肌がたった。ガンディからも緊張した雰囲気が伝わってくる。なぜかグリフィン本人だけが、その迫力に気がつかない。
グリフィンはさらに葉花をヘッドロックの要領で絞めると、大きく首を傾げた。鳥の羽がバサバサと音を発しながら揺れる。
「生意気な子。決めました。先にあなたから八つ裂きにする。どう? 最高の怪人。要求を呑めないならこのままこの子が」
グリフィンの発した言葉の続きは、空気に溶けた。グリフィンの首、つまり鷲を象った頭部が真っ二つに裂けた。胴体から切り飛ばされ、ごろんと地面に転がる。さらに両腕も千切れ飛び、宙を舞った。首と両腕を失った怪人は、支えを失ったマネキンのように、呆気なく倒れた。
「え……?」
レイは目を疑った。瞬きすらしていた覚えはない。それなのに一体、何が起きたのかまったく理解できなかった。
葉花は抱えられていた。ピンクと白を基調とした鎧の怪物に、だ。背中には黄金に輝く大翼を抱き、全身には金色の線が何かの記号を描くように引かれている。その怪物は怪人の体を片足で踏みつけ、咳き込む葉花の体を壊れものでも扱うかのように両腕で支えていた。
そんな怪物、つい2、3秒前までには存在しなかったはずだ。そして代わりに、あきらの姿がなくなっていた。その事実が一体何を意味するのか。
「あおい、の?」
怪物の胸に抱かれながら、葉花が大きな目をさらに丸くして、問いかける。怪物はその身を硬直させたまま、なにも答えなかった。
鎧の話 22
「……でも、おっさんは凄いよ」
突然発せられた言葉に、びくりと体を引きつらせ、それから直也は恐る恐るライを振り返った。彼女はあまり弾みの良くないゴムボールを、それでも必死に力を込めて地面に叩きつけては、キャッチしていた。
「藪から棒に、なにがだよ」
「好きな人のことを、今でもずっと忘れないで、思い続けてるんだろ? なんというかさ、それ聞いた時、私、安心したんだよ。いなくなっても、忘れられないんだって。それって凄く、大事なことだよ」
「……どういうことだよ」
彼女の言葉の間、間を縫うように、ポンポンと弾んだ音が響く。その目はじっと跳ねるボールの軌跡を見つめていて、どこか哀しげだった。
「このボールもそうなんだけどさ。やっぱり、忘れられるのは怖いんだよ。誰かが見つけてあげなきゃいけないんだよ。だから私は……ディッキーを忘れたくないんだ。怒って泣いて苦しくても、それでもディッキーが生きていたことを、覚えてあげてなくちゃいけないんだ」
一息に彼女が発したその声は、ひどく揺れていた。俯いたまま立ち止まる。直也も足を止め、肩を震わせるライをじっと見つめていた。
「それなのに、お父さんやレイは、もうディッキーのこと忘れちゃってるみたいなんだよ」
「そんなことは、ないだろ」
「あるんだよ!」
ライは怒鳴った。空気がきんと波立つ。直也は口を噤み、黙って話の続きを待った。顔をあげた彼女の目は涙に滲み、その頬はすでに赤く染まっていた。
「私だけが、勝手にバカみたいに落ち込んで、泣いて。だけどお父さんとかレイはもう何にもなかったみたいに、過ごしてるんだよ。私は嫌だよ。ディッキーが死んで悲しかったことも、殺されて悔しかったことも、絶対に忘れたくない。だってそんなの……ディッキーが可哀想じゃないか」
復讐なんて忘れろと、直也は先日ライに言った。その言葉があまりに見当違いだったことは、今なら理解できる。共に生きた間のことだけでなく、死んだ後の悲しみも怒りも憎しみも全部、ライは思い出として捉えていた。楽しかったことも辛かったことも、ひっくるめて、記憶の輪を作り上げていた。
迂闊だった、と直也は改めて自分を呪う。そんな考え方は、およそ自分ではできないものだったから、尚更無神経になってしまった。
しかし、謝ってばかりではない。直也は直也だからこそ、告げられる言葉もある。一歩、ライに歩みを寄せると、直也は彼女の両肩に手を置いた。
「信じろよ」
中空にぽつりと吐き出された声は、あまり大きなものにはならなかった。だが、それでもライは直也の顔を仰いだ。
「親父さんや、家族を、疑うな。きっとお前と同じくらい哀しくて、怒ってて……だけどお前を心配させまいとして気丈に振る舞ってるかもしれない。いっそ理由は何でもいいんだ。とにかく家族を疑っちゃダメだ。頼むから、お前は、俺みたいにならないでくれ」
信じるんだ。もう1度だけ、はっきりと口にする。足元をゴムボールが転がった。ライは赤く腫れた目で直也を見つめ返している。呼吸は荒く、鼻をすすっている。その呆けた表情を見ているうち、直也は頭から鉈橋そらのイメージが少しずつ薄れていくのを感じた。
「みんな忘れない。俺はちっとも凄くなんかないんだよ。お前の家族だって……きっと覚えてる。苦しいのは、1人じゃない」
彼女の肩にこめる力が強くなる。指先に体温が、その身に流れる血液の鼓動が伝わってくる。ライはおずおずと頷いた。それから片眉を下げた。
「おっさん、痛いよ。力こめすぎだって」
「あ、悪い」
