1:地底からの呼び声
オレこと吾妻月比古には悩みがある。ここ最近、我が家だけが、よく地震で揺れるのだ。
四六時中というわけではないし、『湯呑のお茶に波紋ができてるな』と思う程度の時もあれば、戸棚の食器が激しく鳴り出すこともある。昨夜などは畳が持ち上がるほどに家が揺れて、祖父ともども喚きながら家の外に逃げ出したりもした。しかし、路上に出てみると辺りは全くの平穏で、道行く人々から奇異の目を向けられる羽目になった。
奇異に見られた最大の理由は、きっと祖父がふんどし一丁だったからだ。くそ、あんなに外に出る時は服を着ろと言っておいたのに。たまたま月比古自身が似たような格好だったのも痛恨の極みだ。
「爺ちゃんが慌てて逃げるからオレも釣られちまったじゃねーか!」
照れ隠しにバカでかい祖父のわき腹を肘で突っつくと、突っつき返された。
「なぁにを言うか月比古!お前の方が玄関の敷居を跨ぐのが先だったように見えたがな!」
「そりゃそーだろ!オレの方が足が速いんだから!」
やがて他愛ない小競り合いは路上での取っ組み合いにエスカレートし、余計恥ずかしい目を被った。おのれ爺ちゃんめ。
月比古の登校中にも我が家は断続的に揺れていたらしい。これでもう3日目だ。
なぜ我が家だけが揺れて、周りの家が揺れないのか?――だが、原因に心当たりがないわけでもない。
なによりも我が家は古かった。古くてボロい。祖父によると、元は神社の拝殿かお堂的なものだったらしい。基礎だけで言えば千年以上昔の物だそうだ。
そして建て替えられることもなく、むやみと修繕と改築、増築が繰り返されてきた。先祖代々金がないため、伝統的に資材はもっぱら拾い物だ。
それが千年間。もしかすると、基礎以外にも千年前のパーツが家のどこかに使われているのかもしれない。
内装もひどいもので、畳はどこもかしこもささくれ立ち、一部では盛大に藁が露出している。均一に畳が荒れているのは、壁際のちょっとマシな部分とそうでないところを頻繁に入れ替えているせいだ。しかし、それも明らかに限界に達していた。屋根を支える柱や梁もなんとなく傾いていて、自重で建物全体がなんだかゆるい台形になっている。地震が起これば何よりもどこよりも先んじて倒壊し、危険を近隣住民に知らしめる役割を担っていそうだ。
で、その近隣住民だが、この吾妻家とは異常なほどに折り合いが悪い。なんでも、我が家が古墳を不法に占拠しているからだそうだ。吾妻家を取り巻くニュータウンに奇病が蔓延しているのは、その祟りであるらしい。
――ふぅむ、見たところ、我が家は新興住宅地のただ中に聳え立つ、直径30メートルばかりの丸い盛り上がりのてっぺんにある。言われてみれば円墳に見えなくもないが、不法に占有しているとは言われたくない。なにしろこの円丘、月比古の幼い頃には人の寄り付かぬ、呪われた沼地の真ん中の島に過ぎなかったのだ。
かつて、広い沼の周りには巨大にして鬱蒼とした樹林が取り巻いて生い茂り、内部は昼なお暗く、霧と瘴気の立ち込めた、本能が著しく危険を訴えかけるような禁足地だった。しかし今は見る影もない。森は一部を除いて伐採され、沼はすべて埋め立てられて分譲の新興住宅地が造成された。つまり、我が家周りを丸く切り取ったのは不動産ディベロッパーだ。その結果、円墳に見えているだけなのだ。
想像するに、住宅地を睥睨するように立つ我がボロ家が見苦しかったのが発端だったのだろう。最初は建て替えろ、みたいな注文だったが、言うことを聞かないでいるとやがて投石や落書きが始まり、遂には放火にまで及んだ。我が家が耐火と籠城戦の機能を持ち始めたのはその頃だ。家が廃材の吹き溜まりみたいな外観になってしまったのも、その所為だと思う。美的センスは関係ない。
最近、物理的な襲撃の頻度は減りつつあるが、代わってなにかと理由をつけて立ち退き要求がうるさくなった。力づくでは通用しなかったので、合法的な手段を模索し始めたと言ったところか。
