プロローグ ver2
※投稿させていただいている小説、「DEVIL HEART ruined」の続編、というか本編です。
お話上は前回からの続きである4章にあたります。なので前回の話を読んでいただけた後のほうが、より楽しめると思います。
まったりと更新していこうと思いますので、よろしくお願いいたしますー。
まどろみの中から、意識が、ひきずり出されていく。
雲の裂け目から生えてきた、あまりに巨大な塔の内部。その瓦礫に埋もれた大広間に男は倒れていた。ひび割れた壁の隙間から射し込む朝日に導かれるように、彼は目を覚ます。
それからしばらく時間を置き、男はようやくある事実に気が付く。
自分は、壁を飛び越えてきたのだと。ここは今まで自分が住んでいた世界とは違うのだということを。
ここは牢獄。頭上にひしめく暗雲を超えて、この場所に光が届く日を、彼は待ち望んでいる。
1、2001年 2月10日
黒城和弥は、液晶テレビの画面越しに親友の姿を眺めていた。
四方30センチに切り取られた画面の中で親友はステージ上に立ち、身ぶり手ぶりを交えながら弁を振るっていた。室内は暗く、ステージに降り注ぐスポットライトがその男の姿だけを闇の中に浮かび上がらせている。生憎、黒城は猫ではないので、光る眼でその闇を見透かすことなど到底不可能だ。しかしその会場内に百人超の人間が息を潜めていることは、事前に知らされていた。
「私のことは信じずとも構いません。しかしこれだけは言います。黄金の鳥だけを、信じなさい」
囁くような、しかし毅然とした口調で、親友が言った。その瞬間、会場の中に漂っていた雰囲気がぎゅっと引き締まったように感じられた。黒城は厳格に宣言をした彼の全身から漂う神々しい迫力に、気づけば手を汗で湿らせていた。
画面の向こう側に潜む大勢の人々もまた、今の言葉に緊張し、表情を強張らせたに違いない。会場から数百メートル離れた休憩室で待機している黒城でさえ衝撃を受けたのだから、あの男の声を間近で浴び、その存在を直接肌で感じている人間たちが感動を覚えないはずがないと思った。
親友の声は慈愛に満ち、しかし押し付けがましくはなく、自然に人々の心を惹きつける要素を備えていた。彼の話す内容は1つとして理解できなかったが、それでも黒城はその佇まいを前にしただけで目頭がじわりと熱くなった。
「命は、光です。私たちは生きています。この世に生ある限り、私たちは幾度もなく常闇に置き去りにされることがあるでしょう。私だってそうです。一生、光の下に立つことができる人間などこの世にいるでしょうか? いいえ、いません。そして私たちはそれを望んでもいけません。眩いほどの光はいつか、暗闇に移り変わるからです。闇あるところに光あり。光あるところには同じく闇があり、しかし、だからこそ、私たちは光の射す場所へ戻った時、幸福を感じることができるのではないでしょうか?」
彼はそこで自分の胸元を右手の親指で押し込むようにした。朱色のネクタイに皺が寄る。
「闇の中に立たされたときは、自分の胸に灯る光を睨み続けなさい。そして胸に刻み続けましょう。永遠の闇なんてものは、ないのだと。私たちの前にはいつだって、光が待ち構えているのだということを」
黒城は彼の演説を耳にしながら、ふと、隣に目をやった。そこには小さな女の子が黒城同様、パイプ椅子に腰を下ろしていた。話では今年6歳になったばかりらしい。丸顔で黒々とした髪の毛を、耳にかかる長さで揃えている。たすき掛けにしている、うさぎ柄のバッグが可愛らしい。彼女もまたテレビの中で演説をする男の姿を、陶然と見つめている。黒目がちの瞳がきらきらと輝き、頬を赤く上気させていた。
黒城は子どもが苦手だった。
その掴みどころのなさにどう対応すべきか、いつも戸惑ってしまうからだ。だから子守りを任された時は親友の頼みではあるものの、内心面倒だと思った。頼まれたのが彼でなければ、けんもほろろに断っていただろう。しかし幸いなことにこの子は見知らぬ大人と2人きりで部屋に放置されても、泣き喚くこともしなければ、遊ぼうとダダこねてくることもなかった。簡単に言ってしまえば、まったく手を煩わせることのない子どもだった。
少女はこのイベントが始まってから背筋を伸ばして座ったまま、片時も画面から目を離そうとはしなかった。黒城の存在をまったく無視している。眼中にすら入っていないようだ。
変わった子どもだな、と気になりつつも、手がかかるよりはましだ。黒城は鼻を鳴らし、安心して画面に視線を戻す。
「黄金の鳥は、あなたたちの光です。黄金の鳥を、信じなさい。そうすれば、あなたたちの頭に、幸福が降り注ぐでしょう。光はいつも、あなたのすぐ側に。命はいつも、私たちの胸の奥に」
彼がゆっくりと、両手を広げる。さながら鳥が翼をはためかせ、今にも飛び立とうとするかのような。そんなポーズだった。するとその動作に引っ張り上げられるようにして、会場のどこからか「黄金の鳥」という声があがった。そしてさらに、いたるところからぼそぼそと声が零れはじめ、数秒も経たぬうちに、まるで押し寄せる波のように言葉の渦が会場中に広がっていった。
黄金の鳥コールが高らかに、会場内を反響していく。「黄金の鳥! 黄金の鳥!」 その言葉は暗闇の中に響き渡り、ひしめき合う。夜の海のように静まり返った空間から、無数の怒号とも叫喚ともとれぬ声の群れが押し寄せてくる。熱狂的なものが室内に充満していた。黒城は唖然とした気持ちで、その光景を眺めていた。この会場内で一体何が起きているのか、理解すらできなかった。
「おうごんのとり」
すぐ側から声が聞こえ、黒城は反射的にそちらに顔を向けた。すると少女が、画面の中でエールを送る男たちと同じ言葉を、舌足らずな声で発していた。
それからはただ無言で、目に無邪気な光を灯している。少女もまた、画面の中に映る男に陶酔しているようだった。ただ正気を保っている自分だけがこの場に取り残されているように思え、黒城は眉を寄せて、この時が早く流れてくれないものかと苛立つ。
「お前も、しばらく会わない間に立派になったな。あれだけの数の人間を、心酔させるとは」
それから数十分後。先ほどまでステージの上に立っていた親友は、休憩室で黒城と向かい合っていた。肩にはタオルをかけ、先ほどまで少女の座っていたパイプ椅子に腰を下ろしている。少女は部屋の隅に置かれていたソファーで、寝息を立てていた。その小さな体に毛布をかけてやったのは他ならぬ黒城だ。
「いや、君ほどじゃない。いまは社長をやってるそうじゃないか。君なら、何かやってくれるとは思っていたけど、さすがに凄いね。君に比べれば、俺なんて、まだまだだ」
髪をぼりぼりと掻いて、彼は微笑む。黒城は女の子のほうにちらりと目をやると、鼻を鳴らす。
「よく眠っているようだな。お前の姿を観て、興奮していた。疲れたのだろうな」
「悪いな。娘のお守なんか任せて。うるさかったろ?」
「いや、大丈夫だ。それほど手がかからなかった。私がここにいる意味を見失いそうになったほどだ」
これは本音だった。結局、女の子は騒ぐことなく、終始会場の光景をうっとりと見物していた。そして画面の中で繰り広げられていた奇妙な会合が終わり、闇の中に無数の足音が響き始めると彼女は父親の帰還を待つこともなく、椅子の背もたれに寄りかかるようにして、糸が切れたように眠りについたのだった。
「君がいてくれて、助かったよ。君が側にいると安心するんだ。大学時代からそうだ。これはジンクスなのかもしれない。君がいれば、必ず成功する。俺はそう信じている」
「迷惑なジンクスだな。私に利は、1つたりともないではないか」
黒城は彼の「信じている」という発音にぎくりとし、その動揺を押し隠すために早口で喋った。あの会場での友の異様な姿を思い出したからだった。しかし黒城の気持ちも露知らず、彼は声をたてて軽やかに笑った。
「でもそう言いながらも、君は来てくれた。10年間、連絡もとらなかったのに。やはり君は、いい奴だ」
「私はいいものではない。黒いんだ。黒城だからな」
慣れないい冗談を言うと、彼はタオルで首元を拭きながら、「そうかぁ。黒いからか。なるほどな。だから黒城か」と納得したような声を出した。
