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3:殺戮のうたげ(一)

 3 






 正太郎の腕に抱えられたその少女にまだ微かな息がある。すべすべとした白くキメ細やかな肌からもわずかな精気が感じとれる。言葉ひとつとて、溜め息ひとつとて、この少女から発せられるものはありはしない。だが、生きる未来への脈動が、鼓動が、美咲のか弱き小さな体躯から伝わり続けている。

(しかし、このままでは……)

 いずれ、確実に、時に促されるまま、運命に翻弄されるがまま死を迎える……。

 彼は、ちぎれるほどに痛む腕を、肩を、腰を、そして体全体を、心を、猛然と奮い立たせ、土煙と砂埃の匂いのする冷たいアスファルトを這うようにして転がっていった。そして、いかにも美咲の体を守りながら、あらゆる衝撃からかばいながら、自らの感覚を正常に戻してゆき“標的”の好きなようにさせまいと次の攻撃と行動を予測し、適度な間隔をあけるのであった。

(美咲ちゃん……。俺は、君を死なせはしない。死なせやしない……)

 何度も何度もつぶやいた。彼は、赤黒く、土ぼこりにまみれた血だらけのジャケットの袖で自らの顔を拭いながら、これにまでない標的――美咲を刺した者のいる方向に目を凝らし、熱く滾りきった黒い眼差しでにらみつける。

(標的は、多分一人……いや、二人。確実に殺らねば、その時は……)

 このときの正太郎の精神状態――、それははっきりと二分されていた。白と黒。救済と破壊。新鮮で真っ白な生糸を紡ぎあうような建設的な心と、失敗作の陶芸品の行く末を暗示するかのようなものの見事に砕け散った破滅の精神。人の心の奥底を撫でくすぐる、しゃぶり尽すまでの慈愛に満ちた優しさと、相手の心を、過去を、精神を、そのすべてを微塵に砕き尽くすまでの飽くなき憎悪――そんな、過去からの忌まわしき因縁を繋ぎとったまま、見えない敵と対峙した。

「何が目的なのかは知らんが、キサマらの思うようにはさせん!」

 正太郎は叫んだ。喉から絞るような大声で叫んだ。その声は、十二月のゴツゴツとしたコンクリートの冷え切った箱庭に反響し、二度、三度となく木霊した。

 見えざる敵――。

 非道なまでの残虐さなら、今までの敵とは変わりはしない。だが、こうも直接的で、こうも“無意味”な敵は、ありはしなかった。

(悠里だけならいざ知らず、別の少女まで手にかけようとは……許さん!!)

 正太郎は、美咲の体を固く冷え切ったアスファルトの上に、そっと寝かせた。それはまるで、襟元で二つ手に束ねられた柔らかな長い髪に、血の跡が残らぬように。傷つかぬように。まだ首の据わらぬ赤子を扱うような手ほどきであった。

 そして、全身に鞭打ちながらその場に立ち上がる。さあこい。さあこい。この俺は、ただのうのうと生きてきた男ではないぞ、ただ呆然と日々を見送り生きてきた男ではないぞ、とばかりに、辺りに目を凝らし、耳を澄まし、あらゆる感覚を研ぎ澄ませた。

 実は、先ほど彼が大声を発したことに、大いなる意味があった。それは、この標的の感覚との“”を測り、敵の位置を予測するためのものであったのだ。

 彼は常時、意味の成さない事を極力行わない。それが、他人の目から“どう見ても無意味”と受け取られようものであっても、“どうあっても無駄だ”と罵られるようなものであっても、彼にとってはひとつひとつが次なる行動への布石であるものなのだ。

 無論、彼は武芸者、ならびに、達人と称されるような武人ではない。兎角、先達の師に鍛え上げられた剛の者でもない。しかし、今の今まで生きて来て、生きて、生きて、生き抜いて来るために備えついた執念が、そして憎しみを与えた者への怨念さえもが、彼をそのような常人と逸脱した者に育て上げさせたものなのだ。

