魂を焚く
多肉植物の細かい鉢植えと白塗りのラティスの向こうに、低く静かなエンジン音が近づいてきた。
いっしゅん高くなってすぐに静かな振動となった音は、ちょうどカーポートの影になって止まった。
待ち人が来たようだ。
環の、ではない。母の待ち人。それでも、留守番を頼まれた環は、その人に会わねばならない。
小柄な少年はテラスの椅子から滑り下りるように立ち、いったんガラスの掃き出し窓ごしに部屋の中に目をやる。
中のレースカーテンが少しも動かないのを確かめてから、白いサンダルをつっかけて少し低くなった庭へと出ていった。
控えめに砂利を踏む足音が緑の濃い木々を通して、きこえてくる。
その間を縫うように
「上坂さんのお宅はこちらですか?」
さらに控えめな男の問いかけが耳に届く。想像していたよりも、ずっと若い感じだった。
庭の木漏れ日にあわせたようなその声音は、環の耳になぜか心地よく響いた。
モッコウバラのアーチをくぐって目の前に現れた男に、環はほっと肩の力を抜く。
彼は、それほど年を喰っているわけでもなく、かと言って若すぎるという程でもなさそうだ。環の母よりは、わずかに若いように見える。
顔立ちは温和で、笑っているわけではないが、どことなく打ち解けたものを感じさせた。
「はい、あの、『焚き屋』さん……?」母から聞いていた名前が思い出せない。
「リョウカの家、油井と申します。少し遅くなりまして、すみません」
「あの……」
油井は、「おうちの方、いるかな」とは訊かなかった。環は何とことばを継いでいいのか少しためらい、
「僕が、うかがいます」
そう言って、彼の前に進んで行った。
かなり背が高い人だ、それでも、不思議なほど威圧感はなかった。
この人が……環がさぐるように、彼の顔を見上げる。そんな目線を感じたのか彼がわずかに笑みを含ませた目で環を一瞥してから、家の方を見た。顔を動かした時、かすかに涼やかに甘い香りが環のもとにも届いた。
クチナシだろうか? いや、花はもう終わっている、それにもっと、淡い感じだった。母ならすぐに花の名前を当ててみせるだろう……わずかに思いが逸れたところに、彼の声が耳に入り、環は、はっと意識を彼のことばに戻す。
「焚きものについて、すでにどこかにまとめて下さっているとお伺いしましたが」
「はい」
環のことを子ども扱いしていないところも何となく気に入った、環も同じく真面目な口調で家の方を見やる。
「マ……母が。キッチンの、テーブルの下に」
ことばを聞いていたかのように、急にがたんと何かが当たる音が響いた。
「急がないと、出て行ってしまうかな」
そう言いながらも、油井と名乗った男性はあまり慌てたふうもなく、また環の顔をみた。「いいですか、中に入らせて頂いて」
どうぞ、と環の方が慌てて、サンダルを脱いでテラスに上がり、窓をそっと開ける。
「あの、僕は」
「キッチンは、右の奥ですよね。ああ、テーブルが見えました。だいじょうぶ、お待ちいただいて構いません、こちらで」
油井は白い薄手の手袋を自然な動作で嵌め、畳んだ和紙のような薄い紙を拡げながら、滑るように中へと入っていった。
環はほおっと音のしないように息を吐いて、またテラスの椅子に座った。
テーブルには、冷たい緑茶とコップがふたつ、用意されている。
いい、環、全部自分で飲んでしまわないようにね。焚き屋の人が来られたら、ちゃんとお茶をお出しして。取って来ていただく時には、いっしょに家の中に入らなくてもいいけど、どこかに遊びに行っちゃうのは、だめだからね。テラスでちゃんと終わるまで待ってて。焚くのもけっこう時間がかかるらしいから、一時間か、二時間くらい。
母は、急に出かける用事ができて、あたふたと出かけていった。妹が学校で急に熱が出たのだと言う。そのまま病院に寄ると言っていたので、たぶん夕方遅くまでは帰ってこられまい。
ちゃんとした焚き屋さんっていうのは予約でいっぱいだから、今日を逃したら、次いつ来てもらえるか……
環でも、ちゃんとお留守番できるよね? 焚き屋さん来たら、ちゃんと伝えてもらえる?