黒城は彼のその表情が、大学時代から変わらぬものであることに安心した。少なくともいまの彼には、何十もの人々の意識を団結させ、巨大なうねりを起こさせるような能力を感じることはできなかった。本当に先ほど、ステージに立っていたのはお前なのか、と問い質したくもなってしまう。実際にそれを問いかけると、「君がいてくれたから、できたんだ」と応じてきた。
「まぁ、世界は私が動かしているに等しいからな。私がいてできないことなど、何1つないというのは、紛れもない事実だ。お前は正しい」
「俺は君の、そういうところが好きなんだ。君といると、俺まで特別な存在なんじゃないかって気がしてくる」
「気がするだけではない、特別だ。お前は、この世界で私がただ1人認める男なのだからな」
本音を口に出すと、彼は俯いてあからさまに照れた。中年の男が恥ずかしげにもじもじと指を擦り合わせても可愛げは微塵もないが、微笑ましさはあった。
黒城は話題を、先ほどの演説のことに戻した。
「そんなことより、さっきのは何だ。私はお前のあんな姿、初めてみたが」
先ほど画面越しに観た光景を回想し、黒城は眉間に皺を寄せた。確かに彼は大学時代から人並み外れた才能と、溢れんばかりのカリスマ性を備えた人間であったが、人前で弁を振るうような性格ではなかった。どちらかというと自分の才能をひけらかし、壇上で喚く生徒を教室の隅の方で傍観しているような男だった。
黒城が訊ねると、彼は満面の笑みを浮かべた。細くアーチ状に整えられた眉毛を持ち上げる。その動作もまた、10年前から変わらぬものだった。
「あれがいまの、俺の姿なんだ」
「どういうことだ?」
「俺はみんなを、幸せにすることができるんだ」
「どういうことだ? この私の眼力をもってしても、話が見えてこないが」
要領を得ず、さらに質問を重ねると、彼は笑みを保ったまま言葉を零した。その相貌はどこか得意気で、何だか彼らしくないな、と黒城は不審を抱く。
「人は誰でも、神になることができる」
「神だと?」
突然、突拍子のない言葉が出てきたので、黒城は怪訝な表情を作った。そんな胡散臭い言葉、私でも滅多に使わないぞ、と指摘してやりたくもなる。しかしその気持ちを腹の底に押しとどめ、無言で先を促す。
「自覚することから、すべては始まる」
さらに彼はそう続け、「会場に集まっていた人々も、俺も、そして娘も、君のように特別な存在になれる資格を持っている」と滑らかに締めくくった。
黒城は鼻の頭に皺を寄せた。
「私は神になる気は、さらさらない。私は人間として、この世を制するのが目標だ。勘違いしてもらっては困るな」
「あぁ、そうなんだ。それは残念だ。君は数少ない、自分の使命について自覚をしている人間のはずなのに」
そう口にしながらも、彼の言葉には嘆くようなニュアンスも、黒城を責めるような響きも含まれていなかった。ただそこには、己の進むべき道を決めた者特有の、使命感が漂っていた。
「俺は、自覚したんだ。自分が何をするべきなのかを。そして、答えを見つけた」
「それが、黄金の鳥というわけかね?」
先ほど壇上で、彼が声高に叫んでいた言葉を使ってみる。すると彼は嬉しそうに、目を細めた。
「そうだ。黄金の鳥だ。意味はわからないと思うが、ただ信じてくれ。そして、俺を支えてくれ。君だけが頼りなんだ。君がいれば、なんでもできる気がする。頼む。俺に、付き合ってくれ」
彼は黒城の手をとると、両方の手で包みこむようにした。彼は唇を結び、二重瞼の目でじっと正面からこちらを見つめてくる。黒城は羽毛にくるまれたかのような、彼の心地のいい体温を感じながら、眉をひそめた。
「華永。お前は本当に、あの、華永なのか?」
その時、ソファーの方で何かが起き上がる気配があった。目を向けると、女の子がかかっていたバスタオルを片手に、目を擦りながら上半身を起こしたところだった。
「おとうさん」
「どうした、あきら。トイレでも、いきたくなったの?」
彼は娘の名前を呼ぶと、黒城から離れ、ソファーのほうに近づいた。
少女はソファーから飛び降りると、父親の問いに小さく頷いた。
「うん。おしっこ」
「よし、分かった。お父さんが、連れて行ってやる。黒城君、悪いね。ちょっと、娘をトイレに」
「あぁ。早く連れて行ってやりたまえ。子どもの訴えに耳を傾けることは、親の勤めだ」
彼はまだ、夢うつつな様子の娘の手を引くと、部屋のドアへと向かった。しかしドアを開け、先に娘を行かせると、彼は立ち止まり、振り返った。その視点は黒城の顔の上に焦点が結ばれていた。
「黒城君」
「なんだ」
黒城は警戒しながら、言葉を返した。彼の表情は険しく、目は少し潤んでいた。尋常ではない気配を汲み取り、気の置けない親友を前にしているはずなのに、黒城は他の誰と対峙するよりも緊張した。
「一体、何の用かね? 早く娘についていってやれ」
彼はなかなか言葉を発しなかった。黒城をじっと見据えながら、唇を噛み、頬の肉を動かしている。何かを言い渋るような様子に苛立ち、黒城が踵で床を叩くと、弾かれたように目を見開いた。
「早く話したまえ。幼い子供を待たせることは、よくない」
「……黒城君。俺は必ず、みんなを幸せにしてみせる。笑顔に満ち溢れたそんな世界を、俺は、作らなくちゃいけないんだ」
「何のために」
黒城はため息をつき、腰を上げた。彼と向き合う。背は幾分か、黒城の方が高かった。
「お前が何の理由があって、人々を幸せにすると宣言するのかね? 私にはそれが理解できない」
「自覚をしたからだ。気付いてしまった以上、俺には責任がある。俺にしかできないのならば、やるしかない。ただ、それだけだ」
俺にしかできないなら、やるだけだ。彼は最後にもう1度そう言って、部屋を出て行ってしまった。廊下からは少女が彼を催促する声が聞こえる。彼が後ろ手にドアを閉めたため、その声も部屋の外に立ち消えた。
1人取り残された黒城は、なんだかやるせない気持ちで、パイプ椅子に座り直る。そしてぼんやりとテレビに目をやった。先ほどまで熱の帯びた会場が鮮明に映しだされていた画面にはいまや、タールのように深い暗闇が音もなく横たわっている。そこに反射した自分の姿を眺めながら黒城は、親友のことを改めて思い返す。しかしいくら記憶を掘り返そうとも、大学時代を共に過ごした親友と、壇上で大勢の人々に向かって演説を振るっていた男とが結びつかない。この10年で彼は変わってしまったのか、と考えると、自分でも予想外に胸が苦しくなった。
2つの足音が廊下から聞こえてくる。こつこつ、という皮靴が床を叩く音と、ひたひた、という運動靴が床を擦る音。交互にそれらの音は聞こえ、黒城の耳にはまるで音楽を奏でているように届く。
それらの足音を聞きながら、黒城はこめかみを指で抑え、肺から搾り出すようにしてため息をついた。
それから約6か月後。
2、2001年 8月30日
ハイヒールの踵を柔らかい地面にめりこませながら、妻が先を行く。その後を追いかけるようにして、船見幸助は夜道を歩いていた。
それなりに大きな公園内にそびえる丘を、昇っている。夏の生温かい空気が、半袖のTシャツから飛び出した素肌に気だるく絡みつく。
天気予報は外れ、見上げれば一面の星空が広がっていた。まるで砂浜に散りばめられた透明な砂粒のように、それらはちらちらと瞬き、漆黒の空を彩っている。星が落ちてきそうな夜、とはこのことだな、と幸助は実感を込めて空に手を突き伸ばす。
「なにやってんの? こっちこっち、早くぅ」
なかなかついてこない幸助を、不審に思ったのだろう。前を歩いていた琴葉が振り返り、こちらに向けて大きく手を振っていた。幸助は苦笑いを浮かべつつ、早足で彼女のもとに歩を進める。
「ほら、早く早く。絶対、上の方が綺麗だって!」
琴葉は追いついてきた幸助の手首を掴むと、そのまま緩やかな勾配を駆け昇り始めた。幸助は彼女に引っ張られるがまま、ほとんど無理やりに走らされていく。足が絡まらないように注意しながら前屈みの状態で疾走するのは、見た目よりもずっと重労働だった。ようやく丘の頂上にたどり着いた頃には、肩で息をし、挙句、草むらにへたり込んでしまった。
「ちょっと、待って、ちょっと、休ませて」
「なぁに、情けない。ほら、すごく綺麗だよ。早く立って」
「なんで君は、ハイヒールなのに、そんなに、速いんだ」
