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10話「喫茶店の悪魔(中篇)」


鳥の話 23

「あのさ。ちょっと、訊いてもいいかな?」

 ひしめく商店街の人混みの中で、仁は前を行く菜原に声をかけた。仁はまたも菜原に手首を掴まれ、引っ張られている。彼は早足で歩くため、仁は前傾姿勢で密集した人の間をくぐり抜けていかなければならなかった。まるで飼い主に手綱を掴まれた、散歩嫌いの犬のようだ。

 日中に近づくにつれて、気温はうなぎ上りに上昇していく。それに加え、軽い駆け足を先ほどからずっと強いられていることもあってシャツは汗でびしょ濡れだった。2人の間に会話はない。菜原は一切周囲に目を運ぶこともせず、しかめ面で猛進を続けており、仁は戸惑いながら彼の歩みについていくのがやっとであったから、それも当然といえば当然だった。

 質問に対しても菜原は肩越しにこちらを一瞥しただけで、すぐに顔を前に向け直してしまう。前方を見据えながら、背後の仁目がけて声を飛ばしてくる。先ほどと同じだ。

「なんで、俺とお前が手を繋いで歩いているか、か?」

「それもあるけど……」

「俺がどこに向かってるか、か?」

「それもあるけど」

「どちらにせよ、答えは同じだ。お前のことが、大好きだからだ」

 主張されるが、言葉の繋がりが見えてこなくて、仁はますます困惑する。「あ、うん」と中途半端な相槌だけを口先で打つ。

「俺は今、とても恥ずかしい。だから止まらないし、振り向かないんだ」

「じゃあ手を繋がなければいいのに……」

「純情な俺からの、一搾りの勇気なんだ。俺はシャイな男だからな。一歩一歩が、命がけなのさ」

 はぁ、と仁は呆けた声をあげる。その間にも菜原に牽引されながら、仁は大通りを駆け抜ける。徐々に店の数も減ってきた。人の数もまばらになる。喧噪に紛れることができなくなり、自分の今の姿が周囲に顕わとなったことで、仁は改めて恥ずかしさを噛みしめた。菜原の仁を掴む手の力が、離さんとばかりに強くなる。鈍い痛みが走り、手首を自由に動かすことさえできない、

 菜原に尋ねたいことはたくさんあった。マスカレイダーをなぜあれほど憎むのか、なぜ女性や子供を嫌うのか、仁と弟が似ているとは、具体的にどういうことなのか。しかし今、たった1つだけ焦点を絞って問いかけるのならば、これしかないだろうと判断した

「菜原君って、あきらちゃんとどこで出会ったの?」

 なぜ自分と菜原が黄金の鳥を復元する担い手として選ばれたのか、興味が沸いていた。おそらくあきら、菜原と連日、ホテル以外の場所で顔を合わせたからだろう。仁はスーパーであきらに誘われたのと同様、菜原とあきらにも出会いがあったはずだ。それを彼の口から聴いてみたかった。

「バイト」

 菜原は短く言った後で、補足を加えた。

「俺は店員で、ボスはバイト。ケーキ屋のな。まぁ、俺もボスも職人見習いという意味では似たようなもんだけどな」

 そういえばホテル内であきらが作っていたクッキー。あれは甘さの加減もちょうど良く、実に美味しかった。またあきらと黄金の鳥が眠る部屋に行った際、彼女の体から何とも言えぬ甘ったるい香りが漂ってきたことも記憶に新しい。そう考えると、あきらがケーキ屋さんを夢見て、お菓子作りのバイトをしているというのは意外ではないのかもしれない。

「でも、菜原君もケーキ屋さんだったっていうのは、何というか、意外だね」

「ホール担当が女ばかりでうんざりしてる。ウェイターしかいないような店に変えたいとは常々思っているんだけど」

「でも、それでも、そこで君はあきらちゃんと出会った」

 声のトーンを落として呟くと、菜原は振り返った。先ほどまでのおざなりなものではなく仁を掴んでいる手を解き、足を止め、完全にこちらに向き直った。仁もようやく立ち止まることができる。そこは偶然にもシャッターの閉じられた、西洋菓子店らしき看板が掲げられた店の前だった。

「一目見て、分かったんだ。こいつはただの女じゃ、学生じゃないってな。だから話しかけて、そこでこのチームのことを知った。そこで俺から頼んで、入れてもらった」

「菜原君から?」

「知ってたからな。マスカレイダーズのことも、黄金の鳥のことも。ボスに会う前から。まぁ詳細を知ったのは、ここに来てからだけど。だから俺は運が良かったんだ。向こうにとっても、おそらくそうだ」

「知ってたって……どうして?」

 黄金の鳥という言葉ですら、あきらの口から初めて聞かされた仁の事情とは随分異なる。彼は始めから全てを知っていて、このあまりに日常や現実味から外れた道へと足を踏み出したのだ。おそらくその意思を育んだ原点は、菜原がマスカレイダーズを恨んでいることに繋がっている。

 しかし彼から、質問の答えが返ってくることはなかった。片頬だけを上げたような引きつった笑いを浮かべ「どうやらデートは、ここで一旦打ち切りのようだぜ」と零す。仁が振りかえると、そこには電柱に寄り掛かって腕組をする、鳥のお面を被った男の姿があった。

「さて。ちょうどいい憂さ晴らしだ。昨日のお返しでも、しようかね」

 菜原は伸びをしながら、仁の横を通り過ぎ、男に近づいていく。ずっと疾駆する彼の背中しか見ていなかったので気付かなかったが、菜原の体はわずかに左に右にぶれていた。足どりの焦点が定まらないといった様子だ。耳を澄ませば、呼吸音にも濁りが混じっているようだった。

「見せてやるか。俺の、菜原スペシャルを」

 しかし彼は何でもないように呟き、鳥仮面の男の前に立つ。仁は先ほどまで菜原に握られていたため汗ばんでいる自分の掌にそっと目を落とし、そこに微かな血痕を見つけた。




魔物の話 23

 秋護の運転するバイクが停まったので、レイは彼の胴に回していた腕を解いた。座席から飛び下り、髪が引っ掛からないように注意してヘルメットを脱ぎ去る。頭を軽く振ってから、手櫛で簡単に髪を整えた。

「割と近かったですね。この辺なんですか?」

「あぁ。確かに場所は合ってる。ここからはちょっと慎重に行こう。歩いても、そうかからないだろ」

 秋護もヘルメットを取った。バンダナを額に巻いていない彼の顔を見たのは、実に久々のことだった。彼の目は興味津津といった具合に輝いており、声は弾んでいる。

 レイは秋護にヘルメットを手渡しながら、周りを見渡した。澄んだ空気と草の匂いがまず嗅覚に反応する。それから染みいるような涼やかさが、肌に心地よく触れてきた。

 雑木林の中にレイと秋護はいた。前方には長く遊歩道が伸び、都会の隅にあるちょっとした散歩道ともいえる趣きがあった。重なり合った葉が空を覆い尽くしているため日が照らず、周辺の気温よりも若干低く感じられる。遠くから、かすかに聞こえてくる走る車の音や人々の喧噪もまるで別の世界からのもののようだ。

「しっかし、静かな場所だよなぁ。マイナスイオン発生しまくりって言うかさ。こんなところに怪人の手がかりなんかあるのかよ」

 レイも秋護のぼやきには賛成だった。ここ以上に、怪人などという剣呑なイメージがそぐわない場所はないだろうとさえ思った。外から持ってきた憂鬱や煩悶といったものを、根こそぎ洗い流してくれるような、そんな雰囲気がこの道には確かに存在していた。

