第肆種接近遭遇ハミングバード - 5
素足の裏が、硬い砂粒を踏む。
頑強で厚い皮膚は、それ自体がごく簡易な鎧の役割を果たし、少々擦れたからといって傷付く事はない。
人の形をした足。人の形をした指。そこから生える爪だけが人には似ず、先端に向かうにつれて鈎の如く湾曲している。
猛禽を思わせる尖った爪が、一度土を擦り、止まった。四肢を投げ出して地面に倒れた少女の傍らに立ち、だが鬼は身を屈めて助け起こすでもない。闇夜の獣に似た輝きを放つ瞳で、じっと少女を見下ろしている。
やがて、形の良い唇が持ち上がった。
笑っている。心から楽しそうに、親しそうに。
「知ってるか? 鬼ってのは金棒ぶん回して殴るばかりが脳じゃない。
鬼の気に当てられたっつう話知らね? まあ知らねえか。
そっち方面の抵抗力がない人間一人二人を昏倒させるぐらいは、朝飯前だって事だ」
気を失った少女からの返答は無い。
それにも関わらず、鬼はまるで聞こえてくる声に相槌を打つかのように、何度もその場で頷いた。
逞しい腕を組み、ようやく少女の横に屈み込む。が、やはりそれだけであった。
昏倒させたと自ら口にしながら、それ以上の暴力を行うでもない。ただ何かの訪れを待つように、この停滞した時が再び流れ出す瞬間を心待ちにしているかのように、表情も態度もそわそわと浮かれていた。
その様は、あたかも母親の支度が終わるのを待ち切れない、お出かけ間際の幼児の姿を思わせる。落ち着きなく上を見、下を見、とうとう鬼は堪えられずに、再度独り言を漏らした。
「眠らせといてなんだけど、早く起きてくれよ。
起きてくれれば――」
言いかけて、鬼の盛り上がった肩が跳ねた。
錯覚かと思った。だが、そうではない。
お調子者の仮面――あるいはそれも本性であったのかもしれないが――が消え、獣じみた形状まで細まった両眼が、油断なく周辺の様子を探る。
公園には、静寂が満ちていた。
いつの間にか、鬼のまるで気付かぬうちに、周囲から音という音の存在が消失している。
異常であった。
いかに世界が静寂へ向かう時間帯とはいえ、夜は夜で、昼とは異なる様々な音を内包しているもの。こうも無音になるなど、ありえない。
しかし真に鬼の注意を引き、警戒させているのは、静寂自体ではなかった。
葉一枚の揺らぎでさえ、虫が草を食む音でさえ聴き取れるのではないかという極度の静けさの中で、それは再び、先程よりもはっきりとした強さを備えて聞こえてくる。
ひぃい……いぃぃぃい…………ひぃぃ……ぃぃぃいい……ぃぃ……
なんだ、一体。
鋭く吹く風の音にも似ているが、それとは違う。
高い、笛の音色。否、もっと細く、もっと高く、そして物悲しい感情を滲ませた、どこか不吉な音色。
僅かの間とはいえ、完全に音に気を取られていた鬼の耳に、またしても別の音が届く。
ざり、ざり、と、厚く幅のある物が、連続で地面を踏む音。
鬼は、音のする方角を振り向く。
彼らの他は誰一人いなかった公園に、新たな人影が加わろうとしていた。
闇を割るように姿を見せたのは、ひとりの老人であった。
見事な白髪を几帳面に撫で付け、顔には幾筋もの皺。
しかし背筋は真っ直ぐに伸び、些かも年齢による衰えを感じさせない。
眼鏡から下がった金のチェーンが、暗闇の中、遠い街灯の光に微かな輝きを返している。
風変わりな着こなしをした老人は、鬼を見とめるや立ち止まり、胸元に片手を当てて厳かに一礼した。まるで老人のテリトリーである、あのコンビニエンス・ストア内を思わせる動作で。
鬼は、無言のまま唸った。燐光を帯びるように、老人の足元が白く朧に霞んでいる。
「やはり、殺しは相手の意識と自覚が無ければつまらないですか?」
