第参種接近遭遇コードアンドリモコン - 5
え。
と思った。遭遇した時、それ以外を咄嗟に思える奴がいるなら会ってみたい。
日常で実際に聞く機会なんて一生に一度あるかないかだろって台詞が、今、確かに私の耳に届いた。へえ、あんなに裏返った声って出せるんだ……なんて妙な所で感心してる場合じゃない。声の鋭さと大きさに、反射的に振り返る。言葉の意味を理解したのは、その後だった。
遠くで立ち竦んでいるおばさん。道路を猛然とこっちへ突き進んでくる、帽子にマスク装備の男。男は自転車に乗っていて、女物のバッグを丁度カゴに放り込んだ所だった。泥棒というか、ひったくりか。どっちにしろ、現場に出くわすなんて非常に珍しいのは間違いない。自転車は小回り利くし、簡単に乗り捨てられるから使いやすいのかも、なんて分析してる場合でもない。場合でもないが、猛スピードで突っ込んでくる男を前に、一介の女子高生な私にできる事も他になかった訳で。
結果、指一本動かせず呆然と突っ立っている私の脇を一瞬ですり抜けて、泥棒は逃げ去っていった。すれ違う瞬間、腕が勝手に動いて顔を庇う。僅かに風を受ける。短い叫びが喉から漏れる。私は振り向いた。他にも2人ほど、驚いている通行人がいる。
そこまできて、やっと私は我に返れた。
「結んで!」
「へっ!?」
「チェーン! 自転車の!」
既に数十メートルは先に行ってる泥棒を指さし、右肩の妖怪に向かって叫ぶと同時に、私は走り出していた。
ジュースの缶が、手から離れて飛んでいく。ゴメン、これ終わったら拾うから!
ほとんど間を置かず、前方でクラッシュ音。そして悲鳴。
自転車が派手にひっくり返り、男が道に投げ出されたのが見える。
ガラガラと虚しく回転しているタイヤ。遠目にも完璧に外れているチェーンは……えらく酷い事になっていた。あんまりいきなりの事で、専門家といえど細かい調整ができなかったのかもしれない。
というか、むしろ結べた事がびっくりだよ。長い紐なら何でもコード扱いなの?
……まあ成功したんだから、それで正解なんだろう。為せば成る、為さねばならぬ思い込みと力押しこそ正義。
男が蹲って呻いている。骨が折れてもおかしくない転び方してたし、打ち所が悪ければ最悪……と今更ぞっとしながら、私は駆ける、駆ける。運動会を除いて、人生でここまで真剣に走った経験は無かったと言い切れるくらいに。
「くっそ……!」
私を睨んで、男がポケットから何かを出した。
光っている。ナイフだ。あんな物まで持ってたのか。荷物を盗られるだけでも許せないってのに、あんなので大事な身体に傷まで付けられちゃ、被害者は堪ったもんじゃないっての。
「隠して!」
今度は聞き返されなかった。私の見ている前で、男の手からナイフがふっと掻き消える。よっし、やるじゃん私!ってか妖怪! 重要なのはゴリ押しよ!
手品みたいだと、私は思った。あるいは、魔法。その正体は後者に近い。急に重みを失くした掌に、男が呆然としている。近くの植え込みを探してみれば出てくるんじゃないかなぁ。
とにかく、これで危ない物は消えてくれた。私は尚も駆けて、駆けて――。
んで、もうちょっとの所まで来て気が付いた。
相当痛そうな転がり方をしたし、ナイフもどっかへ行ったけど、相手はどう見ても大人の男性。一方の私、格闘技を習っている訳でも運動が得意な訳でもない、標準的な女子高生。その場の勢いに流されて突進したのはいいけれど、私にはこの男を捕まえられる力なんて無いんだって事に。
しかも、相手はひったくりをするような奴だ。犯罪者だ。
殴られるかもしれない。蹴られるかもしれない。ナイフがあれ一本だって保証もない。刺されたら死ぬかもしれない。きっとそれは、信じられないぐらい痛くて苦しい。当たり前すぎる可能性に今更行き当たり、どこかに隠れていた恐怖が一気に襲ってくる。
ああ、私。
馬鹿だ。
立ち竦んだ。
立ち上がろうとしている男と目が合う。
私の足から、力が抜けていく。
――駄目。
その時、脇と後ろから、二人の人間が泥棒に掴み掛かった。
怒号と罵声。激しい抵抗は、すぐに止む。
すっかり存在を忘れていた、さっき私と一緒に驚いていた通行人達が、男を取り押さえていた。
「……はあ……」
私は冷たいアスファルトにへたり込んだまま、目の前の大捕物を眺めていた。
腰が抜けていて、他に何もできなかった。
人情の薄れた現代社会なんて言うけれど、どうしてどうして勇敢な人達も多いじゃないですか……。
「ちょっとあなた、大丈夫?」
興奮した人特有の、上擦った大きな声が背後から聞こえる。
よろよろと首を曲げて振り返ってみれば、バッグを盗られたさっきのおばさんだった。




