表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/10

3:      (二)

(なんという卑劣な……!)

 正太郎は、有無を言わさず迫り来る斬撃を避けようと、思いのまま身を転がし、“片割れ”との間を計った。が、しかし……

「ぬおっ……!」

 彼が立ち上がろうとした瞬間、こめかみの辺りに一陣の風が吹きぬけた。

 すぱり――。

 なびいた髪が一気に舞い散った。“片割れ”の攻撃が、正太郎の予測より断然速かったのだ。

(なんという奴……)

 恐ろしい敵である。正太郎の超人的とも言える動体視力がなければ、頭部と胴体がサヨナラを言わねばならぬところであった。寸分の差で“ヤツ”の太刀筋を見切ったが、切れ味鋭い輝きは、正太郎に並々ならぬ恐怖を植え付ける。

 その太刀筋は、大上段から振られると思いきや急に反転し、斜め下から切り返してくる――と思いきや、体ごとくるりと急回転しながら袈裟懸けに切りつけてくるのである。さすがの正太郎も、丸腰のままこれを避けるのは非常に厳しかった。思考が敵対する者の先々を行っても、肉体がついてゆかないのである。なにより、精神的重圧――恐怖と言うものが、彼の思考を鈍らせてしまうのである。

(これが俺の限界なのか……)

 年齢を重ねてくるたび、思考のキレは増してくる。だが、肉体の衰えは否めない。彼が常々感じていたことである。時に体の節々がきしみ、筋肉の要所が悲鳴を上げている。ギラリと光った刀剣の筋が正太郎の目の前をかすめてゆくたび、えもいわれぬ焦燥が駆け抜けてゆく。

 片割れの男はかなりの使い手であった。この動き。この間。このタイミング――。奴のすべてが殺人といえた。

 肉体のすべてを存分に活かし、剣に力を与える。時にはくるりと一回転しつつ攻撃してみたり、時には力任せに思い切った突きをかましてきたり。

 あまりの変幻自在の攻撃に、正太郎の思考でさえもついてゆくのがやっとであった。

(奴の首筋に、触れられさえすれば……)

 形勢は逆転するのだが、触れるどころかよける事さえままならぬ……。

(うう、このままでは……)

 切っ先が、正太郎の肉を貫くのは時間の問題である。

 まずは鋭い刃先に皮膚を裂かれ、勢いで肉がえぐられる。血管は繭玉を裂いたように寸断され、体中に圧力をかけられた血液が湯水のごとく噴出する。やがて意識は遠のく。白目をむいた目玉が飛び出す。一切の筋力が低下すれば、涎が津波のように飛散し、糞尿は垂れ流すことをやめないだろう。その時点で自らの屍は一瞬にして“人”から“物”に変化する。まるで生きている間に体験することは一切なかった陵辱の嵐が全ての外観を“負”に席巻してゆくのだ。

 それが“死”なのか――。

 正太郎は、自らの死に際を予測した。実にむごたらしく、実に情けない無様な死に際だった。

 俺はこのまま死んでしまうのか。このまま奴に殺されてしまうのか。誰ひとりとも別れの言葉を交わすこともなく、誰に言い分けを述べる事もなく。殺られる理由もしらぬまま……。ただ、なにも知らぬまま死んでゆくのか、と。

 無念――

 その一言が彼の脳裏を過ぎった。無常な一言であった。

 彼は、今の今まで、存分に生きてきた道程の証しが欲しいわけではなかった。表の生活と共に、裏の世界に纏わる由縁を誰に認めて欲しいわけではなかった。

 ただ――、真実を知りたかった。そして唯一、心の中に住む者を守りたかった。それだけなのだ。

(悠里……)

 正太郎は、その女性の顔を思い浮かべた。その瞬間、彼女との思い出が彼の頭の中を走馬灯のように駆け巡る。二人が出会ってから八年が経過する。その間、様々な出来事があった。

 呪われた少女にまつわる由縁。呪われた一家にまつわる惨劇。呪われた血の粛清。

 何とも形容のし難い陰惨な光景が、彼の見てきた、味わってきた……そして関わってきたそのすべてが羽間正太郎とこのひと時も気が置けない存在となった彼女とを結ぶ絆と言っても過言ではなかったからだ。

 だからこそはっきりと言えるのだ。

(このまま俺が死んでしまえば、彼女はもっと不幸になる――)

 と。

 日次悠里ひなみゆうりという一女性にに与えられた境遇。これこそ現代における最も過酷でもっともミステリアスな悲劇だと言う事は、何を隠そう、それに気づいてしまった世界でたった一人、羽間正太郎という存在に他ならなかったからだ。

 そう考えれば、今、彼が死ぬることなど以ての外。

(俺が今死ねば、悠里はたったひとりで……)

 羽間正太郎に死は許されぬのだ。それがどのような理由であっても、それがどのような難関であっても、彼にはやるべきことがあるのだ。これは、幼きころより課せられた運命なのだ。

(やられてなるものか――!!)

