海に沈んだ世界のお話
少年の名前はアダム(ADAM)。
世界はこれ以上なく静かだった。
勿論、波の音はどこにいても聞こえてくる。
ざざん、ざざんと絶え間なく鳴る波音は、今や地球のどこにいても聞こえてくる。
大地のすべてが海に沈んだあの日から、この星は波の音に包まれているのだ。
見渡す限りの、海面。
遠く見える、白いきらめきは、さざ波の泡立ちか、人魚の鱗か。海の底は深すぎて、かき乱すもののない海水は、これまで見たことがないほどの透明度を見せていた。
水面から遥か底を覗けばそこにはもう一つの世界が見える。
ヒトの世界。人類の文明、その証。勢を限りに盛を極めた背高きガラスの塔の群れが、水の世界の中、その時を止めてただただ沈黙のままに、たたずんでいる。
その直線に計画された森の中、魚の群れが泳いで過ぎる。キラキラと静かに滑らかに。泡が散り、鱗が光りヒレが翻る。
かつてのヒトの世界は、水と無音と魚が支配する世界となっていた。
いや、ヒトの世界だけではない。
森も、砂漠も、平原も、山も、谷も。
すべては海にのみこまれている。
陸は今やどこに行っても見当たることはない。鳥も陸を諦めて久しく、留まることなく波間を漂い続ける漂流物だけが彼らの羽を休める枝の代わりとなっている。
そしてその「船」も、そんな彼らの貴重な止まり木となっていた。
その「船」は、あるいは、「艦隊」と呼んだ方がまだ相応しいかもしれない。
よくある漂流物――流木の絡まり合った塊、ビニルの集まりや、何かの骨組みの塊、そしてそれらすべての混合物(海面はそういったモノがあるいは絡まりあるいはほどけながら果て無き漂流を続けているのである)――とは一線も二線も画する特徴は、その大きさ。貨物船、石油運搬船、巨大客船、工業用船、漁船観光船遊覧船にさらに戦艦。そういった用途も大きさも仕様もてんでバラバラな船を子供の無邪気さと大人の神経質さでつなぎ合わせくっつけ合わせ並べて絡み合わせた結果、その船の群れは一つの船と言ってもまあよさそうなまとまりを持ち、結局町一つ分は入ろうかという大きな大きな「艦隊」となっていた。
艦隊は全部まとめて名前を「シープ」といった。見渡す限りの海面(草原)を一頭で彷徨う巨大な「迷子の羊」である。
「シープ」の先頭、その舳先。もはやどこにも渡れぬ渡り鳥が空から見下ろすその視線の下に、妙に小さな物影がひとつあった。
物影には足があり。
腕もあり。
頭もあり。
どうやら人間の形をしているようだった。人間の、男の子の姿に見える。
甲板の上で大の字になっている。目は閉じ、体は弛緩している。
寝ている。
実に無防備極まりない。
大口を開けて、あまつさえ涎らしきものまで垂れている。上空を旋回する鳥の影が横切ったり、すぐそばに降り立って鳴き声を上げていても、全く反応する気配がない。「いぎたない」の見本のような寝姿だった。
そして、今まさに「うぅん、」と実に間抜けな声を上げながらその体を起こした。
年の頃なら15に満たない、どうにも幼さの残る顔立ちをあくびに歪め、ぼさぼさの短い髪を無造作に掻いて、まだぼんやりしている眼を周囲に巡らしている。テグスのような細い髪、肌は最高級の柔素材でも使っているかのように柔らかそうな張りがあり、思わず誰もが「健康優良児!」と、そのぷくぷくほっぺに太鼓判を押したくなるような健康的な体つきをしている。
名前は「ADAM」。なぜなら服の右胸部分にそう書いた名札が縫い付けてある。
ADAMは左手で頭を掻きながら、空を見上げた。太陽の位置をたしかめ、目を細める。首をかしげ、ちょっと考え込むしぐさ。
しかし思考は短く、ADAMはぴょんと身軽に飛び起きた。
「日光浴、しゅーりょー!」
元気よく、宣言する。
ぐいと体を伸ばし、その場で5秒の短い屈伸、そしてぐるりと体ごと回って水平線を一周分確認。水平線はADAMがシープに乗ったその日からこれまでとずっと変わらず、するりときれいな曲線を描いている。
ADAMはそれを見て「異常なし!」と満足そうに宣言。
がさがさと音を立てながら自分の周囲に乱雑に散らばっている毛布や工具、ぼろぼろのカバンやらソーラーパネルやら各種コードやらを、首から下げたぼろぼろの袋のなかへ収納した。それらのさらに外側を取り巻いているもはやガラクタとしか言えない大量の漂流物のかけらは放置して、散らかった床をぴょんぴょんと身軽に跳ねて抜ける。