ここだけはいつもと違い、挨拶を抜きにして老人は切り出した。
真意を測りかねた鬼が答えられずにいると、老人はひとりで勝手に話を完結させた。
「そんなものでしょうな。わたくしにも、身に覚えはありますので」
「てめぇ……どうして……」
ようやく、荒々しい声が鬼から漏れる。唇の向こう側からは、犬歯の擦れ合い、軋む固い音がした。
鬼には怒りがある。だがそれと等しく、老人の行動への疑問と警戒があった。
何故わざわざここへ来た。どうしてここが分かった。
鬼は老人を睨み付けるが、返答は無言。
急激に鬼の内部で怒りが膨れ上がり、それ以外の感情を塗り潰していく。
もともと恵まれた体格が二周りは増して見え、健康的な褐色の肌が、更に濃く赤みを帯びていった。銀の髪が揺れる。容赦ない殺意の放出に、これより起こるであろう血の饗宴を予感してざわめいているのだ。
鬼が、吼えるように息を吐いた。鋼の如き腕に、太い血管が浮き上がり脈を打つ。
猛々しき軍神の彫像を彷彿とさせる姿。戦闘の為に完成された、まさしく機能美の極地たる肉体がそこにあった。
「あなた様の、都様に対する態度。鬼が協力的というのが、どうしても気に掛かったのですよ。鬼は人に近い分、妖怪の中でも様々な情を宿し易い」
鬼の変化を目の当たりにしても、剥き出しの殺気を浴びせられても、老人は逃げようとしない。
怯みも動じもせずに、落ち着き払った口調で話を続けている。
それこそが、異様な光景であった。
「あなた様が都様を見る目を、わたくしは見ました。
……あれは、ともだちを欲しがる目でした。
しかしさて、鬼の――我々の友を欲する方法までもが、人と同じだとは限りません。中には、喰らって一体化する事を友になる事としている者がおりますからねえ。それなりに多く」
老人は一息つくように、整えられた髭を指先で撫でた。
その時には、鬼が一歩を踏み出していた。無造作でありながら流麗な足運びは、注意を払わなければ歩み寄られた事にすら気付くまい。
老人は、ちらりと鬼の足元を一瞥しただけで、視線を元通り前方へと戻した。
「逃がしても良かったのですが、あなた様は危険すぎます。
人が、強い情の果てに鬼と化す事例からも分かりますように、鬼は情念の妖。
鬼であるが為に、一度その魂に宿した感情は容易く消えません。
……惜しいですなァ、あなた様とは、店主と客として、今後も有意義な時間を築いていきたかった」
「逃がす……?」
鬼が笑った。それは自分の強さへの自信と、いまだ目立った動きを見せない老人への警戒心と、そして僅かだが、正体不明の怯えが混じった笑みであった。
嘲笑うも同然の鬼の反応に、老人はやはり穏やかに立っているだけ。
明らかな敵対の意思を口にしながら、その表情と口調は、心底こうなった事を無念がっているようであった。それがまた、不気味に感じられた。こんな態度の相手とは、鬼はこれまで遭遇した経験がなかった。
その時、鬼がハッと目を見開いた。
闇が、また濃くなっている。亡霊のように佇む、公園の樹木達。その梢が揺れた。
風が吹いたのだ。しかし、鬼にはそれを感じられなかった。そして、音は相変わらず聞こえてこない。
「あなた様ではなく都様を取る理由は、単純でございます。
まず、例の依頼達成の累計が、現時点においてあなた様より上であるという事。
そして次に、これが何よりといえばそうですが、まこと希少な人間のお客様だからでございます。レアもの、というのでしょうか。今度店頭に置こうと考えている、スピードクジに導入したい概念なのですよ」
唖然とする鬼に、老人は上品な微笑を返すと、これまでの静止から一転して鬼へ向かい歩き始めた。
