9話「喫茶店の悪魔(前篇)」
この辺は長いので、いくつかに分けます。
魔物の話 20
レイは病室の窓から体を乗り出し、空に耳を傾けていた。午後4時を過ぎた頃で、目の前にはいまだ蒼穹が綿々と広がってはいるものの、その空気には微かに夕暮れの匂いも混ざり始めている。
いくら目を細めても、どんなに聴覚を研ぎ澄ませても、やはりこの部屋からはペナントビルで繰り広げられている戦いの模様を窺い知ることはできなかった。窓の位置と部屋の向きから、観戦は望めないだろうと予測していたが、戦闘音すら聞こえないのはどうしたものだろうとレイは怪訝に思う。もう戦いは終わってしまったとでもいうのだろうか。
しかし、周囲にいらぬ注意を惹かせなくて済むという意味ではこの状況は好都合ではあった。マスカレイダーと怪人による争いはなるべく人目に触れさせたくない、というのが組織の望みでもある。レイもその方針には同意を示していた。非現実の世界に足を踏み込むのは、それ相応の覚悟を持つ者だけでいい。
「レイちゃん、どうしたの?」
ベッドから上半身を起こした悠が、小首を傾げる。レイはハッとなって振り返り、慌てて窓を閉めた。ガタンという音とともに生温かい外気が遮断される。
「ごめん。冷房入ってたんだった。せっかく部屋の中、冷えてるのに」
「ううん。それはいいんだけど……いま、ちょっと寒いし」
「……体をあんまり冷やすのは、良くないよな。温度、上げようか」
ベッドの横に置かれた丸椅子から立ち上がり、佑はテーブル上にあるリモコンに手を伸ばす。ボタンを数回いじって設定温度を上げると、再び元の椅子に腰を下ろした。
「でも、たぁくん一体、何したの? あのガラス結構丈夫そうだったのに」
悠はのんびりと言って、当然のことながらヒビ1つ入ってないこの部屋の窓ガラスに顔を向ける。
レイは素早く佑に目線を送った。割れた窓ガラスの件は、佑が看護師に割ったのは自分だと説明をしたことで特に追求されることもなく、事なきを得たようだった。
悠はすぐさま、4階の一番隅にあるこの個室に移された。悠の父親が大企業の幹部ということもあり、失礼があってはならないと病院の上の方から指示が出たのかもしれない。それを裏付けるようにこの病室には、先ほどから院内での地位の高そうな人たちが次々と挨拶にやって来ていた。そんな光景を目の当たりにすると、レイは改めて天村氏の凄さを思い知らされる。あまりに日頃から普通に接しているので気がつきにくいが、佑と悠はいい家のお坊ちゃん、お譲ちゃんなのだ。
「蠅がいたんだ」
そのお坊ちゃんが、蠅という比較的日常に寄り添っている種類に属している、昆虫の名を口にする。レイが窓際に立ったまま言葉の続きを待っていると、佑はぎこちない笑みを悠に向けた。
「大きな蠅でさ。寝ている悠の顔スレスレを飛んでたから、ちょっとイラってきちゃって窓に止まったから、ついさ」
「叩いちゃったの?」
悠は目を丸くした。佑は小さく顎を引く。果汁を搾り尽くした後のミカンのような、弱弱しさで緩く頬を上げる。
「結局潰れたのはガラスの方で、蠅には逃げられちゃったけどな」
けして嘘は言っていない。レイは佑の話に耳を傾けながら、心の中で評する。ただほんの少し訂正する箇所があるとすれば、その蠅はとても大きく、また強靭でもあり、レイや佑が身構えることすら許されない程の力量差をその身に宿していたということ。そして佑自身は蠅に攻撃を浴びせることすらできず、ただ身を竦め、その場で固まっていただけということだ。
だから若干の脚色を混ぜたこの話は、佑の「こうだったらよかったな」という願望と、「なんであの時、自分は動けなかったのだろう」という大きな後悔が多分に凝縮されているものだった。レイは佑の思いつめた表情から、声から、それを感じ取る。だからあえて指摘はせずにじっと黙ったまま、佑と悠の間に漂う空気を遠目で眺めている。
「でもガラスさんには勝ったんだね……でも意外とたぁくんって、力、あったんだね。びっくりした」
「まぁ。一応、そこそこ鍛えてはいたから」
そこで佑は笑うが、いかんせん元気がない。悠はようやくそこで兄の違和感に気付き、顔を曇らせる。しかし佑は妹の表情の変化にも気づかず、とうとうと話を続ける。
「たださ、忘れてたんだ。あの日のことを。絶対そんなことはもうさせないって、あの時誓ったのに。俺は気を許していた。何も終わってなかったんだ。馬鹿みたいだよ。勝手にもうこんなことはないって思いこんで、確信もないのに……。それで悠がこんな目に」
「……たぁくん、どうしたの? 顔色、悪いよ」
「俺は大丈夫。だけどただ、お前が心配なんだ。お前がいなくなったら、俺はどうすれば……」
佑は奥歯をぐっと噛みしめ、悠の手を取った。その小さな、あまりに白すぎる手を両の手で握り締める。蠅の話から突然に飛躍した佑の言葉に、理解が追いつかないのだろう。悠は困惑気味にレイを見た。レイは背を壁から引き剥がすようにして傍観者の立場から離れると、象の歩みで佑の近くに寄った。
「お兄さん。とりあえず悠は無事だったんですから、今はそれを喜びましょうよ。悠、困ってますよ」
「そうだよ、たぁくん! 私、すごく元気だし、いなくなったりなんかしないから平気だよ。ちゃんとケーキだってほら、食べたから。それに一時退院だってできることになったんだから、これからもっと遊べるよ」
レイと悠が言葉をかけても、佑は俯いたまま身動き1つしない。それほどまでに、彼の心に降りかかったショックは大きいのだろう。まるで命綱にしがみつくように、悠の手をぎゅっと掴んでいる。その表情にはむらなく、暗澹としたものがこめられていたものの、目だけはぎらついた光を灯していて、レイは少しばかりの不安を覚える。これは本当に自分の知っている佑なのか、と軽く手の甲で目を擦った。
その時、ノックの音もなく、病室のドアが唐突に開いた。またどこかのお偉いさんがやってきたのか、と予想し、レイは何気なくそちらに顔を向ける。佑と悠も揃って、随分と不躾な来訪者へと視線をやった。3人の視線、6つの目が示し合わせたように一斉にドアへと集中する。
現れた人物は、これまでレイが持っていた常識や信じていたルールを根本から打ち崩した。予想することさえ叶わなかった。あまりの衝撃にレイは口をぽかんと開けたまま、立ち尽くす。
「きゃあ!」
悠は短い悲鳴をあげて、掛け布団の中にもぐりこんだ。佑は目を見開き、首をわずかに仰いだ、その姿勢のまま固まっている。その人物はゆったりとした足取りで、部屋の中に入ってきた。
「いやぁ、遅くなって、ごめんね。ちょっと、道が混んでてさ。今日はどうも運がないみたいなんだ」
その独特な喋り口調。薄汚れ、ところどころ解れた狼の着ぐるみ。病院のイメージから最も逸れているだろう人物が、今レイの目の前に、悠の病室の中で、立っていた。
「ゴンザレスさん。そのまま、ここまできたの?」
レイは体を傾け、ゴンザレスの背後に伸びた廊下を窺うが、そこに彼の進行を阻む看護師や医師の姿はないようだった。1人、入院患者らしき中年の男が通りかかるが、ゴンザレスの背中にちらりと目をやっただけで、特に関心もなく通り過ぎていく。
「ごめんね。君の質問の意味が、ゴン太君にはよく分からないんだ。ゴン太君に、他の姿があるのかい?」
「病院の人とかに、止められなかったの?」
「止められたよ。だから、食べちゃった」
舌を可愛らしく出した狼の着ぐるみが、変声器越しのガラガラ声で口にしたその言葉には、妙な生々しさがあった。本当にそれは冗談なのかと訝しる。レイは絶句し、ただぼんやりと片目のとれた狼の顔面を見上げた。その全身から漂ってくるおどろおどろしい気配は、場の空気を一変させるには十分すぎた。
「だからゴン太君は、今日はお昼寝できないんだ。寝たら、お母さんヤギがお腹を裂きにやってくるから。恐ろしいね、恐ろしいね」
一番恐ろしいのはあなただよ、と伝えたかったが、諦めた。周囲の追随どころか理解すら届かない、独自の世界観の中で生きているゴンザレスがレイの難詰に耳を貸すはずもない。彼に聞こえないよう、静かに溜息を零す。それから気持ちを切り替え、改めて言葉を発した。
「とりあえず、来てくれたことには感謝するよ。そっちに行きたかったんだけど、ちょっとこの子の側にいたかったから……まさか本当に来てくれるとは、思わなかったけど」
しかも着ぐるみ姿のままで。そう心の中で付け足しておく。病院の前で、佑の決意を受け取ったレイは、すぐさま電話でゴンザレスと連絡をとった。始めは船見家に佑を連れて出向くことも考えたが、悠が怪人に襲われた直後であるということもあり、向こうから来てもらうことをお願いして、自分たちはしばらくこの場に留まることにしたのだった。
近くまで来たらまた連絡ください。そう言伝をしたはずなのに、ゴンザレスはその公衆衛生のかけらすら持たない身一つで病院に堂々と侵入すると、ノックもせず、非常に傲岸な振る舞いで悠の病室まで入ってきてしまった。