今も夜が近づいているにもかかわらず、町内会の新会長が家に押し掛け、祖父との口論の声が響いていた。建付けも悪いので、耳を澄まさずとも会話の内容が漏れ聞こえてくる――。
「アズマさんッ!この土地は我が国の貴重な文化財なんです!ここは古代の貴重な古墳らしいじゃあないですか!あんたのようなゴミみたいな無職のジジイが占拠して良い場所じゃあないんですよ!」
「はっはっは、ご挨拶ですなこのジジイ。生憎とこの土地は先祖代々受け継がれた我が一族の領地なのです。むしろ、周りの沼地も我が家の堀みたいなものだったと考えると、勝手に占拠しているのは果たしてどちらの方ですかな?」
(さすがだ。オレなら、到底会話になるまい)と月比古は聞いていて思った。自分ならとっくに手が出て警察を呼ばれているだろう。
だから、彼は決して玄関には出ることなく、朝食の食材を得るために床下への蓋を開け、コンクリで作った手製の階段を下りて地下の野菜室に降り立った。
長方形の野菜室は、縦3メートルに横幅2メートル。周囲は四角く加工された石レンガの壁だ。
そして中央には石棺が鎮座している。
――石棺?やっぱり古墳じゃないかって?ふむん、確かに、赤と黒の染料で描かれた稚拙な壁画といい、一面の謎の文様といい、第一級の遺跡に見える。しかし、記されている中身が奇怪だった。
壁画の内容はこうだ――直立する蟻のような生き物が大勢、銃を持って敬意を払うかのように立ち並び、その目線の先には割れた卵、そしてそこから生まれた巨大な横顔が描かれている。その謎の横顔は随分と唇が分厚く、薬物依存でラリッたような目で宙を見据えていた。だが、隣の壁には続きがあって、ラリッた横顔が雷のようなギザギザをいくつも放射し、大きな球を丸く取り巻く、いくつもの小さな球を襲っているのだ。
この絵は見るからに年季が入った代物だった。しかし、そこに太陽系らしき物体が描かれているとは。中心から5番目の球は大赤斑があって明らかに木星だし、6番目の球には輪がある。4番目と5番目との間にはアステロイドベルトもあるし、破壊の雷は、正確に3つ目の球、すなわち地球を砕いていた。
いかにも嘘っぽい絵だった。
絵を古く見せる手法なんて贋作師にはお手の物だろうし、知ったばかりの事を昔から言い伝えられているように見せかけるのは、全世界的に先住民がよくやる手口らしい。わが民族では、遥か昔から言い伝えられていたのだぞ、みたいな。だからなおさら、これは嘘くさい。
ただ、この石室は――じゃない、野菜室には不思議なことがあった。異常に気温が低いのだ。地下であることを差し引いても、春のこの時期に零下5度。おかげで野菜の持ちが良い。すごく乾燥もしているのか、食べ物を漁りに来るネズミどももたちまちミイラになって転がってしまう。
なによりも凄いのは石棺だった。内部の気温は計測できないほど低く冷えている。しかもどういう仕組みか、時々内部が無重力になるらしく、重い蓋を開けてしばらく中を眺めていると、どこからともなく聞こえてくる神話的な謎の囁きとともに、たくさん詰まっている漬物石みたいな重い石が宙に浮いては落ちを繰り返している。少し不思議だ。
「――我が家の地下に?はッ!石室がありそうですと?バカは休み休み言いなさい。そんなものがあれば、腹を掻っ捌いて果ててくれよう!」
祖父が啖呵を切っている。いいのか、そんなこと言っちゃって。
(ま、爺ちゃんが約束を守るなんてことはないか)
そう思っていると、また地面がミシミシ揺れ始めた。そろそろ石室を出よう。下敷きになったらコトだ。昨日までこの部屋は千年もったかもしれないが、千年と1日目に崩れ去る可能性だってある。運命なんてそんなもんだ。絶対的なものなんて、この世には存在しない。
「そもそもこの家は呪われているんですッ!知りませんかッ!時折深夜に人魂の群れがあんたの家の周りを取り巻いているのをッ!」
町内会の新会長が声を張り上げている。どっかの会社の会長らしいが、元気な爺さんだ。
「ほう!それは興味深い。では一匹捕まえて見せていただきましょうか。その……え?なんて言いましたか?ひとだま?でしたっけ?プッ」祖父が小ばかにした物言いで言い返す。