「ちゃんと」の回数がいつも思っているより五回は多い母が、そう言って出かけてから環はずっと、テラスの木陰で、彼を待っていたのだった。
キッチンのシンク下にある戸棚に、母はそれを閉じ込めようとしたが、少し大きかったし何しろ小刻みに動きまわって仕方なかった。
しかたなく、母は古い着物の紐でもって、それをがんじがらめに縛り、まとめ上げていたようだ。
家の中からは、ほとんど物音がしない。油井という男はどんな風にそれの始末をつけて、持ち出してくるのだろうか。
興味はある。しかし……
どうしても、怖さが先だってしまう。
環がお茶を飲もうかどうしようか、迷っているさなか、ガラス戸に影がさした。
早い、もう始末は済んだようだ。
環は胸の動悸を気にしないような表情で、戸口の脇に立って待った。
するりと戸が開いて、彼が部屋からテラスへと出てきた。少し高い敷居を器用にまたぐさまを見ても、特に動揺した様子はない。たぶん、こういう仕事にはすっかり慣れているのだろう。
「今から、こちらで焚かせていただきます」
彼はそう言って、軽く自分の車の停めてある方にあごをしゃくってから、左わきに抱えるようにした紙包みを少し持ち上げて環にみせた。
しっとりと包まれた紙の塊はすでに全く動きもみせず、ただ彼の腕に重みを載せて丸まっている。市販の小玉西瓜よりわずかに大きく、どこか湿ってみえた。
「かなり大きい塊さまですので、そうだな……」彼はちらりと腕時計を確認した。環が知っている中で、腕時計をしている人はいない。だから何となく環には不思議な動きにみえた。しかし、油井という人物には、妙に合っているような気もしていた。
「一時間半は、焚きあげにかかるかな……その後、拾い集めさせていただくのに三十分くらい、でしょうか」
「はい」他にどう答えていいのか分からず、環はただそう言って目をおとす。
そこですっかり汗をかいたタンブラーに気づいて、油井に向かって
「お茶、いかがですか」とようやく訊ねた。
「ありがとう、いただきます」油井がわずかに笑みを見せる。
「今日は風が乾いているのか、喉が渇きますよね」
急に緑風が、ふたりの間をさらりと通り過ぎた。
油井の仕事ぶりは流れるように鮮やかでありながら、とても丁寧だった。
紙に包まれた『塊さま』――その時には、もうすっかり動くこともなく単なる塊と化していたが――を、油井は用意してあった目の細かい竹かごにそっと移し、軽く手を合わせた。
そして小さなコンテナいっぱいに用意してあった生花をまんべんなく載せ、紙包みが見えなくなってからおもむろに持ち上げ、車の方に運んでいった。
車には、小規模ながらかなり性能の良さげな焼却炉がついている。
お焚きあげには、その炉を使うのだという。
煙もほとんど出ず、匂いも全く出ないらしい。
着物の紐は、まだお使いになるかと思って、外しておきました。
そう言って、油井はきれいに畳んだ布紐をそっと、テラスのテーブルに置いた。
どうやって外せたのか、語ることはしなかった。
だいたい、焚き屋をやっている人ならば、塊さまがどのような経緯で凝り固まり、ひとつの塊となってそこに在るまでになるかは、分かっているはずなのだ。
母も言っていたが、焚き屋さんには個人情報なんて、筒抜けなのよ、と。
母のまとめていた『塊』については、環にも覚えは、あった。
元はと言えばこの五月から、その塊はだんだんと大きく、固くなっていったのだ。
この油井という人は、塊さまに触れているし、始末もつけている。だから母のそこまでの思いと、環の事情についてもよく解っているだろう。
それが口に出されたら、どうしよう。
環はまた、脇に座って焚きあげを待つ油井にそっと、目をやった。
代わりに、こう訊いていた。
「ずっとこういう仕事、しているんですか?」
はあ、と油井はあいまいな笑みをこちらに向けた。手にしたグラスをテーブルに置くと、すっかり小さくなった氷が軽く、音をたてた。
「そうですね……元々、実家が寺だったんで、こういう仕事には興味はあったんですが」
相手が環ひとりであっても、あくまでも丁寧な口調は崩さない。
それは彼に対する、精一杯の思いやりなのだろうか。
「車ひとつでできる仕事ですしね、それに今どき、かなりご希望になる方が多くて」
「多いんですか」
「多いですね」
お焚きあげは、たいそう有難がる人もいる一方、今でも忌みごとのように嫌う人もいるらしい。
なので、車の体裁にもかなり気を使っているのだそうだ。