「でも、ちょっとホッとした。やっぱり人に言わなきゃダメだな。なんか、話してすっきりしたよ」
ありがとうとライが笑って呟く。こちらこそ、と直也は心の中で応じ、代わりに踵を返した。
一体いつになるか、どういう状況でそうなるかは分からないが、あきらとも、別れの日はいずれ来る。その時、あきらを信じられず絶望に浸ったことを、思い出に残せるだろうか。辛く苦い今、この瞬間を十年後、二十年後も噛みしめて生きていけるだろうか。
直也はふと考え、今までそんなことを考えたことすらなかったことに気付いて、そっと苦笑した。
「じゃあ、帰るか。家まで送って行ってやるよ」
「そんなの当たり前だろー。それに、ちゃんと依頼も受けてもらうからな! 今度こそ逃がさないぞ!」
「過去2回、捨て台詞吐いて逃げてったのはお前のほうだろ。ま、今日は覚悟決めてるから、いいよ。話せよ。聞いてやるから」
会話を交わしながら、前に足を踏み出そうとする。だがすぐにその歩みは止まった。人影が行く手を遮るように、路地の出口を塞いでいたからだ。
逆光を浴びるその人影は、1つ。長い黒髪に、セーラー服、そして右腕に巻かれた赤いハンカチが次々と雲の流れに導かれるようにして、影から剥がれていく。日陰にあぶりだされたのは、少女の肢体だった。
「こんにちは。今日も大分暑いね」
鋭い視線と薄い唇が、直也に向かって言葉を紡ぐ。その冷淡な雰囲気を滲ます少女に、直也は見覚えがあった。拓也と共に男を尾行した、あの公園での光景が瞬時に蘇る。
それは尾行の末たどり着いた公園で、12人目の被害女性を連れ去って行ったあの少女だった。
「お前は……」
「初めまして。会ったばかりで残念だけど、さよなら」
少女の右目が金に染まる。続けてその姿が水面に映る像のようにおぼろげとなり、それから一瞬で怪人の姿へと変貌を果たした。赤い右目と黄色い左目、そして紫色の布が体の至る所に巻かれている。肩からは黒い布が吊り下がっている。また胸には、色鮮やかな九官鳥の絵が描かれていた。
少女から変化した“怪人”は両腰に素早く手を添えた。己の腎部を撫でつけるようにして再び上げた両手の先には、いつの間にか黒塗りのいかつい拳銃が握られていた。
「危ないっ!」
直也はライの体を抱えると、そのまま地面に転がりこんだ。それとほとんど同時に銃声が轟き、先ほどまで直也の立っていた地面を深く抉った。
「おっさん、なんだあれ!」
直也の腕の中で、ライが騒ぐ。当然だ。これまで都市伝説だと認識され、伝聞されてきた存在が今、唐突に現れたのだから。怪人たちはいつだって、常識を粉微塵に破壊し、遠慮も礼儀もなく日常の中に土足で入り込んでくる。
「お前は逃げろ……ここは、危険だ」
直也はライに忠告すると、ポケットからプレートを取り出しながら身を起こした。頭上を仰げば、そこには申し合わせたようにカーブミラーが伸びている。状況は悪くない。直也は怪人と正面から対峙すると、その体をしっかりと見据えるようにした。
「お前が怪人だったとはな。ま、よくよく考えれば意外でもないか。人間を消すなんて、ただの人間ができることじゃないからな」
直也は空にプレートを放り投げた。それはカーブミラーの鏡面にぶつかると、鈍い音を生じさせて落下してくる。怪人から撃ち放たれた銃弾は、鏡の中から転がり出てきた数々の装甲によって弾かれていった。
「あの女の人は、どこに行った」
12人目の被害者、拓也と一緒にすんでのところで救いだした女性のことを思い出す。彼女が残した手紙はまだ持っている。あの女性は今、直也の目の前で怪人に姿を変えた少女のことを待ち続け、そして姿を消した。
「教えろよ。彼女の父親も、待ってるんだ。出せよ。お前が知ってるんだろ? 彼女の居場所を」
問いかけると、怪人は笑った、ような気がした。実際にはその顔色は少しも変化していなかった。だが、直也を小馬鹿にしたように鼻を鳴らしたのは確かだった。
「さあ。何を言っているのか、私にはさっぱり分からないけれど」
「……そうかよ」
直也はキャッチしたプレートを腹部に押し当てた。装甲が直也の体を中心にして次々と寄せ集まり、組み上がって、数秒も経たぬうちにオウガは完成する。
「なら、力尽くで聞きだすまでだ!」
オウガは銃弾を腕で受けながら突進し、地を蹴って、まずは怪人にドロップキックを放った。
しかしその先制攻撃は、あえなく怪人の拳によって阻まれた。華奢なようにみえて、なかなかに剛腕のようだ。オウガは片足で着地すると姿勢を正す暇も惜しみ、右腰の刀に手を添えた。
居合切りの要領で刀を引き抜き、着地したばかりの片足を前に踏み込む。重心を前方にもっていき、それから腕を一振り。右の逆手で怪人を一閃する。
だが、それも有効打にはなり得なかった。美しい流線型を描き、鋭利な先端があるからこそ刀はその本領を発揮できるのであり、オウガの持っているような折れた刀では怪人にダメージを決定打を与えるには不十分だった。
