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2:      (二)

「なんだってこんな夜に、検問なんてやっていやがるんだ……」

 人というものは、考えのうまくいかぬ時ほど、口から言葉が多く出てしまうものである。彼は、自分がぼやいている事にさえ気がついていない。

 しかしながら、それは分からないことではない。なぜならそれは、東京のど真ん中、銀座界隈で、あの『新世ええじゃないか』のデモ行進が行われた夜だからである。

 原因不明で、恐ろしい伝染力を持つ、あの、『不鍵合症ふけんごうしょう』という病が蔓延してからこのかた、国家内部にも、言うに止む無い新しい事情が出来てきた。

 その中でも、警察や自衛隊という国家治安・防衛組織の人手不足は深刻さを増すばかりである。なれば、東京で起きた暴動や事件であるとて、隣県の同組織が手を貸さないではいられない状態なのだ。人口は過密さを増すばかりの昨今ではあるが、どの分野においても人材の不足化は、目に余るほどのものなのである。

 なのに、これはどういうことなのか……。

「こんな所に、こんな時間に……」

 羽間正太郎は、普段から自らを冷静であるべく、次の行動パターンを何百通りも用意している。

 標的が反撃してきたとき――

 標的が別のことを目論んでいたとき――

 何らかのアクシデントで、標的を見失ってしまったとき―― 

 そんなあらゆる状況を、将棋の棋譜きふのように何百通りも張り巡らせ、“人殺し”を行ってきたのである。そうでなければ、いくら“異能”を持った彼でも、すべてがうまく行くはずがない。

 が、しかし……。

 どうにも、この美少女と出会ったことで、すべてのリズムが狂い始めている。思うようにステップを踏めないのである。それはまるで、思わぬ新米ルーキーに値千金の先制パンチを喰らい、よろめき、足許あしもとが震えだしたベテランボクサーのようなものである。

「たまったもんじゃねえぜ、これは……」

 ぼやきのスピードが増す。

 そんな彼の中に、ジリジリとした焦りが胃の腑の奥底から込みあがってきた時である。

「羽間さん……」

 今の今まで、沈黙が保たれていた助手席側から、小鳥のさえずりにも似た儚い美声が聞こえて来る。無論、先ほどまで正太郎がその扱いに困り果てていた美少女、美咲である。

「な、なんだ、美咲ちゃん……。気がついたのか」

 正太郎は、咄嗟に苦虫を噛み潰したような表情をやめた。そしてすぐさま、まるで本のページを軽くひとめくりするかのように、あっと言う間に恵比寿大黒のような柔和な表情で取りつくろう。どうあっても、何があっても、誰にも、裏の表情を見られたくはないからだ。

 彼は、輪をかけたように大人びた、優しい声で問いかける。

「気分はどうだい?」

「うん、大丈夫……」

「まったく……、キミっては、とんでもないことをするんだな」

「本当にごめんなさい……」

 少女の声は、蚊の鳴くよりも小さな声である。

 どうやら、この少女とて数分前に起きた……いや、起こしてしまった出来事の重大さに、さすが気がついているようである。

 正太郎は、フッと鼻笑いをし、包み込むような笑顔で、

「今、高速を“東神奈川”で降りた所だ。まあ、ここからなら元町の辺りまでそうは時間が掛からない。近くのコンビニでアイスクリームでも買ってあげるよ。好きだろ? 甘いもの」

「うん……」

「ほら、元気出せよ。美咲ちゃんを無事に家まで送り届けるからさ」

「うん……」

「ほら、ほら、キミをあの『ええじゃないか』から助け出したあとに、約束したじゃないか。横浜の自宅まで、無事に送り届けてあげるって」

「うん……」

 美咲は表情がかたい。正太郎の屈託のない表情に、どうしても反比例してしまう。どうやら今の美咲には、思いのたけが言葉にならないようだ。

 何かを言い出したいのだが……。

「…………」

 いろいろと頭の中に駆け巡る事がありすぎて、言葉にならないのだ。

 正太郎は、そんな彼女の取り付く島もなさそうな顔色を窺うと、もうそれ以上の言葉を投げ掛ける気にもならなかった。

 首都高速の降り口と、一般道を繋ぐT字路の信号は、まだ赤色のままである。この辺りは、直接民家が建ち並んでいるわけではない。ヘドロに満ちた運河のような水路と、要塞のように立ちはだかる下水処理施設がそびえ立っているだけだ。国道十五号線に差し掛かる交差点の辺りには、殺風景なテナントビルと、なんらかの店舗の明かりの消えた街並みが見えるだけだ。