「他所から見ても、工事の車が寄ったようにしか見えないでしょう?」
確かに、道路か電線の工事に来た車にしかみえない。
「どんな焚きあげがあるんですか」
つい、環はそう聞いてしまった。
しかし油井は特にいやがる様子もなく、淡々と話を続けた。
「お一人で暮らしていたご年輩の方が、施設に入るからと言って今までの昔語りをまとめてくださったものとか……本当ならば博物館とか図書館にお納めすればとても貴重な資料になるのでしょうが、ご本人が、あまりにも個人的なことであるし、良いことばかりでもないと仰るので、そんなものごとが塊さまになられていましたね」
まだ年も若い環には、ぴんとくる感じではなかったが、一応、そうですか、とうなずいてみる。
そんな環に、油井は優しい笑みを浮かべ、ことばを続ける。
「あとは、ついたまってしまったお話を、まとめて塊さまにされている方がほとんどですね」
うちみたいなものなのだな、と環はぼんやりとグラスを眺めて思う。
ママは、僕に対して色々と言いたいことがあるんだろう、だからこんなに、大きな塊さまができてしまったんだ。お焚きあげが必要なほど。
まとめてゴミの日に出せれば、どんなに便利なんだろう。
それか、スーパーでよくやってる「資源ごみ、ポイントに引き換えます」みたいな。
束の間の沈黙を破るように、油井が言った。
「お焚きあげの後に、少しお渡しするものがあります、容器もこちらでご用意していますが、構いませんか?」
それも母から聞いていた。環はぼんやりともの思いの延長のまま、うなずいた。
お焚きあげの済んだ炉は、まだかなりの熱を孕んでいるようだった。
油井は厚手のキルティングでできた手袋をはめ、炉の取ってに手をかけ、わずかに力を込め、それを引き開けた。
竹かごも花もすっかり焼け落ち、中の塊も白っぽい灰のまとまりとなっていた。
油井は、長い竹の棒でそれをそっと掻き分けていく。環もつい、脇にぴたりと寄り添い、その様子を逐一見守った。
油井が手を止めて、竹の棒でそっと、こちらに招くように何かを寄せてみせた。
ふわりと舞って儚く崩れる灰の中から、深紅の輝きがひとつ、転がり出た。
大きさはビー玉程度で、大目にみればビー玉にも見えないことはない。かなりいびつではあったが、たしかに丸みをおびたそれは、折からの夕陽を受けて、温かな輝きを放っていた。
「こちらを……」
油井はぶ厚い手袋の手で、それを拾い上げた。素手の右手で、軽く玉の表面を拭う。
赤い輝きが、さらに鮮やかに目に飛び込んでくる。
「塊さまの、芯の部分が出たらお納めしたいとお聞きしていましたが、こちらを」
いつの間にか、息を詰めていたようだ。環は大きく息を吐く。
器も用意されていたようだ。油井は小さな白磁のうつわにそれをそっと転がすように入れて、同じような白い蓋を載せた。かりり、と器の蓋が縁に当たる音が鳴って、また風が吹き抜けた。
母が用意してあった茶封筒を取り上げ、環は、はっとして
「あの、お金ですが」
聞いてから、それ以上の請求があったらどうしたら良いか、母からまるきり聞いていなかったのに気づき、急に顔に熱があがった。
母は、聞いていただけ、二万三千円ぴったりを封筒に入れていたようだ。
しかし油井は、封筒を見ただけで
「では、すぐに領収書を作りますね」
そう言って、運転席に戻っていった。
領収書を切ってもらい、お茶も終わってしまい、後はいとまごいだけになってしまって、環は何を言っていいのか、今さらながら言葉につまって
「あの……」言いかけて、下を向いた。
油井は優しく、次を待っているようだ。
「あの……ありがとうございました」
「何かご不明のことがありましたら」
油井は、ごく自然な口調でそう言った。
「名刺の番号にお電話ください。運転中でなければ、たいがいすぐ電話に出られますので」
「あの」
なぜそんな質問が出たのか自分でも不思議に思ったが、環はついこう尋ねていた。
「リョウカ、ってどんな字を書くんですか」
「ああ……」油井は照れくさそうに笑う。その時環は、名刺で気づいて、顔を赤くする。
それでも油井は、まじめにこう答えた。
「火へんに、リョウ、リョウというのは、治療とか療養とかのリョウから、やまいだれを取った字で、リョウカのカは火という字です。かがり火、とかそういう意味です」
「ああ」
頬が染まったのを見たのか、油井は黙ってその場に立っている。
本当は、
ほんとうは、訊いてほしかった。
君はなぜ、ここに居るの?