怪人は片手で刀を受け止めた。空いている方の手には、銃が握られている。その銃口をオウガの、前回の戦いで大きく凹凸のできた腹部に押し当てた。しまった、と直也がほぞを噛んだ時には、その体は大きく後ろに吹き飛ばされていた。
けたたましい音を響かせて、オウガは地に沈んだ。仰向けに倒れたまますぐに起き上がれない。空がぐるぐると回転している。装甲の薄くなった部分を狙われたのと重ねて、深いダメージを叩きこまれた箇所に直撃したのがまずかった。衝撃が指先から頭の先まで一気に駆け抜け、ほんの一瞬、痺れるような痛みに気を失った。
だが、いまは戦闘中だ。いつまでも寝ているわけにはいかず、両手を突いて、ぎこちない体を何とか起こす。まだ視界はぼやけていたが、手探りで刀を拾い上げ、立ち上がった。足取りはふらついたが、二本の足で地に立つ力はまだ残されていた。
「よくも、おっさんを!」
ようやく攻撃の体勢に移りかけたオウガのすぐ横を、威勢のいい声が駆け抜けた。直也は仮面の下でぎょっとして、怪人の方を見やった。そこには無策も甚だしく、銃を構える怪人に猛進していくライの後姿があった。
「おい。お前、止めろ!」
言って制止するくらいなら、始めから動かないだろう。それほど長い間彼女と関わったわけでもないが、ディッキーを殺した犯人に対する復讐心から察するに、こういう行動をとることは予測できていた。そしてその推測通り、ライは直也の叫びを全く意に介さぬ様子で突き進み、そして無謀にも素手で怪人に殴りかかった。
「おい……止めろって、止めろって言ってるだろうが!」
直也は頭から血の気が引くのを感じた。走り出したが追いつくわけもなく、地を蹴り、刀を振り上げたところで、ライの体が地面に叩きつけられた。オウガはつま先でブレーキをかけると前につんのめるようにして立ち止まり、ライの前で屈みこんだ。
「おい、お前……大丈夫かよ、おい!」
血相を変えて呼びかける。ライは腰を捩じるようにして、うつ伏せに倒れていた。その首には漆黒の羽が深々と突き刺さっている。直也の全身の皮膚がぞっと粟立った。必死になって体を揺さぶるが、反応は返ってこない。名前を呼んでも、ライの瞼が上がる様子はなかった。
その瞬間、直也の脳裏には救急車の中での咲の痛々しい姿が蘇った。ふつふつと胸に怒りが昇りつめてくる。冷たくなった脳の温度を取り戻そうと、全身の血液が煮えたぎっているかのようだった。
「お前……っ!」
オウガは刀を握り締めると立ち上がり、力任せに怪人へと切りかかった。
怪人は二丁拳銃を巧みに操り、腹部を狙って銃声を轟かせてくる。だが、二の轍を踏むほど直也は無防備ではなかった。腹に迫る攻撃を腕の装甲で防ぐと、まず怪人の右手を刀で薙ぎ払った。その手から銃が零れ落ちるのと同時に躍りかかり、さらに怪人の腹に膝蹴りをめりこませる。しかし怪人は寸前で背後に跳躍することで、ダメージを軽減させたようだった。
怪人は銃を拾おうともせず、オウガを正面から見据えると首を傾げた。
「なぜ怒る。向かってきたのはそっちの方。私は迎撃しただけなんだけど」
「黙れ」
オウガは刀を袈裟がけに振るう。怪人は左手の銃で容易くそれを防御した。
「それに銃や拳でうたずに、羽を刺したんだ。随分と慈悲深いと思うのだけど」
「うるせぇ……その口、塞いでやる!」
冷静沈着な声でとうとうと喋る怪人に、オウガはその姿勢からミドルキックを打ち出す。怪人は防ぐことも避けることもしなかった。不自然なくらいまともに攻撃を浴び、背後に退いた。
直也は止まらなかった。感情の起伏に乏しい、その怪人の声に乗せられるようにして刀を大きく振りかぶり、さらに地面を蹴って大きく跳び上がると、高所からの兜割りを繰り出した。
脳裏には咲がその命を散らした瞬間がまざまざと蘇っており、心には当時の無念さが舞い戻っていた。そしてこの怪人を打ちのめせば、その気持ちが晴れるかもしれないという、根拠も何もない思惑がいま直也の中には脈々と流れていた。
激昂と焦燥に押し迫られたオウガの手から、刀がもぎ取られた。怪人の左手から放たれた銃弾が、刀身を射抜いたのだ。まだ指先の痺れの抜けきってない直也には、弾丸の衝撃を耐えることは不可能だった。
さらに地面に両足がつく前に、胸をハイキックで仕留められる。オウガはアスファルトに背中から落ち、けたまましい金属音を周囲にばらまいた。
「逆上した男に負けるほど、私は堕落しているつもりはないんだよね。生憎だけど」
力いっぱいに、怪人はオウガの腹を踏みつける。傷口を毟られるような痛みに、直也はたまらず悲鳴を漏らす。体を足で押さえつけられ見下される景色は否が応にも、昨日のフェンリル戦を思い出させ、屈辱が身を絞めるようだった。
「お前は、何者なんだ」
12人目の被害者である女性と同じ境遇に立たされながら、彼女に続いて生存が確認された人間。けして癒えぬ深い傷を負わされた少女から慕われ、信用されていた人間。そして、自分に近づいた女性を手品のように消し去ってしまった、人間。そして人間から転じた、怪人。