走る。
シープの構造は複雑怪奇のひとことにつきる。いったい何を収納していたのか不明な、がらんとした倉庫。船を渡るのに使う足場は厚さ1センチの頼りない鉄板。潜水艦の、各種管類が巡る入り組んだ細い通路。隣の構造物のせいで光を取り入れるという役目を果たすことのない広い窓。ADAMはその中を縦横無尽に駆け抜けた。経路効率を計算されつくした、実に無駄のない経線で、相当の年季を感じさせる。
そしてたどり着いたのはとある広い部屋。シープの構造上もっとも中核をなしていると考えられる、弩級戦艦の、さらに最も巨大な一室。壁一面に超高性能EL画面が設置されている。シープ全体のぼろぼろさから言って、場違いなまでに最新式で、何よりもよく整備されている。このEL画面にはシープが停泊している一帯の情報があますことなく逐一表示されていた。風速、海面温度、電波情報の有無からレーダー探知結果、波の高さに海水成分、海底地図、シープの上で何羽の渡り鳥が羽を休めているかとか付近に中級のマグロの群れが横切ったこともこの画面を見ればすべてわかる。シープが全身全霊全波長で探索した結果がすべて表示されている。いわば、ここはシープの頭脳である。
その中心に据え付けられているのは、小さな椅子だ。素材といい、細工といいサイズといい、いかにもな手作り感のあふれる一品である。ADAMは椅子の脇に放り出してあった白い帽子と白いマントを身に纏い、その椅子にどっかりと腰掛けた。しつらえたようにぴったりである。当然だ。ADAMのためにしつらえられたものである。
ADAMはむつかしい顔を作り、正面の最も広い画面を見つめた。
そこには黒い画面に白い字で、こう書いてある。
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ADAMはそれを上から下までをじっくりと視線を歩かせ、そして落胆したようなため息をついた。
ADAMはなんの目的もなくシープにいるわけではない。シープの上でたった一人の、知性をもった存在であるADAMには、一つの大きな使命があった。
探し物、である。
作戦名は「EVEプロジェクト」。ADAMはその作戦を遂行するための、今やたった一人のエージェントだ。むしろ、ADAMの名前はまさにそこにちなんでいるといっていい。そのプロジェクトの第一段階は「人類の探索」である。
彼の使命は人類最後の生き残りを探すこと。人類が生存できるような陸地はもう地球上には存在しない。だからADAMは、『海底を』探っているのである。膨大な作業工程を積むアルゴリズムを黙々とこなしていくマシンのように。巨大なシープの能力を余すことなく使い切って、ひたすらに。
大画面に映し出されたのは、シープの真下、廃墟となった海底都市へ放った11台の小型探索機の結果だった。
深い深い海の底に沈んだ人類の世界にまだ生きた人間がいると思っているわけではもちろんない。もちろんないが、仮死の人間ならいるかもしれないのだ。
地球が海の底に沈んだとき、人類の文明は、一部ながら冷凍睡眠装置の開発の段階に至っていた。危機に瀕したその時に、それによって海底に残された者がいるかもしれないのである。
そんな残されたものを探すため、シープは長い間かつての大都市を中心に海面をひたすら漂いながら、果てしない探索の旅を続けているのだ。迷子の羊は、まるで親を探して彷徨う子羊のように、その鳴き声の代わりに超高性能AIセンサを山と積んだ深海探査機を辺りに放ちながら、ただひたすらに親を――人間を、探し続けている。
ADAMは画面から目を離し、椅子から降りた。実に無気力な動きである。落胆という感情を全身で表現している。何度目のシークエンスかもはやわからない。探索結果の確認はADAMの日課であり、したがって落胆という行動すらも日課となっている。そう考えてみると、この落胆ぶりも実に堂に入っている。肩の角度や首の傾きも脱力感を存分に表現し、重々しい足取りまで完璧である。ADAMの長い航海の毎日は、こうして落胆から始まるのである。