 この時、羽間正太郎の脳内に無数の超爆発が起きていた。それは恐ろしいほどの連鎖をみせ、絨毯爆撃によって舞い上がる業火のように膨れ上がってゆくのであった。血流は異常なほどの流れを見せていた。血糖値はあれよという間に急激に上昇していった。左右を繋ぐ脳梁はすべての脳細胞とのコンタクトを開始し、あらゆる脳内物質は一瞬にして大量放出の手をやめなかった。そして、先々に起こるであろう膨大な量の未来予測イメージを噴出させ、確実に、かつ、正確なベクトルを指し示してゆくのであった。

 正太郎の動きが変わった。片割れの男の太刀筋が四方八方から蝶が舞うように飛んでくるが、まったくその動きに抑圧されることはない。右水平に一閃――凄まじい風きり音が来ると思いきや、一突きにスズメバチの針のような攻撃が仕掛けられてくる。が、しかし、正太郎はいとも容易くその攻撃をよけてみせる。右、左、右、そして大きくステップ――。その動きはまるで、ラテンの遺伝子に感化された情熱の舞いを見ているかのようである。

 無論この時、“片割れ”の表情が、不敵な笑みから焦りに変わっていったのは口にするほどでも無いこと。幅広の両刃の剣を思いつく限り、縦横無尽に振って見せるが“獲物”に当たる気さえしない。それどころか、一振り刃を切って見せるたびに、虚しささえもが込み上げてくる始末――。

「キイイイ――!!」

 と、片割れが声を張り上げて見せるも、その勢いで大剣が虚空を切り裂くばかりで体力だけが消耗してゆく。

 正太郎は、この相対する男の表情が一寸でも曇るのを待っていた。まさにこの時であった。断崖絶壁に棲む野性鹿のごときステップを踏む羽間正太郎の右足が、急に弧を描いたように上空に振り上げられたのである。

 がつん――。

 耳の穴をつんざくような音を立てて空中に飛んだのは、あの“凶女”が使用していた洋剣である。少女美咲を刺した洋剣は、持ち主に帰らぬまま冷たいアスファルトの路面に佇んでいたのだ。正太郎は、それが自らの後方に転がっているのを察知し、タイミングを計り、奴の攻撃を避けながら移動していたのだ。そして上空に、天高く蹴り飛ばしたのである――

「あっ……!」

 と、片割れが吃驚の声を上げるのと同時に、洋剣は回転しながら天上より落ちてきた。

 片割れの男は、すかさずその洋剣を払いのけた。回転が凄まじいだけに、自らの持つ大剣を大振りにしてかわすのが精一杯である。そしてその一瞬がこの男の唯一の命取りとも言うべき一手となった。

 正太郎は、まさにこの“隙”を狙っていたのだ。彼は、片割れが洋剣に気持ちが囚われているのを見るや否や、独楽コマのように体をくるりと反転させながら奴のふところに飛び込むと、

(ふっ……!)

 と、鼻ですかし笑いをし、閃光のごとき速さであっと言う間に奴の背後を捕らえてしまう。すかさず、大蛇のように左腕を片割れの首に巻きつけると、右手の人差し指と中指の二本の指をツンと伸ばし、狙い定めたかのような目で、

(たまには、死んでみるのもいいだろう?)

 と、悪鬼の笑みを浮かべ、きゃつの“思考”の奥深くに潜入したのである。

「う……」

 片割れの男は、その暑苦しい顔を一瞬にして硬直させた。かと思うと、続けざま全身までも硬直させた。その動向を見届けた羽間正太郎は、捕らえていた腕を緩め、片割れの男のそばから勢いよく離れた。

「キサマには、一番むごたらしい死に際を用意した。観念しな……」

 はき捨てるように笑みを浮かべる彼の表情は、まるで人ではないような……。

 片割れの男は、その言葉を聞き終えるまで微動だにせず、ただ、直立したままじっと動こうとはしない。警察官の制服の格好のまま、両刃の大剣を右の手にもったまま、呆けた顔で突っ立っている。すると突然――、

「ごわっ、ごわっ……」

 と、声にならない“声”を上げだして痙攣し始めたのである。


 片割れは、目の玉をひん剥いて震えだした。右手で掴んでいた大剣が力なく路上に落ちると、ぐわんぐわんというけたたましい金属音が辺り一帯に鳴り響いた。その瞬間、きゃつの両膝は力なく折れ曲がり、まったく無防備のまま冷たく硬いアスファルトにつんのめり、激しい音をたてる。

