カリフォルニアレモネード
終電が線路を鳴らす音さえも聞こえないひっそりとした路地を1人の男がとあるBARの重い扉を開けた。いらっしゃいませ。こちらへどうぞ。小さな手振りと共にカウンターの中のバーテンダーは告げた。
「ギムレット」
端的に注文すると、男は席に着いた。
年は65。着流したスーツのシワが彼の人生の重さを語っている。
シェーカーと氷がぶつかる甲高い音がジャズの音色に混じり、響き渡る。薄っすらと白濁した液体がカクテルグラスに満たされていく。
ギムレットです。
コースターの上に乗せ、男の前に滑らせていく。口に含むと、気化するアルコールを逃がすように男は溜息を着いた。赤い箱のタバコに火を付け、様々な毒を白く吐き出した。薄暗い店内の明度がタバコの光でほんの僅かに上がっていた。
何かあったんですか。
バーテンダーがグラスを拭く手を止めずに問いかける。
「離婚届を突きつけられましてね」
バーテンダーの手が止まり、拭いていたグラスを所定の位置に置いた。
「女房と2人の子供の為に40年近く働いて、やっと落ち着いて恩返しができると思ってたんだかな」
男がグラスを手に取り、中の液体を一気に口の中に流し込む。
「同じのを」
空になったグラスをコースターに戻し、滑らせた。
かしこまりました。
バーテンダーはグラスを受け取るとジン、ライムを手際よく計り取り、シェーカーに流し込む。氷を入れシェイクする。空いたグラスに注ぎ入れだ。どうぞ。静かに男の前に差し出すと、口に含み、酸味とアルコールが味覚を刺激する。
「娘は嫁に行っちまったし、息子は大阪で頑張ってるみたいだしな。2人とも手紙の一つも寄越しやしない」
便りがないのはなんとやらじゃないですかね。
シェーカーを濯ぎながらバーテンダーは答えた。
「最近は年末年始も帰ってこないしな」
今年は帰って来なかったんですね。
「娘は子供の受験が忙しいとかで、息子はプロジェクトが大詰めなんだとさ」
お二人とも頑張ってらっしゃるんですね。バーテンダーがシェーカーの水気を取り、定位置に戻す。
「元気なんだろうけど、顔くらい見せて欲しいよなマスター」
そうですね。
短く答えると、レジスター横のDVDプレイヤーに手を伸ばす。
何かお好きな曲はございますか。
男に問いかける。
「fly me to the moon」
ありふれた曲名を答えた。
何か思い出でも。
バーテンダーが問いかけると、
「女房と初めて2人で行ったバーで流れてた曲だよ」
思い出の曲なんですね。
DVDプレイヤーがタイミングを見計らったかのようにバーテンダーの言葉の終わりとイントロを重ねた。
その直後、扉が開き、外の空気が店内に流れ込んだ。現れたのは1人の女性。
「あなた、ここに居たのね」
「お前か」
男が答えた。
「また飲んでる。お医者さんに控えるように言われたでしょ。まったくもう。血管プッツンいって、死んでも知らないわよ」
矢継ぎ早に男を責め立てた。
「まぁ、とりあえず、座れ」
男がゆっくりと女に告げた。
「女房です」
バーテンダーに告げ、
「元ね」
女が続けた。
「早く帰るわよ」
「最後の我が儘だ。この曲か、一杯付き合ってくれ」
「まったく、最後まで一方的に」
女は納得いかないようなのか、ゆっくりと着席した。
「彼女に、カリフォルニアレモネードを」
「なんで勝手に」
「最後の我が儘だ」
かしこまりました。
バーテンダーが、ウイスキーと各種材料を手際よく集め、女の前に並べる。
「御手洗は?」
男が問いかけると、
あちらです。
バーテンダーが答えた。トイレの扉が閉まり、カウンターにはバーテンダーと女性の2人きりになった。
カリフォルニアレモネードです。
バーテンダーが女に差し出す。一口含むと
「美味しい」
二口目を飲みだした。
このカクテルの意味ご存知ですか。
バーテンダーは女に問いかけた。
「いえ、カクテルに意味があるなんてしりませんでした」
カクテルには色んな意味が込められてるんです。例えばギムレットには、長い別れ。サイドカーと言うカクテルには、いつも2人で。
「じゃあ、これには」
カリフォルニアレモネードには、永遠の感謝。
バーテンダーは答え、気まずそうに裏へ新しい布巾を取りに行った。
男が御手洗から出てくると、バーテンダーはそそくさとカウンターに戻った。
お次は。
問いかけると女は
「この人には」
誰にも目を合わせないように続けた。
「さ、サイドカーを」
「いいのか」
「ただ、火星の天気はわからないから」
「つまり」
「言いたい事があるならはっきり言いなさいよ」
「ありがとう」
「次からはちゃんと言いなさいよ」
「わかった」
各々頼んだカクテルを飲み終えると2人は帰って行った。長い吐息とも溜息ともつかない息を吐き出し、バーテンダーは片付けを始めた。