『落胆』のシークエンスはきっかり5秒で終了した。ぱっと顔を上げたADAMの顔にはもうにこにことした笑顔が戻っている。シープでの一日は長い。そして、するべきことはたくさんある。いつまでも落胆しているわけにはいかないのだ。
シープのたったひとりの乗組員であるADAMの仕事は多い。基本的な設備の維持に関してはそもそも修復機能を備えていない物の方が珍しい時代であったので、それこそ致命的な、あるいは想定外の故障でもない限り必要がない。といっても、なにしろシープ自体が大きすぎて、そして有する機械が多すぎて、その「想定外の故障」自体が数週間に1つ程度はあるので、それらの点検と整備がADAMの欠かせない仕事である。ほかにも、人間文化を保持するため、様々な文化教育プログラムを受講し、そして人間が快適な生活を送るための特別室の保持のためにそこを利用し、結果リラックスした時間を過ごすこと、それらすべてがADAMに課せられた毎日の義務である。
ADAMはさっそく、日課の教育プログラム受講のため、人間文化のあらゆる記録を保存しているライブラリスペースに向かって歩き出した。
異変は、ADAMがライブラリスペースで専用学習データを視聴している時に起きた。突如、ぴか・ぴか・ぴか。と真っ赤な警報等がぐるぐると回転しながらライブラリスペースを真っ赤に染めたのだ。ADAMは即座に視聴を取りやめた。学習データ――今日の視聴は「映画:エンターテイメント:エネミー:USA」と分類されたデータであり、1990年代アメリカ大陸北部で上映されたと記録されている。二つの国の軍艦が、シープなみに巨大な正体不明艦に遭遇し、迎撃しようとしたところをさんざんに蹂躙され、絶望的な状況の中、希望の光を見つけ、今まさに反撃に転じようという盛り上がったタイミングであったが、ADAMは全く心残りはない様子で、素早く立ち上がった。自動調整式指向性スピーカーの映像データと連動する通信は自動的に切れ、代わりに警報通信につながった。落ち着いた女性の機械合成音声が流れる。
――大型の不明物体が南南西方向から近づいています。15分ほどで当艦に接触する予測です。乗組員は至急対応してください。繰り返します。大型の不明生物が南南西方向から近づいています。15分ほどで当艦に接触する予測です。乗組員は至急対応してください。
ADAMが立ち上がる。といっても機敏さとは無縁の、あわあわと慌てふためいた様子で、「対応」の仕方が分からないことはだれの目にも明らかだ。答えを求めるようにきょろきょろと周りを見まわすが、どの液晶画面にも「状況」は表示されていても、どう対応するかの「答え」は書いていない。
――不明物体の分析を開始します。
ADAMと対照的に、女性の機械音は落ち着いた声音でアナウンスを行った。とたん、メイン画面の表示が、周囲の海域地図から、シープに備え付けられたカメラの画像に切り替わった。カメラは自動的に不明生物に向けられ、ズームし、ピントを合わせた。
画面に見えるのは、波間にキラキラと反射光をきらめかせ、航跡を残しながらまっすぐこちらに向かってくる、とがった帆のような物体だった。
ADAMはその画面をじっと見つめる。先ほどまでの慌てた様子はそこになく、ただただ好奇心に目を輝かせているように見える。手作り椅子の背につかまって、身を乗り出すようにして画面に見入っている。
周りの画面はめまぐるしく入れ替わり、不明物体の正体を見極めようとしていた。電波、温度、音波、カメラ、様々な方法を使って、水面下に隠れた全体像を探り出した。
そして、見えた。
メイン画面が入れ替わる。解析し終わった全体像を3Dに再構成して表示された。
「……たこ」
ADAMはぽかんと画面を見つめたままつぶやいた。
たしかに蛸である。丸い胴体部に八本の長い触手をくっつけた、見本のような蛸の姿だ。海中を飛行するように進む姿は、なめらかな身体を流線型に保ち、泡一つ立てないスムーズさで、グロテスクというよりは優雅でさえある。だが、ひとつ問題があった。
――不明物体の分析が終了しました。頭足綱鞘型亜綱八腕形上目タコ目octopoda。全長は1622mです。
女性機械音の落ち着いた声音が冗談にしか聞こえない。1kmを越える巨体を持つタコを――いや、どんな生物であれここまでのサイズの――それを生物と言えるのであろうか?
