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2:      (三)

 正太郎は、思わず舌なめずりをした。

 そして彼の、指の先。舌の先。つま先から頭髪の先端。そしてあらゆる肉体の先端部分にまで、これとない黒々とした血流が巡り及んだ時、

(すべてを消してしまえば楽になる……)

 彼の意識の半分が、そう語っている。

 そしてもう半分の意識が、

(闇雲に絶つことはならぬ……)

 激しく抵抗する。

 彼の中の、永遠に混じる事のない毒薬は、相変わらず熱く冷え切った葛藤を繰り広げる。そして闘い続ける。そしてまた、右手の人差し指が鼻の横を掻く。

(俺は人間だ。俺は人間なのだ……)

 言い聞かしながら、鼻から大きく息を吸い込み、また口から吐く。それを三度繰り返す。あわよくば壊れかけた心を取り戻しながら正太郎は、二人の警察官の誘導に促されるまま、車を路肩付近に横付けし、止めようと右足をブレーキの上に置こうとした。その時である――

「だめ! 羽間さん、今、車を停めちゃダメ!」

 美咲が大声で正太郎の左腕を揺すった。それはもう、彼のデニム地で縫製された深緑色のジャケットの袖が破れんばかりの勢いであった。

「あ、ああ……!!」

 まさに袖を強引なほどまでに引っ張られてしまった正太郎は、またもや不覚にもハンドルを急激に切ってしまった。案の定、高速道路を走行していた時ほどの勢いではないものの、ブレーキを踏みそこなった彼の愛車はあらぬ方向へとUの字を描きながら、路肩近くに停めてあったパトロールカーへの並びへと突進してゆく――。


 鈍い音がした。鈍い衝撃が彼らの体じゅうに及んだ。そして、正太郎の心の中に凄まじい動揺が走った。

(なんなんだ。なにが起きたんだ。どういうことなんだ!)

 緩いスピードで体当たりをかました彼の愛車は、二台が連なっているパトロールカーの後車の後部座席のドア部分に軽く突き刺さるような格好で止まっていた。それほどの接触事故ではない。いわゆる大事故とは言いがたい。しかし、これは正太郎にとって大事件であることには間違いはない。

「あ……ああ……」

 声にならない。

 なんなのだ。この仕打ちはなんなのだ――

 言いたくても声にならない。

 世の中には、二種類の人間がいるという。運の良い者と、そして悪い者。果たして正太郎は、そのどちらかであるかなどと考えあぐねて自らを悲観するような“タマ”ではない。だがしかし、

(これはちょっと、ありえないだろう……)

 ぼやいてしまうのも仕方がない。

 だが、そんな程度でこの場面が終わるはずもない。なぜなら……

 彼が、ぶつかってしまった愛車を軽くバックさせ、助手席に乗せたとんでもないお姫様に対して煮えくり返るものを抑えつつ、なにか言い訳を考えようとした瞬間、

「あ……ああ?」

 思わず、目の前に繰り広げられた光景に声をあげてしまったのである。

 正太郎の愛車がぶつかったパトロールカーの後部座席のドアは、ぶつかった衝撃でドアのロックが外れ、ぐらりとした勢いで開いてしまった。すると後部座席のシートから、なにやら大きな物が二つ、どさり……と、落ちてきたのである。

 マリオネット……?

 彼の頭の中に第一に思い浮かんだ言葉がそれだった。

 なにせ、こんな夜中には人通りなど皆無に等しい場所なのだ。街灯の明かりでさえ薄っすら照らされているだけだ。彼らの目に映しこんでくる情報など、たかが知れている。しかし……

(ば、ばかな……、そんなはずは……)

 正太郎はぶるりと、全身に身の毛がよだつものを感じた。眼前に見ゆるもの。それは、濃紺の上下を身に纏い、お馴染みのマークが印してある制帽が転げ落ち、腰には拳銃と警棒と、そして重厚なベルトが巻かれている。大人の体だ。二人の警察官の体だ。

 だが、なにか普通と様子が違う。なにやら様子が違う。

(事故を起こした余韻からではない)

 彼は咄嗟にそう感じた。

 そのだらりとした風体ふうていの二体の体躯は、泥酔し、まるで繁華街の道端にだれかれ気にすることなく転げている若者のように力なく突っ伏している。いや、別の言葉で言うのなら、それはまるで糸の切れた、もう用済みの、ゴミくず同然の操り人形のごとく身を守る事を知らない動作で曲がりくねっている。

 赤々とした回転灯がコマ送りのスクリーンのように二体を照らし出している。

 正太郎の喉が、ゴクリと地響きのような音を鳴らした。手の震えが止まらない。まるで休火山のマグマが地底の奥底から眠り目覚めてくるような負の衝動を感じる。

 違和感……

 そうだ。違和感だ……。

 暗がりの中、二体の警察官の様相に止め処ない違和感を覚える。人間の体を構成するのは、その中心部にある胴と四肢……。腕、足、胴体。しかし……

(なにか足りない……)