「私は根性があるから。強いの。他の誰よりも。あなたよりも、ね」
そうか強いのか、と呼吸を整えながら言いかえし、幸助はゆっくりと立ちあがった。疲労が膝に蓄積するのを感じ、真っ直ぐに立とうとすると、がくがくと足が震え、それを拒んだ。己の運動不足を憂いて、少し悄然とした気分を味わう。
「あぁ、俺の脚は限界のようだ。後のことは僕に任せて、君だけが夜空を見上げてくれ」
「何言ってんの。ほら、見て、凄い空だよ」
そう言って人差し指を空に向ける彼女に誘われるように、幸助も空を仰いだ。そして、声を失った。
180度、すべての方角が星で埋め尽くされていた。それらが一斉に光を放ち、地上を照らしだしている。まるでスポットライトを浴びているかのようだ。夜なのに、空は真っ白に輝いている。教会内に漂っているような、荘厳で神々しい雰囲気さえこの景色の前では霞んでしまうだろう。星たちから祝福されている、そんな気分にも陥ってしまう。ため息をつくことも憚れるくらいの幻想的な光景が、ここにはあった。
「来て、良かったね」
琴葉が掠れた声で言う。幸助は彼女の横顔をちらりと窺い、その目が潤んでいることを見届けてから、深く頷いた。
「ああ。これは、凄い。それにしてもこんなに綺麗だなんて……知らなかったよ」
「お母さまに、感謝しなくちゃね。こんな素晴らしい場所を教えてくださったなんて」
「あぁ、そうだな。帰ったら母さんにも、お礼、言わなくちゃな」
琴葉は、星空のカーテンが敷かれた夜空をバックに、零れてきた涙を細い指で拭っている。彼女の右目の下には、抉られたような傷跡があった。話を聞くと子どもの頃、男子と喧嘩をし、その時に負わされた傷らしい。実は3針縫ったの、と舌を出す琴葉を見て、幸助は実に彼女らしいな、と思ったものだった。そそっかしく、誰よりも強いと豪語する彼女のおてんばな少女時代を想像することは他のどの選択肢よりも容易いことだった。
幸助が琴葉と結婚をしてから、あと少しで丸1年が経つ。始めは反対の意を示していた母も、押しの一手で最終的にはどうにか納得してくれ、めでたく籍を入れるに至った。父の墓前にも彼女と2人で手を合わせに行き、ようやく新しい家族の誕生に慣れ始めたころだった。
幸助の前には、捻れた三日月の巨大なモニュメントが備え付けられていた。銀色の鉄製で、3メートルはある。この場所の『月ヶ丘公園』という名称は、このモニュメントにちなんでいるようだ。丘の頂に立つ三日月は、星たちの瞬きを浴びて、虹色の輝きを発散している。
「あなたと来れて、本当に良かった。この空がこんなに綺麗なのは、きっとあなたといるおかげだね。もし1人だったら、この星はもっとくすんでいるはずだもの」
星の下で両手を広げながら、琴葉がそんなことを言うので、幸助は俯いた。自分がにやついていることに気づき、そんな情けない顔を彼女に見られまいとしたのだ。
琴葉は美しい、というよりも、可愛らしい容貌をしていた。丸顔で、ぱっちりとした大きな目がそんな印象を抱かせるのだろう。茶色に脱色した髪をポニーテールに纏めている今の彼女は、10代の可憐な少女のように見える。目の下の傷跡も、彼女の魅力を際立たせるための材料になっているようだった。
「とりあえず、シートを広げよう」
幸助は照れくささを紛らわすために、背負っていたリュックを下ろし、中からブルーシートを引っ張りだした。慌てて広げようとしたので、きちんと畳んできたのに、いまやくしゃくしゃに皺が寄ってしまう。
「夜のピクニック、するんでしょ?」
幸助が見上げると、琴葉は嬉しそうに大きく頷いた。その様子がとても可愛らしくて、幸助もまた頬をあげてしまう。
「星も、人と似たようなもんなんだよね」
三日月の背中に寄りかかりながら、琴葉が前触れもなく、そんなことを呟いた。芝生に片膝を立てて座っていた幸助は、彼女の方に目をやると小さく首を傾げた。
「どういうこと?」
「人も星も、たくさんいるけど。強い光、弱い光、色々あるってこと。強い光を放っている星は、私たちの目にも見えるけど、弱い光しか出せない星は誰にも見られることなく隅の方でひっそりと暮らして、それで誰の目にも留まらずに、消えていく」
消えていく、という部分を琴葉は殊更強調した。幸助は目を瞬かせた後、改めて空に目を戻す。確かに強い光を持つ星たちはこうして、地上の人間たちの前に晒されているが、その一方で誰の目にも止まることなく、ひっそりと生まれ、消えていく星もまたあるのだと思うと、胸が重たくなった。悲壮感が皮膚の内側からつついてくるかのようだ。
「私は、弱い星にはなりたくないの」
「え?」
幸助は琴葉を改めて、見た。彼女は険しい表情を浮かべ、鋭く星を睨んでいる。
「誰にも知られずに消えていくなんて、無残な死に方はしたくない。どうせならこの空に見える一等星みたいに、みんなに認められながら死んでいきたいよね」
「ちょっと、待ってくれよ」
突然、妻が死の概念を持ちだしてきたので、幸助は戸惑った。「なんで、いきなりそんなことを言うんだい?」
おにぎりを口に含んだまま慌てて立ち上がると、彼女は身じろぎもせず、声を押し殺すようにして笑った。唇の前で人差し指を立て、悪戯っぽく口角を上げる。
「例え話。どっかの国の言葉で、死を想えって慣用句があるっていうのをどこかで聞いた覚えがあるけど、まさにそれ。常に死を頭の隅に置くことで、素晴らしい生き方をすることができるようになるの」
「あぁ……なるほどね。例え話ね」
納得などしていないのに、心臓は跳ね続けているのに、口からまろび出たのはやはり得心の言葉だった。幸助は口の中のおにぎりを飲みこむと、再び腰を下ろした。額に浮かぶ汗は、この生温い気温のためだけではないだろうということは、自覚していた。
綺麗ね、と何事もなかったかのように、空に視線を戻す琴葉を幸助はじっと見つめる。星明りの中に腰を据える彼女の姿は、夜空が霞んで見えるくらい眩かったが、それよりも先ほど彼女が口にした言葉が幸助の心を縛り付けていた。
弱い星にはなりたくない、と琴葉はそう呟いた。なぜ、彼女は突然そんなことを言いだしたのだろう。派手じゃなくても、ささやかでもいいから、妻とこのまま人生を歩んでいけたらいいと密かに心の中で願っていた幸助にとって、彼女の告白は裏切りのように感じられた。
琴葉の横顔を窺う。その目は相変わらず静かに瞬く星たちを捉えている。そこに漂う、底知れぬ雰囲気に、幸助は妻に対し、初めて恐怖に似た感情を抱いた。
「ねぇ、なんか聞こえない?」
彼女がそう口にしたのは、ブルーシートをリュックサックに詰め、片付けも終わり、これから帰路につこうとしていた時だった。
「何か?」
幸助は周囲を見渡した。遠くで車の走る音や、虫の鳴き声は聞こえるものの、それらは今になって気が付く類の物音ではない。
「何も、聞こえなかったけど」
「ううん。聞こえた。あ、また」
今度は、幸助にもはっきり聞き取れた。男の声だ。近い。すぐ右手のほうから、その声は鼓膜の端っこに引っ掛かるようにして響いてきた。
声の主を探ろうと、恐る恐る幸助はそちら、つまり右手の方角に首をよじった。しかしもちろん、そこには人影などなく、あるのはあの捻れた三日月のモニュメントだけだった。
「誰も、いない」
その頃には幸助も状況を理解し、総毛立っていた。もしや心霊の類に遭遇してしまったのではないかと思い、脳裏には昨日テレビで見たホラー映画のワンシーンが過る。女優の甲高い叫び声が蘇り、頭から血が引いていく。天からの光を除けば、残りは暗闇で占められており、そこに潜む何かを見つけようと目を凝らすが、何も浮かびあがってはこない。木の上から梟の不貞腐れたような鳴き声が降ってくる。
「ねぇ、あそこ、見て……」
その時、琴葉が上擦った声を発した。頬を引き攣らせ、指で何かを示した恰好のまま、固まっている。彼女が指差す方向に目を向けると、そこには泰然と三日月が建っていた。先ほどまでは審美的なデザインだと思っていたそのモニュメントも、今ではその異質さばかりが際立ち、星の光を照り返して輝く様は、どんな角度で見ようとも、変わりなく不気味だった。
「どうしたの?」