この部屋の主である悠はちらちらと布団の影から顔を出しては、周りの様子を窺い、引っ込める、という一連の動作を先ほどから繰り返している。まるでもぐら叩きのようだと思いながらも、その怯えきった姿には申し訳なさを感じていた。
とりあえず部屋から出ましょう。そう提案しようとした、矢先のことだった。レイをのけるようにしてゴンザレスはさらに、病室の中に侵攻を果たした。
「おおかみー!」 悠が布団の中で絶叫する。純度の高い恐怖に晒され、完全に裏返ったその声に応じて、ゴンザレスは「お、羊みたいな子がいるね。あんまり騒ぐと、食べてしまうよ」とまたも、脅しとも冗談ともとれる曖昧なセリフを口にする。そのセリフに悠は「私、食べられちゃう! ケーキ食べたから甘いもん!」とさらに怯え、亀のようにベッドの上で丸くなった。
ゴンザレスが足を止めたその正面には、椅子に腰かけたままの佑の姿があった。佑は睨むように目を細め、嵐のように乱入してきたこの着ぐるみを見上げている。
「なんだ。君はもしかして、天村佑君かい?」
しゃがれ声で、ゴンザレスは佑のフルネームを見事に言い当てた。しかも旧知の友を前にしたかのような、親しげな口ぶりだった。「新しく仲間に加わりたいって人がいるんだけど」とは電話で伝えたが、佑の名前を出した覚えはない。レイにとっては、それだけで十分驚愕に値することなのに。
「あんた、もしかして、ゴンザレス……さん?」
佑の方もゴンザレスを知っていたものだから、レイは言葉を失った。
「随分と、久しぶりじゃないか。ゴン太君の記憶が間違ってなければ、3年ぶりかな」
「はい。……あの時は、お世話になりました」
「もしかして、戦いに参加したいっていうのは、君のことかな?」
ゴンザレスは巨大な頭をわずかに傾げ、レイに視線を送るような動作をみせた。驚きの連続攻撃に心を奪われていたレイは一拍遅れて、彼からの問いに頷いた。
「うん。そう。覚悟を決めて、私たちと一緒に、戦いたいんだって」
悠の方を気にしながら、レイはできる限りの小声でゴンザレスに説明した。あまり悠に聞かせたい話ではない。これから先は場所を変えましょうよ、と続けようとするが、それはゴンザレスの無機質な声に阻まれてしまう。
「刃は、まだ持っているのかな?」
謎めいたことをゴンザレスが口にすると、佑の顔色が明らかに変わった。頭から血の気が引いたように青ざめ、俯く。その体は細かく震えていた。しかし拳を握りしめて、無理やり手の震えを止めてから、意を決したようにゴンザレスを振り仰ぐと、大きく、しっかりとした首肯で応じた。
「なら、それをゴン太君のところに持ってきてよ。忘れてないよね? 3年前の約束を。それが、仲間の証だよ。ゴン太君は大歓迎さ。君のような人間は、大好物なんだ」
佑は苦しげに表情を歪ませ、再び目を伏せる。狼の着ぐるみは苦渋の海に肩まですっぽりと浸かった佑を見下ろし、心底楽しげな笑みを浮かべている。レイはその様子にゾッとしたものを覚え、何か悪いことがおきる前兆のような、掴みどころのない不安を覚えた、
鳥の話 21
仁は生温い空気に、陰鬱な吐息を浮かばせた。それから足を曲げ、片膝をつき、ゆっくりと残った方の膝でも床に触れ、終始慎重な動作で姿勢を正座まで運んでいく。
3日前に戦闘の中で負傷した右足はまだ、こびりつくような何とも嫌らしい痛みを発し続けていた。なので今のように、ただ座ることをするだけでも臆病にならざるを得なくなる。苦痛から逃れたいのは、人としての本能だからだ。
深夜1時。深沈と夜が更け、夏独特の風が網戸から時折吹き込んでくる。そんな空気の中に、仁は月光が床に映し出す影法師のように、黙然と座り込んでいた。葉花の寝室、そのベッドの傍らでのことだ。
けして広くはない、スプリングの利いたベッドの上からは、2人の少女の寝息が絶えず聞こえてくる。同じ布団にくるまって眠る、葉花とあきらだった。
あきらは白いプリントシャツ姿、葉花はピンク色のパジャマを着ている。あきらはわずかに体を曲げるようにし、葉花をその胸に抱えるようにして寝入っていた。手と手を握り締め、その指を絡ませ合い、タオルケット1枚を2人で仲よく分け合っている。シャンプーの、花のようないい香りが、風とともにそよいでくる。普段よりもその匂いが強く、そして芳しく鼻に届いてくるのは、2人分の微香が空気中で混ざり合い、この部屋に充満しているからに他ならない。
幼さと、豊かに熟れた雰囲気。その両方を内包した年齢にある女子高生同士が、互いの身を密着させ、透明感のある肌を擦り寄せ合い、細かな寝息を立てている光景はどこか艶めかしくもあり、仁は胸の内をくすぐられるような罪悪感を覚えた。しかしその一見、穏やかそうに思える2人の様子に隠された、ある違和感を見抜き、すぐさま眉をひそめる。
「これは、どういうことなんだろう」
仁は呟く。独り言ではない。隣に立つ、大きなスタンドミラーに対する問いかけだった。
すると鏡の中に、幽霊じみたおぼろげさと掴みどころのなさを纏って、鎧の騎士、ハクバスが姿を現した。彼はあきらを見るなり、着こんでいる鎧の軋む音をたてながら首を傾げた。
「彼女からは黄金の鳥の匂いはする。それは確かだ。だけれども、私の中の毒には反応しない。これは一体、どういうことなのだ?」
ハクバスはその表情を覆う仮面を僅かに歪ませ、それから悩ましげに腕を組んだ。ふぅん、と驚愕のこもったため息を零す。
「まったくもって、不思議でかなわない」
「ね。不思議だよね」
「まったく見当もつかない」
「見当もつかないよね」
「予想だにしないことが起きているに違いない」
「違いないね」
「彼女か。あなたに、黄金の鳥の力を与えたのは」
仁はあきらに目をやった。ここからでは、彼女の背中を後頭部しか見えない。いつものポニーテールではなく髪を下ろしているため、青色の髪の毛が純白のシーツの上で、ため池のように広がっている。
仁はハクバスに視線を戻し、小さく顎を引いた。
「まぁ、そういうことになるね」
「いいのか? もし俺の存在がばれたら、彼女は俺を殺すかもしれない。随分とリスクが高い添い寝だと思わざるを得ない」
「僕はあきらちゃんを、信じてるから」
仁は互いが互いをかばい合うような姿勢で眠りについている2人を眺めながら、自分に言い聞かせるように呟く。しかしその言葉には、あてのない願望も十分に含まれているだろうということは自分で気づいてもいた。
「きっと葉花の正体を知ったって、きっと傷つけることなんてしない。僕は信じてる」
「信じてる、ね。ならここで正体をばらしてみればいい。案外、彼女が楓葉花のことを本心ではどう思っているのか。化けの皮が剥がれるかも分からない。……俺は反対だけど」
痛いところを突かれ、仁は言い返す術すらもたず、ただ下唇を軽く噛むことで相槌を示した。信じてる、信じてる、とうたい文句のように先ほどから連呼してはいるものの、あきらに対し、こちらの持っているカード全てを明るみに出す勇気は、まだなかった。
「仲間を信じる、友達を信じる。そう最後まで主張して、結局仲間に裏切られ、殺された。そんな男を俺は知ってる。だから、そう簡単に信頼とか言われても、そうやすやすと受け入れることはできないな」
顔を俯かせ、鏡の世界の床を指先で叩くハクバスの語調にはどこか追慕の念が込められているようでもあった。その横顔には悲惨な死を遂げた友人を悼む気持ちがありありと浮かんで見え、どこか他人事な振る舞いをすることの多いハクバスが見せたその哀愁に歪んだ表情は、仁の目には新鮮なものとして映った。
呆然とする仁の前で、ハクバスは顔をあげる。しかしその顔には、つい数秒前までは確かにあった、悲しげな様子はもはや一欠けらも含まれていなかった。
「でも、どういう方向に転がろうが。あなたが俺を助けてくれるから、別に構わないといえば構わないけどな」
「勘違いしないで欲しい。僕が救うのは君じゃない。葉花だ」
「同じことさ。楓葉花は俺で。俺は彼女。まぁ、せいぜい頑張って俺を守って欲しいな」
あまりに一方的で勝手極まる言い草に、仁は呆れる他ない。二の句も告げずに、痛むふくらはぎを撫でる。その間、ハクバスはあきらの背中を食い入るように見つめているようだった。
「そうか。……そうか」
何を納得したのか、彼は突然数度頷くと、鏡面を曇らすような沈鬱さを込めて呟いた。
「そうか。彼女は、あいつの残した子種か。なるほど。ならば黄金の鳥のことも納得がいく」
「あいつ? 誰?」
「いや。なんでもない。そういえば、あなたは楓葉花の父親に会ってきたそうじゃないか」
腕組を解き、膝の皿に載せた腕で頬杖をつく。その態度からは怠慢さがありありと伝わってきて、それがまた仁の感情を逆撫でする。
「どうだった? まぁ、その顔を見るに、芳しくない結果だったことは分かっているけどね。最初からこうなるとは、何となく予測していた。あの男は、君が嫌うであろうタイプの人種だろうから」
「相変わらず、君は意地が悪いな。分かってるなら、訊かなきゃいいのに」
「ああ。そろそろ慣れてくれなきゃ困る。さっきも少しいったが、俺と彼女は一心同体。あなたが楓葉花と一緒にいたいと願うことは、俺と長い付き合いをしていくことと同義なんだからな」
