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1:はかなき少女

 1






 クーラーが文明最大の利器、と豪語していた頃が、とても信じられない季節になっていた。上空から舞い降りるビル風が、骨身に沁みるほど痛烈に感じられた。

 墨色に煙草の灰を散りばめた空。東京の厚化粧に、大ミミズを這いつくばらせたかの如くのさばる首都高速道路。その間を、冷えて固まった豆腐の四角形が雑草のように逞しくそびえ立っている。

 さすがに夜半過ぎともなれば、明日の日本を担う大量の荷物を背負った大型車どもが、あれやこれやと高速道路の路面を削りにやって来る。

 サラ金に追われ、夜逃げ同然で北へ向かう者。

 未来の夢を託されて製造された、硬くて冷たい鉄骨の山。

 未だ国も生い立ちも名前もはっきりしない、明後日の晩御飯。

 一台一台の車両たちが、それぞれの目的を果たさんが為に、猛スピードでタイヤを鳴らしつづける。

 そんな中、一台だけ仲間はずれな格好をした、小さく鋭い光があった。その光は、周りより一段と低い位置にフロントガラスを有し、頭上は金属ではなく黒褐色のくたびれた合成シートの屋根で覆われている。

 おまけに独特の流線型は、ゲコゲコ夏の田園に盛んなウシガエルを思わせる愛らしい風貌があり、いまどき流行らないリトラクタブルヘッドライトが、またそれをひと際愛らしい生き物のように思わせてくれる。しかも、ところどころ剥げかかった紅しょうが色の塗装が、なんともクラシカルではないクラシックカーを演出している。

 その紅しょうが色のウシガエルくんが、大ミミズのうねりを思わす首都高速の上を右往左往するたびに、無差別級レスラーのようなトレーラーどもの横をすり抜けてゆくのである。無論、あまり自由の利かないレスラー共は気が気ではない。しかし、丁寧にハザードでお辞儀をされるものだから、とうのレスラー共も何食わぬ態度でそれを見送っていた。

 紅しょうが色のウシガエルは、外回り環状線を東から西へと抜け、汐留を過ぎると左車線〈横羽線〉へと合流した。夜もとっぷり更けたうし三つ時である。昼間とは違いラクラクの車線変更だった。

 横羽線に入ると、すぐ左側に素敵色に彩られたレインボーブリッジへの分岐があるのだが、そんな飾りに目もくれることなくウシガエルは直進する。まるで潮気を感じさせない、ビル群の激しい大波に揉まれながらも……


「そろそろ、いいかな?」

 紅しょうが色のロードスタータイプを自在に操る男は、助手席にそっと声をかけた。車内には、ボーイズ・タウン・ギャングの『キャント・テイク・マイアイズ・オフ・ユー』が流れている。が、さも隣の客人を気遣うようにして、FMの音量は抑えられていた。

「もう話してもいい頃だよね……。君がどうしてあんな危険な所にいたのかぐらいさ」

 男は出来るだけ優しい口調で言った。座席が二つしかない小さな車だけに、天井の幌がバタバタと唸って騒々しい。しかし、彼の意図するものは、彼女に確実に届いていた。

「居場所……」

 少女は、震えるような小さな声で言った。

(居場所? なんだいそれ?)

 男は、喉元まで出掛かった言葉を押し戻した。いや、返す言葉に詰まったのだ。

 私立東横浜女子学院、二年A組『神谷美咲かみやみさき』十七才。そう生徒手帳には記してあった。言わずと知れた神奈川県屈指の名門校である。この生徒手帳は、現場で拾ったものだ。

 少女は、二時間程前に終末思想的デモ集団『新世ええじゃないか』の大行進の騒ぎに巻き込まれそうになっていた。この男は、その狂気の演目の舞台から、彼女をさらうように助け出したものである。それは少女の心身ともにおける蹂躙じゅうりんの一歩手前。間一髪の出来事であった。

