第伍種接近遭遇ユーズドバイク - 6
頬に当たる潮風が気持ちいい!
……なんて良く言うけれど、潮風と普通の風を区別するのは無理だと思う。そうなると人の心に影響するのは、視界に青い海と白い雲があるかどうかじゃないだろうか。ふたつのロケーションさえ揃えば、あまねく風は立ち所に潮風へと変わる。たとえ海の反対側から吹いてこようとも。
今の私にとっては――どっちかな。向かう先、視界の向こう、海から風は来ているようであるけれど、正直あんまりはっきりしない。何故なら、私の顔をなぶる風の発生原因は、自転車で全力疾走する私自身だからだった。
重力に任せて、一気に坂道を下る。ハンドルをぎゅっと握り、足はペダルに置いただけ。それだけで、ごうごう唸りをあげる風圧が、私の顔を容赦せず押してくる。
「ひゃっほおう!」
周囲に誰も見当たらないのをいい事に、私は思い切って派手な歓声をあげてみた。爽快だ。スピードは自然にぐんぐん上昇していき、これ以上行ったらちょい怖いしブレーキ、ってタイミングで、坂の終わりに差し掛かる。
速度に任せて暫し直進、続けてそのまま上りの斜面へ突入。
ここからはやや腰を浮かせた、立ち漕ぎ気味の姿勢に移る。
病み上がりにはハードな使用法も、ごく当たり前のようにこなしてみせる自転車。お父さんの修理は完璧だった。以前のオンボロ姿を隣に並べたって、誰も同じ自転車だとは思わない。
「もう……! ちょっとで……! 坂終わりっ……!」
息継ぎをしつつ掛け声を発し、最後の気合を発し終えると同時に坂道を登り切る。坂の先に隠れていた雄大な光景が、ぶわっと私の前に広がった。
青い空。もくもく沸き立つ入道雲。180度のパノラマを描く大海原の上を、遥か遠くに飛ぶ水鳥達。
「はあっ!」
なんだか熱くなる胸を一呼吸挟んで整え、私は再び力強くペダルを漕ぎ出す。行き当たったT字路を、渡ってから右に曲がる。ここからは、海に沿って走っていく。
夏の海を見下ろせる海沿いの道路を走るなんて、最上の部類のサイクリングでしょう。海水浴には少し時期外れで、そもそもここらは岩場続きで海水浴場向きの地形じゃないから、観光客用のお店も見当たらず、人影だってほとんどない。
どっちも、今の私にとっては好都合だった。ここぞとばかりに大声を張り上げたりしてみる。部活や体育祭でもない限り、日常じゃ滅多にこんな風に張り上げる機会のない声。
「どーよー!! まんぞくー!?
こーんなふうに、ハァ、よくしてもらっちゃってさー!」
途中で息継ぎを挟み、半ばヤケクソな勢いで叫びながら、がんがんペダルを漕ぐ。
軽い、軽い!
結構長い坂を登った後なのに、面白いようにスムーズに走ってくれる。
やるじゃん、お父さん。そしてやるじゃん私。部活で培った体力が、こんな場面で役に立とうとは。
「お金もかけてもらって、きれーに直してもらって、よかったでしょー!?
最後の、走りの、ハアッ、シチュエーションも、最高じゃない! 夏の海を望む道路だなんて、さ!」
ああ、高校生にもなってホント馬鹿みたいだ。
けど、分かってて馬鹿やるのって、どうしようもなく気分がいい――。
(ありがとう)
「え」
慌ててスピードを落とし、私は周囲を伺う。
聞こえた、今。ありがとうって。
待っても続きはなかった。誰かが後ろから追い付いてくる事もなければ、相変わらず人の気配もない。喋れば声が届きそうなくらい私の近くにいるものといえば……この、跨っている自転車だけだ。
じゃあ空耳かな、気のせいかな。
それが現実的な解答だけど、もし空耳でも気のせいでもない方が正解だったとしても、驚きはしない。本当に声が聞こえたなら、きっと、そういう事なんだろう。
だから、そういう事だとして、そこに居るものだとして、そこで聞いているものだとして、私も答える。
「……どういたしまして!
よーし、それじゃこのまま、行けるとこまで突っ走るぞー!」
ハンドルを握る手に、力を込める。それが全速前進の合図。
盗まれて、あっさり捨てられた自転車。乗りやすいように、私の身長に合わせて、お父さんが何度も調整してくれた自転車。
そのペダルを踏む、漕ぐ。さらさらとスムーズに流れていく、チェーンの音色。暑さに吹き出してくる汗が気持ちいい。蓄積する脚の疲労が気にならない。前へ、前へ、前へ行こうとする心が、疲れを吹き飛ばしている。そして自転車もまた、張り切る私を、確かな意志を以て後押ししてくれている。
嘘じゃない。そう感じるのだ。
だったら私も、お父さんと自転車、ふたりの心意気に応えて、後先考えず全力を振り絞ろう。
景色はとっくに見覚えがない。ずいぶん遠出してしまった。
「……うーん、ここから駅までは結構あるなあ」
どうしよう。
「まあ、どうでもいいか!」
どうでも良かった。
帰りは歩いて帰らなきゃいけなくなるけど、そんな事はいい。
せっかく苦労して修理した自転車を失くして帰ってきた娘への質問攻め対策も、後で考えよう。翌日きっと襲われる猛烈な筋肉痛は――考えない事にしよう。
今はただ、前へ、ひたすら前へ。
たったひとつの、願いの叶う瞬間を見届ける為に。
痛いくらいの太陽の眩しさに、目を細める。私は遠く続く道の先にある、夏の終わりを目指して走っていった。




