第捌種接近遭遇ガールミーツビースト - 6
思わず閉じていた目を開いた時、私は空を飛んでいた。
比喩でも何でもなく、視界360度になんにも足場が無い空間が広がっている。
「わわわわわわわ!?」
咄嗟に地面を求めてバタつかせた手足が、虚しく空を切る。空中だけに。
なんて冗談言ってる場合じゃない。暴れる手足に引き摺られて、身体が空中でぐるぐる回転する。ぐるんと反転した視界に、ちらっと京さんの姿が入って安心したから、結果的に暴れて正解だったんだけど、状況が掴めないのも、足元が安定しないのも変わらない訳でして。
あたふたし続けてると、一旦離れていた手をもう一度京さんが取り、ぐいっと上に引っ張りあげた。この助けでやっと、私は普通に頭を上にして直立した姿勢に戻れる。
空中に、直立。
……回転したり揺れたりはなくなったとはいえ、これじゃあ激しく落ち着かないのは変わらないわ。
おそるおそる下を見れば、地面は遥か彼方だった。
木が豆粒みたい。落ちれば確実にぐしゃっとなる、ぐしゃっと。
靴底に伝わる感触も、浮いてるけど浮いてない、何か踏んでるけど踏んでいない、そんな曖昧な状態だった。落ちずにいるからには足場があるって事なんだろうけど、そういう物は見えないし感じない。空中に停まっている、まさに、そんな表現しか当てはまらない状態だった。
「落ち着かれましたかな?」
「はあ……まあ。
……あの京さん、一応確かめたいんですけど、私って飛んでますよね?」
「いいえ」
「違うの!?」
「翼や術といった手段を用いて飛行しているという意味では、飛んでおりません。
正確な説明は難しいのですが……強いて言うなら、この場に”いる”とでも申し上げましょうか。
今はそのような些事などよりも、ひとまずどうぞあちらを御覧下さいませ、都様」
バスガイドさんみたいな口調でさっぱり不明な内容を告げて、京さんが流れるように片手で一方向を示す。あっちを見ろという言葉より、その動作に引かれて指し示す先へ顔を向けた私は、そこで繰り広げられている思ってもいなかった光景に、あっと叫んで息を呑んだ。
向き合った土地と土地を挟んで、海峡に、たくさんの小舟が浮かんでいる。
私は、こんな風に多くの船が所狭しと並んでいる光景を見るのは初めてだったが、それ自体はいい。驚いた訳は、乗船している人達の格好と、そこで繰り広げられている光景だった。
まるで、戦争だ。
ここからだとかなり距離があるのに、二手に別れた舟の集団が、激しく争っているのが見て取れる。あがる炎、包まれる煙。光を反射させて飛び交うのは、矢、だろうか。何で矢なんて物が飛んでんのよと思ったのは、それが矢だとはっきり認めた後になってだった。
要は、矢が飛んでいても不思議じゃない眺めだったので、変に思うのが遅れたのだ。舟に乗って戦っている人達は、テレビの中でしか見た事がないような、鎧を着込んでいたのだから。
人によって着ているものは多少違っているが、間違いなく武者鎧とかそういう類のものだ。刀に、槍に、弓に、鎧。壮絶に時代錯誤な格好をした人達が、遥か彼方の海峡で激しく争っている。映画か、大河ドラマのロケ風景か。他に説明できない光景を、だが私は、違う、と直感した。良く分からないけど、あれは、そういった作り物とは違うと。
京さんが小さく笑った。その声で我に返る。知らないうち、緊張で袖をぎゅっと強く握り締めていたらしい。
「ご安心を、こちらに害が及ぶ事はございません。
あれらはとうに過ぎ去りし出来事、もはや触れる事叶わぬ夢ですので」
「な……なんなんですか……あれ……。
あんま良く見えないけど……戦ってますよね? っていうかここどこなんですか、何が起きてるんですか?」
「彼の地は長門国彦島。あれに広がるは、源平合戦の最終幕――。
後に壇ノ浦の戦いと呼ばれる戦にございます」
「壇ノ浦!?」
歴史に明るくない私にも聞き覚えのある単語に、叫んだ。
「平家蟹は!?」
「カニはおりませんが……」
反射的に口にしてから全力で後悔した。いくら何でもこれはない。
さすがの京さんも、眼鏡の奥からやや呆れた眼差しを向けてきたが、私の方はそれどころじゃなかった。紛れもなく本物の戦争なのに、この距離と彼らの格好のせいで非現実的すぎる光景を、吸い付けられるように眺めているしかない。
遠い戦争の音を割って、傍らで、ゆったりと京さんが語り始めた。
