非現実の中の現実
僕は歪な気配のする方から視線を外せないでいた。
青とも緑ともいえない寒色がかった靄の先に揺らぐ赤。
僕たちがいるこの袋小路から届く視野の範囲は30~40メートルといった所だろうか、バスケットのコートよりもやや広いくらい、体育の授業で端から見学していた時の感覚と近いからだ。
もちろん周囲の景色は一面何の目安もない一色の高い壁のみ、距離感が正確に掴めているか定かではなかった。
人は場が沈黙に包まれると視点を泳がす。
本能なのか習性からなのか静寂に耐え切れない頭は注目点を探し出し、そして終着する。
満員のエレベーターで皆が皆、階を表示する数字が流れていくのを凝視する様に、僕たちはあの赤いゆらぎに囚われていた。
誰かが始めたからではないだろう、明らかな行き止まりに対する開放感を求めた頭は、見えなくとも見える余地のある空間を視界に入れたかったのかもしれない。
何れにせよ滲んだ色は形を成し、やがて人の概念と重なった。
赤は血の色、一体の人の形をした何かがゆっくりとこちらに進んで来ていた。
服は着ていない。
性別も定かではない。
なぜなら皮膚が無いのだ。
肉が露出し、潤いを帯びた筋肉が歩く度に蠢く。
空を見上げながら不安定に歩く様は糸で吊られているかの様で、吐血が身に降りかかる様も人形に設定された一連の動きなのではないかと思わせた。
姿が明らかになっても僕たちは動き出せずにいた。
状況説明に頭が追い付いて行ってないのだ。
ゴプッ ゴプッといった音が後から追い付いてきた。
口内に溜められた血液が湧いて出てくる源泉の様に吹き出てはまた溜まる。
その音は嗚咽なのか単なる粘性のある水分の音なのか。
理解不能な光景が塗り重なられ続ける中、現実的な吐血の音は誰かの意識を揺さぶり、そして悲鳴に繋げた。
「キャーーーーーー!!!」
堰を切ったかの様に女性陣は悲鳴の連鎖を上げ、それが異常なものなんだよとアピールしてくれた。
わかりやすい合図に導かれた男性陣はどうしたんだと言いながら化け物に駆け寄る。
そうだ、あれは化け物だ。
そう納得がいったのは、駆け寄った男性の一人が赤い人のだらんとぶら下がった両腕に掴まれた時。
それまでのゆっくりとした動きと同じ、操られている様な両腕は心配を装いながらも怯えている男性に巻きついた。
重傷を負っている人の行動を跳ね除けられない男性はなすがままだが、心のどこかでは着ている白いパーカーの事で悔やんでいるだろう。
しかしその杞憂は次の瞬間要らなくなる。
今までずっと空を見上げていた頭は男性に向き合い、口から大量の血を噴出した。
人間の血液量は4リットル程度だが、その量は数値よりも実際目にすると多く感じる。
怪我をした時等こんなに流して大丈夫かと心配してもそれはたかが数ミリリットルがいい所だろう。
しかし赤い人は男性の白い服が染まり切ってもまだその流血を止めない。
それは小柄な女性程の体型の器全てが血液でも説明がつかない程の量だった。
赤い人はうなだれる様に前へとよろめくとまた空を見上げ、嗚咽を漏らす。
大量の吐血は地面に赤い池を作り、男性はまるでその池の中に落ちてしまったかの如くいなくなってしまった。
男性の助けを求めて広げられた腕だけがその脇に添えられていて、皮肉にもそれは赤く染まってはいなかった。
非現実の中では現実的な良識など要らない。
そう悟った誰もが息を呑んだ。
悲鳴を上げる事も無くまた静まり返った空間を動かす術は今の所無かった。