 この高速道路高架下のスペースに、人の物の音なるものは一切しなかった。ただ、先ほどから少しばかり霧が濃くなって来ており、真冬の海からなる濃密な潮の香りが辺りに漂い始めてきている。風は凪いでいる。時折、国道の方からタイヤの擦れる音が響いてくる。しかし、それだけだ。

 視界は闇に近い。なぜなら、夜半過ぎの照明は昨今の電力不足のため、半数以上の街路灯が消されているからだ。

 濃密な霧が漂ってくるたび、反響さえもが湿気に消されている。にじり……という、自らの足音さえもがぼやけるように聞こえて来る。

(どこから……)

 正太郎は、足をハの字に開き、腰をどっと据えた。腕を自然にだらりとおろし、柔らかく顎を引いた。肩、腕、肘、そして背中から来る打ち身や擦り傷の痛みが酷かったが、その痛みも“のんまり”とした呼吸と同時に、なにやら緩やかなものに変わっていった。

(ヤツラは、武器を持っていた。それも長い……。凶悪な武器だ)

 そう思った時、彼は、ふ、と鼻笑いした。自らが相手を“凶悪”と称したのがいいえて妙だった。

 以前、剣を持ち、無造作に暴れまくってくる者と対峙した事がある。だがそれは、こちら側から標的の暗殺を企てた時、たまたま気づかれ、反撃されたものだ。このようなケースは初めてだ。だが……

 一瞬、ざわり……としたものが彼の右頬を圧迫した。その刹那、正太郎の目が、瞬く間にかっと見開らかれる。

(人の考えなど、所詮単純なもの……)

 正太郎は、何を思ったか急激に両膝を折り仰向けに寝転ぶような体勢になる。すると、その体勢の上を、冷たい奇声を纏った鋼の駆ける音が通り過ぎた。

 びゅっ。

 一矢、何も恐れぬ、何の疑いもなく放たれた一撃である。いわば、殺人を目的とした一撃である。

 その狂気なる一撃は、ものの見事に正太郎の首筋を狙った。つまり、急所攻撃をしてきたわけだ。正太郎は、それを感じ取り、予測し、かわしたのだ。

 なるほど、今時には珍しい無垢なる女子高生“美咲”を刺したのも、この“太刀筋”に間違いはない、と彼は感じ取った。一瞬ではあるが、この太刀筋を避ける際に、太刀先から生温かなる血の匂いがした。

(だが……)

 首をはねられ、不遇な殉職を余儀なくされた警察官二人。あれとは違う……。そう判断も出来た。なぜなら、この一撃に使われた刀剣が、長身細身の洋剣であると見切っていたからだ。

(やはり間違いはない。標的は二人以上いる……)

 正太郎が、確信を得た瞬間だった。なにせ、長身細身の洋剣では刀身が細すぎて人間の首を切断するまでには至らない。折れてしまう可能性が高いのだ。殺人を目的とした“手錬れ”となれば、そのようなリスクを背負ってまで首をねるとは到底思えない。

 となれば、この攻撃をしてきた者の犯行ではない。もっと斬撃に突出した“持ち物”を手にした者が他にいるはずだ、と考えたのだ。

 そして驚くべき事に、その彼の判断に要された時間は、ものの一秒にも満たなかった。

 その刹那――

 正太郎は、寝ころばった体勢のまま両腕をくの字に折り曲げ、両掌を耳元に這わせながらふんばり、その反動を活かして右足を天高く蹴り出した。

 がつん……という音が鳴った。その音とともに、聞いた事もない女のうめき声が、霧むせぶ高速道路高架下のスペースに木霊した。

「アウッ……!!」

 正太郎の渾身の一撃が、迫り来る凶者の洋剣を持つ手にヒットした。洋剣は瞬く間に天上へと跳ね上がり、一時の間をもって、土埃と霧むせぶアスファルトの路面へと落下した。乾いた硬質の金属音が辺り一帯に反響する。と同時に、正太郎を襲った殺人もいとわぬ影はバランスを崩し、前のめりにつんのめった格好で転がった。

(尽かさず反撃が来る! 右、左、右、そして下からだ……!)

