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第陸種接近遭遇キッチンナイフ - 10

私は耳を疑った。

顔を上げた私に向かって頷く男性が、決して聞き間違いじゃなかった事を証明している。

ここじゃ何だから、と言って、男性は私を促すように歩き出した。少し躊躇ってから、私も後に続く。家に連れ込まれたらどうしようと思っていたのだけど、向かった先にあったのは広めの公園だった。失礼ながら、私は男性と、声が届くくらいの距離を保って、それ以上は近付かなかった。この距離なら、もし何かの弾みで激昂して襲ってこられても、私でも走って逃げられる。

ただ、男性にそういう気は無いように見えた。

人目があるなしを除いて、とにかく、何もかもに疲れて見えた。

手頃なベンチを見つけた。私が右端におずおず座るのを待ち、男性が左端に腰を下ろす。間は、2人分ほど開いていた。

そこから、3分くらいの時間が過ぎる。やけに喉が渇く。水が欲しい。


話は、急に始まった。


「……事情も何も、そんなに難しい事じゃありませんよ。当時の恋人が、今で言うストーカーに付き纏われて、自分が守らなきゃと思い詰めた末にあんな事になった。ああ、そのままで聞いてください。俺に近寄られても嫌でしょうから」


ビクッと、私の体が固くなっていた。

限界まで離れて座ったベンチ。その距離は私から作ったものじゃなくて、私が座った後に男性が作ったものだったけれど、近寄られても嫌だろうからという言葉に、私は、胸の奥にあった恐怖感と嫌悪感を、見透かされた気がしてしまった。

男性が核心に触れた途端、急速に深い場所へと落下していくような感覚を覚える。

慌てて私は男性から視線を外して、正面に広がる公園の風景を眺めた。

人が、家族が、何でもない日常を過ごしている。あそこには現実がある。それが、私をとても安心させた。逆を言えば、私と男性の周りは今、完全な異世界として切り取られているという事でもあった。胸が重苦しい。私は、ただ横で昔の話を聞いているだけだというのに。


「ここには、空いた時間にけっこう来るんですよ。

静かでいいからね。ボーッとしてても不自然だから、本を読んだりして……年寄りみたいかな?」


男性は一旦、違う話をしてきた。

私は首を振った。


「包丁を買ったんです。

今思えばなんで包丁だったんでしょうね。大きい方が脅かせると思ったんでしょうか。人のを使うのは嫌だったし」


人というのは、誰だ。

たぶん、さっき言ってた当時の恋人の事だろう。


「警察に何度訴えても、当事者で解決しろ、実害がなければ動けないの一点張りで働いてくれない。今でもそんな話を聞きますが、昔はもっと酷かったんですよ。実害があってからの責任なんて、あっちは取る気もないくせにね。

……とうとう、彼女のアパートの部屋にまで来ましてね。数日置きにそんな事が続いていたものですから、その日は俺も彼女の部屋にいて……乱暴に叩かれるドアに、彼女は怯えきっていて……。

そこで、警察を呼ぶべきだったんですね。

なのにどうして俺は……出てしまったんでしょう。

話をつけてやるとドアを開けて、激しい罵り合いになりました。俺は……背中に包丁を隠し持ったままで」


声が途切れる。

同じ場所で、私と男性は一回深呼吸をした。


「怒りと興奮で、頭が真っ白でね。帰れよと怒鳴って、包丁を見せたんです。

でも相手は怖がるどころか逆上して、俺を突き倒して部屋の中へ突っ込んできたんです。

止められませんでした。あんまりにも急でしたし、包丁を持ってたといっても、脅す目的だけでしたから。

彼女が悲鳴をあげました。あいつは俺じゃなく、俺に助けを求めた彼女の方に怒って襲いかかったんです。

暴れる音や、物が落ちる音が聞こえて――背中を打って少しの間呆然としてた俺は、その音で起き上がって、部屋に駆け込みました。この時はまだ、早く引き離さないと、警察を呼ばないとくらいに思っていたんです。

……ですが……中で、あいつが彼女の髪を引っ張って殴り付けているのを見た時、何もかもが頭から飛んで……」


また、男性は言葉を止めた。

さっきと違って、その先はもう具体的には話されないだろうけど、何が起こったのかは分かった。

男性の話し方は断片的で、背景を無視して状況にしか触れていない。時間だって、正確に起こった順には並んでいない。それでも、日頃からニュースでその手の事件が嫌というほど垂れ流される国に生きていると、男性の語らなかった部分が、空白を埋める光景が、信じられないくらいリアルに想像できた。

考えないようにしても、この人が、と考えてしまう。

気分が悪くなる。とても寒い。

男性は、組んだ両手を額に当てていた。後悔しているようであり、苦しんでいるようでもあるが、何故か、祈っているという気だけはしなかった。

それをこうして見ている私は、何を考えているんだろう。何を思っているんだろう。きっと、何も考えられていないのだ。私は頭を空っぽにして、ただただそこにある話を聞いている。