「しかしゴンザレスも得体のしれない奴だからなぁ。信用しすぎるのも、何だかなって思うよ」

「意外ですね。藍沢さんが疑っていたなんて」

「まぁ、こんな面白いことに誘ってくれた恩もあるから、あんまり口にはしたくないけど。ま、半信半疑で接するのが一番いいと思うよ、俺は。ゴンザレスに対して、ってことじゃなくて。人間関係的な意味でもさ。疑心暗鬼もどうかと思うけど、あんまり純真なのも生きるのには辛いだろ」

 怪人の手がかりを、実はゴン太くんも知ってるんだよ。つい1時間ほど前、ゴンザレスは突然そんなことを喋りだした。話を聞くと、怪人を操っている元凶を探るべく、マスカレイダーズは密かに1人の少女をマークしていたのだが、つい先日、その少女が怪人に繋がっているという確証を得ることができたらしい。

 少女と怪人というキーワードで思い浮かぶのは、やはり自身をネイと名乗った幼女が話していた“長女”のことだ。白衣姿の男に繋がる、唯一の手掛かりをもつ怪人。その怪人というのが、ゴンザレスの見つけたという少女なのではないか。そんな予想が、自然と頭に浮かんでくる。

 ターゲットであるその少女は、自分と同じ高校に通っているらしい。その瞬間、レイの心には、そんな近くにいたのか、という唖然とした気持ちと、そんな近くにいるはずがないという反抗心が同時に芽生えた。しかし結果的に、自分の目で見て、会って、確かめてみなくては分からないと諭され、どうにか納得をするに至ったのだった。

 今回、レイと秋護に与えられた任務というのは、その少女と実際に顔を合わせ、確信を更に深めること。そして何か気付いたことがあった場合に、早急にゴンザレスへと連絡をすることだった。

 2人なら怪しまれずに、彼女に接近することができるからね。そう言って笑うゴンザレスは、彼なりにレイと秋護に期待を寄せているようだった。ならばその期待に答えなくてはならないだろう。レイはこの透き通った空気を肺に満たし、気を引き締め直す。

 自分の手首を、木漏れ日に透かすようにする。虹色に輝くのは手首の上に乗っかった銀色の球体だった。ピンポン玉くらいの大きさだ。茶色い皮のバンドの上に付いており、一見すると時計のように見えなくもない。

「ゴンザレスさんの言うことも分かるけど、なんか窮屈だよね、これ。監視されてるみたいで」

「これを付けて行きなよ」 部屋から出ていこうとするレイに対して、ゴンザレスはこの珍妙な球体の乗った腕輪を差し出してきた。説明からすると一種のレーダーらしい。レイが怪人と出くわすと自動的にこの球体がそれを察知し、いちいち電話で連絡をせずとも戦闘員に連絡が行き届くようになっている、とのことだった。

 直接レイを狙ってくる敵が増加したことから、考えだされた手法だった。確かにこれならいちいち携帯電話を取り出し、連絡せずとも済む。レイのボディガードに回す人員を割かなくてもいいということも、組織としては大きなメリットといえた。

 迅速な行動こそが組織の第一、と数日前にゴンザレスは言っていた。それを素早く、目に見える形で実践してきたことにレイは少なからず感動を覚えた。狼の着ぐるみでもなかなかやるじゃない、と彼の功績を初めて見直した。

「ま、いいんじゃないの? 守ってくれるんだし。悪い事じゃない。しっかしゴンザレスの奴もひっどいよなぁ。俺というものがありながら、他の忙しい人たちにレイちゃんを守らせるなんて。俺だって一応戦えるんだぜ?」

「まぁ、藍沢さんは生贄担当ですもんね」

「なるほど。レイちゃんが襲われた時、マスカレイダーが来るまでの陽動を行う役目ってわけか……参ったね、超重要な役目じゃん! もしかして俺の時代の到来か?」

「それは開き直りですか、それとも本気で言ってるんですか。どちらにしても藍沢さんの時代は始まる前に終わってるので、もう二度と到来することはないですよ」

 適当に秋護の言葉を切り返しながら、レイは彼と並んで歩く。それにしても穏やかな場所だった。こんな街中にこれほどの自然が残されていたとは、知りもしなかった。道路を車のタイヤが滑る音よりも、鳥のさえずりのほうが目立っているというのは、この都会では比較的珍重されるべきことであるはずだ。

「それにしても」

 スラックスのポケットから取り出した緑色のバンダナを頭に巻きながら、秋護はレイを横目で見る。その口元は緩んでおり、なぜだか得意げでもあった。レイは嫌な予感を覚え、即座に眉をひそめる。

「それにしても、レイちゃん制服姿も可愛いね。いつもと違った印象で、すげぇいいよ。グー!」

「警察に通報しました」

「レイちゃんの迅速な対応には、いつも驚かされてばかりだ」

 秋護の指摘通り、レイは学校の制服姿だった。半袖のブラウスに青いネクタイ。スカートは緑のチェック柄だ。中高一貫の私立に通う、中学3年生のレイの制服は、おそらく理事長が変更する気を起こさない限りあと3年間はこのままだった。

 一旦家に帰って、学校の制服に着替えてくるよう指示をしたのはこれまたゴンザレスだった。同じ学校に通う人だとひと目で分かれば、ターゲットも心を許すだろうというのがその理由だ。確かにその言い分は的を射ている。こちらだって向こうから興味を持ってもらったほうが、何かと都合がよろしい。だからレイは一旦家に帰り、数瞬間ぶりとなる制服に着替えてから秋護と合流したのだった。ライは外出していたが、鍵を持っていたので出入りをすることはできた。

「まぁ、でも可愛いってのは本当さ。トヨさんが溺愛するのも、よく分かる。制服のパワーは偉大だ」

 そんなわけのわからないことを呟きながら、秋護はじろじろとレイのほうを見てくる。レイは胸元を腕で隠すようにしながら、彼を睨み返した。

「というか、俺たち、今日は兄妹って設定にしない? そのほうがターゲットに迫りやすいじゃん。俺一人っ子だからさ、妹欲しかったんだよ」

「私はこんな兄、いらないです。むしろこの世に藍沢さんがいらないです」

「いつにも増して、さりげなくひどいこと言うな」

「おかしいですね。これでも心のうちの感情を30倍に薄めて発してるんですけどね」

「まったく、恐ろしい世の中だよ」

「藍沢さんの無神経さが一番恐ろしいですけどね」

「俺は非現実を求める男だからな」

「その会話の成立のしなさも、恐ろしすぎますね」

 なんだかんだと話しているうちに、目的地にはたどり着いた。そこがゴンザレスに指定された場所だというのは一目瞭然だった。辺りは鬱蒼とした木々に囲まれており、視界に入る限りには他に建物は見つからなかったからだ。その店は、ぽつんと遊歩道の中心に建っていた。

「店名も……これで合ってるよな」

 屋根に釣り下がった板と、手のメモ帳を見比べ、秋護が頷く。レイはそこにペンキで書かれた店名を読み上げた。

「『しろうま』って、平仮名でなんか可愛らしいですね」

「はくば、じゃないところが面白いよな」

 『喫茶店 しろうま』。それがこの小さな喫茶店の名前だった。その名が示す通り、白塗りの外装をしている。素朴な作りで、だからこそなんだか惹きつけられるものがあり、レイはこの店の構えに一目で好感をもった。