 遠くの方から、霧笛の低く野太い音色が聴こえている。

 沈黙の中、神奈川県警と書かれたパトロールカーの赤い点滅の光が、彼らの複雑な表情を照らし出す。

 そろそろ目の前の信号機の色が変わるタイミングである。検問が目の前に立ちはだかっている。

 正太郎は、美咲に話し掛けている最中でも、何を言って取りつくろうか、何を言って切り抜けようか、この状況をくぐり抜ける為の思案を駆け巡らせていた。

 彼の、裏の事情が事情であるだけに、警察とはかかわり合いに、なりたくはない。そして、彼自身、かかわり合いを少しでも持たぬように最善の努力をしてきた事実がある。歴史がある。

(それがどうだ。彼女を助けたばっかりに、こうも簡単に……。この俺が警察に世話になるのは、運転免許の更新のときくらいだったんだぜ……)

 心の中でぼやく。ぼやく……。

 彼は、プロの殺し屋ではない。他人様から依頼を受け、それ相当の報酬を貰い、それで飯の種にしているわけではない。だから、警察から身を守り、司法から悠然と逃れられるようなセオリーなどは持ち合わせてはいない。だから、少しでも疑いをかけられるようなかかわり合いを持ちたくはない。

 確かに、創意工夫を重ね、百戦錬磨の“殺し”の経験を積んできてはいるが……。

 言うなれば、肩書きは一般人でなのである。市井しせいの民に過ぎないのである。

 そんな彼が、“殺し”と“市井”を両立するには、並々ならぬ努力というものがあった。事実、彼の頭脳と、労力と、体力は、本来の一般市民の及ぶところではない。

 そんな霧の中に埋もれた鉄壁の楼閣に、微塵の穴が開かれようとしている……。

 真夜中に、年端もいかぬ女子高生を連れている。誰もが羨むほどの美しい女子高生を連れ抱えている。

 これが、どういう誤解を招くのか、分からない正太郎ではない。これが、どういう結果を招くのか、思考を巡らせない正太郎ではない。

(根掘り葉掘り聞かれて、御用だなんてことがあったら……)

 あまりにも間抜けな話である。

 彼はまた、膝小僧にまで及ぶ溜め息をく。

「いい大人が、こんなおいしそうな女の子を……」

 と、外野どもが、よからぬ想像を掻き立てるのに十分過ぎる材料がそろい過ぎている。人間の欲望は、あらぬ妄想を掻き立てるものだ。

 さらに――

 羽間正太郎というこの男自体が、大問題なのである。

 彼の愛車は、重量一トンにも満たない、ライトウェイトの小型スポーツカーである。好天の日には、天井の幌を全開にし、独特の開放感を満喫する仕掛けになっている。

 そんな小型車を使用しているにも拘わらず、彼の体躯は、身長180センチメートル近くにも及ぶ。筋骨がミシミシと張り出すような威圧感。そして強靭な肉体から醸し出すオーラ。

 いくら市井の民と言っても、個性に事欠かない容姿は、隠し通すことは出来ない。

 さらに――

 二昔前の銀幕スターを連想させるような濃い顔立ちは、誰の目に見ても印象的すぎる。

 まるで猛禽類の口ばしを連想させるような鼻頭に、ぽってりとした厚めの唇。いつでも湖面のように濡れている鳶色の大きな瞳。墨絵筆で力強く書き記したような一文字眉毛。

 どれをとっても、彼を一度見たら忘れない。そんな彼が、裏の顔を持つという事は、並々ならぬものがある。彼の“黒い”部分の表情を見れば、相手はたちまち萎縮せざるを得ない。

 だから唯一、

(普段の時だけは、笑顔は絶やさないでおこう……)

 そう心に決めている。そういった毎日がある。彼には、それ相当の自覚があるのだ。永遠に混じる事のない、白と黒の毒薬を胸の中に抱きつつ……。

 しかし、どんなに笑顔を絶やさず、善人面を気取っていようとも、この状況下は不利であることに変わりはない。

(さて、どうしたもんかね……)