「住宅地の惨状もご覧になられたらどうです!」会長の声は、ほとんど金切り声に近かった。「新規分譲地は40戸、その半分も入居が埋まっていない上に退去者が続出しています!妙な奇病に罹ったからです!医者もお手上げで、老いも若いもどんどん衰弱していっている。死亡者もでてるんですぞ!これが祟りじゃなくてなんだというんですか!」
「だから、その祟っている奴を連れて来いと申し上げているんです。目の前に来たら、ふむ、ワシ自慢の爪とコブシで見事うち砕いて進ぜよう」
「ぐ……!あんたらのような腕っぷしだけのアホ家族がいるだけで町の治安は悪くなるんですッ!いいですかッ?あたしは前の会長ほどお人好しではありませんからなッ!」
会長はそう言い捨てて、激しく扉を閉めて出て行った。ちなみに、今帰って行った爺さん――新町会長の梵馬寒渋郎の自宅は道を挟んだ吾妻家の真正面、400坪の敷地を誇る大邸宅だ。同じ和風でも、あっちは最高級の新築木造建築だが、丸い丘の上に建つ我がボロ要塞は、高さだけは勝っている。それが気に食わない理由の一つかもしれない。
月比古が上に出てみると、祖父が両手の中指を立てて新会長を見送っていた。今日は行儀がいい。前は尻を向けてフンドシを解いていたせいで、駐在さんに連行されてしまったからな。
「おお、月比古。ちょうど今、梵馬のジジイを追い返したところだ」
野太い声で、笑顔の祖父が振り返った。晴れ晴れとした表情だ。そして相変わらずフンドシ一丁だった。この姿で接客したとは。いつも通りではあるものの。
「ああ、聞いてたけど……」
月比古はまじまじといかめしい祖父の姿を見つめた。
孫の目から見ても、祖父の容貌は猛獣と見間違えそうなほど巨大で恐ろしい。なんでこんなライオンみたいなのがうちの祖父なんだろうと、ぼんやり考えてしまうことがある。しかも左眉から頬にかけて縦に刀傷が走り、左目が白濁していて、残った右目もキツい藪睨みだ。こんなのと論戦ができるなど、あの新会長も只者ではあるまい。
「肉も魚も使い切ってたみたいだから買って来るよ」月比古は、買い物袋代わりの風呂敷をポケットに押し込みながら言った。唐草模様の素敵な柄だ。
「魚、なぁ……たくさん捕まえたのに、もう使い切っちまったか……」祖父は太い掌を上向けて、ニュッと爪を引き出した。丸い肉球は、長年の闘争の為かカチコチになっている。「……やはり、手掴みでは限度があるなぁ」
「ネズミにも喰われてたし」
「そのネズミを喰えばいいじゃないか!ワシとお前以外、野菜室に入って、生きて出られる者などいるまい」
「だから!それは昨日の夕飯で喰っちまっただろう?」
「そうだったかな」
「まあ、途中でイノシシでも見かけたら仕留めておくから」こともなげに月比古はそう言って玄関に向かった。
「ワシも何か狩ってこようか?」のこのことついてくる。
「狩らなくていい。買って来るんだからな」
何の気なしに返答した月比古は、急に気になって祖父に指を突き付けた。「ずっと言い続けてきたが改めて言うぞ。犬や猫には絶対に危害を加えるなよ。今日の獲物だぞ~と言ってぶら下げて帰ってきたら家族の縁を切るからな。もちろん野良でもだ。毛一筋でも傷をつけたら、オレは……爺ちゃんを殺す」
「あ、あれはアライグマだっただろ?」祖父は動揺している。先年、太った飼い犬を四つん這いで追いかけていた祖父を、月比古が横から田んぼに蹴り落としたことがあったからだ。
「アライグマならいいさ。奴らは害獣だからな」
育てていた野菜を全てアライグマに食われ続けて何年にもなる。世話になっていたスイカ畑の人が自殺したのは、アライグマに2年続けてスイカを全滅させられたことと無関係ではあるまい。奴らのスイカの食べ方には特徴があって、決して見間違えようハズがない。
「だったら昆虫なら?」
「昆虫もオッケーだ。カブトムシの幼虫なんかは旨いしな」味を思い出して、月比古はちょっと唾液が湧いた。
「蟻ならどうだ?」
――だが、祖父は妙なことを言い出した。蟻?
