総長戦記 0042話 装備の変更 その②
【筆者からの一言】
たまには極端な事をやるのもよろしかろう。
1941年 『日本 陸軍』
1941年8月、陸軍において閑院宮総長のお声がかりで戦車戦力についての大掛かりな方針変更が決定された。
それは戦車だけに限ったものではなかった。陸軍全体における対戦車能力の増強がはかられる事になる。
砲兵で言えば、まず歩兵大隊に装備されていた大隊砲「92式70ミリ歩兵砲」が退役する事になった。
この砲は初速も遅く対歩兵用としてはともかく敵戦車には全く通用しない事が判明していたからである。
歩兵連隊に装備されていた連隊砲「41式75ミリ山砲」も退役する事になった。
この砲も旧式化が進み威力不足だったからである。
同じく歩兵連隊の速射砲中隊に装備されていた「94式37ミリ速射砲」も対戦車戦闘には威力不足として退役する事になった。
その代わりに大隊砲、連隊砲、速射砲中隊には全て「94式75ミリ山砲」が配備される事になった。
それまで、大隊砲、速射砲中隊で使用していた砲よりも重量は増加するが、山砲なだけに他の75ミリ砲に比べれば極めて軽く、分解組み立てが容易で移送も楽な事から問題は無いとされた。
師団の山砲連隊も全てこの「94式75ミリ山砲」が配備される事になった。
この「94式75ミリ山砲」ならば1キロ先のT34でも破壊できる貫通力があると試算されていた。
KV1戦車はもっと引き付けねば撃破できないが、今の日本ではこれ以上に優れた山砲は無いと判断されたのである。
それに「92式70ミリ歩兵砲」「41式75ミリ山砲」「94式37ミリ速射砲」には威力不足で最初からできない事である。
ただし対戦車火力が増すという長所の代わりに、大砲が大型化するために人員と輸送用駄馬が増えるという欠点もある。
「92式70ミリ歩兵砲」「94式37ミリ速射砲」は輸送に必要なのは馬1頭であるが、「94式75ミリ山砲」は分解して運ぶのに馬6頭が必要となる。
師団における大隊砲と速射砲の数は合計30門。1門あたり5頭増えれば150頭もの馬が新たに必要になる。
しかし、師団の野砲連隊には「機動90式75ミリ野砲」が配備される事になった。その輸送には「98式4トン牽引車」があたる事になっている。つまり、それまで野砲連隊で必要とされていた馬が浮く事になる。
装備していた砲の種類にもよるが平均して約210頭の馬が浮くのである。
その為、大隊砲と速射砲で新たに必要となる馬150頭は師団内の編成替えで充分な数を確保できたし、他に馬を回す事も可能であった。
更には馬が減る事でその分、補給も楽になったという部分もあった。
馬は人よりも多く食べるし世話もかかる。その数が減るという事はその分負担も減るという事でもあった。
師団の野砲連隊には全て「機動90式75ミリ野砲」が配備される事になった。
現在「90式75ミリ野砲」を装備している部隊も、全て砲を改装し機動力を向上させた「機動90式75ミリ野砲」にする事も決定される。
史実において、日本軍の弱点となった一つが武器の複数運用による複雑化である。あまりに多くの種類の武器を持った為、補給体制も複雑化し利便性が損なわれ戦闘力を充分に発揮できない事であった。
これは、長引く「日華事変」の中で増大する戦費を費やしながら装備を新たに更新しなければならないという事態に陥ったため、速やかに武器の新旧交代が行かなかった為である。
例えば「94式75ミリ山砲」にしても「41式75ミリ山砲」に代わる山砲として1935年に採用されたにも関わらず10年経った1945年の終戦の時点でも、その更新は終了していなかったのである。
全ては予算不足である。
しかし、今回の歴史では「日華事変」は短期間に終わり、好景気も到来するという時代を迎えたために、史実よりも遥かに装備の更新が順調に進むようになる。
師団に配備されている大砲が、「94式75ミリ山砲」と「機動90式75ミリ野砲」の2種類しかない為、砲弾の種類もこれまでよりも少なくなり、補給の手間暇も大幅に緩和され、部隊間での弾薬の融通も可能となり、大砲の整備補修の手間にしても各段に楽になったのである。
それに砲の種類の限定は当然その砲と砲弾の生産量を増加させるが、それにより大量生産のメリットとしてコストダウンする事にもなった。
なお、1937年に正式採用が決まったばかりの「95式75ミリ野砲」も廃止された。
この砲は「機動90式75ミリ野砲」の重量が1600キロとかなりの重さがある為、もっと軽く運用しやすい砲を求めた事から開発された。
しかし、その結果、当然の事ながら「機動90式75ミリ野砲」よりも大砲としての威力は劣り、初速が4分の3程度になって対戦車能力はかなり低下し、最大射程も4キロは短くなった。
軽量にはなったが、それでも1100キロはあり、これは「94式75ミリ山砲」2門分の重さである。
「機動90式75ミリ野砲」より砲の威力が落ち、重量も山砲よりも倍も重いともなれば、どうにも中途半端である。その為、廃止となったのである。
「99式10センチ山砲」も廃止された。
この砲は「日華事変」で中華民国軍より鹵獲したフランス製の砲で、1939年に採用が決まったばかりであった。
しかし、砲の威力は当然75ミリより上ではあるが、分解して運ぶのに馬を10頭も必要とする事から山砲たる移動の容易さが完全に失われているとして、改めて採用が取り消され廃止になったのである。
「日華事変」では多くの兵器を鹵獲しているが、その中で閑院宮総長が特にコピー生産を急がせた兵器が一つだけあった。
「99式8センチ高射砲」である。
元はクルップ社の88ミリ高射砲で、中華民国軍は牽引タイプと陣地固定タイプの2種を保有していたが、このうちの陣地固定タイプを日本軍は鹵獲していた。
閑院宮総長の意向として、対空砲兼対戦車砲としての採用と運用が指示された。
史実では1942年から量産が開始されるが、今回の歴史でも同様である。
ただし、量産される数は史実よりも遥かに多くなるかもしれない。
本来、陸軍としては師団の火力増強の為に75ミリ砲から10センチと15センチ砲の配備を進めようとしていた。それが外国での流れでもある。
しかし、予算と生産量の関係から閑院宮総長が敢えて75ミリ砲を師団の主力火砲とし、「91式10センチ榴弾砲」「92式10センチカノン砲」「96式15センチ榴弾砲」等という大砲は独立重砲兵連隊への配備を推し進めている。
師団全体で言えば、実際のところ、大隊砲や速射砲まで「94式75ミリ山砲」を配備した事で火力は上がっており、今の所は師団に10センチと15センチ砲が配備されていなくても致命的な弱点とは見做されてはいなかった。
こうして史実に比べれば今回の歴史では随分と火砲の種類は整理されたものとなり、師団の対戦車火力も史実より各段に向上したのである。
【to be continued】
【筆者からの一言】
コストダウン! コストダウン!