「若いうちはいろいろあるからね。俺もそうだったよ。未だに探してるもん、自分の居場所。……ああ、自己紹介がまだだったね。俺は羽間正太郎はざましょうたろう。今は横浜の小さな食品会社で商品開発みたいなことをやっている。でも驚いたよ。君みたいな女子高生が夜中に制服のまま、あんな連中の前にふらふらと出て行っちゃうんだからな」

「ゴメンなさい……」

「い、いやいいんだ。だけど参ったよ。君を助け出したはいいけどあの連中……、今度は俺にターゲットしぼりやがって。ほれ、この通りベルト千切られちまった。クーッ! 思い出すだけでもゾッとしちまう。あのアゴ野郎……」

 男は、深緑色のテーラードのジャケットの裾をまくり上げ、悪戯っぽい笑いと共に、少女にウェストの裂けた部分を披露した。

 すると、

「ゴ、ゴメンなさい!」と、少女は恐縮したように肩をすぼめ、顔を赤らめた。

「い、いや君を責めてるんじゃないんだ。危うくトラウマになるところだったってこと。だってさ、君だって俺みたいなのがさ、あんな奴に、あんな大男に……その……なんだ、や、犯られるところなんざ見たくはないだろう?」

「は? はい……絶対見たくないです」

 美咲はコロコロと笑った。襟元から二つ手に結わえた栗色の長い髪が、しだれ桜の細枝のように小刻みにゆれる。今までの深刻きわまりない夢想の表情が一変すると、甘酸っぱい艶やかなオーラが狭い車内いっぱいに拡がった。

 突如、正太郎にあられもない緊張がほとばしる。

(じょ、女子高生……!)

 そう、隣に乗せているのは正に、女子高生。

 自らと一回り以上年齢が離れた、水晶のように光り輝く年代である。纏うオーラは夕日の煌めき、檸檬の香り。厚手の山吹色のジャケットは重厚な金ボタンでとざされて、丸みを帯びたシングル襟にお洒落なハンドステッチが可愛らしく光る。ちらり覗かせる純白のブラウスは、何ものにも換えがたい青春の証し。

 一輪の胡蝶蘭を模したブローチ。その高貴なる校章に束ねられし赤きリボンは、スパイシーなハーブのように鮮烈極まりない料理を引き締めてくれている。さらに、ねずみ色のツイード生地で出来たプリーツのスカートが、清流の如き脚線美を、いかような怪しげな者どもからも護るようにして妖しく魅せる。

 しんがりにして最たるは、彼女自身の容姿そのもの。御顔ははたまた仏蘭西人形にも勝るとも劣らぬ程の美貌、端整な芸術品。

 彼自身どうして今まで平気でいられのたか、摩訶不思議でならぬほどの「ドギマギ」が全身に襲い掛かってきた。

「あ、ああああ、……あのさ。横浜でい、いいいいんだよね? 送って行くところ」

「えっ? あっ、ハイ」

「どどどどどど、どこ?」

「えっ?」

「よよよ、横浜のどど、どこ?」

「……? 元町の辺りです」

「ふ、ふうーん、やややや、やっぱりいいとこのお嬢様なんだ?」

「そんなでもありません……」

 美咲は笑顔を止めた。

 正太郎は何かまずいこと聞いてしまったかと思い、さらに焦った。

「何が好き?」

「えっ?」

「いやあの……ほら、歌手歌手」

「あっ、ああ、アーティストですか? なら、ちょっと古いけど『GLAY』かなぁ」

「ああ……あー、グレイね。あの目がでっかくて、魔女スティックなんとかが関係しいてるという……」

「えっ……?」

「あっ! あーっ、あっちのグレイね」

「あっち?」

「いいい、いやいいんだ。勘違い勘違い、へへへへへへ」

「へんなの……羽間さんて、ウフフフ」

 一度、かげりを見せた彼女に、笑顔が戻る。正太郎は、なんとなく結果オーライに救われた。

(このへんで、話をもどさねば……)