うららかな日差しの下、川べりを散歩でもするかのように、気楽に。
鬼は舌打ちするや、迫り来る老人から逃げず、逆に大きく踏み込むと拳を繰り出した。
鬼の怪力は侮れない。腕の一振りは軽々と岩を跳ね飛ばし、大木をへし折る。
また、その足裏には細かな粘性の毛が生えていた。これが滑り止めとなり、結果いかなる地形においても、強靭な踏み込みと、足腰を土台として繰り出される攻撃とを支えている。造形は人間とさして違わぬようでありながら、その実、鬼の肉体は戦闘機械そのものであった。
筋肉の一束一束の強度が、人のそれなどとは比較にならない。
数多くの敵を屠ってきた鉄拳が、無防備な老人の顔面に吸い込まれていく。
命中の時まで、老人はまったくの棒立ちであった。
そして、当たった。
しかし、当たっていなかった。
何が起きたかのか、鬼には分からなかった。
下から上へ抉るように殴りつけた拳は、間違いなく貧相な老人の頭部を捉えた。
握り拳が顔面に叩き込まれ、顎と鼻が潰れ、骨が砕けるのを確信した。
しかし鬼の拳は、今まさに繰り出さんとする直前で、そんな出来事など無かったかの如く停止している。
鬼は数歩後退ると、あまりの不可解さに思わず老人を見つめた。
それ自体が命取りになりかねない迂闊な狼狽であったが、別段、老人はその隙に攻撃をしてくるでもなく、ただ、同じ場所に立っている。乾いた唇が動き、静かに言葉を刻んだ。
無駄でございますよ、と。
鬼は短い罵声を飛ばしながら、再度老人に襲いかかる。
金棒を抜き、横殴りに振った。たったそれだけの動作で、無数の敵を葬ってきた単純かつ必殺の一撃であった。
ただでさえ強力無比な打撃が、武器を得る事で破壊力を数段倍増させる。ましてや鬼の怪力ともなれば、それはもはや鈍器でありながら刃物にも等しい。
刃の有るか無いかなどは、これ程の速度と重量ともなると関係ない。振り抜く勢いが、対象を斬るのだ。
確実に殺せる頭部ではなく胴体を狙ったのは、先程の件が頭にあったからだろう。
振り被ってから薙ぐまで一秒。鬼からすれば小枝に等しい老人の腕と胴を、一息に金棒が殴り飛ばした。
確かに、殴り飛ばした。
しかし、殴り飛ばしていなかった。
まただ。
さっきと同じだ。
当たった筈なのに。肉を潰し、骨を砕く手応えが、握り締めた金棒から伝わってきたのに。終わってみれば何故か、それら全てが消えてしまっているのだ。まるで、時間を巻き戻しでもしたかのように。
避けられたのとも違う。防がれたのとも違う。
殴った、当たった、そして、なかった事になっている。
――届かない。
そうだ。攻撃が届かない。そう表現するのが、最も適切という気がする。
今度こそ、鬼は愕然とした。
鬼の一撃は、その威力を頼んで必中必殺を旨とするが、必ずしも一撃で仕留められる相手ばかりではなかった。防がれた事も避けられた事も受け止められた事も、手痛い反撃を食らった事もある。
だが歴戦の鬼をして、こんな事は初めてであったのだ。
相手は、何もしていない。それなのに、何もできない。
傷付く事は怖くなかった。鬼にとって、闘争は快楽と結び付く。
しかし、二度も攻撃を防ぎながら、反撃する訳でもなく相変わらず佇んでいるだけの老人に、鬼は生涯で初めてとなる得体の知れない恐怖を感じ始めていた。
「防いだ訳ではありませんよ。
わたくしは、ただルールを決めただけでございます」
穏やかに話す老人に、反射的に鬼が退く。が、一歩引いたところで動かなくなる。
否、動かないのではない。
動かせないのだ、何故か。
鬼が呆然と、血走った眼を老人に向けた。
体全てが声を聞く事に集中させられてしまったかのように、見ている事しか出来ない。