「……蟻なんて食べるところ、ないだろ?あれか?多量に捕まえて揚げたりするのか?いくらオレでもゲテモノ食いなんて少ししかしないぞ」
「デカい蟻ならどうだ?」更に祖父が食い下がった。なんだ?遂に変になったか。
「どれくらい?」
「ワシぐらいデカい奴だ」身長220センチ越えの祖父が胸を張る。
「そんな蟻がいるか。いい年して不思議の国のアリス症候群かよ。寝言は寝て言え」
――不思議の国のアリス症候群とは、脳神経の炎症で遠近感覚が混乱し、物の大小が異様な見え方をしたりする病気であるらしい。小さなものでも、近くにあると大きく見えてしまうそうだ。
「いや、実を言うと、昨日の深夜、家の周りをうろうろしていて……。それも大勢な……」
――後で思うと、この祖父の話はもっと身を入れて聞いておくべきだった。だが、警告は往々にして手遅れになるものだ。常識に反するものならば、特に。
(……蟻、か)
ふと、視線を自分の机の上にさ迷わせた。そこに飾られた、ビニール袋に包まれた何か。
隠してあるが、そこには不思議な石がある。
奇妙な蟻?の絵が描かれた野菜室から持ってきたもので、石棺の中にあったものの1つだった。形状や大きさは、まるでスパッと綺麗な切り口で割ったようなガチョウの卵だ。材質は黄色い宝玉みたいで、壁画に似た名状しがたい文様がなかなか気に入り、取り出して机に飾ったのが先週の話だった。
それは、見れば見るほど素晴らしい石で、素晴らしい模様だった。見つめていると、まるで魂を吸い取られてしまいそうな感覚がする。握れば、なぜかその石は惑星ぐらいもある途方もない巨大質量をもっている気がして、人間なんて所詮卑小な存在だと分からせてくるような『意志』を感じもした。石だけに?いやいや。
もちろん、月比古はそんな『意志』に打ちのめされたりはしない。彼にとって、壁とは乗り越えるものではなく、常にぶち破るものだ。従え押さえつけようとする者には、踏みつけ拳で分からせてきた。だから、この石は心を鍛えるのにちょうどいい。
祖父からは、石棺の中のモノは決して取り出してはならぬし、蓋も開けっ放しはならぬと言われていたが、訳を訊いても返事は、『さあ?』とか『世界が滅ぶとか言ってたな?』みたいなあやふやな答えが返って来るだけだった。一応、それと分からないようにコンビニ袋で綺麗に覆い、ついでに簡単な顔を描いておいた。祖父なら気づけはしないだろう。だが下手な絵を馬鹿にされたので、殴り合いの喧嘩になった。祖父には所詮芸術なんてものは分からぬものさ。
「――じゃあ行ってくる」
月比古はすげなく言い捨てて、家を出た。
ふと気になって、丘の斜面に目を凝らすと、かぎ爪のような大きな足跡が無数に地面を覆っていた。巨大な蟻が歩き回ったとすれば、こんな感じになるか――。
「……バカバカしい」
痛いぐらいにまばゆい夕日を浴びながら、月比古は道を急いだ。
まるで、世界の終わりを導くような、血のようにどろりと赤い、壮絶に不気味な夕日だった。
道に落ちる、自分や建物の影が、妙にくろぐろとねっとりしている。
――思えば、家を出るべきではなかったのだ。ケチが付き始めると、とことんついて回るのは、実感としてあっただろうに。
何かから追われるような不安に足を速め、来店音と共にコンビニの人工灯を全身に浴びて、ホッとしたのもつかの間、
「おう月比古……なにデカいツラァしてこんなところで買いもんしてんだよ……」
3人組の青年に絡まれた。
リーダー格は、さっきの町内会会長の孫、梵馬晶彦だ。あとの二人は知らん。月比古と同じ制服なので、同じ高校に通っているっぽいが。