「長い長い時間が過ぎた今になって振り返れば、バカすぎました。

あまりに俺は幼稚で、子供すぎました。

あんな事になってしまう前に、もっと幾らでも打てる手はあった筈なんです。

当時だって、充分に考え付いた筈なんです。

それが、人間頭に血が昇ると、思い詰めると、解決できるのは自分しかいないと思い込んでしまうと、とてもじゃないが、常識では考えられないような事をしでかす。……怖いですよ。そういう心の隙間ができるのは、本当に怖い」


私の頭の中を、いろんな物がぐるぐる回っている。

どんな事情があっても、人殺しは人殺しだ。京さんの言った通りに。

ただ話を聞いたら、それによって助かった人がいたというのも確かで――。

ちがう。

いくら助かった人がいようと、人殺しは人殺しだ。

現実の世界は、それを基準に動いている。


でも。


でも、と、そこでやはりまた思ってしまう。

どう聞いても、悪いのは殺された奴の方じゃないか。そんな気持ち悪い犯罪者は殺されたってしょうがないと、そう考えてしまっている自分がいる。それは法律では正しくなくても、人間の感情としては、正しく起こり得るもののひとつではあるんだろう。

でも――でも。でも。

この、ある意味でとても怖い考えが、様々な事を無視しているのは分かる。

殺された側にも、家族はいたかもしれない。第三者からすれば、死んで当たり前だそんなクズと思っても、犯人の身内の側からすれば、何も殺すまでしなくても、と思ってしまうのはあるかもしれない。

その人との関係の深さで、物事の見方なんて簡単に変わってしまう。

堂々巡りだった。自分とは無関係だと考えてた世界に一歩踏み込んだら、頭がぐちゃぐちゃになっている。ああ、京さんが言った、考えるのは大人になってからにしろってのは、こうなるからだったのか。


「もういいですよね。

……喋っておいて何ですが、こんな話を聞きたがってはいけませんよ」


あんなに丁寧に応対してくれていたとは思えないほど、素っ気なくベンチから立ち上がった男性に、私は咄嗟に尋ねていた。それが一番聞きたかった事という訳じゃなかったんだと思う。ただ、急な事で混乱してたんだろう。


「あの――その人、とは」

「別れました」

「えっ」


一瞬、私の思考が凍りつく。

この男性が、いい事をしただなんて思っていない。さっき自分で言ったように、まだまだ他に解決方法はあった筈だった。

だけど、話を聞いた私の頭の中には、その後流れた時間の勝手な想像図があった。

自分を助ける為に手を汚してしまった人を、その人はずっと待ち続け、励まし続け、支えになってくれた。ハッピーエンドにはなりようがなくても、それでも、ほんの少しだけは救いの欠片があったに違いないと。

そのぐらいは、そのぐらいの事は、許されてもいいんじゃないかと。

許されたんだろうなと、私は勝手に。


「事件があって、すぐにですよ。いろいろあって……まあ、そうなりますよ。

当たり前です。周りの事とかね。難しいですよ、本当に。

もう、どこにいるのかも知りません。

俺のやってしまった事で、一番傷ついたし恐ろしかったのは彼女でしょう」

「………………」

「今は、そういう――世話をしてくれる人達の力を借りて、一人で暮らして働いています。すみませんね、嫌な話を聞かせてしまいましたね」

「……いえ、そんな……」


他に何も言えない。

私が、聞かせてくれと頼んだ事だ。

黙った私を見下ろす男性は、悲しそうというより、もっと深い、何もかも諦めている目をしていた。


「それじゃ」


説教めいた事も忠告めいた事も口にせず、男性は現れた時と同じく、静かに去っていった。座りっぱなしだったのをはっと思い出し、慌てて私もベンチから立つ。

けど、そうした所でほとんど意味はなかった。

声もかけられず、追う事もできず、追う理由もなく、ただ立ち尽くしたまま背中を見送るしかなかったのだから。


包丁。

私利私欲の為でなく、大切な人を守る為に買われた。そして確かに、一人の人間を守った。

そして一人の命を奪い、守った人も含めて、多くの人の人生を狂わせた。

ここまでが事実。私の知った事実。

けれども、もしもこの包丁が使われなかったら、何の罪もないもう一人の命が奪われるか、奪われないまでも、取り返しがつかないほど傷付けられていたかもしれない。

これは推測。絶対に起きなかったとは断言できない推測。

私が手に入れたのは、このふたつだけだ。


せめて、彼女が幸せになっていてくれれば、と思います。

被害者には申し訳ない事をしました。


あの男性が、とうとうそのふたつを口にしなかった事に、立ち尽くして立ち尽くして体が少し冷えてきた頃に、やっと私は気付いた。

そして、何となく分かった。言わなかったのは忘れていたからじゃなく、そう思っていないからだという事が。


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