第2話
仮眠室を覗くと、放り込んだままの状態で早瀬が眠っていた。こんな体勢でよく寝れるなとガシガシ頭を掻いて、シャワー室が空いたと声を掛ける。
「ん……入る」
「気をつけろよって、言ったそばからっ。そこは掃除用具入れだ、馬鹿!」
「ぅぐ……、死んだじいちゃんが見えた」
「馬鹿な事言ってないで、さっさと行ってこい」
「へいへい」
起きるようにと渾身の一撃をお見舞いする。全く、寝惚け癖はいくつになっても抜けないようだ。ちゃんとシャワー室へ入る所を確認してから仮眠した。
『……、……ん……』
「ここは……?」
『ど、……、…………ん』
真っ暗な闇の中から地を這うような低い声が聴こえる。その声が恐ろしくて、身震いをしようとするが動く事は出来ない。
ズ……ズズッ……
何かを引き摺るような音が近づいてくる。アレに捕まっては駄目だ。何故か反射的にそう思った。喉に纏わりついてくる何かを引き剥がしたくて踠こうとするが体は動かない。
ズ……ズズズッ……
『……、こ……、……ちゃ……ん……』
「……ち、菊池!」
「っ!」
「メチャクチャうなされてたけど大丈夫?」
「はぁ、はぁ……。あぁ、起こしてくれてありがとう」
「後、首掻いてたから傷になってないか見た方がいいぞ〜」
「分かった」
シャワーを浴びてサッパリした筈なのに寝汗が酷い。とても恐ろしい夢を見た気がする。額に張り付く髪が不快に思え、髪を掻き上げて時計を見ればもういい時間だ。妻へ電話を掛けないと。
「あ、そうだ。さっき部長が来て、別の部署でトラブルが発生したから応援してくれってさ」
「今日も帰れないのかぁ……」
「まぁ、平たく言ったらそうなるな〜」
「了解。電話してくる」
帰れると思ったら、まさかの連徹……。無性に妻の顔が見たくなった。
『もしもし』
「いずみ? 一哉だけど」
『うん、今日帰ってこなかったの?』
呼び出しの電子音から、さほど待たずに妻の声が聞こえてきた。徹夜明けの時も帰ったら食べれる様にと朝ご飯を必ず用意してくれる。無駄にしてしまっただろうかと、申し訳なく思いつつも今日も帰る事ができないと伝えた。
すると、明らかにガッカリした様な低めのトーンで分かったと返ってきた。寂しく感じてくれているなら嬉しいと素直に思う。
「あぁ。帰れそうだったらまた連絡するな」
『……アハハ、……まって……クスクス』
電話を切る前に妻の後ろから女の子の楽しそうな笑い声が聞こえ、友達でも来ているのかと安心して電話を切った。今日もザーザーと雨が降っている。
仮眠室へ戻ると、早瀬が空のプラスチックの容器を手にしていた。わざわざゴミ箱から取り出したのか?