「だけど僕は、君を許した覚えはない」
仁は鏡の中に浮かぶ男を睨みつける。2人の眠りを妨げぬように声を潜めていたので、思ったよりもどすの利いた声が出た。
「葉花がこんな体になったのは、君のせいだ。それを忘れるな」
「忘れてはいない。諦めているんだ。ま、最後まであがくがいいよ、白石仁。俺は彼女を通して、あなたのもがき苦しむ姿を最後まで見届けてやる。その無力さにいつ気づくのか、楽しみにしていよう」
そんな嫌がらせとしか思えない陰湿なセリフを残して、ハクバスはテレビのスイッチを切るような呆気なさで鏡面から消え失せた。部屋のドアをくぐった時よりも、さらにその重苦しさを増したように思える空間に身を置きながら、仁はまた1つため息を零し、ベッドの方を見やる。
そこに佇む蛍の灯にも似た淡い光が、様々な困難や障害に揺れる仁の心を少しずつ、穏やかにさせてくれるようだった。
2010年 8月8日
鎧の話 19
我に返った直也はまず始めに、自分がベッドの端に腰かけていることに気がついた。意識を取り戻した、と表現しなかったのはすでに1時間前、夢の世界から現実に回帰を果たしていたためだ。
しかしその間に視認した景色や、体験した数々の行動は、まるで薄い靄がかかっているかのようで明瞭としない。誰かに伝え聞いたことをそのまま己の経験に転換してしまっているかのような、覚束なさを感じる。
直也は挙動不審にきょろきょろと周囲を見渡し、自分がベッドしかない狭い室内にいることを知り、それから手首に冷やかな感触を覚えた。見れば、そこには腕時計がはめられている。紛うことなくそれは直也自身のものであったが、その金縁のフレームは他人行儀な輝きを発しているように思えてならなかった。
直也は時刻を確かめることもなく、その腕時計を外し、乱暴にポケットの中へと突っ込んだ。手首には白く腕時計の形に跡が残っている。最近は外を駆け回ることが多く、それでも時計を外すことは滅多になかったので、日焼けを免れた肌がくっきりと浮かび上がってしまっている。
それはあまりにも時計の形状のまま、はっきり残ってしまっていた。直也はその様相を滑稽だと感じながらも、おざなりの関係を積み重ねてきた自分とあきらの絆を示すものとしてはちょうどいいとも考えた。明日にもなれば、この痕跡もいとも簡単に消え失せてしまうのだろう。しかし直也の心にはそれに対する悲しさも、切なさも、頓着すらもなかった。
話を聞いた直後は、あきらが自分を信じてくれなかったことに、胸が張り裂けそうだった。なぜあきらが自分の前から姿を消したのかも、依然として分からない。そして今ではもう、そんなことどうでもいいやと考えるようさえなっていた。一時の幸せだったと切り捨てれば、楽になれる。自分らしくもないことは自覚していたが、内臓を侵す、根を張った強い痛みにいい加減耐えきれなくなっていた。
ちょうど、相向かいにあるドアが外側に開かれる。軋んだ音と共に入ってきたのは、鮮やかな紫色の髪の毛に大きな花飾りを挿した老婆、船見トヨだった。
直也はぼんやり顔をあげると、皺に埋もれたトヨの目を見つめ返した。
「お婆さん……」
「おや、ようやく起きたのかい。随分疲れていたようだねぇ。もう朝の9時だよ。どうだい、少しは体の調子、戻ったかい?」
「あぁ、少しは」
直也は腕を軽く回した。確かにここ数日続いていた、両肩にのしかかるような重みはすっかり消え失せていた。心持ち、体も軽い気がする。右腕の上腕をふと見ると、そこに小さな点が打たれており、その周囲は赤く腫れていた。
「寝てる間に点滴も打っといてやったよ。こんなところにいつまでいられても困るからねぇ。さっさと元気になって、とっとと出て行ってもらわないといけないからねぇ」
「……ここは、どこなんだ?」
直也は壁一面、白一色で染め上げられた室内を軽く見回した。首を背後によじれば、頭上の高さにはめ殺しの窓が見える。何度記憶の中身を探ろうとも、この景色は見えてこない。
「貸し家の1つだよ。今は誰も住んでない。マスカレイダーズの休憩室として時々使ってくるくらいさ。あの家から歩いて5分もかからないよ」
「お婆さんがここまで運んできてくれたのかよ?」
「馬鹿言ってんじゃないよ。この年寄りが運べるわけないだろうが。お前さんをここまで運んだのは、狩沢っちゅう木偶の坊さ。もし後で会うことがあったら、礼の1つでもかけておくんだね」
トヨは鼻を鳴らすと、どこから取り出したのか、いつのまにか手に持っていた茶封筒をこちらに差し出してきた。直也はトヨの顔を一瞥したあとで、警戒心を滾らせながらその封筒を受け取る。片目を閉じて中身を覗き込むと、中には三つ折りにされた白いコピー用紙が封入されていた。
「……これは?」
「鉈橋の家までの地図さ。必要なんだろ? それに約束通り、一筆添えといてやったよ。まぁ、何を調べてんのかは知らないが、男なら最後までやり遂げな。私が手伝ってやれるのは、ここまでさ」
そういえば、そんな話もしていたっけ。直也はこめかみを爪の痕が残るくらい、強く掻いた。その後にされた話の衝撃が強すぎて、すっかり忘れていた。この家に来た目的は元々、鉈橋家に関する情報を収集するためだった。
直也は封筒の中身を取り出し、コピー用紙に引かれた手書きの地図をざっと確認する。まさに至れり尽くせりだ。ここまでしてくれるとは予想だにしていなかっただけに、直也は心から感動を覚えた。
「十分だよ。十分すぎるくらいだ。本当にありがとう。お婆さんには、感謝してる」
直也は紙を戻すと、封筒を折り曲げ、ポケットに入れた。右ポケットに始め差し込みかけるが、腕時計が入っていることを思い出し、結局、左ポケットに突っ込んだ。やけにするりと滑らかに、封筒はズボンの内側に収まった。
そういえばと直也は首を折り、自分が身に着けている衣服を確認する。今更ながらに気付いたが、それは意識を失う前に着ていたものとは違っていた。下のズボンは確かに直也のものだが、上に着ている黒のプリントTシャツは見慣れないものだった。サイズも少し大きめだ。首周りがやけに涼しく感じられる。
直也の様子からその疑念を察したのか、トヨは白眉をありありと上げた。
「薄汚い服でベッドにあがってもらいたくはないからね。その服は、幸助のだよ。捨てるのも忍びなくてね、あの子のものはまだ大半、家に残してあるのさ」
「いいのかよ? 息子さんの形見を、赤の他人に着させて」
「いつまでもしまわれているよりかは、ずっといいさ。そう気負わないで、受け取りな。母親の私が言うんだから、幸助も逆らえやしないよ」
直也は自分の胸の辺りを掴むと、そのままシャツを引っ張るようにした。この服にトヨの愛した息子の魂がほんの少し、たとえ毛1本ほどの大きさでも、確かに宿っている。そんな思いを一度巡らせると、なんだか胸にじわりと沁みていくような心強さを感じる。母からの愛の偉大さを、こんなところでも思い知らされる。田舎に残してきた母のことを思い出し、しばらく顔を見ていないことに気づかされた。
直也は船見幸助と一体になるイメージを頭に浮かべ、掌で胸を撫でる。ゆっくりと目を閉じ、その魂の輝きを頭のてっぺんからつまさきまで満たしてから、瞼を上げる。目の先には直也の行動を興味深けに覗き込む、トヨの愉悦に綻んだ相貌が見える。この服に含まれた船見幸助の輝きが、直也の内側で跳ねまわっている。そんな気がした。
「……そういうことなら、ありがたく受け取っておくよ。あとで洗濯して返すから」
「当たり前だよ。でも、あいつが1階の床を叩き壊したから、しばらく家を修理しなくちゃいけないからね。それまではあんたが、預かっておくんだよ。汚したりなくしたりしたら、承知しないからね」
「……そういえば、あいつは?」
トヨの言葉によって、まるでキューで突かれたビリヤードの玉のように、直也の記憶の隅から意識を失う直前の景色が弾きだされてきた。思い出した瞬間、焦りが轟々と岩を打ち鳴らす滝のようにのしかかってくる。直也はわずかに腰を浮かせかけて、トヨに詰め寄った。
「あの怪人は? 二条は、奴らはどうしたんだよ?」
「落ち着きな。急いた頭じゃ、成るものも成らないよ。探偵に冷静さは、不可欠なんだろ?」
トヨは軽く直也の胸に触れ、その体をベッドに押し返した。それから乾き、皺で弛んだ頬を
指で掻きながら真剣な表情を作って言った。
「奴らには逃げられた。今はどこに行ったのか、見当すらつかないねぇ。二条もとられたから、もう証拠も何もパァさ。舐められたもんだよ」
トヨの口調は落ち着き払ったものであったが、その内に苦虫を噛み潰したような悔恨の情が漂っていることに直也は気付く。原因の一端を自分が噛んでいることもあり、声を聞いているうちに直也の胸には罪悪感が込み上げてきた。
「なんか……本当に悪い。お婆さんには色々してもらってるのに、俺は何もできないで……」
「何勝手に、責任感じているんだい? うちの奴らがポカかました。それだけの話じゃないか。そんなことにかまけている暇があったら、さっさと自分の役目を果たしな」