尋ねても、彼女から言葉が返ってこなかった。ただでさえ大きく丸い目をさらに瞠り、指先で真っ直ぐ三日月を示している。幸助はため息をつくと、意を決して、彼女の背後に立った。足元で踏みつけられた芝が、くしゃりと擦れた音をたてる。
どうしたの。幸助はもう1度尋ねようとして、息を呑んだ。目の前の光景に頭がついていかず、呆然と立ち尽くす。頭上に広がる星の海のことなど、その瞬間すっかり忘れた。
「あれ、何だろう」
彼女が指差す先、三日月のモニュメントの表面に何かが映り込んでいた。幸助はそっと肩越しに振り返るが、そこにはのっぺりとした暗闇が不変を保っている。前に向き直り、目を擦ってからもう1度見るが、視覚に結ばれたその象はけして消えてはくれなかった。
「これ、何だろう」
幸助もまた、ぼんやりと呟いている。嘘だろ、とも言いたかったが、喉が干上がってしまっていて、言葉がそれ以上出てこない。
三日月の中には、甲冑に身を包んだ男が立っていた。腰には剣を携え、鉄格子のようなバイザーのある仮面をすっぽり頭から被っている。背中には翼が生え、その部分だけを捉えるのならば、中世の絵に出てくる天使のように見えないこともなかった。
その甲冑の男は、三日月のモニュメントの中だけに、存在していた。星の光を反射し、幸助と琴葉を歪めて映している反射物の中で、男は足を組んで座っていた。
2人の立っている世界に、その男はいない。影も、形もない。なのに甲冑の男は確かに、そこに、いる。
「俺の名前は、ハクバス」
これはどういうことなのだろう、と混乱していると、三日月の中にいる男が喋った。しかし幸助は、言葉の意味を理解していなかった。琴葉もそうだったに違いない。口をぽかんと開けたまま、2人で夏の空気の中に取り残される。
「いいところで出会いましたね。さて、これから、仲良くしていきましょうか。お二人方」
突然の邂逅にも関わらず、今にも握手を求めるような馴れ馴れしさで男が言う。幸助は彼の愛想のよさに、不躾な態度を示し続けるのも憚られ、笑みを取り繕った。
偶然通りかかった第三者からしてみれば、三日月のモニュメント目がけて作り笑いを浮かべているように自分は映るのだろうか。それはそれで滑稽な絵だろうな、と幸助は漫然とした思いを抱く。
よろしく、と隣で琴葉が鎧の男の挨拶に応じる。幸助に反して、彼女の声にはもはや、動揺は込められていなかった。喜悦の帯びた声音を使って、男に話しかけている。それが強がりなのか、それとも今の状況を受け入れた結果からなのかは判断がつかなかったが、その横顔になんだか不穏なものが宿っているような気がして、幸助は彼女からすぐに目を逸らす。彼女の顔が別人のもののように思えたのだ。
ここにいるのは本当に、自分の妻なのだろうか。甲冑の男ではなく、月のモニュメントに向かってそう心の中で尋ねるが、当然のことながら答えは返ってこない。
それから約、2年と半年後。
3、2003年 2月17日
立浪良哉は丘の上に聳える、捻れた三日月のモニュメントを見つめている。
180センチを超える良哉の身長よりもまだ高いその三日月は、年月を重ね、ふてぶてしささえも学んだかのように堂々と佇んでいる。初めて来た公園ではあったが、この像の前でよくドラマの撮影が行われていることは、日ごろ、テレビに対して関心の薄い良哉でも知っていた。同居人が観ていたそのドラマを、良哉は目の端に捉えていたからだ。確かこの場所で男女が感動の再会を遂げ、抱き合っていたような気がする。
しかし今日はドラマの撮影どころか、公園内に人の気配すらなかった。空には雷雲が渦巻き、どしゃ降りの雨が間断なく芝を濡らし続けている。天から落ちてくる大粒の水滴に容赦なく叩き潰された芝はぺちゃんこになり、土に塗れて寝ころんでいる。雨が地上を叩く音と、時折轟く雷鳴がやかましく、自分の発した声さえも聞き取れない。また視界も白く濁り、5メートル先の景色でさえも蜃気楼のように覚束ない。
ぴかりと空が瞬いたと思うと、雲に亀裂が生じ、数秒後には炸裂音が空気を伝う。稲光が走ってから雷が落ちるまでのわずかなその空白が、良哉はたまらなく好きだった。
良哉は傘を差さずに、激しい雨を頭から被っていた。空を見上げてもそこには暗雲がひしめくばかりで、天体観測地として有名なこの丘に昇っても、星は1つたりとも見えることはなかった。整髪料が流れ、金に脱色した髪の毛が足もとの雑草のようにぺちゃんこになっている。むらなく日焼けした肌に、無数の水滴が付着している。
三日月のモニュメントもまた良哉と同じように、雨に打たれ、大量の雫をその表面に纏わせていた。
モニュメントの外面を流れる雨の筋をそっと指でなぞっていると、背後に人の気配を感じた。顔を向けると、そこに深緑色のジャンプ傘を差した体格のいい男が立っていた。
「ビル」
良哉は男の名前を呼ぶと、弱弱しい笑みを浮かべた。長い間、雨に晒されていたためか、なんだか頭がぼんやりとしていた。
「よくここが、分かったな」
ビルは短く刈り上げた髪を、右手で掻いた。それから傘を下ろすと、雨雫を払うように一振りしてから、そっと閉じた。
「分かるに決まってるじゃねぇか。お前が行くところなんざ、そう数はねぇ」
「だろうな。俺のことは、今ではお前が一番よく知ってる。安心しろよ。逃げるつもりも、隠れるつもりも、始めからない。正面突破が、性に合ってるからな」
「なら、なんでわざわざこんなところに来たんだ? お前らしくもねぇ」
良哉は空を仰いだ。目に雨が入ったが、気にはならない。寒さに1つ身震いをし、それから深くため息を零す。吐息が空気の中に溶けて、消えていく。
「やっぱりここも、星は、見えないんだな。知ってるか? 命は、光なんだ。無数の命が俺に向かって生きろって、教えてくれる。いまは雲が邪魔してるけど、見えないだけだ。この雲の向こうに必ず、光はある」
「それが、てめぇを骨抜きにしてくれた、黄金の鳥様の言葉ってわけか?」
ビルは苛立ちを隠そうともしなかった。普段から険しい顔を、さらに強張らせ、唇を結ぶ。眉間には無数の皺が寄っていた。
「お前は、騙されてる。俺の知っているお前は、そんなことも分からねぇほど、愚かな男じゃなかったはずだ。目を覚ませ、良哉。そして、戻れ。“白馬”にはお前の力が必要だ。今ならまだ、やり直せる」
「気持ちは嬉しい。が、隊長さんの言うセリフじゃあないぜ? お前は俺を殺しに来たんだろうが。お前らしくもない。ご託並べずに、とっととかかってこいってんだ」
肩をすくめ、良哉は三日月に寄りかかった。水を吸ったシャツが背中に押しつけられ、ひやりとした冷たさが首筋まで伝う。目を瞑れば、このまま眠りの渦に引き込まれてしまいそうだった。
「ビル。俺は、愚かだ」
夢と現実の狭間に揺れながら断言すると、ビルは怪訝な面持ちになった。横目でその様子を窺いながら、良哉は言葉を続ける。
「お前たちの仲間として、何も考えずに、知ろうともせずに、平然と黄金の鳥を追いかけ回してた俺は、どうしようもない馬鹿野郎だったよ。俺は、愚かだ」
「良哉……!」
「俺は船見の奴を、この手で殺した」
良哉は自分の掌に、目を落とした。人の肉を裂いた感触が、いまだそこには残っている。その血飛沫の跡は、いくら雨粒を掴もうともけして消えてくれることはないように思えた。時間が過ぎ去ろうとも、罪が軽くなることはないのと同じように、その重みはしっかりと体が覚えている。
ならば、その罪から逃げることはしない。置いてきてもついてくるのならば、背負いこんで共に歩いていくしかない。良哉はビルを睨むと、びしょ濡れになったジーンズのポケットに、びしょ濡れの手を突っ込んだ。
「だが、俺は後悔なんか一欠けらもしちゃいねぇ。なぜだか分かるか? これが、俺は今でもこれが最善だったと思ってるからだよ。俺は間違いなんて、一個も犯しちゃいない。そう確信してる」
「俺は、船見に忠義を尽くしていた」
ビルは苦々しげに口を開いた。タンクトップから突き出た太い二の腕に、雨粒が反射している。
「俺にとって、上官の命令は絶対だ。これは戦場の常識だ。だから俺は、白馬によって下された命であれば、親友だろうが親だろうが兄弟だろうが、戦い、殺し合う覚悟をしてきた」
「あぁ、知ってる。もうその話は聞き飽きたよ。だが、それはその上官をぶっ殺して逃げた裏切り者に話すような内容じゃねぇだろ」
