第7話
ガタンッ!
寝室の方から物音が大きく聞こえた。一瞬ケイが起きたのかと考えるが、何も話さないのは不自然だと思い直した。
「か、ずやさん」
「いずみはそこで待ってろ」
「や、だめ……っ!」
腕を掴む妻の手が震えている事に気付く。だが、寝室へ行かなければと言う気持ちが膨らみそれを抑える事ができない。妻を一緒に連れて行くか悩んだが、やはり一緒に行くよりもここの方が安全だろうと思い一度ぎゅっと握り締めて腕を振り解いた。
暗闇の中を手探りで寝室へ向かっていく。時々光る雷が行くべき方向を映し出してくれた。恐怖はない。それどころか胸がドキドキと高鳴っている。きっと、この先にボクのミカちゃんが居るから。
「っ、ちがう……」
頭を振り呟く言葉は弱々しくて今にも消えてしまいそうなほどの声量しかない。一歩一歩寝室へ近づくにつれ別の何かがどんどん大きくなっていく様だった。そしてとうとう寝室へ続く扉の前まで着いてしまい、浅い呼吸を繰り返しながら中へ踏み入った。
『ミ、カちゃん……いる、の……?』
自分の口から出たとは思えない程、おどろおどろしい声が漏れてゾクゾクと背筋を震わせる。体は怠く、自分の思うように動かす事ができない。それなのに、引き摺りながら勝手に進んで行く足に恐怖を感じる。何で……動かないんだ。嫌だ、そっちへは行きたくない。行きたくない!
『ミ、カちゃん……』
カーテンの隙間から強い光が辺りを照らす。もちろん、自分の体も。
目に飛び込んできたのは、部屋中に真っ黒なペンキをぶちまけた様な有様で、自分の手も足も着ているパジャマさえも真っ黒になっていた。それだけではなく、部屋の中央に黒い塊が蹲っている。
“ひっ”と短い悲鳴を飲み込み、その塊を刺激しない様にと声も息も押し殺した。ゴクリと唾を飲む音がヤケに耳につく。
見たくない、触りたくない。そう思うのに視線は外れず、じっと黒い塊を見つめている。どれくらいそうして見ていただろう。
その塊が音も無く、スッと糸を上へ引かれた操り人形の様に立ち上がる。その時、あの小さな女の子が赤く染まっていくシーンが脳裏を掠めた。
「うわあぁぁぁぁ!」
これは現実なのか? それとも、夢の続きなのか……。分からない。わからない……ワカラナイ。俺の中で何かがプツリと切れる音がした。
「今日からキミの家は此処だよ〜?」
「ボクが居るんだからママもパパも必要ないんだよ? ねえ、ミカちゃん」
「ミカちゃん……。可愛い可愛いボクのミカちゃん」
「黙れ。黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ!!!」
またミカちゃんが泣いていた。ボクが居るのに何で泣くの。頭に血が上り顔を叩いてしまった。痛かったよね、ごめんね。
「早くしろよ、おせぇなぁ。汚すなよ」
「汚すなって言ったよなぁ? そんな事も守れねぇのかよ、お前はよぉ!」
綺麗にご飯も食べれないのか。イライラが募る。
「あぁ、逃げようとするそんな足はもう要らないよね?」
「お前が悪い……。キミが悪い」
どうして、どうして? こなにこんなに大切にしているのに。また独りにするの……? ドウシテ? ドウシテボクヲオイテイクノ?
「キミがボクを、お前が俺を、独りにしようとするからだあぁぁぁぁぁ!」
あぁ、そうだ。ミカちゃんは赤かったよね。そう思い出したよ。真っ赤だったのに何で忘れていたんだろう。あぁすごい真っ赤だ。
「あぁ、ここに居たんだね……ボクのミカちゃん」
「……此処は?」
どうやら意識を失っていたみたいだ。隣を見れば、可愛いボクのミカちゃんが居る。あれ、いずみだった? 名前なんてどっちでもいいや。ケイも起きたみたいだ。
「ぱぱ……?」
「起きた? ケイは大丈夫だよな?」
「うん……。ままっ、ままは」
「ママはまだ寝てるから起こそうか」
「うんっ」
ケイはボクを見て首を傾げている。何か変な所でもあったのかな。ケイがいずみを見つけると、飛び付きそうになって窘めた。
「パパが最初に起こすから、ケイは待って」
「ん〜、やだ〜の」
「ケイ?」
少し睨むとビクッと体を震わせる。怖がらせたら駄目だと、優しく言い聞かせた。
「飛び掛ったら危ないんだよ。ママもビックリしちゃうからね? ケイはイイ子だろう?」
「うん〜……ごめん、なさい」
素直な子供は可愛い。頭を撫でると怯えていた表情が和らいだ。うん、それでいい。ボクといずみの邪魔はしないでね。
「いずみ、いずみ」
「まま!」
出来るだけ優しい声音で名前を呼ぶ。意識が浮上しているのか、瞼が震えて閉じていた瞳がボクを映した。その瞬間、ドクンと鼓動が大きく脈打ち視界が揺れる。
「っ、大丈夫か?」
「一哉さんこそ……っ」
「まま……、どこか、いたいの?」
ポロポロと涙を流す妻も心配するケイも可愛くて二人をぎゅっと抱き締めた。“ぱぱくるしい〜”と言うケイの声で我に返り、そっと頭を撫でる。
体に受けた穢れを洗い流すかのように、次から次へと溢れる涙に戸惑っている妻が落ち着くまで傍に居た。擦ろうとする手を止め、そっと涙を拭う。
優しく抱き締めれば、嬉しそうに笑う泣き笑いの様な顔が眩しくて目を細めた。
篠突く雨に降り籠る
その先には
蒼然たる光を放つ月が泣いていたーーーー
了
これにて一応の完結となります。
後日談のお話がございますので、そちらまでお付き合い下さると嬉しく思います。
ここまでお読みくださりありがとうございます。
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