第33話 夕星・18 ~悪夢~
目が覚めた時。
夜明けまでまだ少し時間があるらしく、辺りはまだ薄暗かった。
回廊から室内に誰かが入ってくる気配を感じて、夕星は寝台の中で半身を起こす。
最初は宿直の小姓が何か急な用件を知らせに来たのかと思ったが、辺りの空気に慌ただしさがない。
夜の空気は乱されることなく、静けさを保っている。
不意に部屋にいる人物が誰かわかった気がして、夕星は寝台から飛び起きた。
「シオどの!」
ミハイル伯との一件で諍いを起こして以来、シオは一度も夕星の下へはやって来ていない。
夕星はうるさくならない程度に、文を送っている。
謝罪の言葉を書き連ねてはきっとシオの負担になるだろうと思い、庭の風景、動植物の様子、季節の移り変わりの話に、シオの体調や環境を気遣う言葉を添えている。
返事は一度も来なかったが、それでも良かった。
こうして文を出し続けていれば、シオが何かに頼りたくなった時に頼りやすいだろう。
そう思っていた。
自分のことを許す気になれないのならば、それでもいい。
突然また怒りがぶり返し、それをぶつけたくなったのであればそれでもいい。
シオに会いたかった。
夕星が御帳の外へ飛び出す直前、外にいた誰かが帳をまくり上げ、中に入ってきた。
夕星とその相手はちょうど真正面から、ぶつかるような形になる。
入って来た相手は、よろめいた夕星の体を片手で支える。
シオよりは明らかに背も高く、肩幅もあり、体も大きい。
常夜灯に照らされた相手の顔を見上げた夕星は、驚愕で大きく目を見開く。
「殿下……」
「黄昏の姫君。ようやく、お会い出来た」
アシラスは微笑み、呆然としたように自分を見つめる、夕星の頬を撫でる。
夕星はその手を振り払い、後ろへ飛びすさるようにして逃れた。
「なぜ……なぜ、ここに……?」
「あなたに会いに来た」
アシラスは御帳の中に入り込むと、ゆったりとした動きで寝台を背にして震えている夕星のほうへ近寄る。
「来ないで……来ないで下さい」
夕星の叫びに、アシラスは微笑んだまま、僅かに怪訝そうに眉をひそめた。
「私が来ることは……ご承知いただいているかと思っていたが」
夕星は、激しく首を振る。
「し、知りません。殿下、お願いです。お帰り下さい」
「しかし、公は……」
アシラスが独り言のように漏らした言葉に、夕星は表情を凍りつかせた。
「公……? シオどのが……?」
顔を強張らせて立ち尽くす夕星を見て、アシラスは薄く微笑む。
「ああ。公は私に、あなたと過ごしてもいいと許しをくれた。夕星どのも承知の上だから、忍んできやすいように人払いもしておくと」
「嘘だ……」
夕星は凍りついたように瞳を見開かせたまま、呟いた。
「シオどのが……シオどのが、ひと晩、あなたに私を許すなど……」
「ひと晩?」
アシラスは眉を上げた。
半ばおかしそうに半ば気の毒そうに夕星を見る。
「姫、私はあなたを迎えに来たのだ。我が城へあなたをお招きするために」
夕星は何か信じられないものでも見たかのように、アシラスの顔を凝視した。
アシラスは微笑んだ。
「ククルシュ公とは、もう話がついている。公とあなたは離縁する。あなたは私の養子となり、爵位を授与され宮廷に伺候することになる。その代わり私は、前から言われていた、東方の港を通る船の通行許可の審議を公に任せることにした。念願だったようだからね、喜んでいらしたよ」
「近寄らないで下さい」
動こうとしたアシラスに、夕星はありったけの声を投げつける。
アシラスは怯える小動物を見るような眼差しになり、優しく、だが断固とした手つきで夕星の体に手を伸ばす。
捕らえられる直前に夕星は身をひるがえし、アシラスの体を突き飛ばすようにして、御帳の外へ飛び出た。
アシラスは特に慌てた風もなく、体勢を立て直す。その端整な顔には、夕星の抵抗を楽しんでいるかのような余裕さえあった。
「逃げ場所など、どこにもないのに」
回廊や他の棟に行けば、屋敷の者やアシラスの部下に見つかるだろう。そうすれば、すぐにアシラスの城へ連れていかれてしまう。
夕星は部屋の外に飛び出すと、裸足のまま夜の庭の中へ出た。
月明かりの中、庭を走り、縄梯子が揺れるシオがいるはずの星の棟を目指した。
★次回
「第34話 シオ・16 ~渡さないで~」