その正体は一体何者なのか。ここまで真実を追い求めてきた自分には、それを知る権利があると思った。まだ冷静さを取り戻したとは、けして言えないが、直也はたまらず質問をした。腹を圧迫されているので、発した声はか細いものになった。
「お前は、何なんだ。一体、何者なんだよ」
「私は“ナイン”。あなたを、警告にしにやってきた……怪人」
ナイン? 直也は口に出さず問い返す。そういえば昨日、二条裕美を奪っていった怪人も自分をケフェクスと名乗っていた覚えがある。それが怪人に振られた記号、すなわち個体の名称なのだろうか。
そしてもう1つ。怪人の発した、警告という言葉も気にかかった。一体なぜ、自分はこの怪人に狙われたのか。とっさに思いつくことはできなかった。
「今日のところは殺さないでおく。ただし次に会った時は……さて、どうなるかな」
怪人はギザギザの牙が覗く口元を歪めると、全身のいたるところに巻いた紫色の布を発光させた。一体何が始まるのかと、直也は警戒する。だが間もなくして、怪人の体はボロボロに崩れ落ち、砂となってしまった。
「消え……た……?」
オウガは自分にのしかかっていた体重が消えたことを悟り、痛みを堪えつつ上半身を起こした。装甲服は砂まみれになっていた。それを撫でてみるが、どこにでもある何の変哲もない砂のようだ。小石などの混じり気がなく、浜辺のものに近い。見れば、敵の落とした銃も砂となって掻き消えていた。
あの公園で、セーラー服の少女はこれと同じ方法で自分の身を隠したのかもしれない。なら一緒にいた女性は? 少し思考を巡らせてみて、直也はゾッとした。
立ち上がりながら周囲を窺うが、怪人の気配はない。助かったのかと安心する一方で、蔑まされた悔しさが直也の心を苛立たせた。
「おっさん」
オウガは振り向く。刀を腰に戻し、それから腹部のプレートに触れて、装甲を解除した。直也は立ってこちらを見るライに、慌てて走り寄った。
「お前、大丈夫……なのか?」
ライに顔を近づけ、直也はその全身をまじまじと観察する。横から首筋を覗き込み、驚いた。羽が突き刺さっていたはずの場所には、傷口1つなかった。ぽつんとミリ単位の穴くらい開いていてもよさそうなものなのに、それもない。
「羽、抜いたのか?」
地面に視線を這わせながら、直也は尋ねる。肝心の羽が見当たらなかった。しかしライは眉間に皺を寄せ、大きく首をかしげる。
「羽? なんだそれ?」
「何だそれって……お前の首に刺さってただろ? お前が自分で抜いたんじゃないのかよ?」
「確かに怪人に何かされたのは覚えてるけど、羽なんか知らない。本当になんだよ、それ」
直也はライの目を見つめ返した。その瞳に、しらばっくれている風な色はない。おかしいなと口の中で呟き、それから再びライを正面から捉えた。
「つか、無茶すんなよ。本当に、心配したじゃねぇかよ」
「ごめん。でも、なんかおっさんが頑張ってるのみたら、うぉーってなっちゃって止まらなかった。でも心配させたことは、謝るよ」
「……あぁ、ま、無事で良かったけどさ」
確かに良かったけれど、直也は府に落ちないものを覚える。それはライに関することでもあるし、怪人に変化を果たした少女のことでもあった。それに、自分の心のことも。
「おっさんは、大丈夫なのか? ……結構、ボコボコにされてたけど」
「かっこ悪いとこみせたな。俺はまぁ、大丈夫だ。こういうの、慣れてるから」
年下を守らなくてはいけない都合上、つよがってみせるが正直、息をするのも辛かった。外気を取り込もうとするだけで、胸から腹にかけてが強烈に痛む。だが直也は奥歯を噛むことで耐え、やせ我慢が表情に出ないよう努めた。
「そういえばお前、そんなに驚いてないよな。あんな、変なことに巻き込まれたのに」
「正直まだなにがなんだか、って感じだよ。ま、いいじゃないか。これから帰り道、時間はたっぷりあるからさ」
ライは口端を上げ、悪戯っぽく笑った。直也はそれに続く言葉を察して、表情を歪めた。
「教えてくれるよな、な?」
「……しょうがねぇな。話を聞くって約束だし、分かってるよ。話してやるよ」
ため息をつきながら、きょろきょろと直也は辺りを見回す。木々の葉がわずかな風でざわめき、雲が物凄いスピードで頭上を通り過ぎていく。やはり怪人の気配はない。だがこれで退いてくれたとも思えなかった。おそらくあの九官鳥の怪人は、セーラー服の少女は、再び襲いかかってくるだろう。根拠こそないが、直也には確信があった。
手の中のプレートに視線を落とし、それからライに目をやり、最後に先ほどまで怪人が立っていた場所を見てため息をついた。
「じゃあ、帰ろうぜ」
結局、どれだけ日常が捻じ曲げられ、常識が覆されようとも結局、口に出す言葉はそれしかない。帰る場所さえあれば、自分を保ち続けていられる。それがこの戦いの中で学んだことの1つだった。ライは大きく頷くと、直也の後を嬉しそうに追いかけてくる。手にはゴムボールを抱えていた。
「うん。じゃあまず、おっさんがチャーハンを好きになったきっかけについてだな」