「菊池〜。使い終わったならゴミ箱へちゃんと捨てろよな〜。危うく踏んで転ぶ所だったよ」
「な、に?」
「うん?」
俺はきちんとゴミ箱へ捨てた筈だ。……投げ捨てたから床へ落ちたのかもしれない。いや、ゴミ箱へ入っていく所を確認した。ドクン、ドクンと心臓の鼓動がヤケに耳につく。
「菊池? 顔色悪いよ。部長には僕から言っておくからさ、もう少し寝とく?」
「いや、大丈夫だ」
昨夜から嫌な感じがしてならない。何とか平静を装い早瀬に断りを入れて、余計な事は考えない様に頭を左右に振ると仕事へ戻った。
+ + +
順調にトラブルも解決して仕事も早く終わり始発で帰る事にする。今日は帰れると嬉しくて勢いにまかせて妻へ電話してみたが出なかった。まだ早い時間だから眠っているのだろう。早瀬も仮眠室で休んだら帰ると言っていた。
今は何故か早く帰らなくてはと言う気持ちが膨らんでいる。胸騒ぎと言うか何というか、妻の顔が見たくてしかたがないのだ。
自宅へ戻るといつもなら既に起きているであろう時間だが、ケイの声だけしか聞こえない。
「ただいま」
「ぱぱ〜! ままがね、おきないの。だいじょうぶかな?」
「そうなのか? って、もうケイは幼稚園に行く時間じゃないか。今日はパパと一緒に行こうか」
「いくー! ぱぱといくの」
リビングに用意してあった荷物を持ち、急いでケイにパンを食べさせて幼稚園へ送り届ける。行く前に寝室へ声を掛けたが返事は無く、疲れて眠っているんだなぐらいにしか思わなかった。
「おはよーございます」
「おはよう。あら、ケイくん。今日はパパと一緒なの〜?」
「うん! 良いでしょ〜」
「良いなぁ!」
幼稚園の先生に挨拶するケイがニコニコ笑っていて、徹夜で疲れた心が癒される。そんな事を思っていると、先生が妻はどうしたのかと聞いてきた。
「今日は疲れているみたいで休んでいます」
「そうなんですね。やっぱり昨日の事にショックを受けたのかな……」
「昨日の事?」
俺が聞き返すと、“しまった”と聞こえてきそうなバツの悪い顔をしている先生と目が合った。渋々ながらに妻へ話した事を教えてもらい、ケイの描いた絵を見せてもらうとドクンと心臓が大きく脈打つ。
珍しく聞き返してきたのはケイに何かあったからか? 昨日の電話も元気のない声だったのは寂しいからじゃ無くて、俺に言えない何かがあったからなのだろうか。
「教えていただいて、ありがとうございました」
「いえ、何かあればご相談に乗りますので」
それだけ聞くと、ケイに手を振り急いで家へ帰った。
「いずみ!?」
寝室へ入ると布団も敷かずに、床へ倒れている妻を見て全身の血が引いた。駆け寄り抱き上げて声を掛けるが、うなされているのか呻き声がたまに漏れるだけだった。
「おい、いずみ!」
「んっ……」
「いずみ、どうした? 大丈夫か!?」
何度目かの呼び掛けで意識を取り戻した妻は暫く焦点の合わない目で俺を見上げていた。目が覚めて良かったとホッと息を吐き、“布団も敷かずにどうした”と聞けば周りを見回しガバッと飛び上がる様に起きて、今度は自分の手帳へ何かを書き込んでいる。何か様子がおかしい。
「お、おい、いずみ?」
「っケイ、ケイは!?」
「今朝、俺が幼稚園まで送って行ったよ」
掴みかかる勢いで聞かれ、そこまで言うと安心したのか強張っていた体から力が抜けていく。
「ママが起きないって心配していたぞ」
「そ、そう……。他に変わった事は無かった?」
「あぁ。いつもと変わらず元気に幼稚園へ行ったから大丈夫だよ」
安心させる様にできるだけ優しく言うと、時計を確認してもうそんな時間かと呟く様に零した。顔を見れば良く眠れなかったのか、クマができている。心配になり病院に行くかと聞いたが、疲れているだけだからと断られてしまった。
また倒れる様な事があったら何が何でも連れて行こうと心に誓い、そっと抱き締めた。
「あれ、首どうしたの?」
「首?」
「爪で引っ掻いたのかな。赤くなってるわ」
首と指を指され、早瀬に首を掻いていたと言われた事を思い出した。
「あぁ、痒くて掻いたかもしれない。言われるまで気づかなかった」
「痛くないなら良いの」
『……、こ…………ちゃ……ん……』
あの気味の悪い夢が頭を過ぎり、すぐに話題を変えた。
「そう言えば、昨日の電話を切る前にいずみの後ろから女の子の笑い声が聞こえたけど友達か誰か来てたのか?」
「え?」
「楽しそうだったから安心したんだけど……」
話題を変える事に必死になっていたのか、女の子の事を聞いた時にサッと妻の顔色が悪くなった事に気づかなかった。話をどんどん進め、気づいた時には既に真っ青を通り越し土気色に見える程に顔色が悪くなっていた。
「っ、そんな……つぅ」
「おい、いずみ!?」
力が抜ける様に妻はその場へ崩れ落ちた。