 この時の正太郎の複雑な心境は、地球上の誰にさえも測ることは出来ない……。

 霧笛がまた、どこかで鳴り響いている――。

 と、その沈黙を打ち破るかのように、美咲が突然、

「どうして殺してくれないの……」

 そう言い放った――。

 正太郎は、さすがに、またふり出しに戻ったのか……と、身構えた。だが、彼女の頬からは、再び、一筋の涙が流れてきている。

(なんとも、女の子の涙は本当にやりにくいものだな……)

 正太郎はそう考えながら、鼻で大きくいきを吸い込み、困惑した表情で、その場を取り繕うように答えた。

「バカ言うなよ。まだそんな事いっているのか。まったくこの分からず屋は……。いいかい? 俺はね、キミの思っているような殺人マシーンなんかじゃないの。人殺しなんかじゃないの。キミに都合のいいヘンテコな妄想劇を押し付けるのはよしてくれるかな。まださ、そう、なんていうか……、女の子特有の恋愛妄想物語を語られる方が少しはマシってもんだぜ……。俺はね、極々一般的なサラリーマンなわけ。一般労働者であって、給料取りなの。いいかい? スイス銀行に特別口座なんか持ち合わせちゃいないし、特殊なライフルなんかも持ち合わせちゃいないの。ね、わかるかい? そんな一介の不甲斐ない男に、人殺しなんてさ、出来っこないだろう?」

 チラリ見る美咲の表情には、なにやら真っ直ぐなものが込み上げてきている。

 美咲は、まったく正太郎の言い様など意に介さない口ぶりで言い放つ。「だって、あたし……見たもん」

 彼女の声は、相変わらず蚊の鳴くように小さい。しかし、頑として、強いものが伝わってくるのである。

 正太郎はこのとき、今の美咲の言葉に、果てしない衝撃を感じていた。

(や、やはり今、“見た”と言ったな……)

 有り得ない。普通では有り得ない。この少女の感覚は普通ではない。彼女の“見た”という記憶は事実なのだろうか。果たして本当に“見た”のであろうか、と正太郎の脳裏の中に、再びあの“害人間?”という不可思議な疑問符が込み上げてくる。

「あ、あのね。み、見たって……ね。そ、そそそ、それ、キミが見たのは夢かもしれないじゃん! ほら、こんな夜中なんだからさ。そ、そうか! 美咲ちゃん、キミもしかして、夢遊病とかのケがあるんじゃないの!?」

「ないもん。そんなの……」

 彼女は、両手に抱えていた缶コーヒーをつかみ直し、くるくると回す。

「だったらさ、きっとそれは幻でも見たんだよ。極限状態だったんだよ、あの時……。人はね、窮地に追い込まれると、ありもしない幻覚を見てしまう事があるんだ。良くある事なんだよ。な、恥ずかしがる事なんかないさ。だって、それが人間なんだもの」

 正太郎は、どこかで聞いた風な言い回しを、もっともらしく言い放った。普段からのこんな言い回しをするのが、彼の常套句でもある。

 しかし、

「うそだもん。そんなのうそだもん……」

 美咲は一向に受け入れようとはしない。

 目の前を横切る誰が渡るわけでもない横断歩道の信号が、チカチカと点滅し始めている。正太郎は、そろそろこんな会話を終わりにして、検問に備えなければならない。

 だがしかし……、

「羽間さんは、知らないだけ……。羽間さんはいい人過ぎるの……」

 美咲が、わけの解からないことを言い放つ。

 正太郎は、彼女のまるで話の脈絡のなさに、つい、声を荒らげてしまった。「な、なにをこの俺が知らないって言うんだい! なにがいい人過ぎるって言うんだい! 大人をからかうのはよしてくれるかい? キミの話には、いくら俺だってついて行けなくなるよ!」

