第壱種接近遭遇ティーカップ - 8
私が通されたのは、庭の見える和室だった。
すぐそこは外だけど、暖房が効いているから寒くはない。
脚を動かしたり組み替えたりして、慣れない正座になんとか耐えていると、たけさんがお茶を運んできてくれた。ああどうかお構い無く、どうかどうか。ホントすぐ帰りますんで。そんな言葉を口の中でモゴモゴ呟いて、結局、簡単なお礼だけ言った。ふふ、とたけさんが笑う。気まずい、私だけ。
「わたしの一人暮らしだから、遠慮しないでくださいね。
ああ そんな顔をしないで。少し離れたところに、子供の家もあるわ。
ちゃんと顔を見に来てくれるのよ」
年齢の割に(というのも失礼だけど)しっかりした声で喋りながら、たけさんは私の前にお茶を置いてくれた。ちょっと頭を下げて、そのまま何となく目がもうひとつのお茶に向かい、そして私は驚いた。
片方の、つまりお婆さんの湯呑みは、あの私が持ってきた湯呑みだった。
綺麗に洗われて、相変わらず安っぽそうではあるものの、だいぶ見た目はマシになっている。
「懐かしいわねえ」
そう言って、たけさんは自分の分を卓に下ろす。
あの湯呑み、やっぱり、ちゃんとお婆さんに関わってる物だったんだ。
そうハッキリ分かると、私の中の後ろめたさみたいなものも、すっと消えていった。だって、懐かしいわねって言った時のたけさんの表情と口調、どう見ても聞いても悪い印象を受けなかったもの。
「初恋の人に貰ったものよ」
「えっ!」
「ふふ、こんな皺々のお婆ちゃんにもそんな時代があったなんて、おかしいかしら?」
「いえいえいえっ、とっても素敵だと思いますっ!」
焦りまくって私はフォローした。フォローになってたかどうかは不明。
っていうか実は私まだだし、その初恋っての。だからそういう話題を前振りなく振られると、かなり挙動不審になる。友達には嘘つくなだの隠すなだの言われるけど、ないものはないでしょうがないじゃんよー。
「わたしは15歳で、あの人は私より年上でね。
でも、ちょっと遠くへ行く事になって。いつか戻ってきたら、もうひとつ同じのを揃えて、一緒の卓で飲もうって。
そんな約束をしたのよ。結局、叶うことはなかったんだけれど……」
たけさんが、15歳の頃。
話の途切れている間に、私はそっと、その顔を見た。
足腰も話もしっかりしているけど、京さんよりずっと皺も深くて、年齢はかなりいってそうに思える。そんなお年寄りが、15歳の頃、か。叶わなかった理由は、私にもいろいろ想像できたけど、聞くのはやめておいた。間違っているかもしれないし、合っているかもしれない。どっちにしても、かもしれない、で終わらせといた方がいい。
「……見ると辛くてね、しまっておくうち、いつかどこかに行ってしまったのよ。
その頃にはわたしも引っ越していたし、ずっと忘れていたのだけれど……」
たけさんは、湯呑みを両方の掌で包み込んだ。
その仕草は、とても優しい。
「考えてみれば、可哀想な事をしてしまったわね。
一緒にお茶を飲みたかったのは、この湯呑みだって同じだったでしょうに」
たけさんは穏やかな目で、何十年か越しに、やっとお茶を注がれた湯呑みを見下ろしていた。
ただ私の方は、ちょっと生まれつつあった得意気な気持ちも消えて、今は申し訳なくて堪らなくなってきている。確かに、湯呑みにとってはこれで良かったのかもしれない。でも、たけさんにとっては、私が持ってきた湯呑みで、辛い記憶を思い出してしまった事になる。
縮こまっている私を見て、たけさんは――なぜか、ちょっと笑った。笑った意味は、私には分からなかった。分かるようになるまでには、同じくらいの歳が要るのかもしれない。
薄い湯気のたつ湯呑みを、たけさんはそっと持ち上げて、口をつけた。
私は、たけさんが湯呑みを卓に戻すのを待って、やっと自分のに手を伸ばす。
知らない間に緊張で喉が乾いていたみたいで、半分ぐらいまで一気に飲んでしまう。おいしい。
――ピシリ
急に聞こえた音に、私は飲むのをやめた。
慌てて音のした方を向くと、たけさんも驚いた顔で、それを見ている。
あの湯呑みが。
表面に、ピシリ、ピシリと、次々にヒビが走っていって。
「ああっ!?」
叫んだ私の前で、湯呑みはまるで漫画みたいに、ガシャンと砕けてしまった。
まだ残っていた中身が、卓の上に飛び散る。たけさんに掛かったりはしなくて、それは良かったんだけど――。
いきなりの出来事に私は驚いて暫く声もでなくて、それが過ぎると、今度は青くなった。
壊れた。たけさんの、大切な思い出のある湯呑みが。
そりゃコンビニで見た時からボロかったけど、洗ってお茶を入れたくらいで割れる訳がない。京さんは丁寧に包んでくれたし、私も注意して持ってきたつもりだったけど、本当に、つもりだけだったのかも。
気付いたら、私は謝っていた。原因を深くも考えず、たぶん半分パニックを起こして。もう一押し何かが起きていたら、うっかり泣いちゃってたかもしれない。
「ご、ごめんなさい、大切な湯呑みを!