 彼は、雰囲気がよくなったことをシメシメとばかりに、もう一度あの質問をした。

「あ、あのさあ。美咲ちゃん。君、なんであんなところにいたの?」

「えっ?」

「あ、い、いや。やっぱ気になるじゃない? だって間一髪だったんだよ。それに制服だし……。大人の夜の街、あこがれの街『銀座』に女子高生が独りフラフラ出歩いてるなんてやっぱ気になるじゃない?」

「…………」

 美咲は黙り込んだ。案の定、仏蘭西人形は曇りガラスに閉ざされてしまった。

「そ、そうかぁ。話したくないかぁ。うんうん。しょうがないなぁ。まぁあるさ、誰だって。話したくない事のひとつやふたつ。俺だってあるもんな、数えきれないくらい」

「…………………」

「でもさ、君だってもう大人なんだからわかるだろ。あの『新世ええじゃないか』って連中は最悪だ。社会科の授業かなんかで習っただろ。江戸末期の『ええじゃないか』騒動とは似て非なるもの、まるで違うって。江戸時代の『ええじゃないか』は討幕派が煽ったって噂もあるけれど、あれは大衆の鬱憤と明日への希望が混在して起きた、ただの馬鹿騒ぎさ。だが『新世――』に限って言えばあれは破滅主義そのもの! いや、破滅そのものだよ。『不鍵合症』が世界中に広まって、子供が少なくなって、どの国も国力が落ちて、老人が増えて、このまま行ったら勿論人類自体が危うい、否、滅亡のカウントダウンが始まっちまおうとしてるってときに、突然うじ虫が湧き出るみたいに『ええじゃないか』とか言ってランチキ騒ぎさ。裸になって踊るならまだしも、淫らな行為や破廉恥極まりない行為をして。挙げ句エイズやいろんな伝染病なんかを撒き散らして。近寄れば関係ない人まで巻き添えだ。中には自殺までするやつがいる。そんなのが何千人とデモみたいに行進するんだぜぇ。確かにもう世紀末は過ぎたけれど、世も末だよ。ノストラダムスだってびっくりさ。それに、世の中にはどうやって生き延びようか熱心に研究開発している人たちだっているってのにさ。……そんなところに君はフラフラ出て行ったんだ。もう少しで君は取り返しのつかない事になっていたんだ。もうちょっとその、なんだ……、自分を大切にした方が、いいよ……」

 正太郎は喉が熱くなってしまっていた。まるで、心の導火線に憤然たる炎が燃え移ってしまったかのように。

 もっとも彼はこの瞬間、怒りと同時にとても後悔をしている。ああ、やっぱりこんなこと言うんじゃなかった、と。

 ――三十路に乗りかかると、どんな男でも説教臭くなるって悠里に言われたもんなあ。そんなんじゃ、若い女の子に嫌われちゃうぞって言われたばかりだもんなあ――

 そんな事が彼の頭の中を過ぎる。相変わらず少女の心は、曇りガラスの窓を閉じたままであるし。

 しかし、意外にも二の句を告げたのは美咲のほうだった。

「あ、あたし……」

 美咲はうつむき加減に目をつむった。

 車窓からは、つる草のように生えた工業地帯の雑多なプラント群が、汚れた光に煽られるように映し出されている。少女に痛々しい思いが込みあがってくるかのように。

 正太郎は、彼女の思いが声帯に届き着けるまで、全休符をきめこんだ。

 その時である――

「殺して……殺して、あたしを殺して、羽間さん!」

 美咲は突然ふって沸いたように大声をあげた。表情は鬼気迫り、まるで活きのいい白魚が跳ねんばかりの小さな手は、正太郎の左腕をギッチリと握り込んでいた。

 キメ細やかな透き通った肌が嫌というほど接近している。星屑を散りばめたような美しい瞳が嘘偽りのない台詞であることを物語っている。いたいけな少女の心が何らかの物質を投げつけたかのように伝わってくる。

