陸
私は喫茶店へ急いで戻り、困惑しきりの春太郎くんの腕を引き薫子さんの家に向かった。
春太郎くんはどこへ向かっているのか確信すると、露骨に嫌そうに舌打ちを何度もする。
その様子は幼く、いっぱしの男。
「春太郎くん、私はあなたを助けたいと言ったわ。ええ、確かに言ったわ。でもね、薫子さんもたいへんに苦しんでいるの。それって、どうなのかしらん。私、納得できないのだわ。粛清する毒も中途半端になるかもしれないわ。当局には根回ししているけれど、万が一にも薫子さんが生きてしまえば春太郎くん、あなた、豚箱行きなのよ。私?私は人間ではないのだから、捕まらないのよ」
春太郎くんは身体が大きいから、引っ張って歩くのは往生した。
でも、私は今、人間の頃とは比べ物にならないくらいの力があった。
春太郎くんも私の思わぬ力に段々と抵抗しなくなる。
「春太郎さん……」
紺色の浴衣を身にまとった薫子さんは、別人と見紛うほどに淑やかな女性に変身していた。
濡れた髪に銭湯の匂い、白い肌。
何よりも春太郎くんを見つめるまなざしには、特殊な優しさに満ち満ちている。
「薫子……」
あら、春太郎くんは呼び捨てなのね。
それにしてもこの二人、離れている時の苦しみはどこへ行ってしまったのかしら。
今、私の目の前で見つめ合う二人は、とても嬉しそうに見えるのだけれど。
「ちょっと、お二人さん?わざわざ最後に会わせた理由を聞いてちょうだいな」
私の言葉に二人は感情を止めて、注目してくれた。
「私がすべて悪いのよ」
薫子さんが微笑み呟く。
「……」
春太郎くんはそんな薫子さんから目をそらす。
「ねえ、薫子さん、自分が悪いと結論付ける前に、あなた、とんだ思い違いだとは思わなくて?」
「え?」
薫子さんはキョトンとして、首をかしげる。
「春太郎くんとの歳の差、どうお考えなのかしら?」
私は薫子さんに自ら気づくことに期待した。
「……春太郎さんとの歳の差……」
「春太郎くんのお家で長いこと女中をなすっていたのでしょう?」
「……ええ……」
「それこそ、春太郎くんが赤ん坊の頃から」
「…………」
薫子さんの顔色が蒼白に変わる。
「ねえ、薫子さん。あなた、間違っていたでしょ?」
「嗚呼!私はなんと愚かな!……」
薫子さんがよろける。
「薫子!」
春太郎くんがサッと薫子さんの身体を支えた。
蒼い顔の薫子さんが、弱々しく春太郎くんの腕をつかみ、彼を見つめた。
「春太郎坊っちゃま、ご立派になられて……薫子は、嬉しゅうございます……」
「薫子……」
「春太郎坊っちゃま、薫子が間違っておりました。春太郎坊っちゃまが私を責め続ける理由、馬鹿で愚かな薫子はやっと分かりました、気がつきました」
薫子さんは春太郎くんの腕から離れて、家の玄関口まで歩くと笑顔でこちらを振り返った。
あの特殊な優しさに満ち溢れた笑顔だ。
「春太郎、私の子供におなりなさい!」
薫子さんは持っていた荷物を落とし、春太郎くんへ腕を伸ばした。
春太郎くんはたいそう驚いた顔をしていた。
もう遅いけれど。
薫子さんはそれもきっと分かっていて、それでも言った。
春太郎くん自身が自分の幼さや、愛されたさに自覚無く薫子さんを責め続けていた。
それでもきっといつかそういうことだったと分かる日は来たのに、薫子さんは女を貫き通した。
だから、春太郎くんは男になるしかなかった。
薫子さん、春太郎くんの幼さゆえ、あなたの間違いよ。