良哉はポケットから手を抜き取った。広げた掌には四角い、長方形の板が置かれていた。銀色で、表面には羽のようなマークが刻まれ、その上に『3』と番号が振ってある。
「俺は反逆者で、お前はそれを追いかけてここまできた、命令に忠実な隊長さんだ。今は、そういうことだろう? お前と俺が親友だったってのは、昨日までの思い出話で、十分だ」
「残念で、しかたがねぇ……が」
ビルもまた、カーゴパンツのポケットから銀色の板を取り出した。形や大きさまで、良哉のものとそっくり同じものだ。ただ、その数字が『5』であることだけが違っている。
「だが、的は射ている。そんなこと分かり切ってたはずなのに……俺も、大分鈍っちまったみてぇだな」
ビルは傘を投げ捨てた。そしてその板を持った腕を前に突き伸ばし、良哉にかざすようにした。それが宣戦布告の合図であることを、良哉は理解していた。こちらもまた、板を相手に突き出す。
「できれば、別の機会に手合せ、したかったがな」
ビルが言った。表情は険しいままだったが、その声には諦観が宿っている。
「同感だ」
良哉は同意する。
「なぜ、船見を殺した」
今度は怒気を孕ませた声を、ビルは発する。興奮のためか若干、上擦っているように聞こえた。激しい雨音の中に、その言葉は埋もれていく。
「どうしてなんだ」
「それを話して、何になる。感動のストーリーでもこじつければ、情状酌量でもしてくれるっていうのか? 黙って戦えよ。今さら、どんな言葉が俺たちを引きとめるっつんだよ」
三日月のモニュメントに、良哉は板を叩きつけた。がつん、と低い打撃音が雨音の隙間に入りこみ、余韻すらも残さずかき消えていく。
「俺たちはもう、分かり合えない。分かり合えないなら……戦うしかないだろうが」
三日月の表面が、激しく揺らぎだす。まるで、水面に小石を投じたことで広がる波紋のように。やがてそこから何か所にも分断された装甲服のパーツが、鏡面という境界線をくぐって、次々と外に飛び出してくる。
ビルは、無表情だった。彼は一歩前に出ると、剣呑な雰囲気を保ったまま、板の角で三日月を叩いた。再びモニュメントの表層が揺らぎ、中から装甲服の断片が飛び出してくる。
良哉は胸の前に手を置くと、そこで、板を手放した。ビルもそうした。しかし両者が手放した板は地面に叩きつけられることはなく、落下すると、腹部のあたりでぴたりと停止した。そしてその板を中心にして、瞬く間に、2人の周囲に舞う装甲服のパーツが次々と組み上がっていった。
鉄色に滲んだ2種類のパーツたちが空中で交錯し合い、2人の男の体を包み込むようにして再構築されていく。飛び交うパーツの動きはスムーズで、実に効率的で、無駄がない。
「そうだ、ビル。お前に1つ訊いとかなきゃいけないことがある」
頭に1本の大きな角を備えた装甲服、“オウガ”を纏った良哉は、腰から刀を引き抜くと言った。
ビルの方は、こめかみから2本の角を生やした装甲服を着ていた。オウガに比べて大柄で、首周りにはファーが付いている。右肩には龍の頭がい骨のようなものが装着され、左からには白骨化した爬虫類の尾が飛び出ていた。この装甲服に付けられた名は、“フェンリル”。それが組織、白馬の隊長に託された、オウガよりもはるかに高いスペックを持つ装甲服であることを、良哉はよく知っていた。
フェンリルを纏ったビルは良哉の質問に、反応しなかった。頭から鉄仮面をすっぽり覆ってしまったせいで、それがどういう類の沈黙なのか良哉にはまるで分らない。しかしきっとその仮面の奥では、相変わらず憮然とした表情を浮かべているのだろうなということは予測できた。良哉はビルのことなら、ほとんど何でも、それこそ装甲服のことより理解しているつもりだった。
流れるような刀身を持つ刀の切っ先を、オウガはフェンリルの首元に突きつけた。鋭い先端部分だけが、黄に着色されている奇妙な刀で、それは豪雨の中であっても少しも衰えることなく優雅な煌めきを放出している。
刀を向けられても、指1つ動かさずにこちらを睨むフェンリルに良哉は舌を打つと、相手の是非に構わず質問をぶつけた。
「俺はお前らの頭を殺した。じゃあ、何だ。お前は、誰に命じられてここに来たんだ」
良哉はオウガの中で、自虐の笑みをかみ殺すのに必死だった。大方、この答えに対する予測はできていた。そしてそれが正解だとすれば、ビルも、そして良哉もあまりにも滑稽だった。
「頭亡き今、白馬の指揮を今とってるのは、誰なんだよ」
「船見の」
ビルはそこで、言い淀んだ。仮面越しなので、雨音にかき消されてしまうほどの小声だった。その声色には諦念が確かに、滲んでいた。
「船見の、女だ」
良哉は場違いにも、ここで噴きだしそうになった。乾いた笑みが飛び出してきそうになるのを、唾を呑みこむことで耐える。そうか、船見の女か、と頭の中で納得する。その答えが、良哉の中に腰を据えていた確執や躊躇を、ようやく取り去ってくれたような気がした。
「そうか。じゃあ、さっさと始めようぜ。もう俺たちの間を隔てる壁はない」
一旦、刀を持った腕を下ろすと今度は肩に担ぐようにして、オウガは構えた。フェンリルもその言葉に触発されたかのようにして、動きだす。左足を半歩下げ、拳を固め、ビル独特の構えをとる。
「死んでも、恨むんじゃねぇぞ」
「それは、俺のセリフだ」
良哉は皮肉っぽく笑った。そして、ぬかるんだ地面を蹴った。泥が跳ね、草がちぎれ、両足が同時に浮きあがり、真っ向からフェンリルに突っ込んでいく。刀を突き出し、敵の胸元に狙いを定める。
フェンリルもまた動きだした。右足を軸にして1つ回転したかと思うと、左足の踵をオウガの腹にめりこませてくる。良哉は呻きながらも、刀でフェンリルの頭を小突き、衝撃を与える。
「白馬への忠義のために、てめぇをここで、殺す」
ビルの声だ。フェンリルは両足に力を込め、またあの独特な姿勢をとる。
「俺の前に立ちはだかる奴は、誰であろうと、蹴散らしてやるよ」
良哉も叫ぶ。刀を持つ右手を引き、左手の指先で刀の腹をなぞるようにする。
2人は一旦、距離をとった。雨風に向かって各々は吼え、驟雨を突き破るようにして、走りだす。
装甲服同士が激突しあったその瞬間、地上で雷撃のような、衝突音が鳴り響いた。
2人の男たちの声が人気のない公園に残響し、そして、消える。
まだ降り止む気配のない雨が、戦いの痕跡を、何事もなかったかのように洗い流していく。
それから6年後。
4、2009年 11月1日
どうして、こうなったのだろう。
華永あきらは傘を持つ手を下ろしたまま、激しい雨に打たれながら、呆然と立ちつくしていた。
印象的な青混じりの白っぽい髪の毛が、その湿り気の中で悄然とした雰囲気を発している。
目の前には、女性の死体があった。頭はない。首から上は、あきらから2、3メートル離れた場所に転がっていた。こちらに後頭部を向けているため、遠目には大きな石のようにも見える。
衣替えを終えたばかりの時期だったので、あきらは白いワイシャツに緑色のネクタイ、それに紺色のスカートという制服姿だった。雨と返り血と土で汚れ、びしょ濡れになったワイシャツは肌にぴたりと貼りつき、陶器のような白い肌と、水色の下着が艶やかに透けている。右手の学生鞄にも泥が多く付着している。
学校帰りに立ち寄った、一方通行の小さな路地だった。もともと車通りの少ない道路で、雨のためか、今日は歩く人も自転車に乗る人の姿もない。雨音だけがしんしんと町に冴えわたる場所で、あきらは女性の死体と置き去りにされている。
数分前に、時は遡る。
やっと見つけた。
家に帰る近道のため、この小さな道を早足で通過していたあきらに、この女性はそう叫んで近づいてきた。女性は30代前半ぐらいで、顔には化粧っけがなく、髪はぼさぼさに乱れていた。目の下に大きな傷がある。水たまりに無数の波紋がひっきりなしに生じるくらいの雨量なのに、傘も差さずに現れたため、あきらは不審に思った。
もう調べはついてんの。あんたがあの男の娘なんでしょ。しれっとした顔で学校通ってやがって、舐めてんじゃないよ。
女性は地団太を踏みながら、顔を歪めて、いきなり憤激を顕にした。あきらはわけがわからず、首を傾げるしかない。しかしあの男の娘、と指摘してきたところだけは気になった。
どちら様ですか、父のお知り合いですか?