その口調は、この悠久の光景を語るのに相応しかった。
「これはかつて、わたくしの生きた世界――。
この国の、古き形にございます。
わたくしが過去に見た光景、わたくしの記憶を、今こうして、都様に見せております」
「そんな事が……」
できるんですか、と聞こうとしたのを私は飲み込んだ。
聞くまでもなく、できるからやってるに決まっている。京さんがここで嘘をつく理由もない。
「わたくしに不可能はございません。それなりに、でございますが」
「……でもこれ、見ているっていうか……リアルすぎます色々。
音も聞こえるし、風も吹いてる……澄んだ空気の感じも。ほら、下にある木なんて触れそう」
「どれも映像に過ぎませんよ、正真正銘の。
そうですな、人の世界で言うバーチャルリアリティとお考えくだされば」
「……ええと、3D映画みたいな?」
「それで結構でございます」
「……じゃあ、実録ドキュメンタリー映画、かぁ……」
私は、京さんから海峡の方へと視線を戻した。今度は、かなりこわごわと。
だったらあれは、戦争なんだ。大昔の、今の私達から見ると冗談にしか思えない鎧姿とはいえ、あそこでは、人間と人間とが、確かにお互いを殺し合っている。ただ、意外にもそこまで凄惨な感じがなければ、目を背けたくなるような嫌悪感や恐怖もない。
理由のひとつは、さっきも言った彼らの作り物みたいな格好と、もうひとつはこの距離だった。何をやっているかはだいたい分かっても、細かい箇所の確認まではちょっと不可能。近寄りすぎるとリアルに血生臭い光景が目に入ってしまうから、京さんが慎重に選んでくれたんだと思う。
それでも、対峙する舟と舟、逃げる舟、追う舟、それらの戦況から伝わる緊張感と、微かな戦場音が肌を刺す。
これが普通の――というのも変な話だけれど――現代の戦争だったら、いくら遠くからでも見るのも怖かっただろうし、そもそも見たくもなかったに違いない。でもあれは、この国で生まれて教育を受けて育ってきた私にとって、普通の戦争じゃなかった。現実感や悲しみや怒りを伴って眺めるには、あんまりにも遠すぎて、そして身近すぎる眺めだったから。
教科書でしか知らなかった、テスト用に丸暗記する縁しかなかった出来事を、この目で見ている。
次第に私は、言いようのない驚きと興奮に満たされていった。
かつて自分の見た光景だと、京さんは言った。
それが一体どのくらい大昔だったかなんて考えず、ひたすら、すごいすごいと私は騒ぐ。
けれど、興奮が一定時間続くと、私はこの国史上トップクラスの知名度を持つ戦場の光景よりも、周囲の風景に、空や海や山々に、だんだんと目が引き寄せられていくようになる。目立ったものは、何もない。高層ビルが建ってる訳でもなく、手付かずの、ただ、そのままにそこにある自然。そんな何もない世界の、かつてのこの国は、なんて綺麗だったんだろう。
説明のつかない激情に、魂が震えてくるようだった。
「いかがでしょうか」
「すごい……です」
私の視線が、途中から合戦の場を離れて、遠い遠い昔の、この国の光景へと引き寄せられていた事に、京さんは気が付いていたと思う。見計らったように尋ねてきたその口調は、どっちの感想を求めているとも受け取れるものだったから。
世界それ自体が、息づいていると感じた。自分達の手でそれを否定した私達には、もう、願っても二度と見る事はできない、ありのままのものがありのままに生きていた、この世界。この光景が変わっていく過程を、京さんはどういう想いで見続けてきたのだろうかと、ふと思った。
私だったら――それは悲しくて、寂しい事なんじゃないだろうか。所詮は、人間の基準でしかないけれど。
「――さて、それでは都様。そろそろ次なる舞台へ移りましょう。
リクエストがございましたら、受け付けますよ。
ただし記憶ですので、わたくしの見ております物に限定されます」
「んーと……壇ノ浦で平家だから次は……いいくにつくろうかまくらばくふ?」
「……宣言した瞬間に、幕府がその場に垂れ幕付きで誕生するという訳でもございませんが、では、そちら絡みのお膝元などを訪問すると致しますか」
あっさりと頷いてしまった京さんに、改めて私はすごい展開になったと思う。丸暗記だけの関係だと思っていた出来事を、直に自分で見ていくのだと思うと、胸がどきどきしてきた。
「はい!