 どうやらターゲットはこの店の中にいるらしい。この喫茶店を経営している者の親族なのだろうか。様々な憶測を頭に巡らせながら、秋護の方を見やる。すると彼は意外なことを口にした。

「あ、でも、なんか閉まってるみたいよ?」

「え?」

「だってほら、クローズってなってるし」

 秋護が指差す先を目で追うと、そこにはドアノブに引っ掛かった『CLOSED』の看板があった。思えば、確かに窓の内側にも光は灯っていない。誰かの悪戯というわけでもなさそうだ。

 確かめることもなく、この店はどうやら、本日休業中らしいかった。レイは看板を手に取り、ひっくり返したり、指で小突いてみる。しかし、そんなことをして店の雰囲気が変貌するはずもない。この看板を『OPEN』に変えた瞬間、「やあ! 実は君たちを騙していたんだけど、実は開店していたのさ!」などと店が突然喋り始めることも当然ながら、ない、レイは途方に暮れ、その看板をドアに軽く叩きつけた。

「一体、どういうことなんでしょう」

「ゴンザレスの野郎はそんなこと言ってなかったよなぁ。ったくいい加減だな。どうすりゃいいんだよ」

 秋護もまた『CLOSED』の看板を掴むと、それをじっと眺めながらやがて「まったく、クローズで苦労するとはこのことだ」と信じられないことを口にした。あまりに程度の低いダジャレに呆れを通り越して、こちらが恥ずかしくなってくる。レイはありありとため息をついた。

「ちょっと藍沢さん、バンダナを喉につまらせて、呼吸困難に陥ってもらってもいいですか」

「それは奇妙で、非現実的な死に方だ。俺にある意味、ぴったりだろうな。脅威、バンダナ死!って奴だな!」

「どうしたんですか藍沢さん。いつにも増して意味分からないしうざいですよ」

「そりゃあテンション上がるだろ。悪魔の娘なんて言われればさ。俺はそれを楽しみにここまで来たんだから」

 悪魔の娘。ゴンザレスは最後に、ターゲットのことをそう呼称した。人々の命を刈り取る怪人を作り出すその元凶を、“悪魔”となぞらえる理由はまだ分かる。しかし“娘”というのが引っ掛かった。違和感、というよりもむしろ、レイは自分のことを言われているかのようで緊張した。黒い鳥――怪人の原点から生み出された自分こそ、蔑まれてもおかしくない存在のはずであるし、悪魔の娘という呼称もふさわしいと思った。

 だから気になった。ゴンザレスにそんな不名誉な名前で称されるとは、どのような人物なのか。ほとんど同年代であり、しかも同じ学校に通っているという親近感も乗じて、レイは運命めいたものを感じずにはいられなかった。

「あ、でもなんか開いてるよ」

 気付けば、秋護はドアノブを掴んで軽く引いていた。『CLOSED』と書かれているのに無理やり開けて入ろうとするのは不法侵入ではないか、と言いたくなるが、そんな場合ではないことも分かっている。彼の言う通り、ドアは薄く浮き、壁との間には僅かに隙間が生じていた。

「随分と、不用心ですね」

「だけどまぁ、いいじゃないか。ちょっと見るくらい。な?」

「藍沢さんの犯罪に私まで巻き込まれるなんて……」

 口では言いながらも、レイも少し覗くくらいだったらいいのではないかと思い始めていた。留守だったからといってこのまま退散するのでは芸がないし、自分の任務に対して無責任だ。それに戸締りをしっかりしていないほうにも、1割くらいは、非があるはずだ。おそらく。

 しかしそれを今更表明するのも、気恥ずかしさがあり、戸惑っているうちに秋護がドアを完全に開いてしまった。「よし、これでレイちゃんも共犯者だ!」と高らかに宣言するその表情は実に爽やかだ。

 心の中では秋護の意見に同調していただけに咎めることもできず、レイは無言で後を付いていく。軽やかなベルが頭上で鳴り、秋護は店内に足を踏み入れた。レイも少し遠慮がちにそれに続く。

 外から見た通り、店内の電気は消えていた。それでも窓の外から射しこむわずかな陽で照明は採れている。2つ3つのテーブル席とカウンター席しかない、随分と小さな店のようだった。壁際には山の写真がずらりと並んでいる。床には埃1つなく、喫茶店という場所だけあり、また主人の人柄なのか、衛生面には気を使っているようだった。

 カウンターの内側に、2人の少女の姿があった。双方とも店の制服らしきものを着ておらず、見る限り普段着だ。どちらも目を丸くしたまま固まっている。当然だ。自分たちは『CLOSED』の看板を無視して、店に押し入ってきた。いわば来るはずのない客なのだから。

 緊張が一瞬で店内に張り詰め、レイはどこか気まずい思いで立ち尽くす。おそらく向こうもどう対応するべきか距離感を掴み損ねているのだろう。しかし秋護だけは、そんな空気もお構いなしだった。

「おぉ、すげぇ! 青い奴がいる、なんだこれ!」

 ひどく感動し、驚嘆し、興奮しながら秋護が少女の1人に詰め寄る。よく見れば彼の言う通り、その少女はどう解釈しても自然のものではけしてないだろう青色の髪の毛をしていた。鮮やかで、それゆえ、不自然な色。それは秋護の興味を惹くには十分すぎる要素だったようだ。

「おい、ちょっとそれ触っていいかい? いいだろ?」

「え、あの、その……」

 彼女はその髪を後ろで束ね、ポニーテールにしている。アーチ状の眉と薄い唇は周囲に和やかなイメージを注ぐ役目を果たしているかのようだ。その表情が今、困惑に染まっている。当たり前だ。突然店内に突入してきた、わけのわからない男に責め寄られているのだから。レイはため息をつく間も惜しんで、秋護の向う脛を力任せに蹴飛ばした。

「すみません、うちの兄がうるさくて」

「あ、はい。驚きました」

 レイは悶絶する秋護を尻目に、カウンター席に腰を下ろした。ちょうど青髪の少女と向き合う形だ。するともう1人の、こちらは黒髪ロングの少女が駆けてきて、いきなりレイを指差してきた。

「金色!」

「は?」

「頭がきんきらきんじゃん! よし、今日からあなたの名前は金色だ!」

 レイは眉をひそめた。彼女の示すところの意味はまったく理解できないが、馬鹿にされていることだけは分かる。胸の奥に昇ってきた怒りをそのままに、自分に突きだされた指を手の甲で強く弾き飛ばした。すると黒髪の少女は、ふぐのように頬を膨らました。

「痛いなー。店員に何をするんだ!」

「こっちはお客様だよ。そうじゃなくても、初体面の人をいきなり指差すなんて礼儀知らずにも程があるよ」

「ま、閉まってるって言ってるのに入ってくる俺たちも、負けずに超礼儀知らずだけどな」

 何事もなかったかのように立ち直った秋護が、涼しい顔をしてレイの隣に座る。さらに「な、妹」と舌を出すので、レイはげんなりした。彼の視線は相変わらず、食い入るように青髪の少女の頭へと向けられている。非現実を前にし、衝動を抑えきれなくなっている目だ、とレイは彼の心中をすぐに察する。

「ま、通りすがりのお客さんってことで勘弁してくれよ。とりあえず、店員さん、お冷お願いします」

「はいよー、お水ね! ちょっと待っててね!」

 閉店中なのに水を頼むのか、そして受けるのか。そもそもこの2人は何者なのか。様々な疑問を頭に浮かべながらレイは、顔の前で手を組む。前情報と照合するなら、この少女のどちらかがゴンザレスの示したターゲット、“悪魔の娘”ということになる。2人を交互にそっと見比べながら、思考を働かせる。