「……」
月比古は無視した。この手の輩は無視するに限る。
「判ってんだろぅなぁ?」
なのに、晶彦は顔面を近づけてねっとりといちゃもんをつけてきた。「うちの爺ちゃんが町内会の会長になった以上、てめぇの居場所なんてこの町にはないんだよぉぉぉ!」
「つ、月比古君ッ!」
レジからオーナーが慌てて飛び出した。最近店を八百屋からコンビニに改装した、馴染みの店長だ。通称松っつぁん。月比古親子とは本当に付き合いが長い。
だから、十分に少年の人となりは理解できているのだ。
吾妻月比古という少年は、見た目、祖父と全く似ていない。
どんな遺伝子が悪戯をしたものか、ライオンが努力して必死に人間の振りをしているかのような祖父とはまるで似ても似つかない、小柄で、端正な美しい少年だ。
だが、それは逆に言うと、こんな物々しい雰囲気の中では弱く見えるというか、頼りにならなさそうな印象を与える。実際、クラスでは身長は一番低く、女子の平均にすら及ばない。彼のことをよく知らない腕っぷし自慢の男連中にとっては、容易く組み伏せてしまいそうな貧弱さを感じさせてしまうだろう。
しかし、オーナーは知っている。この月比古少年が持つ、外見を裏切る苛烈なまでの暴力性を!
「おらぁ!」
晶彦の遠慮ない手刀が、月比古の買い物かごをはたき落とした。
「……」じろッと睨む美少年に、晶彦は嬉しそうな視線を返す。「怒ったか?怒ったのか?ザコでも目つきだけは一人前だな!」
「おラ!晶彦さんが声をかけてくださったんだ。無視するな!」2人の取り巻きの一人がすごむ。
「それとも腕づくで追っ払われたいかぁ?」そう言ったのは、最後の取り巻きだ。
「……はぁ」月比古はため息をついて髪を掻き上げた。「面倒だな……」
「なにをッ?」
「……ここでは店に迷惑がかかる」正面を向いて月比古は鋭く睨みつけた。「外に出ろ……」
「上等だ!」
そう言って晶彦は出口を振り返り、月比古に背を向けた。「逃げんなよ、てめ……」
――最後まで言えなかった。突然の月比古の押し出すような全力の蹴りが、晶彦の背を襲ったのだ。吹っ飛ばされた晶彦は逆向きに自動扉に叩きつけられて扉ごとガラスを粉砕し、駐車場にまでごろんごろんと転がった挙句、でろんッと舌を突き出して仰向けに気絶した。
「てめぇ!」
取り巻きの一人が身構えた時、月比古は既に懐に入り込んで攻撃を見舞っていた。
身を低くして鳩尾への強烈な肘打ち、続けて裏拳による喉への痛撃。苦鳴を上げてよろめく取り巻きの下顎に、月比古はもう一方のこぶしで強烈なストレートを叩きつけた。そいつはオモチャのように吹っ飛んで床に転がり、泡を吹いて悶絶する。
「――!」
最後の一人は動揺した。見た目とギャップのありすぎる月比古の行動に、意識がついていかないのだ。
しかし、この最後の取り巻きは暴力に馴染みがあった。弱い者いじめなんて、特に特に大得意だ。このチビは、今は背を向けている。一瞬でカタをつけてやれる――と思ったのも無理はない。
だが、取り巻きの振り下ろしの右を、月比古は背を向けたまま手の甲で弾いていた。視線すら全く向けようとしない。
「ば、馬鹿にしやがっ――!」
やはり最後まで言えなかった。
月比古の腰の入った肘打ちが腹を打ち、ごほっ!と身を折った顎へ、強烈な裏アッパーが炸裂したのだ。
青年はとんぼ返りをするようにもんどりうって陳列棚に頭からぶつかり、商品を撒き散らして棚ごと倒れて動かなくなった。
「アあ~~ッ!」