 正太郎を襲う凶者の影は、無駄のない前転を一度二度繰り返すと、彼に有無を言わさぬタイミングで再び飛び跳ね、閃光のごとき速さで向かってくる。瞬時、向こうずねの辺りから、きらりと鈍く光る短剣のような物を抜き出した。

「キィィッ!!」

 喉の奥から絞り出す“きじ”の雄叫びにも似た奇声が発せられる。その影は正太郎の予測どおりの動きをしながら『右、左、右、そして下』の順に“それ”を振り回した。鋭く尖った凶刃の刃先は、わずか数ミリの感覚で彼の鼻先を横切り、不気味な轟音を伴って暗闇の中を疾駆した。

 チッ。

 耳元に響く甲高い音と共に、正太郎のジャケットの袖ボタンが宙を舞った。脂汗と共に細やかな戦慄が走る。彼は、相対する者の瞬間的な心理を把握し、光速に勝るとも劣らぬほどの速さで算段高く攻撃をかわす。が、肉体も鍛え上げられた“手練れ”相手に、“素人”の正太郎ではいささか荷が重い。

「くっ……」

 苦しまぎれの肉声が漏れる。とはいえ、正太郎には、この狂気の攻撃から逃れるすべが一つしか残されていない。

(ヤツより一歩でも早く、思考を巡らせることだ)

 右、右、左、上から……そして突き!

 容赦ない凶刃の攻撃は、一向に止まぬ。その攻撃に対し、彼の思考は目くるめく残影とともに熾烈なる防御を継続し続ける。

 今の今まで正太郎に対し、苛烈なる殺人戦を挑んできた者に、明日の朝日を拝められる機会は皆無に等しかった。それは彼の“異能”の賜物であり、今現在、彼が行っている異常な“読み”の成果でもあった。それは、寸分の差で勝機を見出し、そして雌雄を決する盤上の駒のような戦い方であり、智慧と経験による“寸分の智略戦”とも言える決闘そのものでもあったのだ。そしてそれは、闘いを挑んできた者の姿が、“まな板の上の鯉”を意味していた。

 だがしかし……。

(このままでは、俺に分が悪い……)

 今に至っては、そう思えるのだ。そう感じざるを得ないのだ。

 なぜ、このような“戦闘慣れ”した者が襲いかかってくるのか。なぜ、こうまでして狂気とも言えるやからに、だまし討ちを喰らわさなければならないのか。――戦いながらだが、また“ぼやき”を口ずさむ。

 その時である――

「“アリアドネ”ガお怒りナノダ……!!」

 豪快に刃を振り回しながら、凶者が言葉を放った。

「なにっ……!!」

 正太郎は虚を衝かれ、つい反応してしまう。

 するとまた、

「“アリアドネ”ガお怒りにナッテイルノダ!」

 凶者が、息をつかせぬほどのタイミングで攻撃を仕掛けながら言葉を放った。しかるに、どこか、たどたどしい発音である。だが、日本語を放っていることは理解できる。

 紙一重でかわしながらであるがゆえに、あまりにも唐突な相手の言動は、正太郎を益々動揺させた。

(な、なんだ。なにを言っているんだ、こいつは……!)

 熱く、冷たい汗のしたたりが、路上のところどころに跳ね飛んでいる……。

 先ほどから暗闇で目を凝らし続けているせいか、大分目が慣れてきた。攻撃してくる相手の様相も、おぼろげながら形を帯びてきている。

 見覚えのある、誰にでも馴染みのある制帽。そして、形式ばったベルトのついた制服。足元にはブーツを履いている。しかるに、警察官の様相であることに、間違いはない。

 なるほど、あの時、検問に誘い入れた警察官二人は、この凶者の“片割れ”であったに相違ない、と正太郎は思った。今は、自分を目眩ませるために夜光反射材をはずしているが、そうであるに違いない。

 しかし、

(こいつは、一体……!?)