トヨは小さくウィンクをすると、唇の両端を持ち上げた。わずかに関節の変形した人差し指を突きだす。その表情は90を超える老人のものとは到底思えず、直也は動揺を隠せない。
「私らは私らの、お前さんはお前さんの話がある。どれもこれも首を突っ込んで、自分を見失ったらどうにもならないじゃないか。さぁ、もう立てるんだろ? ならさっさと準備しな! ボーっとしている余裕まで、私は与えたつもりはないよ!」
トヨの怒声に背を押されたわけではないが、このままここで座り込んでいても何も発展しないことは確かだった。
「あぁ……本当に、世話になった。ありがとう。本当に感謝してるよ」
「もう何も言わないで去っちまいな。照れくさいだろう」
「あぁ、言われなくても、すぐ出ていくさ」
立ち上がる時、腹筋に鈍痛が走ったが、歩けないほどではない。立ちくらみを起こし、たたらを踏む。体の節々が痛んだか、歯を食いしばり、全身を引きずるようにしてドアへと進む。トヨはその間中、背中で手を組んだ姿勢のまま悠々と直也を眺めていた。
床を踏み締めるようにして歩いていると、左の太股のあたりに違和感を覚えた。掌でポケットを上から叩いてみれば、そこに固い感触が伝わってきた。
『3』の数字が振られたオウガのプレートだと、取り出さずともすぐに察しがつく。封筒を入れたときにはまったく気にならなかったが、いざ歩きだしてみると角が内腿に当たって少し痛かった。
そしてその痛みに呼び覚まされるようにして、直也の脳裏に蘇るものがあった。直也はドアの前で立ち止まると、首だけをよじってトヨの方に顔を向けた。
「そういえば、フェンリルの前の装着者って、まだ生きてんのか?」
前のフェンリル装着者。つまり立浪良哉を手にかけた張本人のことだ。重要な手掛かりとなる人物で拓也にも詳細を聞いていなかったことに、本当に今更ながら考えが及ぶ。拓也があまりに「今のフェンリルを追え!」と強調していたので、7年前のフェンリルのことを視野に入れることすらしてなかった。そして同時に、拓也はその真実を直也に知らせること対し、躊躇いを覚えていたのではないかとも察した。
トヨは少し押し黙った後、ため息とともに言葉を吐きだした。
「死んだよ。立浪良哉が死んだ、そのすぐ直後だ。なんだか分からないが、海に車ごと突っ込んだらしくて、水死体で発見された。警察は事故とみてるけど、実際は、どうなんだろうね」
予想していた答えではあったが、老婆の口から紡がれた真実はそれでも直也の胸を抉った。
「なんか最近さ。人間って結局死ぬんだよな、とか切に思うよ。死んでるか、消えたか。俺の追ってる人物はみんな、そんなのばっかりなんだよ。なんで、みんないなくなっちゃうんだろ。なんで、俺はその人たちに手が届かないんだろう」
「怪人が跋扈する世の中で、そんな感慨深いこと言ってる場合かい? 時間はこうしている間にも絶えず動いているんだよ。そんな中で、置いてけぼりを喰らった人のことなんか憂いている余裕が、お前さんにはあるっていうのかい?」
トヨは、突然責めるような口調になる。しかし目は怒っておらず、睫毛の下には細かい皺が寄っており、直也を茶化している、または試している風にも感じられた。
去っていく人々に思いを馳せ、救いの手を差し伸べる。そんな心の余裕があるかと問われたら、今の直也はかぶりを振るほかない。今の直也の心には黒々とした塊が滞留しており、麻痺したようにほとんど何も感じなくなっていた。
直也の心は張り詰めた風船のように、肥大化している。中に入っているような空気ではなく、ただひたすらな空漠で。そこに直也自身は閉じ込められている。牢獄の内側で宣告の時を待つ、孤独な死刑囚のように。
直也はトヨのすぐ横を通過し、ドアの前で立ち止まった。気づけば目を逸らし、壁に向かって口を開いていた。
「拓也がさ、言ってたんだよ。信じるために疑え、って。本当に信じられる相手なら、疑うこともまた信頼の証なんだって」
背中にトヨの視線が突き刺さる。その感触がリアリティを伴ってじんと伝わってくる。撫でられるような痛痒の思いに押されるようにして、前に一歩足を踏み出し、ドアノブに手をかける。立ち止まることを、トヨは許してくれない。さっさと進めよ。そう叱るのは老婆ではなく、心の牢獄に閉じ込められたもう1人の自分だ。
分かってるさ。声に出さず答えながら、ドアノブをゆっくりと右に捻る。
「だけど、俺はダメなんだ。人を疑えば疑うほど、その人のことをもっと知ろうとすればするほど……どうしたいいか、わかんなくなる。苦しくて、しょうがなくなるんだ。あいつは強いよ、俺なんかよりも全然。俺は、あいつみたいになれないよ」
結果的に、それは捨て台詞のような形になった。直也は出ていく。心も体も、声を枯らして悲鳴をあげている。その声に耳を塞ぎながら、その音を遮るように後ろ手でドアを閉める。
魔物の話 21
「レイ。先に外で待ってるぞ」
自室のドア越しに父親の声を聞きながら、レイは慌ててスカートのファスナーを上げた。
「うん。すぐ行くから、外で待ってて」
白い折り畳み式の携帯電話を充電器から外しながら、レイは大声で返事をする。それは自分の持っているものではなく、マスカレイダーズから配布されたものだった。
そう月に何度も新しい携帯電話を買い替えられるほど、世の中に出回っている製品は安くないし、黒城家に予算もない。それに今のところ、自分の携帯電話がなくて不便に思ったことはなかった。とりあえず現段階では、この組織用のものだけで連絡の役目を十分果たせている。
黒城は昨晩、酷く憔悴した様子で帰ってきた。帰ってくるなり掠れた声で「風呂に入って寝たい」と言いだし、そのままレイに何も語ることなく寝床に伏してしまった。
あの蟹型怪人や、悪魔じみた怪物はどうなったのか。果たして拓也は無事なのか。気を揉んでいただけに、何も語らず夢に落ちてしまった父親に対し不服の情も芽生えたが、戦いに疲れた彼を叩き起こす気にはさすがになれなかった。
しかし朝になっても黒城は何も語ることはなく、ただ一言、「船見家に行くぞ」とだけ伝えられて今に至る、というわけだ。いつもならこちらの耳にたこができるまで、自分の活躍を雄弁に語る黒城がなぜか今回ばかりは、口を固く閉ざしている。その沈黙に不気味さと、不穏な感触を覚える。レイは携帯電話をスカートのポケットに入れると、そんな自分の心に漂う動揺を払い落とすかのように上に羽織ったシャツで手の汗を拭きとった。
「あれ。レイ、どっか行くの?」
足元から声がしたので見下ろせば、そこにはいまだ布団にくるまっているライがいた。仰向けの姿勢で、パジャマ越しに腹を掻きながら薄く目を開けている。レイは壁にかかった時計を見やり、午前9時を回っていることを確認する。
「うん。ちょっと友達とね。お父さんも仕事に出かけたみたい」
「そっか……いってらっしゃい」
「ライはまだ寝てるの?」
「うん。出かけるときは、ちゃんと鍵しめていくから、平気だって」
「よろしくお願い。お昼までには帰ってこられるか分からないから、ご飯は適当にやっといて」
「あいよ」
ライは寝がえりを打って横を向く。再び寝息をたて始める妹を見つめながら、レイはわずかに目を細めた。
昨日からライは、なんだか元気がなかった。そうはいってもディッキーを亡くした直後のような深い悲しみに浸っている、というまではいかない。喩えるならば、蛍光灯の明りのもとに照らし出されていた部屋に久々に出向いたら、その天井から蛍光灯の姿が消え、代わりに設置された豆電球が、微かな光で薄闇を懸命に剥がし取っていたという感じだった。何もその明るさで生きられないわけではないが、少し不自由。今の彼女からはそんな印象を覚えていた。
玄関のドアの閉まる音が、家中に響き渡る。ライのことが気がかりではあったが、父を待たせるわけにもいかない。室内に窓を見やれば、そこからは夏の光が射しこんでいる。今日もまたひと際暑い1日になりそうな予感があった。
「じゃあライ、いってくるね」
後ろ髪を引かれる思いではあったが、レイはその感傷を振り切り部屋から出ようとする。
「レイ」
しかし突然、名を呼ばれ、レイは前につんのめるようにして立ち止まった。振り返るとライが布団から上半身を起こし、惑いの色に染まった瞳でこちらを見つめていた。
「何?」
「……やっぱり、何でもない。いってらっしゃい」
ライは言い切ると再び横になり、布団を頭まですっぽりと被ってしまった。ふて腐れたように身じろぎ1つしない妹の姿に、戸惑いを覚えるが、ここで問い質しても彼女から円滑に話を聞きだせるとも思えない。ライとこの家で暮らし始めてから3年が経つ。レイはその時の流れの中で、自分が一番彼女との付き合い方を分かっているという自負を得ていた。
こういうときには、しばらく放っておくほうがいい。これまでの経験からそう判断し、レイは布団に向かって声をかけた。
「うん。行ってくる」
ドアを押し開き、部屋を出る。玄関に並べられた自分の靴を足で手繰り寄せ、履きながら、レイはライを置き去りにしたことに、早くも後悔を覚えている。