「今の出来事となんら関わりがねぇ! この状況で最初の質問がそれって、お前はどんだけ俺とチャーハンを結び付けたいんだよ!」
「いや、そこは一番重要だろ!」
「一番どうでもいいだろ。つか、聞かれたところでエピソードねぇよ! そんな期待のこもった眼差しで俺をみるなぁ!」
ほとんど無理やりに声を張り上げ、ライを視界に捉えながら、直也は胸のざわめきを感じていた。何か違和感を見落としてしまっているかのような、痒いところに手の届かない感触が全身を蝕む。
先ほどライが青白い表情を見せた時、なぜ自分はあれほどまでに逆上してしまったのか、思い返せば思い返すほど分からなくなるのだ。死に際の咲とライとを咄嗟に重ね合わせてしまったのは、状況が似ていたから、ということだけなのだろうか。
もっと別の要因がありそうな気もする。だがその正体までは判断できない。直也は仕方なくチャーハンの美味しい作り方についての講釈を始めながら、ライのその爛々と輝く眼差しにデジャブを感じずにはいられなかった。
魔物の話 24
まだ正午にも満たない太陽の下、秋護いわく“マイナスイオン出まくりの避暑地”は、ただならぬ緊張に包まれていた。
誰も口火を切ることができず、誰も始めの一歩を踏み出すこともできず、まるで何者かが時計の針を止めてしまったかのように一同は固まっていた。そのある意味での滑稽さはカーテンコールが上がるのを待つ、お芝居のキャラクターたちのようでもある。
背後から草を踏みしめる音が聞こえ、レイは反射的に振り向いた。ガンディが動き出していた。店の前で葉花を抱えた姿勢のまま立ち呆ける、怪物に歩みを寄せる。常識や現状を覆すのはいつだって秋護の役割だ。皆が止まっていても、真っ先に足を運び出す。皆が見上げているのに、1人だけ足元に視線を落とす。沈黙が続いた場に、発言を放り込む。いつだって秋護は空気が読めなくて、それが彼のウィークポイントであると同時に、チャームポイントでもあるのだろう。
「悪いが、そのチビっ子から離れてもらおうか」
偶然なのか狙ったものなのかは分からないが、彼の発したそのセリフはあきらがグリフィンに訴えたのとほとんど同じセリフだった。怪物は肩を震わせ、呼吸を詰まらせる。その振動が空気を通じてこちらにも伝わってくるかのようだ。
「恩を仇で返す形になるのは心苦しいが、悪魔の娘。俺たちはお前の正体を知るためにここに来た。お前が何者であるか分からない以上、無関係の女の子にいつまでもくっつけているわけにもいかないしな。だからほら、とりあえずリーブ! 離れやがれ!」
胸の前で手を勢いよく振り、少しずつ近づいてくるガンディを怪物はじっと見つめていた。それから見上げる葉花の耳元に口を寄せ何事かを吹き込んだ。囁くようだったので何を言ったのかまでは分からなかったが、葉花は瞠目しぽかんと口を開けた。
怪物は葉花を前に軽く突き飛ばすようにした。そして地面を蹴ると、その翼を慌しく動かして空に飛び上がっていった。怪物の背後できらりと瞬くものがあり、何かと思えば、それは金の鎖だった。先端は鋭利なキリのようになっている。その鎖はまるで、それ自体が独立した生き物のように蠢くと鋭く射出され、グリフィンの肉体と首、腕を次々に貫いていった。
数珠繋ぎに1本の鎖で突き刺した怪人の体のパーツを持ち上げ、怪物は大空に飛び上がっていく。
「悪いが……逃がすわけにはいかないんだぜ!」
ガンディがすかさす跳びあがり、殴りかかるが、あえなく空を切った。怪物はさらに高度をあげ、人の手が届かないところまで行くと、雲を破るような猛スピードで空の彼方に消えていった。
ガンディが悔しそうに舌打ちをした。葉花が青いの! と切実な声調で叫んだ。レイだけが無言でその経過を見守る。動き出せず、何も口に出せず、ただ混乱した頭を整理することだけで精一杯だった。
まさか怪人も、そして華永あきらも、こんな白昼堂々と大っぴらに姿を見せるとは思いも寄らなかった。特にあきらに対しては――心のどこかでもしかしたら仲良くなれるかもしれないと思っていただけに、ショックが大きかった。
もちろん、怪物というだけではレイの他者に対する印象は変わらない。怪物という存在自体を憎むことは、自己否定に繋がるからだ。
だが、人々を襲う怪人たち。その発生に加担しているとなれば、話はまた別だった。無関係の人々をさらい、殺害し、ディッキーもその手にかけた。あの男たちがやった所業を、レイはおそらく一生、許すことはないだろう。
そしてゴンザレスの情報は正しかった。あきらは怪物となり、グリフィンをさらっていった。なぜわざわざ殺害したのかは気にかかるが、それは怪人を連れ帰ったという事実全体からしてみれば、実に些細なことだった。
あきらはあれほど優しく、柔和な笑みを浮かべながら、裏では人間たちを殺害する先導を担っていたということだ。そんなバカなとも思うが、それがいま、目の前で繰り広げられた真実の全てだった。先ほどまで、一緒になって楽しく遊んでいたことを、後悔する。なぜ自分は彼女の本性に気付けなかったのか。