君のお母さんはなぜ、こんなに大きな塊さまを作ってしまったの?
油井は、彼に尋ねることはしなかった。
しかし、その後の言葉に、環ははっと目を見開いた。
「ほんのわずかな事なのですが……僕の話を、聴いてもらってもいいですか」
僕には、五歳違いの妹がいました。とても可愛い妹で、明るくて友だちも多くて、中学の時は生徒会にも参加してて、部活もとても一生懸命でした。テニスをやってたんで、運動神経も良くて、僕はどちらかというと静かなタイプで運動も苦手だったんで、とにかく妹はまぶしいくらいでした。
受験勉強も頑張って、自分では無理かも、と言っていたランクの進学校に入学しました。
でも、通い始めてわずか数週間で、急に変わってしまったんです。
何だか、学校に通う意味が分らなくなってきた……そう言い出して。
それから、朝起きて来ても「学校に行きたくない」って。
無理に行くように言われるようになると、今度は部屋にこもってしまいました。
寺の住職だった父も、小学校の先生をやっていた母も、そんな妹の急激な変わり様にただ狼狽するだけで。もちろん、まだ大学生だった僕も母から電話で聞いてかなり、びっくりしてつい実家に帰ってみました。
妹はすっかり、変わってしまっていました。
父も母も、一生懸命妹を立ち直らせようとしていました、時に厳しく、時には寄り添うように。でも、両親とも願いは一つ……妹が複学できるように、と。
ついには、どこかの相談業務の担当者から、無理にでもとにかく学校に行かせた方がいい、とアドバイスされて、父は無理やり妹を部屋から引っ張り出して、駅に置き去りにしたんです。
妹の通う学校は、ふた駅先でした。
妹はとりあえず、学校には行ったんです、その日は。
しかしその日の夕方、学校から帰る途中、妹はホームから到着間際の電車に飛び込みました。
両親はとても後悔しましたよ。無理に行かせるんではなかった、何度そうくり返して言ったことか。
僕は黙って、それを聴いているだけでした。
僕がこの仕事についたのは、もしかしたらそこがきっかけだったのかも知れません。
でも、お焚きあげをひとつ、済ませるたびにいつも感じるんです。
人の心に寄り添うのは、本当にたいへんだ、と。
環はじっとその言葉を聴いていた。
彼に応えたい、急にそんな想いに囚われ
「僕も……」
つい、口をついて出る。僕もどうしても、動くことができないんです。この場から。
しかし、その後がどうしても、続かなかった。
油井の表情が、少し暗くなってきた庭先に、ほのかな光を放ってみえる。
「いいんです」
静かに、油井が告げた。
「お母様は、とても君のことをだいじに想っていらっしゃる、それだけでいいんです。
僕の両親も、想いを受け止めるだけ受け止めて、想いとしてそこにまとめていてくれれば、もしかしたら……」
塊の大きさは、大切さの現れだと思います。
そう言って、油井は軽く頭を下げて車へと戻っていった。
すでに暗がりに沈んだ庭の向こう、静かに車の音は去って行く。
「ありがとうございました」
白い器を胸に抱いたまま、環は思わずそうつぶやいて深く、音の去る方に向けて頭を下げた。
音が止むか止まないかのうちに、せわしないエンジン音が近づいて、庭の中に滑りこんできた。
「ごめんね、すっかり遅くなっちゃった。でもよかった、ミサキ、インフルエンザじゃなかったよ」
エンジン音が止むか止まないかのうちに、母の声が環の耳に心地よく響いてきた。
「焚き屋さん、来てくださった? どうだった? 無事に済んだの?」
どこからか、花の甘い香りがかすかに流れ来て、環は大きく、息を吸い込んだ。
今夜は、色々と母に話そう、強くそう思い、環は胸元に抱いた器に目をやった。
そして、おかえりを言う前に、中の輝きをもう一度だけ、心の中に焼き付けた。
了