2:検問と正太郎(一)
2
正太郎は、むっつりと口をつぐんだままカーラジオを聞いていた。時折、右手の人差し指で鼻の横を掻いてみては、またハンドルに手を置いてリズムを取る仕草をする。これは、彼の考えがまとまらない時の癖なのである。
「もうひとつランプ(出入り口)を過ぎたら、高速を降りてみるか……」
“生麦”と文字の書かれた表示看板を目で追いながら、また結論を先延ばしにする。
彼は、助手席で横たわる少女の寝顔に目をやると、フッと鼻笑いをし、また指先で鼻の横を掻く。
「この俺が……こんな娘に、現場を見られていたなんてな……」
愚痴を二言三言口にして、また溜め息を吐く。先ほどからこれの繰り返しだった。
気が付くとハンドルを握る右手がひどく湿っている。ぬるぬるとした汗で濡れた手は、正太郎の心をひどく表したものである。彼は、納得のいかない表情でかぶりを振ると、エアコンの吹き出し口にそっと手を差し伸べて、不安な気持ちと一緒にそれを吹き飛ばす。
彼にとってのこの夜の雰囲気は、ただならぬものである。
何故なら彼は、未だかつて殺しの瞬間を他人に見られたことがなかったのだ。それが、通行人の視線が飛び交うようなスクランブル交差点のど真ん中であっても、テレビ中継の生本番の最中であっても、彼の異能をもってすれば、周りに殺しの瞬間だと認知されることはなかったのだ。
当然、そのような場面での殺害は危険性が伴うので避けているが、それだけの確たる自信はあった。
「なのに、どうして、こんな娘に……」
正太郎は、後悔と自省の念に苛まれながらも、新たな選択を余儀なくされていた。
(確かにあの時……この少女が『新世ええじゃないか』に巻き込まれているのを放っておけば、こんな葛藤もせずにいられたはずだ。だが、俺は彼女に殺しの瞬間を見られていた。そしてそれに気付いてしまった。それが許せなかった。どうして彼女が殺しの瞬間を感づいてしまったのかの理由が知りたかった。だから、つい助けてしまったんだ。なのに、あんなわけの分からん妄想が理由だったなんて……)
たった今、地元のFM局から流れていた軽快な音楽が止み、午前二時ちょうどの時報が知らされた。この時間帯なら活動している人は極端に少なく、人目に晒される危険性はかなり低い。
正太郎にとっての厳しい選択が、刻一刻と迫りつつある。
(俺は、この少女を殺さなくてはならないのだろうか? こんないたいけな少女を葬らなくてはならないのだろうか?)
幾度となく自問する。しかし、この神谷美咲という少女が本当に殺しの瞬間を目撃していたのであれば、早急に手を打たなければならない。
無論、彼女の不確定な言い様を逆手に取って口裏を合わせることもできる。しかし、このまま葬ってしまえば、確実に口封じができる。この夜の出来事を口外される危険性は格段に減る。だが、どちらを選択したとしても、それなりの代償を伴うのは火を見るよりも明らかなのだ。
とはいえ、それを迷っている時間はもうない。これからどうするのかを先送りばかりしていては、隠蔽に最適な時間帯を通り過ぎてしまう恐れがある……。もし彼女を葬る選択をするのであれば暗いうちがいい。しかし……
さすがに今夜は、銀座界隈での大それたデモ騒動があったおかげで、交通量はより激減している。この少女を始末するのであれば、正太郎にとって絶好のチャンスと言える。
彼は、先ほどからバックミラーで逐一後方から来る車両の有無を確認していたのだが、“大師”の出入り口を過ぎた辺りから、あまりヘッドライトの光を感じていなかった。首都高速の状況を示す電光掲示板に、さほど重大なサインが出されてなければ、前方に交通規制もない。
この状況は、あの大所帯のデモに警察官が総動員で借り出された副産物なのである。『不鍵合症』という得体の知れない病が蔓延するようになってからこのかた、人々は少々投げやりな精神状態になってきている。
その精神状態を示すように、『新世ええじゃないか』などという狂気のデモ集団を生んでしまった。
警察官とて人の子である。『新世ええじゃないか』に参加し、勤務をおろそかにしてしまう輩がいてもおかしくない状態なのだ。あのイカレたデモ行進が行われる夜は、慢性的にどの職場においても人手不足に陥っているのである。
殺るなら今しかない――
彼は、少女の首筋にそっと左手を差し向けた。まだ完全に成熟しきれていない少女の体は、生まれたての子猫のように無防備だった。純白のブラウスから這い出ている首筋が、生々しい白い光を放つ。
この少女は一体何者なのだろうか? この少女は本当に殺しの現場を見たのだろうか?