しかし身を屈ませ、靴ひもを固く結ぶことで、その背中に粘りつくようなわだかまりを振り払う。玄関のドアをくぐり外に抜け、額に汗を浮かべて待つ背広姿の父親を見た瞬間、レイは頭をマスカレイダーズのことに素早く切り替えた。
鳥の話 22
仁が裏手にある白石家の出入口ではなく、『しろうま』の店内を横切って外に出ようとすると、背後から足音が追いかけてきた。手を団扇代わりにぱたぱたと煽ぎながら振り返ると、ちょうど白石家と店内とを繋ぐ店の奥のドアが、威勢よく開け放たれた
どたどたと慌ただしい音と一緒に現れたのは、葉花とあきらだった。2人ともすでに着替えを済ませてある。あきらが身につけているカラフルなパーカーは、葉花のものだ。そうして並んで立っていると、2人は仲のいい姉妹のようにも見えた。
「白石君。タンス君って、いつ帰ってくるのか知ってる?」
「佑?」
仁は顎に手を添え、自分と同じ屋根の下に住まう表情豊かな少年の姿を思い浮かべる。結局彼は昨日、この家に帰ってこなかった。
仁が夕飯を作っていると電話があり、「今日は実家に帰るから」と突然伝えてきたのだった。理由は聞けなかった。詮索しようとしたところで、通話が途切れたからだ。彼の声にはどこか切迫した調子が見え隠れしており、それは仁の心に波風を立たせた。気になって何度か電話をかけ直してみたものの、現時点においても佑との連絡は一切取れていない。
だから佑がいつ帰宅するかなど分かるはずもなく、逆に仁が知りたいくらいだった。しかしその困惑はけして面に出さず、安心させるような言葉を葉花に努めて投げかける。
「夕飯までには、きっと帰ってくるよ。そうだ。夕飯、作ってあげたらいいんじゃない? きっと喜ぶと思うよ。餃子だって、美味しいって言ってたじゃない」
「私が?」
「うん。僕も葉花の作ったご飯、また食べたいな。佑もきっと同じこと思ってるよ。あきらちゃんも、そうだよね?」
葉花の隣で、そのやり取りをにこにことほほ笑みながら見守っていたあきらに、同意を求める。すると彼女は突然の話題振りにも全く動じる素振りすらみせず、「そうですね。ボクも食べてみたいです」と応じた。
仁とあきらの後押しを受けた葉花は、水を得た魚のように俄然張り切りだした。肘を曲げ、腕の筋肉をみせつける真似事をしてから、その場でぴょんぴょんとジャンプを始める。
「うん。私、頑張る! よーし。白石君、楽しみにしててね!」
「もちろんだよ。悪いねあきらちゃん。葉花と一緒に留守番、いいかな?」
「はい。葉花さんと遊んでますから、ゆっくりしてきてください」
こういう時のあきらは、本当に心強い。あきらは両頬を上げるようにしてほほ笑むと、仁に向かって小さく手を振った。その姿を真似るように、隣で葉花も全身を使って大袈裟に手を、いや、腕を振る。そんな2人の無邪気な様子に心を和ませながら、そして少しばかりの幸せを噛みしめながら、仁もまた自分の顔の前で手を振った。
「じゃあ、いってきます」
仁は軽く手をあげて挨拶を告げると、『しろうま』のドアを片手で押し開けた。頭上でちりんちりんとベルが鳴る。一歩外に足を運ぶと、肌に染みるような暑さが途端に襲い来る。それでも、夏が初まった頃のように炎天下の元に晒されるだけで目眩を起こすようなことはなくなっていた。ただ単に暑さになれただけなのか、それとも戦いを通して仁の体が強くなったのか。どちらが正しいのかは判然としない。どちらも間違ってはいないのかもしれない。
携帯電話を取り出し、時間を確認すれば、まだ10時前だった。町はすでに活気をみせているようで、耳には車の走行音や雑踏の囁きが絶えず届いてくる。今日は日曜日なので、その喧噪も平日とはまた少し違う色をみせている。
「ちょっと、今からデートをしないだろうか? いいよな。じゃあ、新宿駅の前で待ってる」
朝一番、起きぬけの仁にかかってきた電話は、一方的にそんな約束を押しつけて切れた。これがもし女性からの誘いだったならば、胸が軽くなり、心の1つも弾むだろうが、残念ながら受話口の向こうから聞こえてきた声は、男性のものだった。
仁やあきらと同じ、黄金の鳥再生の会に所属している男、菜原秋人からの電話だ。見慣れない番号だとは思ったが、どうやら公衆電話からかけてきたらしい。だから折り返して連絡をとることもできず、仁は思い悩んだ末に結局、菜原の指定した場所へと出向いてみることにした。
あきらとの関係にも言えることだが、同じ使命を持ち、同じ力を行使して戦う以上、信頼関係を厚くしておくことに越したことはない。それに菜原は未だどこか、捉えどころのない部分が多くある。その暗幕に隠された未知の部分を、今日の出会いを通して知ることができるのでないか。そんな期待も少なからずあった。
新宿駅から出てすぐに、菜原の姿は発見することができた。彼はあの新宿の事件の慰霊の前に佇み、人の流れの中で立ち止まって、じっとその石碑を見上げていた。
彼の痩せた横顔には思慕の念のようなものが見え隠れしていて、その殊勝さに仁は思わず息を呑む。非常に近寄りがたい雰囲気を振りまいているが、ここでいつまでも菜原を見つめているわけにもいかないだろう。駅の入り口で棒立ちしている仁に、すぐ横を通り過ぎたサラリーマンが迷惑げな顔で睨んでくる。
「菜原君」
意を決して呼びかけるが、その声は雑踏の中に揉まれて彼に届く前に消えてしまった。さらにボリュームを上げて二度三度と呼びかけると、ようやく菜原は振り返った。仁の姿を認めると、溶けたアイスのように相好を崩す。
「仁、来てくれたのか」
「君が呼んだんじゃないか。……その石碑」
仁は菜原の背後に厳然と聳える、石碑を視線で示す。もしや、と思ったからだ。それを見上げていた彼の表情には、寂しげな影が射していた。もしや彼も自分と同じ、つまり爆破事故に巻き込まれた被害者なのではないか予測したのだった。今思い返してみれば、先ほどの菜原の顔色は、数日前にこの場所で出会った『イカの男』に通じるものがあった。
しかし菜原は不快そうに鼻を寄せると、顔を伏せた。「いや」 彼は呟くと、その石碑への関心を払い落とそうとするかのような機敏さで、回れ右をし、完全に仁の方に向き直った。「何でもない」
「そう」
彼の感情の隙間を覗いてみたい欲求にもかられたが、ぎりぎりのところで抑える。存分に日射しを頭から浴びている菜原の額は汗で水々しい輝きを帯びている。自分だけが日陰に入ってことに良心の呵責を覚え、仁は一歩足を踏み出した。1メートルくらいの距離を隔てて、菜原と向き合う。2人の間を、多くの通行人たちがすり抜けていく。
人々のざわめきに絡め取られてしまわぬように。仁は普段会話をする時の声量よりも、若干大きな声で尋ねる。
「それで一体、今日は何の用なんだい?」
「用事がなければ、お前に会っちゃいけないというのか?」
まるでその言い方が、付き合ってまもない恋人のもののようだったので、仁は唖然とする。菜原はかけているメガネの赤いフレームを指で軽くいじると、眉1つ動かさず、真顔で続けた。
「特にこれといった用事はない。ただ俺は、お前に無性に会いたかった。ただ、それだけさ。……迷惑だったか?」
迷惑も何も。返す言葉もなく、これからどうするべきかの考えも浮かばず、乾いた笑いを浮かべることでしか、この場を取り繕う手段を見いだせない。
時間にして10秒もかからなかっただろうが、仁はそれよりもはるかに長い時間、菜原と無言で相対していたような気がした。顎の先から汗が滴り、温い大気が体の内側で膨張を始めた頃、突然後ろの方で、甲高いざわめきが起こった。
振り向けば、駅構内に設置されたコンビニの前で数人の少女が集まっていた。全員制服を着ている。新宿に来るたびにちょくちょく見かけたことのあるデザインなので、この付近の学校に通っている女子学生なのだろう。彼女らは円になって周囲の目も憚らず、大声で喚き、笑い、はしゃいでいた。その声はあまりに大きく、駅内の喧噪を粉々に打ち破るようだ。
元気がいいな、若さっていいなと思っていると、突然、何者かに手首を掴まれた。思わず顔を歪めてしまうほどその握力は強かった。驚いて顔をあげると、そこには菜原の渋面があった。
「行くぞ、仁」
「あ、ちょっと」
言葉を返す間もなく、仁は菜原に引っ張って連れて行かれる。抗うこともできない。地引網で引かれるような凄い力だった。足を止めたらそのまま前のめりに倒され、ひきずられていってしまいそうだ。一体どうしたのかと訝しみながら彼の顔を見やる。すると彼は一心に前方を睨みながら、険しい表情を浮かべて言った。
「俺さ」
「何?」
「女が、嫌いなんだ」
突然の告白に、仁は言葉を失う。菜原は相変わらず、自分の前方だけに注意を傾けている。
「憎んでると言ってもいい。特に女子中高生は、大嫌いだ。あいつらの側に近寄りたくもないし、耳に声を拾いたくもない、視界にも入って欲しくない。この世から制服姿の女なんて、消えてしまえばいいのに」
「で、でも」
同じ組織のメンバーであり、菜原がボスと慕う人物。華永あきらもまた、彼の言う“憎むべき女子高生”であるはずだ。それを遠慮がちに伝えると、彼は少しだけ目を見開いた後で、きっぱりと言った。