 ゴンザレスが話していたターゲットに関する情報の1つ。それが髪の色だった。提示されたその色は、青。そんな人間がいるものかと聞いた時は半信半疑だったが、今、目の前に実物がいる。その髪は外から射す光に照らされ、熱帯の海のような輝きを空に放っている。

 この少女こそ、ゴンザレスに悪魔と称される人物に違いなかった。レイは唾を呑みこみ、その確信をしっかり腹の底に据える。

「その制服、同じですね」

 すると突然、青髪の少女のほうから話しかけられた。彼女は頬杖をつき、口元に笑みを寄せながらレイを見ている。その瞳には視界に入った万物を吸い寄せてしまうような、夜の湖畔にも似ている幻想的なイメージを孕んでいた。レイもしばし、その目に魅かれる。しかしすぐに話しかけられたことに気が付き、椅子に座りなおして「あ、はい。そうなんですか。あなたも、この学校なんですか」としどろもどろに返答した。

「はい。そのネクタイの色は中等部の人ですよね? ボクと……あのさっきの女の子なんですけど、葉花さんは高等部の1年なんです。偶然ですね。凄いです」

「1年先輩でしたか。それは本当に、偶然ですね」

 口ではのうのうとそんなことを言いながらも、それは紛れもなく必然なんですとレイは心の中で唱えている。会話の糸口を探るために、わざわざ制服に着替えてきたのだから。

「はい、本当に偶然です」

 青髪の少女は笑う。その眼差しに懐疑的なものはおそらく、含まれていないはずだ。レイも釣られるようにして口元を緩めた。

「でも、せっかく来てくれたのにすみません。ここのお店の人が今、ちょっと出かけてて……」

「えっと。あなたは、お店の人とか、なんですか?」

「ああいえ。あっちの葉花さんはこの家の人で、ボクは遊びに来ただけなんです。すみません、お店の人、もう少しで帰って来るとは思うんですけど」

 レイは眉間に皺を寄せた。捉えどころのない違和感をその言葉に覚えた。なにか重要なことを見落としているかのような欠落感。しかし話の内容自体に、特にこれといった着目要素はないため、すぐに目元から力を抜いた。

「タイミングが悪かったから、しょうがないです。また後で、今度はお店が開いてるときに来ます」

 元より、この店で寛ぐためにやって来たのではない。この少女に会うためにわざわざ足を運んで来たのだ。レイは目の前の少女から目を離さないように努める。気づけば、掌はじわりと湿り気を帯びていた。

「でも、何で敬語? 私の方が年下なんだから、別に普通に喋ってくれてもいいんですけど」

「癖みたいなものですから。お母さんに小さい頃から言われてるんです。年下だろうが年上だろうが、全ての人には敬意をこめて会話しろって。だから多分、そのせいなのかもしれないですね」

「随分と、かしこまってますね。厳かというか、何というか」

 少女の立ち振舞いや喋り方からして、躾の厳しい家に生まれた人なのではないかと初見から予測していたが、どうやら的中したようだった。

「レイちゃんも、ちょっとは見習って欲しいね。人に対して、敬意を払っていうことをさ」

 先ほどから黙って話を聞いていた秋護が、手を天井に向けて突き上げ、大きく伸びをしながら言う。レイは横目で、鋭い視線を彼に突き立てた。

「見習っても、お兄ちゃんに対する態度は悪化の一方をたどるでしょうけどね」

「あぁ。じゃあ、習わなくていいや」

「むしろ、逆に見習ってくださいよ。初体面の女の子に興奮して飛びかかる大人に、説教されたくないです」

「じゃあ、妹がいじめるんで、よろしくお願いします。師匠と呼ばせてください」

 カウンターに手を付き、秋護は棒読みで青髪の少女に頭を下げた。少女はくすくすと笑い、その後に「いえいえ」と顔の前で何度も手を振った。「ボクなんて、大したことないですから」と嬉しそうに謙遜する。

 レイはその、あまりに大人びた彼女の笑い顔をそっと観察する。

 この少女の年齢、おそらく15、16歳にしてはあまりに落ち着き払いすぎているその態度は、若干世間離れしたものを感じさせ、ゴンザレスのいう“悪魔の娘”という言葉の確信をさらに深めさせる。彼女の背に浮き上がるその影のイメージに、レイは心臓の高鳴りを抑えきれなくなる。ボクという奇妙な一人称のその印象を決定づける要因となっていた。

「というか、その髪は地毛? なんか染めたり脱色した風ではないんだけどなぁ」

 秋護は顎に手を添え、まじまじとあきらの髪を見つめている。先ほどからあなたは髪のことばかりでないか、とレイは唇を歪める。それにこんな派手な色が、自然にでき上がったものであるはずがないではないか。

 しかしあきらは一瞬だけ苦々しいような表情を見せた後で、思いもかけない返事をみせた。

「はい。そうですけど、よく分かりましたね」

「え? 本当に?」

 あきらは冗談を言っている風ではなかった。怪訝に思うレイの隣で、秋護は「まぁ、非現実好きな男の嗅覚って奴かな。かりそめじゃない、迫力を感じる」となぜだか偉そうに講釈を垂れた。

「生まれたときからこんな感じなんですけど、変ですよね。こんな色」

 自身の前髪を指で摘みあげながら、あきらが自嘲的な笑みを浮かべる。東京という様々な人々の入り乱れる大都会でも、おいそれと見ることのない髪の色だ。おそらく生きてきた中で、自然に周囲からの注目を浴び、いわれのない非難を受けたり難癖をつけられたりしてきたのだろう。人は朱に交わらない人間を嫌悪する。幼少のころ、ひどいいじめを受けたこともあったのだろう。彼女がふと落とした視線には、そんな殺伐とした雰囲気が暗に含まれていた。

「あんまりいい思い出、ないんですよね。だから褒められると、ちょっと嬉しいんです。急でびっくりしましたけど。ありがとうございます」

「こんなのに礼なんて言わなくていいですよ。蔑むのはどんどんやっちゃって構わないですけど」

「そうそう。俺が勝手に言ってるだけなんだから、そんなに気負うなよ。礼なんて言われたら照れるぜ」

 どこまでもポジティブな彼に敬意さえ覚えながら、レイは薄い笑みを浮かべるあきらを見やる。そんな彼女に秋護は「いやまぁ」と頭の後ろで手を組みながら、ぼんやりと言葉を続けた。

「俺としちゃ、ちょっとくらい変なほうがいいと思うんだよなー。つまりさ、他の人が経験できないような人生を送れるってことだろ? 超うらやましいじゃないか。他の人が努力しなきゃいけないところを、変な奴は向こうから勝手にドキドキワクワクアドベンチャーがやってきてくれるんだぜ? 素晴らしすぎるだろ。そういやレイちゃんのも、生まれつきなんだよな? みんないいなぁ」

 秋護が気楽な調子で言う。彼はいつも、良くも悪くも空気が読めない。今の言葉がどちらに転じたのか、レイには判断しかねる。しかし少なくともレイ自身は彼の清々しいまでの勘違いに、あまりいい気分にはならなかった。