もしかしたら、金欲しさの強請なのだろうか? 若さ故の血気に満ちた冗談なのだろうか? それとも狂信的思考に支配された、新手の妄想信者なのだろうか? それとも――
彼の困惑した思考は、未だ様々なケースを考慮した上で、複雑なラインを描いている。出来る事なら殺したくはない。あの一件と関わりのない彼女に、何の恨みもない。
しかし、社会的位置をそれなりに確立している彼の生活で、これほど危険な存在はない。まして、今現在、その位置から転落するわけにもいかないのだ。
(俺には……悠里がいる)
心中は、全く灰色に混じる事のない葛藤を繰り広げていた。
にも拘わらず、かの少女は、ぐったりとしたまま安らかな表情で眠っている。彼女の白く透き通った肌は、ぽつりぽつりと高速道路に備え付けられている照明によって反射し、まぶしい光を放っている。すうすうと安堵の寝息をたてるたびに、絹のように滑らかな長い髪がさらさらと波打って跳ね上がる。健気に缶コーヒーを握りしめた指が、大理石のように涼しげな匂いを解き放っている。
見れば見るほど美しい――
まったく邪念を感じさせない彼女のオーラは、汚れきった正太郎の愛車のシートに似つかわしくなく感じられた。
(惑わされるな、羽間正太郎! このまま彼女を闇に葬ってしまえば、今夜の大失態は全て無効になる。それでケリはつく。この少女もそれを望んでいたではないか――)
極論こそ得ていた。たとえここで人ひとり殺したとしても、何事もなく偽装するなど今さらどうと言う事はない、と。しかし……
外傷や他殺の痕跡を残さずに殺害する。そして、死体は何らかの理由で事故にでも巻き込まれたかのように偽装する。それが彼の手口。常套手段。完全なる生活の一部。
これまで、他人様にばれた事などたった一度もない。今までやって来た事を鑑みても、全く問題はない。こんな娘一人を始末するなど、息をするより簡単な事ではないか。
だがしかし――
「いかなる場合であっても、本末転倒だけは絶対にならぬ……」
と、自らを戒めるのが、羽間正太郎たる自我の拠り所であった。
彼は、八年前の某日に起きた“未だ忘れえぬ事件”からこのかた、並々ならぬ死線をくぐり抜けて来た。その苦難の道のりの最中、自らが保身のためだけに人殺しをするという、卑劣かつ、愚劣な行いは、一度たりとしていなかったのである。
苦難の道のり――しかし、それはなにも、戦々恐々とした血へドロにまみれた荒野を、右往左往し、銃や弾薬を担いで駆け巡ったという意味ではない。まして、あらゆる修験者のように、日進月歩、日々精進しながら、山野を駆け巡りつつ無我の境地を見出すような荒行を重ねてきたわけでもない。ただ、この現実社会の、もつれあった糸の中を、思うがままに駆け巡ってきただけなのである。
人はいつか、必ず死ぬ。黙っていても、必ず死ぬ。
羽間正太郎は、そんな世の中の普遍の道理に、少しずつ手を加えてきた、だけなのである。
しかしそれは、並の精神力では維持できぬ諸行であった。
人を殺す……という、まこと荒みきった悪行が、この御時世、親子の間でさえ造作もなく行われてしまう悲しい時代である。であるがゆえに、他人様の命を絶つことが、まるで虫けらを殺すように、まるで飼い猫の毛皮に取り付いた蚤虫を潰しまくるように、いとも簡単に行えるものだと誤解しがちなのは、素人の浅はかさを意味している。
同類を殺す。人を殺せる。という心理は、時として精神崩壊を生む結果を意味している。これは、法律や戒律のような、あとづけの理屈なのではなく、人類が理性というものを維持するようになる前から、同種族を絶滅させまいとした何者かによって、ことごとくインプットされた、いわば安全装置のようなものなのである。
その禁忌を犯しながら、平然と、平然としたように見せかけながら、法治的な社会で生き抜くには、ありとあらゆる試行錯誤がなければ、この忌まわしき因縁の荒野を駆け抜けて来られなかったというわけだ。
ことさら、守られた――守られる事が当たり前になった当時勢においては、なおさらの試行錯誤が必要とされる。それを、生きた見本として、標本として行ってきたのが、羽間正太郎の生き様であった。