「俺はボスを女だと思ったことはないし、ガキだと思ったこともない。あの人は俺に力をくれ、情報を提供してくれ、共に戦う場所をくれた、かけがえのない恩人だ」
仁は何も言えない。どこに連れて行かれるのかさえ分からず、目的地何てものを菜原が考えているとも思えず、ただアテもなく手を引っ張られていく。彼の後姿からは、怒りの蒸気が絶えず立ち昇っているかのようだ。触らぬ神に祟りなし、という諺を思い出し、仁は結局黙って彼に従うほかない。
しばらくその状態で歩いていくと、赤信号にぶつかった。東京ではよくみられる、やたらと横幅の広い横断歩道が目の先に伸びている。立ち止まっても相変わらず、仁の手首は菜原の後ろ手に掴まれたままだ。この格好ではまるで護送されている犯人のようだな、と仁は今の自分の姿を俯瞰し、自嘲の笑みを零す。
すぐ隣で、舌足らずな声が聞こえた。見れば、幼稚園にあがるかあがらないかというくらいの年代の小さな女の子が母親に手を繋がれ、はしゃいでいた。耳を澄ませば、どうやら象の出てくる童謡を口ずさんでいるようだ。
そしてそんな可愛らしい女の子の歌声に混じって、菜原の舌打ちが聞こえた。菜原は仁だけに聞こえるくらいの声量で、苛立ちを吐いた。
「それと、ガキも嫌いだ。ただ泣いて、欲望をさらけ出している自分勝手な奴ら。あいつらも全員、この世からいなくなってしまえばいいのに」
「それは、さすがに極端なんじゃない? 少なくともあの子に罪はないよ」
女の子の母親に今の発言が聞こえなかったかと、どぎまぎしながら仁も小声で反論する。幸いにも母子は会話に夢中になっており、菜原の暴論は耳に届いていなかったようで、安心した。
「罪のあるなしじゃなくて、俺の好き嫌いの問題なんだ。だから別にお前に分かってもらおうなんて気持ちはないし、善悪の判断を委ねる心積もりもない。ただ、俺のことをもっとお前に知ってもらいたい。それだけを願って、話した」
菜原は仁から手を離すと、振り返った。その口元には笑みがあったが、メガネのレンズ越しに窺える眼差しは真剣そのもので、仁は鼻白む。確実にその瞬間、仁の周りを流れる時は動きを止めた。
「俺はお前のことが、一番好きだ。お前を絶対に離しはしない」
「……なんでそこまで、僕のことを」
喉を震わせるようにしてようやく尋ねると同時に、信号が青に変わった。人々が動き出す。菜原も顔を向き直り、足を運び始める。仁だけが固まったようにその場から動けない。呆然と立ち尽くし、自分の横をすり抜けていく人々を見送る。
「似てるからかな。……俺の弟に。顔とかじゃなくて雰囲気が、そっくりなんだ。お前と、俺の弟は」
横断歩道の上で立ち止まり、菜原が呟く。その声は凛としたものを伴って仁の耳に届いた。さらに首をよじってこちらを見やると、彼はにっと口角を上げた。
「早く来いよ、仁。デートはまだ、始まったばかりだ。俺に、ついて来い」
「う、うん……」
菜原の持っている見えない糸に引かれるようにして、仁は1歩、また1歩と足を前に踏み出していく。夏の暑さのせいだけではないだろう汗が、額を流れ、顎を伝い、手の甲に雫となって落ちた。
魔物の話 22
想定をしていなかったわけではなかったが、それでも現実を目の当たりにすると、心が震えた。
薬品の臭いが鼻先を掠める。空調のない部屋は蒸し暑く、レイはこめかみに伝う汗を指で掬う。喉がからからだ。こちらはおそらく暑さのせいだけはない。動揺と緊張が容赦なくレイを搾り、その身を干上がらせているのだ。
レイはいつも集会の開かれている船見家ではなく、そこから2、3軒、民家を挟んだ場所に建てられている小さな家の中にいた。レイだけではなく、トヨやゴンザレス、狩沢や秋護、そして一緒に来た黒城もまた狭い室内に揃っていた。皆一様に、朝から疲れきっている。誰も率先して、言葉をかわそうとはしなかった。
はめ殺しの窓に、ベッドと簡単な調度品。壁と天井は白く、室内はまるで粗末な病室とも呼ぶべき体裁だ。その生命の躍動感に乏しい空間が、よりいっそう中にいる人間の心を萎えさせているかのようだ。
くたびれたベッドの上には、同じくマスカレイダーズのメンバーである速見拓也がいた。彼の体は色とりどりの様々なコードで繋がれている。酸素吸入器を付けられた顔は青白く、その瞼は固く閉じられている。その疲弊しきり、指1つ動かない様子は、いつも明快な拓也のイメージとはかけ離れたものであり、レイは自分でも知らず知らずのうちに体が震えていることに気付いた。
その捉えどころのない恐怖から逃げるため、黒城に視線をやる。常に頑強な父親の強張った表情は拓也を一心に見つめていた。
「命に別条はない……ということだけどね。起きないね。きっと速見拓也君は、疲れたんだよ。頑張ってくれていたからね。深い眠りに、休息についているんだよ」
労いの言葉をかけるゴンザレスだが、その声でさえもレイの耳を右から左に素通りしていく。丸椅子に腰かけたトヨは集まった面々を見回すと、ようやくその皺でたるみきった口を開いた。
「さぁ。じゃあある程度集まったところで、昨日の申し合わせでもしようかねぇ」
トヨは黒城に目を配った。黒城は咳払いを1つすると、足を前に一歩踏み出した。メンバーの視線が一斉に、彼の顔に集結する。
「……昨日、レイからの連絡を受け、私と速見が向かった。敵は怪人1体。それから遅れてもう1体。私は後続の怪人と、速見は元からレイといた怪人と戦い……そして奴は負けた」
黒城は拓也の、生気のない顔を一瞥した。レイはあの戦いの模様を思い出し、自責の念に囚われる。別れた時すでに、拓也は立っているのも不思議なくらい満身創痍だった。あそこで自分がもっとちゃんと戦えていたなら、最高の怪人らしい振る舞いができていたならば、未来は変わっていたのではないか。拓也の苦しげな呼吸を鼓膜に呼び戻しながら、レイは奥歯を強く噛みしめた。
「速見を手にかけた怪人は逃げた。もう1体がなかなかしぶとくてな。追おうとも思ったが、無理だった」
「あんたが戦ってた、もう1体の怪人ってのはどうなったんだい?」
「聞くまでもないだろう。私の勝利だ。だが、消滅させるには至らなかったのは心残りではあるがな……」
「それはねぇ、世間一般では失敗っていうんだよ。まったく、2人も行っといて情けないないねぇ」
相変わらずトヨはきっぱりと物事を口にする。無言で鼻を鳴らす黒城を視界の隅で捉えながらレイもまた一歩前に出た。父親の隣に並ぶ。
「先生と戦ってた怪人は、また人間の姿を持っているタイプの奴だったの。二条裕美の息子。自分で、そう言ってた」
レイの発言に、トヨとゴンザレスは顔を見合わせた。朴訥な狩沢でさえ、こちらを見やりながら鼻に皺を寄せている。明らかに場の空気が変わったことにレイは戸惑い、何か失言を吐いてしまったのかと、自分の話した内容を慌てて思い返す。
「実はこちらからも、話さなけりゃいけないことがあるんだ」
トヨは「後は任せた」とも言わんばかりに、ゴンザレスを見た。ゴンザレスはふふぅと、狼の被りもの越しに息を吐きだすと、左手首を掻きながら壁にもたれた。
「残念なニュースなんだけどね。二条裕美が、奪われちゃったんだ」
「え」
「なんだと……」
「醤油切れちゃった」とほぼ同質の軽い口調でゴンザレスは、とんでもないことを告白する。
一度でレイはその言葉の意味を呑みこめなかった。しかし驚きを発したのが自分と父親だけであることを知ると、途端に理解が脳内に殺到してきた。現実味が目の前を薄暗く染めていく。
「それ、どういうこと?」
「すまないねぇ、レイちゃん。あと一歩のところだったんだけど、失敗したマヌケ共がいてねぇ。ゴンザレスの言うとおりさ。二条裕美は、奪われたのさ。なす術もなくね」
トヨに睨まれ、秋護と狩沢が顔を伏せる。二条を失ったことは、これ以上ない損失だ。怪人を作り出しているあの男にたどり着くための手掛かりを欠いてしまったことになる。結局彼は何も語ることなく、目を覚ますことさえなく、敵の手に渡ってしまった。
さらにゴンザレスが「あと君たちの連れてきた怪人も、逃げたんだ。もう完敗だね」と付け加えると、眩暈さえするようだった。
徒労が全身を蝕み、レイは一瞬平衡感覚を失った。目の前がぼやける。前のめりに倒れそうになる体を、黒城の伸びた手が支えてくれた。
「どうやら思ったより皆、役立たずだったようだな」
黒城は狩沢にまず目をやり、それから秋護、トヨ、ゴンザレスの順に睨みつけた。狩沢は無表情を決め込み、秋護は苦笑いを浮かべ、トヨは憮然とした顔つきになる。ゴンザレスだけが「ごめんね、本当にごめんね」と人を食ったような謝罪を吐いた。
「一体、誰に……?」
レイは上目遣いでトヨを窺い、尋ねる。トヨは困った顔になったが、唇のすき間から吐息を漏らすと、観念したかのように口を開いた。
しかしその言葉はトヨではなく、狩沢の口から発せられた。
「段田、右月。あの男が、怪人、だった」
「えっ」