――当該対象の進路に当艦が接触する予想です。当艦の進路の変更もしくは対象の進路の変更を行ってください。
アナウンスが艦内に響くが、ADAMはEL画面に見入って反応しない。
幼い口をあんぐりと開け、3D構成され映し出された映像を、ただただ見つめている。
当然と言えば当然かもしれない。ADAMは人間らしさを再現するためのプログラム、つまり自発的学習能力を備えた優秀なAIを頭脳にもつ。つまるところ好奇心が旺盛なのである。見慣れているのに見慣れないもの、これはまさしく好奇刺激に他ならない。ADAMはプログラムの正確さでもって、目を離せなくなっているのだ。
――不明生物が速度を上げました。乗組員は衝撃に備えてください。
アナウンスが危機を伝えて初めて、ADAMは新しい反応を見せた。慌てたように周りを見回し、そしてその場に大の字になって倒れた。掴まるべき丈夫な構造体がない場合の耐衝撃姿勢だ。しかし見た目は単に遊び疲れて電池切れになった子どもだった。
――衝突予想時刻。10、9、8、……
倒れた姿勢のまま、目線だけはまだ熱心にモニターを見ている。きらきらしている。好奇心と、「よくわからないデッカイもの」への畏怖に似た憧れの光がそこにはあった。
衝撃が、きた。
コントロールルーム中央の『玉座』が片足を浮かせ、ガタンと倒れた。ADAMの小さな体が床から数センチ跳ねて、そしてそのままころころと転がっていった。ころころころころと転がって、そうして壁にぶつかって止まる。
床は、傾いていた。不明生物にぶつかった衝撃――ではない。直前でシープが無理な転回を行った結果だ。シープ中心旗艦に当たるこのコントロールルームを有する軍艦に内蔵された安全弁反応――数世紀前の全ての個人用自走車には付いていた機能であり、軍用艦たるシープにもそれはついていた――として、危機的状況に対して「権限のある指示」がないという条件下でそう実行されるようにプログラムされている。
簡単に言えば、「よけようとした」。ごく原始的な単純なブレーキ――つまるところ、アンカーだ――と、衝撃吸収のための転回を同時に行ったのである。ただ、原初的セーフティー機能にはあずかり知らぬことであったが、シープは何しろ増築増設改造し放題の無秩序艦「隊」である。接続された大小さまざま、結果大質量塊となった「併走艦」に引きずられる形で、転回し損ね、その水平を失った。具体的には9度南西に傾き、接続橋が大きな軋みをあげ、掬い上げられた海水が甲板を滝のように流れていく。艦内の恒常を司るセンサーが久しぶりのエラーを連発し、中央に留まっていた『玉座』が傾きに負け、その赤い光の中をゆっくりと滑って行った。
「ぐえ」
玉座と壁に挟まれたADAMが緊張感のない声を発した。といっても弱い傾斜を滑ってきた物体の衝撃など大したことはないし玉座はそもそも軽い。痛みというより、何かが体にぶつかったという事象に対する条件反射としての反応だ。ADAMは玉座を押しやり、かけて、遠くなったEL画面を見上げ、その動きを停止した。
EL画面の船外カメラの映像。普段はこのカメラは単調に空を映しているのだが、それが今、真っ暗になっている。
タコが、シープの上空を横切っていく。巨大すぎてもはや一個体と認識できないサイズの軟体が、街一つといって良い全長のシープの上空を。
もはやそれは空そのものだった。海水の雫を吹き散らし、美しく伸びた八腕をきっちりと揃えて翼として、柔らかな体を今は引き延ばし流線形にして、太陽を遮って、タコが空を飛んでいた。
大きな艦隊であるシープを飛び越えながら、大きな大きな目玉が、シープを見下ろしていた。シープに備え付けられた無数のカメラがその視線を捉える。
そして管制室の中、そのカメラに捉えられた目玉の映像が、EL画面に大きく映し出された。ADAMはそれを見る。カメラ越し、画面越しに、全長わずか1メートル30センチのADAMと全長実に1622メートルの巨大なタコは、見つめ合った。