大嵐が去り、ぽつんと海に落ちた漂流物のようにレイと葉花、ガンディは取り残される。風に揺れる森のざわめきがそのまま自分たちの感情を反映したもののように聞こえる。
「おい、チビっ子。あいつ、なんて言ってたんだ?」
やはり最初に口を開いたのは、秋護だった。彼はガンディの装甲を解除すると、葉花の前で腰を屈め背の低い彼女と同じ視線に立った。
「ごめんなさい、って言ってた」
たどたどしくも、葉花はすぐに答えを返した。秋護をまっすぐに見つめるその目には、横からでも焦りと混乱がはっきりと見て取れた。
「青いの、泣いてた。やっぱりあの変なの、青いのなんだよね? 私を、助けてくれたんだよね?」
葉花は上擦った声で、秋護に同意を求める。彼は葉花の両肩をしっかりと掴むと、1つだけ深く頷いた。
「あぁ。そうだな。チビっ子だけじゃない。あいつは俺たちのことも助けてくれた。自分の正体を晒すっていう、リスクを犯してな。ったく終始一貫して非現実な奴だよ」
秋護は身を起こした。それからレイのほうを振り向き、「じゃあ、行くか」と深刻そうな声で告げた。レイは小首を傾げる。
「行くって……どこにですか?」
「決まってるだろ。俺たちの任務は、あの青い奴の正体を見破ることだ」
「それは分かりますけど。どうやって? もうどこに飛んでったのかなんて、分かりませんよ?」
レイは怪物の飛び去っていった空を見上げる。その果てに見える白けた色の境界線に目をやるが、当然のことながら、すでに怪物は影も形もなくしていた。どちらの方角に消えていったのか、後を追うことも困難を極めるだろう。
しかし秋護はこの逼塞した状況の中でも笑顔をみせた。それはいつもの興味本位な笑みではなく、レイや葉花を安心させるための柔らかいものだった。
「大丈夫。俺に考えがあるんだ。まぁ、見ておけよ」
「正直不安ですけど……そこまで言うなら、任せてみます。失敗したらナイフ刺しますからね」
「あぁ、それは望むところだ! ……そういうわけで、お友達は絶対に見つけてみせるから。だから大人しく店で待ってな。ドア壊しちゃったし、泥棒が入ったりしないように、店番が必要だろ? それができるのはお前だけなんだぜ、チビっ子」
秋護はくるりと体を返し、そこで事態を眺めていた葉花に説得口調で提案した。葉花は『しろうま』の惨状を一瞥するとそれで納得をしたのか、軽く顎を引いた。
「うん。白石君が帰ってくるまで、私、待ってる。だから絶対、青いのを連れて帰ってきて」
葉花はレイと秋護を交互に見比べると、泣きそうな声で言った。実際、その目は潤んでいて今にも目尻に輝きの落ちそうな気配があった。
「私、青いのとさよならなんて、嫌だもん」
先ほどまで無邪気なまでにはしゃいでいた葉花の落ち込みように、レイは胸を絞め付けられる。その太陽が黒く塗りつぶされていってしまうような、捉えどころのない沈鬱さはディッキーを亡くした直後のライを彷彿とさせた。
秋護は葉花を頭に軽く手を乗せ、宥めるように囁いた。
「面倒事に巻き込んで本当に悪かった。店はあとで、経費を使って修理するから心配すんなよ。それから俺たちを信じてくれたことは、すげぇ感謝してるぜ」
じゃあ行くか、とバンダナを締めなおしながら秋護は踵を返す。はい、と気のこもった返事をして、レイもそれに倣った。葉花のことがどうしても気にかかり、停めてあるバイクの元に向かいながら、何度も振り返ってしまう。彼女は雑木林の真ん中で、じっとあきらを待つように空を見上げていた。
「青い奴に殴りかかった、俺みたいな野郎を、あの子は許してくれたな。そればかりか信じてくれた。凄いよな。いい意味で、非現実的だ」
前を向いたまま、秋護が言った。レイはその背中を振り仰ぐ。
「そのためにも、俺たちは頑張らないとな。俺たちの目的のためにも、あの子との約束のためにも」
「……そうですね。1人、無関係の人を巻き込んじゃいましたから。それはちょっと反省しなくちゃですよね」
だが、とレイは考える。ひょっとしたら、という疑問を頭に浮かばせる。もしかしたらゴンザレスは始めからこうなることを見越して、レイと秋護を華永あきらのもとに派遣したのではないか。怪人がレイのことを狙っている。だから怪人を見れば、あきらも何らかの行動を起こすだろう。そこでどんなアクションを起こすかによって、彼女にかけられた疑いの真偽が明らかになる。
狡猾な作戦だ、と思う。結果が黒だったからまだ良かったとはいえ、あきらが何も知らないただの女子高生だったのなら、一体どうするつもりだったのだろう。もしかしたら、犠牲者が生まれたかもしれない。怪人を人々から守るため――そのためにマスカレイダーズは生まれたのではないのか。少なくともレイは、そのつもりで入団したはずだった。
飛び交う、“黄金の鳥”という謎の単語。マスカレイダーズが結成された本当の理由。そして、今回のあまりにも人命を省みない作戦。レイの心に沸いたゴンザレス、そしてマスカレイダーズに対する疑惑はその首をゆっくりもたげ始めていた。