「まぁ、そうですけど。別にだからといってそんな面白いもんじゃないです」

「そっかー。ま、短い人生なんだから、もっとワクワクしようぜ。せっかく非現実的な可能性を2人とも秘めてるんだからさ!」

「どうしよう。全然嬉しくない。むしろ悲しくなってきました」

「みんな、お水持ってきたよ!」

 おかしなやり取りを3人で交わしていると、舌足らずな声と共に、葉花と呼ばれていた黒髪の少女がカウンターの奥から戻ってきた。両手にお盆を載せ、その上には水の入ったガラスのコップが置かれている。葉花はコップを1つずつ手に取ると、それぞれレイと秋護の前に置いた。叩きつけるようだったので、飛沫が飛び散り、カウンターを容赦なく濡らした。

「はい。バンダナさんに、金色のも! しろうまの天然水だよ!」

「おー、それは美味しそうだ。暑い時はやっぱ水が一番だよなぁ、ほら、レイちゃんも飲みなよ」

「つまり、ただの水道水じゃない」

 大袈裟な前口上を吐き捨てた後、喉を鳴らして、実に美味そうに秋護は水を飲み干す。「ぷはぁー!」と息を空気に浮かべるその様は、さながらサラリーマンの晩酌の瞬間を切り取ったかのようだった。

「そういえばその制服、私の後輩じゃん! じゃあ今から私を先輩って呼ぶんだよ!ほら、ほら!」

 カウンターから身を乗り出し、葉花がレイに顔を近づけてくる。口に水を含み始めていたレイはコップを傾けながら、その額をデコピンで弾いた。葉花は「うわぁ!」と大きな声をあげて、後ろに引っ込む。だが彼女はすぐに片手を突き上げて、抗議をしてきた。

「先輩になにすんだ! 金色のくせに!」

「また金色って……。うるさいよ。あんたのことを先輩とは呼ばないから。絶対に呼ばないから」

「金色のくせに!」

「お願いだからもう喋らないで欲しいんだけど。あんたと話すと、私の身と時間が、削れる」

「なんだと!」

 掴みかかってこようとする葉花に、レイは片手で払いのけながら応じる。そのうち相手の攻撃の手が激しくなってくるとコップを置き、両手で応戦した。こんな奴に負けるものか――気付けば、レイも無我夢中だった。あきらが「止めてくださいよ、葉花さん!」と眉をハの字に寄せながら仲介しようとするのも、耳には届けど、頭には入ってこない。喉の奥は屈辱の炎で、むせかえるほどに燃え盛っていた。

「だから言ったろ? うちの妹は怖いんだから」

 秋護は首をすくめると、隣の席に置いていたカラフルなリュックサックに手をかけた。ファスナーを下げ、中をまさぐる。出てきたのは、小さなタル型の玩具、『黒ひげ危機一髪』だった。カウンターにそれが置かれた音に反応し、レイと葉花は体を乗り出した姿勢のまま、ほとんど一斉にそちらを向いた。

「みんなでこれ、やろうぜ。これの勝利者がこの場をまるーく治める権利を得る。どうだ?」

「これ今、どっから出てきたんですか?」

 レイは瞠目し、葉花の手を腕でガードしたままの体勢で秋護に問いかける。彼はバンダナの縁を指先で直しながら、不服そうに口を尖らせた。

「何言ってんだ。普通みんな持ち歩いてるだろ、黒ひげ危機一髪の1つや2つくらい」

「どこの世界の常識なんですか、それは」

 レイが唖然とする目の前で、秋護は着々と準備を進めてくる。リュックサックの中から髭のおじさんの人形や、プラスチック製のナイフが次々と出てくる光景にレイは言葉を失う他ない。

 しかし葉花が、「よし、やるぞー。金色なんかに、私が絶対負けるわけないんだからね! 絶対に先輩って呼んでもらうんだから」とはりきる言葉を吐くと、ようやくレイの心にも熱が舞い戻ってきた。再び、周囲の音が無関係の世界に置き去りにされたかのように遠くなる。

「私があんたみたいな礼儀知らずに、負けるわけないじゃない。いいよ。もし負けたら、あなたを先輩を呼んであげる。まぁ、ないと思うけど」

 互いに暴論を突き付け合いながら、レイと葉花は肉薄する。その横で、全ての道具をカウンターに揃い終えた秋護も口を開いた。その目はやはり、青髪の少女に注がれている。

「青色の子もやろうぜ。そんで俺が勝ったら、髪を触らせてくれよ」 そんなことを突然言い出す秋護の目は、これ以上ないというほど輝いていた。「それと写真も撮らせてくれ! な、いいだろ?」とさらに言葉を畳みかける。終いには「その代わり俺が勝ったら、3年かけてコンプリートした海外ブランドのバンダナセットをやるよ。それでどうだ!」とカウンターを強く叩いて締めた。

 レイ以上の、あまりに不公平で無遠慮な取引に、青髪の少女は呆然としている。だが葉花の「青色もやろうよ! きっと楽しいよ!」という言葉に乗せられるようにして、やがて彼女は強く頷いた。

「分かりました。いいですよ」

「え、いいの?」

 今度はレイが当惑する番だった。勝っても負けても罰ゲームじゃないですか、と忠告しようとするが青髪の少女の満面の笑みを前にすると、その言葉は胸の奥に引っ込んだ。その表情は明るく朗らかなものであるにも関わらず、どこか寂しさが滲んでいるようにみえた。

「いいんです。みんなで、楽しみましょうよ。それにせっかくの時間なんですからボクも混ぜて欲しいじゃないですか」

 レイはまたしばし、葉花への執念から外れて、この青髪の少女に目を奪われる。普通の少女の中に、悪魔を内包している。ふとした瞬間にその顔がこちらを覗き見てくるかのようだ。その二面性に、レイは引き込まれる。自分の中に流れる黒い鳥の血が、呼応するかのようにざわめいているのを感じる。

「あの。私、黒城レイって言うんですけど」

 騒ぐ葉花と秋護を背景にして、レイは少女に向けて口を動かしている。それが無意識の領域による行動なのか、それとも意識的に行ったものなのか、判然とはしない。

「あなたの名前は、何ていうんですか?」

 少女は眉を上げ、一瞬、驚いたような顔を見せたが、すぐに優しい笑みを浮かべた。

「華永あきらといいます。なんかボクたち、ちょっと似てますよね」

「……はい。同じこと、思っていました」

 じゃあ誰から始める? と秋護の昂揚した声が聞こえる。葉花が私からでいいよね! と応じている。しかしレイはそれらの声をひどく遠くのものに感じながら、しばらくあきらから目を離せずにいた。




鎧の話 21

 バイクを駅の駐輪場に置くと、直也はライを連れて電車に乗り込んだ。もちろんキップ代は全額直也が支払った。時刻表を確認したわけではなかったが、ホームに着くと示し合わせたかのように電車はやって来て、甲高い音を発しながら停車した。

 深い息を吐くようにして開く電車のドアを見つめながら、ライは嬉しそうに言った。

「私、こういう運はいいんだ。いつもほとんど待たずに電車が来るんだよ」

「へぇ。それが本当なら、すげぇな。結構こういう暑い日だとホームで待ってるだけで嫌になっちゃうもんな」

「なに言ってんだよ、マジだよ。こんなこと嘘つかないよ。まったく信じてないなー」

「いや、信じてるよ」

 直也ははっきりと言った。それが思いもよらず真剣味のこもった言葉となってしまったからか、ライは驚きに目を丸くして直也を見上げた。

「お前の言うことを、信じるよ。疑われるって、疑うって、本当に疲れるし、嫌なことだもんな。分かっちゃいるんだよ。だけど、時々どうしようもなくなるんだ。何でだろうな。全部信じられたら、人の言葉を鵜呑みにできたら、楽になれるのかな」