松っつぁんオーナーは頭を抱えた。絶対、こうなると分っていたのだ。
「ごめん、松っつぁん」
残心に両こぶしを構えながら、月比古は済まなさそうに横顔を晒した。「弁償は、外に転がった奴にしてもらってくれ」
そんな身勝手なセリフをいけしゃあしゃあと月比古は述べると、流石に居たたまれなく思ったか、何も買い物せずにそのまま店を出て行った。
「……はぁ」
松っつぁんオーナーは惨状を見下ろしてため息をついた。新しい町内会の会長とはろくに付き合いはない。新興住宅地に最近引っ越してきたばかりの奴だ。心情的には、月比古に味方したいのだ。
(ま、この被害は呑むか……)
一体いくらかかるのか、とオーナーはめまいを感じながら心中で呟いた。店の改装にヤバい所から借金をしてしまったせいで、気が重い。だが、新会長に敵対したくもない。できれば波風立たずに生きていきたいのだ。それは、この穏やかな村全体に通じる気持ちだった。新興住宅地の連中がひたすら異質なのだ。まるで悪霊が憑り付いている風にすら思う。……まあ、それも無理なからぬことだが。
(……月比古君たちには、日ごろからお世話になってるからなぁ)
結局、そう思うことで自分を納得させた。
だが、それはそれとして――
「救急車、呼んだ方がいいかなぁ……」
依然、倒れて気絶したままの3人組に、オーナーは困ったため息をついた。
夕食は、野菜中心の質素なものだった。
月比古は手料理が得意だ。大体ありもので、元の材料を想像しにくい料理を作る技術がある。
断続的な地震が襲い掛かる中、正体不明の煮物をちゃぶ台に置いて、祖父と孫は漫然と食事を進めていた。
「……そういえば、松っつぁんの店で会長の孫が喧嘩を売ってきてなぁ」
「ほう」
「取り巻きともどもぶっ飛ばしてやった」
「それはグッジョブだ!」
汁を啜りながら、祖父は箸を持った手で親指を立てた。
「あとで何か言ってくるかもしれないが」
「気にするな。慣れてる」そう言いながら素早く残った食事を掻き込んで椀を置くと、祖父は壁にかかっていた縞柄の小袖を着流しに身に着けた。江戸時代の町人みたいな格好だが、祖父が持っている衣類は、これと法被ぐらいだ。生地のあちこちが痛んでいる上にツギハギなので、そろそろ寿命がくるだろう。
「どうした爺ちゃん、珍しく衣類なんか身に着けて」
「梵馬のジジイが人魂とか言い出しやがってな。怪奇現象に見せかけて放火に及ばないか、ちょっくら見回りに行ってくる」
「そっか……」月比古も、絶対にあいつを新会長なんて呼ばない。
「……前の会長さんはよかったよなぁ……」
しみじみと月比古は呟いていた。
脳梗塞で倒れて入院してしまったが、前会長は月比古達に何かと用事を頼んでは、給金をはずんでくれたのだ。
「川を掃除したときなんかさぁ……」
川のどぶ攫いを、たった2キロの距離で5万円も弾んでくれたのだった。川幅もたった15メートル、引き揚げたドブやゴミは重さ20トンほどにもなったが、お金を払って役所に引き取ってもらったらしい。しかし、まさかコンテナごと10トントラックが沈んでいたとは。さすがの祖父も、引き上げるのに全力を要した。あれ以来、腐臭の漂う川の水はすっかり澄んで村の名所となり、蛍の姿を見かけるようになった。
冬になれば、よく雪下ろしの依頼をされるようになる。
『1軒100円出すから』と前会長に頼まれ、祖父と二人で村中の屋根を半日でやり終えた。腕に覚えのある村人は多いのだが、冬にはどうしても出稼ぎに出てしまうので、人手が足りなくなる。そんなことが1シーズンに十回はあるので、いい収入源になった。