「あなた様の攻撃は、わたくしに当たりません。そういうルールだからでございます。
あなた様の攻撃が引き起こす余波も、わたくしに当たりません。そういうルールだからでございます。
武器に術、あなた様のあらゆる攻撃に属する行為は、わたくしに効きません。そういうルールだからでございます。
あなた様は、わたくしの攻撃を防げません。そういうルールだからでございます。
あなた様は、逃げる事ができません。そういうルールだからでございます」
鬼の膝の辺りへ、不意に煙が流れてきた。
向こう側にあるものをぼんやりと霞ませる程度の、薄い煙が。
見れば、煙はその一筋のみではなかった。何本も何本も、太さを変え高さを変えて、一帯を漂っている。やがて煙は融合し、周囲を囲う壁となった。鬼はようやく、これは煙ではなく霧だという事に気が付く。
この霧を、鬼は前にも見ている。夜の公園を満たす薄霧は、老人の店に入ろうとする直前に見掛けるものであった。
ひぃい……いぃぃぃい…………ひぃぃ……ぃぃぃいい……ぃぃ……
また、あの音が聴こえる。
鬼の背後から、上空から、真横から、遠くから近くから。
出所を求め鬼は激しく視線を動かすが、そのたびに音色は遠ざかり、かと思えばまるで違う方向から聞こえてくる。
老人は、そんな音など聞こえていないかのように平静を保っている。
現れた時から、何ひとつ変わらずに。
「何でもあり、なのですよ。
何でもありを何とかしたいのなら……どうしてもというのなら、この俺を倒してから行け! と、これは人間の有名な台詞でありますが。
ともあれ、あなた様が妖気の総量においてわたくしを上回らない限り、わたくしは真実無敵でございます」
老人が、変貌を始めていた。
老人の全身は既に、霧に包み込まれている。その霧に溶け込むかのように、輪郭が崩れ始めた。
霧は、濃い。通常であれば、何が起きているかの仔細を確認する事はできない。
だが不幸な事に、鬼はその妖たる優れた眼によって、変化の全貌を目の当たりにしてしまっていた。
姿勢が歪み、美しく保っていた背筋が湾曲する。
長い尾がびいんとしなるや、膨れた先端が割れて一対の牙が覗いた。
地面を踏み締める四肢は恐ろしく太く、頑強さと、猫科の獣特有のしなやかさとを兼ね備えている。
それは正しく虎であった。体躯を覆う黄金の毛並みに、縦横に走る漆黒の雷縞。
しかし、それにしては背に茂る毛は濃い褐色で荒く、更に視線を下げれば、そこには尾であって尾ではないものがある。
ゆらりと、独自の意思を持って尾がうねった。
尾に見えていたのは、蛇だった。眼前の獲物を狙い定めるかの如く、蛇は空中高くで鎌首をもたげる。
辛うじて人の特徴を留めた貌が、呼応するように唇を捲り、尖った牙を覗かせる。
人の特徴を留めていると感じたのは、それが人に近い獣であったからだ。虎の胴体には、猿の顔が付いていた。
ばらばらだ。
全てであって、何でもない。あらゆる特徴を部分的に切り取り寄せ集め混ぜ合わせた、不統一性の魔物。
魔物の前足が踏み出す。鬼はもはや瞬きすらしなかった。
仮に動けた所で、どうする事もできなかった。
絶望の中で、脳裏に蘇ったものがある。鬼は、唐突に先程から聞こえていた音の正体を悟った。
そうだ、あれは、鳥の鳴く声だ――。
「そんな、そんな……」
今こそはっきりと敵の全てを理解した鬼が、子供のような声をあげる。
魔物の喉が膨らむ。開かれた口から、あの、細く長く、物悲しい鳴き声が夜に響いた。
爪が土を蹴る。身体が躍動する。無抵抗のまま飛びかかられ、牙に喉を喰い破られる寸前に、鬼は叫んでいた。
「鵺――!!」




