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7.残念令嬢と真夜中の誘惑

 蝋燭の灯を頼りに、寝間着姿でひたひたと無人の厨房に下りていく。

 火を落とした厨房のわずかなぬくもり。調理台には、ナプキンをかけたバスケットがひとつ。

 中にはジャムを巻き込んで焼いたペストリーやクッキー、ホットチョコレートの入ったポットが入っている。

 暗がりの中、調理台の脇に立ったまま、〈私〉はそれらを夢中で貪る。

 

『情けない。ご覧なさい、今のご自分のお姿を!』


 声と同時に覆いを取られたランプの光に目がくらむ。

 ぐいと突き付けられた手鏡に映る〈私〉は、浮腫んだ顔に寝乱れた髪。口の周りにはジャムやお菓子の食べかすがこびりつき、その顔は、まるで……。


『まるで豚鬼(オーク)ですね。このような有様では、貴女など到底――』

「――やめて!」


 自分の叫び声で目が覚めた。

 息が荒い。頬が濡れている。


(夢……)


 私はため息をついて起き上がった。

 寝室の中はまだ暗い。

 それもそのはず、暖炉の上の置時計は、夜中の二時になったばかりだ。


(ゆうべは早めに寝ちゃったから)


 ジョーンズ夫人のケーキと紅茶でお茶にしたのが午後五時前後。

 社交シーズンの今は、誰もが夜に開催される舞踏会やオペラ、晩餐会などに繰り出すが、(パトリシア)は目下、父の命令でその手の集まりは自粛中だ。

 となると、夜は大してすることもなく、少しでもカロリーを消費しようと軽めのストレッチをしてから、ベッドに入ったのが確か九時くらいだった。


(さすがに、起きるには早すぎるか……)


 寝直そうと横になった途端、ふいに空腹感が襲ってきた。

 空っぽの胃袋が、抗議するように大きな音を立てる。

 同時に、脳裏にまざまざと浮かんでくるイメージ。


 蝋燭に火を灯し、寝間着姿でひたひたと無人の厨房に下りていく。

 火を落とした厨房のわずかなぬくもり。調理台に置かれたバスケット……。


 ――夜食症候群。


 ジムの研修で習った言葉を思い出す。

 日々のストレスを食欲で発散していたパトリシアは、間食や夜食が習慣化していた。

 お茶の時間にスイーツをどか食いした結果、夕食はほとんど食べられず、夜中に空腹で起きてしまう。

 そんなパトリシアのために、厨房には常に夜食が用意されていた。

 結果、一日の摂取カロリーの半分近くを夜中に摂ってしまい、朝は胃もたれ、夕方以降に気分が落ち込み、それを紛らすためにお茶の時間にスイーツをどか食いする、という悪循環になっている。


「話には聞いてたけど、これは……キツいわ……」


 私は歯を食いしばった。

 パトリシアの記憶が、ひっきりなしに「食べたい」「食べたい」と叫んでいる。

 食べなければ眠れない。お願い、何か食べさせて、と。

 でも、ここで食べたら悪循環は止められない。


 私はベッドの上で身体を伸ばし、目を閉じてゆっくりと深呼吸した。

 四秒かけて鼻から吸って、四秒止めて、八秒かけて口から吐く。

 呼吸につれてお腹が膨らんだりへこんだりする、その感覚だけに集中して。

 思い出したように襲ってくる空腹感は空腹感として受け入れ、ひたすら深呼吸を繰り返す。

 無理に眠らなくていい。

 目を閉じて、こうして横になっているだけで、身体はちゃんと休息している。


 夢の中で泣いていたパトリシア。

 豚鬼(オーク)なんて言われて悲しかったね。

 待ってなさい。

 私が、あなたをきっととびきりのお姫様(プリンセス)にしてあげるから。


 ◇◇◇


 午前七時。

 紅茶を載せた盆を手に、寝室に入ってきたメリサは、私の姿をひと目見るなり、切れ長の目を瞬かせた。


「お嬢様? 失礼ですが、一体何をされているのですか」

「おはよう、メリサ。これはね……はあはあ……プランクって言って……体幹(コア)トレーニングの一種なんだけど……くぅっ!」


 どべっ。

 情けない音を立てて、私はつぶれたカエルのように床に這いつくばった。

 プランクは、うつ伏せの姿勢から前腕・肘・爪先を地面につき、腰を浮かせて背筋をまっすぐ伸ばした状態を一定時間キープするエクササイズだ。

 筋力のない初心者でもやりやすく、腰への負担も少ないため、安全かつ効果的に胴体を引き締められる。

 前世の私は1セット1分なんて当たり前、ジムでやっていたプランクチャレンジでは毎年優勝するくらいの得意種目だったけど、重量があるのに筋力ゼロのパトリシアの身体では、1セット20秒が精一杯。

 仕方がないので、1セットごとに10秒のインターバルをはさんで3セット、その後、椅子に座ったままで足踏み100回、スロースクワット10回の3種目を3周ほどこなしたところだった。

 おかげで全身汗びっしょり。磨き上げた木の床にも水たまりができている。

 メリサは無表情のまま、紅茶のトレイをベッドに下した。


「……お済みのようでしたら、朝食前に湯浴みをされますか?」

「ええ、お願い」


 湯上りの鏡に映る私の顔は、心なしか昨日より浮腫みがとれて、頬のあたりが少しすっきりしたようだった。

 背後では、メリサが目の細かい櫛で洗い髪を梳いてくれている。

 貴族令嬢の常で、背中の中ほどまで伸ばした髪だが、毎回肩のあたりでギシッと櫛が引っ掛かるのは、その先が傷んでいるせいだ。

 ……ふむ。


「メリサ。ちょっとそこで櫛を止めておいてくれる?」

 

 そう言うと、私は鏡台に置いてあった鋏で、櫛から先をサクッと切り落とした。


「っ! な、何を……!」


 メリサがさすがに動揺した声を上げる。


「何って、傷んだ部分を切っただけよ。後で、全体をこの長さに切り揃えてくれる?」

「ですが、その長さでは巻き髪にしたとき恰好がつきませんが」

「巻き髪なんてしなくていいわ。ハーフアップかひっつめで十分」


 パトリシアは大きな顔を少しでも隠そうと、くるくるに巻いた髪をサイドに大量に垂らしていたが、正直、そのほうが頭でっかちに見えてしまうのだ。


「大丈夫よ。髪なんて放っておいても伸びるものだし、今シーズンは夜会も晩餐会ももう出なくていいんだし」

「ですが、どなたかが訪ねておいでになるかも……」

「あはは。リドリー伯爵家のお荷物令嬢を、わざわざ訪ねてくる物好きがいると思う?」


 私は笑って言ったのだが、どうやらそれがフラグになったらしい。


「お嬢様にお客様がお見えです」


 執事のピアースが告げたのは、その日の午後のことだった……。

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