4:いのちの代償(一)
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二日前の晩に起きた『新世ええじゃないか』の狂気な騒動による被害は、人々が考えるより遥かに甚大な悪影響を及ぼしていた。過去数年間、日本の各主要都市でさまざまな形態を為して行われてきた『ええじゃないか』騒動とは、まさに規模も様相も桁外れに違っていたからだ。
そのデモ騒動に直接関与したとされる者の数約二万人。そのうち、自殺したと思われる死体の数、百六十五体。なんらかの不足の事態に巻き込まれ死亡したと思われる者二十六名。重軽傷合わせて各地病院に搬送された者が千五百名余りにも及ぶ。
うち、器物破損の罪で検挙された者や、猥褻行為等で検挙された者。仲間内での暴力行為や、警察官などへの公務執行妨害で緊急現行犯逮捕される者も後を絶たなかった。すべては、街中に設置された監視カメラが状況を把握していた。実際には無許可で起こされた騒動であるから、テロルの類いであることは間違いなかった。
ある意味滑稽でありながら、いわずもがな陰惨な現場に成り下がってしまった銀座の街は、あのお洒落で情緒めいた街並みを一晩にして地獄絵図に変化させてしまった、と伝えられている。あまりにも品のないデモ騒動であったがゆえに、「機能を完全復旧するのに一ヶ月以上は掛かる様子」と何らかの諮問機関が公共放送のニュースを通じ、代表が悲痛の念を露わにしながらその弁を語っていた。事実、街中に全裸、半裸に近い遺体などがごろごろと散乱していたのだから、警察の現場検証などで時間を食ってしまのうもやむを得ないのかもしれない。
そんな悲痛な叫びが飛び交う中、妙に元気があり威勢がよかったのがマスメディア各陣の報道である。特に主立ってお祭り騒ぎのように囃し立てたのは民放のテレビ局である。暮れも押し迫った中で起きたこのような大事件は、彼らの恰好の素材だったらしい。
ある局では、デモ行進の中で亡くなった自殺者の身元をいち早く探し出し、家族とのコンタクトを開始するや、
『地上の不治の病――不鍵合症の真実の末路』
と銘打って、亡き者の一生を痛切に語るようなドキュメンタリー番組を放送した。
無論、その番組に対し賛否はあったものの、当ドキュメンタリー番組は国民の関心の的となった。
それを受けてか、それとも必然であったのかは“神のみぞ知る”といったところだが、その後テレビのチャンネルを変えれば似たような番組がひしめき合うこととなるのである。
その国民感情の動向は、羽間正太郎にとってうってつけのものとなった。なぜなら、おとついの晩の出来事が、妙な具合に隠れ蓑に覆われていったからだ。
正太郎は会社仕事の外回りの途中、横浜駅の駅ビルの中階にある喫茶店“マリー”に立ち寄った。入り口付近まで来ると、必然的にコーヒー豆を焙煎する香りが彼の脳髄を刺激してたまらなくなる。ゆえに、おのずと足が向いてしまうのだ、そうだ。
そのたびに、
「快楽を求めることが、人が生きる一番の理由なのかもな」
などと、勝手な理屈を宙に向かって口走る。言いえて妙。店の入り口をくぐる辺り、彼はいつも含み笑いをしてしまう。妙な慣習になっている。
とにかく“マリー”の店内は狭い。カウンター席が五つと、四人が腰掛けられるテーブル席が二台があるというだけだ。ここに来る誰もが、小学校の片隅に追いやられたウサギ小屋のような圧迫感を覚える。一世代前のテナントフロアの宿命というやつである。
木目調のインテリアを主体とした店内は全体的にコーヒー色に染められている。まるで、昭和の空間に置いてきぼりを食らった雰囲気である。ガタが来ている木造りの椅子はキシキシと音が鳴り、正太郎の立派な体躯では少々窮屈そうだ。腰掛けるにも少しコツがいる。腰骨を浮かすようにそっと落とし入れないと、反面立ち上がったとき、腰から下が抜けなくなってしまうのだ。だが彼はそのスリルがいいらしい。
「いらっしゃいませえ」
若くて可愛らしいウェイトレスの挨拶で出迎えられる。店内は、夕方であるにも拘わらず、客が人っ子一人いない。微かに昔懐かしい時代を連想させる歌謡曲が流れている。
