第5話
「か、ずやさん」
腕が動いた気がして目を開けると、妻が俺の名前を呼んでこちらを見ている。
「ん……。いずみ?」
「一哉さん、私どうして……?」
「いずみーっ!」
俺の願望が見せた幻かと思った。だが、もう一度名前を呼ばれ現実なんだと知る。嬉しくて大人気も無く妻に飛びついて泣いてしまった。本当に、もう目覚めないかもしれないと悪い考えも過ぎったのだ。良かった。いずみが目覚めて良かったと呟き、涙が止まらない。
暫くそうして泣き、落ち着くと優しく手を握り締めてくれた。
「落ち着いた?」
「あ、あぁ。いずみがもう目を覚まさないんじゃないかって、思ったら……ぐず」
「ほら、泣かないで」
説明をしていると感情が制御できなくなり、また涙が溢れてタオルで顔を拭いてくれた。ふわりと妻の香りが鼻をくすぐって起きてくれた事に感謝した。そうしていると主治医の先生と看護師が様子を見に来たようだ。幾つか質問を妻にして、次の検査結果で異常が無ければ退院出来ると言った。
「いずみが倒れてからもう四日も経つんだ」
「えぇ!?」
「原因は分からないって先生は言ってたよ」
「本当に四日も眠ってたの……?」
「あぁ。本当に」
やはり、四日も経っていた事に目をまん丸にさせて驚いた。その顔が何故か ちゃんに似ていると思えた。可愛いボクの……。って何を考えているんだ、俺は。あれは夢、夢だ。この動揺を妻に悟られない様にそっと話を振った。
「いずみ、何かあったんだろう?」
そう言うとピクリと体が跳ねる。昔から何か図星を指すと体が跳ねる癖は直っていない。手帳を読んでいるからあらかた話は分かるが、真剣に妻の話を聞いた。
どうやら妻は俺が笑い飛ばすと思っていた様だ。そんな事する訳が無いのに。退院したら山田さんに話を聞きに行こうと言うとゆっくり頷いた。
「俺も一緒に行く」
「でも、一哉さん仕事……」
「直属の上司がこんな時ぐらい休めって有給押し付けられたから大丈夫」
問答無用で休みを叩き付けてくれた部長に感謝する。今度美味しい居酒屋で酒を浴びる程飲んでもらおう。その方があの人も喜ぶだろう、何て考えていると妻がじっと俺を見ている。かと思えば、堰を切った様に泣き始めた。そっと抱き締めて頭を撫でる。
あぁ、可愛くて愛おしい。やっぱり……。
+ + +
病院の検査も全部パスして、明日退院する事になった。
「ケイ。明日ママ帰ってくるって」
「ままおうちにくるの?」
「あぁ。おうちに帰ってくるぞ」
パァッと顔を輝かせ嬉しそうに笑い、家の中を走り回った。あんなに笑って走り回るケイを見るのは久しぶりだ。やはり母親が恋しかったのだろう。
「ケイくん嬉しそうねぇ。あんたも」
「母さん」
「私が幼稚園へ迎えに行くと出入り口に走って来るのよ。私や古谷さんだと分かるとママは大丈夫かなぁって口癖の様に言ってたわ。嬉しくて仕方ないのね」
「ケイはママっ子だからなぁ。入院中は俺にベッタリだったけどいずみが帰ってきたらそっぽ向かれるんだろうな」
そんな事を零し肩を落としていると母が背中をバシンと叩き“ママと一緒に居る時間の方が長いからよ”と笑った。
翌日、二人で妻を迎えに行った。ケイは少し緊張しているのか手に汗を握っている。会いたがっていたのにそんなに緊張して大丈夫かと思うが、妻が両手を広げて名前を呼べばその腕へ飛び込んでいった。
“……ボクの ちゃんなのに”
その思考にハッとして頭を振る。どうしたと言うのだ。この間からおかしい。妻はいずみだ。あの夢の中の女の子でも無い。夢がリアル過ぎて現実と混同しているのだろうか。
「……さん、一哉さん」
「あ、あぁ。ごめん、考え事してた」
「歩きながらボーッとしてると危ないわよ?」
「ん、気をつける」
タクシー乗り場でタクシーを拾い、真っ直ぐ自宅へは戻らずに退院に合わせて予約をしていた店があるショッピングモールへ連れて来た。
「本当に良いの?」
「あぁ。いずみはここの料理食べたいってだろう?」
「そうだけど……」