時には推理小説や、サスペンス小説にある精神異常的な登場人物をお手本として、精神生活を試みていた事もあった。時には戦時書物や、犯罪ノンフィクションの当事者の心理を読み取り、手本とする日もあった。だが、それは彼にとって、ことごとく違ったケースでの標本であり、全く役に立つものではなかった。
しかもそれらは、正太郎の意義に反していた。何故なら、彼の標的たる人物たちは、他人の心身を蹂躙した……そして、愛する女性を悩まし続ける犯罪者であったからだ。
無論、犯罪者ならば、司法や警察に依頼し裁いてもらえるほうがいい。
しかし、正太郎に対を成した犯罪者どもは、警察や検察などの手が及ばないものたちだらけなのである。さりとて、裏社会が関与するような黒々した権力の圧力でもなく、国家間のどろどろとした抗争に由縁を持つものでもない。なんというか、ただ、念入りに絡められた暴虐な罠に苦しめられている……という、全く掴みどころのない思惑に巻きこまれている状態なのだ。
そして彼は、ただ、自分たちに害を与える者どもへの『唯一無二の抵抗』として、やむを得ず“人殺し”をしなければならなかったのだ。
そういった意味で、正太郎には教授されるような師匠的位置の存在は皆無であった。だから、一日一日の心理経緯の積み重ねで、心の充足を補うしかなかったのだ。
たった今の、この時もそうである。
表向き三十路に足を踏み入れた年齢になり、八年間という殺しを伴う裏の生活の中で、初めて出会う衝撃。そして戸惑い。これは、何ものとも計りあうことのできぬ堪えがたい葛藤であると言える。
その葛藤に打ち克つには、どんな死線を越えてきた彼の経験則を使用したとしても、
「至難の業である……」
というわけである。
そして、この羽間正太郎が、いたいけな少女――神谷美咲を、もし、死に追いやってしまったとすれば、彼自身の理性の堰はことごとく切れてしまっていたであろう。
それはすなわち、
「俺は単なる殺人鬼になっていたのかもしれない」
という岐路でもあったのだ。
そう。そういう事すべてにおいて、彼自身が一番危惧している。それゆえに、正太郎は心穏やかではいられなかったのだ。
だから今、十七歳のこれからの少女――神谷美咲の、未成熟で美しい寝顔を見るたびに、正太郎の太く生えそろった逞しい眉根が、ゆったりと下ってゆくのである。
(そうだ……、あの事件の時。悠里と出会ったときが、彼女の誕生日……十七才だったんだよな――。全く……俺ってヤツは、どうしてここまでの事をやってきたのか、危うく見失うところだった。そういう意味でこの少女は……。感謝しないといけないな……)
また、鼻先の横を右手の人差し指で掻いて、反省する。
と、しかし、その人の心を取り戻した事を喜ぶ反面、捨て置けない事実もある。
(でもな。……彼女が言う“害人間”っていうのは、一体何のことなんだ? さすがにさっきまで取り乱していたからな。俺は美咲ちゃんのあの言葉を、若気の至りの妄想だと受け取っていた。でもな。俺の異能の瞬間である殺意に気付いたともなると、これは尋常じゃない。予測……というか、“念じていた”から知っていたって事が、もし本当なら……もはやこれは馬鹿にした出来事なんかじゃない。でも、そんな事が本当にあるものだろうか……)
異能を持つ者は、得てして、他の異能者の力というものを受け入れがたく感じてしまう。何故ならそれは、本人の持つ異能の力というものが、極自然に、肉体的にも精神的にも溶け込んでしまっているからなのだ。
地球上の生き物の殆んどが二つの瞳で物を見るように、日本人の殆んどが何の抵抗もなく蕎麦をズルズルと啜ってしまうように、本人達からすれば極々当たり前になってしまっている事象が、突然、
「あたしは目で匂いを嗅げるのよ」
「蕎麦はフォークとナイフを使ってお上品に食べるものなのよ」
と言われ、眉唾ものにも近い混乱を引き起こしてしまう……ことに、どことなく似ているのである。
それゆえに、他者が主張する異能に対しては、ことごとく敏感にならざるを得ない。
まして、
「未知の能力だって、何らかの根拠があるはずだ……」
と、口から火の出るくらいの信念を持っている。
羽間正太郎は、頑なに自らの異能について口外していない。が、しかし、偶然や奇跡などという突飛な事柄が世間で騒がれるたびに、
