真昼の月(上)
真昼の月・・・正確には夕方だが。
ハッキリと見えているわけではなかった。今夜の月は少し靄がかかったようにぼやけていた。
自分の家からすぐの海岸まで出て、いつもはそこで星見をしたりしている。
日が経つにつれて空の青い所と雲が陰って黒っぽくなっいる所、月と対極に位置している所は雲の切れ間から黄色い光が差し込んで、それもすごく綺麗だった。
海岸のすぐ側に道路があり拓けている分、夜になり雲一つなく晴れていると、綺麗な星空が見えるのだ。
道路を行き交う車に、広い空を飛び回る小鳥。闇夜の静寂の中に鳴り響く虫の声。秋の風物詩といえばそれまでだが、僕は不思議とその音で周囲の虫たちが会話をしているのではないか、と想像して独り虫の声に耳を傾け楽しんでいた。
塀の上や海岸沿い、あるいわ近くの神社。のらりくらりと散歩していると、たまに夜でもちらほらと二・三匹の猫に出会うことがある。
これは僕の持論だが、この世界に生きる哺乳類の中で、猫が最も何物にも縛られない〝自由な存在〟なのではないかと。
犬は飼い主、つまり主君が居なければ生きていけない。
それに対して猫はリードで繋がれることも無く、自由に行動できる。
世間ではよく、「猫は気まぐれな生き物」なんて言われているが、全くその通りだと僕は思う。飼い猫なら室内飼いが一般的だが野良猫は違う。気分次第でどこにだって行けるし好きなタイミングに寝ることも出来る。それこそ自由に仲間や友達と遊んだり出来る。そういう点では、猫の方がより人間に近いのではないだろうか。
少し論点がズレてしまったが、〝自分のしたい事を自由に出来る〟というのは、ある意味では最大の幸福であり倫理的観念、あるいはそれらからくる概念ではないだろうかということだ。
僕(命)が一番自分で自由だと感じる瞬間は、誰も居ない場所で天体観測をしている時だ。
日常で何か嫌なことがあった日に、上を向いて遠い空を見る。星空を眺めて心を癒す。月の軌道次第だが、運が良ければ真上面に月を構えて星見をすることが出来る(勿論、空が晴れていればの話だが)。
夜の星空を眺めていると、日常の柵や嫌なことを全部忘れられた。
だが生憎、今日の空は曇っていて、いつも僕の目に映っている光景は見られなかった。
今日のように空が曇っていて星や月が見えないとなると人工で案内人の解説付きプラネタリウムでも良いのだが、それだとどうしても物足りなさを感じてしまう。だからこういう日は決まってネットなどで神話について調べたりするのが恒になってきている。
「...やっぱり、此処だったか。こんな天気じゃ星なんて見えないだろ。なんでわざわざこんな日に?」
「別に...。曇ってるけど雨降ってるわけじゃないし、たまには良いかなって」
「安易だな。ここに来る途中にでも降りだしたらどうする気だったんだ?」
「......」
「ノープランかよ...。お前らしいな」
「そりゃどうも」
笑みを浮かべながら「褒めてねぇよ」と頭を撫でてくる。
彼(真琴)とは中学からの付き合いだが、今まで関わってきた人間の中で一番僕の事を正しく理解しているからこそ、星見には穴場スポットであるここを教えている唯一の人間だ。
「お前のそののんびりさ加減は、とても現役大学生とは思えんな」
「別に...大学に通ってるから何か目標とかしたいことがあるとは限らないんじゃない?」
「確かにそうだけど...。なんか無いのか? やりたい事とか」
「ない......出来ることなら、ずっと冬眠してたい...」
「俺がお前と話せなくなるからダメ」
みんなは月に対してどんな印象を持っているだろうか。
遥か上空に浮かぶ月を見て『綺麗』に思う人が殆どだろう。
僕は月を見て綺麗だと思ったことは一度もない。子供の頃は、むしろ不気味に感じていた。
太陽にしても同じことだが、「どうしてあんな球体がワイヤーなどで吊るされているわけでもないのに浮かんでいられるのか」と。
小学校に上がれば理科の授業なんかで習うからそんなことは思わなくなったが、これが幼稚園児ならばどうか。幼児と小学生、価値観にだけ関して云えば、180度違うだろう。それは現代人においても同じことが言える。十代と二十代、二十代と三十代。果ては三十代から五十代。考えることや感じ方は年代が上がれば上がるほど、その違いや差が大きいのではないだろうか。
つまり何が言いたいかというと、この世の中は不思議なことで満ちているということだ。
科学で解明されている事柄よりも、解明されていない事の方が圧倒的に多い。
もしあの日見たのと同じ月を見れたなら、僕はどんな風に思うのだろう...。
それはその時になってみないと僕自身にも解らない。
俗に云う、<神のみぞ知る世界>とでも言おうか...。
そんなことを考えながら、仄暗い雲に覆われた空を眺めていた。