「おっさん?」

 大小様々な壁にぶつかって、痛みも覚えて、体は庇と電車との隙間から見える空に目を細めながら思う。子どもの頃は無意識に分かっていたことを、大人になってから見えなくなってしまったものを1つ1つ拾い集めていくことに決めた。そこにどんな景色が見えるのかは、全てが終わった頃に見えてくるはずだ。

 直也はライの頭を少し強く撫でながら、足を前に踏み出した。彼女は迷惑そうに視線を上向かせ、眉間に皺を寄せる。直也はその表情を見ているうち、自分の頬に笑みが宿るのを感じた。その理由は判断がつかないものの、何だか清々しい気分ではあった。

「……なんでもねぇよ。じゃあさっさと行くか。約束だ。お前の話、聞いてやるよ」

「言われなくても、聞いてもらうって!」

 直也の背中に抗議を浴びせかけながら、ライは早足で後をついてくる。2人が電車に乗り込むとほぼ同時に、背後でドアが閉まった。

 車内は比較的空いていた。吊革を掴んでいる人もいるが、ちらほら空席も窺うことができる。ライは目ざとくそのスペースを発見すると、率先して座席に腰かけた。制服を着た高校生と、文庫本に目を落としている女性の間に割って入る。「ほら空いてた! ラッキー」と満面の笑顔で彼女が宣言すると、右隣の高校生が迷惑そうに鼻を鳴らした。

 直也は吊革に手を添えながら、ライの前に立った。そうして窓の外を流れていく景色を眺めながら、そういえば電車乗ること自体が久々であったことに気が付く。

 この車内独特のこもった空気もどこか懐かしい。この電車だけでも、1日に何千という人が利用している。それぞれの目的地を目指して、想いや記憶といった目に見えないものも一緒に乗せながら、一心不乱に駆けている。そこに1つとして、同じ感情を内包した記憶はあったのだろうか。老若男女、様々な客層を見回しながら直也はふとそんなことを考えてみる。

 電車の中で、直也はライと実に当たり触りのないことを話した。人目のある中で談笑する2人の姿を、嫌悪感を滲ませて睨んでくる人もいたが、構わなかった。笑い、時には親身になって話に耳を傾けているうち、目的地に電車が到着したときには、固く結び目を作ったロープのようだった直也の心はすっかりほぐれていた。

「ありがとよ」

 終点だったため、人に押されるようにして電車から降りた。そして少し前を歩くライの小さな背中目がけて、直也はほとんど無意識のうちに声を投げかけていた。

 しかしその言葉は喧噪に紛れてしまい、明瞭とした形を持って、彼女に届くことはなかった。だが、それでも構わない。伝わらなくても口に出したことには、きっと意味がある。

「え? おっさん、なんか言ったか?」

 耳に手を添え、立ち止まったライが振り返る。

「なんでもない。行くぞ。ここからまだ少し、歩くからな」

 直也はライの後頭部のあたりに触れ、改札口の方へとその体を押しやった。突然前に突かれたことでたたらを踏んだライが眉間に皺を寄せて、足を踏もうとしてくる。しかし直也はそれを軽くいなすと、切符を1枚彼女に手渡し、悠々とした態度で改札をくぐった。

「そういえば聞いてなかったけど、どこに行くんだよ」

 直也はライと並んで、廃れた繁華街を歩く。人はまばらで、電気の点いていない店も多い。埼玉のはずれということもあって、随分と東京の街中とは異なる装いだった。時折思い出したように脇を通過する車に注意しながら、道路の左側を歩いていく。

「探偵の仕事の一環だよ。いや。勝手に調査してるわけだから、どっちかっていうと……興味か。まぁ、とにかくちょっと疑わしい家があるからこの目で確認しにいくってわけだ」

「え、それって私も行って大丈夫なのか?」

「尾行とかならまだしも、相手が逃げるもんでもないし。それにどちらかっていうと、1人で行くより、誰かと一緒の方が怪しまれずに済むかもしれない」

「そうだよな。チャーハン1人じゃ怪しいもんな」

「俺は焼き飯じゃねぇ。それにあたかもチャーハンを人の名前のように使うな。チャーハンのおっさんと呼ばれる方が、まだ許せる」

「分かったよ。で、その家は歩いてどのくらいなんだよチャーさん」

「気の抜けた名前で呼びやがって……まぁいいや。ここから15分くらいだよ。確か地図を見る限りでは、そうなってた」

 直也はジーンズの左ポケットに手を突っ込み、トヨから受け取った封筒を取り出した。中から手書きの地図を引き抜き、もう1度道順を確認する。しばらくこの道を真っすぐに行って、ガソリンスタンドを右に折れ、さらにコンビニが見えたら左に曲がる。黙読し、地図を目に焼き付けて、それから紙を封筒にしまい直し、丁寧にポケットに入れた。

 「ふぅん。そっか」ライは気のない返事をすると小石を蹴りながら、その軌跡を追いかけるようにして直也の前を歩いていく。その様子を見つめながら、直也はふと思ったことを口に出した。

「そういえば、さっきお前、母親がどうとか言ってたよな。俺、お前の母親に会ったことないんだけど、どんな人なんだ?」

 ライの母というのは、つまり単純に考えるならば黒城和哉の妻ということだ。あの不遜という言葉をそのまま顕現させたかのような男の伴侶とはどのような人物なのか、気になった。自分なら5分も一緒の部屋にいたくないのに、それをほとんど365日24時間継続できるとは、余程心の広い人物であるに違いない。

 しかしライの口から返ってきた答えは、そんな予想を真っ向から裏切るものだった。

「よく覚えてないんだ。私、今の父さんに拾われたから」

「……え?」

「あぁ、あれだよ、記憶喪失ってやつ? 父さんとかレイと会う前の記憶がはっきりしないって言うかさ。私を産んで、ここまで育ててくれたのが誰なのか、見当もつかないんだ」

「マジかよ……」

 あっさりと語られた真実に、直也は言葉を失う。まさか黒城和哉とライの血が繋がっていないとは、想像もしていなかった。黒城も話さなかったし、直也も尋ねようとしなかった。親子の間には、血の繋がりのあるのが当然。そんな概念が体に沁みついていたからだった。偏った勝手極まる思い込みは、多くの人の不安や悩みと正面からぶつかる仕事である探偵として、言語道断。失格だ。

「ごめんな。変なこと、無神経に聞いちゃって」

 歩幅を狭めながら、しかし立ち止まらずに、直也は謝罪する。先ほどからライには謝ってばかりだ。

「こんな突拍子もないことなのに、信じてくれるんだ?」

 歩きながら振り返ったライが意外そうに言う。その曇り顔に向けて直也は小さく笑った。

「信じる、って言ったろ? もう疑うのは疲れたんだよ。お前が俺を馬鹿にして影で笑ってたとしても、別にいい。……もういいんだ。それにお前だって嫌だろ、疑われるのは」

 全てを投げ打ち、諦めたような口ぶりになってしまったが、それでもライは直也の気持ちをくみ取ってくれたらしく大きく頷いた。

「ありがとな、おっさん」と彼女が安堵の表情を浮かべると、こちらもなんだか心が軽くなる。

 ガソリンスタンドが遠くに見えてきた。それに伴って、大きな道路にぶつかる形となる。数十メートル先を、絶えず猛スピードで色とりどり、大小様々な車が駆け抜けていく。右耳に迫り、左耳に抜けていくその音は東京と何ら変わらない。