川の堤防が決壊しそうだと駆けこまれた時は、あの時は本当に苦労した。祖父が堤防擁壁を支えて決壊を最小限に塞ぎ、その間に月比古が大岩を山から多量に運んで積み上げた。途中で村人も大勢応援に駆け付け、決壊はかろうじて免れた。あの時会長がくれた謝礼は3000円だった。2人合わせて6000円。実に太っ腹な会長さんだった。
「いや、値段の交渉はしたんだがな……」祖父はそう言って顔を顰めた。「しかし、どうにも押し切られるのだ。いや、本当に凄い会長だった……」
何もしなくとも、村の人々からよく様々な品物をいただいてもいる。それがあるからこそ吾妻家は生活できるようなものだ。一番多いのは村の農作物で、酒や嗜好品、古着の類を貰うこともある。ただ、時折毒物が混じっていて、農薬が入っていた500㏄ペットボトルをつい丸ごと飲んでしまった時などは、一寝入りするまで月比古は少々体調が悪かった。あれはきっと新興住宅地の奴らの仕業だろう。
「頼んだ爺ちゃん」
本当は2人で行った方がいいかも知れないが、宿題も残っているので1人で行ってもらおう。なに、祖父なら、相手がどんな武器を持っていようが、どんなに狂暴で凶悪だろうが、圧倒できるハズだ。なぜなら、祖父こそ誰よりも狂暴で凶悪だからだ。
「こんなことを言うのもなんだが、月比古、暴力沙汰もほどほどにな」
「暴力なんて振るう気はねーよ」本心から月比古は言った。「みんな仲良く過ごせたらどんなにいいかとよく思うよ」
「いやいや気をつけろ?」祖父はしたり顔で忠告を続ける。「お前は誰よりも狂暴で凶悪だからな」
「は?……爺ちゃんには言われたくはないな!」
「いや、本気の本気でな、ワシはお前にはかなわねーよ……」なぜかしみじみという祖父だった。
「またまた!」
「いや、本当だって!」
そう言い合って、なんとなくこぶしをぶつけ合う。
ビシンッ!
その時、不意にトタン屋根に何かがぶつかって、2人は嫌な顔をした。
「投石か。割とでかい石だな……」
「ここ何日か、投石が激しくないか」この高さまで大石を届かせるには、かなりの投擲力が必要だろう。
月比古の疑問に、祖父は頷いた。「新会長の差し金だな。なんでも、先週ぐらいから夜になると、我が家から空へと向かって、ぼんやりとした光の束みたいなのが見えるそうだ」
「そんな謎のエフェクトが?」
半信半疑に月比古は訊き返した。何の気なしに壁を見たが、外は窺えない。窓は末期の要塞のように潰してある。家全体がまばゆいくらいに輝いていたとしても、気づけないだろう。
「それが神秘的な輝きに見えるらしいんだな。だからいっそう、この場所が神聖な場所に見えるんだと」
「それは一度確認しておくべきだと思うぞ爺ちゃん」
皿を流し台に置いた月比古は、玄関を開ける前に今一度、身だしなみを気にして体を見下ろした。祖父と同じように思われるのは心外だ。
そこへ、ぐらぐらと大きめの地震が襲い掛かった。
「ふぅむ」祖父が天井を見た。「今回はちょっと大きそうだぞ」
しかも、なかなか終わらない。
「……もしかして、その光が地震と連動してるってことはないだろうな」
「地震を引き起こす光ってことか?」祖父は首をかしげる。
「いや逆だ、地震が起きるから光ってるんじゃね?ほら、地震雲とか噂あっただろ?実際には気のせいらしいが」
ゴゴゴゴ……
――少し強めに家が揺れだした。
「ふ、馬鹿も休み休み言え。迷信にしか聞こえん」祖父は鼻で笑った。
「まあ、地震は3日前で、光は先週からって言うんなら、因果は逆かもしんねーが」