あきらは腰を引き、戸惑いと怯えに呑みこまれそうになりながらも、尋ねた。明らかな不審人物を前にして逃げなかったのは、好奇心が湧いたからだ。あきらの父親は6年前に他界しており、また、その知り合いと出会うこともほとんどなかったので、彼女こそが父をよく知る人物第1号なのではないかという期待があった。
しかし女性から返ってきたのは、あまりにも思いがけない言葉だった。
あんたを、殺してやる。
狂気に目をぎらつかせ、口からしゅるしゅると不規則な呼吸を漏らしながら、女性は確かにそう口にした。
あきらはびくりと全身を震わせ、目を丸くして女性を見つめ返す。女性は濡れたアスファルトを蹴ると、意味不明なことを喚き散らして、跳びかかってきた。
横によろけるようにして、あきらは紙一重でかわした。振り返ると女性は、刃渡り30センチほどもある包丁を両手で握りしめ、あきらの喉元に向けていた。
「どういうつもりなんですか!」
困惑するあきらに構わず、女性はさらに包丁を突きだしてきた。あきらはよけようとして足が絡まり、水たまりの上に転倒した。衝撃に傘がもぎ取られ、開いたままのそれは風にさらわれて転がっていく。幸い転んだおかげで凶刃をかわすことができ、女性もまたたたらを踏んで、塀に激突した。その拍子に手から包丁が離れ、小さな水たまりの中に落下する。かちん、という無感情な音が鋭く耳に届いた。
あきらは素早く手を伸ばすと、その包丁を拾い上げた。腰を捻り、体をこちらに向けてくる女性に向けて、反射的に包丁の切っ先を突きつける。雨のせいか視界が滲み、まだ腰が抜けて立ちあがれず、寒さと当惑で体が小刻みに震えていたあきらは両手でそれをしっかりと握った。まるでその包丁が、この悪夢のような状況を追い払ってくれる護符であると信じるかのように。
あんた自分がなにやってんのか、分かってんの?
女性は取り乱す風もなく、恨みがましいことを口にした。異様なまでに呼吸が乱れており、顔色が悪い。目の焦点も合っていなかった。あきらを睨んでいるのに、瞳がぐらぐらと忙しなく動いている。
あんたのことは、調べがついてるって言ったよね? 知ってるんだよ。あんたが親しい人くらい。
あきらは背筋を凍らせた。はったりだと思いたかったが、その可能性を払いのけるほどの迫力が、女性にはあった。そして女性は唇を歪め、人の名前を数人、口にした。それはすべて、あきらと親しい数少ないクラスメートの名前だった。
葉花って娘とは、特に仲がいいみたいね。それに彼氏もいるでしょ。探偵なんだって? それに、まだあんたの母親も生きてるんでしょ? もう家も突きとめんの。分かる? もうあんたは、どこにも逃げられない。ざまぁみろってんだ。
女性が滑らかに次々と発音していく言葉を、あきらは信じ難い思いで聞いている。これは脅しているだけではないのか、実は口だけではないのかという都合のいい解釈が、女性自身の手によって淘汰されていく。
あきらは、心の底から震えた。女性の声は嗜虐的で、それでいて無機質な響きがどこかにあった。他者を蹴落とし、這いつくばる人間の頭を踏みにじるのに何の躊躇も持たない人間の声だ。その血走っている眼に人間的な感情を期待することは、腹を空かせたライオンに六法全書を突き出すよりも無謀なことのように思えた。
皆殺しにしてあげる。あんただけが幸せになるなんて許せない。いい気になってられるのも、今のうちだから。
女性はあきらから、あきらの手の中にある包丁から、目を一時も逸らさぬまま、じりじりと退いていく。その唇には狂気に歪んだ笑みが宿っていて、あきらは息を呑んだ。最悪の未来が不意に脳裏を駆け、何とかしなければ、という焦燥の念が爆発的に膨らんでいく。
あんたの人生、めちゃくちゃにしてやる。私と同じ境遇をあんたも味わえばいいよ。
高らかに、湿気のない乾いた笑い声をあげると、女性はあきらに背中を向けて走り去っていく。何度もよろめいては壁に手をつきながら、水たまりを踏んでいく。体調が芳しくないのか、それとも疲労のせいなのか、彼女の走る速度は遅く、あきらの早歩きのほうがよっぽど速いのではと思うほどだった。
皆殺しにしてあげる。女性の声が、頭の中に蘇る。なんとかしなければ。心臓が高鳴る。少しずつ遠くなっていく女性の後姿を見る。降りしきる冷たい雨が、あきらの意識を静かに削り取っていく。
黒い沼に沈んでいくような感覚が、あきらを支配する。なんとかしなければ、なんとかしなければ。湯気の立つ料理と一緒に出迎えてくれる優しい母親や、引っ込み思案なところのあるあきらに対して、気兼ねなく喋りかけてくれるクラスメート、そして頼りがいのある彼氏のどこか無邪気な顔立ちを思い浮かべ、そのビジョンがさらにあきらの体をがんじがらめにしていく。
ここで逃がせば、みんな殺される。それを阻止できるのは、自分だけだ。
それに気付いた次の瞬間、あきらの頭の中は透明になった。意識が断絶し、細々とした粒子だけが視界に映るようになる。そのうちそれは、浜辺の砂のような景色に移り変わっていき、最終的にはテレビに映る砂嵐のようになった。
首筋を撫でる雨滴の冷たさに驚いて目覚めると、すでに事は終わっていた。
首のない女性の死体にはいくつもの刺し傷が見受けられ、その傷口からおびただしいほどの血液が出口を求めて流れ出ていた。その血はアスファルトの上に溜まった水と混じり合い、側溝の中へと運ばれていく。パレットに置いた水分の多い絵の具のようだ、とあきらはどこかうっとりとした感情で、その様を見届ける。ナイフは女性の太股に、深々と刺さったままになっていた。
しばらくしてから、あきらは傘を差すのも忘れて歩きだした。頭がぼんやりとして、上手く回ってくれない。水を含みきったワイシャツは重く、冷たく、まるで罪の鎧を着せられているかのようだった。もし“良心の呵責”という言葉を具現化したのならば、きっとこんな重みなのだろう、とあきらは思考の片隅で、うっすらと思う。そしてそう思うほど、別段罪を感じていない自分に、心のどこかで気付いている。
道路に血まみれで横たわる、命をなくした女性を残してその場から離れる。傘をずるずると引きずったまま下を向いて歩いていると、ちょうど前の方から来た男女とすれ違った。背丈のある金髪の男性が傘を持ち、女性がその側に寄り添っている。男は右足を引きずるようにしていた。右手で前腕固定型の杖をついている。もう片方の手では傘を掴み、女性を雨から守り抜いていた。
男は湿ったアスファルトを杖の先で削るようにしながら、あきらとすれ違う瞬間、前方を睨んだまま、早口で言った。
「事情は後でゆっくり話してもらおう。だから今は、俺たちに任せろ」
「大丈夫だよ。あきらちゃんは、ちゃんとお家に帰って、体を温めてるんだよ。風邪を引かないようにね」
気遣わしげに女性のほうも話しかけてくる。あきらは2人に対して顔を背けたまま、一心不乱に歩を進める。傘の握り手に力がこもる。罪は感じていないはずなのに、絶望は去っていったはずなのに、あきらはこの場から速く立ち去りたくてしかたがなかった。