 それでも正太郎は目線をフロントガラスかららさなかった。そして、少女の意外な要望にも動揺を見せるでもなく口をひらいた。

「何を言っているの? 変なこと言わないでよ」

 正太郎はカラカラと笑い飛ばした。

「お願い羽間さん! あなたしか出来ないの、あたし害人間なの!」

 美咲は力強く言い返す。

 しかし、

「害人間? なにそれ」と、正太郎はそれを一蹴する。

「とぼけないで、あたし害人間なのよ! 地球の害なのよ! あたし見たの、あなたがあの人を殺しているところ……」

「――――!!」

「あたしたちは死ねないの、自分で死のうとしても死ねないの! 殺されようとしても自殺しようとしても、何かが邪魔をして死ねないの……」

 美咲は両掌で顔を押さえ、ワッと泣き出した。

「美咲ちゃん、変な冗談はよしてくれる? 命の恩人ていうか、君の貞操の恩人ていうか、とにかく、君を助けたこの俺に言う台詞としてはちょっときついなぁ」

 正太郎は、苦笑いを浮かべた。そして、思い出したかのようにシートの間から缶コーヒーを二本取り出すと、左手で彼女の頬にひょいと押し付けた。

「飲みなよ」

 正太郎は、もう一本の缶コーヒーのプルタブを片手で器用に開け、一気に喉の奥へ流し込んだ。「クゥーッ!! ギンギンに冷えてるぜ」

 彼女は、気温でキンキンに冷えたコーヒーを押し当てられ、心なしか冷静さを取り戻した様子だった。まるで綿雪のようにキメ細やかな白い頬。そこをつたう一筋の涙には、春どけのせせらぎの如く一片のくもりさえも感じられない。

 美咲は、心の冷却が進むにつれて、言葉が溢れ出るように口を開いてゆく――

「どこかで聞いたことがあるの。……死なない害人間を簡単に殺す事が出来る人達がいる。その人達は地球にそう易々と存在しない。でもすぐ近くにいる。そしてこう呼ばれている。『無碍むげの人』と……」

 彼女は、缶コーヒーを両掌で優しく抱きこむと、そのなめらかな頬にあてがった。

「ふぅん……なら聞くけど、美咲ちゃんがその『害人間』とやら、だったとして、どうしてそんなに死にたがるのさ。なんだか……もったいない」

 あくまでフロントガラスを見つめながら、正太郎は受け答えする。

「害人間は悪魔の子供なんです、きっと……。この一年の間に、世界中の人の間で赤ちゃんができなくなっちゃったのだって、きっとあたし達のせいなんです。世の中の人たちがおかしくなっちゃったのだってそうかもしれない。……聞こえるんです。みんなの悪口が……いいえ、世の中の悪意そのものが聞こえてくるんです。毎日毎日、いいえ、いつでもどんなときでも……あたし、そんなの耐えられない……」

 美咲は腕を抱え、ガタガタと震えだした。「それだけじゃない、それだけじゃないの。あたし達の悪意が現実となって現れるの。今夜だって……」

「今夜だって?」

「今夜だって人を一人不幸にしたわ。あたしがあんな事思ったばっかりに……」

 美咲は、顔を手で覆ったまま動かなくなった。

 正太郎は、怪訝な眼差しで彼女を問いただした。「あんな事って、どんな事? 言ってみてくれるかな」

「羽間さん……怒らない?」彼女は両手をゆっくりと外すと、小声で答えた。「でも……絶対に怒ると思う……」

「なんだよ、俺が何を怒るって言うんだい? 君に向かって怒る理由なんてないさ。さあ、言ってごらん」

 正太郎は、美咲に向かってニッコリと笑った。

「う、ううん……じゃあ、言うね。絶対に怒らないでね」美咲は上目遣いに正太郎を見ると、もったいぶった様子で一呼吸おいた。「実はね……、あたしが殺させたの……羽間さんに。あの人を……」