レイは話の内容よりもまず先に、狩沢が一単語以上の言葉を喋ったことに驚いた。初めてまともに、彼が話すのを見た気がする。秋護に目をやると、彼は肩をひくひく震わせながらこちらから顔を背けていた。明らかに笑いを堪えている様子だ。レイは眉間に皺を寄せ、それから再び狩沢に目を戻した。狩沢は真っすぐ前を見据えるようにしながら、さらに自信に満ちた言葉を紡ぐ。
「二条のことを父、と、その怪人も、言っていた」
「そういや、そんなことも言ってたっけねぇ。あんた、なかなか耳ざといじゃないか。少し見なおしたよ」
「段田さんって、あの、カニかまの?」
細目の、禍々しい威圧感を纏っていたテンガロンハットの男。レイにとって、あの男はカニかまぼこの印象が最も強かった。すると「そうだね。彼は、カニかまが大好きだもんね。ゴン太くんはこんにゃくが大好きだけどね」とゴンザレスが答え、そしてさらに「つまり速見拓也君をこんな風にした奴も、段田君の姿をしていた奴も、二条裕美が作った怪人だってことだよね? いいんだよね? ゴン太くん、間違ったこと言ってないよね?」とまとめた。
レイは頷いた。他の皆も反応こそ薄いものの、一様にその意見には賛同を示しているようだった。仲間を1人戦闘不能にされ、二条を奪われ、まさに踏んだり蹴ったりの状況に追い込まれたマスカレイダーズは沈みに沈んでいた。もし絶望が雲から落ちてくるものならば、この部屋はとうの昔に水没しているだろう。
「だけど、これはある意味でチャンスかもしれないよ」
そんな重圧に淀んだ室内を、打ったら響く鐘の音のように貫く声があった。トヨだ。トヨは杖をベッドに立てかけていた引っつかみ、椅子から腰をあげると銀歯の覗く口をニッと見せた。
「チャンスって……どういうことなんですか?」
この状況で浮かべた輝きださんばかりのトヨの笑顔に、縋るような気持ちで問いかける。トヨはベージュ色のズボンのポケットから、携帯電話を取り出した。開き、その画面を皆に掲げるようにする。レイは少し身を乗り出して、その鮮やかな液晶を凝視した。
画面には簡素な地図が表示されており、そこに記されている店名や交差点などから、ここ一帯の道路状況を示していることが分かる。
そして北、つまり画面の上のあたりに、赤く点滅している箇所がある。位置からするとそこはどうやら、町はずれにある古い教会が建てられている場所だった。
「タダで奪われてたまるもんか。こういうこともあろうかと、二条裕美の体に発信器を埋め込んでおいたのさ。奴は、ここにいる。もしかしたら怪人を作っている男にも繋がっているかもしれないねぇ」
「おぉー、すげぇ! さすがトヨさん、頼りになる!」
秋護が興奮した声をあげる。レイも言葉を出すことさえなかったが、準備の良さに対する驚愕と、まだ二条との繋がりが完全に切れたわけではなかったという安堵がない交ぜとなった感情に浸り、また倒れそうになった。後ろに傾いた体を、黒城がそっと支えてくれる。
「でも」
父親の手に押され、体を起こしながらレイは喉の奥から擦れた声を出した。
「罠かもしれない。それは……なんというか、ちょっとあからさますぎるというか」
もし他の誰かがこんな口を挟んだら、間違いなくトヨに怒鳴られるだろう。だがそれがレイの口から発せられたものとなれば、事情は異なる。トヨは困惑に眉を潜めたものの、そこから辛らつな言葉が飛び出すことはなかった。
「あらま。あぁ、言われてみればそうだねぇ。レイちゃん、なかなかいいことを言うじゃないか。お利口だねぇ」
「だが、このまま待っていても、しょうがない」
低い、聞くものの腹の底を震わすような声。狩沢だ。今日の彼は、少しばかり雄弁なようだった。全員の目が、狩沢の岩のような顔に集まる。
「罠だと分かっているなら、それを覚悟するまで。飛び込まなくては、何も掴めない」
「私も奴の意見には同感だ」
黒城が鼻の下の髭をひくりと動かしながら、頷く。彼の目は真っ直ぐにトヨを見据えていた。
「罠と言っても、仕掛けているのはしょせん怪人だろう。私のアークが負けるとは、到底思えないがな」
「そうだね。2人の、言う通りだね」
2人の戦闘員の意見にゴンザレスは同調する意見を唱えた。全体を見回し、最後にはレイに目を止める。
「うん。それでやっぱりトヨさんは、さすがだね。とりあえずアークとエレフで、ここに行ってもらう。ダンテはロックがかかっていて、速見拓也君以外使えないから、今回は、2人で行ってもらうよ。いいよね、2人とも? それからレイちゃんも、それでいいかい?」
ゴンザレスは黒城と狩沢とを交互に眺め、それからレイに目を戻し、同意を求める。
レイは黒城を一瞥してから、顎を引いた。父親の頑なな主張を曲げることの難しさは知っている。それにここで言い争っているのは、何よりも時間の無駄だとおもった。
しかしすぐに首肯した狩沢に対し、黒城はしばらく欺瞞に満ちた眼差しでゴンザレスをじっと見つめていた。唇を離しかけるが、すぐに噤む。相手の魂を削り取り1つ1つ目の前に並べ、踏みにじっていくような、ドス黒い剣呑な視線だった。
「どうしたんだい? なに? ゴン太くんの顔に、何かついてるかな?」
「……いや、何でもない。私なら、大丈夫だ。今度こそ逃がさない自信はある」
黒城はゴンザレスから視線を外すと、彼の意見に了解を示した。父親はゴンザレスに何を訴えようとしていたのか、レイには心当たりがあった。ダンテ、拓也が怪人に発した一言「華永を知っているか?」――その言葉に、黒城は反応していた。
その件については、レイも甚だ疑問ではあった。あの後から来た怪人と、拓也は会話を交わしていたところをみると、どこかで以前知り合ったと見るべきなのだろうか。それに、あの怪人の素性については一切不明だ。
レイはS.アルムと名乗った悪魔じみた姿を持つ怪人にどこか、数日前に出会った黒コートの男と同じ匂いを感じていた。怪人とは違う、しかし人間ともどこか別質な、天上の存在。圧倒的なポテンシャルと威圧感を持っていたのは、覆しようのない事実だ。
トヨから携帯電話を渡され、部屋から出ていく黒城と狩沢を見送りながら、レイは納得のいかないものを感じる。ゴンザレスやその他の人たちが交わしていた、“黄金の鳥”というワード。それに、全ての疑問を解決してくれる力があるように、レイは理由も何もなく思い始めていた。
思い切って尋ねてみようか。そんなことを考えていた矢先に、ゴンザレスから話しかけられた。彼の狼の顔は、いつもより歪んだ笑みを浮かべているようにみえる。不意に昨日、悠の病室で繰り広げられた光景が瞼の裏に浮かぶ。そういえば佑の扱いは結局どうなったのか尋ねようとしたが、先に向こうが口を開いた。重たそうな首を曲げ、眼下のレイを残った片目で見下ろす。
「君に頼みたいことがあるんだ。いいかな。いいよね?」
「……なんでしょう?」
断る理由などない。拓也を昏睡状態に陥らせたのは自分だと、レイは強い責任を感じていた。怪人を倒すためなら、マスカレイダーズとして戦えるなら何でも手伝いたい。そんな覚悟があった。
「実はね」
ゴンザレスが特徴的なキンキン声で、顔を寄せてくる。そのホラー映画じみた迫力に圧倒されながらレイが受けた任務の内容は、思いもよらぬものだった。
「やってくれるね?」
レイは頷く。不明瞭な部分はあるものの、自分しかできないのなら、やるしかない。それはこの組織に入ることを決めたときから、一時として変わったことはなかった。役割を果たす。己の力を過信することも、卑下することもなく、等身大の自分で思い切りぶつかる。それが一番大事なことだと、黒城の背中を見続けていたレイはずっと前から知っている。
「……藍沢秋護くんと一緒に、ね」
秋護がにやりと、心から嬉しそうな笑みを浮かべて、こちらを見やる。
覚悟も決意も、もちろんこの体に滾っている。だが、しかし。
秋護の緊張感のない顔を見た瞬間にレイは嘆息し、それから本気で、ゴンザレスに人選の変更を申し出ようかと思い悩んだ。
鎧の話 20
心に充満した迷いや悲しみ、喪失感や息苦しさを振り切るように、直也は法定速度ギリギリの速度でバイクを飛ばす。前を行く車を、巧みなハンドル操作で次々と追い越し、黄色に変わった信号の下を躊躇もなくすり抜ける。
行き先などなかった。ようやく咲を殺した犯人を暴く糸口が見つかったというのに、焦燥も嬉しさもなく、またあてのない闇に放り込まれるかと思うと、それだけで疲れた。気力が全く湧かない。まるで油の切れかけたランプのように、直也の心を照らす光は心もとない。
今更犯人を突き止めたからといって、咲が生き返るわけではない。今こそ、彼女の声が聞きたいのに、あの透き通った眼差しで見つめて欲しいのに、あの温かい体温で抱きしめて欲しいのに、泣き言を受け止めてもらいたいのに、どうもがこうが、何をあがこうが、それらは一つたりとして戻ってこない。
一旦、そんな風に考えてしまうと、全てがどうでもよくなってしまい、これ以上頑張ったって何になるのか、というネガティブな感情、大袈裟にいえば厭世的な思考に胸の内が支配されそうになる。しかし、それを必死に否定する自分も心の片隅には確かにいて、もはや自分が何をしたいのか、何をするべきなのか分からなくなる。
――直也くん、人を信じるってどういうことだと思う?