 相対し始めた時から、何となく気づいていた。そう。まさしくこの凶刃の相手は、“女”であった。声の質や、体躯の“なり”からでもそれが受けて取れる。俊敏、豪快、正確無比な攻撃をしてくる割には、どこか力任せではなく、滑らかなばねの様な動きが特徴的だった。流麗で曲線的な肢体からも、それを察する事ができる。“女”は、警察官に成りすまし、正太郎をまんまとおびき寄せたということだ。

 とはいえ、今はそんなことが問題ではない。

 この“女”は、突然言い放ったのだ。たどたどしい日本語で。しかも振り絞るような大声で、“アリアドネ”がお怒りになっているのだ――と。

 これは、果たしてどういうことなのか。どういう意味であるのかさえ、さすがの正太郎でも、まるで意を解するに至らない。

 それどころか、相手は“異国人”である可能性が高い。

 “異国人”。

 つまり、今までの標的とは違う可能性が高くなっているというわけだ。

 そう。今まで、彼と対峙してきた非道なる者達は、必ず日本人であった。それが偶なるものか、必然であるものなのかは、正太郎に解かりかねるところではあるが、こうも直接的で残忍非道な“やり口”を鑑みても、新たなる相手である事がうかがい知れる。

(こいつは、俺を殺しにきた……? これも、美咲ちゃんの言っていたことと関係があるのか?)

 またしても、彼の脳裏にこびり付く“害人間”というキーワードが暴れ始めた。

(そんなことより……早くこいつを葬って、美咲ちゃんを病院にまで連れてゆかねば!!)


 自らの寸分先の生死さえ、解することの出来ぬ正太郎ではあったが、おびただしい使命――美咲を自宅にまで送り届けねば――という本能が、彼を不屈の思考へといざない続けている。と、同時に――悠里を一人おいて、死ぬわけにはゆかぬ――その思いだけで生き延びてきた感がある。

(死の淵に、這いつくばってでも生き延びてやる!!)

 正太郎は、凶刃の攻撃を寸分の差でかわしながらも、精神を集中し、相手の首筋へと狙いを定めた。

(この俺に闘いを挑んできたのが、そもそもの間違いなのだ……)

 正太郎が、相手の首筋に触れた時――。その勝負が決まる。雌雄を決する時である。つまり――、標的の“死”が、確定することを意味する。

 正太郎の異能力――

 それはまさしく、殺人機械――。破壊と粉砕に優れた能力。

 彼が“その気”になり、指を相手に触れさえすれば、相手の思考そのものをことごとく破壊できる。

 具体的に、かつ、抽象的にいえば、それは白と黒を表と裏に対照的に張り合わせた“駒”を挟み撃ちにして“陣”を奪いあってゆく“リバーシゲーム”の動向そのものであり、対極的にみてもその内容がよく似ていた。

 人の思考をいうものは、大きく分けて『生まれ育った環境によって形成してゆくもの』と、『生まれついて備わっているもの』とがある。

 『生まれ育った環境によって形成してゆくもの』というのは、言葉やその土地土地の慣習などによるものであり、積み重ね、あらゆる経験や教育によって蓄積されてきた“概念”と言っても過言ではない。そしてそれは、人それぞれの環境にあわせ、成長を促す材料といってもよいだろう。

 と同時に、それは、

「郷に入っては郷に従え」

 の言葉通り、臨機応変にその形態を変えてゆく事ができる。まあ、しかし、それは人の能力によって異なるものだが……。

 話はれたが、それは洗脳や、宗教、教育などでも変わってゆくものでる。

 だが……。

 彼の能力は、しかるに凄まじいものだ。なぜなら、

『生まれついて備わったもの』

 を、指一本触れるだけで転換してしまう能力であるからだ。

 言葉がいささかややこしいので、わかり難いかもしれないが、つまり彼は、相手の首筋に触れる事で、対象者の思考に容易に入り込み、本能をともいうべき『生まれついて備わったもの』を、まったく逆の意味に反転させてしまう事ができるのだ。