彼女の甲高い声を背に、彼は西口のロータリーが一望できる窓際のカウンター席へと向かう。そしていつものように、腰を浮かし気味にのっそりと椅子に座る。
正太郎は、真冬の外気にさらされて冷たくなったガラス窓に目をやり、おぼろげな顔つきで外の様子をうかがった。不鍵合症がもたらした不幸な時代であっても、この街はまだ死んだ様子ではなかった。人々の苦悶に喘ぐ表情も、そして精気溢れる歓喜に満ちた表情でさえも直視することは出来ない。が、しかし、なんとなくではあるが何かを感じ取ることが出来た。
「…………」
その時、正太郎は街に向かって一言、なにかつぶやかずにはいられなかった。
もう街全体が仄かに赤らみ始めていた。ロータリーに連なるテールランプが楕円を描いている。彼にはそれがなにかいけ好かない“虫”の行列に思えてならなかった。
彼は店内に視線を戻すと自由に読み合いの出来るマガジンラックに手を伸ばした。そして、その日届いたばかりの夕刊を引っこ抜いた。さらさらと紙を広げ舐めるように紙面を見渡すと、三面の片隅から小さくその記事が飛び込んで来た。
『高速高架下、パトカー謎の炎上 警察官“三人”の焼死体発見』――。
彼が、あの晩の事件報道を初めて目にした瞬間である。
(一応、世間の目はごまかせたということか……)
軽く吐息を漏らし、彼はそっと心の奥底で胸を撫で下ろした。“片割れ”もろともパトカーに火をつけたのは誤算ではなかっただろうか、と、心もとなく思っていたからだ。しかし、あの状況の中で証拠隠滅をするには最良であった事は間違いではない、と確信に近いものを持っていなくはなかった。なにしろ時間も余裕もなかったのだから……。正太郎は、草色を基調とした格子柄のネクタイの結び目に手を掛け、二度三度となく左右に首を揺すった。
「ご注文はお決まりですか?」
小柄なウェイトレスがカウンター奥から唐突に声をかけて来る。正太郎はギクリとして新聞から目を逸らしたが、なにごともなかったかの様子で応えた。
「ブレンドを濃い目で」
「ブレンドですね」
ウェイトレスは、猫が目一杯背伸びをするように体全体をカウンター奥から乗り出し、四角い氷が二、三浮いたお冷のグラスを差し出して来た。正太郎は頷きながら、
「ああ、濃い目のやつね。僕はいつも濃い目なんだ」
と、にこやかに返した。
「はあい、かしこまりましたあ。ちょっとだけお待ちくださあい。マスター、ブレンドダークワンでえす!」
彼女のせまい店内一杯に響き渡る声。彼女はまだティーンエイジャーらしい、と彼は思った。元気ハツラツとして、なにか、どこか怖いもの知らずな素振りが印象的なのだ。思わず彼は気がゆるみ、ふふ、と鼻笑いをした。
この店には横浜駅に立ち寄った際にちょくちょく顔をだしている。しかし彼自身、彼女を見た記憶がない。どうやらこのウェイトレスは新顔のようだ、と判断した。
この娘は高校生のアルバイトだろうか、ピンク色の無地のエプロンの下はどこかの学校の制服らしい。いかにも陸上系かソフトボール系の運動部に所属しているのではないか、と思わせるザンギリ頭のおかっぱヘア。小玉すいかのように小さな顔が、真冬の今でも日焼けしている。シャム猫のようにどこか気品のある瞳が可愛らしい。いかにも痩せ型といった感じで華奢に見えるが、シャキシャキのレタスのように瑞々しく、健康的で途轍もない活きの良さを感じさせる。お冷を差し出した腕が針金のように細い。しかし、さすがに成長期の娘だけあって、新鮮なトマトの実の表面を見ているようだ。どこかあどけない語尾遣いが、複雑な心境の彼の心を和ませてくれさえする。
彼女は、小さな伝票に慣れない手つきで走り書きすると、ニッコリと愛想笑いをしながらカウンターの奥へと消えていった。その時、そうだ美咲も高校生なのだ、と彼は思った。すると、昨夜から張り付いて離れない胸の痛みが彼を襲ってきた。
(彼女をなんとか病院に送り届ける事はできたが、その後の容態を知ることが出来ない……)
正太郎は、あの晩に出会った少女、美咲の容態が気になって仕方がなかったのだ。