たぶん私の持ってきかたが悪かったんです! 割れないように注意したんですけど、ごめんなさい!」
「……いいえ、違いますよ」
「……え?」
見れば、たけさんは、もう元の穏やかな顔に戻っていた。
最初にちょっと驚いただけで、半泣きでまだワタワタしている私とは全然違う。
割れた湯呑みを片付けも、零れたお茶を拭きもしないで、ただ、たけさんはそれを見つめている。京さんの時もそうだったけど、お年寄りのこういう表情と喋り方は、混乱を鎮める効果があるらしかった。
私も段々と落ち着いてきて、たけさんと同じように、壊れた湯呑みを見つめる。
たけさんが、さっきの続きを、静かに話し始めた。
「きっとね……役目を終えたんですよ、この湯呑みは。
最後に一口、わたしに使ってもらうために、これまで頑張って、頑張って、耐えてきたのね。ここに、あの人はいないけれど……わたしだけでも、看取ってあげられて良かったわ」
私は何も言えず、たけさんの言葉を聞いていた。
聞きながら考えたけれど、どう答えていいのかは、どうしても浮かんでこなかった。
この人の所に行きたい。
レシートに書かれていた、湯呑みの願い。それは、こういう事だったんだ。
私は説明なんてしなかったのに、たけさんは、こんな短い時間で、自分でそれを見付けてしまった。普通に考えれば、そんなのバカバカしいって、ありえない事だって思いそうなのに、たけさんは無理して思い込んでる訳じゃなく、ごく自然に、湯呑みの心ってのを受け止めているようだった。
なんだろう――なんなんだろうか、これ。
ひとつだけ分かったのは、今の私じゃ、絶対に辿り着けない位置に、たけさんはいるって事。
いつか……私もなれるのかな、こんな風に。
「……ありがとう、ごくろうさま」
割れた湯呑みの破片を、たけさんは丁寧に集め始めた。
手伝おうかと思って、やめておく。その方がいいと思ったから。
「あなたも、本当にありがとう。ええと……」
「都、です。祭野、都」
「都さんね。もうひとつお願いを聞いて欲しいのだけれど、よろしいかしら」
……もうひとつ?
ああ、家に上がっていく件がひとつめね。
「はい、私にできる事なら」
「この湯呑みを見付けて、あなたに託してくれた方にも、ありがとう、と伝えて欲しいの。できればわたしが自分で行きたいのだけれど、もうこんなお婆ちゃんだから」
「伝えます。必ず、絶対に、伝えます」
「お願いね」
破片を一箇所に集め終えて、やっとたけさんは零れたお茶を拭いた。
あれは、どうするのかな。このまま取っておくんだろうか、それとも庭に埋めるんだろうか。その前に、どこかのお寺で供養してもらったりするのかも。
聞いてみたかったけど、やっぱりこれもやめた。ここから先は、私の関わるような事じゃなさそうだしね。
それに、この素敵なお婆さんなら、どれを選ぶにしたって、きっと間違った答えじゃないだろう。
積み重ねられた、ちょっと前まで湯呑みだったものを見る。
完全に壊れてしまったのに、その姿は何だか湯呑みだった時よりも安らかで、あるべき形のように感じられた。
良かったね、と、私は心の中で声をかけた。
「……私からも、ひとつ聞いてもいいですか?」
「はい、何かしら?」
「たけさんは、今、幸せですか?」
なんでそんな事を聞いちゃったのか、さて自分でも謎だったりする。
まあ、その時はパッと頭に浮かんできた質問だったのだ。
たけさんは一瞬目を丸くすると、それから皺だらけの顔をくしゃくしゃにして、すごく明るく笑った。
「ええ、幸せですよ。とってもね」




