天狗羽扇と星の海
落ち葉が深く積もる公園は、少し肌寒いくらいの風が吹いていた。
金木犀はその花を落とし、風は少しだけ涼しさを増した日の、夜のことだった。
「やあ、少年。また会ったね」
「……天狗のおじさん。僕、どうしたらいいかな」
街灯に照らされて、相変わらず着流し姿でベンチに胡坐をかいている天狗の姿が見える。
「さてさて。私は何も言わないよ」
少年が俯く。天狗は何でもお見通しだということを、もう少年は知っている。その上で何も言わないと天狗は言うのだ。少年は口を尖らせた。
「だって、母さんも父さんもひどいんだ。もうすぐ妹が生まれるからって、僕になんでも我慢しろ我慢しろって。きっと、妹の方が大事なんだ」
「それで、家出をしてきたのかい」
「うん。僕、天狗になろうと思って。おじさん、僕も天狗になれる?」
「ふうん。そんなら、まずは空を飛べなければね」
「空、飛べるようになるの!?」
少年の声が弾む。天狗は懐から羽扇を取り出して少年に手渡した。
「それは天狗羽扇と言う。少年でも風を起こし、それに乗れるようになるだろう。そら、振ってみるといい。ただし、強すぎてはいけないよ。とんでもないところまで飛ばされてしまうからね」
少年は羽扇を手に取り、おそるおそる揺らしてみると渦を巻くように風が起こった。徐々に振る力を強くするうち、体が軽くなってきてふわりと浮かぶ。
「わ、わ! 浮いた! 飛べた!」
しかしすぐにすとんと地面に落ちてしまう。何回かやっても、同じだった。少年はどんどん羽扇を振る力を強くしていく。
「少年。一つ、コツを教えてあげよう。少年の体に、糸がついているだろう」
「そんなの、ないよ」
「ああ、そうか。見えないんだったね。なに、巻きついているんだよ。少年と他の人との間に、色んな糸が」
「それで、その糸がどうしたの?」
「それを切れば良いのさ。天狗になるには、それが一番手っ取り早い。どれ、何本か切ってみるから、もう一度羽扇を振ってみるといい」
「う、うん、分かった」
天狗は少年の頭や肩の近くで、二度三度、蜘蛛の巣でも払うように手を振った。
「さ、これでいいだろう。私も飛ぶから、振ってみてごらん」
少年が再びえいやと羽扇を振れば、先程までとはうって変わって体が中空へと投げ出された。そこいらの枯葉とともに、まるでその枯葉の一枚にでもなったかのように風に揉まれながら少年は飛ばされていった。
どこまで高く昇っただろう。眼下には、広がる夜景が見える。遠くの方には、街の明かりも煌いていた。
「いやはや、いささか強く振ったようだね。もう少しで星の海に落ちるところだった」
「天狗のおじさ……うわぁっ!」
声のする方を振り返って少年は驚いた。そこには、学校の図書室で調べたような、鼻の長い、羽根の生えた大天狗の姿があったからだ。
「糸を切ったからね。見えるものも変わったのさ。どうだい。私は天狗だろう」
「ぼ、僕もこれで天狗なの?」
「いいや、もう一息。切った糸を、相手に返せばそれでおしまい。どれ、ついておいで」
天狗がゆっくりと夜空を滑空し、それを追うように手足をばたばたさせながら少年はついてゆく。徐々に高度が下がり、近づいてきたのは少年の家だった。
夜だというのに、慌しく人が集まっている。何かをしゃべっているようだが、まるで音声を消したテレビの向こう側にいるように声は聞こえない。
天狗は数人集まっている人だかりのすぐ隣に降りて、少年に向かって手招きをした。誰も、天狗に気がついている様子はない。
少年が恐る恐る降りていっても、やはり誰も気がつかないようだった。
「ねえ、僕たちのこと、見えてないの?」
「糸を切ったからね。縁がなくなれば見えるものも見えなくなる。そんなものさ。それとは逆に、切った糸はもう見えているだろう? 相手に返せば、それで少年も天狗の仲間入りだ」
小さな体には、確かにひょろひょろと糸がいくつか巻き付いていて、赤やら緑やら色がついていた。家の前で何事か集まって騒いでいる両親や近所の人にも切れた糸はついていて、少年の糸と色合わせのように対応していた。
相変わらず、父親や母親、近所の人達は何かをしゃべっているらしいが、少年には何も聴こえない。
ふと、少年が気づく。
「ねえ、天狗のおじさん。今、僕は父さんや母さんから見えていないんだよね」
「そうとも。少年は今、半天狗だからね」
「糸を返しちゃったら、もう家に帰れないの?」
「糸を切り、縁を切り、地に足つけず空を飛ぶ。それが天狗だからね」
体に巻きついている赤い糸をそっとつまんで、途中で切れたそれをじっと眺める。同じように赤い糸は、少年の母親から出て、力なく垂れていた。
しかし少年は見た。赤い糸のほかに、もう一本。髪の毛よりも細く、薄い一本の糸が母親から出ているののを。母親の、おなかから、まっすぐ、少年に向かって伸びた一本。それは、まだ切れていなかった。
近く生まれてくる少年の妹。まだ胎内にいる赤子から伸ばされた、一本の縁の糸。
なんだか、胸の奥がじんと熱くなるのを少年は感じた。
「天狗のおじさん。僕、やっぱり天狗になるのやめるよ」
「それがいいだろうね。切った糸は、元に戻しておいてあげよう」
にこやかに笑みを浮かべながら、天狗は少年の頭を撫でる。
「羽扇は返してもらうよ。代わりに、これをあげよう」
「あ、これ……」
少年の手の平に落とされたのは、白い包みにくるまれた一つの飴玉だった。
「そうとも。天狗飴だ。きっと仲直りできる」
「……ありがとう。天狗のおじさん」
羽扇を持った天狗は、ばさりと羽を広げて夜空を見上げた。
「では、また」
一陣の風が吹いて、天狗は空高く飛び去っていった。
にわかに、少年の周りが騒がしくなる。「いたぞ!」「急に出てきた!」「どこに行ってたの!」矢継ぎ早にかけられる大人たちの声に気圧されながら、少年は飴玉を口に放り込んで大人たちを見た。
「ごめんなさい!」
少年は家を飛び出したこと、心配をかけたことを謝ったが、天狗のことは一度も口にしなかった。誰かに話してしまうと、もうあの天狗に会えないような気がしたから。