「今日ぐらい良いよ。退院したお祝い」
「おいわい〜?」
少し料金設定は高めだが、子供メニューにも力を入れていて幅広い世代に人気の洋食店だ。
「お祝いだよ。ケイも気に入ると思うぞ」
「やったー!」
「ふふ、ありがとう。一哉さん」
「ぼくは〜?」
「もちろん、ケイくんもありがとう」
腕に絡みつき、満面な笑みで見上げてくる。口元が綻び、自然と口を突いて出てきた。
「どういたしまして、可愛いボクの奥さん」
「ふふ、どうしたの?」
「言いたくなったんだ」
「ぼくも〜! ままもぱぱもかわいい」
ほんのりと頬を赤らめた妻にそっと唇を落とすと、こんな所でっと口元を押さえてケイと一緒に店の中にサッサと入ってしまった。しまった、やり過ぎたか。嬉しくて舞い上がっていたのはケイだけじゃなかった。
食事も終え、自宅へ帰ってきた。妻は直ぐに入らずにじっと玄関の扉を見つめている。もしかしたら緊張しているのかもしれないと思い手を取ると、固く握り締めていた。解れる様にと握る手に力を込めると妻は俺の顔を見て柔らかに微笑んだ。
「ぱぱずるい〜! ぼくもままとてつなぐのっ」
「じゃぁ、ケイは反対の手な」
「うん!」
意を決した様子で玄関を開け、“ただいま”と呟いた妻へケイと二人で“おかえり”を返した。やはりここには妻が居てくれてこそだ。だが、どうしても寝室へは踏み入れられないみたいだった。
「ごめんなさい。暫くはリビングで寝るわ」
「いずみがリビングで寝るなら、俺もケイもリビングで寝るよな〜?」
「うん。ぼくままとねるの」
ケイがぎゅっと妻の脚にしがみつけば、ケイを抱き上げ“ありがとう”と言っている。そんな二人に頬を緩めると俺は二人ごと抱き締めた。守っていこう。例えこの先何があっても、この二人だけは俺が守ると、そう心に誓った。
その日の夜、また夢を見た。
暗闇から男とも女とも言えない低い呻き声が聞こえるかと思えば、急に眩しい程の光の洪水に巻き込まれた。……今まで何度も見た夢とは少し違う感じがした。
「やぁ、 ちゃん。今日も可愛いね。あぁ、可愛い」
「こんにちは、おにいちゃん」
「 ちゃんに、近づくな!」
「ね、そんなに怒ってどうしたの?」
顔を黒く塗り潰された背の高いほっそりとした男が手を伸ばし、女の子の頭を撫でようとすると隣にいた、やはりほっそりとした男の子がその手を叩き落とした。
「っ、いてぇなぁ。お前には用は無いんだよっ」
「うわぁ」
「 くん! おにいちゃん、やめて」
「あぁ、可愛い可愛いボクの ちゃん。お兄さんとあっちへ行こうか」
「うん。わたし行くから、 くんにはひどいことしないでっ」
「良い子だね。ほらおいで、行こう」
男は男の子を突き飛ばすと、女の子を抱き上げると近くの小屋へと消えていった。痛みを堪えた男の子が起き上がり、後を追って小屋へ着いたが直ぐには扉を開けずにそーっと覗き込んだ。
「あぁ……、 ちゃん……っ」
「なんで……っ、やめ……いやっ」
「……、怖く……。良い子に……」
男も女の子も何故か裸だった。男の子は何をしているかなんて分からない。でも、 ちゃんが嫌がっているのは分かる。カッと頭に血が上った男の子は近くにあった木の棒を掴むと小屋の中へ飛び込み、背後から男を殴りつけた。ヒーローが悪い奴をやっつけるんだ。 ちゃんはボクが守るんだ。そう言いながら。
男の怒声と女の子の悲鳴が聞こえたかと思うと男の子は持っていた棒を奪い取られ、男に殴られた。何度も繰り返し殴られ呻き声すらしなくなった男の子から離れると、今度は女の子を殴った。何度も何度も何度も何度も何度も何度もナンドモ。
「あぁ、クソッ。せっかくイイ所だったのにこのガキのせいで興ざめした」
そんな言葉を吐くと何処かへ行ってしまった。必死に男の子は真っ赤な女の子の近くへ行くとその体を抱き締め、何かを呟いている。
「 ちゃん」
「だいじょうぶ……?」
「めをあけて」
「 ちゃん……めを……」
そして、男の子は女の子を抱き締めたまま気を失った。