声が聞こえた。耳の外からではなく、頭の中で響いた。すぐに咲の声であると判断がつく。
――それはね、自分の心を明かすってことなの。だから一番優しいけど、危険な行為でもあるわけ。丸裸じゃ人は生きていけない。だけど信じてもらう、信じたい時には、自分が身に纏っている色々なものを自分から剥いでいかなきゃいけないの。
どんな時に、どんな場所で、どんな状況で、何を話していて、なぜそんなことを彼女が話しているのか全く覚えていない。しかし、こんなこと言っていたなとは思い出せた。確かにそれは咲の口から紡がれた言葉だ。
――人との間に信頼を作る、とは言うけど。私はそんなもの最初から人と人の間にあって、私たちができるのはそれを掘り起こすことだと思うの。愛とか信用だとかそういうものは目に見えないとも言うけど、実際見えていないだけで、見ようとしていないだけで、それはいつだってそこにあるのよ。
だけど、と直也は胸の内で反問する。それがどうしても見えてこないとき、俺はどうすればいいんですか。もはや何が正しく、何が間違っているのか分からない。問いかけるが、それは空しく心中をトンネルの壁のように反響するだけで何も意味を持たない。静けさが舞い戻り、沈黙が胸を抉る。
ハッと我に返り、直也は急ブレーキをかける。幸いにも後続の車はなかった。路肩にバイクを寄せ、そして周囲を窺う。
間違いない、と思った。そして気付いた瞬間、思わず口から乾いた笑いが転がり出た。懐かしい匂いが鼻腔を通り抜け、昔見た景色が網膜に吸い込まれていく。
直也は知らず知らずのうち3年前まで働いていた職場のある付近に、やって来ていた。無意識のうちに咲を求めていた自分に、苦笑する。こんな場所に来ても、どうなるわけでもないのに。
しかしここで知らん顔をして通り過ぎてしまうのも、忍びないような気がした。もうこの通りには、2年近く立ち寄っていない。いい機会だと一旦思うと、直也の左足はアスファルトに吸い寄せられるように着地していた。
エンジンを停めてバイクから降り、ガードレールの切れ目から歩道に上がる。ヘルメットを片手で外し、シートの下に備え付けられたメットホルダーに引っかける。肌を内側からじりじりと焼くような暑さに抓まれながら、バイクを押して歩いた。そこから数えて2つ目の曲がり角を左折すると、『探偵事務所 SINエージェンシー』のあった通りが見えてきた。
店構えも人通りの少なさも3年前となんら変わらないのに、景色が滲んで見えるのは不思議だった。大事なものが欠け落ちてしまっているかのように、街並みのところどころに空白が窺える。それは過去の幻影を引きずり続ける直也を、町全体が拒んでいるかのようでもあった。
『SINエージェンシー』のあった場所の前に立った後も、その印象は変わらなかった。ただ3年前まで自分が働き、それなりに楽しい毎日を過ごし、おちゃらけてはいるが頼りがいのある気のいい上司や、愛する人と時間を刻んできた場所が、茫漠とした更地に変わっていたことには、少し胸に痛みを覚えた。そこには魂の残滓さえ留まることを許さぬような、断固とした空虚が広がっていた。
もうここに、所長や咲さんはいないんだな。そう奥歯で噛みしめるように実感すると、目頭がじんと熱を持った。悲しみが胸を掻き毟るかのようだ。喉の奥からせり上がってくる感情が、腹の底にずしりとした重みを生じさせる。
その重みを取り除くため、感傷を振り落とすように頭を左右に振ると、直也はハンドルを強く握りしめてその場から立ち去ろうとした。肩が重く、これから埼玉まで行く気力も体力もすでに削がれていたが、行かないで済むとも思えない。2人を殺した犯人を追求することは、幸か不幸か生き延びてしまった直也の義務であり、使命でもあった。
「あっ」
声が聞こえた。ゆっくりとそちらに首を向けると、直也の口からも同じ言葉が出た。何やらわけが分からず、唖然としたまま、固まる。やっと凝り固まった声を喉奥から発しようとすると、直也が言おうとしていたのと全く同じセリフが相手の口から先に飛び出した。
「なんで、こんなところに……」
「それは俺のセリフだよ」
数メートル先。とうの昔に廃れ、潰れてしまった理髪店の前に、黒城ライが立っていた。それもまた直也と同様、目を丸くしている。チェックのロングシャツに、クロップドパンツという出で立ちだった。小柄なショルダーバックをたすき掛けにしている。
直也とライはお互いに緩慢な速度で歩みを運び、互いの距離をお互いに詰めた。そしてはち合わせになるとどちらともなく立ち止まった。
「どうした。買い物にでも、来たのか?」
直也は話しかけながら、さりげない振りをして自分の目頭を撫でた。目が潤んでいては年上としての威厳が立たない。気丈に振る舞い、感情が裏返って出てしまないようにいつもより声を潜めるようにした。
「母さんに、会いに来たんだ」
ライは顔を伏せたまま、消え入りそうな声で答えた。その様子は以前会った彼女の姿とは似ても似つかぬもので、直也は口が利けなくなる。ライが一言声を零すたびに、周囲に漂う暗澹とした空気の濃度が一段一段、増していくかのようだ。
「いつもなんか胸がぎゅーってなったときは、ここに来るんだ。なんか安心するんだよ。お母さんの匂いがするから」
「……そっか。俺も、同じようなもんだ。悩んでて気付いたら、ここにいた」
咲の魂に、その匂いに導かれて直也はここに来た。穴だらけになった心に咲はするりと入り込んできて、そして直也をこの場所に運んだ。そこに偶然を超えるなにかがあることを信じたい。
「……そういやこの前は、ごめんな」
直也が謝罪を口にすると、ライは顔をあげ、こちらを見上げた。その目瞳にはわずかながらも戸惑いの色があった。
「お前の気持ちを全然理解してなかった。信じられない、って、相手にされないって本当に辛いことだよな。ごめん。分かったつもりで、全然、分かってなかった」
あきらの本質を明かされた今だから、直也は己の愚かさを自覚することができた。それが結果的に良かったのか、悪かったのかは別として、これまで見てきた世界を覆されるような衝撃に身を削られたのは確かだった。
ライはしばし直也を食い入るように見上げていたが、すぐにかぶりを振った。
「私の方も、ごめん。ちょっと言い過ぎたかなって昨日考えてた。でも、分かって欲しかったんだ。ディッキーのこと。私が悔しかったこと」
しょぼくれ、体を縮めるライを見て、直也は彼女を見直した。初対面では無遠慮で礼儀知らずな子どもだと思っていたが、そればかりではないらしい。その事実は冷え切った直也の頃に、小さな篝火を灯すかのようだった。
「なぁ。お前、今、暇か?」
考えるよりも先に口が動いていた。ライは眉を小さく上げると顎を引いた。
「ならちょっと、話さないか。誰かと話してたい気分なんだ。それに……もう1度、お前の依頼を気持ちを新たにして、受け止めてみたい。……それで許してくれるか?」
黄金の鳥のことも、怪人のことも、黒い鳥のことも、マスカレイダーズのことさえも知らない誰かととにかく会話をしたかった。一時でも、この深い沼に片足を突っ込んでしまったかのような苦しみから逃れたかった。そんなときにライの存在はまさに打ってつけだった。また、少しでもライの心の傷を癒す手助けをしたいという気持ちも本音だった。
ライは頷いた。そしてそれこそ彼女らしい、ささやか笑みを口元に宿した。
「うん。私も、誰かと話したい気分だったんだ」
「なら、決まりだな」
直也も笑い、ハンドルを掴んでいない方の手でライの肩にそっと触れ、横を通り過ぎる。ライも踵を返し、小走りで追いかけてくる。「まったく、勝手に方向転換すんなよ!」と口をとがらせながら、直也に並ぶ。生温かい風が通り抜け、汗で額に張り付いた直也の前髪を、ライの左右で束ねた髪の毛を、そよがせる。その風に帯びた熱は咲の温かさを彷彿とさせるものだった。
9話 完