 本能的に感じた。正太郎は、眼前に広がる光景を、紛うかたなき凄惨で無残なしかばねである、と感じとっていた。無論、彼の幾度となく何度となく人間の死というものを体感してきた蓄積が、そう感じさせているのだ。

 しかし……

(なんだって、こんなところに……)

 いくら羽間正太郎が、百戦錬磨の殺人者とはいえ、きょを衝かれれば唖然とする。なにしろ彼は、警察の検問であると信じきっていたのだから。警察の検問以外の何物でもないと疑いをかけていなかったのだから。

 そしてもう一つ。彼が虚を衝かれた理由に、もっとも重要な部分がある。それは……

 二体の屍には、人間の体を構成する一つめの部分がない……と、さとったからだ。もっとも重要な部分……頭部が見当たらなかったからだ。

(なんなんだ! どういうことなんだ、これは……!)

 当然の如く、辺りは血の海に染まっている。パトロールカーの後部座席から、ドアから、そして二体の体躯が崩れ落ちたアスファルトの面から、赤黒く、そして鮮やかな液体がその場面を埋め尽くしている。煌々とした赤色の光がそれを照らし映すたび、その光景の悲惨さを、より凄惨に映し出している。目の前の屍の首の部分をマジマジと見ゆると、肉と骨を切り裂いたあとのぬめりとした部分から、いまだドクドクとした体液が噴き出し続けている。なにゆえ、ここまでの残忍さに至らしめるものぞ。

 このとき、正太郎はふと我に返った。

「美咲ちゃん! 見るな! 見てはダメだ!」

 あらゆる死の光景を見てきた正太郎でさえ、血も凍るような凄惨な光景だった。なれば、こんな場面を無垢な女子高生に見せるわけなどいかぬ。

 正太郎は、自らの左腕にしがみつき悲痛な叫びで何かを訴えかけてきていた少女を強く守らねばいけぬ……と光速の勢いで悟った。だから、音速以上の勢いで美咲の体をゆすり上げ、美咲の意識を目の前の悲惨な光景かららそうとした。

 しかし……。

「美咲ちゃん! 美咲ちゃん……!」

 少女の体を強く揺すったが、うんともすんとも反応がない。この少女も、まるで出会った頃に感じていた美少女人形のように、木偶でくと化している。

 と、その時――、彼は、その少女の肩を揺さぶった時に、なにやら自らの手に、妙な違和感を覚えた。ぬるぬるとした違和感。これぞとない違和感……。

 正太郎は、おのれの全身からざっと血の引いてゆくのを感じた。そして、これまでに味わった事のない焦りを感じた。

(血だ、これは……まぎれもない、これは血だ……)

 彼の手のひらに伝わってくるもの。それは目の前にいる少女の……彼が自宅まで送り届けることを約束した少女の、紛れもない赤々とした生温かい血液の流れだった。



 その血液は、未だ容赦なく流れ出し続けている。どくどくと、どくどくと……。それはまるで、子供のころ浜辺の波打ち際で砂遊びをした時に感じた、砂城の崩壊によく似ていた。

 一度崩れ始めたら止まらない。もう二度ともとに戻る事のできない崩壊の始まり。決壊。夏の海での砂の城の思い出。

 ようやく形になり出した砂の城は、いたずらに寄せてはかえす波の強弱によって容赦ない攻撃を受け、そして土台から手につかむことの出来ぬ土砂と成り変り、息をのむ間もなく崩壊し始める。白い砂。白いキラキラとした砂。泡交じりの運命にも似た汚れた海水に翻弄される珠玉のような白き毒薬――。

 その儚い記憶がたった今、彼の両の手に抱かれた少女の体と連鎖反応を起こしている。この成熟を待ちきれない少女の体を通して連鎖反応を引き起こしている。

 正太郎の逞しい体に、もたれかかるようにして崩れる美咲。その儚く美しき容姿の土台には、海水にその形成を泥のように溶かされてゆく赤々とした血液の流れが受けて取れる。

(なぜなんだ、どういうことなんだ――!?)

 彼の記憶と、黒いイメージとが交差しあう。怒り。悲しみ。憎しみ。驕り――。

 幼いときから得ていた殺人者としての血の色は、よもや我の自制心によって支えられていた。しかし……

 永遠に混ぜ合わさる事のない毒薬は、彼の衝動を限りなく黒の方向へと導いてゆく――

 見れば、うつむいてのたれかかる美咲の背中に、ギンギンと不気味に光り煌めく刀剣のようなものが突き立てられている。長い、細長い、刃こぼれなど微塵も感じさせぬような真剣が、一縷の迷いもなく突き立てられている。その刀剣は、天井の合成シートの幌を見事貫通し、美咲の背中まで及んでいる。

 美咲はピクリとも動かない。ただ、ただ、彼女のやわらかな匂いと体温を感じさせながら、今までそこにあった正太郎の記憶に、あの清純にして無垢な赤子の小動物のように汚れなき香りを、これぞとない柔和な感情を、叩きつけてくる。

 害人間は死なない――

 美咲はそう言っていた。果たしてそうなのだろうか? 本当のことなのだろうか?