「……そろそろ反抗するときが来たのかもな。俺たちも」
まるで心を見透かしたかのように秋護が突然そんなことを呟いたので、レイは驚いた。「どういう意味ですか」と尋ねるが、答えは返ってこない。ドアを壊した衝撃で横倒しになったバイクを持ち上げ、両手をはたき合わせた。
「さて、じゃあ行こうかね。俺たちの戦いは、ここからだ」
秋護の投げてきたヘルメットを受け取りながら、レイは頷く。戦いも苦難も、まだ始まってすらいなかった。ここからが本番だ。レイは秋護の後ろにまたがると、唸り声をあげるエンジンに全神経を委ねるようにした。
鳥の話 24
ユニコーンを髣髴とさせる兜を被った黒騎士、“V.トール”に変身した仁と、悪魔然とした姿を持つ怪物、“S.アルム”に変わった菜原は鳥の仮面を被った男からの連絡に従って、町外れにある、古い教会に訪れていた。
「あの鳥の仮面の男たちは、第2食堂の魔女のもとから派遣されてくるんだ」
おそるおそる教会の豪奢な、両開きの扉に歩みを寄せながら、S.アルムが言った。V.トールは腰にサーベルが刺さっていないこの肉体に若干の不安を覚えながら、彼の話に相槌を打つ。
「へぇ……そういえばあの人たちって、一体、何者なんだい?」
「知らないのかよ、仁。まぁ、俺も知らないけど」
「え、知らないの?」 意表を衝かれ、仁が聞き返すとS.アルムは顔を伏せながら「あぁ。知らなくて悪いかよ」と恥ずかしそうに呟いた。それから仁が反応する間もなく、そそくさと話題を換えた。
「そういえばボス、なんだかとんでもないものを作っているらしいな。今度は始めに言っておくが、詳しいことを俺は知らない」
「あきらちゃんが?」
「そんなことをちょっと小耳に挟んだんだ。真偽はよくわからんけどな」
あきら自身に何か新たな、それも菜原曰く“とんでもないもの”を作り上げる力があるとは、到底思えなかった。それも“第2食堂室の魔女”の協力を仰いでいるのだろうか。あきらを裏から支えている、すなわち自分たちにとっての影のボスである魔女のことが気にならないわけではなかったが、興味本位に覗きこむことは許されないような厳粛な雰囲気が、菜原の言葉からは伝わってきた。
もともと底の見えない組織だ。あまり深追いはしないほうがいいのかもしれない。あきらや菜原は少なくとも悪い人間ではない。それだけで十分ではないか。それに今は、目の前のことに集中することが大切だ。仁は頭を軽く振って、気持ちを切り替えた。
「じゃ、ま、いきますか。困ったら俺に頼れよ、仁。俺はお前のことを守りたいんだからな」
S.アルムは深海魚のような口を歪ませ、教会の扉を蹴破った。大量の埃と木片をあたりに巻き散らかして、教会はその内装を仁たちの前に晒す。
ずらりと並んだ背もたれのある椅子に、正面には教壇が見える。教壇の背後には十字架に張り付けられたイエス像があり、ステンドグラスの窓には聖母マリアの絵が描かれている。どこにでもありそうな、何の変哲もない教会だ。暗幕が窓に敷かれているため、中はひどく薄暗かった。V.トールに変身していなければ、自分の掲げた手も視認することはできなかっただろう。
「お前たちが先に来てくれるとはな。今日の俺は、どうも運がいいらしい」
暗闇から浮かび上がってきたのは、乾いた拍手と喜悦に満ちた声だった。仁はS.アルムと共に警戒心を滾らせ、声の発せられた場所に目を向ける。
「とりあえず、カニかまでも食べるか? 今日はなかなか上質なものがあるんだ」
先ほどと同じ声がそんなことを申し出てくる。仁は困惑しながらも、薄闇に目を凝らした。
前の方の席から2つの影が立ち上がる。シルエットだけでも分かるように、双方とも怪人だった。一体は黒塗りの肉体に、車輪を背負った独特のスタイルをもつ怪人。胸には馬の絵が描かれている。その絵の中央には今、大きなヒビが刻まれていた。
もう1体は黄金の鎧に身を包んだ怪人だ。赤く尖った目が印象的だった。風もないのに漆黒のマントがはためいている。胸に描かれた絵は、蟹のようだった。蟹の怪人は胸の装甲を手で掻きながら、あくび混じりに言った。
「この僕を待たせるなんて、随分な身分だよなぁ。待ちくたびれてしまったよ」
「まずは紹介しよう。俺の名前はケフェクス。そしてこっちが、兄上のキャンサー。歓迎しようじゃないか、黄金の鳥のみなさん」
手短に自己紹介をされ、V.トールは思わずS.アルムと顔を見合わせる。仁としてはまず、当然のように人語を流暢に喋る怪人の存在に辟易していた。今まで、これほど知能の高い怪人と出くわしたことがなかった。もしかしたらこれまでとは一線を画する力を持った怪人なのかもしれないぞと予想し、さらに警戒心を胸の内に滾らせる。
だが、次に馬の怪人、ケフェクスが発した言葉はあまりにも意外なものだった。
「そこで折り入って頼みがある。俺たちを、あんたたちの仲間にしてほしい」
「……え?」