「だけどさ、あの場所だけは覚えてるんだ」

「……さっき、いた場所か」

 ライの呟きに応じながら、SINエージェンシーのあった場所か、と直也は心の中で言い換えた。過去形を使うと何だかその出来事が他人事のあるかのような気がして、安心する。

「うん。母さんと一緒によく歩いたんだよ。あの近くにあるしょぼいご飯屋さんでさ、テーブルに向き合って。私はハンバーグ頼んで、母さんはスープ飲んでたんだ。ダイエット中、とか言ってさ。家帰ったらどうせ隠れて菓子食ってるんだから、ちゃんと昼ごはん食べればいいのに、っていつも思ってた」

 空に目をやりながら、ライは1つ1つ失ったものを心から取り出して、それらを掲げるようにぽつりぽつりと話していく。その横顔には悲しみなど微塵もなくて、笑みさえ浮かんでいて、直也はその姿に感服すら覚えた。

 自分は咲を思い出して、笑うことなどできない。悔んで、求めて、落ち込んで、悲観の中に溺れていってしまう。だからライの前向きな清々しさは見習いたいと思うと共に、羨ましくもあった。

「でも、寂しくないのか? なんというか、本当の母親に、会えなくて。お前はどうそれを納得してるんだよ」

「いいんだよ。私には父さんもいるし、レイもいるし、それだけでいいんだ。それに本当に寂しくなった時は、あそこにいけば会えるからさ。ほとんど覚えてなんかないし、生きてるか死んでるかも分かんないけど、母さんは私を見ていてくれる。それだけで、十分だよ」

「お前は、強いな。俺はとてもお前みたいにはなれない」

 尋ねてはみたが、それは今の直也の中にはない答えだった。そこまで割り切れて、前進することだけを考えることができたらどんなに楽だろうと思う。希望の明りを瞳に灯すライに正面から見つめられると、何だかひどく自分が情けなく、惨めになる。

「そういえば、おっさんは何であんなところにいたんだ?」

 気付けばライは直也の隣に来ていた。歩く速度を緩めてくれたらしい。気遣いをさせてしまったことに反省しつつ、せめてもと直也は自身の右側を歩くライを白線の内側に入れ、代わりに自分が車道に寄った。

「あぁ、それは……」

 自分よりおよそ一回り年下の、しかも上司の娘に弱音を吐いていいものかと一瞬躊躇ったが、結局話した。ライもこちらからの問いに包み隠さず、自身の素性を語ってくれた。こちらだけだんまりを決め込むのはフェアじゃないし、さすがに大人げない。

 出会ったあの付近に、自分の昔の職場があったこと。そこにかつての恋人がいたこと。放火殺人によって、上司とその恋人の命が一瞬で奪われたこと。3年経った今でもまだ犯人が捕まっていないこと。そしてその手がかりを求めて、今、ある一軒の家に向かっていること。

 全てを話し終えた頃には、広い道に敷かれた横断歩道を渡り、ガソリンスタンドの角を右折するところまで来ていた。その間、ライは時折ふんふんと相槌を打ちながらも、特に口を挟むことなく聞いていてくれた。そのおかげもあり、喋り終えると、胸の中にあったわだかまりが少し減ったように感じた。

「まぁ」

 車同士が通りすがることなどできないくらいの狭い路地を、並んで歩く。するとライが下を向いたまま、ぽつりと漏らした。

「まぁ、おっさんも色々大変なんだな。分かったよ。なんか話してくれて、助かった。やっぱりみんな悩みの1つや2つ、あるんだな」

 どんな慰めの言葉よりも、憐みの言葉よりも、それはじんわりとした熱を持って心に沁みてきた。返事をしようとするが、どんな言葉も、かけられたその一言にはどうしても及ばなくて。仕方なく、直也もまた俯いたまま、ぼそりと言った。

「あぁ、そうなんだよ。大変なんだよ」

 そのやりとりを最後に、直也とライは無言で歩いた。しかしそこに気まずい色はなく、訊かなくとも、話さなくとも、会話が成立し感情を共有し合えるような予定調和の沈黙が、そこには確かに存在していた。

 コンビニを左折し、それからまたしばらく歩くと、民家が2、3軒連なった路地に出た。木が乱立しているせいか、周囲よりそこ一帯はどこか薄暗いように感じられる。

 右手側に2階建ての一軒家が2棟並び、その向かいに古いアパートが建っている。伸びたツタが絡まり、窓ガラスは割れ、いかにもホラー映画に出てきそうな佇まいだ。そのアパート固有のマークなのか、屋上のフェンスに蝙蝠を象った記号がでかでかと刻まれているのが、そのイメージをさらに深めている。

「地図によると、ここらしいな」

 直也は緑色のフェンスで厳重に囲われたそのアパートを背にして、入ってきた方から見て奥側に位置する、一軒家の前に立った。赤い屋根と白い外装をもつなかなか小洒落た家だ。庭先は整えられており、花がぽつりぽつりと咲く花壇やよく磨かれた玄関には高級感すら溢れていた。

「すげぇ。なんかピアノの先生が住んでそうな家だな!」

「なんかちょっと分かる自分が嫌だな……まぁ、でもここまで綺麗だとは思ってなかった」

 娘の1人が死に、1人は行方不明になり、母は精神を患い、父は蒸発した。その果てに残された町はずれの家屋。その外見は寂れて、汚れて、腐敗した空気を近辺に振りまいている。そんなイメージを勝手に頭の中で作り出していたが、現実は丸きり正反対だった。

「とりあえずチャイム鳴らすか。話だけでも、聞ければいいんだけどな」

「あっ……」

 封筒からトヨの紹介状を取り出し、玄関のドアに足を踏み出そうとすると、突然ライが声をあげた。振り返り、何事かと思っているとライはブロック塀のすぐ下に生えた植え込みに駆け、いきなりその中に頭を突っ込んだ。直也は首をかしげる。

「……なにやってんだ、お前」

「ちょっと、閃いたんだ」

 がさがさと音をたてて、植え込みを深くまでまさぐっていくライに直也は唖然とするほかない。一体何をしているのか判断もつかず、紙を片手に立ち尽くす。

 あった! という大声と共に泥だらけの顔をみせた、彼女のその手に握られていたのはピンク色のゴムボールだった。表面には何かのキャラクターの描かれていた形跡がある。しかし年月を経たためか、それは削られ、元が何だったのかほとんど識別できない状態になっていた。

「なんだよ、それ」

「ボールだよ、ボール! ちょっと植え込みの中に見えたからさ、思わず、拾っちゃったんだよ」

「良く見えたな、それ。結構、深いところにありそうだったけど」

 ライの髪に引っ掛かった葉を摘み取ってやりながら、直也は何だか納得できないものを覚える。ライはそのゴムボールを天に掲げながら、心から嬉しそうに目を輝かせている。まるでとうの昔に別れた旧友とひょんな場所で再会を果たしたような――そんな歓喜の表情を彼女は顔に浮かべている。しかし土に塗れ、少し空気の抜けたボールにどれほどの価値があるのか、直也には理解の外だった。

