総長戦記 0059話 ニューヨークの惨劇 その⑧ 反応
1941年8月 第4週 『アメリカと世界各国』
ニューヨークにおける惨劇のニュースは瞬く間に世界中を駆け巡った。
「ウラン爆弾(原子爆弾)」による惨禍だという事は、この時点ではそれを引き起こしたある国の一部の人間以外は誰も知らない。
そのため第一報は原因不明の大火災が発生しニューヨークが燃えているという報道になった。
この第一報が報じられた時点では事態を深刻視している者は極めて限られていた。
大火災と言ってもまさか百万人を超える人間が死亡するような大火災が起きているなどとは想像外の出来事だったのである。
ニューヨークはアメリカ最大の都市であり各国の領事館や外国企業の支店も多く、多数の外国人も住んでいた。貿易や観光の為に寄港する船舶も多い。
その為、ニューヨークとの連絡途絶やアメリカ沿岸警備隊による強制的な船舶の寄港先変更等から異変は直ぐに各国の知るところとなり、アメリカ政府への問い合わせが殺到した。
そんな各国政府にしても、まさかニューヨークが壊滅していたとは夢にも思っていなかったのである。
人の想像力には限界がある。
ニューヨークの惨禍はまさに人の想像力の限界を突破している出来事だった。
世界が実際にニューヨークの惨劇に驚愕するのはロバート・キャパの写真が新聞に載ってからである。
彼は採算や利益を度外視し写真を無料で世界各国の新聞に提供した。
「このニューヨークの出来事を世界中に知らせるべきだ」
それが報道写真家としての崇高なる義務だと信じたからである。
そして世界はニューヨークの惨状に震えた。
驚愕した。
ニューヨークのあまりの変わり果てた姿に衝撃を受けた。
まるで戦争で無差別爆撃を受けたような惨状である。
ともかくニューヨークが壊滅し多くの死者と負傷者が出ている状況がわかってくると、世界大戦の蚊帳の外にいる各国からアメリカに向けて援助の手が差し伸べられる事になる。
義援金が集められ、アメリカに近い国では食糧や衣類、医薬品等が船積みされてアメリカに向かった。
その動きは日本でも同様だった。
閑院宮総長の意を受けた陸軍大臣が政府に対し、義援金と衣料品、医薬品、それに医師を派遣する事を提案し、これが了承される。
義援金はまず政府から日本円にして1000万円もの大金が送られ、後に民間人から集められた義援金も第二弾として送られる事になった。
食料は日本は遠方故に見送られている。
閑院宮総長はこの援助活動について「関東大震災の恩義を忘れてはならん。恩には恩で報いるのだ」と大変な力の入れようであった。
1923年(大正12年)の「関東大震災」において、世界で1番多くの義援金と物資と医療関係者を送ってくれたのがアメリカである。
当時のアメリカ大統領のクーリッジ大統領は自ら新聞で国民に呼びかけ日本への義援金を集める事までしている。
この時の恩を今こそ返す時と、閑院宮総長は陸軍からも医療部隊を編成し海軍の医療部隊と共にアメリカに送り出したのである。
ニューヨークを核兵器テロで壊滅させておいて、率先して援助の手を差し伸べるというのだから、総長のやり方は、これはもう悪辣な一種のマッチポンプである。
総長自身はこの件について、特に語る事は無かったが、恐らく率先してアメリカに援助の手を差し伸べる事で日本がニューヨークの惨劇の真犯人である事を悟られないように、疑いを招かないようにするためだったと思われる。
だが、偽善以下であるその最低の行為を咎める者は日本の政府閣僚には誰一人いない。
何故なら核兵器テロを起こしたのが自分達の国、日本である事を、総長が独自に独断で行った事を知る者はいなかったからである。
アメリカ政府と被災者達は日本の対応に多大なる感謝を示す。
日本が大惨事を引き起こした張本人である事も知らずに……
【to be continued】