始めは早歩きだったが、路地から離れると同時に走り出していた。浴びた血を隠すため、胸元に鞄を押しつける。通行人の間を縫うようにして、信号に引っかからないことを願いながら、ひたすらに駆けた。顔を俯かせたまま、何かに憑かれたかのように、どしゃ降りの雨の中を疾走する女子高生が周囲の関心を呼ばないはずはなく、顔を上げずとも、自分に集まっている視線をあきらは感じ取っていた。何度か人にぶつかり、舌打ちや怒声をいくつも浴びたが意にも介さなかった。それらの声を振り払うようにして、むしろさらに速度を上げる。もはや傘は、雨からあきらを防ぐ役割を果たしていない。
家に帰る途中、1度だけ、顔を上げた。気付けば商店街に来ており、周囲は買い物客で賑わっていた。
ふくらはぎの強張りを感じ、ふと、足を止める。激しく呼吸をしながら、首を上に向ける。最初に視界に入ってきたのは、ネオンに彩られたパチンコ屋の看板だった。
『コ』の部分の電灯が切れ、『パチン』になっている。その言葉に触発されたわけではないだろうが、あきらは頭の中でシャボン玉が割れるような音を聞き、途端に我に返った。
気が緩み、体中の力が抜け、その場で倒れてしまいそうになる。雑踏に呑みこまれそうになるのに何とか耐え、開いたままの傘を引きずるようにし、覚束ない足取りで店のシャッターに寄りかかる。
何も、考えられなかった。自分がこの手で人を殺してしまったことも、大切な人を殺してやると脅されたことも、すべて夢の中の出来事であったかのように感じた。
あきらはもう1度、パチンコ屋の看板に目をやる。そうしながら、いま見えているこの景色は現実なのだろうか、とふと思ってしまう。仮に夢だとしたら、一体どこから眠り始めたのだろう、とすら考える。
「でも、これでよかったんですよね。直也さん、葉花さん……」
パチン。頭の中で、看板を一度読み上げる。その音は自らを鼓舞する破裂音として、体の底にじわりと響いた。それが鈍いあきらの体を動かす、最大の活力となった。
パチン。重たい体をシャッターから引き剥がし、人々の波に向かって足を踏み出す。鞄を押しつける手に力を込め、傘を差すと、今度は歩いて家路を辿った。
それから、1年後。
5、2010年 8月2日
パチンコ屋の前の汚れた電信柱によりかかり、煙草を吸っている男がいる。
腕時計をちらちらと窺っては、その度に「おせぇな」と苛立たしげに呟いている。だが自動ドアが開き、そこから茶髪の美女が登場すると、これまでとは打って変わった満面の笑顔を見せ、抱擁するのではないかと疑うくらいの勢いと軽薄さで、彼女へと足早に近づいていく。
テレビドラマのワンシーンだ。橘光華は、話の流れも、これは何のドラマなのかということさえ理解せぬまま、漫然とした気持ちでテレビ画面を眺めていた。
光華は自室のソファーで、腕かけにもたれるようにし、酒を呑んでいた。黒いTシャツにジーンズという格好だ。背の低いテーブルの上に転がった、ビールの空き缶を目で確認し、ふっと息を漏らす。10代や20歳になりたての頃は、350ミリの缶2、3本程度では酔う兆候すらなかったはずだ。
なのに、今の光華は同じ量ですでに眠気に耐えられなくなっている。視界が歪み、気を許せば瞼が落ちてしまいそうだ。26、という自分の年齢を思い浮かべ、もう歳かな、と自嘲の笑みを浮かべる。
その時、背後のドアが開いた。かと思うとけたまましい音をあげて閉められ、「おはよう。おぉ……なんて清々しいのだろう。今日もいい日になりそうだ」と、掠れながらも溌剌とした声が聞こえてきた。その声調は、乾布摩擦に出かけるランニング姿の老人を彷彿とさせる。目を向けずとも、それが誰なのか、光華には分かっていた。
瞳だけを動かして声のほうを窺うと、予想通り、そこには大きく伸びをする式原明の姿があった。無地のTシャツに灰色の寝間着という出で立ちで、その中年の男は、カーペットを足の裏で擦るように移動する。
それから光華はダッシュボードの上にある、据え置きの時計に目を移す。最近買ったばかりの、デジタル式のその画面には、『23:20』と表示されていた。外は静かで、時折聞こえる虫の音だけが、暗澹とした空気の中に響き渡っている。
「おはよう。それじゃあ、私はおやすみ」
彼が昼夜逆転生活を送っていることを知っている光華は、気兼ねなく目を閉じた。同じ屋根の下で暮らしてはいるものの、彼の習慣に付き合う義理はない。夢の中に落ちていこうとすると、男の接近してくる足音が聞こえ、さらに彼はこちらに話しかけてきた。
「酒を呑んでいたのか。これは実に、珍しい。ビールの匂いも、ひどく懐かしく感じるな。私は5年くらい、呑んではいない」
「呑まなきゃやってられないっての。将来のこととか考えるとさ、嫌になっちゃうよまったく」
「まだ病院に未練があるというのか。あの、屑のたまり場に。己のことしか考えぬ、金と権力に目のくらんだ亡者たちの蠢く地獄に」
「別に、後悔はしちゃいないさ。ただ、これからどうするんだってことだけが、気がかりさ。貯金切り崩したって、そう長くはもたないだろうに」
数日前、光華はわけあって勤めていた病院を退職した。看護師の免許を取得してから3年間、自分なりに真面目に働いてきた職場だったので、突然辞表を出すと院長に大変驚かれた。金縁の分厚い眼鏡の奥で目を丸くした、あの時の院長の顔を思い出すときだけ、ちくりと胸に突き刺さるものを感じる。しかしもう後戻りはできなかったし、しようとも考えなかった。住んでいたアパートも引き払った。そこまでする価値はあるのか、と今でも迷いはあったが、時計の針が逆に回ることはありえない。全ては、過ぎ去った事なのだと自分を納得させるしかなかった。
結局、院長からの説得を振り切ってまで飛び出してきた職場だったが、不思議と未練はなかった。しかし先のあてがないことに、不安を感じてはいた。これからどうやって生きていけばいいのか、どんな職を手にしていけばいいのか、将来像がちっとも見えてこない。五里霧中という慣用句を、光華は身をもって感じていた。
「なんだ、そんなことか」
煩悶する光華を笑い飛ばすかのように、式原は言った。
「そんなことじゃないよ」
ムッとし、光華は言葉に棘を混ぜて返す。
「くだらないことだ。職がどうとか、明日の生活がなんだとかほざいているのは、所詮下級市民の考えだ。だから所詮、不景気だとかで慌て、取り乱すのだ。惨めな光景だ」
「あんたは、違うっていうのかい?」
式原は光華の隣に腰を下ろした。彼はテレビの方をちらりと見ると、テーブルの上のリモコンをいじり、チャンネルを変える。クライマックスシーンに差し掛かかろうとする雰囲気のあったドラマが消え失せ、代わりに鬱蒼とした森の風景が映った。
「ちょっと。勝手にチャンネル変えないでよ。一応観てたんだからさ」
「君はさっき、私におやすみと言ったではないか。だから私は君が寝たものと認識する。だから今はきっと君はうわ言を喋ってるだけなのだろうな」