「理由のない偶然など有り得ない。……絶対に何かが絡み合っている……」
と、言葉を漏らしてしまうほど“ひょん”な偶然性を信じていない。
ほぼ病的にも感じられる疑心暗鬼な性格ではあるが、それほどの感覚を維持していなければ、愛する女性どころか自分の命でさえも守り通せていなかった。そして、その異能でさえも、使いこなせなかったであろう。
さて、その異能とやらに関してはのちのち述べて行くことにして――
愛車の助手席に横たわる少女、神谷美咲を葬る事を辞した羽間正太郎ではあるが、実は本当に困り果ててしまうはこれからである。
この少女、これだけ魅力的な容貌である。ある意味、スレていないというか、熟れすぎていないというか、妙に儚げであるがゆえに、その対処に躊躇してやまないのである。
「いつものように首を絞めて吐かすってわけにもいかんしな……」
相手が正太郎の標的であったなら、その折檻ぶりも容赦なかったであろう。だが、触れる事さえ躊躇わずにはおれない美少女相手では、さすがの百戦錬磨とて試行錯誤するほかない。
「“害人間”の事も聞き出したいけど……、相手は女の子だ。このまま連れまわすってのもな……」
今はもう真夜中だ。草も木も夢を見ている時刻である。なれば、彼女の親御さんとてひどく心配しているに違いない。まして“こんな”娘を持つ親であれば尚更である……と、妙に納得せざるを得ないところなのだ。
「いい気なもんだぜ、まったく……」
正太郎の溜め息は、足元にまで及ぶ勢いだ。
と、すやすやとお姫様気取りで寝息を立てる美咲を横目に、正太郎は、ウィンカーを左に上げギアを落とし、アクセルを少し緩めた。
「おっと、目の前が“東神奈川”の出口だ。俺の家も近いし、ここで降りよう。たとえ美咲ちゃんの家に下の道で送っていったとしてもそれほど遠くないしな……」
いつもの疑心暗鬼な正太郎であれば、このような判断は下さなかった。それは、どことなく甘い希望的観測であった。
“殺し”のあった後で、普段なら電流がひた走るほどピリピリした感覚を持っていた。『人の生死に関わった』後の人間の心理は、果たして尋常とは思えぬほどの神経が張り巡らされるものだ。たとえ、完璧にその仕事をやり終えても、その完璧を誇るテンションであるがゆえに、鋼に高圧電流を流したような煮えたぎる熱いものが混みあがってきているのが普通である。正太郎とてそれは同じことなのである。
しかし、やはり、この神谷美咲という少女に出会ったお陰で、なにかアンテナが狂ってしまっていたようだ。なにか、どこか甘い香りのするものを嗅いでしまったがゆえに、正太郎のその感覚は常人とほぼ同程度のレベルまで下っていたのである。
「ん……?」
首都高速の“東神奈川”出口のスロープを下り、ギアを落としつつゆっくりスピードを緩めると、停止線があり、赤信号が待っている。ここの出口はT字路になっており、第一京浜〈国道十五号線〉と、米軍基地〈ノースピア〉を繋ぐ幅広い道路が横たわっている。そのため、一度必ず停止しなければならないのだ。
その時である。
正太郎が停止線で信号待ちをした時、予期していなかった、いや、予期する事をし忘れたものが視界に入って来た。
「な……、け、検問?」
声が震えた。それは世間様に後ろめたさを感じ、恐れを為したからではない。自らの愚かさ加減に、恐れ参ったからだ。
そう、正太郎の瞳に映るもの。それは正しく、警察の検問であった。ドアの横に神奈川県警と書かれた二台のパトカーが連なっている。夜の闇に異常に映える赤々とした回転灯を自動式の昇降機で高々と掲げ、「我々は市民を守る国家機関である」と大仰に誇示しているのである。
ご丁寧に二人の警官がチカチカとした誘導灯を構え、こちらの車を出迎えてくれているのが分かる。海が近く、妙にシン……とした暗がりではあるが、警官が装備している夜光ベストが白く映えるせいで人のざわめきが目に伝わってくる。車外に出ている警官は二人であるが、おそらく車内にも数人待ち構えているに違いない。時折、パトカーの車中に夜光ベストの光が反射されている。
「まいったな……」
正太郎は、ボソリと声を発した。その言葉より深刻な面立ちで奥歯を噛む。