 羽間さんは何も知らない、何も知らない。いい人過ぎるの――

 彼女は最前からそう言っていた。汚れなき心を前面に押し出して、一筋の、珠玉の涙を落としつつ、何かを訴えかけるように、さもなだめかけるように言い続けていた。俺はその心にきちんと応えていたのだろうか? 誠心誠意応えてあげようとしていたのだろうか?

 いや、それよりも……この状況は? この血の惨劇の意味は――? 美咲ちゃんが刺されなければならない理由は――?

 彼の“棋譜”は、よもや一瞬にして蜘蛛の巣のごとく張り巡らされた。冷静。沈着。そして――

 憎悪……。

 ことごとく抑えられていた自制心が崩壊し始めた時である。八年前に起きた事件。その時に匹敵するような憎悪の類いが、彼の肉体を席巻し始めた時である。

 殺す――

 彼の脳裏に、それ以外の単語が見当たらない。それは正太郎に対を成すものに対しての地獄を意味する始まりでもあった。

 美咲に突き立てられた刀剣が、瞬く間に抜かれ、彼女の背中から弾けるような血しぶきが飛ぶ。そしてまた刀剣の怒り狂った攻撃の雨霰のように振り込もうとした、そのとき――

 正太郎は瞬時にギアをバックに入れ、急激にクラッチをつなげ、アクセルを思い切り踏み込んだ。

 凄まじい後輪の回転が獣の雄叫びにも似た高音を轟かす。同時に彼の車は残像を空気中に映し描きながらスピンし、一回転する。


 正太郎は少女を強く抱きかかえたまま、ドアロックを外し、そのまま肩で体当たりしながら愛車のドアを突き破った。スピンしたままの車から投げ出される格好で二人の体が路面へと叩きつけられる。彼の愛車は、地響きと、狂気の雄叫びを上げたまま、瞬く間の勢いで路肩部分に停めてあったパトロールカーの二台の並びへと突っ込んでいった。

 正太郎は、肩甲骨の筋肉のやや厚めの部分から着地した。アスファルトの路面とデニムの擦れる荒削りな音が、バリバリと彼の右耳の辺りをつんざいた。スピンした車からいきなりダイブした勢いで、この世の物と思えぬほどの衝撃を感じたが、顎を引き、首から上を守るような姿勢で転がりおおせたお陰で、気を失うほどの痛みは全身には走らなかった。だが、少し前に、悠里から贈られたばかりの深緑色のテーラードのジャケットの、背中の部分に大きな穴が開いてしまったことが、少なからず心痛む。

 いや、彼の痛みはそれだけではない。

 胸の内に抱きかかえ、ピクリともその動作を再開せぬ少女の温もりが、彼の胸を打つのだ。この少女の血の混ざった涙の一滴が、彼の胸を焦がすのだ。この少女の……、この守らなくてはならぬ少女の悲痛な叫び――いや、純真な痛みを理解してあげられなかったことが、本当の意味での彼自身の痛みそのものなのだ。

 美咲は、この動転の最中でも、眉一つ動かす事はなかった。彼女の小さな体を包み込み、あらゆる衝撃からさえも守ろうとする正太郎の腕は、傷だらけ、擦り傷にまみれ、赤く、黒々とした液体にまみれていた。血に染まっていた。

 しかし、それがなんなのだ。その程度の痛みがなんなのだ。彼女の痛みはそれをも遥かに凌駕するほどの痛みなのだ――と、胸の中を締め付ける。胸の内を焼き尽くす。

 守る事が遅かったのか。守る事に、それほど愚鈍だったのか――

 正太郎は今知った。彼女の悲痛な叫びが何であるのかを。何であったのかを……。

(理由なんてどうだっていい。この俺の……いや、彼女の異能の意味なんてどうだっていい……。“害人間”の意味を知ろうが知るまいが、俺の立場がどうなってしまおうが――手を突き出して助けを求めてくる者を守ってやれなかったことが愚かな行動だったんだ。それなのに……。これで何度目なんだ、羽間正太郎。これで何人目なんだ、羽間正太郎……。人の気持ちを無下にして、誰が何を守ってやれる、誰が何を救ってやれるっていうんだ。目の前にいる者の気持ちを邪険にしてしまったのは俺の罪……。俺は、その罪を背負ってここまで生きてきたつもりだ。だからこれだけのことをやってきたつもりだ。だが、俺は……。俺は……)

 正太郎は、この窮地の最中でも、自省という数千本の刃の責め苦にさいなまれていた。それは彼の生い立ち、そして、生まれ持った異能の重圧そのものに由縁を発していた。










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