「ごわっ、ごわっ……」

 相変わらず“ウシガエル”が鳴くような不気味な悲鳴を上げる片割れの男。片割れの表情からは、一切の余裕と言うものが消えている。それどころか、藁にでもすがりつくような凄まじい恐怖というものが具現されている。眉間にうろこのようなしわが寄り、脂汗が噴き出している。目の玉は今にも飛び出してきてしまうような勢いがあり、血色と思しき“生”を感じさせるものは一切見られない。今にも喉の奥から腕がにょきにょきと伸び出してきてしまいそうだった。

 正太郎は、片割れのその姿に、氷のような、それでいて憐憫に満ちた眼差しをくれた。そして言葉を発するでもなく唇をもごもごと動かし、汚れた言葉を吐き捨てるのであった。

 今まさに彼の行った思考への潜入こそがこの世の地獄、そのものだった。人間の中にある……いや、人間の中に必ず存在する“生”に対するベクトルの一つを奪い去ってしまったのだ。呼吸という“生”に欠かすことの出来ない大事なものを。片割れの思考、そして全ての機能から“呼吸”という一連の動作そのものが消し去られた。つまり、片割れの男はもう人間として生きられぬ欠陥商品になり果てたのだ。

 片割れの男が正太郎の足元を這いつくばりながら掴みかけようとする。しかし正太郎は何も言葉を発しようともせず、ただ黙ってそれを見ているだけ。

 それでもなんとかすがり付こうとする片割れの形相がこの暗闇の中でも手に取るように窺えてくると、彼は片割れの悶え苦しむ横顔をあたかも汚物を扱うかのように靴先で蹴りあげた。

 片割れの男は、声にならない声を上げたまま、後ろ向けに倒れこむ。きゃつの表情からは、“呼吸”という機能を奪われた事への恐怖が滲み出している。普段から必ずあるものだと信じて止まないものが、一瞬にして無に変換される。人間にとってこれほどの恐怖は存在しない。まして、“生”へのベクトルを剥ぎ取られてしまったのだ。何はなくとも呼吸をしなくては人間は生きてゆけない。

 血液は流れていた。肺も存在していた。横隔膜もあれば、胃も腹筋もある。なのに呼吸の仕方が分からない。いや、呼吸という機能そのもの全てを消去されてしまったのだから、あっても意味を成さない。

 今や、片割れの男の思考を駆け巡るのはパニックという名の恐怖のみ。

 こうなれば、人は何も考えることはできない。ただ、僅かながらの“生”への執着心がみっともない行動へと駆り立てるのである。

 きゃつの体は、まるで沼の奥底から間違って飛び出してきてしまった鯉のように、くの字への字に勢いよく折り曲げてアスファルトの路上を飛び跳ね回る。口を大きくぱくぱく動かしながら、いっそのことひと思いに殺してくれ、殺してくれ、とでも言っているかのように。

 路上に、片割れの男が引っ掻いた幾筋もの血の跡がにじむ。涙の跡がにじむ。飛散するよだれの跡がにじむ。そして、何かにすがりつくような、情けないうめき声が木霊する。

 だが、それも束の間。憤りと悲痛の哀歌が終止符を迎えた時、片割れの男は事切れて動かなくなった。

 微かだが、遠く海の彼方から、また霧笛のむせび泣く音色が聴こえて来る。

 正太郎は、少しばかりしゃがれた声で言った。「キサマだって、こういう死に際は生まれてこのかた予想していなかったのだろう?」

 片割れの死顔を覗くと、それは明らかに無念の表情で埋め尽くされている。

 さらに彼は耳を澄ましたが、もう人の気配はしない。殺気が感じ取れない。ゆえに、あの“女”は逃げたのだ、と確信が持てた。

(ひとまずは助かった……。このままやり合っていれば、おそらく俺は……)

 静まり返った気配を背に、正太郎は胸をなでおろす。

 ようやく霧が晴れてきたが、真冬にしては生暖かい風が柔らかく吹き込んできた。路面から、埃の匂いがツンと立ち込めてくる。突然、雨が降り出してきたらしい。上気した彼の頬に、わらわらと冷たい雨粒が当たっては流れてゆく。それはやがて激しさを増し、辺り一帯の路面を黒々と濡らし始める。

 彼は真っ黒に染まった上空を見上げ首を振った。そして路上に横たわる少女を抱き上げて、しばらく目をつぶったまま動かなかった。











評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