月曜日
電車を降りると、ムンムンとした熱気が僕を襲って来た。一瞬クラッと来てそこに立ち止まっていると、親友の入江隆俊がひじで僕の脇腹をついてきた。
「おい」
「あ? ああ」
僕が扉の前に突っ立っていたので、邪魔になっていたらしい。僕はすぐさま脇へどいた。すると、そこに偉そうに胸を張った一群が通って行った。我らがテニス部のレギュラー陣だ。彼らが少し遠ざかったタイミングで僕は入江に耳打ちした。
「……こういうの、大名行列って言うんだろ」
「しっ。聞こえるぞ」
そう言って入江は僕を諌めた。
僕の名前は保坂敬。東方学園高校の2年生で、テニス部に所属している。1年生の時にはドイツのデュッセルドルフにいた、いわば帰国子女だ。
昨年父親から日本に転勤と聞いた僕は、飛び上がるほど嬉しかった。マンガやアニメで見るような生活が僕を待っている……そう思って期待に胸を膨らませていた。しかしそんな僕が実際日本に来てどうしても受け付けなかったのはこのうだるような夏の蒸し暑さと、生徒間のヒェラルキーだった。
「この先輩、後輩の差別ってどうしても好きになれないな」
「仕方ないさ。これがこの国の文化なんだよ」
「あとさ、僕らのこと『ガイジン』って言うのやめて欲しいよな。どこからどう見ても日本人じゃん」
「気にすることないさ。ガイジン扱いするならさせておけばいい。むしろそれを逆手に取ってやろうぜ」
この親友の入江隆俊もまた、帰国子女だった。それで僕と入江はすぐ仲良くなったのだった。入江は何事にも動じないしっかり者で、考え方は常にポジティブだった。今回の部活の遠征も、レギュラーを外されたことが不満で不参加を決め込んでいた僕に、入江が参加するように促したのだった。
「仲間と寝泊まりして馬鹿騒ぎなんて高校生の今しか出来ないじゃないか。どうせレギュラーから外れているなら、試合のことなんか気にせず楽しもうぜ」
言われてみてそうだと思った。良く高校生活なんてあっと言う間だと言われるが、僕にはピンと来ない。なんだかこんな時間がずっと続くような気がしてならないのだ。だけど、こういうところで入江は達観したところがある。
ともかく、入江に説得される形で僕は部活の遠征に参加することになった。行き先は隣県のサンタマリア学園。小中高一貫教育の大きな教育施設だ。ここもテニスの強豪校であり、東方学園とはライバル関係である。両校のスケジュールを調整してようやく夏休み中の練習試合が実現したのだった。月曜日から金曜日まで、四泊五日の濃厚な合宿プログラムだ。
夏休み中ではあるが、サンタマリア学園には部活や補習などで多くの生徒が来ていた。東方学園は男子校だったので、男女共学のサンタマリア学園のキャンパスは垂涎の光景だった。
「おいおい、かわいい子結構いるじゃんか」
そう言ったのは、補欠メンバーの1人、天野宏昌だった。テニス部きっての下ネタテラーだ。
「お、あのフルート持ってる子、俺好みじゃんか。古川、お前行って名前聞いて来い」
こちらはやはり補欠の松島健。若干ヤンキーっ気があり、古川正文を専属パシリとして使っている。
「む、無理だよぉ。女の人に声をかけるなんて……」
古川が弱々しく言うと松島は顔をしかめたが、それを横で見ていた高橋涼真がフォローするように言った。
「松島、気があるんなら自分でアタックすればいいだろ。パシリに取り持ってもらおうなんて、かえって印象悪くするぞ」
「うるせーよ、この左利きのチャラ男めが」
「何で左利きだとチャラ男なんだよ」
「昔から左利きの男はチャラいと決まってるんだよ」
「聞いたことないぞ、そんな話」
松島がチャラ男と揶揄するだけあって、高橋はかなりモテた。本人は至ってクールに振舞っているつもりなのだが、なぜか自然に女性たちを引き寄せていた。
ともあれ、東方学園テニス部一行は高等部の体育館に誘導され、そこでオリエンテーションが行われた。体育館は新しい近代的な内装だったが、正面に大きな聖母マリアの肖像画が掛けられていて、それがミスマッチであった。
サンタマリア学園テニス部顧問の富永淳一がマイクを取り、注意事項を述べた。
「合宿所にはジュースやコーヒーなどの飲み物、お菓子やカップ麺などが豊富に用意されています。それを好きなだけ食べてもいい。ですが、消灯時間の午後10時を過ぎたら決して宿舎から出ないように。セコムが作動して大騒ぎになります。いいですか、絶対に出ないで下さい。また合宿期間中の校外への外出も禁止とします」
『外出禁止』が極度に強調されている気がしたが、多かれ少なかれこう言った合宿では必ず注意されることであり、さほど気にすることもなかった。しかしこれが重大な意味を持つことを、僕は後で思い知るのである。
僕に割り当てられた寝室は大部屋の和室で、補欠メンバーで7人が集められていた。すなわち、下ネタ天野、ヤンキー松島、パシリ古川、モテ男高橋の4人、僕と入江、それと1年生の西城義則というメンバーであった。西城は電波系ニヒリストの異名を持ち、周りから変わり者扱いされていた。
1日のプログラムが終わって寝室に入ると、天野と松島は猥談に花を咲かせた。それがやがて怪談話へとシフトして言った時、松島が全員に語るように言った。
「実はな、この学校ヤバイらしい」
「ヤバイって何だよ」
高橋が問い質すと松島は口角を上げて語り出した。
「さっき、体育館でマリアさんの絵、見ただろう。あれ、夜中の12時になると目が動くらしいんだ」
「お前さ、それってどうせ目が動いているのを見たら死ぬとか、そんな話だろう」
「高橋、お前よく知ってるな」
「そんなの、都市伝説の定番なんだよ。絵が飾ってある学校では大概そんな話がある」
「じゃあ、度胸試しに見にいくか? 本当に動くかどうか、見ても死なないかどうか確かめようぜ」
「ああ、いいとも」
すると、パシリ古川が恐る恐る発言した。
「や、やめようよ、そんなこと。それに外出禁止って言われているし」
「なんだ、この屁っ放り腰が!」
松島が嘲笑って言うと、電波系ニヒリストの西城が発言した。
「古川さんの言う通りですよ。絵画の目が動くなんて非科学的でありえない。あとで懲罰を受けるリスクを冒してまで見にいくなんて愚の骨頂ですよ」
1年生の西城にピシャリと言われて松島は気まずくなり、僕らの方に話を振ってきた。
「お、おい、そこのガイジンさんたち。お前らはどう思うんだよ」
入江はごく冷静に受け答えた。
「目が動くかどうかはともかく、青春の思い出としてこういうのも悪くはないかな」
入江のその一言で、部屋にいた7人全員が夜中の体育館に忍び込むことになった。
思えばこれがあの悲惨な事件に巻き込まれる第一歩となったのだが、この時の僕らにはそのことを知る由もなかった。