「は、はあ!?」

 正太郎は突拍子もない声を上げた。「な、何言っちゃってるの? そんなわけ……大体俺は――」

「あるの! あの人も害人間だったわ。あたし分かるの。自分が害人間だから。あの人は、最近になってあたしを追い回していたの。電車に乗るときはいつも同じ車両に乗ってきてこっち見てるの。あたし気持ち悪いからソッポ向いてたらいきなりそばにやって来て――“お嬢ちゃぁん、いい子だから僕ちゃんの○○○になりなぁ。でないと僕ちゃん、ここの乗客みんな○○○して○○○○に○○を○○っちゃうからなぁ。えへへへへ”――って言ってきて、あたし何言ってるのかちっとも分からなくて、でもすごく不愉快に感じてつい、こんな人殺されちゃえばいいんだ……なんて思ったの」

「で?」

「で、それでもあの人がしつこく付きまとうから、とことん逃げたわ。――京浜東北線から東海道線に乗り換えて、品川で降りてまた京浜急行で川崎まで戻って……また京浜東北で秋葉原まで行って山手線に乗り換えて……渋谷に着いたから人ごみに紛れたんだけど、どう言う訳か見つかっちゃって、慌てて銀座線に乗ったの。すごく怖かった。だって相手は害人間、害人間は死なないの。相手もそれは知ってたみたい。だってあの人、歩道の信号が赤でも平気で渡って来てあたし目掛けて走って来るの。ただでさえ人ごみは悪意が聞こえ易いのに、どうしたらいいか分かんなくなっちゃって……。銀座はあまり詳しくないから逃げるだけ逃げていた……。そしたらもうボロボロ涙が止まらなくなっちゃって……。頭の中が突然くらくらして……貧血起こして倒れこんじゃったの。――そしたら羽間さんがやって来て……あいつを後ろから……」

 美咲はゴクリと唾を飲み込んだ。そして、あろうことか、ガクリ……と、死人の真似をしてうなだれて見せた。

「ち、ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ美咲ちゃん。何だよそれ勘弁してよ。俺を人殺し呼ばわりするのやめてくれる? いくらなんだって酷いよ。俺は君を助けた恩人なんだぜぇ」

 正太郎は、ようやく美咲の目をマジマジとうかがった。

「そうよ、羽間さん。あなたはあたしを助けてくれた恩人。そして今からあたしを殺して、この苦しみから解放してくれる大恩人になるの」

「そ、そんな無茶苦茶な!」

「言い逃れしたって無駄なんだから。……だってあたしが羽間さんに助けてもらうのは、あたしの悪意。筋書き通りなんですもの」

「な、なんだって?」

 とうとう正太郎は、声を裏返えらせてしまった。

「ごめんね羽間さん。あたし、あるスジの人から『無碍の人』の噂を聞いたとき、これは使えるって思ったの。だって悪意が現実になって現れるなら、あたしの悪意そのものを利用すれば死ぬことも出来るし、望みも叶うって。だからあの変質者と追いかけっこしたってわけ。でも怖かった。『無碍の人』が現れなかったらどうしようかと思っちゃった。……でも現れた。あたしは『無碍の人』にアイツをこの世から追い払ってもらおうと念じてた。そしてその悪意は現実となった。それなら次は、現れた『無碍の人』にあたしを殺してもらう事。でも、ただ望んだのでは現実にならない。だから知り合いになって直接頼んじゃおうと、あのデモ行進に出て行ったわけ。――あの『無碍の人』を『ええじゃないか』に巻き込んでしまえっ……てね」

 美咲は、また正太郎の左腕をグッとつかみ、彼の頬に息がかかるほどの距離まで接近した。

「ねぇ、いいでしょう? 殺して、殺して、あたしを殺して、お願い! 減るもんじゃないでしょう? お願いだから、羽間さぁん、殺してくれないと羽間さんを悪意で呪っちゃうんだから!」

