26.残念令嬢、再会する
階段昇降は、体内のエネルギーを効率良く消費する有酸素運動としての効果が高いと言われている。
下半身に負荷が集中するため、大腿四頭筋や下腿三頭筋といった大きな筋肉が鍛えられ、全身の血行も良くなるというおまけつきだ。
背筋はまっすぐ、視線は正面。上りは踵から、下りは爪先から着地すれば、膝に余計な負担がかかることもない。
というわけで……。
石造りの塔の螺旋階段を、私はふうふう言いながら上っていた。
〈離塔〉と呼ばれるこの塔は、今は建物全体が資料室になっているそうだ。
高さはおよそ260フィート(約80m)。最上階に辿り着くには、実に400段もの階段を上る必要があるという。
前世、ジムの仲間たちと東京タワーの外階段にトライしたときは、150m約600段を5分で踏破した私だが、その時と今では条件が違い過ぎる。
「こっ……こんなことなら、スポーツウェアでくればよかった……」
今日の私の服装は、行き先が王宮ということで、鮮やかな藤色のデイドレスに、ボタン留めのショートブーツ。
メリサに頼んで緩めにしてもらったとはいえ、コルセットでウエストを締め上げ、鳥籠状の骨組みでスカートを膨らませたスタイルは、決して運動向きではない。
ちなみにこのドレス、注文した覚えもないのにいつの間にかクローゼットに入っていたのでどうしたのかと思ったら、なんとお父様が誂えてくださったらしい。
「社交は自粛中とはいえ、流行のドレスの一着も作らないのはあまりに不憫だとおっしゃって」
メリサによれば、今シーズンはパニエに代わり、クリノリンでスカートを膨らませたドレスが流行し始めているそうな。
確かに、ボリューミーなパニエを重ね履きするより、すかすかの骨組みのほうが足さばきは楽だし、第一夏場は断然涼しい。
まあ、いくら楽でも、そこは王宮にも着ていけるレベルのフォーマルドレス。
暑いし窮屈なことに変わりはないのだが……。
閑話休題。
踊り場で休憩を入れながら、何階まで上がってきただろう。
行く手の階段にモップをかけている男の背中が見えてきた。
おそらくこの塔の掃除夫だろう。汚れたシャツに、サスペンダーで吊った毛織のズボン。足元は武骨なブーツといういでたちだ。
狭い螺旋階段の幅は、人二人がかろうじてすれ違えるくらい。
膨らんだスカートで追い越すには、脇に避けてもらわなければならない。
「もし、そこのあなた。お仕事中に失礼しますわ。ちょっと通していただける?」
私の声に、男の背中がぎくりと固まった。
そのままこちらを振り向くことなく、すすす、と無言で脇に寄る。
「どうもありがとう」
通り過ぎざま礼を言ったら、男はさっと顔を背けた。
濃い赤褐色は、我が国の平民層に比較的多く見られる髪色だ。
だが、ほんの一瞬垣間見えた特徴的なアイスブルーの瞳は……。
「ロッ……⁉」
ロッド⁉
息を呑む私を押しのけるように、かつて私の婚約者だった男は、いちもくさんに階段を駆け下りて姿を消した。
「――……」
私はしばらくその場に立ちつくす。
最初から最後まで、あまりいいことがなかった元婚約者とのあれこれを〈パトリシア〉を通じて思い出しながら――。
◇◇◇
本来、十六歳でデビューするはずだったパトリシアは、デビュタントのエスコートを片っ端から断られ、その年のデビューは諦めざるをえなかった。
翌年、二番目の兄であるカメロンのエスコートでデビューすることが決まったものの、デビュタント当日の王宮夜会でケレス王国を揺るがす大事件が勃発。王宮夜会そのものが消し飛んでしまう。
結果、その日にデビューするはずだった令嬢方の大半が翌シーズンにデビュタントを持ち越し、パトリシアのデビューもお流れとなった。
そしてその一年後。パトリシア十八歳の冬――。
「いい加減にしないか、パトリシア!」
外の廊下で、長兄のマルコムが怒鳴っている。
デビュタントの白いドレスに身を包み、パトリシアは枕に顔を埋めて泣きじゃくっていた。
「嫌よ。デビュタントのエスコート役がよりによって平民だなんて!」
この年、社交界の結婚市場は、特に家格の低い令嬢たちにとって、空前の売り手市場となった。
というのも、前年に起きたある事件が原因で、上位貴族の令息たちがこぞって花嫁探しに奔走していたからだ。
普通なら伯爵以上の家柄に嫁ぐことなど夢のまた夢といわれる子爵令嬢や男爵令嬢が、この年ばかりは求婚の申し込みが引きも切らず、嬉しい悲鳴を上げていた。
そんな中、由緒正しい伯爵家の令嬢であるパトリシアには、さぞや多くの求婚者が群がるだろうと思われたが……。
「仕方ないだろう。お父様も僕も手は尽くした。だが、初婚の貴族男性は誰もうんと言わなかったんだ!」
「だったらカメロン兄様は? 去年は引き受けてくださったのに!」
「カメロンは先週、赴任先のガザズに向けて出航した。ちなみに、どうせ訊かれるだろうから言っておくが、お父様と僕はこの後夜まで王宮で仕事、息子のデイヴィッドは今、おたふく風邪で寝込んでいてエスコートは無理だ」
これを聞いたパトリシアは、さらに大声で泣き出した。
(どうして? どうして私ばっかり、こんな目に遭わなきゃならないの……っ!)
自分よりはるかに家格で劣る令嬢たちが、大勢の求婚者に囲まれる中、パトリシアはどこへ行っても誰にも相手にされなかった。
今回のパートナーも夜会当日まで揉めに揉め、今朝になって、ようやく承諾の返事を寄越した相手は、父の平民の部下だという。
その平民の男でさえ、望んでパートナーになるわけではない。
父の命令に従ってしぶしぶだ。
女の子にとって結婚式に次ぐ晴れの日に、そんな最低の相手しか得られなかった事実に、パトリシアは心底傷ついていた。
(そんなに皆、私のことが嫌いなの? そんなに私は醜いの⁉)
むくりと身体を起こし、鏡の前に歩いていく。
デビュタント用に誂えた純白のドレスは皺になり、早朝から念入りに施した化粧は、涙と汗でぐしゃぐしゃになっていた。
ぱんぱんに浮腫んだ顔の中で、泣き腫らした目蓋と鼻先は赤く、唇はへの字にひんまがっている。
コルセットで締め上げても大木のように太い胴。喉や肘の内側には、白粉を塗っても隠しきれない湿疹と掻きむしった痕がある。
「いやだ。本当に豚鬼みたい……」
パトリシアは、ぽつりとつぶやいた。
自分は醜いでぶなのだ。
今まで必死に目を背けてきた現実が、ふいにすとんと腹落ちした。
(そうか。だから誰一人、私を好きにならないのね)
王立学院の生徒たちも。
父も、二人の兄たちも。
今も、おそらくこれからも――……。
そのときだった。
気忙しいノックの音とともに、ふいに一人の若者がずかずかと部屋に入ってきたのは。