仁は耳を疑った。「マスカレイダーズとの戦い。俺たちにも協力させてほしい」と言い換えられた後も、その気持ちは変わらなかった。戸惑うV.トールの横で、S.アルムは一歩前に足を踏み出した。普段通りの、毅然とした調子で口を開く。
「悪いが。怪人を仲間にする気は、俺たちにさらさらない。それに」
S.アルムは軽く首をかしげて、ケフェクスではなく、先ほどから成り行きを傍観しているキャンサーを顎で指した。
「ロリコン野郎と一緒に戦うなんざ、想像するだけでも反吐が出る」
ロリコン? V.トールは釈然としないものを覚えながら、キャンサーに目をやる。どうやら口ぶりから察するに菜原はこの怪人と面識があるようだった。仁もなぜだか、この怪人の声には聞き覚えがあった。しかしその詳細までは思い出せない。
キャンサーは菜原の辛辣な一言に少し身を乗り出すと、顔に青筋を立てた。
「僕もホモ野郎とはつるみたくないけどね。弟がどうしても、と言うから仕方なくお前らの味方になってやろうと言ってるんだ。この僕が頼んでやってるんだぞ? 少し言葉に気を付けたほうがいい」
「どっちがな。俺は女と、子どもと、偉そうな奴が大嫌いなんだ。年端もいかぬ女が好きなうえ、傲岸なお前と一緒の空気を吸いたくもない。気色悪い」
「……やるか? 昨日の続きを」
身をぶつけ合うことさえないが、すでにその舌戦は十分に熱を帯びている。菜原とキャンサーの間で舞う火花が見えてくるかのようだった。状況にすっかり取り残された仁は、所在なくケフェクスに視線をやる。ケフェクスは困ったように首を傾げる。しかしその表情には心なしか、この状況を楽しむかのような表情が浮かんでいた。
爆音が背後で轟いた。空気が膨張するかのような気配をみせ、強烈な光があっという間に暗闇を剥がし取る。夏の蒸し暑い空気とは別物の、灼熱の大気が教会の内部に殺到してくる。
大量の砂埃と皆の注目を浴びながら現れたのは、2人のマスカレイダーだった。1体は両肩に小舟のようなバインダーを装備したタイプ。もう1体は体のあちこちにチューブを付けた重厚な装甲をもつタイプだった。後者の方は、仁も戦ったことがある。サーベルを破壊され、被害女性を置き去りにしてしまった苦い経験とともに、そのマスカレイダーズに関する記憶が蘇ってくる。
「怪人が4体か……面白い、すべてこのアークが刈り取ってくれる!」
バインダーを搭載したほう――どうやらアークというらしい――のマスカレイダーは意気揚々と叫ぶと、バインダーの下から二対の砲口を出現させ、光の砲弾を仁たち目がけて撃ち放った。
V.トールは視界が光に呑みこまれる寸前、床を蹴り、前方に飛び出した。指先に電撃を纏わせる。特に考えも何もなく、ただ自分が何かをしなければという衝動だけが背中を押した結果の行動だった。
だが、やはり感情のままに動いたのは失敗だった。V.トールは光をくぐって現れたアークに、いきなり頬を殴りつけられた。苦悶の声をあげ、V.トールは床で1度バウンドし、椅子を巻き込んで転がる。仁! と菜原が取り乱した声で叫ぶのも、どこか遠くに聞こえた。
「その声、お前は、まさか」
眩暈に堪えながらゆっくり顔をあげると、そこにはアークが待ち構えていた。弾かれたように右腕をかざし、掌から電流を放出する。暗闇に青白い光が迸り、アークの体を後ろに押しやった。
このひるんだ隙を、突かない手はない。V.トールは一息に置き上がると、ふらついた足取りのまま、拳を打ち出した。アークもよろけながら、その攻撃を片手で受け止める。そして肉薄した状態のまま、彼は意気揚々と叫んだ。
「やはりそうだろう。お前は、ミスターイカロスだな!」
「な……!」
掴まれた手から電撃を放とうとしたが、仁は彼の言葉に動きを止めた。ミスターイカロス、という単語を糧に記憶を遡れば、その瞼の裏には数日前の新宿駅が映る。新宿の事件の記念碑の前で出会った、スーツ姿の男。仁の心の蝋燭に火をくべるように勇気を与えてくれた、あの不思議な魅力を持つ男。
そういえば、アークの発する声はあの男のものによく似ていた。まさか、と思う。こんな偶然が、運命の悪戯があるわけがないと仁は自分の記憶を即座に否定しようとする。だが。
「まさかこんなところで出会うとはな、ミスターイカロス! これは運命……いや、必然だな!」
「あなたはイカの人……世界大統領の、おじさん――クロなんとか!」
V.トールに変化している間は正体の判明を避けるため不用意な発言をしてはいけない。そうあきらから教えられてはいたが、衝撃に心を揺さぶられていた仁は、思わず尋ねてしまった。アークは嬉しそうに応じ、そしてV.トールの腹をしたたかに蹴りやった。
「そうだ、私が世界大統領、クロニクルだ! その脳に末代まで刻み込んでおきたまえ!」
床に押し倒されたV.トールは、それでも電撃を放つ。だがその攻撃はアークの背後に消えていき、代わりに相手から放たれたストレートが仁の顔面を捉えた。
なぜこの男とこんな場所で相対し、そして殴られているのか。仁は顔の中心にじわりとした痛みを覚え、暗転した視界の中で散る火花を見ながらも未だ理解できずにいた。
11話 完