 “リバーシゲーム”をご存知ならわかるだろう。この盤上は、8×8の升目に区切られており、その駒と駒を同じ色で挟む事で、自らの駒の色に変えてゆく事ができる。

 しかし、ひとつだけ別の条件をもった所がある。それは、

『四隅の角』

 の存在である。

 このゲームの特徴は、“直線上”に相手の駒を挟む事によって、自らの駒の色に変えてゆく事ができる。が、しかし、『四隅の角』に置かれた駒だけは、そうは行かない。ルール上、直角に相手の駒を挟んでも、なんら意味を成さないからである。

 『四隅の角』――。

 つまりそれは、人間の思考にとって『生まれついて備わったもの』を意味するところであり、その生物が生きてゆく上でなくてはならない“必須条件”のようなものである。一言でいうのなら、それは“本能”。そして、生体機能そのもののことである。

 正太郎は、それをいとも容易に“反転”させることが出来てしまうのである。有り得ない能力。禁忌の能力と言ってもよい――。

 それは、この世に生きる人間にとって、凄まじき能力であり、“過ぎた”能力と位置づけても反論はないであろう。

 常人であるならば、能力の意味に圧力され、発狂してしまうこと間違いのない、分不相応な“力”であるものなのだ。

 彼は、この“異能”があることにより、ことごとく悩み続けてきた。子供のころに至っては、自分が何者であるのか疑ってきたぐらいだ。

 だが――

(生き抜くために、ことごとく利用させてもらう――)

 これが今現在の、彼の信条である。そして生活の一部となっている。

 “凶女”は、未だ日本語とも外国語とも判断のつかぬ言葉を発しながら、刃を振りかざしてきている。正太郎には、何語で話しているのか判断がつきかねたが、言葉言葉の合間にたびたび放たれる“アリアドネ”という発音だけが、はっきりと耳を通して聞き取る事ができた。

 確かに、その言葉の意味が解からないまま、この“女”を闇に葬るのはせないが、それも美咲を守るため、そして自らが生き残るためには仕方がないこと、だと思った。

 勝機は見えてきている。なぜなら、かの“凶女”の攻撃のパターンが、回を重ねるたびに読めてきたからである。

(臨機応変というより、この女……、まるで機械マシンのようだ……)

 人の心と言うものは、ある一定のリズムを刻むと心地よく感じられる。それは各々によって速さ、強さ、激しさなど好みが変わるところだ。が、しかし、正太郎には、今現在相対している“凶女”のリズムが、まるで冷え冷えとした工作機械の奏でる退屈な音にしか聞こえなかった。

(生い立ちこそ分からないが、悲しい女だ……)

 正太郎は、やはり、この“凶女”が、今まで相対してきた者とどこか違うということをさとった。美咲に“目撃された”までの標的なら、どこか、なにか、腹に一物めいたものを感じざるを得なかった。人間のごうというものがそこにあった。だが、この女……

(人の匂いがしない……)

 人ではないのか、とさえ感じた。しかし……

 いや、それはない。なぜなら、一瞬でも痛みの声を上げ、焦りの雄叫びを上げたのだから――ふたたび結論付けた。

(悲しいかな、それも人の業……。俺に出会ったことが、この女の災厄――)

 正太郎の汗は引いていた。息も乱れていない。寸分の心理。相手の心の奥底。そして、その生き様までをも掌握し、彼は標的なる人物の生涯に終止符を打つ――。

(これで終わりだ――!!)

 “凶女”の右手に持たれた凶刃が、正太郎の左胸のところをかすめた時、彼の間髪入れずのひざ蹴りが入った。凶女は、不気味な大声を上げて、わき腹を押さえ転げまわった。あばら骨の二、三本が内臓に食い込むような一撃なのだ。よほどの“凶女”とて、これはかなりきいたようで、二の次の攻撃の来る様子もなく、ピタリと動きが止まり、どっと倒れ込んだ。

 正太郎は、すかさず“凶女”の体を背後から捕らえ込む。

(あ……!)