しれっと屁理屈を述べながら式原は、光華の太股をズボンの上から掌で撫でるようにした。光華は眉間に皺を寄せ、その足を引っ込める。それから姿勢を正すと、大きく伸びをしながら、髪をぼりぼりと掻いた。彼が異性に性的な感情を抱かないことを知ってはいたが、油断してしまえば朝目覚めたら、両手足を切断された遺体と化していた、ということにもなりかねない。光華は酒気を追い払うようにして警戒心を強めた。なにせ隣にいるのは、何十人もの女性を誘拐し、その遺体を切断したり、腹を裂いて解剖したりして喜んでいる猟奇殺人者なのだから。
「おはよう、今、起きたよ。橘さんが今起きたよ」
「ずいぶん早かったな。5分くらいしか寝てない」
式原はわざとらしく、壁の時計を見上げる。
「おかげさまで、とても充実した5分だったよ。本当にありがたいね」
光華はあくびを噛み殺しながら、皮肉っぽく、言い切る。
「とりあえずだな」
式原は悪びれる様子もなく、足を組んだ。彼の足はフラミンゴのように長く、細い。モデルのほうがまだ栄養や脂肪を持っているのではないか、という気さえする。
「とにかく、私は違う。他大勢の愚民どもとは、もはやレベルが違う。私は、神を指名することのできる、唯一の人間なのだからな。そんじょそこらの愚民どもと一緒にされては、恥だ」
「前から聞きたかったんだけどさ」
光華は目を擦りながら、式原の乾燥した頬を眺める。式原はテレビをじっと見つめていた。どうやら、森の中を飛びまわる小鳥に密着したドキュメンタリーを放映しているらしい。光華はこんな時間に、こんな睡眠を増長するだけの番組を観る人がいるのか、と不可解な気持ちを抱く。
式原はその視聴者の層すらはっきりしないような番組を、食い入るように観賞していた。そのため彼はこちらの投げかけた言葉に対しても無反応だったが、光華はかまわず続ける。
「あんたのその自信は、どっから出てくんのさ。あんたのルーツをぜひ聞かせてもらいたいね」
「いいだろう。私には昔、ある2人の友人がいた」
式原の返事は思いの外、素早かった。光華のほうを向かぬまま、彼独特のとうとうと物語を紡ぐような語り口で、喋りはじめる。
「素晴らしい友人たちだった。そのうち1人は他界したがね。もう1人とも、随分長く会っていない。そして私は彼らとの出会いの中で、片方からは自尊心を、もう片方からは神の加護をもらった」 式原はそこで一旦言葉を切り、笑いを噛み殺したような横顔を見せたあとで、「人は、誰でも神になることができる。彼はそう言っていた」とまとめた。
「その結果が、あれってわけ?」
光華は腰を捻り、首で背後を示す。
今、その対象はキッチンへと繋がる白いドアの向こうにいた。闇夜の中で黒光りする6枚の羽を持ち、鋭い嘴を備え、豪奢な羽飾りを戴く化け物。それがこの家のキッチンに潜んでおり、蠢いている光景を想像するだけで背中に怖気が走った。ドア越しにもその怪物の吐息が伝わってくるような気がして、慌てて光華は式原に顔を向け直す。
そいつに比べれば、人間の殺人鬼などよほど優しい存在なのではないか、とも感じてしまう。
「さて、二条君は囚われの身。シーラカンスは敗れ、死体はくまになり、手駒は脆弱。さて、これからどうするかね」
「だから、私はさっきからそれと同じことを言ってんだよ。これからどうするんだい? 二条の奴がいてくれれば、まだ経済的には安泰だったんだろうけどねぇ」
「まぁ、二条君のことは、そのうち考えることにして」
式原は拳を固め、リモコンを殴りつけるようにしてテレビの電源を切った。衝撃にテーブルが震え、空き缶が揺れ、「もっと優しくリモコンを扱えないのかい?」と注意するが、彼には聞こえていないようだ。式原は首を捻るようにして白いドアのほうに目をやりながら、ぼんやりと言った。
「そろそろ新しい世代に向かうときかもしれないな。命は光だ。だから光は受け継がれていかなければならないものなのだ。そういう名言を残した人がいる」
「誰だい?」
「私の親友だ」
あぁ。そうかい、それは良かったね、感動だ。わざとらしく賞賛し、光華は眉尻を下げた。それから彼の言う、新しい世代という言葉の意味に行き着き、ハッとして彼の顔を見返した。
「新しい世代ってまさか……」
「あぁ。黒城、レイだ」
式原はその少女の名前を、口の中で味わうようにして呟く。光華もその名前をよく知っていたので、たまらず喉を唾で鳴らした。否が応にも、緊張で顔が強張る。「彼女は私の親友と、同じ苗字なんだ。どうだ凄いだろう」と式原がなぜか自慢げに話す声も、どこか遠くに聞こえた。
「レイちゃんを、どうするつもりだい? またさらうとか?」
彼の神経に触れないように、光華は自分なりに最大限の注意を払って、尋ねた。すると式原は思いの外、喜悦に表情を綻ばせ、弾んだ声を発した。
「二条君の置き土産。“フラッシュ・バック・タイプ”の新型を、私も作ってみたんだよ。あれはなかなか楽しいものだ。寡黙な怪人の製作にも、少し飽きていたところだし。ちょうどよかった」
「フラッシュバック? PTSD?」
「そいつらを使おうと思う。種は撒かれた。次は水を与え、肥料をくべる番だ。その役目を、怪人たちに負ってもらおうと思う。どうだ、これが私のプランだ。そしてその人員には」
光華の質問をまるで無視して、式原は続ける。眉を潜め、その身勝手さを忠告しようともするが、彼の目を覗き見て断念した。
少年のように瞳を輝かせ、両手を広げて、自慢げに講釈を垂れている時の式原は、他人の意見を受け流す天才であることを光華は重々理解していた。
唇の隙間からため息を吐くと、光華は前に向き直り、ゆったりと背もたれに体を委ねる。
「聞いているのか、橘君! この私の素晴らしき計画を! 聞く人々、皆が涙を流して止まないこの計画を!」
「はいはい、聞いてる聞いてる。凄いね、天才だよ、あんたは。凄い凄い」
目を瞑り、適当に聞き流す。全く感情を込めていなかったが、それでも式原は聞き手がいるということだけで喜びを感じているのか、喜々として説明を続けた。
もう、どうなってもいい。というのが、正直な感想だった。もうこんなところまで来てしまったのだ。今さら道の1つや2つ間違えても、そう景色は変わらないのではと思えてくる。
このまま眠ってしまっても良かったが、現実と夢の境で、式原が声高に叫んだ言葉がなんだか耳に残った。
「黒城レイを、あの最高の怪人を、神に押し上げる。それが私に委ねられた、親友との約束なのだよ。息子もきっと喜んでくれるはずだ。君もそう思わないか、橘君?」
光華は応じるがままに、1つ頷いた。見ようによっては、ただ無意識に顎を引いただけに見えたかもしれない。しかしその反応を最後に、まだ頭の隅に残っていた酒気に縋りつくようにして、警戒心も持たずに光華は眠りに落ちていった。
レイも、そしてその親友の悠も元気にしているだろうか。自分は彼女たちを、酷い目に合わせてしまった。いくら謝ろうとも、許してもらえるとは思っていない。だけど彼女たちの安全と、健やかな生活を、祈らせて欲しい。それだけが、自分にできるたった1つの罪滅ぼしだと、光華は思っていた。
仲良く遊ぶレイと悠を想像することは、いつの間にか、揺れるばかりの光華の心を安定へと導く拠り所になっていた。
笑みを交し合う2人を心の中で思い描きながら、光華は、暗闇の中を真っ逆さまに落ちていく。
まどろみの中に、意識が、ひきずりこまれていく。