 突然、彼女は発作を起こしたかのようにわめき出した。正太郎は、ハンドルを握り締めていた左腕をいきなり半端ない力で揺さぶられたものだから、

「おわっ!!」

 ガクンという衝撃とともに、有り得ない急角度にハンドルを切ってしまった。当然ステアリングがあさっての方向にぶれて、ウシガエルは一回転二回転と独楽コマのように回り出した――

「うあぁーっ!」

「きゃあぁーっ!」

 紅ショウガ色の彼の愛車は、タイヤを勢いよく鳴らしまくった。トコロテン突きのような道幅の狭い首都高の壁が、目の前に迫り来るが如く襲いかかる。この時、法定速度を上回る時速百二十キロで走っていたものだから、勢いもタイヤの起こす白煙も並大抵ではない。

 正太郎は、明日の新聞記事をイメージした。

『深夜の首都高大惨事! 女子高生拉致男死亡』

 正太郎は、明日のワイドショーの見出しをイメージした。

『破廉恥! ロリコン男 女子高生拉致……挙げ句大事故!』

 正太郎は、今週の女性週刊誌の表紙をイメージした。

『無謀運転少女地獄! 異常男と魔の深夜ドライブ 美人女子高生の制服逃亡劇的二十五時!』

 正太郎は今月の……(以下省略)……とにかく、ありとあらゆる大量のイメージが一瞬にして駆け巡った。正太郎はこのまま死ねば、まず自分が悪者になってしまう事は間違いない、とNASAのスパコン並みに解析した。

 それは、光が地球を七周半するあいだの出来事だった――

「どぉぉぉりゃぁぁぁーっ! 負けてたまるかぁぁぁーっ!」

 スピンし三回転半したウシガエルの車体は、斜めになったまま後ろ向きに横滑りしている。百万人の女性が悲鳴したようなタイヤの擦れる音が辺り一帯にこだまする。高速道路特有のジョイントに当たる感触が車中にいても伝わってくる。

 正太郎は、まず状況を確認した。

(近くに他の車はいない)

(ここは緩いカーブが続くが、幸いランプ<高速道路の出入り口>がない)

(起伏も激しくはない)

(タイヤは無事だ。バーストはしていない)

(車体が軽いから転がるかと思ったが、音からすればグリップは十分だ)

「いける!!」

 正太郎は本能が示すままギアを落とし、アクセルとブレーキを小刻みに踏み、車体が滑る方向と逆ハンドルを切った――

 見事だった。否、奇跡だった。ウシガエルの車体はいつの間にか何事もなかったように体勢が立て直されていた。トコロテン突きのようないやらしい壁に少しも擦る事無く前進していた。

「た、助かった……」

 正太郎は、思わず胸を撫で下ろした。

 だがしかし――彼は納得がいかない。

 急激な血糖値の上昇と、アドレナリン分泌過多により今更になって動悸が激しくなっていた。今更になって恐怖が押し寄せてきたのだ。

「ハァ……ハァ……ハァハァハァ……」

 これというのも、とんでもない女子高生を助けたおかげで……と後悔が彼の頭の中を過ぎる。羞花閉月しゅうかへいげつよろしく、誰もが羨むほど魅力的な女子高生は、とんでもないプッツン娘(※死語)だったのである。

 しかし、この一大事を巻き起こした当の本人はと言うと、さすがに恐怖に耐え切れなかったのかシートにぐったり気絶しているのである。

「殺されたがっている割には、かなり怖がりみたいなんだよねぇ……さて、どうしようかね、この娘。現場見られちまったんだよねぇ」

 彼はとりあえず、高速を降りてゆっくり考えることにした。

 まさにこの時の正太郎には、後悔先に立たず、というフレーズが耳元に聞こえているような気がしていた。



 


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