「なんかさ、私、ここに来たことがあるような気がするんだ」

「……ここに?」

 怪訝な声色で直也が問い返すと、ライは強く頷いた。

「なんか懐かしいんだ、この家。分からないけど。何か……昔、このボールで遊んだ気がするんだよ。でも気のせいかもな」

「……案外、この家の人間だったりするのかもな、お前。記憶がないって、さっき言ってたろ?」

 思いつきを口にしながらも、それはあり得ないな、と直也は自分の発言を心中で否定する。記憶喪失とこの家にいた人間、という2つの単語を単純に結びつければ、そこには鉈橋きよかの名前がすぐに出てくる。

 行方不明の末に記憶を失い、放浪を続けているうち、いつか本人も気付かぬうちに自分の故郷へと帰還を果たしている……そんな手垢のついたドラマの設定が組み上げられてくる。

 だが、あのアルバムの中にいた彼女の顔とライの顔は似ても似つかない。それに彼女は咲と同年齢だったはずだ。比べて、ライはあまりにも若すぎる。どうやらそんなテレビドラマのテンプレートに収まるほど事態は単純なことではないし、ご都合主義でもないようだった。

「私の家……」と呟きながら、ぼんやりとその白い家を見上げるライの肩を直也は後ろから叩いた。彼女は全身をぎくりと震わせ、こちらを丸い目で見上げてきた。その小さな唇が動く。

「なぁ、おっさん。ここは私の家、なのか?」

「冗談だよ。悪かったな、変なこと言って。そんな小説みたいなこと、あるわけないよな。今のは忘れてくれ」 

 直也は自分の思慮浅い言葉で、不用意に混乱させてしまったことをライに詫びると今度こそチャイムを押した。とりあえず10秒待機し、誰も出てくる気配がなかったのでもう1度押しこむ。

 それからまた10秒ほど待ち、3度目のチャイムを鳴らそうとするとドアが開いた。中から化粧気のない、若い女性の顔が姿を現す。髪はぼさぼさで、陽の光が眩しげに半分だけ瞼を開いている。どうやら寝起きを呼びだしてしまったらしい。彼女は不審げに直也とライとを見比べるようにした。

「はい? どちらさま? 新聞の勧誘ならいらないよ」

「あの、これ」

 直也は彼女の不機嫌な声色と、威圧的な態度に圧倒されながら、おずおずと手紙を差しだした。女性はそれを素早くひったくると片手で頭を掻きむしり、不審げに目を細めながら文面を読み進めている。紙をもつ手の甲には、大きな四角い絆創膏が貼られていた。

「あぁ、船見さんのね。分かった分かった。ちょっと待ってな」

 女性はぶっきらぼうに言い放つと、手紙を手の中でくしゃくしゃに握りつぶしてドアの向こうに消えた。直也とライは思わず顔を見合わせる。

「何が分かったんだ?」と首を傾げるライに、「本当だよな」と相槌を打つ。もしかしたら直也が向かう旨を、トヨが事前に話を通しておいてくれたのかもしれない。それにしてもトヨが、家を借りたのは男性だと話していたので、驚いた。もしかしたら男性の奥さんか、親類なのかもしれない。

 しばらくして、女性は再び姿を見せた。相変わらずドアを細く開き、片足で挟みこんで固定している。髪型も寝ぼけた顔も少しも直っていなかった。

「ほらよ。これ取りにきたんだろ? じゃあおやすみ。あとのことは、トヨさんを通じて申しつけてくれよ」

 女性は扉のすき間から腕を伸ばすと、直也の胸にA4サイズの封筒を押し付け、再びドアを閉めてしまった。その勢いがあまりに強かったので、音と共に空気が震える感触があった。あの、ちょっと、と声をかけるが反応はない。代わりに内側から鍵を閉める音が聞こえた。

「随分、乱暴なことするな」

 ライが扉の方を睨みつける。直也もあまりにぞんざいな態度に辟易していたが、すぐにその興味は腕の中の物体へと移った。

「なんだよこれ……」

 直也は渡された大型の封筒を覗き込む。中には大小様々な用紙の束が入っていた。数枚写真も確認できる。無造作に中に手を入れ、写真を何枚か引っ張り出した。

 それは家族写真だった。おそらく鉈橋家が遺した、かげがえのない忘れものだ。

 全部で5枚。シチュエーションも、季節も全て異なっている。完全な思い出となってしまった、けれど誰も思い出すことのなくなった、亡霊のような写真たちだ。

 大人しい服装の鉈橋きよかも映っている。卒業アルバム以外で彼女の姿を見たのはこれが初めてだった。ある1枚の写真では、牛のいる牧場をバックにして柵に寄り掛かり、ピースサインを作っている彼女の姿がある。端の方に打たれた日付を見ると、2006年1月6日だった。この3カ月後に彼女の妹、鉈橋そらが死に、写真の中で楽しげな笑顔をみせているこの家族は離散することになる。

 鉈橋そらも、それと同じ写真の中にいた。彼女だと分かったのは、写真の上にサインペンで名前が書かれていたからだ。「お母さん」「お父さん」「きよか」「そら」と皆、それぞれの頭の上に幼い字で記されている。

 そして「そら」の下に立つその少女は、鉈橋きよかの隣で、恥ずかしそうに笑んでいた。カメラが苦手なのかどこかその姿はぎこちなく、固くなっているように思えた。

「え……?」

 直也はその少女、鉈橋そらの顔に目を近づけた。食い入るようにして見つめる。こちらを見上げているライを横目で窺うと、彼女は怒ったような表情を浮かべていた。

 ありえない、と思う。しかしそう断言できるだけの要素が、直也には見つけられなかった。

「なんだよおっさん。1人占めしてないで、私にも見せろよなー!」

「いや、これは……」

 生温かい空気が、肌の上を冷たく滑っていく。背筋をぞっと何かが通り抜け、思わず肩をすくめた。そっと写真の上に視線をスライドさせ、それからまたライを一瞥する。喉が詰まり、なぜだか息苦しかった。

「おい、おっさん! よこせよ!」

 飛びかかり、写真をかすめ取ろうとするライを、直也はすんでのところでかわした。写真を慌てて封筒の中に突っ込む。これだけはライに見せてはいけない。その思いが抜群の反射神経を生んだ。封筒を胸に抱え込むと、いつの間にかあがっていた息を大仰な深呼吸で整えた。しかし頭は少しも冷静にはなってはくれず、目の前に薄靄がかかっているかのようだ。

「見たって面白くねぇよ。これは仕事のもんなんだから、部外者は見ちゃダメなんだよ。分かったか? 分かったならいくぞ?」

 その場しのぎの演技は、見るに見かねるほど下手くそになった。直也がメッセンジャーバックに封筒をしまい、足早に家から遠ざかると、ライはぶつくさと文句を吐きながらもついてきた。

「せっかくここまで付き合ってやったのに、写真の1枚や2枚くらい、いいじゃないかよー」

 直也の意識は外音など全く受け付けないほどに、写真の中へと吸い込まれていた。あの写真の風景はすでに網膜を通り、脳に焼き付いていた。そこに見える、鉈橋そらのことを考える。ぎこちない笑みを浮かべる少女のことを、反芻する。彼女は死んだはずだ。死体も確認されている。ニュースでも報道されていた。それなのに。

 鉈橋そらと同じ顔が、直也のすぐ背後にあった。ライは口を尖らせ、行きと同じように足元の小石を蹴っ飛ばしながらついてくる。彼女のことをあまり見つめては心の内を見透かされてしまうと頭の中では思っていたが、結局ささやかな好奇心と強烈な誘惑には勝てなかった。

 直也はライを見た。その顔は、事故で死んだはずの鉈橋そらと全く同じ顔をしていた。


10話 完

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