 あまりの勢いで“凶女”の被っている制帽がはらりと前に弾け飛んだ。すると、制帽に携えられていた“凶女”の長い髪が水鳥の羽のように左右にはだけ散り、霧むせぶ宙に広がった。

(こ、黄金色……!!)

 そう。それはまさしく、黄金の翼を思わせるほどの見事な毛髪の舞いであった。この暗闇の中に光る異国の舞いの姿。時の流れをひたもと感じさせぬ永遠の舞。

 その麗々しい金翼の間を縫って、白く滑らかな首筋が現れる。

 正太郎は、少しの間、その光景に見とれながらも、左腕で“凶女”を羽交い絞めにすると、右手を天高くかざし、人差し指と中指をそろえて強く突き出し、彼女の首筋目掛けてそれを放とうとした。

 その時――

(羽間さん、だめっ……!!)

 悲痛な叫びが、正太郎の頭の中を駆け巡った。彼は、その言葉にギョッとし、ぴたりと動きを止めた。

(な、なんだ……なんなんだ、今の声は……)

 確かに声が聞こえたのである。しかも女の声である。少女特有の声帯の震えの効いた、甲高い声――である。はっきりとした日本語の発音であった。

 もしや、この女の声色ではないか……、と正太郎は自らが羽交い絞めにした女の喉の辺りを探った。鍛えられてはいるが、男に比べ、細く、長く、滑らかな首すじ。その首筋は、正太郎との激しい戦闘により、なまめかしくもじっとりとした汗で濡れていた。

 しかし、それが僅かながらでも、振るえ出した形跡がないことは明確である。

(となると……)

 正太郎は、数メートル先に視線を配り、目を凝らした。暗闇の中ではあるが、そこには、制服のまま仰向けに寝かされている、傷ついた儚き美少女の姿がある。

 美咲が動き出した形跡は見られない。なのに……

 何かが、また、正太郎の思考を狂わせていた。このような、異様ともいえる焦りを感じるのは今宵が初めてであった。新しい衝撃。混沌。そして、葛藤にいざない行くその理由――。この夜に起きている事実は、まさに異状であった。

 そして、この現実は、まさに、あの少女と出会ったことによるものなのではないか、と正太郎は感じていた。自らが画策した事が、ことごとくおかしな方向に進んでゆく――。

 あの少女を助け出してしまったことは間違いではなかったか、と思わざるを得ない。だが、それだけは認めたくはなかった。

 しかし、

(この一抹の不安は、なんだ……)

 そればかりが付き纏う。

 そしてまさに、その動揺をみせた瞬間に、彼の悪い予感が狙い定めたように襲い掛かってくるのである。

「ぐっ……!!」

 背後から、虚空をも切り裂く響きが通り過ぎた。殺意を持った一撃が打ち下ろされてきたのだ。その斬撃は、紙一重で正太郎の肩の辺りをかすめ、地上のすべてを真っ二つにしてしまうのではないかというほどに、アスファルトの路面に食い込んだのである。

「フヒヒヒ……」

 異様な笑い声が、暗闇に響いた。男の声であった。濃密な霧の中に、油の焼け焦げる異臭が漂った。どうやら、幅の広い、斬撃に突出した刀剣を使用しているようである。

(油断した……)

 正太郎は、自らの焦りを恥じた。標的は、彼の一瞬の隙を狙っていたのだ。

(もう一人いる、と分かっていながら――)

 擦り傷まみれの背中がぱっくりと割れ、どくどくと血が滲み出してゆく。正太郎は、顔をしかめると、うな垂れ気味に苦しがっている“凶女”から即座に離れるしかなかった。

 襲い掛かってきた男。無論、“凶女”の“片割れ”である事は間違いない。そればかりか、

(この男は――)

 あの、首を刎ねられた警察官の無残な屍を思い浮かべると、悲痛な思いが込みあがってくる。

 用意周到とでもいうべき殺人鬼。仲間である“凶女”をはなから“かませ犬”に使っていたのは明確であった。






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