ADAMは目を一杯に見開いて、タコの目を見つめた。タコは無機質な瞬膜を瞬かせた。
長い長い邂逅だった。タコは、シープを飛び越え終わると、そのまま針路を変えず広大な海をまっすぐに遠のいて行った。ADAMはそれをモニターで見つめた。カメラが影をとらえきれなくなると画面がカメラ映像からレーダー映像に切り替わったが、それも続けて見つめていた。レーダーの限界範囲を抜け、光点が消えてしまってからも、まだしばらくじっとモニターを見つめ続けた。
もしもここに誰かがいれば、その後ろ姿を「去る友を名残惜しむようだ」とでも評しただろう。
――しかし、たとえが適切であるか判断するような人間は、どこにもいなかった。
シープの外では今日も、静かな海面が波音を響かせていた。
シープが果てのない海面の旅に彷徨い出てから実に160年と24日の月日が過ぎていた。ADAMの任務もおなじだけ続いている。人工知性体であるADAMに命令を下したものは当然もういないし、そもそもADAMに新しい命令を下せる者がもういない。だから終わりを知らない命令を、ADAMはただ機械的にこなし続けるだけである。
ADAMの任務は多い。日々、シープとその各種機能を維持・点検すること。人間らしさを学ぶための教育プログラムを受講すること。人類を探索すること。そしてその人類――「EVE」を発見した時に、ADAMが体内に保管している「種」を渡すこと。
種――それはプロジェクトの中でもただ「種」とだけ呼称される。実物としては滑らかな金属製の直径1インチ未満のごく小さな球体である。コンマ5立方インチ未満というごく小さな内部空間を維持するための最新機構が埋め込まれており、温度湿度は勿論、衝撃や多くの電波の類に対してさえ、高い防護能力を持つ。最高レベルのシェルターに保護されているのは、「人類の種」である。当時集められる精子のうち完全といえる状態で保存できたものを実に42種類も封じ込めてあり、内部で疑似的な時間停止状態にある。人類のあらゆる情報、最後の人類の手紙として託された「種」――DNA――を、ADAMは保持しているのである。
もしも――ADAMがその最重要任務を果たす日が来たら。ついに「EVE」に出会えたならば。ADAMはその種を人類に託し、「次」を遺すようプログラムされている。
冷凍睡眠装置の開発に取り掛かるほどに進んだ科学でも、どうしても再現できないことがある。それが、「誕生」である。失われた人類の、その最後の遺伝情報を、ADAMは保持していた。そして、保存すべき種を、現時点まで保持しているのは、ADAMだけである。そもそもが似たプロジェクトは世界中で同時に進められた。だがそのほとんどは終焉の混乱期の中にあって、実行までこぎつけたものはほとんどない。実行したものに関しても、長すぎる運用期間を経て、劣化し、エラーを起こし、トラブルに見舞われて、システムの維持ができなくなり、潰えていった。ADAMはその中でも奇跡のような一体だ。
とはいえ、だからと言ってADAMが完璧な一体であるという意味ではない。
ADAMはプログラムで生きている。無限のIF文と無数の命令文、そして無量大数に迫る計算式で成り立つ彼の思考は、限りなく人間に近くなるように設計され、限りなく人間らしく振舞えるように動き、そして限りなく人間に近い表情を見せる。それでも彼には多くの欠陥があり、その一つは「飽きる」ということを知らないことだった。そもそも飽きるということは、彼の任務の長さを考えるとあってはならない類のものだ。毎日こなさなければならない任務があることによって、その単純極まりない任務に飽きるということが致命的になってしまうがゆえに。けれども、それでもその欠陥こそが彼を人間らしさから遠ざけている。
だから彼は今日も、期限を設けられなかった命令の遂行をひたすらに続けていた。ひたすら孤独に、そして自身はその孤独に気付くことなく。
――160年と24日の孤独は、ADAMをむしばむことはない。
というわけで少年と海洋生物のほのぼのした出会いの物語でした。