あっ、そういえば義経がイエスキリストで、東北にピラミッド作ったって話は本当なんですか?」
「……何か、他の様々な話と混ざっておりませんか、それは。
では、次なる時代の人々の営みを見に行きましょう」
「お願いしまーす。あーあと、参勤交代とか生類憐れみの令とか……」
「思い出した単語を適当に並べておりますでしょう、都様。
……まあ、今を生きる都様達にとって、歴史とは通常そうした遠いものに過ぎないのでございましょうな。
そうそう、鎌倉と義経公といえば、ひとつ都様にも興味深かろう逸話をわたくし思い出しました。神風で名高い、あなた様方が後に元寇と呼ぶようになった大戦でございますがね、あれには正規の兵だけでなく、裏方として術師達も参戦しておりまして……」
またもバスガイド然とし始めた、一定の調子を保って続けられる京さんの声と対照的に、周囲の景色は、徐々に頼りなくぶれて、色も輪郭も霞んでいく。
なぁるほど、これは間違いなく映像だわ。
壇ノ浦を離れて、舞台が次の歴史ステージに移るのだと分かった私は、いまだ眼下で続く、後世の私達は結末を知っている合戦を最後まで目に焼き付けながら、もう驚かなかった。
世界は変わっていく、時の流れに乗って。
それが、時代という言葉の意味。
そして、私は京さんに連れられて、たくさんの場所を見て回った。
この国の古い形、今日に至るまで流れ続けてきた時間の欠片を。
築かれていく城や町並み。そこで暮らす人々の息吹。過ぎ去った光景、もはや取り戻せない光景。それらはどれも驚きと新鮮さばかりで、でも不思議と懐かしく、心が落ち着きに満たされてくる眺めだった。草の上に直に座ってぼうっと眺めてると、いつしか自分が普通にここに生きていた人間のように思えてくる。
ううむ、和のDNA恐るべし、なんて。
どんなに驚いても、信じられなくても、教科書とは違う事があっても、これらは現実。
京さんが、遠い遠い昔にその目で見て、心に刻んだ、確かにそこにあった景色。
誰もが授業で習うあのお殿様は、実はこれこれこんな感じだったんですよーと、実体験として話せる人間なんて、きっと私の他にはいないだろう。
話した所で信じてもらえる訳がないし、真実だと証明する手段もない。
だから物凄く貴重なこれらの情報は、私の思い出としてだけの価値しか持たず、私の中だけに留まり続ける。
けれども、それでいいんだと思った。
お礼は、届けたいと願った相手にさえ届けば、そこで目的を果たしているのだから。
歴史好きって訳でもない、すごいだの面白いだのと安直な感想しか出てこない私がこの光景を見ているのは、とんでもない損失なんだろうけど、それがまた逆に、本当に個人的なお返しという感じがしてくるのだ。