「相変わらず考えが足りんな月比古」
「なんだとぅ?だったら爺ちゃんは頭が足りてるって言うのか!」
ゴゴゴゴゴゴ……
――更に振動が強めになる。
「何を隠そう、ワシは大学出身だ」
「だ、大学だと……」月比古はたじろいた。「なんだ?そんな話、初耳だぞ!どの学校だ!」
「ふふ、聞いて驚け、かの名門中の名門、エーク帝国大学よ!」
「……?いや、どこだよ!聞いたことねーぞ!」
「……あれ?妙だな」祖父は気がかりそうな顔をした。「どこにあったかな?」
「戯言抜かしてんじゃねえ!このジジイ!」
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……
「フ、だからお前とは頭の出来が違うのだ!なにしろ学があるという証明だからな!」
「だから妄想語ってんじゃねェ!第一、大学出なんて今どき掃いて捨てるほどいるだろ!ていうか、オレも金さえあれば大学に行くぞ!」
「その金がないだろーが!泣き言をぬかすな!」
「それはてめーに収入がないからだろジジイ!定職に就いたことあんのかッ!先に言っておくと、オレはバイト経験あるからな!」
「暴力沙汰を起こして秒で追い出されたんだろーが!」
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……
「だから、てめーに言われたくねーんだよ!ジジイこそ働いたことあんのかよッ!」
「何だと月比古!貴様、言うてはならんことをッ!許さんッ!」
「なんでそれでキレてるんだよクソジジイ!ああいいぜ!かかってこいよ!オラ!」
「ぬぅぅ!よう言うたな!年季の入った喧嘩殺法の神髄と言うモノを、その身に叩きこんでくれようぞ!」
「やってみろよォォォ!」
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴーーーーーーーッッッ!
無視しようとしたが、ついに家全体が猛烈に揺れ始めた。
「ああウルセェェェェェェェェェェーーーーッ!」
「ふ、この程度で集中を切らすかッ!」両こぶしを握った祖父が、唐突に切迫した声で、床の一点を指さした。「あ、あれはなんだッ!」
「てめぇ……この野郎……」ブチ、と月比古が切れかかった。「そんな単純な手に引っかかると思ってんのか!舐めてんのかクソジジイィィィーーーッッッ!」
「ち、違うッ!そこから何かが出てきそうな気配がキュピーン!と」
「なにが、キュピーンと、だぁぁぁ!」
次の瞬間、思わぬことが起こった。
ズバゴォォッッッ!
祖父がさっき指差した床の一点から突如、巨大なドリルが畳を突き破ったかと思うと、出現した勢いのまま一気に天井に突き刺さったのだ!
「「うおわッ!」」
怒涛の如く噴き上がった畳の藁に木片、土くれといった粉塵を一身に浴びながら、2人は真横へと吹っ飛ばされた。
農家にとって、アライグマは割と敵です。いえ、かなり敵です。仕事上、いろいろお話を伺うのですが、アライグマへの恨みつらみはイノシシの比ではありませんでした。また、仕事帰りによく訪れる神社があって、そこは戦艦金剛の艦内神社を分祀していたぐらいの由緒正しき所ですが、貴重な建物をアライグマに穴を開けられ続け、村の職員さんが頭を抱えていました。仕事でいっとき村役場によく顔を出していたので、実に他人ごとではありません。確かに、悪いのはアライグマではなく、アライグマを山に捨てた人間なのでしょうけれども……しかし、子猫を攫って食べてたぞ、なんて話を聞くと、どうにも……どうにも……!