 正太郎は、いきなりの激しい口調で言い放ってしまったことに一瞬後悔をした。しかし、当の美咲は、まるで深遠の森の中にある湖の水面のように、静けさを保ったままだった。

 そして、静かな、優しい高音のヴァイオリンの音色のような口調で、

「分かっているよ……、分かっているのよ……。羽間さんは、決して悪い人なんかじゃないし、ひとを“殺してなんか”もいない。ただね、ただ、苦しんでいるだけなの……」

 そういって、もうひと粒、光るものをこぼした。「もう、苦しまないで……」

「な、なにを言ってるんだい。なにが言いたいんだい。わけが分からないよ! 美咲ちゃん! キミはいったい、この俺になにをして欲しいんだい!? なにが目的なんだい!?」

 正太郎は、さすがに微笑みを押し通すことが出来なくなっていた。

 だが、美咲は、それが当然とばかりの様子で、シートとシートベルトに挟まれるようにしてあずけていた体を反転させ、また、正太郎に寄りすがりながら彼の左腕をつかんで来る。

「おねがい、羽間さん聞いて! 私ね、私ね……」


 彼女の表情からは、なにやら意を決したような迫力がみなぎっている。もう、なにか、揺るぎない何かを伝えようと、必死なものが込み上げてきているのが分かる。

 しかし、このとき……、目の前の信号が、ちょうど青になった。

 正太郎はこの瞬間、美咲の話を聞こうとはしなかった。いや、聞こうとしなかったのではないのかもしれない。

 ただ、

(目の前にある、いやなものから片付けてしまいたかっただけ……)

 なのだ。

 だから彼は、即座に左足に力を入れ、クラッチを踏み込み、シフトレバーをローに入れ、アクセルを軽めに踏み込んだ。もちろん正太郎の視界には、美咲が必死に話しかけてきている姿が見えている。涙ながらに、強い意思で何かを伝えようとしている姿が見えている。

 しかしながら、当然のごとく、正太郎には美咲のその一言が伝わっていない。

 なぜなら、彼の愛車の――ほどよくチューニングされた四気筒エンジンの――エキゾーストの重低音が、美咲の声を掻き消してしまっていたからである。

(この難関を切り抜けてから、ゆっくりと聞いてあげるよ。それまでは……。アイスクリームでも舐めながら、ゆっくりとね……)

 正太郎は、彼女の言葉を、さも受け取ったかのような振りをしつつ、ニッコリと微笑んで見せた。しかし……

 彼が、そんなことを考えている間にも、美咲がなにやら言葉を放っているのが受けて取れる。口をパクパクと大きく開け、腕をつかみ、力強く話しかけてくる。その行為が、どれほどまでに重みがあるのか……

 このときの正太郎には、まるで理解できなかった。

 そう、彼の頭の中では、今の美咲の必死の言葉より、

(この検問を、いかに、どうやって、平穏無事にくぐりぬけようか……)

 のほうが、最優先課題なのである。

 そう、“市井”での立場を守るために。愛する女性との幸せな空間を守るために――。

 だが、のちにその判断は、

(最大のミスだった……)

 と、痛感することとなる。そう、その優先順位の位置づけこそが、羽間正太郎のこれからの生き様を変えてゆく、最大の岐路であったと言っても過言ではない。

 彼の“殺し”の手際と、“市井”の狭間には、今までつちかわれてきた経験に裏打ちされた“読み”というものが存在した。ここぞと言う時に、その感性は発揮された。

 だが、その“読み”という、はかり知れない能力が、彼女と出会った事により、弱くなっていたのは事実である。果たして、この作用は何を意味するのだろうか。何を示唆するものなのだろうか。

 無論、のちに正太郎は、この時のことを心底後悔することとなる。後悔というものは、決して、したくてするものではない。が、人間にとって、これだけは避けて通ることはできない試練なのかも知れない。

 まさに試練。いくらあらゆる“棋譜”を用意している正太郎とて、この時の美咲の言葉が、それほどまでに重大な意味を成してくるなどとは、夢にも思えなかった……。

 T字路の交差点を発進した彼の愛車は、目の前に立ちはだかる神奈川県警と書かれた、二台のパトロールカーの並びへと、吸い込まれるように誘導されてゆく。赤い、チカチカとした参列は、彼にとって極度の緊張を呼んでいる。

 これが、裏の事情を持つ者の性であるのか。これが殺人者たる負い目なのだろうか。

(“あの瞬間”よりも、胃の辺りがグツグツと言っていやがる……)

 正太郎の座りかけた大きな瞳に、赤黒く燃えるような血流がドクドクとみなぎってくる。

 





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